文化

 人生ほんと山あり谷あり。
 
すーっとすべてがうまくいく時期もあれば、なんにもうまくいかない時期もある。
 
当たり前の事実だけど、ついつい忘れてしまう。いろいろうまくいってるとき、自分はこの法則に当てはまらないんじゃないかって思っちゃう。俺は普通の人よりもうまく、賢く生きていく能力があるんじゃないかって。
 
でもそんなに甘くはないんだね。うまくいく時期が長く続いたら、何もうまくいかない時期が待ってる。この一年間はそういう期間だった。
 
 
勉強とかそういう大学に入って誰もが直面する苦労はあるとは思うけど、自分にとって大学に入ってぶち当たった最大の壁はやっぱり文化の壁だった。
 
自分はもう少し強いと思ってた。環境の変化には慣れっ子だし、人間関係がうまくいかなくても高校で出会った素晴らしすぎる友達もいるし、自分に漠然とした自身はあるし、、、こんなにこの一年が応えるとは思ってなかった。
 
でもこの一年間はきつかった。
 
ただでさえ大学は毎日入ってくる情報量が多い。特に始めの方は授業のこととか、サークルのこととか、知り合った人の高校時代の話とか、とにかく日々入ってくる情報量が多かった。吸収しきれなかった。
 
でもそういう情報っていうのは言葉に落とせるし、管理できるし、大きな問題にはならない。それよりも、言葉では表しきれない「東大の文化」というものを吸収するのに苦労した。
 
 
 
文化っていうのは言葉に落とし込んでもどこかもの足りない。いくらその文化の中に生きてる人を時間かけて根気よく観察して、そいつらの行動を頑張って論理的に説明しても、なお説明しきれないものを含んでる。文化ってそういうものだから。理解するものじゃなくて感じ取るものだから。自分でその文化が生きてる場所に足を運んで、その文化を体現してるコミュニティーに入ってみて初めてわかるようになるもの。
 
それも少し浸かってみるだけじゃ何もわからない。時間は必要。論理的な頭での理解から直感的な身体での理解に持っていく時間が。
 
それで感じ取れるようになって、直感的にどういう行動がよしとされるのかわかっても、それを素直に受け入れられるかどうかっていうのは別問題。俺の場合、この大学の文化を受け入れるどころか拒絶反応を示してしまった。このコミュニティに入ろうという意思が足りないとか言われてもどうしようもない。拒絶してしまうものは拒絶しちゃうんだもん。今までの感覚とのずれがあまりにも大きんだもん。
 
こういう話をすると「今までの自分を否定せずに、それに付け加えると考えればいいじゃん」とかそういうことを何回か言われたことがあるんだけど、うーん、なんか違うんだよな。そういうことを言う人って申し訳ないけど文化に対してものすごく浅い理解しかないんだと思う。本当の意味での異文化に接したことがある人だったら、そういう言葉はまずでてこない。
 
文化って「付け加える」ものじゃない。新しい文化を「受け入れる」って言っても、今まで自分が持ってた文化の中にに混ぜ込む感じなんだよね。そうやって今までの価値観が塗り替えられることもあるし、昔から持ってた価値観とぶつかって新しいのがはじき出させることもある。でも単純に「付け加えられる」ものではない。
 
 
 
自分の中の持ってる「文化」っていうのは常に一つ。俺の場合、それはいわゆる「日本文化」をたくさん含んでるし、ステレオティピカルな「アメリカ文化」もいっぱい入ってるけど、「日本文化」と「アメリカ文化」を単純に付け加えたものではない。日本的な要素、アメリカ的な要素、どちらにも含まれない要素、いろんなものから組み立てられてる。今までの人生の中で強く共感したものも入ってるし、単純に親や先生から植え付けられたものもあるだろうし、自分独自で生み出した価値観もたくさんあると思う。いろんな要素を組み合わせて、自分なりに理解できて共感できるものに融合したのが今自分が持ってる「文化」。「アイデンティティ」っていう言葉を使った方がいいのかな。
 
だから異文化を受け入れろって軽々しく言われたくはないね。異文化を受け入れることが場合によっては自分のアイデンティティを改変することになるっていうことが理解できないやつには何も言われる筋合いはない。
 
 
 
一年前の自分に聞いたら間違いなく「自分は柔軟性のある人間です」って言ってたと思うけど、そんなことなかったわ。死ぬほど頑固だわ。でもよく言うと「芯がしっかりしてる」だからな。俺はフニャフニャしてないぞ。
 
小学校、中学校のころの俺は柔軟性あったと思うけど、今思い返すと、あんなに適応できたのは芯をしっかり持ってなかったからだった。人としての中身があんまりなかったからだった。当時の自分に言ったら怒られるだろうけど、これが事実。
 
自分という人間がかなり固まってきたのはいいことだとは思うけど、その代わり俺が生きていける世界っていうのはどんどん狭くなってるんだね。
 
そう考えるとちょっと寂しくなる。

楽をする努力

受験に関して、俺が非常によくないと思うのが「がむしゃらに頑張ればいい」という風潮だ。

 

予備校の合格者体験談とか読んでも「朝から晩まで自習室に籠りました」みたいなことを書いてる人が多いけど、それが勉強に対する正しい姿勢だと俺はとても思えないね。


成長するためには、がむしゃらに努力することも必要だ。莫大な時間をかけて訓練を重ねないと得られないものはたくさんある。だけど、がむしゃらに頑張るのは、あらゆる方法を考え抜いて、そうするしかないという結論に至ってからやるべきことだと思う。


その前に、必ず「もっと賢い方法はないか」「楽する方法はないか」を考えるべき。


なぜなら、本当にでかいことを成し遂げようとするとき、「楽をする努力」はどうしても必要だからだ。

 

がむしゃらに色々やってれば成功することなんて結局は「とりあえずやればできる」ことでしかないんだと思う。だけど「やればできるとは限らない」ことだってよくある。だから個人的には「努力は必ず報われる」っていうのはあんまり信じてなくて、ときには失敗に終わる努力だってあると思う。だから、本当に大変なことに挑むときは「自分はどういう努力をすれば、自分の目的を達成できるか」を考えなくちゃならない。

 

精神論、根性論に頼るということは、このプロセスを完全に飛ばすことだと俺は思ってる。ちょっと難しいぐらいのものだったらそれでどうにかなるのかもしれないけど、本当に自分の限界に挑戦しようと思えば、それ以上の力が必要になると思うんだ。


でも追い込まれてるときなかなか「自分はどういう努力をするべきか」まで考えられない。なぜなら「がむしゃらに頑張る」ことより「楽をするために頑張る」ことが大変だから。「楽をする努力」は「がむしゃらな努力」より頭を使う作業だし、「楽をする努力」はそれまで自分のやってきたことを否定することになりから、それだけ自分に対する厳しさも必要だ。


でもそれができない限り、同じところでずっと空回りすることになってしまう。

インプットとアウトプット

俺はついこの前、受験勉強を終えた。

 
受験勉強は主にインプットの繰り返しだ。もちろん自分の手を動かさないといけない部分もあるが、基本的に教科書や参考書の内容が理解できて頭に入ればいい。もちろん最終的には解答用紙にそれを理解して、問題に応用できることを示さなければいけないが、インプットさえちゃんとできていれば、アウトプットの作業でつまづくことはまずない。
 
しかし、外からの知識を頭に入れるのももちろん重要だか、その結果自分の中で生まれた考えをアウトプットするのも同じだけ重要だと思う。
 
今の時代、あらゆるノウハウをすべて身につけるのは不可能だ。いろんな分野があり、それぞれの分野を研究している専門家がいて、一人の人間がすべての研究を把握することなど不可能だ。特定の分野を追求するにしても、今まで発見されたことをすべて再確認してるようでは、いつまでたっても最先端の研究にはたどり着けない。
 
だから、他人の知っていることを効率よくインプットし、自分のものにする能力はなくてはいけない。
 
 
 
だけど、ひたすら外からの情報を取り入れているだけではただの自己満足だ。
 
インプットとアウトプットを同時に行うことができるようになって初めて俺らは社会に貢献することができると思う。そうしないと個人のレベルで学ぶことはできても、集団として学ぶ、そして社会として学ぶことができないからだ。
 
集団として学ぶことはものすごく大事だと思う。人間社会がここまで発展できた理由は、先祖が作り上げてきたものの上にそのまま新しい技術を発展させることができたからだ。そして現在でもそのプロセスはさらに加速している。
 
だから俺らは自分のことを孤立した存在ではなく、人間社会という巨大なネットワークのほんの一部であると認識しないといけない。
 
 
 
まあ、俺が今ブログを書いてる理由はそこではないけど。今はただ考えてることを文章として整理してるだけ。そうすれば、大学で誰かに伝えたくなったとき、もう少しうまく説明できるかな、って。
 
文章として吐き出すことで、あんまり自覚していなかった自分の考えに気づかされることもある。うまく文章にできない考えもたくさんあるけど。