働く、遊び、時々出かける

ちょっと真面目に書いてみようと思ってます

ワークスタイルは《場所》から《時間》への変革が必要

インターネットが普及して、街中でも高速のWi-Fi環境が気軽に利用できるようになったことで、「場所にとらわれないワークスタイル」というのは当たり前になっている。

当初は、フリーランスの働き方として「ノマドワーカー」なんていう呼び方がされていたのが、今では企業も積極的に取り入れるようになって、「オフィスに出社することなく、テレワークでOK」という働き方を推奨するようなところもある。

もはや、個人の働き方−ワークスタイルは、《場所》という概念からは解放されたと考えても、間違いではない。

《場所》に依存しないワークスタイルが常識となりつつある今、次に変革すべきワークスタイルは何か。それは《時間》ではないかと考える。

ある企業では、テレワーク環境を構築し、社員に積極的なテレワーキングの実践を促している。テレワーキングの実施について、回数制限や理由の如何を問うこともない。そのため、社員は誰に気兼ねすることもなくテレワークを実践している。

これは、テレワーク制度が実効性をもって推進され、成果をあげている事例になる。この企業で働く社員は、オフィスという《場所》に依存せずに、自由に働く環境があり、その環境を積極的に利用することで、仕事に対するモチベーションの向上や生産性向上などの効果を発揮している。

しかし、この成功事例にも、残念ながら不足しているところがあると筆者は考えている。

それは、《時間》の概念からの脱却だ。

確かに、テレワークは働く《場所》に依存しない。しかし、《時間》による社員管理からは脱却することができていない。そこには、名ばかりの成果主義と、働いた時間=評価という従来からの悪しきマネジメント習慣から抜け出せない管理者のジレンマが透けて見える。

以前、ワークスタイル変革は、ワークライフバランスを実現することにあるという考え方で語られることがあった。仕事とプライベートのバランスをとって、働く人が人間らしく生活できるようにしていこうという考え方であったと記憶している。

実は、筆者の周囲では最近このワークライフバランス」という言葉が積極的に聞かれなくなってきたように感じている。その理由は、《時間》の概念から脱却できない今のワークスタイル変革の課題があるのではないだろうか。

《場所》への依存から脱却を果たした今、次のターゲットとして《時間》への依存から脱却することに取り組まなければならない。そのためには、

・勤務時間管理をやめる
・土日祝日などの固定休暇の考え方をやめる

つまり、「24時間365日、いつでも働く自由」を実現することを提案したい。

と書くと、「24時間365日休まずに働けというのか!」という怒りの声があがるだろうが、そういうわけではない。

「勤務時間管理をやめる」というのは、例えば「朝9時から夕方18時まで」という1日の固定した勤務時間をやめて、「働きたい時間に働く」ということ。早起きが得意ならば早朝4時から働いてもいいし、夜型人間なら深夜に働くのもアリだ。

もっと言えば、月曜日にミッチリと15時間働いて、火曜日は仕事をしないという考え方もOK。要するに、勤務時間を1日単位で考えるのではなく、週単位や月単位で考えようということである。

次の「土日祝日などの固定休暇の考え方をやめる」も同じ理論。土日に休んでも、みんなが一斉に休んでいるから遊びに行っても観光には混雑していて楽しくないし疲れもたまる。だったら、土日に仕事をして平日に休んでも問題ないじゃないか、という考えだ。

もちろん、この働き方にも問題点や課題はたくさんある。しかし、《時間》にとらわれることなく自由に働けるようになれば、今以上にワークライフバランスは充実したものになると筆者は考える。

「だったらフリーランスになればいいじゃん」って? はい、おっしゃるとおりです。

「うつ」は自己責任なのか

7月から会社を休職している。原因はうつだ。

 

今年に入ってから仕事が忙しくなり、連日深夜まで仕事をすることが増えた。それが原因でまず睡眠障害不眠症)を発症した。身体は疲れているのに夜はほとんど眠ることができない。毎日の睡眠時間は3~4時間程度という日が約3ヶ月以上続いた。

 

睡眠不足は日常的な判断力を低下させる。次第に仕事がうまくこなせなくなり、自分の中で焦りが生じてきた。そして、気がつけば抑うつ状態で仕事に身が入らなくなった自分がそこにいた。

 

もともと完璧主義なところがあり、与えられた仕事を100%以上のレベルでこなしたいと考える質の性格なので、今回の件も、とあるプロジェクトが一緒に対応していた後輩社員の生産性の低さから大幅にスケジュール遅延となり、そのリカバリを私が一手に引き受ける形になったことが要因のひとつであろう。それに加えて、リカバリに関する頑張りが正当に評価されず、リカバリ作業に没頭したことで他の業務に影響を与えたことについて評価を下げられてしまったことも、モチベーションを低下させてしまった。

 

このような、睡眠障害から抑うつ状態への変遷プロセスにおいて、職場の上長から言われたことがある。その上長は、親身になって相談に乗ってくれ、愚痴も聞いてもらったのだが、毎回結論は、「うつは自己責任だ」というものだった。

 

彼から言わせるとこういうことになる。

 ・仕事は自分の裁量で調整し、無理のない範囲ですればよい

 ・無理をして身体を壊しても会社は何も保証しない

 ・そんな状況で無理をして、睡眠障害やうつを発症するのは自己責任もある

 ・自分の身は自分で守るようにしなければダメ

 

確かに、我が身を守るのは自分であって、他人が守ってくれるわけではない。心身の不調を発症しないためには、自ら作業量や作業方法などを調整して、ワークライフバランスをとる必要がある。しかし、その反面で業務を高いレベルでこなさなければ人事評価が上がらず給与査定にも影響するというジレンマがある。特に、ウチの会社のようにアベノミクスに乗りきれず、社員の給与削減を念頭に置いた人事制度改革を断行するような会社では、100の成果を求められて100を返しても評価はされず、120、150という成果が求められる。そういうプレッシャーの中、ワークライフバランスを確保することがどれだけ難しいか、その上長も会社経営陣も理解していないのかもしれない。

 

社員の心身障害発症を社員の自己責任と認識している時点で、この問題の解決は見込めないような気がする。個人の働き方だけでなく、業務の与え方、モチベーションのあげ方といった会社側の責任も一緒に考えていかなければならないだろう。それが、休職して心身の健康回復を図りながら、つらつらと考えていることである。

 

 

「褒める」って何?

最近、企業内で社員同士がお互いを褒め合いましょう、という活動を行っているらしい。かく言うウチの会社も社員同士で褒め合う活動を今年度から実施していて、たくさん褒められた人は会社から表彰されることになっている。

 

この「褒める」という活動には、褒められることで社員のモチベーションがあがり、仕事に対する意欲が向上、頑張ることで生産性があがる。という狙いがあるらしいのだが、個人的に褒めることでモチベーションがあがるかと言えば、そんなことはない。

 

誰しも褒められれば嬉しいし、場合によっては「がんばろう!」という意欲を高められる人もいると思うが、それが仕事に対する意欲なのかというと違うような気がするのだ。

 

そもそも「褒める」というと、

  • Aさんは、人が嫌がることでも率先して対応してエライ!
  • Bさんは、毎日始業の1時間前に出社してオフィスの整頓をしてくれる
  • Cさんは、いつも元気よく挨拶してくれて、接していて気持ちが良い

みたいなことをイメージしてしまうのだが、これらは立派な社会人になって、かつ年齢を重ねた中年のオッサンが言われると嬉しいよりも恥ずかしいと感じるような内容である。さらに言えば、これらの行動はどことなく「社畜」を思わせる気もする。

 

何より私が褒められてもモチベーションが上がる気がしないのは、上記のようなレベルでいくら褒められても人事評価には繋がらないのでは?という疑問を持たずにいられないからである。

 

「褒められる」ことと、「評価される」ことは根本的に違うことだ。褒められることというと前述のような日頃の生活態度とか行動とかの「人間としての活動」に対して行われることであり、評価されるとは、営業成績とか大規模プロジェクトの成功とかの「仕事」に対して行われることだ。社会人としては、褒められるよりも評価された方が自分の給与査定とかにも影響するのだから、そちらを重要視したい気持ちになる。「褒められなくてもいいから評価してほしい」という具合だ。

 

まぁ、職場でお互いがギスギスした関係で仕事をするよりは、相手の良い所を見つけて褒め合える和気あいあいとした職場の方が仕事はしやすいのは確かで、そういう意味では褒め合う活動にも効果はあると思う。ただ、ウチの会社のように業績が芳しくなくて他社が売上や利益を伸ばす中で足掻いているようなところでは、人事考課に繋がるような評価ができるような環境を作る必要がある。ただただ褒め合うだけではなく、正しく評価されることも考えないと、結果的に社員のモチベーションは上がってこないし生産性もあがってこないのではないだろうか。

 

東京都議会のセクハラヤジと進まないジェンダーフリー

東京都議会でみんなの党塩村文夏都議の一般質問中に、「早く結婚しろ」や「お前が産め」などのセクハラヤジが飛び、それに同調するように議員席から笑い声があがったという事件で、6月23日(月)に自民党所属の鈴木章浩都議が、発生から5日目になってようやく自らの発言であったことを認め謝罪した。ただ、本人は「早く結婚しろ」という発言のみが自分の発言であり、それ以外は知らないと否認している。また、この件で都議を辞任するつもりはなく、自民党の会派を離脱(これも意味がよくわからないのだが)することでけじめをつけるらしい。

 

この問題が、海外でも報道されるような大きな事件に発展したことは、日本という国の女性に対する男性の性差別的意識の表れとして、日本男子諸氏は深く反省しなければならないだろう。私も同じ男性として深くお詫びしたい。

 

さて、今回の事件が図らずも示したように、日本ではまだまだ女性に対する差別が連綿と続いているように思う。衆議院議員における女性議員の比率は10%以下であり、世界的にみても著しく低い。おそらく、先進国と呼ばれる国々の中では最低だと思われる。国会や地方議会の議員の問題だけでなく、一般の企業でも女性管理職はまだまだ少ないように思える。職場の男女間格差を是正し、仕事の内容や賃金、職位等の平等のための男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年なので、施行から約30年が経過したことになる。施行当時に大卒で就職した人は、現在50歳前後となるので、会社では部長や取締役などの管理職、経営職についている年代だろう。均等法の目的が正しく達成されていれば、少なくとも部長や取締役の半分は女性が担っていてもおかしくないはずだが、現実にはそうはなっていない。

 

先日、ウチの会社の株主総会があって、会場に同席する機会を得た。そこで、株主からあがったのが、女性取締役の問題だった。残念なことに、ウチの会社には女性の取締役はゼロだ。社外取締役監査役もすべて男性である。株主から、「なぜ女性取締役がいないのか?」と質問を受けた社長は、明確な回答を出すことができなかった。

 

さらにいえば、ウチの会社の場合、部長職以上の管理職にも女性はゼロである。課長以下には女性がいるが、比率では20%以下である。つまり、我が社では男女雇用機会均等はまったく実現されていないことになる。

 

なぜ、そういう状況になっているのか。原因は様々あるのだろうが、結局のところ根底にあるのは女性に対する差別的な意識ではないかと個人的には考えている。なぜなら、ウチの会社では、一般社員における営業職や技術職などの女性比率もかなり低い状況にあるからだ。そこには、「女性には営業はムリ」、「女性の技術力には期待しない」という意識はないだろうか?

 

しかし、こんな(悪い言い方をすれば)女性に期待していない会社も、世の時流には逆らえないと見えて、今年度の人事目標を「ジェンダーフリーの促進」とした。安倍政権が掲げる「女性の社会進出」に追随した動きである。今のところはスローガンが掲げられているだけで、具体的な施策や数値目標(何年までに女性取締役を登用するのか、何年までに部長職以上の女性比率を何%にするのか、等)は聞こえてこないが、私としてはできるだけ早く女性管理職を全体の50%にするような施策を実施すべきであると考えている。

 

「女性が上司だと働きにくいのでは?」と考える人もいるかもしれないが、いまどきの若い男性社員で女性の下で働きたくないなどと考える人は皆無であろう。むしろ、昔気質に凝り固まった体育会系の根性論を振りかざすオヤジ系の男性上司よりは、女性上司の方が働きやすいと感じる人も多いはずだ。私も、これまで女性上司の下で働いたことがないだけに未知の体験になるが、それだけに楽しみでもある(と書くと、なんだか変態ぽいが(笑))。早くそういう機会が得られるように、会社は積極的に取り組んで欲しい。

 

 

育児休暇や介護休暇を取得したら評価が下がる?

先日、ちょっと耳を疑うような話が漏れ聞こえてきた。にわかには信じがたい話なのだが、複数から同じ話を聞いたので、たぶん事実なのだろう。

 

職場で同僚が家族の介護を理由に2ヶ月の介護休暇を取得した。介護休暇制度は、会社の制度として規則化されていて、社員はその権利を問題なく行使することができる。その同僚も会社の規則に則って介護休暇を取得している。

 

問題はここからだ。先日、今年度上半期の人事考課会議が開催された。人事考課は、各ビジネスユニット単位に所属社員の評価を各部門の長やユニット担当役員らの合議により決定される。その席で、参加者から「介護休暇を取得して業務を行っていなかった社員に関しては、業務貢献度が低いのだから評価を下げるべきだ」との発言があったという。どういう結論になったのかは不明だが、どのような結論であろうと、こういう発言が何の疑問もなく行われるマネジメント会議というのは大問題ではないだろうか。

 

介護休暇は、育児・介護休業法という法律により企業に義務付けられているもので、当然会社もその法律に則って、育児休暇制度や介護休暇制度を設けている。育児・介護休業法によれば、

  • 事業主は、育児休業、介護休業や子の看護休暇の申出をしたこと又は取得したことを理由として、労働者に対して解雇その他不利益な取扱いをしてはならない。

とされている。上述の「介護休暇を取得して業務貢献度が低い社員は評価を下げる」というのは、明らかな法律違反になるのだ。第一、このような考えがまかり通ってしまったら、社員は迂闊に育児休暇も介護休暇も取ることができないではないか。

 

発言者は、自分の発言が重大なコンプライアンス違反であることを認識していないのだろう。おそらく、育児休暇や介護休暇のような社員の権利を必要悪と考えているのかもしれない。育児休暇や介護休暇を取得するような社員がいると職場が迷惑すると考えているのかもしれない。

 

まだ最終的な人事考課結果は出ていないようなので、最後にはこのようなくだらない意見は一笑に付されると信じているが、もし経営層においてこの人事考課を肯定するような結論が出されたとしたら、会社が「ブラック企業」に成り下がったと考えるしかないだろう。不景気というのがこれほどまでに会社を狂わせるとかと思うと、ため息しかでてこない。

 

家族を考える:天童荒太「家族狩り」

秋の夜長は読書とブログ」なんだそうである。なるほど、読書の秋だし、読んだ本の感想をブログにアップして、アクセスしていただいた方々に紹介してみようということだ。

個人事だが、私は一般的なレベルからすれば本をよく読む方だと思う。過去に読んだ本については、簡単な内容だけど感想めいた記録を残したりしている。そんな過去の記録から、自分でも「すいぶん力入れて記録しているなぁ」と呆れた作品があったので、それを紹介してみたいと思う。天童荒太「家族狩り」だ。なお、以下に掲載する感想は、私が個人的に感じ、考えたものであり、その内容に関する責任は筆者である私個人にある。気を悪くされる方がいたらゴメンナサイ。

 

「家族狩り」が抱えているテーマは、“家族”そして“愛”だ。あまりに身近で、あまりに普通で、誰も意識したことのない“家族愛”を、天童荒太は、必死で噛み砕き、飲み込もうとあがいている。そのあがきが、作品として昇華したときに、そこに傑作が生まれる。代表作「永遠の仔」も、直木賞を受賞した「悼む人」もやはり“家族愛”の物語だった。

 

「家族狩り」も、そのタイトルが示すようにテーマは家族愛である。1995年から上梓されたオリジナル版は、生きながらノコギリで肉を絶たれる描写(皮膚を裂き、筋肉の繊維をプツプツと切断している様が実にリアルであったと記憶している)など、ややホラー色の強い作品だった印象がありながら、そのテーマ性もあってか山本周五郎賞を受賞している。その文庫されるにあたり、天童荒太は、ある試みを行うことにした。かつての「家族狩り」をそのまま文庫にするのではなく、新しい「家族狩り」として作品化する。それは、実質的に新作の書き下ろしとなる。このような形に至った心境を、天童は第一部である「幻世の夢」のあとがきでこう書いている。

 

もちろん95年版のまま文庫化し、いま必要と感じる問題は、まったく別の新作で展開すればよかったのではと思われる方もいらっしゃると思います。『家族狩り』を新たな形で書き下ろすことを選択した理由の一つは、自分の内面とあわせ、現在の社会状況が関係しています。

  (中略)

こうしたいまを生きている人々に、時代背景と密接に関係している『家族狩り』の物語を、旧来のまま届けることがよいのかどうか、送り手としてためらわれました。

―――『幻世の祈り』あとがきにかえて(p.281-282

 

天童荒太にとって、「家族狩り」は、その時代を反映し、リアルタイムに生きている作品なのだろう。多くの作家が、単行本刊行当時のままに文庫化するのが多い中で、このような取り組みには、おそらく賛否両論あるだろう。作品が出版され、流通された時点で、それは作家の手を離れたとすれば、その作品を大幅に変更することは許容できないと考える人もいるかもしれない。一方で、作品は常に作家のものであり、その去就は作家にあるとすれば、作家が作品をさらに強化することは歓迎すべきと考える人もいるだろう。私は、「家族狩り」に関しては後者の考え方である。それは、実際に全五部作を読み終えての考えだ。確かに、95年版の「家族狩り」は、ひとつの完成形である。だが、天童自身が書いているように、その時代背景の密接に絡んだ作品である以上、今新たに時代を掴み、新しい家族狩りとして昇華されるのは、当然のことのように思える。

 

まず、「家族狩り」のあらすじを説明しておきたい。なお、ネタバレしている部分があるので、文字色は反転しています。

【あらすじ(ネタバレ!)】

埼玉、千葉で子供が親を殺害し、自らも命を絶つ無理心中事件が相次ぐ中、巣藤浚介は隣家の麻生家で無惨な死体を発見する。両親は、生きながらにしてノコギリで肉を断たれており、子供はカッターナイフでのどを刺して死んでいた。警察は、子供が両親を殺害し、自殺を図った無理心中事件と断定するが、馬見原はその決定に疑問を抱く。そんな中また同種の事件が発生。今度は両親を生きながらにして灯油をかけて焼くという残虐さであったが、やはり子供は自殺していた。馬見原は、浚介の証言である薬物の匂いを頼りに、シロアリ駆除業者を独自で調査する。馬見原の捜査線上に浮かんだのが、かつてわが子を殺害した大野だった。大野は、わが子を殺害したが情状を酌量され軽微な判決を受け服役、出所後東京でシロアリ駆除業者として開業していた。大野の元妻である山賀葉子も上京して、大野の家の隣に居を構えて心の悩み相談室を開設していた。状況的に大野、山賀の犯行とにらんだ馬見原は、ついに彼らが事に及ばんとする場面に追いつめるが、油井に撃たれてしまう。大野、山賀のターゲットは、芳沢家であり、浚介と游子は芳沢亜衣からの携帯電話で現場へ急行する。追いつめられた大野と山賀は、亜衣を人質に現場から逃走。亜衣を富士の樹海に置き去りにして姿を消す。

【あらすじ(ココマデ)】

 

「家族狩り」の主要な登場人物は以下の通りだ。

 

  • 巣藤浚介・・・高校の美術教師。両親の偏向的な思想教育のトラウマをもつ
  • 氷崎游子・・・児童相談所職員
  • 馬見原光毅・・・刑事。息子を亡くした過去があり、妻は精神を病んでいる。娘とは隔絶状態
  • 芳沢亜衣・・・浚介が勤務する高校の生徒
  • 冬島綾女・・・ヤクザの夫の暴力・虐待を受け、馬見原の保護下にある女性
  • 冬島研司・・・その息子。父親に虐待され、頭蓋骨骨折の過去あり。
  • 大野甲太郎・・・シロアリ駆除業者。かつて、わが子を殺害したことがる
  • 山賀葉子・・・大野の前妻。電話相談室を運営

  

「家族狩り」の登場人物たちは、それぞれが何らかの形で家族に対するトラウマを抱えている。巣藤浚介は、極めて偏った思想の持ち主である両親から、どんな些細なことも、それが自己中心的な事項であれば、すべて拒絶するように育てられてきた。一切の娯楽、行事を禁止され、異を唱えれば打擲された。15歳で家を出た浚介は、両親から「おまえは死んだと思うことにする」と言われ、以来一切の関係を絶っている。馬見原は、仕事一筋の刑事であり、家庭を顧みずに仕事に打ち込んできたが、厳しく育てたはずの息子がまるで自殺のような事故で死亡し、そのショックで妻佐和子が精神を病んで入院。娘の真弓も、兄を死に追いやり、母を精神崩壊に追い込んだ父を恨み、拒絶する。そんな中で、ヤクザである男から暴力と子供への虐待に苦しめられていた冬島綾女と出会い、彼女と息子の研司を守るべく、その夫である油井を別件逮捕で刑務所送りにする。綾女と研司は、馬見原を慕うが、馬見原自身は、自らの家庭のこともあり、思い悩んでいる。そこへ、油井が刑期を終えて出所してくる。大野と山賀は、四国高松での夫婦時代に、家庭内暴力をふるう息子を思いあまって殺害した過去を持つ。その経験から、家族にとって必要なものは何を独自に確立し、その考えに基づいてある行動をとっている。このように、彼らはそれぞれに内面的なドロドロとした家族関係を持ち、その重荷を背負って生きている。読者は、その重量感をずっしりと感じさせられることになる。それぞれのトラウマは、小説だからといって表面的ではなく、まるで実在の人物が抱えるトラウマをさらけ出しているような印象を受ける。それぞれのキャラクターが、それぞれに抱えたトラウマを、作品の展開と共に、あるものは間違った方向へ展開し、あるものはそれを克服する方向への歩き出す。その心情の変化の微妙さも天童は丹念に描こうとしているように思える。

  

例えば、浚介がそれまでの無気力教師から変化するきっかけとなった事件がある。浚介が、隣家で発生した一家殺害事件の第一発見者となり、その恐怖を忘れるために酒を浴びた夜に「オヤジ狩り」に遭遇するエピソードだ。最初の死体発見だけで終わらせず、そこに浚介自身に危害の及ぶ事件を組み合わせることで、浚介の心情の変化が出やすいようにストーリーが展開されているわけで、このあたりはうまいと思う。

 

天童荒太は、ミステリーの枠組みを上手に活かしながら、自らの家族観を作品に全力でぶつけてきている。それは、前作「永遠の仔」でも見られた。そのためか、作品の発表ペースは寡作であり、本書が五冊目にあたる。その才能を高く評価する身としては、そのあたりが悩ましい。それは、早く次の作品を手にしたいという欲求と、じっくり時間をかけて最高の形で見せて欲しいという欲求との葛藤である。世の中には雑な作品を節操もなく連発するだけの流行作家も多い。かつて、社会派作品やハードボイルドなどの多彩な作品で読み手を楽しませてくれたミステリー作家は、気がつけば鉄道ミステリしか書かない流行作家になってしまった。天童荒太には、そのような面白味のない流行作家にはなって欲しくないと思う。

 

 

幻世(まぼろよ)の祈り―家族狩り〈第1部〉 (新潮文庫)

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まだ遠い光―家族狩り〈第5部〉 (新潮文庫)

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遭難者の夢―家族狩り〈第2部〉 (新潮文庫)

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贈られた手―家族狩り〈第三部〉 (新潮文庫)

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巡礼者たち―家族狩り〈第4部〉 (新潮文庫)

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半沢直樹もあまちゃんもみていないが語れるということ

今年のドラマで最大の話題作であろう「半沢直樹」と「あまちゃん」がそれぞれ最終回を迎えた。なんでも「半沢直樹」は42%超の視聴率だったようで、ほぼ二人に一人はみていたくらいの勢いだったようだ。「あまちゃん」も視聴率は知らないけど、ツイッターなんかでも放送時間になれば次々と関連ツイートが流れだし、注目度の高さがわかった。それに、なんといっても各ドラマでは、「倍返しだ!」や「じぇじぇじぇ!」といった流行語が生まれ、現実に私の周囲にもこれらの言葉を時折耳にしたくらいだ。「お・も・て・な・し」が一躍クローズアップしたが、いずれにしても年末に発表される今年の流行語には選ばれるに違いない。

※余談だが、【半】沢直樹が【倍】返し、ってのは著者の池井戸潤氏は狙ったのだろうか?

 

 

と、まぁそれぞれに広く視聴者に受け入れられたわけだが、ここでカミングアウトすると、私は両方のドラマとも結局みていない。上述したような状況も、ツイッターやネットニュースその他で入手したものである。つまり、「ドラマをリアルにみていなくても、いまやネットの情報だけで視聴したも同然に会話はできる」ということだ。

 

ドラマの話題というレベルであれば、直接自分でその番組をみていなくてネット情報のみで「いかにも熱心にみてました」的に騙ることは、さほど目くじらを立てるほどの話ではないけれど、最近はオフィシャルな場面でそういうことを平気でやってくる人が増えている気がする。例えば何かのビジネス上の問題に対して、自分自身の考えではなくネットの受け売りで語ろうとする人が多くなっていないか?ということだ。

 

また、ネット情報のバケツリレーだけではなく、同僚や先輩、上司のアドバイスを自分の中で吸収し昇華させることができない人もいる。私が関わってきた後輩や同僚にも、自分で考えることを最初から放棄してしまっているような人が少なくない。それを「要領がいい」と評価する考え方もあるのかもしれない。実際私もできれば要領よく仕事はこなしたいし、それで楽ができるならそうしたい。ただ、すぐにバレるような無粋なマネはしてほしくないな、と思うのである。

 

本当の要領の良さというのは、そのアイディアの元ネタを出した相手でさえ、そのことに気づかずに納得させてしまうように振る舞えるということだと思うのである。

 

 

あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

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あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX3<完>

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ロスジェネの逆襲

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オレたちバブル入行組

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オレたち花のバブル組

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