どんな人と思われたいか

「あなたの尊敬する人。またその理由は。」

42年前、入社試験を受けたいくつかの会社で同様の事前アンケートがあった。何と書いたか今でも覚えている。

「第35代横綱双葉山。近寄り難い程の威厳があるのに温かみが伝わってくるという証言。」

 

面接して下さった方も双葉山の名前くらいは知っていたかも知れないがそれ以上のことはご存知なかったのだろう、これに関する質問は特になかったように記憶する。

 

これは会社に入ってからずっと後の話だか黒澤明監督に関しても同様の証言を聞いた。

「本当は優しい人だと思うのですけど。」

 

「威厳があるのに優しさが伝わってくる。」

二十歳の頃の私は生意気にもこんな男に憧れていた。幸いなことになれる筈もないことに気付くのに時間は掛からなかった。(いや、なれるものなら今でもなりたいですけど。)

 

前に触れた「天才伝説横山やすし」で特に印象に残ったのはこの一文。
「 ほとんど大阪市民葬と言われた参加者二千人の告別式に比べて97 年1月の一周忌は身内中心の40人ほどで営まれた。 相方の西川きよしも師匠の横山ノックも公務で欠席した。吉本興業からの出席もなかった。」

切ないなあ。

 

 

先日友人との会話で「どんな人だと思われたいか。」の話題になった。思われたいと言っても我々世代、多くの人がそうだと思うが年賀状こそ毎年数十枚出しているがその内ここ10年以内に一度でも会った人となると半分どころか3/1いや1/4あるかとうか。更に言えばこれから先も会う機会があるかどうかすら分からない。これから新しく知り合いになる人と言えばもっと少ないだろう。だからどう思われたいかと言っても正直、家族や子供、孫以外の人にはどう思われようと構わない。哀しくなるので書きたくないがこれから先、私のことをああだこうだと思ってくれる人に出会う機会も極めて少ないだろう。

 

ただこのことだけは願う。私の事を忘れないで欲しい。良い思い出、印象でなくても構わない。割引品、見切り品ばかり買ってくるので迷惑したでも構わない。小さな金には細かいのに大きな金は大雑把だったでも構わない。手癖、酒癖、女癖が悪かっただけはこれから先も絶対にないので安心だ。

 

そしてこれは贅沢なお願いだがこんな風に思い出してもらえればこれに勝る喜びはない。

「色々癖のある人間だったけどそれもこれも他者を思い遣ってのことだったんだ。」

 

 

 

 

パラリンピック考

(5/7記)

「ボクシングの美しさに魅せられると、他の大ていの美しさは何だかニセモノめいて来る。それは錯覚に違いないが、いい試合を見ているときは確かにそう感じる。そして文明などというものが人間をダメにしてしまったことがしみじみ分かるのである。」

三島由紀夫

 

しまった。安易に大文豪の言葉など引用するのではなかった。昨日の井上尚弥の試合を見て何か書こうと思ったがこんな完璧な言葉の前にすると続けて書く勇気がない。ひとつだけ書くと本当にヒヤヒヤした。これは試合後ネリが語っていたが想像もしなかったチャンピオン初ダウンの後、ネリの側がパニックになり攻撃が疎かになってしまったとのこと。もし、冷静に追撃されていたら万一があったかも知れない。あくまで素人考えだが。

 

 

 

 

 

 

「少年Aこの子を産んで」

著者は神戸連続児童殺傷事件犯人の母親。当然売上は全て被害者家族への賠償金に充てられる。出版時、母親は苦しいの胸の内を語っている。「よくこんな本を出せたものだという批判の声はありました。でも何もしなければ何もしないのかという批判の声もあります。結局何をやってもやらなくても批判されるのです。それなら少しでも賠償に充ててもらう方がいいと判断しました。」

 

学生駅伝、留学生の出場は最短区間に限る。https://www.nikkansports.com/m/sports/athletics/news/202312240000942_m.html

 

難しい問題だ。上記の本同樣、どんな方法を採用しても批判は出るだろう。綺麗事ならきくらでも言える。なら聞くが選手全員がケニアエチオピアの留学生でもいいのか。人数を限っている?それは差別ではないのか。

 

私は高校野球の留学ですら苦々しく思っている方なので出来れば日本人のみで参加してほしいと思っている。オリンピックで言えば1932年の吉岡選手以来、短距離の決勝にすら残れていない。20年くらい前まではマラソンに最後の強みを見せていたが、今や絶望的なくらいその差は広がった。やはり日本人は走ったり跳んだりには不向きなのだ。

 

勿論こんなこと、マスコミでは誰も言わない。彼らは常に弱者の味方を装いたがる。面白いのはその化けの皮が簡単に剝がれることで、大相撲で長い間モンゴル勢に優勝や横綱を独占されてきた後、久し振りに日本人力士が優勝したり横綱になった時のマスコミのはしゃぎっぷりと言ったら!

 

何が発端だったのか知らないが、北朝鮮とテレビで読む時、必ずその後に朝鮮民主主義人民共和国と正式国名を復唱するのが決まりになっている一時期があった。オリンピックも同樣、今なら2024年パリオリンピックパラリンピックと必ずパラリンピックも同時に読むのが通例になっている。あれ、オリンピックだけでは駄目なのか。いや、気持ちは分からないでもない。パラリンピックもオリンピックと同等のスポーツの祭典であることをアピールしたいのだろう。

 

その為にマスコミにお願いしたのか、圧力を掛けたのかそれは知らない。でもそのやり方は間違ってないか?やるならオリンピックと同等の放送時間を確保するよう要請すべきと思うのだが。日本ではNHKが深夜に申し訳程度にダイジェスト版を放送するのみ。これでは一般の人が関心なと持つ訳ないではないか。先ず障害者スポーツが如何に面白いか知ってもらうのが1番大切だと思うのだが。

 

そんなの放送局が受け入れる筈がない?第一視聴者が反発する?そんなの簡単。現在あまりに多過ぎる「大谷枠」の時間をパラリンピックに振り向ければよろしい。

 

「見たくもないのに大谷ばかり流しやがって。」そう思っている人は多い筈だ。

 

 

 

 

 

和歌山県民で良かった

昨日の読売新聞人生相談。

https://www.yomiuri.co.jp/jinsei/20240429-OYT8T50052/

建売住宅購入後に不満。先日のゲーテの至言「人生はすべて〜」がここにも生きている。この相談者に限らずとも建売を買っていようと、注文住宅を買っていようと必ず何かしら不平不満は出て来ることは間違いない。秦の始皇帝でも、藤原道長でも何も欠けることのない完璧に満足した状態なんてこの世にはないのだ。例えいっときそんな気持ちになれたとしても何れ近い内に不満は出てくる。

 

ただ、この事は言える。先日立ち読みした林真理子さんの本にこんな言葉があった。

「やってしまった後悔は年々小さく出来るが、やらなかった後悔は年を重ねるごとに大きくなる。」

本当にその通りだと思う。私も・・・

 

 

観光客マナー違反。富士山目隠し。https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1140845?display=1&mwplay=1

 

ついにこんな事態が起こったか。景色を楽しみにしていた近隣の住民、マナーの良い観光客にとればとんだ災難としか言いようがないが、動画を見れば致し方ないか。

 

折からの円安もあり、このGWの有名観光地の混雑ぶりは凄まじいを越えて「殺人的」だ。何年か前、韓国で何百人も圧死する事件があったが似たようなことが起こっても不思議ではない。そう言えば先日の富山アルペンルートも9割方が中国人(中国語を話す人)だったな。

 

その昔、オーストリアザルツブルグへ行った時、お土産の殆ど全てがモーツァルト関連だったことを覚えているが、日本のどの観光地も集客のためにありとあらゆる努力、工夫をしている。高知は坂本龍馬をどれだけ観光の切り札に使っているか。山形は芭蕉が詠んだ俳句をどれだけ有効活用しているか。

 

富山でも弘法の清水という名前を聞いた。この地を訪れた空海に水を差し出した人がこの地は水に困っていると話すと空海が杖で地面を突いた。すると水が湧いてきたというよく聞く「空海伝説」。それが名所になっている。

 

空海なら和歌山だろう。似たような話ならもっとたくさんある筈だ。芭蕉は和歌山にも来ているぞ。いや、もっと昔万葉集にも詠まれているではないか。和歌の浦は海岸美日本一にも選ばれた。暴れん坊将軍南方熊楠華岡青洲紀州の人だ。

 

和歌山発祥は醤油だけではない。鰹節も備長炭も輪島塗りもルーツを辿れば和歌山だ。蚊取り線香合気道ヤマハも和歌山人の発明だ。まだあるかも知れん。

 

よその県は1のものを10にも100にもして観光客を誘致しているのに和歌山は100のものがあるのに1の分もアピールしていない。本当に阿呆だ。何をやっている!

 

と、ちょっと前までは思っていた。でも今は違う。観光客の来ない和歌山、何処へ行っても、何をするにしても行列に並ばなくて済む和歌山が矢鱈と愛おしい。和歌山で行列が出来るのは一部のラーメン店とエバの日くらいだ。日本広しと言えどこんな所、他にないだろう。

 

心から言う。

和歌山県民で本当に良かった!」

人生は一曲の・・・

数多くある名言の中で私の好きな言葉ダントツNO1はゲーテの「人生は全て次のふたつから成り立っている。したいけれど出来ない。出来るけれどしたくない。」である。

 

例えば○が欲しくてたまらない、○さえ手に入ればもう何も望むものはない。○校に入りたい、○校にさえ入学出来れば死ぬ気で勉強する。○さんと結婚したい、○さんと結婚さえ出来れば一生○さんに尽くす。等々色んな場面で我々は願掛けをするが、いざその望みが叶うともうその状態が当たり前になり、あれだけ誓った猛勉強も配偶者への忠誠もすっかり忘れてしまう。人間というものは永遠に満足することが出来ない存在なのだ。

 

 

こんな奥深い心理(真理)をこんな簡潔な言葉で表現したゲーテという人は・・・。私にとってこの言葉以上の名言は想像出来ないし、敢えて言えばまともな人間には無理ではないかとさえ思う。

 

 

富山から黒部まで何回か電車やケーブルカーを乗り継ぎするが途中の駅で「日本海味噌」の立看板を見た。商品そのものはあまり当地では見かけることはないが日本海味噌と聞いて思い出すのは何と言ってもこのCM。https://youtube.com/watch?v=JG_eS7HcuD8&si=n1rCA-xNtX6iLu3j

 

私がこの曲を知ったのは大阪在勤時だから40年近く前。たまたま立ち寄った京阪守口市駅高架下にあったレンタルビデオ店で「浪花のモーツァルトキダ・タローのすべて」という2枚組CDのレンタルアップ品が980円で売られていたからだ。改めて定価を見ると4000円もするので中古品がなかったら恐らく買っておらず、この至高の名曲にも出逢っていなかった可能性が高い。人間どこに幸せが転がっているか本当に分からない。

 

芥川龍之介も多くの名言を残した。私が好きなのは「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。」

 

彼はこんな言葉も残した。「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 

上に挙げたゲーテやマッチ箱と違い、今ひとつ意味が分かりにくいのが難点だが私の解釈ではこうなる。「人生は一曲の日本海味噌にも若かない。」

 

60余年生きてきて学業、仕事、家事、子育てとそれなりには努力してきたつもりだが、それら全てを足し合わせても「日本海味噌」一曲の偉業に遥かに及ばないのではないか。

 

こんな事を考えてしまうのも自身が人生の晩秋に差し掛かってきたことを無意識にでも感じてしまうような年齢になったからだろうか。

テレビ和歌山 開局50周年

松下幸之助氏の出身地にも関わらず和歌山県松下電器の工場が無い最後の県だった。

 

表向きの理由は交通の便が悪いし、土地が高いからとなっているが実際には地元の反対もあったと聞く。「松下みたいな大企業に来られたらウチの社員が辞めてしまう。」というのがその理由。何とも情けないし恥ずかしい。

 

4/24-26富山県へ旅して来た。主な目的は「雪の大谷」見物(旅行中くらい大谷から離れたかった!)。先ず降り立ったのは富山駅。今調べると富山県の人口は100万、同じく富山市が40万。和歌山と比べてそれ程の差はない。10年くらい前は和歌山県の人口も100万を超えていたし、和歌山市も40万都市だった。

 

それなのにこの賑わいようの違いは何だ!こればかりは到底口では説明出来ない。実際に目で見て確かめてもらうしかない。駅直結の「とやまルシェ」の土産物店を覗くと目に付くのが北陸3県(富山、石川、福井)共同開発の商品の多さだ。やる気のある県が力を合わせているのだからこんな強いことはない。それに比べて紀伊半島3県(奈良、三重、和歌山)は何か協力し合っているのだろうか。

 

あっ、そうか。三重も奈良も単独でも充分な観光収入があるのでわざわざ他の県と組む必要はないのか。それとも和歌山に松下の進出時のように反対している連中でもいるのか。そんなアホは無視していいので助けてくれ。

 

テレビ和歌山開局50年。

https://www.tv-wakayama.co.jp/bangumi/onair/50th/

 

50年か。あの頃の和歌山は活気があったな。今は全国チェーンの店なのに和歌山には無く、泣かされることが多いが当時はむしろ早目に出店することの方が多かったのではないだろうか。ゴッドファーザー太陽がいっぱいで有名な作曲家、ニーノ・ロータの来日コンサート場所にも選ばれたし。

 

テレビ和歌山で1番に思い出すのは1981年のダイエー出店時のオープン特別番組だ。当時のダイエーといえば小売業日本一、松下に喧嘩を売った男、中内功社長が君臨。そのインパクトは後のイオンなど比べ物にならない。

 

開店で大賑わいの中、ある中年主婦にアナウンサーがマイクを向けた。

「お母さん、ダイエーがいよいよ和歌山でオープンしましたがどうですか?」

「そんなことより兄ちゃんトイレ何処よ。」

 

未だにあれ以上の放送にはお目にかかっていない。和歌山もあの時がピークか。

 

 

 

 

横山やすしさん

カーナビで目的地を設定する際、先ず電話番号、なければ名称、それもなければ住所という順番で検索する。困るのはたまに住所を入力しても「その住所はありません」と表示される場合があることで、そんな時は近くと思われる所まで行って捜す他ない。住所がないということはそのナビが販売された頃には未だ無住所地だったことだろう。これだけ人口が減っているのにまだ人の住む地は広がっている。

 

昨日のクローズアップ現代は水道クライシスというタイトル。水道事業が全国的に苦しい状況にあるのは人の住む地は広がっているのに使用量が減っていることが大きいという。そりゃそうだ。「お宅は隣の家から離れているので水道は使えません。」という訳にはいかない。これから全国的に水道料金の値上げは避けられそうにない。

 

値上げと言えば本年10月から郵便料金も値上がりする。ハガキは63円から85円に、封書は84円から110円になる。理由は水道と似たようなものだろう。前のハガキ値上がり時は特例で年賀状だけは旧料金で出すことが出来たが今回はそんなアナウンスもない。さて来年からどうしたものか。

 

メールもSNSもない時代、各種懸賞や番組への投書やリクエストの手段は専ら郵便だった。今となっては笑い話だがこんな失敗もあった。秋ひとみさん、何度も書いているように私が唯一お熱を上げたアイドル。テレビのレギュラー番組が2、3あったが何れも関西圏での放送はなく、悔しいな思いをしていた。が、ある時、雑誌でラジオ番組のレギュラーを始めたことを知った。ラジオなら聞けるかも知れない。放送キー局のTBSラジオに問い合わせの往復ハガキを出した。数日後返信が届いた。何とひとみさん自身の直筆!

 

○様へ♡

✕月から和歌山放送でも「(番組名)」がO.A.されることになりました。これからも応援してくださいね!  (日付、サイン)

 

天にも舞い上がるほど嬉しかった!とは残念ながらならなかった。生来悪筆の私はなるべく字を書きたくなかったので往復ハガキの返信欄に父親が持っていた住所印を押印した。一応内(私の名前)を添え書きしていたのだが気付いてもらえなかったようで、○様へには父親の名前が記されていたのだ。しかもご丁寧に♡まで付けて!私はこの時ほど自身の悪筆を恨んだことはない。

 

 

「天才伝説 横山やすしhttps://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163537504

20年以上前の本だが無類に面白かった。著者は関西の人間でも関西に住んでいる人間でもないので余計な固定観念や思い込みが無く、より「やっさん」の真の姿に迫ることが出来たのだと思う。

 

この本を読んで昔やすしさんがMCを務めていたラジオ番組に投書し、紹介されたことを思い出した。今お前は横山やすし、又はやすしきよしのファンだったか?と聞かれたら特に好きでも嫌いでもないと答えるだろうが悪筆の私が手紙を送るくらいだから好きだったのかも知れない。

 

と言っても書いた内容はごく子供じみたもの。「もし(コメディNo.1の)前田五郎さんに西川きよしさんと坂田利夫さんを交換してくれと言われたらどうしますか?」というもの。

 

やすしさんの返答は今でも覚えている。言下にこう言った。「断る!金と銀は変えられん。」

今思えば顔から火が出るような幼稚な質問。番組の担当者もよく採用してくれたものだ。

 

「あほんだら、しょうもないことを聞いてくんな!」と言われなかったことに感謝。

足を踏んだ者は痛みが分からない

親鸞は浄土宗の教えを更に進め浄土真宗を開きました。」我々はこのように教科書で学んできた。何年か前、浄土宗側からこの説明ではあたかも浄土宗の方が遅れた教えであるかのような誤解を与えるという抗議が出て表現が改められた(未確認)。

 

それにしても浄土宗は長い間よく辛抱したと思う。私達、いやもっと前の世代から上記の文章が使われていたから数十年間もこんな不公正な表現が使われていたのだ。

 

空海展生誕1250年記念」奈良国立博物館

https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/202404_kukai/

日本には多くの宗派がある。比叡山に行くとここで学んだ多くの名僧の額が掲示されている建物がある。法然親鸞栄西道元日蓮・・・。最澄以降の名僧で比叡山で学んでいない者はいないのではないか、さすが日本宗教の母山と呼ばれるだけのことはある。

 

処が上に挙げた名僧全てを足しても(敢えて言えばここに聖徳太子を加えても)テレビを始めとするマスコミで取り上げられる回数、展覧会で特集される回数は空海ひとりに及ばないのではないか。真言宗の信者の数は浄土真宗や浄土宗よりはるかに少ないにも関わらず。

 

ここでも何回か書いているように私は今の大谷偏重の報道に大きな疑問と不満を感じている。明らかに度か過ぎると思っている。

 

それなのに教科書の記述や空海の偏重には怒りも疑問も抱いたことはなかった。何故か。我が家の宗教が浄土真宗だからである。空海の開いた高野山和歌山県にあるからである。こんなことを言ってしまっては元も子もないがそれに尽きる。

 

真言宗以外、また和歌山県以外(京都と香川を除く)の県民が「空海ばかり取り上げ過ぎやないか!」と怒っているかどうかは知らないが私なら明らかに腹を立てていただろう。

 

「足の痛みは踏まれた者にしか分からない。」差別問題を取り上げる時によく使われる言葉だ。私は被害を受けた側がこの言葉を大上段に振りかざすことには賛成出来ない。でも踏んだ方があまりに無自覚なのはそれ以上に問題が大きい。

 

そんなことより奈良国立博物館に行くべきか、それが問題だ。