仄暗いほど柔らかい

晴読雨読の日々をつらつらと...

大森静佳「てのひらを燃やす」から好きな短歌を5首

 新版の方を購入しました!良い装丁!

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 大森さんの短歌は多分、余白が大きめに作られている。勿論分かりやすいものもあるが、非凡な描き方をしている。だからぱっと読んでパッと全てが理解できるかと言われればそうではない。でも、組み込まれている多様な名詞から想起されるイメージは清廉されていて、冷静でありながら、蝋燭の焔の様な熱を帯びている、そんな印象を受けました。

 

冬の駅一人になれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある

初めて読んだときはよく分からなかった。けれど、読むたびに耳の奥で駒が置かれる音がするような気がした。冬の寒さと硝子の駒は雪の白さや透明さで繋がっているし、「耳の奥に置く場所がある」という表現は、私が感じたような耳の奥で冬が鳴るような感覚を言っているのか、はたまた置く場所があるだけで、実際には置かれることが無い空虚さを言っているのか、どちらだろう。

 

 指先をひたしていれば晩年にこんなに近い噴水の水

  この感覚は私も感じたことがあったので共感できた。

 噴水は真ん中から噴き出し、四方に広がって水面に落ちる。その時間は人間が生まれてから死ぬまでの時間に比べればかなり短い。噴き出した瞬間を誕生、水面を晩年として、その意味で「こんなにも近い」のだと思う。また、噴き出しが誕生なのに対して、水面が「死」ではなく「晩年」というのも一つ何かを考えるべき点かもしれない。

 あと、これは深読みしすぎかもしれないが、噴水は循環式というのがあって、その意味では誕生から晩年、そしてまた誕生するというループが輪廻転生みたいだなと思ったりもしました。

 

木製の羽閉じている風見鶏ことばに宿るものなどはなく

 風見鶏は作り物。生きて羽ばたく鳥とはまるで違う。風見鶏に鳥が宿っていないように、人間が生み出した言葉というものは、根源的に意味も音も持っていないのだ。しかし今はこうして言葉に意味がないという可能性すら言葉で言うしかない。何かが悲しい?

 

大学の北と南に住んでいて会っても会っても影絵のようだ

影絵のようだという比喩が余りにも上手い。影絵における白と黒。それが二人。どうしたってすれ違ってしまうようなもどかしい感覚にぴたりとはまる。平行世界にそれぞれが居て、何をやってもどこか一致しない。

 

てぶくろがもうじき要るということを語尾を濡らしてきみは告げたり

 語尾を濡らして、という表現に独特の感情がある。単に冬の訪れか、或いは手が真っ赤になっているのを見てそう言ったのかもしれない。語尾を濡らしてという表現が一般的でないが故に、彼らの関係性の熟れが垣間見えるようだ。

 

 

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短歌という衝撃に魅せられた今年を振り返り、印象的だった短歌たちを紐解きつつ読み返す。

備忘録的な今年の振り返り(読み飛ばしても問題無しです)

 忘れもしない2018年5月21日、私はブックオフである歌集を手に取った。

 それを手に取ったのは、私が舞城王太郎好きだったことに起因していて、アマゾンで舞城を検索した時に、その長くて印象的なタイトルの歌集を目にしていたことによる必然的な偶然だった。(この歌集には舞城作の掌短編が付録として付いているため、検索に現れた)要は手にするべくして手にしたわけである。

 その歌集とは、

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