人生は暇つぶし

人間の一生はただの暇つぶし。どうせ暇つぶしするなら、より楽しく、面白くすれば幸せ!そんな暇つぶしのための「心技体」をシェアしているブログ。毎朝8時更新!

「改善した方がいいところ」を伝える意味があるか?

「あなたのこういうところは直した方がいいよ」

こういった評価の仕方や、指導の仕方、チームビルディングの仕方がある。

改善した方がいいところを伝えることに私自身はそれほど意味があるとは思っていない。

 


画一的な労働システムで価値のある評価システム
改善点を挙げる評価の仕方は、学校教育から日本人には根強くある。
今の学校教育は元々、画一的な労働力を生産するために出来上がったシステムだ。
なので、改善点を挙げて、欠点をなくし、誰でも同じ労働ができるようにする必要があった。

だから、なにか全く同じものを生産していく仕事には改善点を挙げる評価は意味があるだろう。

そうしないと同じ品質のものを生み出すことができないからだ。

 


特徴的な仕事を求められる時代へ
時代は移り変わり、画一的な労働力よりも唯一無二の能力だったり、そういった仕事や成果を求められるようになってきた。
(多分、随分前からそう)

他社の製品では得られない価値であったり、他人にはできないサービスやパフォーマンスであったり、職種も多種多様となり、人に求められるスキルや能力も様々だ。

1時間で100個のネジを作るという時間に制約のある仕事ではなく、たった1秒で閃いたアイデアが物凄いビジネスを動かすような時代でもある。

文明の進歩によって、そういった仕事や活躍が求められているのだ。

 


評価制度は高度成長期のままな日本
たった1秒で恐ろしいほどの価値を生み出せるような仕事でも、未だに評価制度は高度成長期のままだ。

欠点を探し、それによって減点していく。

仮に1秒で100億円の利益を生み出しても、1日8時間を遅刻早退なしに働かなければいけないし、過度な身だしなみやコミュニケーション能力などを求められたりする。

例えば、「トーク能力は高いけど人の話は全然聞かない」という人がいたとする。
その人は素晴らしいトーク力でプレゼンを行い、会議では話をまとめあげ、商談での契約も多数獲得していたとしよう。
だけど、あまり同僚の話を聞くことはなく、自分の主張を突き通してしまう。
他人の教育や育成にも携わろうともしない。
そして、上司との評価面談で「他人の話を聞かない」ことを槍玉に挙げられ、「もう少し他人の話を聞いて、教育や育成をするように」と厳しく言われる。

彼はそれから聞き手に回るようになって、持ち前のトークを発揮する機会が少なくなる。
そうするとこれまで上げていたような成果がなくなり、評価も下がる。
さらにはそんなアドバイスをしてきた上司や同僚達を恨んだ。

これが日本の評価制度の実情だろう。

 


次回につづく

「考えない人」が増える理由と思考停止しない対策

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全ての情報は、共有し並列化した段階で単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは、動機ある他者の意思に内包化される。

 

作品を知って、誰かのクチコミ・レビューを見て、それを自分の意見と同じだと思い、他者に共有する。

共有する手段は「いいね」や「リツイート」だろう。

 

ネガティヴ人間とポジティブ人間のどちらが良いか?-中編-

ネガティヴ人間、ポジティブ人間は相対的な感覚か?


「ここまで来たら行くでしょ!」

雨の高野山で仲間が発した言葉だった。
トレイルランニングという山走りを趣味にしていた私は、高野山から熊野大社までを最短距離でつなぐ小辺路という道を走り出そうとしていた。
だけど、この日は生憎の雨で、それもかなり降っていた。
時刻は夜の10時。
条件はかなり最悪な上に熊の出没情報もあった。
言い出しっぺの私だったが、正直今回はやめてもいいと考えていた。
万が一で死ぬかもしれないからだ。
一緒に走るのは私よりも一回り年上の男性Aさんと女性Bさんの2人だった。

「どうする?」という問いかけに、
「いや、いくっしょ!」と明るい返事をしたのがBさんだった。

人のタイプの分け方はいくつかある。
そのうちの代表的な例が、ネガティヴかポジティブかだ。

私自身はかなりポジティブな性格で、楽観的な思考に基づいて思考を組み立てていると思う。
多分、私を知っている多くの人が私のことをポジティブ人間だと認知していると思うし、自分でもそう思うのだ。
あまりアレコレと未来のリスクを考えても意味がないと思っているので、「とりあえずやってみる」が地である。

ただ、人間は相対的な感覚で物事を考える生き物だ。

なので、私よりもポジティブな人と一緒にいれば、その人から見れば私はネガティヴに見えるかもしれない。

あの時の高野山に居た私はきっとネガティヴな人間だっただろう。

 


人間は自然と役割を演じる。
チームでポジティブなリーダーがいれば、メンバーは相対的にネガティヴになる。
逆にリーダーがネガティヴなら、メンバーはポジティブになる。

10人のチームのメンバーをポジティブとネガティヴに区別するとしよう。
自分はポジティブ。
Aさんはポジティブ。
Bさんはネガティヴ。
Cさんはネガティヴ。
Dさんはポジティブ。
といった具合だ。

 

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これは私の主観で見た時の区分であって、ほかの人がやった場合に必ずしも同じになるとは限らない。

私は地がポジティブな人間なので、他の人がネガティヴに見えがちだからだ。
Hさんが区別した場合には、もっとポジティブな人が多くなる結果もある。
ただ、誰がやっても必ずポジティブにいる人間、ネガティヴにいる人間もいる。

 

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つまり、こんな感じの分布になっているのだ。
この場合、Aさん以外から見るとAさんは常にポジティブ人間に区別される。
逆にAさんから見ると自分以外全員はネガティヴに見えるかもしれないし、Eさんまでがポジティブに見えるかもしれない。

 


チームのバランスとか、チームワークをより良くと考えた時に、リーダーからの視点だけではなく、それぞれの視点から見た時にどんな分布になっていてるのかを考えると、より1人1人の思考が理解しやすくなる。

ポジティブの極にいる人間やネガティヴの極にいる人間を、バランスを考えてチームから排除したとしても、また別の人間がその極の役割を演じることも忘れてはならない。

 


ポジティブかネガティヴかは相対的なものでありながらも、どちらかというとポジティブだったりネガティヴだったり、その人それぞれの地がある。

それはどうやって決まるのか?
そして、ポジティブとネガティヴのどちらが良いのか?
後編で決着を着けようと思う。

 


つづく

ネガティヴ人間とポジティブ人間のどちらが良いか?-前編-

ポジティブは良いこと。

そんな風に勘違いしている人はいないだろうか?
「あの人ネガティヴだよね〜」って聞くと、悪い印象を受けたりするし、そう言ってる人も悪い意味で発言していることが多い。

実はポジティブかネガティヴかで、良い悪いなんてなかったりする。

よくある例え話で、コップの水に残った水を見て「まだこんなに残っている」と思うか、「もうこれだけしか残っていない」と思うか。
前者はポジティブで後者はネガティヴだ。

もしも砂漠だったら、どちらが生き延びるだろうか?
ビジネスなら?
スポーツなら?
芸術なら?

ポジティブな人間か、ネガティヴな人間か、どちらが良いのだろうか?

 


人間は必ずポジティブ思考をするポジティブ人間か、ネガティヴな思考をするネガティヴ人間のどちかに分類できる。

私は自他共に認めるポジティブ人間なのだが、ポジティブ人間は常にポジティブなのだろうか?
ポジティブ人間がポジティブ人間たらしめる理由とはなんなのだろうか?
その条件は?
ネガティヴ人間の場合はどうだろうか?

 


そんなことを考えていくと、ポジティブとネガティヴが良い悪いの関係ではないことが見えてくるし、ポジティブ人間やネガティヴ人間になる理由や条件がバランスだという事がわかってくる。

具体的な私自身の事例を用いて本当にネガティヴ人間とポジティブ人間は良い悪いの関係ではないのか?なぜポジティブ人間やネガティヴ人間のどちらかに人はなるのか?を追究していく。

 


中編につづく

チームのレベルが低いのはリーダーのレベルが低いから

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チームのレベルはリーダーのレベル。

もしチームのレベルが低いとか、チームの成果が出ないとか、チームメンバーのレベルが低いとか、そういった課題があるなら、それはすべてリーダーのレベルが低いのが問題なのだ。

 

チームを率いている人たち(リーダーやマネジャー)は、よく勘違いしている。

「いや~、うちのメンバーは全然ダメなんだよね」
「全然、自分から発言しようとしないんだよ」
「勉強もしようとしない」
「営業で契約とってこれない奴ばっかで」
「なんかみんな仲が悪いのかしらないけど会話しないんだよ」

こういうことを話すリーダーとかマネジャーがいるが、それって全部自分がリーダーとしての仕事やマネジャーとしての仕事ができていないだけの話。

 

成果の上がらないチームなのは、それを率いている人が無能だからなのだ。

バンド・オブ・ブラザーズという第二次世界大戦での実話を題材にしたドラマがある。
アメリカ陸軍第101空挺師団第506歩兵連隊第2大隊E中隊の物語なのだが、この中隊を率いる中隊長が5人登場する。

一番初めの中隊長がソベルだ。彼はスパルタ式の厳しい訓練で中隊を非常に屈強なチームに作り上げる。なので、隊員たちはめちゃくちゃ優秀で勇敢だ。
だが、模擬戦では全滅する。
それは率いているソベルが無能だったからだ。

隊員たちはソベルのクソみたいな性格もあって、反乱を起こし、異動させられる。
Dデイのパラシュート降下作戦でソベルの代わりの中隊長が亡くなり、結果ウィンターズ副隊長が中隊を率いることになる。

ウィンターズは非常に優秀な指揮官で作戦を成功に導き、多くの戦果を挙げていく。戦場では自分自身が最前線を突っ走る彼は隊員からも強く信頼され、まさにリーダーと呼ぶにふさわしい男だった。

優秀な彼は中隊長から第2大隊の副隊長に昇進。E中隊には新たにダイクという男が隊長として着任する。

このダイクは実戦経験皆無でコネで任命された無能だった。
無能な彼が率いるE中隊は、それまでの活躍が嘘のように敵軍にやられていく。

全滅もあり得た危機に、別の中隊長のスピアーズがピンチヒッターとしてE中隊の指揮を執って、見事に形勢逆転で勝利に導く。

その後、リプトンというずーっと中隊を支え続けてきた生え抜きの男が中隊長として任命され、リーダーの良し悪しでチームのパフォーマンスに波があったE中隊がようやく安定することになる。(そこからの部分はドラマの終盤なのであまり描かれていないけど)

 

E中隊の隊員たちはおそらくずっと優秀な兵士だったに違いない。
パフォーマンスが変わったのは常に指揮官のレベルによってだった。

ビジネスでも同じことが起きている。

起きているが、評価する側の人間がリーダーやマネジャーなので、どうしてもメンバーのパフォーマンスが悪いのはメンバーの問題だと考えてしまう。

 

だが、本当は違うのだ。

成果が出たらメンバーが優秀だから。
成果が出なかったらリーダーが無能だから。

これを忘れてはならない。

本を読む人と読まない人の違い-後編-

私が本を読むようになった1つの体験

大学生の頃もそうだが、就職してからもしばらくの間は読書はそれほどしていなかった。

2006年に「チームバチスタの栄光」が上梓されてから海堂尊にハマり、他にも森博嗣伊坂幸太郎にハマったりで、ミステリー小説はよく読んでいたが、それぐらいだった。

 

社会人1年目でロバートキヨサキの「金持ち父さん 貧乏父さん」を会社から課題図書として出されたのがいわゆるビジネス書との出会いだった。

ただ、その時は感想文を書くためにサラ~っと読んだだけで、全部を読もうともしなかった。

1年目の会社は超絶ブラック企業の体育会系営業会社で、本当に1日に100回は「辞めたい」と思いながら毎日働いていた。
それでも3年近く働いて、転職。次の会社は印刷会社だった。モノづくりに携わるということの面白みもあって、仕事をどんどん覚えて、できるようになって最初の1年2年は楽しかった。
だけど、給料が上がらないとか、残業代が支払われないとか、まぁ色々と酷くて辞めようと思った。
で、その時に数年ぶりになぜか「金持ち父さん 貧乏父さん」をまた最初から読んでみた。本当になぜそうしたのかはわからなかったが、もっと早くこれを全部読んでおけばよかったと思った。
会社から読めと言われた時に全部読んでおけばよかったと思った。

心底そう思った。

まぁ、その時に読んでいたからといっても、印刷会社を辞めようとしていた当時と同じ感動を得られたわけではないだろうけど、それでも読んでおいて損はなかったと感じたのだ。

この時に私は本が持つパワーを強く感じた。
身をもって理解したのだ。

少しのお金と時間を投資するだけで、自分では体験できないことや考えつかないことをインプットすることができるのが本なのだと。

 

本を読まない人はなぜ読まないのか?

私が「金持ち父さん貧乏父さん」を久しぶりに読んだのは、本当にたまたま家にあったからだと思う。
で、その時、「こんなクソみたいな会社を辞めて、もっと自分の人生を最高に楽しいものにしてやる!!」と物凄く強く想っていたから、なにかヒントを手にできるんじゃないかと考えたからだと思う。

その本が家にあったからというのもあるが、幼少期からそれなりに読書との親しみがあったのも良かった。

やはり、それまでの積み立てというものがなければ、社会人になってから急に他人から「本を読め」と言われても読むわけがないのだ。

事実、私が最初はそうだった。

 

ただ、それだけではなくて、もうひとつ社会人に関しては「本を読まない」大きな理由があると私は考える。

それが「自分の成長は自分の責任」と考えているかどうかだ。

どうも社会人にもなって会社が教育や研修をしてくれると勘違いしている人が多いように思う。
会社は研修といった費用対効果の悪いことをするぐらいなら、もっと優秀な人材を採用したほうがいいと考えている。
なぜなら自分で勉強もしないような人は育たないし、育てても高が知れているからだ。

だけど、自分の成長を自分でさせようとしない人は、会社が悪いと他責に考えてしまう。会社からは研修の機会も与えられないし(与えられても大抵が役に立たない)、自分自身で勉強をしようともしない。

自責で考えていない。
成長しようとしていない。
本から学べるものがあることを知らない。
自分が知らないことがたくさんあることも知らない。

つまりはそういうことなのだ。

人は理屈ではなく、感情で意思決定する生き物

人間は理屈ではなく、感情で意思決定する生き物だ。

とある会社でのこと。
新製品の商品Aと商品Bのどちらかを販売することになった。
誰がどう見てもBの商品の方が売れそう。
だけど、Aを販売することになった。
理由は、Bを作った奴のことをみんな嫌っているからという幼稚な理由だった。
仮にBを販売することになっても、販促とか協力せずに、全く売れないようにすれば、それを作った奴の評価はガタ落ちになるから、そうしようとなっただろう。

1ヶ月遅れて他社からBの商品と同じような商品が売り出されて、バカ売れした。
当然Aの商品はまったく売れなかった。
商品Aに関わった奴らは当然粛清されてしまったし、商品Bを企画した人は後々評価されることになるが、すでにその会社からは退職していた。
結果、その会社は業界でのシェアを失ってしまい、消えていった。

こういったしょうもない内部事情によって、本来出せる成果が出せないってことは、あってはならないけれども本当に結構ある話。

ビジネスだけではなくて、政治でもスポーツでも学校でもどこでもこういった意思決定は行われている。

誰がどう考えても非合理で馬鹿らしいのだが、それが人間の性であり、面白いところなのだろう。

本を読む人と読まない人の違い-中編-

幼少期を思い出すと図鑑を良く見ていた。
図鑑を見て、虫や花や動物の名前を覚えたり、絵に描いたりしていた。
恐竜の図鑑にもハマっていて、小学生の頃は「週刊 恐竜サウルス!」を毎週買っていて、付録で少しずつ付いてくるティラノサウルスの骨の模型のパーツを集めていくのが楽しみだった(笑)

 

ズッコケ三人組」とかの読み物を読むのも好きだったし、先生たちが読んでくれる紙芝居も好きだった。宮沢賢治の作品も。

 

漫画もとにかくよく読んでいた。
ドラゴンボール幽遊白書スラムダンクダイの大冒険、魔法陣ぐるぐる、今日から俺はろくでなしブルース名探偵コナンなどなど。
挙げだすとキリがないほどに単行本を買い集めていた。
これには2つ理由があったように思う。

 

1つは近所の年上の友達と漫画の書きあいっこをしていたこと。
お互いに漫画を書いては見せてという遊びを2〜3年はしていたような気がする。
その友達がすごく面白い子で漫画も上手だったし、自分ももっと面白い漫画を描けるようになろうと、たくさん読んで、たくさん書いてというのを毎日のようにしていた。

 

もう1つは電車と古本屋だ。
小学生の時に私が突如アルトサックスをやりたい!と言い出して、ヤマハに習いに行く事になった。
その頃は家の近所にサックスの教室がなくて、40分ほど電車に乗って通っていた。
電車が暇だったので、ひたすら漫画を読んでいた。
サックスの教室の近くに古本屋があるのを発見して、1冊50円とか100円で買える漫画を毎週行くたびに4〜5冊は買って帰って、電車で読んでいたのだ。
スラムダンク、クローズ、京四郎とかはほぼ古本屋で買って読んだような気がする。
なので、家には数百冊の漫画単行本があった(笑)

 

ほぼ漫画しか読んでいない小中高だったけど、ズッコケ三人組の影響かシャーロック・ホームズ金田一といったミステリー小説とハリー・ポッターは面白くて読んでいた。
ハリー・ポッターは母親の知り合いがプレゼントしてくれたのがきっかけで読み始めたのだが、読みやすさと面白さで一気にハマって、新刊が出るたびにすぐに買って読んでいた。

 

そんな感じでたまに小説を読む程度で、ほぼ漫画しか読んでいなかった子ども時代。
今振り返ってよかったと思うのは、図鑑と漫画だろうか。
図鑑で見たものを外の世界で確認できたのもよかった。花や虫や鳥といった自然が周りにある環境だったのは恵まれていたのだろう。
漫画も読むだけでなく、描く環境があったのは本当に良かった。

 

つづく

本を読む人と読まない人の違い-前編-

本を読む人と読まない人ではビジネスでの成果が圧倒的に違う。

天才的なビジネスの才能を見せる人は別として、本を読んでいない人は話す言葉や内容で高い知性を感じられない。
(高い知性とは、磨かれた知覚と鋭く速く多角的な思考によって担保されているものだ。
知覚とはインプットであり、思考とはアウトプットである。)

だから、入社して来る人たちにはオススメの本を紹介したりして、読むように促したりしている。
しているが実際に読む人は少数だ。

人生20数年を生きてきて、それまでに本を読む癖がついていない人はなかなか読めないものだ。
私はその人が読まないからといって読むことを強制したりはしない。わざわざチェックもしないし、本人が読まないなら読まないでそれはそれでいい。

その人が本を読もうが読ままいが、究極的には私自身には関係のないことだからだ。
読む人は放っておいても勝手に読むし、読まない人はいくら言っても読まない。無理に読ませても身にならないから意味もない。

社会人の年間読者量は平均で6冊未満、1ヶ月で1冊も読まない人が38%もいるなんて言われている。
子どもよりも本を読まないのが大人なのだ。

しかし、この大人になってから本を読む人と読まない人の差はどこで生まれるのだろうか?

 


私自身はどうだったかと思い返してみる。

実は私は社会人になって数年はビジネス書なんて、1冊も読んでなかったし、読む気もなかったのだ。
それが今では月に10冊は本を読むような人間に変わってしまった。
自身を振り返りながら、本を読む人と読まない人の根本的な違いは何なのかに迫ってみよう。

 


中編へつづく

「否定しない」を否定している自分を否定しない事はできるか?

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「他人を否定しない」という教えがある。

マネジメントに関する書籍には大体これが書かれている。
社会福祉の相談援助の大原則でも「全受容」という言葉があって、否定せずに関わることがデフォルトとしてある。

「他人を否定しない」を実践するときに、それが腹落ちして自然と実践できる人と、そうするべきだと頭で考えてする人がいる。

後者は「否定しない」を”実は否定している自分”を否定している事になるのがわかるだろうか?

 


研修を兼ねた旅行の計画を立てているとしよう。
チームリーダーは1日目の行動計画に関してはAさんに一任した。
数日後にAさんが出してきた行動計画は当たり障りのないものだった。
そのままでも問題はないが、特段面白い感じもしない。
リーダーは率直にこの案は嫌だなと感じた。
この時のリーダーの感情はAさんの行動計画案を否定している状態だ。

Aさんの行動計画案を否定するか。
Aさんの行動計画案を否定している自分を否定するか。
どちらかになってしまう。

リーダーは「否定してはいけない」というルールを守って、その計画案を承認した。

当然、旅行の1日目は特に盛り上がることもなく、面白味のない日となって、不評だった。

 


このリーダーにはいくつかの課題がある。
1つは、「否定しない」を頭で考えて行おうとしていること。
なぜそうなるのかというと、「他人に期待している」から。
そして、否定することなく、その人自身がより良いものにしていこうとする意欲や気づき、能力を与えるスキルがない。
これを「エンパワメント」と社会福祉の専門用語で言ったりする。(最近ではビジネス書籍なんかでも見られる言葉になってきた。)

 


「否定しない」を否定している自分を否定しない事はできるか?の問いの答えはどうだろうか。

他者を否定している自分を否定していると必ず歪みが生じる。
心の底から「否定しない」に納得していないのであれば、実践しない方がまだマシだ。
特にリーダーはそうだ。

「裏では何か思ってそう」
「本当のことを言ってくれない」
「私のことを信頼してくれていない」
上っ面だけで否定しないを実践していると、メンバーからはそんな風に思われてしまう。

なので、「否定しない」に心の底から納得ができていない自分を否定して、他人を肯定するのはやらない方がいい。

だけど、そうなると「否定しない」を実践できなくなる。
他者を無理やり肯定しようとすると自分を否定することになり、自分を肯定しようとすると他人を否定することになる。

「否定しない」を否定している自分を否定しない事はできるけど、その場合は他者を否定してしまうことになる。

リーダーから否定されているとメンバーはその組織から早々に去ることになる。
人間は他人から承認されたい生き物だし、承認されることで自己重要感が満たされる。

だから、マネジメントの本なんかでは「否定せずに関わりましょう」と書かれているのだ。

ただ、上っ面で承認しているだけだとそれはそれで弊害が生まれる。

どうすれば心の底から「否定しない」ができるのか?

 


その答えが「他人に期待しない」なのだ。
期待しなければ否定することはない。

旅行の行動計画案だって、作ってくればまだマシ。最悪なにも作ってこないなんてこともあり得る。もしくは訳の分からないものを作ってきて、めちゃくちゃ意地になってそれを突き通してくるなんてことも。
「これぐらいのクオリティを作ってくるだろう」ななんて一切合切の期待を排除して仕舞えば、心の底から否定せずに関わることができる。

否定するものがないからだ。

でも、旅行が面白くないのは問題だ。
面白い方が自分もメンバーも、その案を出してきたAさんも満足できるし幸福度が高まる。

否定しないまま、より良いものにAさんにしてもらうにはどうすればいいか?

そこでエンパワメントが登場する。

Aさんに能力を与えて、自分で気づいてもらうのだ。
それを実現するのが1on1などでの会話スキルや質問スキル、ディスカッションスキル。
視点を変え、気づきを与えて、自身の力で解決していく。
そうすれば否定することなく、より良くすることができる。

 


勘違いしてはいけないのが、そもそもAさんが旅行を面白くしたいと思っていなかったらダメだし、Aさんが能力や素養のない無能な人だったらダメなのだ。

それは完全なる人選ミスってやつだ。

出来る見込みのない人に出来ないことをやらせて、「もっと良いもの作ってこい!」なんてことを言うのは、そのリーダーがそもそも無能な証拠。

それは否定しないとかそういうレベルの問題ではないので注意してほしい。

 


他人を否定しない。
他人に期待しない。
他人の力を引き出すエンパワメント。

これで「否定しない」が実現できるだろう。
 

 

「フランス料理しか食わない人」を探し求めるフランス料理屋

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私たちは消費者からモノやサービスを売る側に回った途端に、180度物事の見方が変わってしまう。

それは提供者側にとっては非常に悪い方向に働く変化であって、できればそういったことは起こらない方がいい。

だけど、そうなってしまうのが常。
そのことを知っているだけでも多少なりとも変化を少なくすることができる。

 


「フランス料理しか食わない人」を探し求めるフランス料理屋を例にして書いてみよう。

もし自分がフランス料理屋の経営者になった場合、どんな人がフランス料理を食べているのかを調査したりするだろう。
フランス料理屋でも、どんな価格のものでどういった内容のものが選ばれているのか。
どんな内装や外観のフランス料理屋が選ばれているのか。
そういったことを色々と調べて参考にするはずだ。

そして、素晴らしいフランス料理屋を作り上げていく。

それはたしかに必要なことだとも思う。

だけど、この世にフランス料理しか食べない人がいるだろうか?
日本料理も食べれば、鮨も食べるし、イタリア料理やスペイン料理トルコ料理やタイ料理や中国料理などなど、まぁ色んなジャンルの料理を食べるはずだ。

特によく外食に出かける人ほど色んな料理を食べている。

しょっちゅう外食に行くのに、フランス料理しか食べない人なんて1万人に1人も存在していないかもしれない。

そんなことは自分が消費者側の立場に立ってみればすぐに分かることだ。
直近1週間で食ったものを思い出すだけでいい。

こんな簡単なことを提供者側に立つとわからなくなってしまう。

 


これは別にフランス料理だけではなくて、すべての商売に通ずることだ。
人間は1つのブランドなどに執着して、それだけを買い続けるなんてことは稀であって、そのカテゴリーの商品サービスを良く買う人ほど色んなものを購入しているのだ。

だから、フランス料理の話に戻ると、まるでフランス料理しか食べないような架空の人を想定しても意味がないのだ。
他のフランス料理屋を競合だと考えても無意味なのだ。

 


消費者目線で考える。
まずはそこなんだろうな。

前提条件が違うとチームはワークしないよねって話

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とあるチームのワークショップの企画会議。
発起人と私を含めて5人のメンバーが参加していた。

そのチームのメンバー同士がもっと相互作用しあって、お互いを高め合い、もっと大きな成果をあげられるチームになるというのが大目標。

今回のワークショップはそのファーストステップ的な位置付けで、発起人の目的は2つあった。

お互いをよく知る事。
お互いに遠慮せず意見し合える事。

この2つが出来る状態に少しでも近づけるためのものだ。

10数名のチームメンバーが半日ほど語り合う場を作るというものだったが、「どうやって進めていくか」や「どんなゴールを目指すか」といった共通認識が企画会議メンバーの中で腹落ちがしなかった。

チームリーダーでもある発起人の考えがよくわからないから、このままでは失敗に終わってしまうという意見があるメンバーからあがっていたからだ。

そのメンバー(仮にAさんとする)は、もっと綿密な計画を練って、そのワークショップがどう働いていくかのハンドリングもシッカリと考えた上で決行しないとダメだと考えていた。
なぜならチームメンバーが参加しても、きっと自分の意見を言わずにダンマリしてしまうと考えているからだった。
実際にそのチームでは議論が活発になるケースが少なく、メンバーが沈黙してしまうことが多い。
リーダーが話し過ぎてしまうからでもあり、誰も話さないからリーダーが話すといった悪循環に陥っていた。

ただ、発起人としてはガチガチにルールを決めたり、成功の型を決めてやるよりも、その場の生物として動いていくものに任せていきたいという想いがあった。
更に言えば、現場でどう転んでもある程度はアドリブでコントロールできる自信があったとも思う。
発起人は営業職として成果も上げてきた人物なので、それができる実力も十分に持っていた。

なので、この2人の意見は交わることがなかった。

必死に綿密な計画の必要性を訴えるAさんと、それがあまり理解できないリーダー。
この議論を聞いていた私に、Aさんが「上手く説明してほしいと」助けを求めてきた。

 


ここで私が考えていたことはそもそもの前提条件が全然違うなということだった。

まず発起人のリーダーが今回のワークショップをやろうと思うまでにインプットしてきた情報と、思考してきたものを完璧に共有することは不可能だ。

リーダーは当然チームメンバー全員と関わり、1on1などで仕事に対するモチベーションや課題感やさまざまな情報を持っている。
一方で企画会議に参加しているメンバーはそうではない。
ここで情報の非対称が生じている。

他にもマネジメント論や組織論、ワークショップに関する経験や知識が全然違っている。
当然、それが違ってくると認識している世界が変わってくるので、何を良いと感じて悪いと感じるのかも大きく異なってくる。
ここでも前提条件がかなり違っていて、意見が合わなくなる。

加えて、恐らくだがこんなスレ違いも起きていると感じた。
Aさんは何かをする時に「ゴールがある」というのが自分のなかでの当たり前としてある。
自分の中では当たり前としてあることなので、特に意識もしていない。
だから、他人にも当然に「ゴールがある」と思っている。だけど、リーダーには今回のワークショップのゴール設定のガッチリしたものはない。
だから、それを伝えることもできないのだが、Aさんはリーダーもゴールがあると考えているので、それを伝えてこないリーダーは狙いを隠していると全部言ってこないと感じてしまっている。
ここでも前提条件が違ってしまっている。

 


情報の非対称。
基礎知識や経験値から得ている知見。
根本的な物事の考え方。
こういった前提となる条件が全然違うので、どうやってワークショップをやるのかが上手くまとまらない。

すべてを短期間ですり合わせて、統一するのは難しいが、ある程度の共通認識を持てるようにしようという提案を私がして、今回はそれでと落ち着いた。

だけど、やはり前提条件というのはチームで揃えられていた方がスムーズに事が進むし、お互いが相互作用しあって大きな成果を上げることにも役立つに違いない。

前提条件を揃えていくには、普段からのコミュニケーションであったり、意見の交換や同じ学習をすることだったり、そういったことの積み重ねで得られてくるものだろう。

とあるミシュラン3つ星レストランでは、「美味しい」の共通認識を作るために、全員で同じものを食べて、どう感じたかをすり合わせていくワークを常にしていると聞いた。

人それぞれ「美味しい」は違うので、どう美味しいかを言語化して、同じ「美味しい」を作り上げていくのだ。

そうすることで1つの皿の料理が味のブレなく作り上げられていく。
それが3つ星たる所以のひとつだと私は感じた。

 


ビジネスチームや、地域コミュニティや、自助グループなど、どんな組織でも同じことだろう。

一朝一夕ではできない。
だからこそ面白いのがチームビルディングなんだろうなと思えた日だった。

疑問に思うことが高い知性を磨く

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とあるビジネスチームとのミーティングで、非常に興味深い体験ができた。

2021年の7月はオリンピックのために4連休がある。
この4連休でどんな風に消費であったり、人出の動きに変化があるのかは、ビジネスをやっていれば当然気になるところではある。
特にtoCと呼ばれる、消費者へ直接に商品サービスを売る商売であれば尚更のことだろう。

京都のような観光地であれば、全国各地から人がやってくるので、どこから人がやってくるのかを調べてみるのもマーケティングでは重要なことになってくる。

「4連休はやっぱり京都には他都道府県から人がくるんですね〜」なんてデータを見ながら話していた。

東京では緊急事態宣言が出されていて、特に外食が楽しめない状況。
オリンピックでも色々と制限がかけられたりと、東京脱出を目論む人は多いだろう。

そんなことを話していたら、
「でも、これって今年だからなんですかね?」
という質問が出てきた。

たしかにそうだ。
毎年こんな状況なら、東京で緊急事態宣言が出ているとか関係ない話。

2年前の7月の3連休はどうだったのだろうか?

やはり、東京とかの他都道府県から来る人が多かったのだろうか?

見てみると、たしかに多いことは多いが、他所から来る人の割合が今年よりも低かった。

「やっぱり今年は多いんですね!」
こんな声が出てきた。

いや、それだけで今年は他所から来る人が多いと断定するのは早合点だと私は指摘した。

「ん?どうしてですか?」
という疑問が続けて生まれてきた。

2021年の他都道府県の割合が高いからといって、2019年よりも多いとは限らない。
だけど、割合が高いから数も多いと思ってしまう。これはよくある勘違いだし、それを利用して騙そうとする輩もいたりする。

例えば、ある学校の1年生の男子の割合は70%。2年生の男子の割合は40%だとする。
どっちの方が男子の人数は多いだろうか?

答えは「わからない」。

1年生の総数が100人で、2年生が500人だったら、割合が少なくても2年生の男子の方が1年生の男子よりも多い。

なので、2019年よりも2021年の方が多いかは、ちゃんと数を比べてみないとわからないのだ。

そうすると他都道府県からの人数というのは2019年と2021年はそれほど変わらないことがわかった。

それよりも京都府の地元の人たちの人手が減ってちた。これが他都道府県の割合を引き上げている原因だったのだ。

「なんで地元の人はこんなに減っているんでしょうか?」
そのデータを見て更に疑問が湧いてきた。

これを深く見ていくと、やはり飲食店の時短要請が影響していたりと、いわゆる新型コロナ騒動が原因であることがわかった。

そうすると、京都の人たちはどこにいったんだろうか?となる。もしかすると時短要請などがない滋賀県に逃げているのか?家でオリンピックをテレビで見ているのか?という疑問が生じてくる。

そうやって疑問に思うことが知性を磨くためのインプットとアウトプットの始まりなんだなと思った。

特に自分から「なんで?なんで?」と疑問に思って質問を投げまくっていた1人のメンバーは、他の人よりも鋭い視点で物事を見れていた。
だから、疑問にも思うのだが。

同じデータを見ても「へぇ〜」で終わる人もいる。
疑問に思ってもそれで終わらせる人もいる。

それだと知性は磨かれていかない。
実際に出している成果でも、やはり疑問に思い質問していたメンバーの方が良いのも事実だ。

疑問に思い、より深く思考していくということの必要性を改めて感じた体験だった。
 

 

分析とは比べること

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多面的に見るという話の中で、お米を「穀物」、「乾物」、「野菜」として考えてみることを書いた。
それぞれの時でお米と比べるものが違っていた。
穀物の時は、小麦や玉蜀黍(とうもろこし)など。
乾物の時は、切り干し大根や乾燥ワカメなど。
野菜の時は、白菜や大根など。

それぞれのカテゴリーに属するもので「お米」を比べてみると、よりお米というものがどんなものかがわかった。

これがもし比べるものがなかったら、お米の特徴はわからないだろう。

なぜなら人間は相対的に物事を認識する生き物だからだ。

 


お米の色が白いのが特徴だと思うのは、玉蜀黍が黄色く、ワカメが濃い緑だから。
これがもし全てのものが白かったら、白いことは特徴にはならない。

炊く前のお米が硬いと感じるのは白菜の葉っぱと比べたら良くわかる。

そうやって人間は物事を比べることで、何が違って何が一緒かを認識して、その対象物や事象の特徴をより正確に掴める。

 


そうやって比較することを「分析」と呼んだりする。

 


この分析が上手く出来る人は鋭い知覚と思考があるといえる。つまりは高い知性を身につけている人だ。

上手い分析とはなにか?

それはどんな風に何と何を比べているのか?だと思う。

「お米」を穀物と比べるだけなのか、乾物や野菜と比べるのか。
栄養素だけで比べるのか。重さや大きさや香りや味や触感、音でも比べるのか。

切り口の多さもそうだし、正確な認識を得るために必要な比較をしているのかどうか。

これが上手い分析とそうでないものとの分かれ目になるだろう。

 


例えば、「米粒は小さい」と言う人がいる。
たしかにカボチャに比べれば小さいが、ゴマに比べれば大きい。
つまり「米粒は小さい」は正確な認識ではなくて、主観的に見た、一面に過ぎないのだ。

これは屁理屈とかではなくて、ビジネスの現場では非常に大切になってくる視点だ。

「あの新製品は人気が高い」みたいな認識で社運をかけた販促を仕掛けたりすることが本当にあったりする。
じゃあ、マーケット調査しとみようとなっても、幅広い知識もなくて、因数分解も足りず、多面的にも見れない人がマーケット調査した結果を見ても、「米粒はカボチャよりも小さい」ぐらいの話しか出てこないのだ。
こういう人は本当にいるし、それも稀というわけではない。

なので、分析的に物事を見れるだけでビジネスで活躍できる人になれたりする。

活躍できる人の第一条件は「高い知性があること」。
高い知性とは、幅広い基礎知識、それに基づいた知覚と思考、俯瞰して見る能力、因数分解できる能力、多面的に見る能力、そして分析的思考。これらのことがグルッと結びついて高い知性が得られると思う。

こういった能力の基礎地は社会人になってから作るのではなく、やはり幼少期や10代のうちの体験、経験、気づきから磨かれていくものだろう。

「デザインするとは」を考えてみる

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サグラダ・ファミリア内部/引用元:世界遺産ハンター.com https://世界遺産ハンター.com/spain/sagradafamilia/ )

 

「デザインする」とはなにか?

 

デザインとは設計だったり図案のことだ。

ケンブリッジ辞書だと下記のように意味が書かれていた。

to make or draw plans for something, for example clothes or buildings 

引用元: DESIGN | meaning in the Cambridge English Dictionary

 

家をデザインするといえば、家を設計することをいう。

どんな家にするのか、どんな工法で建てるのか、そういうことだろう。

 

どうせデザインするなら良いデザインをしたいものだが、

良いデザインとはどういったものだろうか。

 

好みにもよるだろうが、私はシンプルであることが良いデザインの条件だと思う。

 

シンプルとは、それ以上足す必要もなく、それ以上引くこともできない状態。

この状態にデザインされているものは、良いデザインだ。

 

 

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葉。

光合成をして、蒸散や呼吸をする役割を担うのに、これ以上なにかを足す必要があるだろうか?

もしくはここから引く必要があるだろうか?

完璧なデザインなのだ。

 

 

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水。

海から雲になり、雨となって地上に降って、川や地下水となって海に戻る。

地上にある間は生命の渇きを癒やし、海では生命を育む。

水がこの世界を巡るフローに足し算や引き算が必要だろうか?

 

そんな風に足し算も引き算も必要ない状態にデザインされたものが良いデザインであり、「デザインする」と呼ぶにふさわしいものだと思う。