数学、時々レフェリー

私立高校で働く数学教員です。数学のこと、日頃話すこと、時々サッカー審判員としてのこと。少しずつ発信していきます。

Inspire my desk(第1回)

久々の投稿です。

年度末処理にバタバタし(これからが大勝負だが、それ以外の細々したものを消化)、先日は突然熱が出てぐったりしていたばかりに、更新をおろそかにしていて現在を迎えています。

更新頻度が少なすぎて反省…。きつくならない程度に頑張ります。

 

 

Windows 10にはやっぱりこれ!

 

さて、久しぶりにちょっと明るい話題を。

「Inspire my desk」と題して、私の机のレイアウトに刺激を与えていこうというコーナーをこの度新設致しました!

時々登場させようと思います。

 

早速今晩工事してきました!

Beforeを残しておけばよかったのですが、その時は忘れておりまして…

 

 

 

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結論から言うと、23型のマルチディスプレイを購入したのです!

 

やっと教育業界にもWindows10が舞い降りてきまして、勤務校でもついにその時がやってきました。

以前のPCに比べると雲泥の差のスペックで、やっと動作のストレスはなくなるかと。(笑)

受け取ったその日のうちに設定を終え、家に帰っても大興奮の私はその晩ショッピングサイトを何時間も眺めておりました。

そしてまず思ったことは「ディスプレイが欲しい!」

見てから買うのが私のスタンスなので早速電気屋へ。(今日は奇跡的な休みが獲得できた!ウキウキが止まらない♪)

大画面が理想ですが学校の机はどうしても狭いので、悩んだ結果23型に落ち着きました。

 

セッティングすると、やっぱり良い!!

 

 

ディスプレイを整えると、周辺を整理していきたいところ。

月末には机配置の大移動が行われるので整理しても仕方ないですが、計画は大切。

見てお分かりの通り、台の上が荒れ果てている。

次回はまずここから着手していくことにしましょう…。

なぜ数学は嫌われるのか(第5回)

「数学=自然科学の言語」という認識

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使うことで勝手に身につく言語

日本語や英語というと「言語」と認識されている。

おはよう! = Good morning!

といったように音声化できるものは言語とされるだろう。

 

私は自然と日本語を話している。英語はどうしても話すのは苦手である。

それは、赤ん坊の頃から日本語に触れ、日本語で話しかけられ、覚えた音を言っていたからである。

別に赤ん坊の頃から教科書を開いて、『「おはよう」というのは朝の挨拶です』と学習することはない。

普段から使っていることで勝手に習得できている。

 

しかし、英語やその他の外国語は自然に話すことはできない。

中学校から勉強したからといって、日本語のようにペラペラと話せる人は少ない。

むしろ、勉強するよりも留学して現地の人々と話をしている方が話せるようになることが多い。

日本語の方言でも同じようなことが言える。(私の経験則)

 

このような言語は使えば使うほど身についていき、無意識で学んでいる。

 

 

練習しなければ身につかない言語 

数学は一般的に言語とは言われないし、「数学は数学だ」という人がほとんどであろう。

ご承知の通り、数学は「〇〇はこのように発音します」なんて音声化されるわけではない。ひたすらに文章や数式で書かれるだけである。例えば、

 \displaystyle \int_{0}^{1} f(x) dx = \lim_{n \to \infty} \frac{1}{n} \sum_{k = 1}^{n} f \left( \frac{k}{n} \right)

と書かれても、1つ1つの式の意味が理解できていなければ言っていることが理解できない。

日本語や英語で言えば、単語がわからなければ話していることがわからないのと同じ。

逆に、式の意味がきちんと理解できていれば上の数式の言わんとすることも理解できる。

*上の式はRiemann積分の定義に具体例を当てはめたもの。高校では「区分求積法」(数学Ⅲ)と言われている。

 

 

 

数学は自然現象を記述する言語

数学の発展とともに物理学が発展してきたことは以前の記事でも書いたことである。

 

rsk-ref.hatenablog.com

 

自然現象は音声化することができない。

ではどのようにその現象を伝えれば良いのだろうか。

ここで威力を発揮するのが数学である。

数式で表し、各々の文字や数字に意味を持たせればその現象の特徴を捉えることができる。

 

例えば、家庭でも用いられている交流電流について簡単に記述してみよう。

 

交流電流

交流電流波形は、振幅 V_{0}、角周波数 \omega、時刻 tとすれば

 V(t) = V_{0} \sin{\omega t} 

と表される。

 

三角関数をきちんと理解していれば、交流電流が周期関数で表され、直流電流とは波形が異なり特徴も異なることは容易に予想できる。これを普段の言語で正確に記述・説明しようとするのはほぼ不可能である。

*「直流電流はずーっと電圧が変わらなくて、交流電流は電圧が時間で変わるんだよ!」と言っても、どのように変わるのか、どの時間でどのような電圧なのかは一切理解できない。むしろ言葉で説明した方がわかりづらい!

 

 

結論。

(理解しているか否かは置いといて)自然現象は数式で書けば一発で相手に伝わる。

 

 

日本語などは「音声化・人間同士のコミュニケーションで必要な言語」

数学は「現象を記述する言語」

 

役割は違えど、何かを伝える手段であることには間違いない。

言語は練習・訓練しなければ身につかない。

数学も言語なので、訓練しなければ何もできない。

しかも、普通の言語と違い「あっ!伝わった!」というのがなかなか実感できないのが数学である。

この実感がわかないこと。数学が嫌われる原因の1つのような気がする。

 

 

そろそろこのシリーズも完結に向かっていかなければ…。

 

第6回に続く。

 

 

なぜ数学は嫌われるのか(第4回)

証明とは

「AならばB」という条件文は数学でよく使われる。

様々な言い換えはあるものの、数学は公理や定義から始めて、この条件を繋げていき様々な性質・定理を獲得していく。

ほぼ自明に出てくる事実だけであれば問題もないのだが、自明でない事実が登場するときには必ず「証明」を要する。

 

「証明」とは、AとBという2つの事実が繋がる理由を論理的に説明していくことである。

数学の研究は事実・予想に対して証明をつけていくことであると言っても過言ではない。

✳︎よく勘違いされるのだが、大学以上で学ぶ数学は高校数学のように「〜の値を求めよ」などという問題を解いていくわけではない。もちろん値を求めるとかもあるが、あくまで証明の途中で求めるに過ぎず、数学の本質ではない。

 

中学校や高校で学習する例を1つ。

 

性質

2つの整数 m, nが偶数ならば、 m+nは偶数である。

 

この主張には2つの事実(=点)がある。

 m, nが偶数   ② m+nが偶数

なぜこの2つの事実が繋がるのだろう。これらをつなぐ作業が「証明」である。

簡単なので証明してみよう。

 

【性質の証明】

 m, n \in \mathbb{Z}は偶数なので、ある k, l \in \mathbb{Z}が存在して、 m = 2k,  n = 2lである。このとき、

 m + n = 2k + 2l = 2(k + l)

 k + l \in \mathbb{Z}より、 m + nは偶数である。 □

 

 

この主張、具体例を考えれば自明だが「どのような偶数の和も再び偶数になる」ということを説明するには、一般的な議論が必要であり、上の証明の黒い部分が必要となる。

*具体例が数個であれば全ての組み合わせを計算していけば良いが、偶数の組み合わせは無限個存在するので具体例を散々計算しても証明したことにはならない。

 

多くの中高生はこの証明を見た瞬間にポカーンとする。

我々は説明も加え、最終的に「自分で書いてね」と要求するが、大半の者たちは書こうともしない。

そして「意味がわからん」と言う。

 

意味がわかるようになるには、同じ証明を何回も書くしかないし、考え続けるしかない。

訓練しなければ書けるようになるはずがない。

訓練しなければ理解もできない。

この訓練から中高生は逃げていく。なぜなら「キツイこと」だから。

数学の教員は毎度のように人間の弱さを目の当たりにする。

 

 

点と点をつなぐ訓練

事実同士を結ぶ(=点と点をつなぐ)には数学の証明のような論理的記述が必要である。

もちろん、「正しくない」という結論に至ったとしても「なぜ正しくないのか」を論理的に記述しなければならない。

 

実社会でも様々な問題に直面した時に、「なぜこの問題が起こるのか」という疑問から背景にある事実を積み重ね、問題の本質を見抜こうとする。そして解決策を見出す。

これは感情論でも同様のことが言えるであろう。

 

Aさんが怒っている。

    ↓

どうもお菓子がなくなっていると言っているようだ。

    ↓

そういえば、私が昨日勝手にAさんのお菓子を食べてしまった…(°_°)

    ↓

まず謝罪して、同じものを2個買おう。 ゴメンナサイ…。

 

といった感じだろうか。(例が悪い!と言われる可能性大。)

 

感情だろうが、事実だろうが、物事には必ず原因がある。

そして生まれた物事を繋いでいけば、新たなる発見に繋がる。

自分の中だけで留めておきたいのであれば、特に何もせずに記憶にとどめておけばよい。

しかし、大半のことは誰かに伝達することになる。

 

では、どのように伝達するのか?

 

ここで利用する技術の一つに「論理的な伝達」がある。

簡単に言えば、「◯◯だから、Aになる」というように理由(条件)と結論を積み重ねて物事を伝えることである。

説明や話が意味不明なとき、大半の場合は論理的に説明できていない。

理由と結論いずれか一方がぼやけてしまうと、話としてまとまりがなくなってしまい、伝えたいことがうまく伝わらない。

話が上手い人と上手くない人の差はここにある。(あくまでも私の経験上の話)

 

「この技術を習得するのは中高生のうちに!」と思う。なぜなら、この訓練をするのは中学校や高校までだから。

その他伝えたいことは同僚が以下の記事に書いているので是非。

www.yasuteru24.com

 

 

物事を論理的につなぐ訓練が数学。自分の考え方を伝える訓練の一つが数学。

 

私から言えば、キツイことせずにできるようになることはない。(何もせずに出来たら潜在的な才能であると言っても過言ではない。)

 

 

訓練だからキツイこと。そして人間は逃げていく。

数学が嫌われる一つの原因だと最近は思う。

 

 

第5回に続く。

旅立ちの時

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時の流れは早い。

2月の暮れになると「卒アルラッシュ」がやってくる。いわゆる卒業アルバムにコメントを残すことである。

何故だか今年はとんでもなく多い。もう何冊書いたか覚えていない…。

周りから見たら「仕事しろやー」と言われそうなほど、今年はアルバムばかり書いている。(もちろん仕事してます。語弊のないように…。)

でも訪ねてきて「先生書いてー」なんて言われると断るはずがない。

それくらい思い入れが深い子どもたちだから。

 

卒業アルバムはふとした時に見返すと人生の格言が書いてあることがある。

私の高校時代のサッカー部顧問の言葉

 

「きつい時、その時に走れ」

 

もう走りたくない…と思ったが、今では私の心に深く刻まれている。

やっと最近この意味がわかってきた。

先生、ありがとう。

この言葉のおかげで今も頑張れる。

 

こんな経験してたら、卒業アルバムを無下にできない。

本当に教員になってよかったなぁと思う。

だからキツい仕事も頑張れる。

奴らの顔を見ると、自然とパワーが出てくる。

 

 

さぁ、明日は仕事も仕事にならなさそうだ。

 

 

卒業おめでとう!

なぜ数学は嫌われるのか(第3回)

物理学と数学の協調

数学の発展とともに大きな発展を遂げてきたのは物理学である。

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Newtonは「りんごは落ちる」のを見て万有引力の存在を発見したと言われているが、「りんごが落ちる」ということをどのように「力(Force)」と関連させて説明したのかは私にとって疑問である。

*「りんごにはたらいている力が月や惑星にも同様にはたらいているのではないか?」という疑問が万有引力発見の原点のようだ。私も調べただけなので定かではないのだが…。

 

この力の存在をどのように記述するのか。使うのは数式。

 

万有引力の法則

2つの物体の質量を M mとし、この物体間の距離を rとすると、万有引力 F

 \displaystyle F = G \frac{Mm}{r^{2}}

と表される。ここで、 Gは万有引力定数で G = 6.6 \times 10^{-11}である。

数学的解釈に落とし込めば、これまで数学界で確立された理論を利用することができ、しかもその正しさまでも保証してくれる。

さらに言えば、物理学が発展することで数学も発展する。物理学からの要請があれば解決に向けて理論を構築し、正しいか否かを判断することになる。

そういう意味では、数学と物理学は持ちつ持たれつの関係なのである。

*ただ、物理学は数学より厳密ではないこともたくさんある。『「これは微小量だから無視したとすると…」なんてことは物理学では日常茶飯事だ!』と知り合いの物理学者は言っていた。数学者からすれば無視できないだろ!と言いたくなるわけだが、物理屋さんはその点広い心があるのだろう。逆に数学者は厳密にしすぎて頭が固いのかもしれない。

 

 

さて、話がだいぶ難しくなってきたので高校数学に戻ろう。

 

高校数学と高校物理は密接な関係があることを理系は知ることになる。(理解しているかどうかは別。)

 

例えば、物理でいう「仕事」について。

 

仕事

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ある物体に一定の力 Fでその力の方向に dだけ移動させたとき、仕事 W

 W = Fd

と表される。もし力の方向と進行方向が異なるときは、その間の角を \thetaとすると

 W = Fd\cos{\theta}

と表せる。(力 Fの進行方向成分は F \cos{\theta}である。)

 

この式!数学で言い換えると F dの(標準)内積」である!

数学Bにある「ベクトル」の内容そのものなのです。

数学ではどうしても計算にとらわれてしまうが、物理の視点から見るとより現実的。

*内積を幾何学的な意味で捉えれば、2つの量の(符号付き)面積であると言える。

 

少しずつではあるが高校でも数学と物理の関連が登場する。

しかしながら、どうしても「数学は数学」「物理は物理」と生徒は捉えがちであるが、物事を理解しようとするときには必ず関連付けが必要である。

 

物事は点と点を線で結ばなければ無意味

 

と言われるのも納得できる。

大抵の場合は、とりあえず点(=ある事柄)を何個も覚えていって何年も経ち、ふとしたときに「えっ!?こういうことだったの!?」となるものである。特に思いもよらないものが繋がったときは感動である。

しかし、その点を覚える作業でも「Bが発生したのはAが原因だ」というように、細かく見れば点と点を結んでいるのである。その作業の積み重ねが予想もできない感動と巡り会わせる。

 

この「点と点を結ぶ作業」の訓練が数学なのではないかと最近思うようになった。

 

 

今回は嫌われる要素はなかったようなのだが…(笑)

次回はこの内容から。

第4回に続く。

 

小休憩

数学の話題を毎日書き続けるには精神統一が必要なので、今日は少し休憩。

なんせ今日は歌い、踊り、また歌いの繰り返しで、どうも数学をする気にはならない(笑)

ましてや自分の考え方を論理的にまとめようとも思えない…。

 

3年生を送り出す会、大人なら「送別会」というのだろうが、巷では「予餞会」と言われている。

どうもWikipediaによれば「卒業学年を送り出す会」をこのように呼ぶそうだが、私はこの(短い)人生の中で勤務校に来るまで、この言葉を聞いたことがなかった。

最初は「何の予選をするのだろうか…?」と思っていたが、全然漢字が違うので何のことか初めはわからず、言われるがままにバンドのメンバーとなり、現在に至るわけである。(普段は踊りと歌担当だが今年はテーマを弾くという新境地を開拓した)

 

さらには、生徒会の仕事もしているので、常にバタバタしている感じ。(今日はボーッとしていた)

これは全般的なことだが、勤務校では何故だか「行事といえばお前だろう」という雰囲気があり、乗り気じゃないときでも何かしらの仕事が舞い込んでくる。しかもちょっと手間がかかるやつ…(笑)

自分という人間が3人くらいほしくなるときもしばしば。特に文化祭やクラスマッチなんていうのは教員という仕事を忘れるくらいやる事が多い。

それくらい頼ってくれるのは嬉しいことです!

だがしかし、少しだけ休憩させてほしい。

なんかあったら何とかするので。この1ヶ月くらいは大きな行事もないので。

 

数学や情報の勉強をさせてください。

本を読ませてください。

なぜ数学は嫌われるのか(第2回)

具体例からの抽象化

数学というのは、その名の通り「数を扱う学問」である。

だから人はこう思うであろう。

「数字が計算できれば大丈夫でしょ!」

と。ところがこれが大きな勘違いである。

数学で扱うものはまぁ文字ばかり…。

 3x+2x=5x

くらいならまだしも、

 \displaystyle \lim_{n \to \infty} \left( 1 + \dfrac{1}{n} \right)^{n} = e

というような数式なんて書かれても、何が書いてあるかいきなりわかる人はいない。

大学で数学を勉強する場合は、もはや英語の授業かと思うレベルのアルファベット・ギリシャ文字の出現率である。(笑)

 

代数学で扱う一つの例を挙げてみよう。

 

 

定義:群

集合 Gが群であるとは、2項演算 *:G \times G \to Gが定義されており、次の条件①〜③を満たす時をいう。

①任意の a, b, c \in Gに対して、 (a \ast b) \ast c = a \ast (b \ast c)

②ある e \in Gが存在して、任意の a \in Gに対して、 a \ast e = e \ast a = a

③任意の a \in Gに対して、ある a^{-1} \in Gが存在して、 a \ast a^{-1} = a^{-1} \ast a = e

群の例

(1) 自然数全体の集合 \mathbb{N}は通常の加法に関して可換群となる。

(2) 実数成分の n次正方行列全体の集合 M_{n}(\mathbb{R})は加法に関しては可換群となるが、乗法に関しては非可換群である。

 

 

上の例は主に数字や行列のことを言っているのだが、一切数字は出てこない…。

 

余談だが、私は大学で「代数学」という講義を受けたが、最初はやっと計算だけで解決できるのか!と思っていたが、見事に期待は裏切られた。書くことは毎回アルファベットかギリシャ文字。 \sqrt{2}が出てこようもんなら、数字が出てきたと喜びすぎて踊り出しそうなレベルである。

 

数字が出現するわけではないので、計算が目標と合わない場合は間違った箇所を確認の術がない。(少し誇張したが、実際に何度計算しても合わないという負のスパイラルに陥りがちである。)

 

何でこんなにも具体的な数字が使われず、文字ばかりなのだろうか?

具体例がたくさんあればいいではないか、という意見があるのはごもっともで、我々が日常で使うとすれば具体例に合わせて問題を解いていけば良い。

しかし、式が変わっただけでまた同じ計算をして性質を確認するなんて面倒極まりない。

  

「たくさんある具体例を取りまとめ1つの形に体系化することで、幅広い分野に応用する」

  

これが数学のスタンスであり、様々な分野の発展に寄与してきた原因であろう。

共通した文字や記号を使うことですべての具体例を網羅し、一つの表現で完結する。即ち「抽象化」するわけである。

 

確かに抽象化した方が汎用性は非常に高い。

しかし、これが数学が嫌われる原因の一つとなっているのではないか。

 

本来は具体例から抽象化された体系を考えるべきなのだが、現在の数学はいきなり抽象化された体系を定義され、ひたすらに抽象的な話をしたあとで、「はい!じゃあ具体例はこれです!」と言われる。

いくら勉強している私でもポカーンとなる。(笑)

あまり数学に触れ合ったことがない人は、もはや思考停止してしまうはずだ。

 

幸いにして、高校数学は具体例が多く、「具体例→抽象化」という流れが多いため比較的説明は簡単であり、理解しやすい理論も多い。

 

とはいえ、理解できないことが多いことも事実。

(つい昨日までテストの採点をしていたので特に実感している。)

数学嫌いの原因は「抽象的である」だけではなさそうだ。

 

 

難しすぎる話を書いてしまった。

第3回へ続く。