エンタメ消化器官

様々なエンタメ作品に対する個人的な感想

映画『変な家』を観ました。

鑑賞日:2024/4/28

作品名:変な家

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

この家、何かが、変、ですよね?
間取りには、必ず作った人の意図が存在する。
そこには、むやみに触れてはいけない人間の闇が見えることも・・・

“雨男”の名前で活躍する、オカルト専門の動画クリエイター・雨宮(間宮祥太朗)は、マネージャーから、引越し予定の一軒家の間取りが“変”だと相談を受ける。そこで雨宮は、自身のオカルトネタの提供者である、ミステリー愛好家の変人設計士・栗原さん(佐藤二朗)にこの間取りの不可解な点について意見を聞いてみることに…。次々と浮かび上がる奇妙な“違和感”に、栗原さんはある恐ろしい仮説を導き出す…。

そんな矢先、ある死体遺棄事件が世間を騒がせる。その現場は、なんとあの【変な家】のすぐ側だった。事件と家との関連性を疑った雨宮は、一連の疑惑を動画にして投稿することに。すると、動画を見た「宮江柚希」なる人物(川栄李奈)から、この家に心当たりがあるという連絡が入る。

柚希と合流したことで、さらに浮上する数々の謎。そして新たな間取り図。やがて二人は、事件の深部へと誘われていく―。
紐解かれていく間取りの謎の先に、浮かび上がる衝撃の真実とは―。

これ以上踏み込めば取り返しのつかないことになるかもしれません。
それでも、この秘密を覗く勇気がありますか?

引用:下記サイトより

hennaie.toho.co.jp

 

概要

映画館にて鑑賞。

全編1時間50分(110分)と平均的な長さ。

年齢制限なし。

オモコロ、小説、動画は履修していない状態で鑑賞しました。

 

今回、劇場のコンディションが最悪だったため、いまいち本来の受け取り方が出来てないんじゃないかという疑いがあります。その件については、「おまけ」で後述します。

 

感想

ほぼジャンプスケア映画

「ジャンプスケア」とは、「ホラー系の作品で、突然大きな音を出す、唐突に何かを大きく映すなど、観客が飛び上がるように驚いたり恐怖を感じたりするような演出」を指す言葉だそうです。そういう言葉があることを、私はつい最近知りました。

そして、そういう演出が私は苦手ですし、手法としても好きじゃないです。ドッキリしたいわけじゃなくて、不安になる恐怖を感じたい。いや感じたくない。感じたい。ジレンマ。

 

とまあ、それはさておき、この映画もまさにその「ジャンプスケア」の類いで、ところどころで観客をビックリさせてきます。その要素を含めたうえで原作小説を再構成しました、という感じのようでした。

正直なところ、映画館で観なくていいやつでした。

 

全く面白くなかったというわけでもないのですが、多分それは原作の力であって、やはり全体的にビックリ系に振ってしまったのがよくなかったんじゃないかな、という感じです。ストーリー的にも、あまりピンと来ませんでした。

本家である雨穴さんのYouTube動画で語られた話は映画本編の冒頭辺りでサクッと終わってしまいますし、「この人どういう関係?」「なんでこんなことしてんの?」みたいな所もいくつかありました。

小説と動画を履修済みだった同行者によると、「小説を読んでないと意味が解らないと思う」とのことでした。なのでこの映画は、観客が小説を読んでいるという前提で作られたものなのかもしれません。

 

ミステリーとは……?

この間取りの何がおかしいのか?

何故このような間取りにする必要性があったのか?

なんだかリアルなのかフィクションなのか曖昧になってないか?

というような、真相の追求と、作品と自分との距離感を面白がるミステリー映画なのかと勝手に思っていたのですが、どちらかというと幽霊寄り、かつ、因習村的なホラーものでした。

間取りの推論と結論付けは早々に終わってしまうし、これといって意外性のあるものでもなかったです。まあそうだろうね、というような。

というのも、散々ネットでネタにされているために、原作も何も履修していないのに、なんとなく知っているという謎状況になることが最近増えたんですよね。そのせいで最初の「子供を閉じ込めて」という間取りについては察しがついてしまって、「私なんでこれ観てんだろう……」みたいな気持ちになってしまいました。Twitterの見過ぎなんですかね。ちょっと控えたほうがいいのかな…… とはいえ、気になる作品情報を得るのもまたTwitterだったりするので…… 範囲の問題かしら……

 

物語の根幹となる部分の心霊現象的なものは、最終的に全て人の手によって起きたことであることが明かされますが、ラストシーンだけは意味不明でした。何故あそこだけ幽霊にしてしまったのか。いや幽霊と断言はできないかもしれないですね。雨男の住んでいる家がもともと宮江家の儀式のために使う家だったのだとしたら、細工をすることも可能でしょうし。

ただ、解決してるテイのことをわざわざ掘り返して宮江家が雨男に関わるメリットもないような気がしますが。また左手を用意するためかしら。

本編冒頭、雨男が撮っていた動画内で「カリカリ、チー……」という擬音を言っていましたが、ラストをそこにつなげるのもかなり無理があると思いますし、入れる意味もなかったんじゃないのかなと思います。

 

それと、栗原さんが雨穴さんのような話し方になっているのが若干気になりました笑

いや、演出として全然ありだと思います。佐藤二郎さんの演技も趣があって好きでした。というか、この話、栗原さんがかなり万能ですよね…… 栗原さんが居なかったら解決できなかったんじゃないかな…… 本来どういう役割のキャラクターなのか、詳しく知らないので何とも言えないですが……

 

まとめ

人気コンテンツの映画化と聞いて期待した人は多かったんじゃないでしょうか。私も「雨穴さん」という存在だけは知っていたので、そこだけを信じて観に行きました。いざ蓋を開けてみたら求めているものとは違ったな、というのが正直な感想です。

なんとも言えませんが、「何かもっと巧く出来たんじゃないかなぁ……」と思ってしまいました。

きっと本家と原作が一番面白いんだろうな。

 

どうでもいいですけど、この記事を書いてる時に部屋の照明がぶっ壊れました。

点滅が止まらないという現象に見舞われ絶叫。

めっちゃ怖かったです。やめてくれ……

 

以上、映画『変な家』の感想でした。

 

おまけ

劇場のコンディションが最悪だった話

映画館では静かにしましょうね……(懇願

10代~20代くらいの若いお客さんがかなり多かったこともあってか、本編が始まっているにもかかわらず会場が終始ざわざわしていました。

30代~40代の方にも、持ち込みの缶ビールや、ボトル缶のコーヒーを飲んでいる方がいて、マナーの悪いお客さんが多かったです。

※持ち込みも、アルコールも両方禁止の劇場でした。

ここまでコンディションの悪い劇場に居合わせたのは初めてのことだったので、かなり戸惑いました。

 

また、鑑賞中にビックリして声をあげてしまった方に対し、嗤いが波のように広がりました。

よくないです。

驚いて反射的に声をあげてしまうことは仕方ないことです。特にジャンプスケアってそういう仕掛けなわけですし、作品を楽しんでいる証拠です。

でも、それを嗤うのはよくない。私がそれをされたら嫌です。

「また嗤われたら恥ずかしいから、もう劇場で観るのやめようかな……」って思っちゃうかもしれません。

ぶつくさ何かしゃべり続けてるとかなら何か対処(例えば劇場のスタッフさんに伝えるとか)をしたほうがいいかもしれませんが、他人のちょっとした反応に対しては、出来れば反応しないほうがいいんじゃないかなと思います。自分が迷惑を被っているとかでない限りは。

 

劇場は自分の家ではありません。

くつろぐのは結構ですが、公共の場であることは忘れないでもらいたいです。

マナーを守って、楽しく鑑賞したいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『オッペンハイマー』を観ました。

鑑賞日:2024/4/6

作品名:オッペンハイマー

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

一人の天才科学者の創造物は、世界の在り方を変えてしまった。
そしてその世界に、私たちは今も生きている。

第二次世界大戦下、
アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」。
これに参加した J・ロバート・オッペンハイマーは優秀な科学者たちを率いて
世界で初となる原子爆弾の開発に成功する。
しかし原爆が実戦で投下されると、
その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。
冷戦、赤狩り―激動の時代の波に、
オッペンハイマーはのまれてゆくのだった―。
世界の運命を握ったオッペンハイマーの栄光と没落、その生涯とは。
今を生きる私たちに、物語は問いかける。

引用:下記サイトより

www.oppenheimermovie.jp

 

概要

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編3時間(180分)とかなり長め。体感時間もそのまま3時間という感じでした。

R15+。

史実に関する知識がほぼない状態で鑑賞したために、理解できなかった部分や、この登場人物はどういう立場の人なのか、みたいなのが結構発生しました。

 

感想

言語化しづらい

正直、私のような学がない人間にとっては、こういう映画の存在はありがたくもあり、困惑の対象でもあります。

勉強嫌いの私は、史実やら歴史やらに興味が持てず、子供のまま大人になってしまった人間の典型です。そういう私みたいな人間が、こういった史実に基づいた映画を観た時、「どういう感想を持ったか」という問いに対して答えるのは、とても難しく感じます。

 

難し過ぎる……

この映画に対する正直な感想はこれです(雑

私はこの映画を観に行くにあたって、「クリストファー・ノーラン監督作品である」ということ以外の強い理由がありませんでした。そうじゃなかったら多分観てないと思いますし、3時間耐えられなかったと思います。

ドキュメンタリーというほどリアルさを感じるわけでもなく、モキュメンタリーというほど入り込めるわけでもなく。そのうえ内容が難解で、この辺りの史実の知識に明るくないとしっかり置いていかれます。特に時系列がバラバラで、それも混乱の元でした。モノクロの画面演出も意図が汲み取れずという感じで、私には向いていない映画でした。

 

兵器を生み出した彼もまた人の子であった

「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマー氏ですが、この映画では、科学者としての成功と、人間としての苦悩が描かれていました。

科学者として、人間として、どちらの彼も、大量破壊兵器を作っているというよりは、純然たる科学の追究をしているに過ぎなかったのではないでしょうか。

 

映画の中の彼は、原爆を作りはしましたが、使用することについては反対していました。その反対意見が採用されることはなく、どの程度の威力でどのような被害があったのか把握した際、彼は絶望したような表情を浮かべました。使用した場合にどうなるかということについて、一切考えていなかったわけではないことが窺えます。

 

「科学者は、研究開発することは出来るが、どう使うかまでは決められない」

正確に覚えていませんが、映画の中でもこういった趣旨のセリフを言っていたと思います。少し前にNHKで『フランケンシュタインの誘惑』という番組が放送されていて、その番組でも似たような言葉を残した科学者が紹介されていました。

(もしかしたら同じ人だったのかもしれませんが……汗)

www.nhk.jp

 

兵器となるものを作った人間が悪いのか。

兵器として使った人間が悪いのか。

とても難しい問いです。

 

これは誰もが恐れおののくような兵器に限ったことではなく、もっと身近なものにも当てはまることだと思います。

例えば、車とか、包丁とか。

ずいぶんミニマムになったなと思われるかもしれませんが、問題は身近に感じてこそ意味があると思うのです。

車も包丁も使い方次第では凶器になりますが、間違った使い方さえしなければ問題はありません。「危ないから包丁を規制しろ」という人はいないのと同じで、使う人間が何をどう使うかということのほうが、私は重要だと考えます。

 

「そもそも"それ"が存在しなければ、そんな危険なことは起きない」というのは、確かにその通りだと思いますが、それは「新しい発見をしなくてもいい」と言うのと同じではないでしょうか。良くも悪くも、どんな副産物があるかは判らないけれど、それでも研究する、してしまう、というのが研究者の性なんだろうと思います。

 

もちろん原爆が使用されたことは到底支持できることではありませんし、許されることでもありません。忘れていいことでもありません。

ただ、それを作った人間代表者1名に、全ての責任を負わせるのは違うんじゃないかと思います。

 

私は、人間は発展を目指す生き物なのではないかと思っています。

何故かは解らないけれど、より便利で、より豊かな世界を目指していく。そして、それはどんどん加速しているようにも感じます。そこにはあらゆる探求心を持った研究者たちが貢献してきたはずです。それは素晴らしくもあり、自らの首を絞めることでもある諸刃の剣なのかもしれません。

大きな感謝をする一方で、若干の恐怖を感じるのもまた事実です。

 

まとめ

映画の話から随分と逸れてしまいました。

「どう感じていいのか解らない」というのが正直なところでしたが、観て損をしたという感覚はありませんでした。人に薦められるかと問われると、なんとも言えないです。「こういう人が実際に居たのだ」と知るのには、いい映画だったと思います。

でも私としては『TENET テネット』や『メメント』のほうが好みかなぁ……

 

以上、映画『オッペンハイマー』の感想でした。

映画『リベリオン 反逆者』を観ました。

鑑賞日:2024/3/30

作品名:リベリオン 反逆者

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

第三次世界大戦後、指導者たちは戦争を引き起こす人間のあらゆる感情を抑止させるため、国民にある薬を毎日飲むことを義務づける。警察官のプレストンは、非情の殺人マシーンとして反乱者を取り締まっていたが、やがて体制に疑問を持つようになり…。

引用:下記サイトより

filmarks.com

 

概要

こちらの企画に参加して鑑賞しました。

ttcg.jp

 

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編1時間46分(106分)と、多少短め。

年齢制限なし。

ガンカタ」という存在だけは知っていましたが、初見でした。

「面白いって聞くし、いろんな作品に影響を与えたらしいから、いつかは観てみたいな」と思っていた作品が、まさかのスクリーンで観られるという幸運。

今回、この作品を日本で上映するにあたって、さまざまなハードルがあったようです。上映企画に携わった全ての方々と、チケットを取ってくれた配偶者に感謝します。

 

感想

「観られてよかった」の一言に尽きる

面白かった……
「スクリーンで観られてよかった」と心の底から思える映画でした。

古い映画ゆえなのか、ツッコミどころもあるにはありますが、そんなことはさておき、はったりとカッコよさが全てを気にならなくさせてくれます。

日本公開当初は上映劇場自体も少なく、『マトリックス』のパチモンみたいに扱われていたらしいですが、私は『リベリオン』のほうが好みでした。

ストーリーの構造が解りやすいこと、感情移入しやすいキャラクターの設定、みんな大好きディストピア。そしてなんと言っても独特のアクション。面白いに決まってるじゃないか……!

 

哲学と愛の物語

雨の後の虹、街を照らす太陽、芸術や音楽の美しさ、「生きるとは?」という問い。それらに触れることで、少しずつ感情が芽生えていく主人公には誰もが、「それでいいんだよ」と思ってあげられるはず。

「歪んだ世界に立ち向かう主人公」というストーリーの構造は、ほとんどの人が感情移入しやすいのではないでしょうか。

 

また、ストーリー的なちょっとした裏切りというか、ひねりがあるところ(「ツイスト」って言うことも初めて知りました)も、観客を飽きさせません。
主人公がピンチに陥るも上手く切り抜けた、と思いきややはりピンチに、と思いきやそれも切り抜け、というような。味付けの巧みさを感じました。
これは今では頻繁に使われている技法ではありますが、巧く使わないとなんの相乗効果も生まれなかったりします。ですが、この作品ではこの技法を巧く利用していて、「次はどうなるの? どうするの?」と観客を作品の中へ中へと引っ張り込んでいってくれる役割を果たしていたと思います。

 

これが噂の「ガン=カタ」かぁ……!

カンフーのようなスピード感のある体術、刀をつかった演舞のような剣術、エフェクトも音も派手なガンアクションの融合、という、大人用お子様ランチみたいな組み合わせ。発想が自由過ぎる。製作陣がこういうの大好きなんだろうなって思います。私も大好きです。

いやはや、これは真似したくなっちゃうよね。
実際にこんな戦い方したら勝てなさそうだよなとか思うところもありますが、そういうことじゃないんですよ。
カッコよければリアルがどうとかはそこまで重要じゃない時もあるという。

今まで「ガンカタ」って、音でしか聞いてなかったので知らなかったんですけど、「ガン=カタ」って書くんですね。なんとも『ニンジャスレイヤー』感がある。いや逆なんだけどね笑


感情の発露がトラブルの元になるという考え方

この映画では、本、芸術品、音楽等、感情を揺さぶるようなものは戦争の元になるとされ全て排除、そして、政府から配られている薬(プロジアム)によって感情、特に不安や恐怖を抑制している、という世界です。

なんだか今の世の中に少しだけ似ているような気がしてしまいました。一歩間違えると、現実がこの世界観にグッと近づいてしまうような気がします。

 

というのも、最近は、映画等を観て感情が揺さぶられることに抵抗がある人が増えているそうなのです。「タイパ」や「コスパ」という言葉が一般的になるくらいには、余裕のない世相になってしまっているのかなと感じます。エンターテイメントに対して、気軽に時間やお金を割けるほどの余裕がないというか。手放しにのんびりしていられないというか。

 

勿体ないなと思いつつも、そうなっても仕方がないよな、とも思うのです。
私のような政治に疎い人間から見ても、「良くはない」と判るくらいには良い世相ではないことが察せてしまう。

「寛容」を謳いながらも、まだまだそうでない部分が多く、むしろ「寛容に賛同すること」を強要されているような空気もあって矛盾している。

「生きているだけで充分」と言いつつも、「何かを成すこと」をずっと期待されているような息苦しさもある。

「一回失敗してしまったら人生終わり」みたいな圧も常に漂っている。

だから、どんなに小さな失敗であれ、失敗自体を経験したくない。

それに加えて大量の情報、大量の繋がりに対応していかなければならない。

それでもここに属して生きていかなければならない。

そりゃ心の余裕もなくなるよね……
「ただ生きてる」ってだけで、自分のいろんなリソース使いまくってるんだから、わざわざ気苦労を増やしたくはないよな……

 

感情が揺れるから疲れる、というのはすごく解ります。面倒くささがあるというのも。それは生きていくうえで、どうしても生じるものですし、避けにくいことです。それをわざわざお金と時間を使って疑似体験しにいくなんて、と思われているのかもしれないです。実際、映画を観ると疲れることがあるのも事実ですし、かくいう私も「ちょっと今そういうのに触れる余裕ないわ……」みたいな時もあります。

 

ですが、「そんな時こそフィクションに救われる」みたいなことは、往々にしてあることなので、出来れば恐れずに、ぜひ映画館で、感情の揺れをアトラクションのように体験してもらえたらと思います。
映画だけに限らず、漫画でも、アニメでも、小説でも、ドラマでも、音楽でも、なんでも。フィクションやエンターテイメントに触れることって、感情の揺れを処理する練習にもなるんじゃないかと、私は思っています。

こういう場面で相手がどんな感情になるのかな、どんな反応をするのかな、現実ではどうだろう、自分だったらどう言うかな、自分は今どういう気持ちになっているかな等々、実際の相手がいない分、気楽に脳内シミュレーション出来ますし、多くのフィクションに丁寧に触れれば触れるほど、モデルケースの引き出しの数も増えると思います。それが現実の世界で実際に使えるかどうかはさておき、思考する楽しさを知ってもらえたらなって思います。

ただ、フィクションとの線引きというものは必要になってくるので、それも恐れというか、面倒くさいことの一つになっているのかなって気もしますが……

 

一つの考え方に固執しないことが物事を楽しむコツなのかもしれないなと思います。
ベートーヴェンを聴いて感動を覚えた主人公プレストンのように、ぜひそういうものに触れてみて、感情の揺れを体験してもらいたいし、私も体験していけたらと思います。

それって案外楽しいことだもの。

 

上映終了後のトークショーも、楽しく、興味深く、拝見、拝聴させていただきました。
本当に感謝しかない。
こういった企画はぜひ続けていってほしいです。

 

以上、映画『リベリオン 反逆者』の感想でした。

映画『ARGYLLE/アーガイル』を観ました。

鑑賞日:2024/3/16

作品名:ARGYLLE/アーガイル

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

凄腕エージェントのアーガイルが、謎のスパイ組織の正体に迫る大人気小説「アーガイル」。ハードなシリーズの作者エリー・コンウェイの素顔は、自宅で愛猫のアルフィーと過ごすのが至福の時という平和主義。だが、新作の物語が実在するスパイ組織の活動とまさかの一致でエリーの人生は大混乱に! 小説の続きをめぐって追われる身となった彼女の前に現れたのは、猫アレルギーのスパイ、エイダン。
果たして、出会うはずのなかった二人と一匹の危険なミッションの行方は──?!

引用:下記サイトより

argylle-movie.jp

 

概要

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編2時間19分(139分)と平均的な長さ。

年齢制限なし。

同じマシュー・ヴォーン監督作品である、『キングスマン』シリーズは全て履修済みです。

 

感想

王道スパイアクションコメディ

想像していたところから2転3転してピタッと面が揃うような、ルービックキューブみたいな映画。安定の面白さでした。

アクションあり、コメディあり、ちょっとだけラブもあり。インテリジェンスもしっかり感じられて満足度は高かったです。創作の自由さを思い出せるのもいいところ。元気がもらえます。

猫ちゃんも可愛いし。

 

バトルはダンスだ!

ディスコ系ミュージック連発のBGM演出については、ちょっと過剰に感じてしまいましたが、相変わらずアイデア満載で踊るように格闘する振り切ったバトルスタイルでした。好き。

ダンスと格闘技術ってやっぱり親和性が高いんですかね。好き(語彙力

 

創作することに自信をなくしている人に観てほしい

キングスマン』もそうでしたが、マシュー・ヴォーン監督の作品は、自分が好き・面白い・楽しいと思ったアイデアを信じて実現する力強さがあると思います。「そうだ、原油の上をスケートさせて近接戦闘させよ」とか、どうやったら思い付くんだろう笑

仮に思い付くことが出来たとしても、私だったらちょっとバカにされそうで披露や提案をするには相当な勇気が要ることのように思えます。

この映画は、どんなに荒唐無稽なアイデアだったとしても、見せ方次第でどうとでもなると証明してくれています。ちゃんとカッコいいんですよね。カッコいいからこそコメディとして可笑しいし。物理的にどうとか、リアルではどうとかではなくて、人の想像力を楽しむ映画だと思います。私は観ていてとても楽しかったですし、どこか救われるような気持ちでした。

 

こういう多くの挑戦をしている映画は創作や表現をする人間にとって、とても励みになると思います。

この映画の主人公も小説家で、筆が進まないことに悩むシーンがありますが、トラブルに巻き込まれるうちに、「結局はやってみるしかない」と腹をくくっていきます。

彼女の場合は、流されるままにという部分もあったのかもしれませんし、全てが創作というわけではなく、体験談を無意識に小説にしていたわけですが、何かを表現するということにおいては、腹のくくり方は同じかな、と思いました。

 

「目の前の1メートルに集中する」ってセリフは、ずっと心に残しておきたいです。

 

良くも悪くも

散りばめられた要素を後でちゃんと拾って、ガッツリ利用してくれるところも好きでした。
ただ、この作品は、「ストーリー展開を先読み出来るかどうか」という点においては割と簡単なほうだったんじゃないかと思います。見せ方と組み立て方が巧いので、そんなに問題にはならないんじゃないかとは思いますが、難解な構造の物語や、いい意味での裏切りを求める人にとっては物足りなさを覚えるかもしれません。(「じゃあ自分で作ってみろ」って言われたら、私はもちろん作れませんが←)

 

まとめ

ストレートに「楽しかった!」という感想を持てる映画でした。

予測を立てながら観るのも楽しみ方の一つではありますが、深いことはあまり気にせずに、「今、目の前で起きている出来事を楽しむ」ということに集中したほうがいい映画かなと思います。

猫ちゃんも可愛いし。

 

以上、映画『ARGYLLE/アーガイル』の感想でした。

映画『ボーはおそれている』を観ました。

鑑賞日:2024/3/9

作品名:ボーはおそれている

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

日常のささいなことでも不安になる怖がりの男ボーはある日、さっきまで電話で話してた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。これは現実か? それとも妄想、悪夢なのか? 次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

引用:下記サイトより

happinet-phantom.com

 

概要

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編3時間ほど(179分)と結構な長さですが、体感的には2時間くらい、通常の映画と同じくらいに感じました。

R15+。

元々30分程度の短編だったそうですが、作りたいシーンを作って繋げていった結果、3時間になってしまったという感じなのではないでしょうか。

『ミッドサマー』ディレクターズカット版のみ履修済み。

他のアリ・アスター監督作品は観たことがないです。

 

感想

「What do you mean? (つまり?)」

観終わって第一声、思わずそう言いたくなる映画です。

正直、全体としての意味は全くもって解りませんでした。


ただ私の好みの映画ではありました。

カタルシスもなければ、どんでん返しもなければ、オチと言えるものもない。

しかしそれこそがこの映画の魅力であり、面白さなんじゃないでしょうか。

アリ・アスター監督作品といえばホラー映画という鮮烈なイメージがありますが、この作品はホラー映画とは少し違うジャンルだといえます。確かにホラー要素は含まれてはいますが、今回はそれは主軸ではありません。

昨今、映画というコンテンツそのものの主体が、深い意味だとか、強いメッセージ性だとか、驚きや意外性なんかを求めることになりつつあると思います。この作品はそれらに対するアンチテーゼなんじゃないかと感じました。

「別にそんな大仰なもん無くったって、映画は作れるよね?」

というような。

 

私の中の結論

制作側がどういう意図で作ったのか、私には判りません。

ただ、この作品に対する私の結論は、「作中で起こる全ての出来事に実は大きな意味なんて無い。それなのに観客側が作中の何かと何かを勝手に結びつけ、意味を見出そうとしてしまう映画」です。

 

観客は、何かと何かを無意識に結びつけてしまいおそれを感じているボーと同じ状態になっている、とも言えるのかもしれません。
そして、作品にある種の主体やテーマのようなものが無くとも、映画は映画たり得るということを証明するための挑戦でもあったのではないでしょうか。

 

ボーへの一体感と乖離感

ボーは極度の不安症(統合失調症とも言えるかも)で、おそらく発達障害も持っているのではないかと思われます。確定は出来ませんし、したくないですが、ボーは生まれた直後に床かどこかに落とされて頭を打ったようなので、それが原因に含まれている可能性もあるのかもしれません。

 

ボーはどんなことでもとにかく悪い方向に捉えてしまう思考の癖と、強い認知の歪みがあるようでした。観客は作品を通してそれらを疑似体験することになります。
特にセラピストとの対話から裸で交通事故に遭うところまでのパートは、彼の不安を強く体験できました。ボーと同じ不安に駆られ、なんとなく精神的に追い詰められる感覚が私にはありました。
決まりを守らず薬を飲んだから良くない副作用があるかもしれない。

危険な蜘蛛が部屋の中にいたらどうしよう。

自分が居ない間に誰かが勝手に部屋に入ってきてしまったら。

家族に連絡をしたら何を言われるだろう。

そんな些細な不安は誰にでもあるのではないでしょうか。ボーの場合はそれが極端に強く酷い状態ではありますが、私はそれを自分事のように観ていることが出来ました。日常の不安あるあるです。

 

交通事故から先のパートは観客の身近な出来事から次第に乖離していくので、もう少し客観的に観られるようになってきます。

事故後に医者一家に助けられ、そこで問題が発生。そこから逃げ出して森の集落へ、その集落で見る芝居の中へ。現実からどんどん乖離していきます。この辺りのパートは不安の疑似体験というよりも、主人公から一歩引いて距離ができ、何かを考える余裕が生まれます。「どういうこと?」「こういうこと?」「これは、この人は、何の象徴?」などと仮説を立てさせつつも、矛盾だらけのパート。
医者とはいえ、轢いた人を自宅に連れ帰るか?
この家の娘さんはなんの象徴?
森の中に集落なんて、『ミッドサマー』よろしく、またカルトなのか?
演劇のストーリーが、ボー自身の話にそっくりってどういうこと?
と、不信感と懐疑が続きます。

 

森の中の集落でも問題が発生し、実家へ戻ってきたパートになると、ようやく答えを提示してくれる。のかと思いきや、そんなことはありません。ストーリーの内容に意味があるように見えて、やはり支離滅裂。初恋の人は腹上死するし、死んだと思っていた母親は生きているしキレられるし、信頼していたセラピストも裏切ってるし、なんだこれは。混乱の極みです。真相に辿り着くと見せかけて、やっぱり何もかもがおかしい。いや父親、何があったんだよ……苦笑

 

実家でもやはり問題が発生し、ボーは湖から小舟に乗って逃げ出しますが、また追い詰められてしまいます。水上での裁判でようやく答え合わせをしてくれるのかと思いきや、最後の最後まで何一つ明かされません。いや、本当に何も明かされません。本当に。笑

観客の誰もが「一体なんだったんだ……?」となるでしょう。

全てバラバラのパートに見えますが、支配的かつ高圧的な母親への怯えや、あらゆる他者への不信感、環境に対する不安が根底に存在することで、各パートを全体のストーリーとして繋ぎ合わせている…… ように見える…… だけかもしれない……

正直、解らない。何も解らない。そこが面白さの素になっている。と思いたい←

 

期待しなければ失望もしない?

観客の誰もが、「きっと最後は何らかの種明かしをしてくれるはず」と期待していたことでしょう。ですが、この映画は最後まで観たところで何一つ説明されません。
例えば、「ボーが見たこと、聞いたことは、幻覚や幻聴で、全ては彼の妄想であった」とか、「これらの体験は全て彼の夢であった」とか、あるいは「この作品の中では本当にそういう世界である」とか、「部分的には幻で、部分的には現実である」とか、そういった説明となるようなパートは一切ありません。そう、一切。何もかもがよく解らないままに終わります。

 

エンドロールの最後の最後まで映像は流れ続けますが、いくら期待しようとも本当に何も起こりません。ボーが乗っていた小舟は爆発して転覆したままだし、ボーが生きているのかも不明、母も検事も傍聴人たちも全員いなくなっていき、空っぽになった会場が映され続けてはいるものの、そのまま終了。映画館内の照明が点灯し、間接的に「さあショーは終わったよ、帰った帰った」と突き放されます。呆気に取られる人が大半でしょう。

観終わった直後に、「あのシーンのあれはこういうメタファーで、」などと語ることが出来る人はいるのでしょうか?

いや、おそらくいないのでは?

ある人は「3時間の地獄だった」と言い、ある人は「出来事を羅列していただけ」と言いました。

私にもっと教養があったら、また違う感想になったのでしょうか……
まあ、私のようなおバカさんはというと……
大喜びでした。

 
人に薦めはしないけど

私はこんな映画があってくれることが嬉しかったです。作品が面白かったとか、つまらなかったとか、そんなことよりも、こんなふうに何もよく解らない映画だって、ちゃんと映画たり得るし、私はそれを楽しむことが出来たんだ、と思えることが嬉しかったのです。

好きか嫌いかという問いであれば、「私は好きだ」と答えられはします。しかし、映画の出来としてどう思うかと問われたら答えようがありません。だって意味が解らないんだもの。

 

ただ、3時間飽きさせずに観せることが出来る映像の力は確かにあります。音やビックリでごまかしているところもあるのかもしれませんが、それはテクニックとも言えます。効果を駆使してメリハリをつけることは、おそらく監督の得意分野なのでしょう。ストーリーが進む毎に、何か起きるはず、何か起きるはず、と期待してしまうのです。実際、何かは起きますが、求めている展開とは全く違うことがどんどん起きます。


おじさん同士がお風呂場で揉み合うシーンだって、エレインとのセックスシーンだって、「ねえ長いって、もういいって」と思う瞬間は何度もあります。が、これらもわざとなんじゃないでしょうか。
それでも、「最後にはきっと」と、ある種の希望を抱えたまま観てしまうのです。そうして結局何も説明されないまま、観客は映画の世界から、現実の世界へとキャッチ&リリースされます。
「いや伏線なんかないし、ないものは回収しないよ?」と嘲笑うかのような残酷さ……

これを作品として世に送り出すことの勇気たるや。皮肉でもなんでもなく、それは賞賛に値すると思います。

 

もしかしてだけど……

「……全てにおいて意味なんか無いんじゃないの?」
そう思った時、メタファーだの、テーマだの、考察だの、何かを拾おう拾おうと必死になっている自分が滑稽に思えて笑えてきました。
ようするに、「監督に一杯食わされているだけなのでは?」という見方です。
私の中ではこれが「この映画を楽しむ方法」としての結論になりました。

アリ・アスター監督作品=ホラーというイメージを逆手にとって作られているのでは?」という可能性です。

 

物語を作る時のルールの一つに「チェーホフの銃」という概念があるそうです。
ざっくり説明すると、
「物語に関連性のない銃であるならば、舞台上に置くな。なぜなら、観客はその銃を物語のどこかで使うものとして観てしまうから」というようなことです。
ようするに、「物語に不要な情報なら初めから入れないようにしようね」ってことなんですが、この映画のほとんどは、その不要な要素みたいなもので出来ていたりするんじゃないでしょうか。それら同士を繋げることに、実は意味なんて無かったりして……という。

 

人は点と点があると何故か自然と繋げたくなってしまう生き物ですよね。線になることで意味が見えるようになるんじゃないかと、つい思ってしまう。例えば「このスイッチを押したから、あの電気が点いたんだ」と関連付けてしまうような。実際には2つの配線は繋がっておらず、偶然タイミングが合ってそう見えただけだったとしても。この映画はそれの集合体だったりするんじゃないでしょうか。

 

好き勝手言ってますが

もし全てにちゃんとした意味があり、深いテーマに繋がっているのだとしたら申し訳ないです。しかし、そうだったとしても、私にはそれらをきちんと受信することが出来ませんでした。要素同士を繋げることで、いくつかの筋書きや意味付けをすることは出来ても、私の知識では納得できる答えは出せませんでした。ゆえに、「この映画は監督のトラップなのでは……?」と思うことでニヤニヤに至ってしまいました。

 

自分で楽しみ方を発見しないといけない映画ではあると思います。こういう作品は人を選ぶでしょう。少なくとも私は、この映画に対して「つまらない」という評価はしたくありません。

はっきり言って、意味は解らないです。意味は解りませんが、存在意義は大いにあると思っています。この作品は、少なくとも私にとっては「新しい映画体験の一つ」になってくれたので。

 

余談ですが、裁判のシーンでボーの弁護士が落下し、顔面を岩にぶつけて死ぬシーンは『ミッドサマー』のセルフオマージュではないでしょうか。
しかし、それすらも、「観客にそう思わせること」「観客が自分の知識や既視感と結びつけ、勝手に意味を見出すこと」自体が狙いで、意味など無かったりするのかもしれないですね。

 

それと、思い出したことが一つ。

映画の冒頭、一番最初にMW社(モナ・ワッサーマン社=ボーの母親の会社)のロゴマークが表示されていたと思うんです。「A24」とか、この映画を提供・配給している実際の会社のロゴ群が表示された後、すぐにです。

もしかしたらこの映画、MW社による「患者の症例を紹介する動画」だったりするのでは、なーんて。まあ何にも解らないです。「監督に踊らされてるだけなのでは?」って気がしてきちゃうので、これ以上は考えないようにします。

まあ、踊るのも楽しいですけども。

 

以上、映画『ボーはおそれている』の感想でした。

映画『哀れなるものたち』を観ました。

鑑賞日:2024/2/23

作品名:哀れなるものたち

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。
天才監督ヨルゴス・ランティモスエマ・ストーンほか、超豪華キャストが未体験の驚きで世界を満たす最新作。

引用:下記サイトより

www.searchlightpictures.jp

 

概要

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編2時間21分(141分)と、そこそこ長め。

R18+。

原作があるようですが、それすら知らない状態で鑑賞。

 

R18とはいえ、性描写のシーン入れ過ぎでは……

そういうシーンが苦手な人は注意が必要です。

想像の3倍はシてると思ったほうがいい←
どれも煽情的な映像とは言い難いと思うので、エロの文脈で採用しているわけではないんだろうな、ということは伝わります。ただシュールというかなんというか……

それとグロテスクなシーンもあるにはあるので、そこも注意が必要です。

 

肝心の内容は、私には難しくてよく解らなかったかも……?

解釈間違ってるかも……?

というのが正直な感想です。

 

シンプルにまとめると、「他者によって異常な方法で無理やり誕生させられた一人の人間が自立するまでの成長譚」という感じでしょうか。

 

とはいえ、いろいろ思うところはあったので、整理していきたいと思います。

 

感想

演出面の私的な解釈

身体は大人で頭脳は幼児状態の時代は白黒映像で、"冒険"に出て初めて性行為をするシーンでカラー映像に切り替わります。また、冒頭の身投げをするシーンでもカラー映像でした。この表現は「ベラ(ヴィクトリア)が幸せかどうか」ではなく、「自分の意思で何かを実行出来ている状態」、「人生の決定権を自身が持っているとベラ(ヴィクトリア)が思えている状態」を表しているのかなと思いました。

 

「ベラから見た世界の色を表している」というのもあるかもしれませんが、それだと身投げした時も白黒じゃないとおかしいような気がしてしまいます。

加えて、登場人物とは関係のない第三者目線のカメラワークが挟まれることがあり、キャラクターと観客の間に何か距離を設けているように感じました。そのため、映像の色切り替えは、ベラの心情を理解する上での情報の補足でしかないのかも、とも思いました。

 

なので、私の中では「この作品はあくまでベラたちの物語であって、観客のあなたはそれを覗き見しているに過ぎず、これらの演出はただ手掛かりを与えているだけ」という解釈になりました。

 

ベラの人生は幸せと言っていいのかどうか

道中がどうであれ、ベラにとってはどんなことも貴重な体験で、それらを経験したからこそ成長し、自立する術を身につけた、というふうに捉えられると思います。表面上は。
もちろん、ベラにとっては間違いなく成長と自立の旅だったでしょうし、最終的には幸せになれたのではないかと思います。

未知の世界に触れることで、あらゆることをどんどん学習し、吸収していく姿は、確かに前向きな気持ちにさせてくれる部分もありました。


しかし、第三者から、少なくとも私からベラの人生を見た場合、彼女が自立するまでの道中は、地獄そのものに見えてしまいました。

 

地獄の始まり

ヴィクトリア(のちのベラ)は、"モンスター"とまで思っていた自分の胎児の脳を移植され、肉体だけとはいえ無理やり生き返らせられました。ヴィクトリアは死にたかったのに死ねなかった。死んですら実験体にされてしまいました。「自らの意志で死ぬ自由」すら奪われたということです。そこには当然、彼女の意志を尊重する気持ちなど存在しません。

ゴッドとしては「妊婦のフレッシュな死体を偶然見つけちゃった、自分の研究に使っちゃお、ラッキー」ぐらいの気持ちではないでしょうか。

 

箱庭

大きな赤ちゃん状態のベラは、外の世界をほとんど知ることなく、いわゆる箱庭の中で暮らしていました。これは「保護されていた」とも言えますが、「支配されていた」とも言えます。「あらゆる危険からベラを守るため」というのもあるとは思いますが、それよりも、ゴッドの「自分の行いと研究を秘匿するため」のほうが動機としては大きかったのではないでしょうか。

また、この時点のベラには、善悪、倫理観、人間の尊厳、性に関すること等、作中で言うところの"社会的良識"は一切教えられていないであろうことが窺えます。

 

これは単なる私の妄想ですが、ベラが「外へ行きたい」と言い出さなかった場合、またはその意思を無視した場合、ゴッドは自分にとっての理想的な環境で"社会的良識"を教えないままベラの脳が大人になるまで育てるつもりだったのではないでしょうか。そして、そういう環境で育った人間がどんな人間になるのかを、蘇生技術と共に自分の成果物として発表するつもりだったのではないでしょうか。

私だったら、自分の親から「あなたは最高の実験体だ、あなたの人生は私の成果物だ」などと言われ、「自分の人生の歩み」や「出自」について発表されることになったら、正気でいられそうにありません。婚約者であるマックスはおそらくその実験には加担しないでしょうから、あくまで妄想ですが。

 

結局ゴッドは、いつの間にか芽生えてしまっていた親心から、ベラを外に送り出すことにしました。しかし自分の死期が近いと知ると、また別の実験体を見つけだし、同じ行為を繰り返します。科学者としての性(さが)と言われればそれまでですが、それは誰かの命を自分の好き勝手にしていい理由にはなりません。単なる身勝手です。というか、似たような状態の死体をよく見つけられたよね←

 

新しい実験体を手に入れ、研究を完成させたいと、感情を捨てて冷酷な科学者になろうとしたゴッド。ですが、結局ゴッドは自分の死や研究どうこうよりも、娘同然のベラが出て行ってしまった寂しさに耐えられなかっただけではないでしょうか。娘の代わりを見つけてどうにか心の穴を埋めようとしてみたけど、やっぱりベラではないから愛着が湧かない、というような。どこまでも身勝手だな……

そんなんでも最期はベラに看取ってもらえたんだから良かったね←

 

旅立ち

無知で好奇心旺盛なベラは弁護士のダンカンにそそのかされ、一緒に"冒険"に出発し、初めての性行為に至りました。ベラが元から知的好奇心・性的好奇心が強いというのもありますが、相手が「身体目当ての男」ということが判らないまま、彼について行く選択をし、性行為がどういう行為なのかを理解しないまま(誰からも教わらないまま)、「幸せになれる」、「"熱烈ジャンプ"出来る」と、何度も繰り返しました。


「ベラの見た目は成人女性だし、ダンカンはベラの生い立ちについて説明を受けていないから、ベラの特性を知らなかっただけでは?」という考え方も出来なくはないでしょう。しかし、人としてベラと接していれば、マックスが気付くことが出来たように、彼女が世界のあらゆることに無知であるということには気付けたはずです。もちろん性のことについて無知であるということにも。

 

ダンカンは自分にとって都合の悪い部分について、わざと見て見ぬふりをし、"駆け落ち"という名目を使って、「自分の欲求を満たすためのオモチャ」としてベラを連れ出したのでしょう。「最初は遊んで捨てるつもりだった」とも言っていましたし。相手が無知のまま性行為に至らせることは罪深いことだと思います。彼の行いは、いわゆるグルーミング(※)にあたるのではないでしょうか。
※ 大人が子供を性的な目的で手懐ける行為のこと

 

社会的良識を身に付けるまで

美味しいタルト、音楽、アルコール、哲学、貧富の差など、ベラにとって心揺さぶられる学びはいろいろはありましたが、旅の途中でどうにもお金が必要になり娼婦をすることに。性行為が本来どういうものなのか、ベラはいまだに知らないままなのに、です。ベラの中には性行為に対して善も悪もないので、ほとんどフラットな精神で娼婦になったのでしょう。むしろ、「ちょっとの時間で性行為するだけでお金をもらえる」ぐらいの認識で。

 

しかし、娼館で働くようになり、性行為をすることで「悲しい気持ちになることがあっても」と口にしました。この辺りでようやく性行為によって生じる負の感情にも目が向き始めたのではないでしょうか。

それでも口答えをすれば娼館のマダムから制裁を受け、娼婦が産んだ赤ちゃんを見せられ言いくるめられ、自分なりに苦痛に耐える方法を試しながら仕事を続けることになります。

 

この場所では自分に選択権はないと突きつけられたことで、選ぶのはいつでも買う側で、買われる側の自分には「相手を選ぶ権利」も「拒否する権利」もないらしいと理解します。そうしてベラは「自立すること」、「自分が選択権を獲得するにはどうすればよいか」について考えるようになりました。

 

とはいえ、もっと違う道を辿ることで、この考えに至ることも出来たはずです。ベラは"冒険"に出た時から、自分の人生の全てを自分で選んできたつもりでいますが、実際は周りの人間に振り回された末、ここに至っています。しかし本人はそのことには気付いていません。この構図が私には結構な地獄に見えてしまいます。
もちろん性行為や娼婦という職業が悪いという意味ではありません。そこに至った過程に問題があるという意味です。

 

故郷へ

ベラはゴッドの死が近いと知り帰郷、自分の生まれの真実を知り、婚約者であるマックスと結婚しようとします。この辺りからベラは今の自分を受け入れ、自分に芽生えた意思と知性を尊重することを決意していく姿が描かれていました。医者になる夢をゴッドに告げたり、社会主義の集いに参加したり、解剖について学ぶ姿から、ベラの成長を感じられます。

 

しかし結婚式の際、ヴィクトリアの元夫であるアルフィーが現れます。ベラの身体が元々歩んでいた人生、ヴィクトリアの痕跡。なぜ、このタイミングで来てしまったのか。完全にダンカンの逆恨みです。

 

哀れなダンカン

ダンカンは、初めはベラを「簡単にコントロール出来る世間知らずのチョロい女」だと思い、ほんのお遊びのつもりで連れ出しました。しかし、ベラが自分の思い通りに行動してくれないことに腹を立て、むしろそこに魅力を感じ、本気になってしまいます。

ですが、ベラの気持ちが自分に向いていないと解ると酒とギャンブルに溺れ、しばらくベラに構いもしなくなりました。そんなベラの手によって彼は一文無しに。

うまくいかなくなった人生の全てをベラのせいにして、しつこく付きまとっては当たり散らしますが、ベラから暗に「私にお前はもう必要ない」と告げられたことで、精神疾患に陥り監禁(入院?)される身となりました。

確かに浅慮な善意からダンカンのお金を無断で人に渡してしまったのはベラですし、ベラにも悪い部分はあります。ですが、彼の所持品は彼が自分で管理すべき物なので、ベラを責めるのはお門違いです。そもそも彼女は善悪ですら学んでいる途中でした。

自分のことしか考えず、飲んだくれて眠っていた君が悪いと思う、ダンカン。

 

それと、これは劇場でのこと。ベラに相手にされなくなりダンカンが冷たくあしらわれているシーンが何度かありましたが、そこで笑いが起きていました。私には理解できない感覚でした。

彼の身に起きたことは全て自業自得ですし惨めな男ではありますが、酷く哀れでもあります。コメディとして観ることも出来るタイミングのシーンではありましたが、私には笑えませんでした。本気で失恋して、しかもその失恋相手に宥められながら悲しむ人を観て、何が可笑しかったんだろう……

 

とまあ、それは置いておいて、ベラはもう一人の自分、身体の主であったヴィクトリアの人生に興味を持ち、アルフィーについていってみることにしました。

 

「ヴィクトリアの気持ちが解った」

元々住んでいた家に行き、ヴィクトリアがどのような人だったのか、使用人にどんな態度を取っていたのか、夫であるアルフィーからどのように扱われていたかを知りました。

 

アルフィーも相当な地獄の作り手です。

「女性を子供を作る機械としか思っていない」の典型でした。気に入らないことがあればすぐに銃で相手を脅し、自分に服従させようとします。

ベラが娼婦をしていたことを知るとアルフィーは激怒。ベラを薬で眠らせ、彼女の性器を切除してしまおうと計画していました。これはベラを一人の人間ではなく、自分の所有物としてしか見ていない証拠です。

その企みに気付き、彼に詰め寄るベラ。銃を向けられクロロホルム入りのジンを飲むように脅されますが、ベラは強い意思を持ってこれを拒絶し、銃を奪い取って彼の足を撃ち抜きます。

私から見たベラの地獄はようやくここで終わりを迎えます。ですが、また別の不安要素が現れます。

 

ゴッドへの一歩

ベラはアルフィーを連れ帰りました。撃ち抜いた足をマックスに治療させ、ヤギの脳を入れることにします。庭の草を食べるだけになったアルフィーは元の人間よりはマシ、むしろ有益とすら思えます。

しかし、これはアルフィーの自由意志を奪ったということでもあり、ベラがゴッドたちと同じことをする人間になってしまったとも捉えられます。

 

そうしてベラは、医者になるための勉強や研究を行いながら、家族のような人たちとペット(?)たちと過ごす、という最後。
ハッピーエンドのように見えますが、このまま行くと彼女もゴッドのように実験体を探すようになってしまうのではないか、と思えてしまいました。

 

キャラクター全員が哀れなるもの

私から観ると、主要キャラクター全員が「哀れなるもの」でした。


科学者である父親から実験という名の虐待を受けた過去がありながら、その父親と同じ科学者として成功したいゴッド。

 

暴力的かつ支配的な夫の子を身籠り、恐らくあらゆる理由があって追い詰められ、自ら死を選んだにも関わらず、生き返らせられてしまったヴィクトリア。

 

成人女性の身体に胎児の脳を移植され、箱庭に閉じ込めて育てられ、自分の意志で"冒険"に出て自分で選んだ人生を歩んできたと思い込んでいたベラ。

 

ベラを心から愛しているものの想いが伝わり切らず、他の男と"冒険"に出て行かれてしまったマックス。

 

お遊びのつもりが、いつしか本気になってしまい破滅したダンカン。

 

恐怖で支配することでしか人と関われず、最後はヤギの脳を移植されたヴィクトリアの元夫アルフィー

 

二人目の実験体として生き返らせられてしまったフェリシティ。

 

タイトルの通り、「哀れなるものたち」の物語。

それでも、それぞれにいくらかの救いはあったのかな。

 

フェミニズム映画と評されることへの違和感

フェミニズム映画」と評する人もいるようですが、そうでしょうか。

私は特にフェミニズムに詳しいわけでもないので、口を挟むべきではないのかもしれませんが、その視点でこの映画を観た場合、「フェミニズム」という表現で合っているのかどうか、いささか疑問を感じます。

確かに、最終的にベラは、旅を経てあらゆることを学び吸収し、自分の意思で人生を歩み出しているので、その点を鑑みれば「フェミニズム映画」と言うことは出来るのかもしれません。


中には、「女性の性行為の自由について訴えている」という意見があり、これには強い違和感がありました。

というのも、この映画は6〜7割程度のシーンが性行為や性に関するシーンで占められている印象です。そして、性行為をしているのは、性に対して無知な状態のベラである場合がほとんどです。

 

仮にベラが、序盤から性に関する行為がどういうものなのかを理解しており、そのうえで、「自分の身体は自分のもので、自分の自由にしていい」という認識のもと、ダンカンについて行き、あらゆる男性と性的な行為をし、性の職に就き、ということであれば、「女性の性行為の自由について訴えている」というメッセージと捉えることも出来るのかもしれません。

 

しかし、ベラは終盤まで性行為に対して快感・不快感以外のほとんどを知らない状態です。妊娠するかもしれないこと、性病にかかるかもしれないこと、怪我をするかもしれないこと、自分の身体に触れることを相手に許すことにはどんな意味があるのか等、最低限知っておかないといけないことは様々あるでしょう。ですが、ベラはそれらを知らない状態のまま性行為をしていました。それはベラにとって本当に自由意志と言えるでしょうか。

 

おそらく娼館で出会った女友達、あるいは恋人にも見えましたが、彼女から社会主義の集いに誘われた辺りで、ようやく性に関する様々も学んだのではないかと推察します。それまでのベラにとっての性行為は、気持ちいいこと、面白いこと、興味深いこと、でも嫌なこともある、ぐらいの認識しかなかったのではないでしょうか。

そんな状態だったので「この作品は女性の性行為の自由について訴えている」という意見には私は全く賛同出来ませんでした。

 

他の方の感想で気付いたこと

「胎児の脳は男性とも女性とも判らない」と書いている方がいてハッとしました。確かに。私は完全に女性の脳だと思い込んで観ていました。というか、そもそも脳の性別がどうとか、そんな意識もなかったです。

仮にベラに移植された胎児の脳が男性の脳だとしたら、と考えてみましたが……

それでも道中は大して変わらないかもしれないな……?

 

むしろ「ベラの脳は男性の脳である」と言われたほうが、しっくりくるまであるような。ただ、そう感じてしまうのは「無意識な偏見」というやつだと思うので、この作品を観るにあたっては、あまり深く考え過ぎないほうがいいのかもしれません。

 

まとめ

映像はオシャレ。音楽も面白い。配色が美しい。衣装も奇抜。俳優陣の演技も素晴らしいし、苦労も相当しただろうと思います。なので、それらは評価されていいとは思います。実際、賞もたくさん獲っていますし。ただ、ストーリーに関しては……うーん……

 

私から観ると、この映画は、「一人の人間の成長譚」でもありますが、「性に関する地獄のストーリー」という側面も持っているように見えました。

なので、興味深いという意味では面白いとは思いますが、この映画を素直に賞賛することが出来ない、というのが正直な気持ちです。

 

作品にはいろんな見方があって、いろんな意見があっていいと思います。自分にとって良い悪い好き嫌い面白いつまらない、それこそ自由です。今回は考えることが多くてなんだか大変な映画でした。それが映画の面白いところでもあり、好きなところでもありますが。

 

以上、映画『哀れなるものたち』の感想でした。

 

 

おまけ

かなり偏った余談1

「(年齢差があろうが)本人がいいって言ってるんだからいいじゃないか」、「(相手が何歳だろうが)本人の意思を尊重しよう」みたいなことを言う人がいますが、私は一概に「いい」とは言えないと思っています。一方で、「状況による」とも思っています。

 

誰かを好きになること自体は、どういう関係性であれ自由だとは思います。

ただ、性行為に関しては、相手が何歳であれ、両方ともがそれに関してあらゆる知識を得ていて、責任能力(判断能力)があり、それらを踏まえたうえで、本人の決断かつお互いの合意がある、ということなら、それは自由意志だし、尊重されて然るべきだと思います。

ですが、そうでないのであれば、「それは本当に自由意志と言えますか?」という話で。「自分にとって都合の悪いことを隠したり、相手を騙したりしていませんか?」という話で。相手を本当に思いやるなら、あらゆる開示はしたほうがいいよね。

 

性行為に限らず、何も調べたりせず好奇心だけの「やってみたい」という動機しかない人に、リスクを伴うことも教えずに後押しする人はいないと思うのですが……

なんで恋愛とか性の話になるとハードルが下がっちゃうんでしょうね……

もちろんこれは、全く関係ない人間が口を挟んでいいことではないので、当事者同士&保護者たちでちゃんと話し合って完結してね、って感じですが。

 

かなり偏った余談2

これも性に関することとは限りませんが、いろいろあった末に、「そうは言っても自分で選んだんだから」なんてことを言う人がいますよね。

この映画で言うと、ベラの場合、自分が無知であることに気付けないまま性の仕事に就きました。そういう過程を辿っている場合、「自分で選んだ」とは言えないと、私は思います。

知性と理性を獲得したベラは、過去のことを後悔したり恥じたりしている様子はなかったように見えましたが、心の中は分かりません。罪悪感を持っている部分もあるかもしれないし、誇りに思う部分もあったりするかもしれません。

 

なんにせよ、「ああ、今自分はイヤなんだな」って気付いた時点で、逃げ出したり、誰かに助けを求めたりしてもいいし、「あの時、自分はイヤだったんだな」って、後悔したり、反省したり、落ち込んだりしてもいいに決まってる、って私は思ってます。

自分の人生の全てを肯定できる人って、そんなにはいないと思ってるので。

苦しんでいる最中に、無理に肯定を選ばせようとしてくる人は、私はあんまり信用できないです。それに、「あなたに私の何が解るのか」と思ってしまいます。

私はまず「自分は苦しんでるんだ」ってことを「苦しんでるんだね」って肯定してほしいです。「自分で選んだんだから、今を受け入れなよ」なんて言わないで、「別の道を探そう」とか「ちょっと休憩しよう」とか言ってほしいですね。

まあ、そんなことを言ってくる相手でさえ見極めなければいけないんですが←

 

かなり偏った余談3

「社会的良識なんてクソくらえ」という意見自体は、私も肯定したいところですが、それは社会的良識を身に付けたうえででしか言えないことだと思います。

「社会的良識を身に付けたうえで、クソくらえという振る舞いを自ら選択している状態」と、「社会的良識を知らないまま奔放に振る舞っている状態」とでは意味が違うので。

この映画の主人公であるベラは、ほとんどのシーンで後者ですよね。

なので、この映画の感想としては、その意見は違うかなと思いました。

 

とはいえ、自分に社会的良識が備わっているとは全く思えないから、その意見は一生掲げられないかもしれないけど←

 

かなり偏った余談4

主演のエマ・ストーン氏が映画の制作側でも関わっているというアピールが、私としてはあんまり印象よくないなと感じています……

新しい某アトラクション施設を作った人も「有能な女性社員が花魁のアトラクションを企画してくれて」みたいに言ってましたが、内容がどうであれ「性に関わるコンテンツだけど、女性からも意見をもらって制作してるから大丈夫」みたいな免罪符的な扱いに感じてしまったり、「私たちは男性ですが、女性の意見も聞き入れていますよ」みたいなポーズに見えてしまったりして、よく解らない心配をしてしまうという。でも、そういう謎の心配が女性の社会進出や権利獲得を邪魔しているのかも、とも思うし……

この感情をどうしたものかと、勝手にモヤモヤしています…… 

 

かなり偏った余談5

この映画のCMで「もし女性としての生き方を、一から選べたら?」とか言ってましたが、その紹介の仕方で大丈夫なのかな、とか。

「女性としての生き方を選んでる」って言えるのかな、この映画。

確かに好奇心のままに生きてるし、自由だったとは思うけど。

映画を観る前にテレビでこのCMを観てしまい、その時点で「そんな宣伝文句で大丈夫か?」となってたし、観た後も、やっぱり私にはしっくりこなかったです←

 

おわり。

ゲーム『Ghostwire: Tokyo』をプレイしました。

プレイした日:2024/1/22〜2/15ぐらい(約25日間)

作品名:Ghostwire: Tokyo(ゴーストワイヤートウキョウ)
開発元:Tango Gameworks
発売元:ベセスダ・ソフトワークス
プレイしたハード:PS5

 

※ネタバレをいとわない形で書いていきます。未プレイで中身を知りたくない方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

謎の般若面の人物によって引き起こされた大規模な超常現象により、東京の人々は一瞬にして消失してしまった。Ghostwire: Tokyoの世界でプレイヤーは、謎の復讐者と手を組み、強力な能力の数々を習得しつつ、未知と対峙し、大規模人体消失の裏に潜む真実を暴いていく。

 

引用:下記サイトより

bethesda.net

 

概要

ノーマルモードでクリア。

寄り道しまくって78時間ぐらいでストーリークリアしました。

ストーリークリアだけなら多分40時間もかからないぐらいだと思います。

クリア後の探索・アイテム収集などの時間も合わせると100時間ぐらいはプレイしました。

 

CERO:C(15才以上対象)なので、学生さん向けでもあるのかな。ホラーゲーム初心者とか、オープンワールド初心者とかにはちょうどいいのかもしれないです。

 

なんちゃって渋谷観光オープンワールド風ライトホラーFPSゲームといった感じでした。確かに街の作り込みはすごいと思いますが、現実の渋谷と違うところは多いんじゃないかと思います。

 

ゲームとしては、オープンワールド風のテンプレシステムに、渋谷の街並みと和のテイストを乗せた感じのもので、目新しいゲーム体験ができるような作品ではなかったです。どれもこれも見たことのある要素で、それらを継ぎ接ぎしただけな感じに見えてしまいました。ホラー要素もありますがほぼ怖くないです。作るのが大変なのは重々承知しているつもりではありますが、やはり不満点のほうが多く感じてしまいました。

 

感想

コントローラーからの声

主人公(伊月 暁人(いづき あきと))の死体を乗っ取り損ねた霊が右手に宿り相棒(KK)になるという設定で、コントローラー側から相棒の声が聞こえる演出は臨場感があってよかったです。

とはいえ、通常の会話や、仲が良い時の会話は楽しいですが、相棒の意にそぐわないことがあった時に文句を言われるのは結構イライラしました。

例えば、バトル中に攻撃に当たった際、「避けられないなら守りを固めろ!」と言われたり、目的地と違うほうへ行こうとした際、「あの幽霊を追うんじゃなかったのか?」と言われたり、間違って霧のダメージゾーンに入ると「それ以上入るな!死にたいのか!」みたいに怒られるんですよね。その度に「いちいちうっせぇな……勝手に乗っ取ろうとしてきたのお前のほうだろ、文句を言われる筋合いは無いと思うが?」みたいになってました。好きにさせてくれ……

 

ストーリーについて

かなり薄味で引きが弱く、フックになる部分が浅いために、「早く本編を進めたい!」という気持ちになれませんでした。よくある話の骨組みで、残念ながら驚きも新しさもないストーリーでした。その上いろいろはっきりさせないのも良くなかったと思います。そこも含めてよくある話になってしまっていました。

「100%以上の幽霊を集めてストーリーをクリアする」みたいなトロフィーがあるので、もしかすると「集めた幽霊の数でラストが変わったりするのかな?」とも思いまいしたが、もはや確かめる気にもならなかったのでやってません←

 

寄り道へのハードルの低さ

良くも悪くも、サブクエストや探索など、寄り道へのハードルはかなり低いです。ただそのサブクエストも、やってもやらなくてもどっちでも、というような内容で、こちらも薄味に感じました。

学校のサブクエストだけは雰囲気が違っていました。ホラーものの遊び心として面白かったので、そこは良かったと思います。

 

収集要素について

とにかく多い。バカみたいに多いです。
KK捜査資料、地蔵、化狸、妖怪の勾玉、幽霊、心霊写真のお祓い、猫又たちの収集品、カプセルトイ、グラフィティ、コスチューム、音声データなどなど。思い出せるだけでもこれだけあります。
集めればそれ相応にいいことがある場合もあれば、「これ頑張る意味あるのかな」みたいなのもあります。どちらにしても必死こいてやるような内容ではなかったです。
シンプルに収集が好きな人とか、フォトモードで遊ぶのが好きな人とかには面白いのかもしれないですが、作業感のほうが強く感じられてしまいました。各アイテムについての説明文は面白かったです。

 

心霊写真のお祓いは、なんで3枚ずつに分けたんだろう。チュートリアルの1枚と、たまたま景色を見つけられた最初の3枚だけしかやりませんでした。ようやく終わったと思ったら「まだたくさんあったはずだ」とか言ってアジトに戻らないといけないの何…… いっぱいあるなら全部持って移動すればよくないか…… 後出しで写真見せられて、見覚えのある場所だと気付けたとて、簡単には辿り着けないし探すのは面倒くささが過ぎる……

それと、もうちょっと写真の画像を大きく見せてほしかったです。手元で持って確認しているせいで、フィールド環境のライトが反射して部分的に白飛び状態に。映っている場所はギリ認識できるけど、どの辺が怖い写真なのかがすごく判りづらかったです。リアルな写真の質感としてはこうなるのかもしれませんが、ここはゲーム的に嘘をつくとか、それこそ別画面で出すとかのほうが良かったんじゃないかと思いました。心霊写真として認識できないので何も怖くなかったです。

 

このゲームについて、「収集する」という点でいくと、一つ一つがそれほど難しくはないがゆえに、「とりあえずやっとくか」程度の気持ちしか湧かず、「楽しくて、つい」とか、「悔しいからもっかい!」みたいなのはあまりなかったです。後ろに行けば行くほど、「やることがあるからやってるだけ」になっていました。

というのも、どのクエストもガワが違うだけでパターンがほぼ一緒なんですよね。妖怪を追って集める。敵を倒して集める。霊視しながらウロウロして集める。でもやったところで大きな得になるようなことはそんなにない…… 基礎ステータスの底上げとかは役に立ちますが、MAXまで上げなくてもラスボスは倒せるし…… なんならラスボス倒した後に探し回ったし…… いやまあそこはそうじゃないと困りますが……

 

それと猫又の収集品。アイテムが落ちている場所のだいたいの表示が複数出せることに最初気が付きませんでした。「さて、集め損なった残りを探すか……」って時になってようやくその設定が出来ることに気付いたという…… 出会った時に全部オンにしとけばよかったよ……

収集品は持ってきて売ることになるのですが、お金がたくさん集まったところで使い道もそんなにないし…… 「猫ちゃんが可愛いから喜ばせたい」以外のモチベーションが……

 

探索について

では「探索が楽しいのでは」と言われるとそうでもない。ほぼ、夜道のビル群を歩いているだけなので、絵変わりもあまりしないし…… 行きたい方向に霧のダメージゾーンがあって入れない、みたいなこともしょっちゅうだし……

私が「オープンワールド"風"」と言っているのはそういう理由です。

 

なんというか、このゲームは楽しむ努力が必要だなと思います。「特に理由はないけど、ビルの上に登ってみよう」とか、「マップ上に鳥居があるから、この付近を見て回ってみよう」とか、自分で自分に提案していかないと楽しめない感じです。「あそこに何か見えてるから行ってみようかな」とかじゃなくて、ずっと「なんか面白いことないかなぁ」って探してる感じでした。

 

ボリューム……?

前述した収集要素の多さを「ゲームのボリューム」と表現されることがありますが、そういうことではないのでは、と思ってしまうのは私だけですかね。

確かに収集要素はゲームのボリュームの一部だとは思います。ただ、一要素だけが大量にあることを「ボリュームがある」と表現することに対して、私は違和感があります。

「ストーリーが重厚である」「サブクエストの内容がそれぞれユニークである」「バトルの戦略性が高い」「独自のゲームシステムがある」「ミニゲームがたくさんある」などなど、方向性の違う楽しさがたくさんあって、それら全部をひっくるめることで「ゲームのボリューム」と表現されるのではないかと私は思っています。なので、このゲームに対して「ボリュームがすごい」という評価はそぐわないかなと思います。物量は確かにすごいですが、ゲームとして面白いかと問われると、私はちょっと言葉を濁したくなってしまいます……

 

バトルのシステムについて

真っ先に思うことは、ロックオンの機能があってほしかったということ。
シンプルにプレイヤースキルが低いというのもあるかもしれませんが、攻撃が当てづらく、とにかくイライラしました。エイムアシスト的な設定があるにはありますが、ほぼ当てにならない←

注視し続けてほしいのに簡単に外れてしまうんですよね。カメラ自体の調整も難しくて最初のうち酔ってしまって具合が悪かったです。

 

炎・水・風などエーテルを飛ばして戦うという設定は面白くていいとは思いますが、全体的にもうちょっと爽快感のあるバトルにしてほしかったです。

前述していますが、まず自分の攻撃がなかなか当たらないことにイライラする。当たったとしても、敵が基本固くて怯んだりもあまりしないので効いてる感じがしない。コアを潰そうとしている時に攻撃されると中断するし、相手はすぐ復活する。攻撃に当たると相棒から怒られる。いろんなイライラが満載で戦闘に対するモチベーションがどんどんなくなっていきました。

戦闘しなくても漂っている幽霊さえ集めていれば経験値は入手できるので、レベルを上げてスキルを解放しまくれば大体はなんとかなるのですが、ゲーム的にそれでいいんだろうか……

 

あとは、地面に向かって輪っか状の攻撃をするやつがいて、ようは「ジャンプして縄跳びのように避ける」というアクションゲームにはよくあるやつですが、基本FPS視点で足元は見えていないので、ジャンプのタイミングがかなり判りづらかったです。避けようとしても当たるし、途中から無視して回復しまくってごまかしてました←

 

マレビト(敵の総称)との戦いについて

「血套法師(けっとうほうし)」という敵がいるのですが、個人的にはボスより何よりこいつが一番厄介でした。空中浮遊した状態で素早く動き回っているので全然攻撃が当たらない。ようやく向かってきたと思って攻撃したら弾き飛ばされる。これに対しては、「いやマジでどうしろと?(怒」となっていました。

対処法としては、おふだでマヒ状態にして、その間に即浄(敵のコアを潰す)するのが一番手っ取り早そうではありました。というか、そもそもこいつと戦うこと自体が相当面倒くさいので、どうしても戦わないといけない時以外は避けてました。

おふだの存在も忘れていて全然使ってなかったし←

なんなら「敵がマヒ状態中なら即浄できる」ってことも、ストーリークリア後の探索中に気が付いたよね←

 

せっかく図鑑的なものを実装しているなら、敵の弱点とか、倒すためのヒントみたいなのがあっても良かったと思います。この敵はおふだが有効とか、火に弱いとか、矢が嫌いとか。

各マレビトの生まれについては記載されていたと思うので、マレビトの弱点を匂わせるような逸話なんかも添えてくれてもよかったんじゃないでしょうか。例えば「極端に水を恐れている」とか「いつも雪を纏っている」とか。私にはあまりいい例が思い浮かびませんが、それはそれとして。

 

「傘を盾として構えてくる敵には火が効くっぽいな」とか、自分で対処法を発見する面白さもあるとは思います。ですが、対処法を見つけられるまでは手も足も出ない、みたいなのはやめてほしかったです。

特に前述した「血套法師(けっとうほうし)」、地面を泳ぎ回る「黒土女(くろつちめ)」、空中浮遊したままエネルギーを飛ばしてくる「照法師(てるぼうし)」、など、若干特殊な敵との戦い方は、本当にどうしていいのかよく判りませんでした。出会ってしまうと一方的に殴られまくり、私の怨みが溜まるばかり←

なので、つむじ風があったり、地面が水面のように波打ったり、雨が逆さまに降りだしたりなど、何かがいる予兆が見えたら、さっさと逃げるようにしていました。戦う楽しさよりも面倒くささのほうが上回っているので。

透明になる「不見鏡(みずかがみ)」もイライラしました。飛ばしてくる物体に気付きにくく、一回当たってしまうと連続で食らうのでかなり体力を削られます。しかも向こうに見つかってしまうと逃げてもしつこく追い回される…… どこまでついてくるんだ…… 天狗を使ってビルの上に逃げても、攻撃だけ追ってきたり……やり過ぎじゃない……?

 

ちなみに、「人型の雑魚たちを片付けるのには、水のチャージ攻撃(斬波みたいなやつ)を最大まで成長させておくとかなりラク」という情報を見かけたので、実際にやってみたら本当にかなりラクになりました。ありがたい……

 

遭遇したバグ

・ファストトラベルしたら無限落下
発生したのは一回だけでしたが、これが一番ビビりました。マップからファストトラベルをやり直したら普通に復帰できたのでよかったですが。フィールドの読み込みが間に合わなかったのかな。

 

・メニュー画面のマップでクリア済みコンテンツのマーク表示をオフ状態にしているのに、ミニマップには表示され続けている
ミニマップだけを頼りにその場まで行ったら何もなくて、マップ開いて閉じたら消えました。なんか無駄に歩いたな。


・インタラクト出来るオブジェクトにインタラクトのボタンが表示されないことがある
これは大きいゴミ箱でしょっちゅう起きてました。何も表示されてなくても、ボタンを押せばインタラクト出来るし、アイテム取得も出来るので、大きな問題にはなりませんでした。『フォールアウト』でもしょっちゅう起きてたので、そんなに気にしませんでした。(開発自体はベゼスダではないですが)

 

まとめ

PlayStation Plusからダウンロードしてプレイしましたが、これにフルプライスはちょっと払いたくないかも、というのが本音です。街の作り込みは確かにすごいですが、そこだけがすごくて、ゲーム性もストーリー性も物足りなかったです。サイバーパンク的な雰囲気を持ちながらも、内容的には次世代ゲームという感じはあまりなく、全体的に垢抜けない印象でした。なので、私としては「かなり微妙なゲーム」というイメージです。至るところに、「ゲームであろうとしている」という意図は感じられましたが、それが逆に芋っぽさを生んでしまっている気がしました。いろんなゲームをプレイした後でこのゲームをプレイすると、「物足りないな」と思うんじゃないでしょうか。


「誰向けのゲームなんだろう」と考えてみましたが、私の中では「親日外国人の方に向けられたゲームなのかな」という結論に至りました。

忍者風(陰陽師風?)のバトルシステム、日本の工芸品、都市伝説、妖怪、昭和から平成にかけて流行したグッズ、コンビニで売っている物まで解説が豊富で、その点はかなり面白かったです。日本の都会の街並みが細かく再現されていて、擬似観光をするにはちょうどいいんじゃないかな、とは思いました。

 

私もこれらの要素はとても好きな部類の人間ではありますが、どうにも生かし切れていないんじゃないかって気がしてしまいました。どうすればいいのかは私にも分かりませんが、何かもっとより良く出来たんじゃないだろうか……

 

以上、ゲーム『Ghostwire: Tokyo』の感想でした。