坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

伊達政宗の仙台開府と最上義光の山形城

伊達政宗は家康の許可を得て、慶長5年の12月から仙台城の築城を始めた。
いわゆる、仙台開府である。
仙台城青葉山に築かれた山城であり、広瀬川を天然の外堀としていた。
政宗は英雄的気概を持った武将で、かつ派手好みであった。
仙台城は本丸御殿を中心に、周囲に計4基の三重櫓、2基の二重櫓、多門櫓などが建ち並んでいた。
大手門には金箔の菊桐の紋を打ち、本丸御殿の入口の車寄門は白木造りだが、旭日、鳳凰、人物、鳥獣、花模様など多彩な彫刻が彫られていて、終日見ていても飽きないことから日暮し門と呼ばれた。
大広間は430畳もあり、周囲に金碧障の壁画が巡らされた豪奢なもので、秀吉の聚楽第を模したものだという。
この大広間殿様が座る一段高いところの更に奥に、もう一段高いところがあり、Wikipediaには「将軍専用の上々段」と書かれているが、俗にいう「帝座の間」のことで、天皇行幸した時にお迎えするための間だと言われている。
「将軍専用の上々段」に合わせて、将軍が使用する御成門まで用意してあったが、御成門はついに使われることはなかった。
また大広間の隣には鳳凰の間があり、正面上段の床には金箔を張り、桐、竹松、鳳凰が描かれていたという。
大広間の東側に朓嬴閣があり、これは清水の舞台のように、懸造という、柱で床を固定して、崖から競りだした建物を造る仕組みでできていた。朓嬴閣からは仙台の町並みが一望できたという。
また仙台城が豪華なだけでなく要害でもあり、支倉常長と共にヨーロッパに行ったビスカイーノをして「日本で最も優れ、最も堅固なるもののひとつ」と言わしめた。

城下町は青葉山から広瀬川の対岸にある台地までの南北5キロ、東西4キロの範囲だった。
武家屋敷では植林が行われ、屋敷林が形成された。
武家屋敷は屋外空間で広く取られており、昭和初期の調査では、ある中級家臣の邸宅は、敷地に占める家屋の面積は7%だった。
仙台藩は接ぎ木を分け与えるなどして植林を奨励し、また郊外の神社仏閣でも参道や境内、敷地の縁辺で植林が行われた。
このような施策は仙台藩に限ったことではないが、仙台は城下町における武士の比率が8割もあり、また樹林は武家屋敷から郊外の神社仏閣、周辺の丘陵地へと連続性を持っていた。
このような町の特徴から、明治後仙台は「森の都」昭和からは「杜の都」と呼ばれるようになった。

 

しかし、政宗の代では仙台城は本丸までしか建設されておらず、二の丸、三の丸は2代藩主の忠宗が建設した。

1が本丸、2が二の丸、3が三の丸



また和賀忠親一揆に関与した疑いで遠慮して天守閣を造らなかったがその本当の理由は

コンスタンティヌスになろうとした伊達政宗 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べた通りである。
天守閣のことはともかく、仙台城は、政宗の時には豪華でも、随分とこじんまりしたものだったことになる。
政宗は天下を狙っていたのではなかったのか?
天下を狙うなら、徳川に攻められた時に、要害でも小さな城で迎え討つのか?
この答えは、隣の藩で、政宗の叔父の最上義光がヒントを握っている。

関ヶ原最上義光は、上杉景勝と交戦、景勝の家老直江兼続率いる上杉の大軍を長谷堂城の戦いで破り、庄内と秋田県南部を手に入れ、24万石から一気に57万石の大大名へと飛躍した。
そして義光は、居城の山形城は大々的に改修し、巨大な近世城郭を築いた。
義光にすれば、大大名にふさわしい城を築いたというところだろうが、実はこの改修した山形城、義光にはちょっと分不相応なのである。

山形駅の東口の大通りから歩いて10分くらいのところに、歌懸稲荷神社がある。
この神社に、「山形城三の丸跡」の石碑がある。
私は生まれも育ちも山形なので、この石碑の存在は子供の頃から知っていた。
しかし子供の頃は、意味がわからなかった。山形城の本丸、二の丸跡である霞城公園は遥か遠くにあるからである。

やがて歴史を勉強し、近世城郭が基本巨大なものだと知ると、「城というのはこんなもんだ」
と高を括るようになった。
しかし、城は通常山形城のようなものではない。
山形城は三の丸まで含めた全城郭面積が235ヘクタール。
秀吉の大坂城が420ヘクタールだから、大坂城の半分以上の面積。全国で5番目の城郭面積の大きさを誇り、東北では最大の城だった。
義光がこのような巨大な城を造ったのは、心理的理由であるように思う。
関ヶ原では、24万石で上杉120万石を相手にしたのである。石高の差5倍。形勢としては東軍を裏切る訳にはいかないが、義光としては滅亡を覚悟せねばならない戦いだった。
まさかの逆転で大藩の領主となった義光は、単に大藩にふさわしい城としてだけでなく、敵に攻められた時にも心理的に安心できる城を築いたと考えるべきだろう。
政宗は、徳川が攻めてきた場合、広瀬川の堤防を破壊して敵の侵攻を防ごうとしていたらしい。確かにそういうこともあるだろう。
また政宗は戦国最後の時期に会津黒川城(現在の会津若松城)を取ったが、城が小さいので家臣が普請して拡張するように進言したところ、「儂はこれからも南を切り取るつもりじゃ。伊達家をより大きくしたら、その時こそ城を大きくしよう」と答えたという。政宗のこういうところも、本丸しか築かれなかった仙台城に通じるようにも思える。
しかし、政宗が天下を目指すには、当面は軍事でなく外交であり、運悪く徳川に攻められることがあれば終わりだという、腹のくくりがあったのだと思う。
また豊臣家が滅び、徳川の天下が定まった後も、野心家の政宗が本丸のみの城に満足し、城を拡張しようとしないことで、幕府も安心できたということもあるだろう。だから政宗のような野心家でない忠宗の代で、幕府も城の拡張を許可したのだろう。
もっとも、天下を目指す意志を持つ者は、信長が岐阜城安土城を造ったように、壮大または華麗な城を築く。だから政宗としては、当面の目的は達成してはいる。

巨大な山形城は大藩でこそ維持できるのだが、最上家は3代で改易となり、その後山形藩は何度か家が変わり、そのたびに石高が小さくなった。
少ない石高では巨大な山形城を維持する費用を捻出できず、やがて本丸は更地に、三の丸の西半分は田畑になったという。
そりゃ山形と仙台では、仙台の方が都市としての立地条件が良く、仙台が大都市を発展するのは当然だと思う。しかしこういう歴史を見ていくと、山形の巡り合わせの悪さを思わずにはいられないのである。
いや、俺先祖は米沢だし、政宗も米沢出身だから巡り合わせが悪いということはないか……。

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