海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

言語の再道具化

自らの能力とは無関係に、一時期の運に恵まれていた人々は、認知的不協和が生じやすい。

 

認知的不協和は、そのまま心理的に不安定な状態と直結する。

 

その不安定さと、肥大化した実体なき自尊心に対する防衛規制が、彼らの言動に歪な雰囲気を加えている。

 

他人への非難、自己正当化、過去の成功を過大評価するといった姿勢の傾向性は、こうした根っこと繋がっていることが多い。

 

稀に、認知を鈍くしていくことで、心理的に安定状態となる人もいる。結果として、安定状態は先の傾向性を逓減していき、ポジティブな人格形成に寄与する場合もあるらしい。

 

すると問題の本質は、能力の有無でも、運の寡多でもなさそうだ。赤子が認知的不協和など起こし得ないことを鑑みるに、現実への期待や解釈、もっと言えば、彼らの人生に対する観念、さらに深い部分では、言語的な自縄自縛が、本質なのだろう。

 

言語の使用や運用方法を最適化するよりも、いかに言語を用いずにいられるか、つまり言語という概念を、あらためて道具化する方向性に、より重要性を感じる。

 

 

「沙羅双樹の花の色」

 

自然に逓減する才能。若さ。

 

ただ下がりゆく価値と、固着していく価値観。

 

失われる権力と、離れていく人々。

 

札束でできた玉座のみが、虚城に残される。

 

生きる術を知らぬ王は、その玉座を売りに出す。

 

地べたの温度を肌で感じて、自らの虚無を恐れる。

 

交換可能な偽の信頼は、まるで寝返った家臣の如く。

 

夢のような生活の過去が、自尊心を肥大させ、

中の空洞を悟られぬよう、ハリネズミのように。

 

ああ、一片の優しさでもあれば。

ほんのもう少しだけでも、時間の幅を考慮していたならば。

 

彼らの寿命が、数年前に訪れていたならば。

 

権力を貪った代償は、その後の生涯の伴侶となる。

 

しかし、大いなる気づきも、無音の救いも、

常にそばにいて、我々を待っている。

 

真理の鮮度

読書は、自らが現時点で実感している真理感の枠組みのその先の可能性を、常に提示してくれる。つまり、ある概念による自らの緊縛化を避けることにつながる。


局所最適に留まり続けるような思考停止から、大域解へ旅立つための追い風になってくれる。


「これってこういうことでしょ?」という真理感に対して、「別の視点では、こういうこともあって、そして、、、」というように、思考の泥濘や腐敗に陥ることを避けてくれるのが、本の役割といっていい。

ソクラテスなら、無知の知が、目に見える形で置かれたものとでも考えるかもしれない。

こう考えると、積読というのは、その最たる姿な気がして、少し面白い。

 


ショーペンハウアーは、読書と、自分の頭で考えることについて、その鮮度の差から、読書から自立した思考に重きを置いていた。


一方、孔子は「学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし。」とそのバランスについての言葉を残している。


一見、異なる主張なので、多少、解釈がコンフリクトするかのように思えるが、視点を上げて、抽象的にとらえていくと、これは統合できる。Aufhebenとはこういうことかもという例にもなって、小気味もよい。


つまり先の訓示の「あやうし」ということは、一度思い込みを強めた人間が、それ以外の可能性について、思い至らなくなりやすいという、ありふれた人間の知性が備えた愚かさを警告しているのだろうと解釈すれば、鮮度の差の話と矛盾することはない。


当然と言えば当然で、ある概念に対する最終的な解釈や実感は当人に委ねられており、その意味で、傍観よりも実践、読書よりも思考は、常に優先的な構造を有している。


鮮度のない真理を、化石的だと表現されていたのを思い出すが、これは、考古学が我々の歴史観や未来展望にヒントを与える役割を担っていることを考えると、なるほど、二重の意味を感じて楽しめる。

「言葉に寄生する悪魔と、凪」

世にある何らかの現象を、理解しようと試みる。

 

そのときに、人は言葉に頼り、定義を考える。

 

定義は、前提や枠組みを必要として、

真理らしき何かを見つければ、自らをその箱に閉じ込めるかのように、生を捉える。

 

現代人の多くが、時間を無意識に気にしてしまうように、

浸透した概念は、我々の意識を占有し続ける。

 

元々、定義も、概念も、道具であったはずなのに、

いつの間にか、自らの手枷、足枷のように、なってしまうことは多い。

 

脳内で反芻される言葉が、その鎖を強く縛り上げていく。

緊縛の跡、それに伴う痛みを、悪魔は好む。

 

自らが使役していたつもりの「言葉」によって、

油断していると、我々は支配されてしまう。

 

皆の頭に響く悲しい音が、どうか風とともに流れますように。

 

静かな音の中にいるとき、心の波が、穏やかでありますように。

 

凪。

 

 

「虚無に進む国」

昔、ある国があり、そこは教育熱心ということで有名でした。

 

とある旅人はその噂を聞いて、その国を訪れてみました。

 

そして、旅人が見た光景は次のようなものでした。

 

 

子供が「あれをやりたい」と言えば、

大人は「それはだめです」と返し、

 

子供が「これをやりたくない」と言えば、

大人は「これをやりなさい」と命じていました。

 

そして、大人たちは口癖のように

「やりたいことがわからない」とぼやいています。

 

彼らは、

やりたいことをやっているときには罪悪感にさいなまれ、

やりたいことをやっている人をみると無性に腹を立てています。

 

その罪悪感と苛立ちは、

子供達のためという大義名分のもとに、

子供達の教育に向けられています。

 

また、自分たちこそは教育熱心なのだと信じています。

 

さらに、

抜け殻の人格は、

役割を与えられなければ、絶望し、

役割を与えられることで、絶望を回避します。

 

おそらくそういう背景で、

この国には、役職が山のようにあり、

大人たちは自分のことを話す一番最初に、

自分が何の役職であるかを語るのです。

 

さて、旅人は、

このような仕組みが、いつ始まったのか気になりました。

 

歴史を辿るうちに、ある声が聞こえてきます。

 

人の心の中で、罪や絶望、恥辱、そういった感情を反復しては、

人の行動を制限している声が、確かにあるのです。

 

心は、慎重さをもってその声を聞かなければ、

本人の声なのか、悪魔の声なのか、区別が難しいようです。

 

 

旅人は、国の中心の寺院に立ち寄り、

大きな鐘を鳴らしました。その音が国中に響くように。

その一瞬だけでも、その音が、悪魔の声をかき消すようにと。

 

彼は、祈りと共に、この国を立ち去りました。

 

この日の旅人の日誌には

「自由とは、自分の両耳を自分の両手で塞ぐこと」と書き残されていました。

 

 

「奴隷と腕輪」

昔、ある王国では、奴隷の首輪を用いて、

奴隷の品質を一目で分かるようにしていた。

 

白銀、金、銀、銅、ダイヤモンド、など、

素材による違いはもちろんのこと、

装飾や、紋章など、さまざまな工夫が施されていた。

 

王国の思惑は、上手く機能した。

奴隷たちは、その世代を経るごとに、

自らの首輪の価値を高めることに強い執着を抱くようになった。

 

彼らは首輪のために、一所懸命に働いた。

 

次第に、この価値観に歪みを感じる者の数は減り、

首輪が自分のアイデンティティとなる者が増えた。

 

あるとき、視察に来た隣国は、

奴隷たちの懸命に働くその様を見て、

そこから気づきを得た。

 

彼らは、装飾だけでなく、

さらに一工夫を加えた腕輪のようなものを自国に流通させた。

 

瞬く間に、その腕輪は世界中に広がった。

 

その腕輪の中心には、短い針と長い針が付いており、

それが日の出と日の入りを教えてくれた。

奴隷のリーダーたちは、好んでこの機能を用い、遅刻を罰した。


さらに時を経て、王たちはふと気がつく。

 

もはや、腕輪など与えなくとも、

奴隷たちは、見えない鎖で、

自らを自発的に縛り上げているということに。

 

 

時はさらに経った。

さまざまな王国は民衆によって打倒され、

民衆主導の社会が広がった。

 

 

しかし、皮肉なことに、

例の時を刻む腕輪は、一層、流通を強めた。

 

未だに、ステータスを象徴し、

人々の意識に制約を課している。

 

そして、このために喜んで働く人々は、多い。

 

 

科学、動物、天啓

想起された特定の行動のイメージについて、

実際に身体や思考が駆動する段階に進みづらくなるように自動的に施される、

精神的な違和感の一種がある。

 

「レンガを積む」という文脈よりも、

「家を建てる」という文脈に対して発動しやすい。

 

より複雑なもの、

より段階的なもの、

より統合的なものに着手しようとする際に、生じやすい。

 

小さな行動が何らかの衝動で、

すでに活動がスタートしている場合、

その後、大きな行動にシフトしていくとしても、

それが生じにくい。

 


静止した物体を動かすのは重く、

方向的な慣性が効いている物体を順方向に動かすのは軽い。

 

この視点であれば、始動に鍵がある。

 

大きな薪に着火するのには時間が掛かるが、長く燃える。

小さな薪はすぐに着火するが、燃え尽きるのが早い。

 

この視点だと、コンビネーションとその順序に、燃焼の具合は依存している。

 

水路の傾斜に起伏の少ない水流は流れやすく、

起伏の激しい地形では、水は留まり、澱みやすい。

 

これは、整地の問題だ。

 

作業中に周囲が無秩序に騒がしいとき、集中は乱れ易く、

心地のよい音がBGMならば、そうはならない。

 

心の静かさと、フォーカスには関連がある。

 

質量の重い物体を、下り坂に向かって押し出す。

駆動に時間と労力を要するが、

一度、転がり始めれば、全てを薙ぎ倒して進む。

 

脳の機能性と、過集中には、こんな関係式がある?

 


個人の創造力に比例して、反作用している力がありそうだ。

大気圏を抜けるまでの抵抗力というのがある。


想像しうる魅力の高さが、推進力のように機能する。

これは、赤い炎。


無為に静かに流れる自然な波は、恒久的な浮力を生む。

これは、青い炎。


心の調べに耳を傾けて、青い炎で心身を温める。

浮かび上がった空で、進路を感じる。

星に手を伸ばし、赤い炎でさらに高く。


朝、静止から始まるのは、地表を足の裏で感じるためだ。

勢いに任せて進んだ空があっても、

今日また、地に足をつけて、

冷静になって選び直すことができるようになっている。


羽を休めた鳥が、

掴んでいた枝を飛び立つときに選ぶ言葉を思う。

 

「いい天気だ。あっちの枝のほうが日当たりがよさそうだ。」

 

「今日は風が強い。風向きに飛べば気持ちよさそうだ。」

 

「何か妙な感じがする。今日は身の回りを整えておこう。」

 

自分の全ての感覚を信頼するところから始まる。

 

それらを、

単に動物的な怠惰性の表れとして克己しようと捉えるのか、

神體に示される天の導きとして何らかの気づきとするのか、

私たちは、そのどちらでも選ぶことができる。

自分が好ましいと感じる世界を選択する自由が、

無条件に与えられている。

 

 

ある船団が大海を航行していた。

千年に一度の大嵐に遭遇した。

 

船の一つは「もうだめだ。こんな嵐じゃ、この構造の船は壊れてしまう。」と諦めてしまった。

 

他の船では「こんなの無理だろ。どんなに頑張っても帆の操作すらできない。」と無気力に陥った。

 

しかし、ある一つの船では「これは試練だ。必ずどこかに道があるはず。希望を探そう。」と前を向いていた。

 

嵐が過ぎ去ったあと、船団は崩壊していた。

 

さて、それから数年後「大嵐の乗り越え方」という航海術の本が出版された。

 

この千年に一度の大嵐がもたらした教訓は、

航海士の常識を覆し、嵐と船の沈没の統計の数値は大きく塗り変わり、

ほとんどの船に嵐に負けず帆を操作するための機械が設置されるようになった。

 

天啓的知見は、科学的知見を根底から揺さぶり、動物的知見に力を与える。

後者ふたつは、困難において統計的な諦めや、肉体的な無気力をもたらすが、

前者は、困難の大きさに比例して、大きな気づきをもたらす。