坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『ゼビウス』と『ドルアーガの塔』の遠藤雅伸

タイトーの『スペースインベーダー』により、画面下方の自機から画面上方へ向けてミサイルを発車して敵を撃つスタイルのシューティングゲームが確立した。
その後ナムコの『ギャラクシアン』『ギャラガ』とシューティングゲームは発達し、固定画面でなくてもゲームができるようになったが、その場合どのように画面をスクロールさせるのかが問題となった。
この問題を「自動スクロールでいい」とし、さらに横スクロールならともかく、縦スクロールの場合地上物をどうするかという問題を、空中の敵用のザッパーと地上物を撃つブラスターに分けて出来上がったのが『ゼビウス』である。
南米の緑豊かな風景に、空中、地上物共に銀色のグラデーションで表現した『ゼビウス』は、当時(1983年)としては実に画期的で、シューティングゲームの金字塔となっただけでなく、その後のシューティングゲームの基本形となった。
この『ゼビウス』を作ったのが遠藤雅伸
シューティングの敵キャラの出方が固定すると飽きるというシューティングの欠陥も遠藤はわかっていて、特定の地上物を破壊すると敵の出現パターンが変化する仕様になっている。
これを当時は「空中物の難易度を下げる」と説明されていたが、実際には空中物出現テーブルを一定値戻す仕様で、テーブルの位置によっては強敵が出現することがある。私もよくそれでやられたwww。
キャッチコピーは「プレイするほど謎が深まる」。
いや謎なんてないです。スペシャルフラッグやソルの位置も早期に解明されてたし。
しかし『ゼビウス』は、謎がないゲームをさも謎があるように仕組まれたゲームだったのである。

遠藤は『ゼビウス』の小説も書いていて、ストーリーがWikipediaにあるんだけど内容を覚えたことが一度もなくてwww、「もう単純に宇宙人が攻めてきたじゃダメなの?」と突っ込みたくなる作り込みである。
さらにご丁寧なことに、ゼビ語やゼビ数字というものも登場してさも謎があるかのように仕込んでいる。
おまけにガンプを破壊するのが最終目的なのに、ゲームにガンプが一度も登場しなくて無限ループになっているから、「バキュラに256発ザッパーを当てれば破壊できる」なんてデマはまだかわいい方で、ある特定の方法で「ゼビウス星」を出現させて終局を迎えることができるという噂も飛び交うようになったりした。当時のゲームにそんな容量ないって……。
もっともこれ、例えば『真・女神転生』の「スグニケセ」がやらせだったように、業界側が流したデマかもしれないと思っている。しかし自然発生でも仕組まれたデマでも、『ゼビウス』で様々な噂が飛び交ったのは、ゲーム業界がRPGを売り出す前に、『ゼビウス』は初めてストーリーをゲームに盛り込んだからである。しかも本来ない謎があるように宣伝されたことで、ストーリーは重厚さを増していった。そして当時の人は、ストーリーに飢えていた。
本来無い謎がさも謎があるように仕向けられると、実際に謎があるものよりも、その神秘性への中毒度は高くなる。
そして『ゼビウス』の謎があるように見せられたものは、結果的に遠藤の次作『ドルアーガの塔』の予行演習となる。

元々稼働率の下がっていた『マッピー』というゲームの基盤のROM交換が目的で製作されたというから、遠藤が狙って『ドルアーガの塔』を『ゼビウス』の次作としたのではないのは確かである。
それにしても、『ゼビウス』と『ドルアーガの塔』は全然違うゲームだが、謎という点が共通している。
ゼビウス』と違い、『ドルアーガの塔』には本当に謎がある。しかもその謎解きの不条理さとその数により、『ドルアーガの塔』は『ゼビウス』以上の深遠な世界観を作り出していた。
ドルアーガの塔』は、とにかく雰囲気がいい。
舞台は古代バビロニアだが、小学生の頃の私はヨーロッパの中世だと思っていたし、小学生の私では(というより一神教とそうでない宗教の区別がつかない当時の大半の日本人は)バビロニアと中世ヨーロッパの区別はつかなかっただろう。
謎解きは理不尽そのものだが、様々なアイテムを入手することで、謎さえ解ければ、プレイ後半はプレイが安定するようになっている。
ドラゴンやドルアーガなどのボスキャラの概念もあり、ステージが迷路状であるため、ドラゴンもドルアーガも主人公のギルと同じ大きさで、ボスキャラとしての威厳を欠いていたのが残念だったけど、その代わりドルアーガの登場には3つの化身を倒すなど演出が凝っていた。
また音楽も良かった。通常のBGMは『初代ゼルダ』のフィールドBGMの次に好きだった。
私が『ドルアーガの塔』をプレイする頃には、全ての宝箱の出し方は解明されていたが、それまでのプレイヤー達の努力の数々は伝説となっていた。

そして『ドルアーガの塔』の続編が『イシターの復活』。なんでタイトルが『イシターの復活』なのか今でもわかんないんだけど。
イシターの復活』はレバーが2つあって、二人でプレイするのが前提のゲーム。
ギルとカイを操作して、敵を倒して経験値を積み、死んでパスワードを入手するとレベルアップする。基本プレイ中のHPとMPの回復手段がない。アーケードゲームだから1コインクリアはさせないためにこうしてるんだけど、『イシターの復活』もそれなりに反響があった。
ドルアーガの塔』のような謎解きはないが、『ドルアーガの塔』以上に主人公達の成長を感じられるゲームで、しかもカイの魔法には強力なものもあるが、強力な魔法は使うと経験値を失う仕様になっていて、ファミコンRPGが隆盛する前の、パソコンのリソース管理重視のRPGに近かった。
ドルアーガの塔』以降のシリーズを「バビロニアン・キャッスル・サーガ」と名付けたシリーズ三番目の作品が『カイの冒険』。
ストーリーは『ドルアーガの塔』の前日譚。ギルの代わりにカイがわざわざドルアーガに捕まりに、じゃなくてドルアーガの持つブルークリスタルロッドの奪還のために塔を登るという内容。
ここで遠藤は、成長も謎解きも全部捨てた、見ようによってはパズル要素はあるかもしれないが、『カイの冒険』は純然たるアクション。カイがふわふわとジャンプして敵モンスターを避けて上の階に進むだけのゲーム。
カイの冒険』のふわふわとしたジャンプは、『マイティボンジャック』というゲームと共通していると思うが、私は『スーパーマリオ』を意識したものだと思う。
スーパーマリオ』の脅威の大ジャンプは、Bダッシュがあるからできることだが、Bダッシュは止まると足が滑るという欠点がある。
それが理由か、それとも任天堂Bダッシュ知的財産権でもつけていたのか、他社はBダッシュを真似しなかった。
知的財産権があったかどうかはともかく、他社がBダッシュを真似しなかったのもなんとなくわかって、私も『スーパーマリオ』を面白いと思いながら、足が滑るのが好きじゃなかった。しかしあの大ジャンプはBダッシュあってのことで、Bダッシュするからには足が滑らないとおかしい。
と、『カイの冒険』がなんでRPGじゃなくなってしまったのかという問題から脱線したが、要するに、遠藤はそれまでの深遠なる世界観によるストーリーを畳み始めたのである。
単にストーリーを作るのでなく、深遠な世界観を感じさせるという点において、遠藤は誰よりも優れていた。だからこそゲームにストーリーを盛り込む容量さえなかった時代に、遠藤はプレイヤーにストーリーを感じさせることができた。
そういう遠藤だからこそ、プレイヤーがストーリーの先に「宿命」を見ていることがわかったのだろう。だからさ少なくとも、「深遠な」ストーリーは作らなくなった。
バビロニアン・キャッスル・サーガ」の最後の作品は『ザ・ブルークリスタルロッド』である。
ザ・ブルークリスタルロッド』のストーリーは広くて浅い。なぜなら主人公ギルの行動によってエンディングが変化するマルチエンディングだからである。
マルチエンディングの内容は、当時の時代精神が反映されている。
当時は、善悪を単に良い悪いでなく、悪にも良い面があると考える傾向があった。『ザ・ブルークリスタルロッド』のエンディングにはギルが悪魔になるエンディングもあるが、それがバッドエンディングという訳ではなく、どんなエンディングも等価値であるとした。

 

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