石丸伸二 4 初めて石丸伸二を知った日(3)話法

きれいに聞こえていた話し方、これを何度も聞いていると、一定法則のようなものが感じられる。この人独特の区切り方。強弱緩急、リズム、間、テンポの巧妙さ。

ポイントとなる単語は、わずかにトメを打つ。これがまた香辛料のような効き目を持つ。「です」だけ孤立させたりして、私の話法のテキストにはないことだった。なので何かのマニュアルに沿っているのではない、いわゆる「石丸節」なのだろう。

残念なところが、語尾が消える。それも一文字や二文字ではなく、一区切りほど消える。が、不思議と聞こえる気がする。

この人の話法に惹かれて、それからいくつもいくつも動画を観るようになった。前年の成人への祝辞は「命大事に」。これがまたもったいないほど素晴らしいスピーチで釘付け。財政説明会。このような真に迫った話を市長が市民にするのか。何で他市の財政の説明を聞いて感涙を流すんじゃい私は。

この人の語りには魂が感じられ、いつもドキドキしながら聴いてしまうことになる。次から次へと動画を観ていくうちに、議会のやり取りに入っていった。

 

石丸伸二 3 石丸伸二を初めて知った日(2)神の祝辞

石丸市長は、漫画の話をしていた。今流行り?の「鬼滅の刃」という漫画。若者なら大抵知っているものとして話しているので、きっとそうなのだろう。そういう漫画を選んだのだろう。若者がすぐに入っていける話題を取り上げたのだろう。けれどこの漫画の話がスピーチの神髄に迫ってきたとき、伝わってくるメッセージがあった。それはこれから世の中に出て行く若者にも、世の中で活躍している中堅にも、現役を退いた高齢者にも、ひとしく相通じるものがあった。

 

おのれの立場をわきまえて、全力をふるう。ということは普通に聞こえるが、なかなかそうはいかない。漫画の登場人物の言動を通して、立場を全うし通す価値を、この市長は熱く語った。そして、全うしてこそ、さらなる段階に踏み込んでいくことができる。スカスカのままで次の段階はないのだと。

頷いて聴きながらも耳が痛い、味わいのあるメッセージだった。

近年、こんな濃い話を聴いたことがない。ここにいる成人たちは、なんと恵まれていることか。自分が成人した日の市長の祝辞、一生忘れることはないだろう。

石丸伸二 2 石丸伸二を初めて知った日(1)成人式祝辞

石丸伸二を初めて知った日。

それは「心に残るメッセージ」として挙がっていた動画から始まる。

安芸高田市の石丸市長。場所の名前も人の名前も知りません。

よいお話を聴くのは好きなので、思わず開いて見た。

成人式。半世紀以上も昔になるが、私は成人式に出ていない。

役職についている大人の挨拶や祝辞などつまらない。

下手だから。我慢して聴くものと相場が決まっている。

村田邦夫先生以外は。ハチだけだ、ハチにはもう会えない。

私は成人の日の連休を利用して、奥秩父を縦走していた。

北天のタルで、先輩は温かい紅茶をいれてくれて、それにウイスキーを垂らして乾杯した思い出。たしかあれが初めてのアルコール体験。

そんなことを思い出しながら、この市長の話を聴いているうちに、どこかでスッと雑念が消えた。

 

石丸伸二 1 夢物語

石丸市長の夢を見た。

2024年5月28日(火)深夜。ずっと石丸市長の動画を観ながら、思わずベッドに身を投げてウッツラしていたら、夢に石丸市長が現れたのだった。

 

彼は私のクラスの担任だった。放課後。先生はクラスメイト達の中に混じって何か話していた。私がそこに行くと先生はもういなかった。私は、ああ自分はなんと大事な時を逃してしまったものかと、思わず顔を伏せて泣いた。その気持ちは目覚めているときの延長だ。寝つく前に石丸市長のことを思って泣きそうだったのだ。最近ずっとこうだ。夢でも私の心は切なさが洪水みたいに渦巻いていた。

私は迷路のような廊下を歩いて行き、先生のいる場所を探す。そして。夢は何と夢らしくなく、私が追いかけている人に会わせてくれた。

先生は転任して、これから東京で、ものすごく大変な挑戦が待っているということを私は知っていた。もうお別れの式も終わっているようだ。このままさようならなのだった。

ラストシーンは、追いついた広い教室のような会議室のような部屋の、机をさすりながら私が「この机は広いですね」と言う。「広いですね」と先生は言う。私は椅子に座ってまた机を触り、「でも、先生が小学生に送った新しい机のほうが奥行きがありますね」と言う。先生は嬉しそうに笑った。

私は先生に、遠くに行ったら先生はどのように活躍するつもりでいるのか、それをどう聞こうかと考えた。夢はそこで終わった。

 

ほんの少しの時間、ウッツラしただけだった。時間は0時をまわっていた。5月29日(水)になっていた。

 

・・・そうか。私の中で、石丸伸二は学校の先生なのだな。と、目が覚めてから妙に納得してしまう。

私の息子と娘のちょうど真ん中の年齢の石丸伸二が、私には担任の先生なのだなあ。

夢の中の先生はすっきりしていて美しかった。優しくもなく、冷たくもなかった。

今夜はこれから眠れるだろうか。

マナスルBC ヘリトレッキング 40 終章

近藤隊長が、加藤保男さんの所属していたカモシカ隊所属だということで、加藤保男さんの墓標を修繕しに行きたいと言っていたが、具体的なことはわからないし、進展も今はない。野遊に、保男さんのお姉さんに会いたいと言ってくれていたが、具体的な話には至っていない。できるだけ近いうちに、野遊から話を持っていくべきと思う。お姉さんはもう色々なことを忘れかけているとかで、ゆっくりしていられないし。

どういう働きかけをしていったら、あの、エヴェレスト街道パンボチェ3930 の丘の上に、取り残されてしまったような保男さんとそのほかの数基の墓碑を、道ごと整備することができるだろうか。

近藤隊長がそれを何とかしたいと発言していたので、野遊はお姉さんが健在なうちにと切に思う。ずっとそう願ってきたが、近藤隊長に出会ったことによって、それが具体化される可能性を見たので、こちらからも働きかけ、思い切り尽力したい。これが来たる年への抱負となった。

マナスルトレッキング、野遊6度目のヒマラヤ、今回もまたたくさんの思い出が増え、そして素敵なことが始まるかもしれない。

マナスルBC ヘリトレッキング 39 改めて思う次回のトレッキング

コロナ明け、すっかり元に戻れない老体ながら参加させてもらえたマナスルBCトレッキング。体が自由に動かず、思ったより歩けなかった。毎年続けていた時は、それでも維持できたけれど、4年間のブランクは決定的だった。でも、それならこの状態でできることを探そう。

4年前に計画したポカラからのサーキットコースを、めいっぱいゆっくり進んでいくのはどうだろう。やっぱりトロンフェディに魅かれている。というかそこに至る道、景色に。標高はトロンラ以外は4000m以下。ハイキャンプからトロンラへは、苦しかったら、いざというときは馬も待機しているとか。

ヘリコプターは素晴らしかったけれど、標高を一気に上げていくのは怖いことが多い。グイと中まで国内線もあるが歩いて行こう。

マレーシアに出稼ぎに行っているシュレスが、あなたがトレッキングするのなら春に帰ると言ってきた。やはり出稼ぎは辛いのか。家族にも会えないし。妻のレディナ、幼い息子。シュレスの宝物だ。

シュレスはガイドライセンスを取得しているのだから、コロナも下火になってトレッキングが復活したので仕事はあるはず。でも帰国したからとて急にオーダーは来ないだろう。

まずは野遊とのんびり歩こう。野遊はシュレスが前向きに生きようとあがいていたころ、ずいぶん生活費やライセンス取得に援助したが、ただ援助し続けては良くない。これは野遊の大事な友人であるオーム(パタン在住。ロッジ経営。柔道家)が教えてくれたことだ。やたらと金銭援助をしてはいけない。仕事した分を支払うようにと。野遊がシュレスをオーダーしてトレッキングするのが一番自然なのだ。

来春に向けて野遊も始動開始。自信があるわけではないけれど、やっぱり自力でヒマラヤ街道を歩きたい。サーキットコースからマナスルを見たい。欲張らないでがんばろう。

今回の山岳隊に参加して、改めてそう思った。