よんだほん

読んだ本のことを書く

P.F.ドラッカー「非営利組織の経営」第1部だけ

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箇条書き。

 

・全体通して、ほのかに香るマッチョな匂い。げきつよ自己肯定感。「ベストを尽くせばいい」とか「放っておけばいい」とか、「関心を持たない人たちはあまり気にしない」とか、サラッと書いてあるけどそれができれば苦労せんのでは、みたいな。第1部だけで若干胃もたれ気味、別にできないわけでもなくなったが、マッチョな空気に未だ若干の抵抗感を覚えるこの気持ちはどこから来るのだろうか。

・土着コミュニティの喪失が、代替としての非営利組織を生んでいるのではないかというアメリカ。コミュニティのあり方として、日本:職場、アメリカ:非営利組織という対比。今もそうなんだろうか。少なくとも前者は薄れてきているように感じられるが、あくまで一部でしか起こっていないかもしれない。日本において、当著で描かれるようなコミュニティが未だに興らないのがその表れでは。そこのリサーチが難しい。なので、「そうなんだろうか」という疑問。⇄「一般社団法人など様々な選択肢がある中で、今の時代にNPOをやる人は相当な気概」という、ある方の言葉。あっ、でも別にあれか。一般社団法人も非営利組織に内包され得るね。失敬失敬。

・「自己実現」というワードが頻発する。ここに違和感あり。というのは、「人は自己実現のために生きている」というコンセンサスが本邦には存在していないように感じられるから。本邦ではどこまでそれが求められているのか?若干の疑問。求められているのかという疑問を立てるよりは、「表出されていないのでは」という疑問を立てた方が良いかもしれないが。ヒエラルキー型社会、将軍社会、儒教朱子学的社会、お上の言うことに黙って従っていれば良い系社会、プロイセン流軍隊教育社会、まあなんとでも言えそうだけど大体そんな感じの文化が脈々と流れていそう。ここが歴史の浅いアメリカとの違いかもしれないし、インセルトランプ大流行超格差社会アメリカとの不思議な共通点だったりするかもしれない。ちなみにこれは超主観だが、女性の方がまだいくらか「自己実現」に対してのアンテナが高いような気はする。

・ゆえにボランティアを組織して運営するというイメージもあまり湧いてこないが、例えばスポーツチームのボランティアは比較的よく組織されているように感じられる。というか自分にとって一番身近なボランティアはそこかな?そこで学んでみるというのは一つかもしれないと思った。ボランティアの納会とか面白そう。でもやっぱりシニア層が多いらしい、ここは黙ってても来る。そうではない人たちがどこにいるのか、という問題。これはフィールドワークをしてみたい部分。

・各論は勉強になった。ここまでを読んで「経営とは何か?」を語るのは結構難しそうではあるが、『マネジメント』のこれまた第1部だけをセットで読んだ印象としては、多分経営というのは成果を挙げることであり、非営利組織における成果とは大義を成すことであり、大義を定義づけるのがミッションということになるのだと思う。後ろの目次をザッとみた感じ、うちの組織に必要なのは第1部よりも第3部、あと第5部かなと思った。

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奥井智之「宗教社会学」

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とても面白かった。

 

宗教は、いつでも社会となる。信徒を作り、集団を作り、秩序を作り、敵を作る。その時、「信徒」と「非信徒」との間には、当然のように壁が生まれる。その壁が、時に制御不能なまでに分厚いものとなり、時に取り返しのつかないような戦いを生むこともある。

 

日々の暮らしのルーティーンだけではなく、「学問」「芸術」「スポーツ」「セクシュアリティ」といったような、ホイジンガの言葉を借りるところの「遊び」にも宗教は潜んでいる。それは例えば、リヴァプールカトリックの赤であり、エヴァートンプロテスタントの青であるように。潜んでいるというよりは、宗教そのものである、と言っても差し支えないのかもしれない。

 

「争いも、貧しさもない社会」を夢想した時、私はどうしてもこの社会の「ままならなさ」にぶつかってしまう。まずもって、国民の大多数が「自らは無宗教である」と言って憚らない日本人は、この「社会≒宗教」というテーゼに無自覚であるように思えてならない。ひょっとしたらその無自覚性が、時に世界を救う鍵になるのかもしれないが、とはいえ日本人の生活にはじつは隅々まで宗教が根付いていることに彼らは気づいていない(ように思えてならない)。

 

社会を語るならば、そこが出発点とならなければならない。そういった意味で、この書籍は「社会≒宗教」を学ぶための入口となるものであるように思う。しかしながら、入口とするにはいささか前提となるべき知識、自覚しておくべき自身の生活が多いように思った。なんとなくだが、これは「日本人を1周した人」でないと楽しく読めないような気はする。つまるところ、奥井さんの語る宗教観について、少なからず同じような疑問を持った人でないと良い体験を得る可能性は低いようにも思った。そして、日本人は普通に暮らしていく中では、自らの暮らす「社会」の中に潜む「宗教」に気付くことは難しい。

 

「争いも、貧しさもない社会」を実現するために何が必要だろうか。少なくとも、「合理」だけでは難しいと私は考える。「合理」とは、あらゆる「非合理」のPDCAの先に生まれるからである。はじめから存在している「合理」などあり得ない。

しかし「非合理」とは際限のない地平である。それを全て読み解こうとするなど不可能なように思えてならない。だから、せめて「無数の非合理」があることを理解しておく。それが肝心であるような気がする。

 

終章の、「理解のコミュニティ」という言葉が、すごくいい言葉だと思った。コミュニティを形作るものは、必ずしも「イエスが3日後に生き返った」とか、「日の出るうちはご飯を食べない」とか、「南無妙法蓮華経」だけではないのだと思う。彼らそれぞれが、その発想をどこから生み出してきたのか、それを自覚すること。そして、同様のプロセスを踏んできた人間たちが無数にいることを理解すること。それこそが、針の穴に糸を通すような、しかしとてつもなく広大な「理解のコミュニティ」ではないだろうか。

 

しかし同時に、その発想の非現実性にも目を向けざるを得ない自分もいる。その時私が考えるのは、西欧諸国が「イエスの復活」によって統合されるように、アラブ諸国が「神への帰依」によって統合されるように、果たして日本国民は何によって統合されるのか?というその一点のみである。きっとその統合が果たされぬまま、日本は今日この日を迎えてしまっている。あらゆる歪みは、その「統合」の無さに象徴されているように思えてならないのである。

 

ひょっとしたら、大江健三郎が「あいまいな日本の私」と謳ったように、日本国民を統合するものはその「曖昧」なのではないか、とも思うが、それではこの先の未来など見通しようもない。そのことを自覚したからこそ、川端康成も、西部邁も、石原慎太郎も、明治維新の英傑たちも、統合することのできる「何か」を欲し、訴え続けたのかもしれないな、と今は思う。

 

しかしながら、統合には程遠いのが現実。少なくとも、私から見てはそう。では、何ならば統合に至るのか?そういったものを探すうえでのヒントも、この書は与えてくれたように思う。思索は続く。

 

追記1:

「ヤンキーと地元」の記事において、「ヤンキーが社会の一員だと感じていない人がいる」という旨の文章を書いたが、「宗教社会学」を読んで思うのは、そもそも「同じ社会」と自覚するための材料が無いのだろうな、と、読み返していて思った。で、「社会の一員として見なければ」みたいなことを当たり前のように書いてしまったが、社会の範囲なんてのは人によってどうとでも定義づけられるので、そこが永遠の難しさになってくる。そうなった時に考えておきたいのは「なぜ統合したいのか?」という根本的な疑問で、客観的に見れば別に統合しなくたって各々平和に過ごせていればそれでいいのだけど、「日本人」という定義を内面化してしまっている自分の思い込みによって「統合しなければならない」と感じてしまっているのかもしれない。それは、なんとなく「国が栄えるためにお前らも一員になるんだよ」という発想で、極めて傲慢なようにも思える。彼らは別に「あっち側の人間」ではないのに、である。結局のところ、これもまた自覚/無自覚の問題にたどり着いてしまうかもしれなくて、「なぜ統合したいのか」という問いに答えられる核心が、まだ自分にはない。いや、それを持つための覚悟がない。そんな気がする。もちろん、「自覚的にやっていれば許される」というものでもなくて、それはどちらかといえば自らの精神衛生を保つために必要なお守りのようなものであるかもしれない、とは思う。そのことは忘れないでおきたい。

 

追記2:

ぼちぼち、柳田國男とか、ウェーバーとか、本を読みたいなーと思っている。しかし、「資本論」も「人間の条件」も難しすぎて途中で放置している自分が、果たしてそれらの本を読むことができるのか...。

打越正行「ヤンキーと地元」

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ギャングース」というマンガを読んだあたりから、この辺の「ヤンキー」の世界にずっと興味を持っていて、その学びの一つとして読んだ。

地元のつながり、先輩・後輩関係の中で暮らしているヤンキーたちの様子が描かれていて、面白かった。この記録を「研究」とするアカデミック界隈の姿勢にはいつも辟易するし、それを読んで面白がっている自分も心底嫌になる。

 

書かれているものは「暮らし」で、それ以上でもそれ以下でもないが、ここで書かれる「暮らし」の中では、警察官がナチュラルに若者たちに暴行を加えている。明らかに自分の「暮らし」とは別世界なように思われるが、同じ世界で、同じ日本である。

大事なことは、この本で描写されるバイオレンスな世界、どこぞの世紀末のような世界が、SDGsやら多様性やらを謳っている現代社会に当たり前のように存在しているということで、これもまた同様に「社会」だということ。

例えば、社会変革を謳い、ダイバーシティを賛美するような人間たちは、彼らヤンキーのことをどこまで視界に入れることができているのだろうか。彼らヤンキーの世界を、それでも「多様性」の名の下に受容することを、ダイバーシティ人間たちは許容できるのだろうか。いささか疑問に思えた。

「弱い人を助けたい」人たちは、彼らをどんな人間だと思うのだろうか。

 

思うに、社会を変える、という謳い文句を掲げるときに、「社会」の定義が人によってあまりに異なってしまっていることが世界にとって大いなる問題のように思えてならない。

私たちは、自らや弱者や自分の嫌いな政治家たちを「社会」とするのと同じように、彼らヤンキーのことだって当然に「社会」のひとつとして包括しなければならないが、いま世間において「社会」を語るダイバーシティ人間たちの実際はどうだろうか。とてもではないが、そんなようには思えないのである。

 

沖縄で高校生が失明した事件がタイムリーに起こっていたが、ネットで「社会」を語る人間たちは、なぜか一様に、そうすることでしか「彼の社会」でしか生きられなかったのかもしれない高校生を責め、日常的に若者をぶん殴っているかもしれない警察官に同情を寄せる。彼らが何者かも知らずに。

彼らのような人間もまた、「社会」を語るときに彼らの存在を視界に入れることができない。彼らの場合はそもそも入れるつもりもないのかもしれない。見もしないのに視界に入れた気になっているダイバーシティ人間たちと、果たしてどちらがマシなのか?と一瞬考えたが、まあ、どちらもロクなものでは無い。

 

この本を下敷きに現代社会を眺めてみると、そこを取り巻く気持ち悪さと、ある種の断絶が、どんどん浮き彫りになっていくように感じられる。

そう、社会は断絶している。断絶と向き合わずして、社会は語れない。

 

余談だが、amazonレビューでこの本を「裏を取れてないからジャーナリズム未満」みたいに評してる人間がいて、これがトップになっていて79人が役に立ったと付けているのはなかなかだなと思った。