新・働き方を見直す6 〜余暇について〜

 前回紹介したように、プロテスタンティズムが余暇のあり方を宗教的倫理から制約していたとすると、(ウェーバーのいうように)そうした宗教的な制約が失われた現代社会においては、余暇のあり方が重要であり、そこに現代の働き方を見直すヒントがある。

 なぜなら、余暇は生活時間から労働時間を差し引いた差分であるというだけでなく、働くことを生活の糧を稼ぐという側面から見た場合、何のために働くのか、という問いに対する答えは「(働くことで得たお金を使って)余暇を充実するため」ということになるからだ。

 労働時間を短くすることについては、これまでさまざまな議論がされてきたが、一方で、その結果増えるはずの余暇の使い方については、あまり議論がされていないように思う。余暇の使い方というのは、それこそ個人の趣味に属する領域であり、(規範的な)議論になじみにくい、という側面があるのかもしれない。(かつて、日本人は働き過ぎであり、レジャーの充実が必要だ、という議論がされていたことがあったが、最近はあまり議論されていないように思う。)

 しかしながら、上に述べたとおり、労働時間と余暇は、前者を短くすればその分後者が増えるという関係にある。だから、労働時間を短くする、という議論をするのであれば、その裏腹として、ではそれによって増えた余暇をどのように使うのか、という議論があって良い。むしろ、労働時間を短くする、という議論がさんざんされているにも関わらず、実態としてなかなか労働時間の縮減が進まないのは、その結果として増える余暇の過ごし方についてのビジョンが共有されていないことに原因があるようにすら思う。

 たとえば、「ノー残業デー」の取組は一般的になっているが、多くは「残業をしないで早く帰りましょう」という呼びかけに終わっている。これだと、なぜ早く帰るのか、というところがハッキリせず、労働者にとってみても、何となく人件費抑制が透けて見えてしまうこともあり、仕事があるのに無理矢理早く退社させられる、という印象が強いのではないか。第一、「早く帰れ」だけでは楽しくない。労働者に「早く帰りたい」と思わせるような仕掛けが必要ではないか。

 この点、昨年の夏から内閣人事局が行っている「ゆう活」は、単に早く帰れ、というだけでなく、早く帰ることで生まれる夕方の時間帯を有効に活用しよう、というメッセージを打ち出している点が新しい。「ゆう活」のホームページを見ると、ゆう活の取組例として、「英会話」、「キャッチボール」、「ランニング」、「暑気払い」、「お料理教室」など、さまざまな例が紹介されている。こうした例はすべてイラスト付きで、楽しげなイメージを出そうという意図が感じられる。その意図がどこまで浸透しているかは別として、働き方を変えるためには、労働者に早く帰ろう(帰りたい)という意識を持ってもらうことが必要だ、という方向性は正しいと思う。

 これが地方自治体レベルになると、もっと踏み込んだ取組が可能ではないか。たとえば、ある地域で、毎月第1水曜日は「ゆう活の日」として、その地域の会社に定時退社を呼びかける。そして、地元の商店街と協力して、その日に合わせてレストランや映画館の割引サービスや、街コンなどのイベントを開催する。こうすれば、労働者が早く帰りたい、と思うだけでなく、地元経済の活性化にもつながる。
 実は、このアイデアは、私が大分県庁に出向していた際、県庁が主催していた政策コンテストで提案されたものだ。その名も「ウキウキ水曜日」。企画の名称に、働き方を見直すには楽しいと思ってもらうことが大事だ、という思想がはっきりと表れているではないか。私は本省での経験からこの企画のアドバイザーを引き受けていたが、役所の縦割りにとらわれない柔軟な発想でとても面白いと思った。(その後、大分県でこの取り組みを実現しようと思っていろいろと画策したが、担当部署が違うことや県よりもむしろ市の取り組みということもあり実現できなかった。)

 働き方の見直しを進める上で、残業時間に上限を設けるといった強制的な手法の検討も必要であるが、一方で、労働者が働き方を見直したい、と本気で思うことも必要だろう。その意味で、余暇の使い方について議論することは有益であると思う。

新・働き方を見直す5 〜働くこと=金儲け?〜

 少し前になるが、ネットニュースで気になる記事があった。
 大阪府内の小学校4年生男子に、将来の夢について聞いた調査結果である。

 記事で、「子どもたちの声の要約」が紹介されている。――「有名なユーチューバーは1億円以上稼いでいる。もうあくせく勉強する時代じゃない。」

 ―――『スマホっ子の風景 竹内先生の新教育論 「夢はユーチューバー」勉強しない子どもたち(竹内和雄)』(毎日新聞2016年3月22日 大阪朝刊)http://mainichi.jp/articles/20160322/ddn/013/100/023000c

 ユーチューバーなら「あくせく勉強」しなくてもいいのかどうかはさておき、ここで気になるのはこの調査で示されている「働くこと」への意識だ。ここでは、働くことは金を稼ぐための手段である、という意識が明瞭に見て取れる。つまり、ユーチューバーになれば「面白い」とか「かっこいい」とか「人の役に立つ」とかではなくて、「1億円以上稼げる」ということが主眼になっている。将来の夢がユーチューバーであるのは、それがお金を稼げる職業だから、ということなのだ。(さらに言うと、あくせく勉強しない、という表現からは、地道な努力に対する忌避感が感じられなくもない。)

 「働くこと」はさまざまな側面を持つ。その一側面として、「金儲け」、すなわち生活の糧を稼ぐという面があることは紛れもない事実だ。

 でもそれだけなのか。

 昔の人たちは、働くことをどのように捉えていたのだろうか。中世ヨーロッパにおける勤労観について、E.フロムは次のように述べている。

 『中世社会では、経済的活動は道徳律に結びつけられていた。富が人間のためにあるのであって、人間が富のためにあるのではない。人間が身分相応な生活をするために、必要な富を追求することは正しい。それ以上求めればそれは事業でなく貪欲となる。貪欲は大きな罪である。(P.62-63)
 伝統的な生活水準を維持するのに必要である以上に、働かなければならないような要求は存在しなかった。中世社会のあるひとびとにとっては、仕事は生産する能力を実現するものとして、たのしいものであったように思われる。(P.101)』
 ――E.フロム(1951)「自由からの逃走」(原著は1941)

 つまり、生活を維持するため以上に働く必要はなく(それ以上に働くことは罪とされた)、働くことは能力を発揮する「楽しい」ものだった、というのである。
 もちろん、中世社会における労働は、分業が高度に進んだ現代と比べて、もっと身近で地に足のついたものだったであろうから、両者を安易に比較することはできないが、それでも、働くことが能力を発揮する「楽しい」ものだった、という見方は重要だろう。
 では、こうした勤労観はどのようにして変わっていったのか。

 E.フロムが論じたような、中世社会における必要以上に働くことを罪とする意識を変えたのが、プロテスタントの「禁欲」の精神である、と指摘したのがかのマックス・ウェーバーである。ウェーバーは、プロテスタンティズムにおいては、職業労働により利益を追求することは神が望まれることであり、そのことは、人々を財産の獲得に対する伝統主義的な倫理的制約から解き放った、と述べている。プロテスタンティズムの倫理が、利益の追求を禁じていた「枷」を破壊した、というのだ。

 そうやって変革をとげた人々の意識は、やがて時代の変遷とともにますます先鋭化していく。そのことを論じたウェーバーの記述は鮮やかだ。

 『勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。
 「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。(P.493)』
 ――マックス・ウェーバー(2010)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(原著は1904)

 働くことは、かつては道徳や宗教と結びついていたけれども、現代ではそうした意味が失われて、むしろスポーツのような競争の情熱と結びつく傾向があるが、現代人はそのことの意味を考えようともしないーーー100年以上前に書かれたとは思えない非常に示唆に富む指摘だと思う。

 こうして見ていくと、資本主義が高度に発展した現代において、働くことが利益の追求=金儲けと強く結びつくことは避けられないと思われるけれども、一方で、そうした方向に歯止めをかけることが必要ではないか、という主張も広がりつつあるように思う。
 たとえば、「世界でいちばん貧しい大統領」、ウルグアイのムヒカ前大統領の有名なスピーチ。

 『私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。』

 ―――打村明『リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)』(http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/)より抜粋

 このスピーチはテレビでも紹介され、大きな反響を呼んだ。日本でも、現在の生活スタイルや働き方に疑問を持つ人が多いことの表れだろう。

 以前、このブログでも、働くことを「卓越」という価値概念で捉え直すべき、という議論をした。冒頭で述べたように、働くことはいろいろな要素を持つが、金儲けという側面だけでなく、成長や人格の陶冶といった働くこと自体の積極的な側面にもっと注目すべきであると改めて思う。

新・働き方を見直す4 〜働き方のビジョン その3〜

(前回からの続き)
 「ここ一番」の期間の子育てをどうするか。まずは、夫婦で分担するのが基本だろう。「ここ一番」の期間を夫婦でうまくずらすこと、つまり、夫が「ここ一番」のときには妻が育児(・家事)をし、妻が「ここ一番」のときには夫が育児(・家事)をする。そういう形で夫婦間でやりくりすることができることを目指してはどうか。
 こうした働き方を実現するためには、夫婦で同じ会社に勤めていない限り、自分の会社だけでなく、社会全体で子育て中の労働者に対する理解と協力が必要になる。
 また、「ここ一番」の時期は、例えば月末とか決算期といったようにあらかじめ予測がつく場合もあれば、トラブル対応のように突発的に発生する場合もあるだろう。突発的な場合はもちろんだけれども、あらかじめ予測がついても、夫婦でその時期が重なることもあるだろうから、そういう場合にどうするか。実際には、こうした場合、夫婦の親、つまり子どもの祖父・祖母に頼るというのが典型だと思うが、そうした助けが得られない家庭のためにも、本当に必要なときに限って深夜まで預かる公的なサービスがもっと活用されても良いと思う。現在でも、「トワイライトステイ」という公的な事業があるが、児童養護施設での預かりが中心ということが心理的な壁になっているのか、あまり利用はされていないように思う。

 もっとも、あまり深夜まで預かるサービスの使い勝手が良くなると、常態的に子どもを深夜まで預けようとする人が出てくる懸念がある。以前、保育所の先生から、長く預かると保護者の支援には繋がるけれども、そうすると毎日遅くまで預けようとする人が必ず出てくるので、子どもにとって何が良いのかを考えると悩ましいという話を聞いたことがある。「弾力的な取扱い」として行っているうちは良かったが、それを制度化した途端に、本来使ってほしい対象でない人が主な利用者になってしまう、というジレンマがある。

 話を戻すと、長時間の預かりを常態化させないためにも、「ここ一番」の期間をできるだけ限定することが大切だ。これは自分の経験に照らしてみても、労働者の努力である程度実現が可能であると思う。だらだら働く、とは言わないまでも、長時間労働が常態化している職場だと、どうしても早く帰ろうという気持ち自体が薄れてくる。何時までに帰ろう、一刻も早く帰ろう、と毎日意識していると、ある程度は早く帰ることができるようになる。ワーキングマザーの生産性が高いという話はそれを如実に表している。
 
 ということで議論をまとめると、子育て期の働き方のビジョンとしては、夫婦で長時間労働が常態化しないようにメリハリをつけて働き、「ここ一番」で残業が必要なときにはパートナーがカバーする、それでもどうしてもカバーしきれないときのために、可能であれば両親の力を借りるか、トワイライトステイなどの公的サービスを活用する、という形になる。
 
 これまでの日本では、高度経済成長期に一般的になった専業主婦モデルのもとで、男性は会社に尽くして無事定年を迎えることが、また、女性はそうした男性を「内助の功」で支えることが「働き方のビジョン」として社会的に共有されていた。今起きていることは、こうした典型モデルが崩壊し、人々のライフスタイルが多様化した結果、どういう働き方を目指すのかという「働き方のビジョン」を社会的に共有することが難しくなっている、ということだ。
 しかし、目指すべきビジョンが共有されなければ、何をすべきかも分からない。ライフスタイルが多様化しているからこそ、ビジョンを共有することが大事だ。そうでなければ、対策が一貫性を欠くパッチワークになってしまうだろう。「多様で柔軟な働き方」という抽象論をさらに深掘りした、望ましい働き方についての議論が必要だと思う。

新・働き方を見直す3 〜働き方のビジョン その2〜

 前回に引き続き、「働き方のビジョン」についてもう少し考えてみたい。
 前回紹介したサイボウズのような働き方のコースを労働者が選べるようになったとしたら、我々はどんなコースを選ぶだろうか。当然、それぞれのコースによって給与はどうなるのか、昇進やその後のキャリアにどう影響するのか、といったことが分からないと判断できないが、ここでは、労働時間の多寡に基づく、給与を含めた処遇面での合理的な取扱いがされる(=労働時間が短いことを理由として給与が低くなったり、昇進が遅くなったりすることが合理的な範囲でありうる)、と仮定しよう。

 このとき、例えば小さな子どものいる共働き家庭の男性が、「少し残業して働く」という働き方を実際に選ぶかどうか、という点がポイントだろう。多様な働き方のコースがあっても、実際に選ぶことができないのでは絵に描いた餅だ。そこでのハードルは、会社側にではなく労働者の側にある。
 サイボウズのHP(http://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001097.html)に、いわゆる「イクメン」社員などによる以下のような対談が掲載されている。

田中:お二人にとって仕事の楽しさってなんですか?
渡辺:いろいろなところからお仕事をいただけるというのは必要とされている感じがありますよね。
倉林:褒められるっていうか。承認っていうか。
渡辺:本の出版など自分の意見が形になるってものすごい喜びじゃないですか?
田中:ああ、嬉しいですよね(笑)
 仕事上の評価で嬉しいって思う度合いの方が高かったら、やっぱり育児を頑張れないのではないかなと思うんですよね。
 家庭での事ってすごく個人的なことじゃないですか。奥さんがいつも感謝してくれるわけではないし。自分でやっていかなければいけないことだから、そもそも褒められるようなことでもない。
 仕事をやっていれば褒められるんですよ。一生懸命、本を書いたり、残業したりすれば「ああ立派にやっているね」と。この快感から抜け出さないと育児の方にはベクトルが行かないんじゃないかな。

倉林:まさにそうですね。仕事って公式というか、時間なりの労力をインプットするとそれなりに成果が出るじゃないですか。育児は結果にならなかったことも山ほどあります。
渡辺:目に見えては出てこないですもんね。
田中:男って比べるのをやめられないみたいなところがありますね。例えば年収って数字で出てくるから人と比べられるじゃないですか。「俺の方が高い」みたいな優越感とか、それは働けば働くほどじゃないですか。やっぱりここからある程度距離を取れるようにならないと。
 さっき倉林さんは操られているかもって言いましたけども。競争して勝ったというのは、気持ちいいんですよね。自己肯定感を得やすいし。褒められるし。このへんの評価の軸を変えていかないと。

(※強調部筆者)

 ここでいう「評価の軸」とは、社会的な評価のことを指しているのか、それとも自己評価のことを指しているのか定かではないが、承認欲求というのは誰にでもあるものだから、このやりとりにあるように「評価の軸を変える」といっても、この価値観を変えていくのは簡単ではないだろう。

 上のやりとりでも議論になっているが、働き方のビジョンを考えていく上で、やはり大きな論点の一つが子育て期の働き方だ。子育て期の中心となる30代は、仕事をしていく上でも大事な時期である。20代が仕事に慣れ、仕事のやり方を覚える時期だとすれば、30代は、仕事を通じて一番成長できる時期ではないかと思う。つまり、労働者が子育てと仕事の両立に直面する時期というのは、会社にとって重要であるだけでなく、本人にとっても大切な時期なのだ。だからこそ、現状において子どもを持つことによりワーク・ライフ・コンフリクトに直面することの多い女性が、子どもを持つことを先延ばしにするという判断をする(せざるを得ない)ということになるのだと思う。
 巷間で議論されているように、ワーク・ライフ・バランスの肝が長時間労働の抑制にあることは間違いないが、やはり仕事で成果を出そうとすれば、ここ一番というときにどうしても深夜まで働かざるを得ないこともある。私自身を振り返ってみても、例えば法改正の正念場ともなれば、睡眠時間を削って仕事に打ち込み、精神的にもかなり追い込まれていたために、妻や幼い子どもに声を荒げたことも一度や二度ではない。率直に言って、この時期だけ見れば「家庭を顧みず働いた」と評価されても仕方ないと思う。
 問題は、こうした働き方を一律に否定すべきかどうかということだ。確かに家庭を顧みない働き方は決して褒められたものではないけれども、一方で、それにより法改正という大きな仕事を成し遂げることができ、それを通じて私自身も成長したし、信頼できる仲間もでき、大きな自信になった。そんな働き方をしなくても物事を達成できるようにすべきだ、というのが正論かもしれないが、極限まで追い込まれていたからこそ、大きく成長したという面もある。企業の側からしても、「ここ一番」で残業できないのでは実際に大きな仕事は任せられない、というのも事実だろう。
 そう考えていくと、「ここ一番」で、「ワーク100%」という状態で働くことについて、一概に否定されるべきではないのではないか。そのときに大事なのは、「ここ一番」の期間の子育てをどうするか、という点と、あくまで「ここ一番」であってそれが常態化してはいけない、という点だ。(続く)

新・働き方を見直す2 〜働き方のビジョン その1〜

 働き方の見直しについての政策論に入る前に、我々がどういう働き方をしたいと思っているのか、あるいは、どういう働き方が望ましいと考えるのか、という「働き方のビジョン」について考えたい。
 働き方が多様化している、と言われて久しいが、そうした中で、では、従来のいわゆる専業主婦モデルから、どのような働き方を目指していくのか、ということになると、「多様で柔軟な働き方」という以上に、具体的な「働き方のビジョン」が議論されることはこれまで少なかったのではないだろうか。

 「働き方のビジョン」を考える上で参考になるのは、サイボウズの取り組みだ。サイボウズは、2014年に「ダイバーシティ経営企業100選」にも選ばれるなど、柔軟な働き方ができることで知られており、青野社長が自ら育児休暇を取得したことでも話題になった。
 サイボウズのHP(http://cybozushiki.cybozu.co.jp/?p=8328)によると、同社では、育児や介護などに限らず、人生のライフイベントに合わせて労働者が働き方を選べるようになっているという。(下図参照)

 どの程度働くことができるか(どの程度労働以外の時間が必要か)は、人によって異なるから、一律に「早く帰りましょう」というのではなく、労働者一人ひとりが、自分の状況にあわせて働き方を選ぶというのは合理的なやり方だろう。実際の選択がどうなっているか、また、それぞれのコースの給与や昇進などの運用の実態をもう少し詳しく調べる必要はあるが、少なくとも、そうしたコースを設けることで、その人がどのくらい働けるのかということが明確になるという点でメリットがあるように思う。

 こうした同社の仕組みについて、青野社長は次のように述べている。
ワークライフバランスで僕たちが気をつけているのは、「こういう働き方をしなさい」「家庭を大事にしなさい」「残業しないでください」と言い過ぎないようにしていることです。今さら新しいルールを当てはめているようで、むしろ多様性を失っているように感じるからです。
 サイボウズの場合、「残業してもいい、しなくてもいい」「育児休暇をとってもいい、とらなくてもいい」「何時に来てもいい、いつ帰ってもいい」という選択制をとっています。でも、こうなった瞬間に「僕はどうすればいいんですか」という人も出てきます。これまで朝8時に来いと言われれば、何も考えなくてよかった。日本人はずっとそうやって働いてきたんです。
 僕は自分で働き方を選ぶ“自立”を重んじたいのです。ワークライフバランスの答えは一つではなく、答えは一人ひとりが見出してくださいという立場です。』
――「仕事ができる人の働き方とは?」(http://toyokeizai.net/articles/-/26387

 これはまさにその通りだと思う。特に興味深いのは、柔軟な働き方を導入した瞬間に、自分はどうすれば良いのか分からないという人が出てくる、という点である。「これまで朝8時に来いと言われれば、何も考えなくてよかった」というのは、これまでの働き方がいかに画一的だったか、ということを表しているが、同時に、そうした画一的な働き方を労働者の側も受け入れていた、ということを意味している。
 この点は、働き方の見直しを考えていく上で重要なところであると思う。関連する話として、日本では、労働者が自らのキャリア形成に対する意識が希薄である、と言われていて、「人事部は自分のキャリアを全然考えてくれない」というぼやきに象徴されるように、いったん会社に入れば、その時々の働き方はもちろん、長期的なキャリア形成に至るまで、会社任せにしてきたというのがこれまでの実態であったと思う。それは、労働者にとってみれば、自律的な働き方が困難であったという一方で、会社に委ねていればある程度のキャリアと処遇が保証されていた(少なくとも労働者はそれを期待していた)、ということであったのだろう。

 サイボウズの例のように、労働者が自ら働き方を選べるということは、その反面、選んだ働き方について責任があるということであり、将来のキャリアプランも含めて、自分がどのような働き方をしていくのかということを、労働者一人ひとりが考え、決定していくことが求められることになる。「多様で柔軟な働き方」を認めていく場合、実際にどういった働き方をしていくのかは基本的に労働者が決めることになるから、こうした働き方を広めていくためには、会社側にそのような仕組みを整備していくことにあわせて、労働者の側にも、自分の働き方を自分で決めていくという準備が必要だろう。

新・働き方を見直す1 〜働くことの意味を問う〜

 働き方をどう見直していくか、これまで、このブログでも数回にわたり議論してきたが、「働き方の見直し」が大きな政策課題となっている今、改めて働き方の見直しについて考えてみたい。

 働き方の見直しを議論するに当たって、まず、働くということの意味について考えたい。
 最近、働くということが、ネガティブに捉えられすぎではないだろうか。「ブラック企業」はその典型であるが、「長時間労働」、「過労死」、「社畜」など、マイナスイメージの用例には事欠かず、こうした言葉使いからは、働くということが、単なる苦役のようにすら感じられる。3〜4年前だったか、「ディーセント・ワーク」という言葉が使われていた時期があり、これは、ディーセント=ちゃんとした、きちんとした、ということで、「きちんとした人間らしい仕事」という意味だった。これには、働くということの前向きなイメージが含まれていると思う。でもこれはあまり流行らなかった。「ブラック企業」と言って一刀両断する方が分かりやすいということだろうか。

 確かに、「ブラック企業」は取り締まらなければならないし、不当な労働条件は改めていかなければならない。しかし、働くということは、決して単なる労働力の提供ではないし、単なる生活の糧を得る手段でもない。働くことについての積極的な側面を見落とすべきではない。

 政府の数多くの審議会の委員を歴任し、国立社会保障・人口問題研究所の所長も務めた塩野谷祐一氏は、その名著「経済と倫理」の中で、行為の価値概念としての「効率」、制度の価値概念としての「正義」というこれまで議論されていた枠組みに加え、存在の価値概念としての「卓越」という観点を提示した。氏によれば、「卓越」とは、個人の自発性と多様性の追求、道徳能力の陶冶、公共的精神の育成、自己実現への努力、創造的能力の発揮、人格の尊厳といった価値を表すとされ、「効率」がフローとしての人間像に着目するのに対し、「卓越」はストックとしての人間像に着目した上で、「良き生」の理論として展開されるものであるという。
 私は、働くこととは、こうした「卓越」の実践に他ならないと思う。ひとは、働くことを通じて、仲間と協調し、ライバルと競争し、困難に打ち克ち成果を上げ、あるいは挫折し、そうしたプロセスの中で成長していく。こうした「卓越」の観点から働くことを捉え直すことは、氏の議論に即していえば、従来の賃金の水準が高いか低いかといった「フロー」に着目した議論から、その仕事を通じて成長できるかどうかといった「ストック」に着目した議論をする、ということになる。

 逆に言えば、こうした「卓越」という価値を実践するような働き方になっているかどうか、それを確認しなければならない。例えば、健康を損なうような環境で長時間働くことを余儀なくされたり、(いわゆる追い出し部屋のように)非生産的な単純作業を延々と繰り返すような働き方は、それに適正な対価(賃金)が支払われているかという問題以前に、「卓越」の実践たる働き方とは言えないだろう。これはいささか極端な例かもしれないが、では例えば「ブラック企業」での働き方がどうなのか、あるいは派遣労働者の働き方がどうなのか、といった議論をする場合に、その働き方が「卓越」の観点に照らしてどうか、ということが判断基準の一つになるのではないかと思う。

 現在、「同一労働同一賃金」の実現が議論されているが、これは、労務の提供に対する対価(賃金)が適正な水準となっているか、という論点であり、それはそれで重要な論点であるが、その前に、そもそもの労働の内容が適正かどうか、すなわち「労働の質」が問われるべきではないだろうか。やりがいのある仕事かどうか、能力を活かせる仕事かどうか、成長できる仕事かどうか、といった「労働の質」を問うことを通じて、働くことの意味を再確認することが必要である。
 もっとも、「労働の質」を問うた結果、改善すべき点が見つかったところで、では、政策として何ができるのか、というのはまた別の問題だ。労災事故の防止や安全衛生の確保といった最低限の規制は必要であるにしても、単純・定型的で必ずしも労働者の成長につながらないような業務が現に存在し、労働者にとってもそうした業務であっても仕事がないよりまし、ということであれば、仕事の内容に政府がどこまで手を突っ込むべきなのか、というのは難しい問題である。

 だからといって、働くことの意味について論じることを諦めるべきではないだろう。落語の「芝浜」や最近では「プロジェクトX」の例を持ち出すまでもなく、日本人にとって働くことは美徳とされてきた。そうした見方が、最近変わりつつあるのかどうか。働くことの意味を、今、改めて確認することが必要だと思う。

Bitter memories about Korean

 「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に関して、日韓の歴史認識の差が話題になっているが、私も韓国についてはほろ苦い思い出がある。もう10年以上前のことだ。

 学生の頃、私は国際交流のサークル(国際的な学生団体)に所属していて、同じ学生団体のソウル大学支部との交流会を企画したことがあった。サークルのメンバーから希望者をそれぞれ集めて、お互いの国を訪問して意見交換をしよう、といった内容で、まずは韓国側から始めようということになり、私は同僚や後輩を何人か連れてソウルに向かった。

 ソウルで韓国側のメンバーと合流し、ソウル大学や繁華街などを一通り観光した。若い大学生同士、しかも、お互いに国際交流のサークルに属していることもあって、非常に和気藹々とした雰囲気だった。

 その後、大学内の教室で意見交換の時間になった。日本と韓国で意見交換とくれば、当然、日本の戦争責任の話になる。でも、私は楽観していた。国際交流をしようと思って集まっている若い世代の我々が話し合えば、必ず分かり合える。それがこの会の目的だろうと。

 ところが、である。議論をしているうちに、お互いがだんだんヒートアップしてきて、ついには言い合いの喧嘩のような雰囲気になってしまった。議論は平行線になり、出口も見えない状況になったので、我々企画委員のメンバーが割って入って議論を止め、休憩にした。私と特に仲の良かった韓国側の企画メンバーは、とても悲しそうに首を振っていた。

 どうしてこうなってしまうのだろう。私はショックだった。なぜ分かり合えないのか。我々のようなメンバーが分かり合えないとしたら、一体誰が分かり合えるというのだろう。私は、日本と韓国が抱える問題の根深さを思い知った。

 そのときに言い争いになった一つのきっかけは、日本が戦争責任について韓国に謝ったかどうか、という点だった。日本人のメンバーは、皆、もう何度も謝っていると考えていた。韓国人のメンバーは、皆、まだ謝っていないと考えていた。それで言い合いが始まった。我々が若かったということもある。あるいは、英語でコミュニケーションをしていたために、細かいニュアンスが伝わりにくかったという面もあった。

 今から考えると、韓国のメンバーを苛立たせたのは、我々のこの問題に対する認識そのものというよりも、むしろ、「この問題はもう解決済みである」という我々の態度だったのではないか、と思う。韓国のメンバーも、仮にも国際交流に関心のある人たちばかりだ。こと日韓について歴史認識に食い違いがあることも分かってはいただろう。だから、たとえ我々の認識が彼らの認識と異なっていたとしても、それだけで感情的になったりすることはなかったのではないかと思う。それよりも、意見が食い違ったときに我々が(無意識のうちに)見せた、「どうしてこんなことに拘るのだろう」、「もう終わった話ではないか」という態度、そして、それに起因する我々の無関心や不勉強に、彼らが反発したのではないかと思う。

・・・

 それから何年かして、日本では韓流ブームになった。歴史認識の差を埋めることは難しくても、実態として交流が深まることは、日本人にとっても韓国人にとっても大変良いことだと思っていた。交流が深まってお互いの感情が改善していけば、歴史認識の差も埋めやすくなるだろうと思った。

 しかしというかやはりというか、両国の溝を埋めるのはそんなに簡単ではないようだ。その後、竹島問題などで日韓の関係は悪化し、最近の内閣府の調査では、韓国に親しみを感じない、どちらかというと感じない、とする意見が過半数を占めるようになった。

 そして、冒頭に少し触れたように、世界遺産登録に関連して、日韓の歴史認識の差が改めて話題になっている。もし今回、世界遺産登録が先送りされたとしたら、日本人の韓国人に対する感情が更に悪化することは避けられなかっただろうから、結果として世界遺産への登録が合意されたことは良かったと思うけれど、その一方で、日本政府は「強制労働ではない」と言い、韓国政府は強制性を強調している。残念ながら、このことが報道されるたびに、両国民のお互いに対する感情は悪化するだろう。

 時間内に合意するために、お互いが自国民に対して説明できるぎりぎりのラインで文言を調整する、というのは理解できるし、おそらく他に手段もないのだろうと思う。でも、それによって、日韓それぞれの国内向けの説明の内容に違いが生じることで、この案件に対する日本人の認識と、韓国人の認識との間にも差異が生じることになる。こうした積み重ねが、結局、私が学生時代に経験した日韓の認識の差に繋がっているような気がする。