sakanantanのブログ

カフェを開きたい、日常で感じること、コーヒーの知識などを思いつくがままに書いていきます

20歳

今週のお題「20歳」

 

何もしてませんでした。多分。勿論全く何もしていなかったというわけではないんですが、有意義なことという意味では何もしていなかったです。大学をさぼったり、アルバイトを3か月くらいで辞めたりしていた時期だったと思います。バイトを辞めたことを周囲の人間に話してかなりいじられた記憶がありますが、そんな人間だったので、今の20歳くらいの子を見ていると、皆凄くしっかりしているように見えます。

僕は最近30歳になったんですが、30歳になるのと20歳になるのとでは感じ方が違うなと思うのでその辺のことを少し書こうと思いますが、誰かの参考になるような人生を送ってきたとは到底思えないので、こんなやつもいるのか・・・という程度に受け取ってもらえるとありがたいです。

 

僕は昔から変な妄想をするのが好きなのですが、多分20歳くらいの時がピークで、本当に頭がおかしかったんじゃないかってくらい酷い妄想ばかりしてました。

当時よく頭の中に浮かんだのは自分が砂漠の真ん中にいて足元には長いレールが伸びている、そのレールの上をただひたすら歩いている、みたいなイメージです。

 なんでこういうイメージをずっと持っていたのかというと、多分自分の中に何もないという空虚さを感じていたことと、自分が何に迷っているのかがよく解っていなかったんだと思います。学生なんだから学業を優先して頑張るのが当たり前だったんでしょうけど、それ以前に日常生活すらまともに送れない奴でしたから、大学に行って楽しそうに過ごしている人とかを見ると凄いなーと思ってました。

自分に関しては大学でとくにやりたいこともなかったので、何となく始めたアルバイトもまともにやれなかったし、他人とコミュニケーションを取るのも苦手でぼんやりと毎日を過ごしていました。

 

当時モラトリアムっていう言葉が流行っていて、

「おれモラトリアムなんだよねー」

という人が周りにいたりしました。僕もどうして大学にいるんだろう、ここで何がしたいんだろう、こんなの自分の人生じゃないと感じていましたから、完全にモラトリアムだったんですが、自意識過剰だったのでモラトリアムという言葉自体受け入れられませんでした。

だから何となく演劇を少しやったりしていました。今の自分とは全く別の人間になりたいっていう欲求がすごく強かったんだと思います。でも結局何かを演じようと思うと、自分と向き合わないといけなくなるときがあって、それが物凄く嫌でやめちゃいましたね。自分の自意識過剰さを否定されているような気がしたんだと思います。今になって考えると、当時はただ逃げ続けているだけのやつだったので仕方ないことだったんですが、それを見抜かれてしまうことが何より嫌だったんだと思います。それで結局周囲の人間ともうまくやれなかった記憶があります。

そんな風に自分の中の妄想の世界に入り込んで、ずっと頭の中に敷かれたレールから逃れよう、逃れようとしていたので、現実的な焦りは全くなかったですね。だから20歳になったときは特に何も思いませんでした。後になってそういえばもう20歳になったんだなーと一瞬思ったくらいです。

・・・なんか書いててやばいやつだなと思い始めましたが、実際そうだったので仕方ない。今もそうだけど当時は相当面倒な奴でしたね。

 

ただそのあと色々あって、30歳になるときは結構堪えました。30歳っていう年齢には自分が思っていた以上に重みがある気がします。このままじゃずっと一人で孤独に生きていくしかないし、生きていけるかどうかもわからないんじゃないだろうかという現実的な焦りを感じるようになってきたんだと思いますけど、多分10年前に思うべきことだったんでしょう。人それぞれ何かをきっかけにこのままじゃやばい、と感じることがあると思うけど、それはなるべく早い方がいいんだろうと思います。

 なので当時の自分に対してはもっと現実的に色々考えたほうがいいよと言いたいです。そのことで色々な人を傷つけてしまったりもしたし、そのままだと30歳になったらただの孤独なおっさんになっちゃうよ!と。

フットサルに行ったら異常なほど頑張ってしまった

 高校のサッカー部の先生は今までに出会った中でもトップ3に入るくらいの厳しい人で、プロレスラーのような体格をしたハスキーな声の持ち主だった。一度試合に遅刻したとき、「何遅刻してんだよ」と怒鳴られ強烈なビンタを食らったのを覚えている。当時の僕は痛みで涙を流し、そのせいで試合どころじゃなかった。あの人は今はもっと丸くなってるんだろうか。

ここ1年くらい、2か月に1度くらいのペースでフットサルに参加させてもらっている。最初は次の日に支障が出ない程度の意気込みで参加しtていたのだが、いざ試合が始まると犬のように全力でボールを追いかけている自分に気が付く。遊びだからどうしても試合に勝ちたいってわけでもないんだけど、フットサルは5対5という人数で行うため、少しでも手を抜くとすぐに劣勢に追いやられてしまうからだ。しかも今回は可愛らしい女の子が観戦に来ていたせいで、いつも以上に張り切った。プロさながらのスライディングタックルをかます人もいれば、激しく正面衝突して倒れこむ人もいた。僕も自分がつい最近腰痛になったことも忘れてしまい、豪快なボレーシュートをゴールに叩き込もうとしたが空振りして球がころころ転がった。でもこういうモチベーションを感じたのは小学校の運動会以来のことだった。

 

ただし、小学生のころと全く異なることがある。一つは体が動かないことを老化のせいにしていること、もう一つは時間帯が夜だったということだ。

老化については仕方ない。サッカー選手だって引退を考える時期だし。でも自分ももういい年なんで、すぐ息が上がっちゃって駄目ですねーと平然と口にしている姿をあの高校の頃の自分が見たらどう思うだろう。もし昔の自分が今の僕と戦ったら一度もボールに触れられず両手を地面について参りましたと降参する姿しか想像できない。

小さい頃そうやって馬鹿にしていた大人の気持が今ではよく解る気がする。昔父親と一緒に公園でキャッチボールをしたとき、父は大抵すぐに切り上げてベンチに座ってしまい、そんな事お構いなく僕と兄弟たちは続けている。日が暮れても一向にやめようとしない僕らの様子を見ながら、そろそろ帰ろうか・・・と殆ど聞こえないくらいの声でつぶやく父に表情らしきものは見当たらなかった。子供のころってどうしてあんなに元気なんだろう。

もう一つの違いは夜にサッカーをするということ。夜は解放感にあふれているため、普段は都会で肩身の狭い思いをしている大人たちは狼になる。この日に仕事で溜まったストレスを発散させるべく、本気で走り至近距離からでも全力でシュートを放つ大人たちは純粋な子供と何も変わらない。僕も高校時代にかなりきつい練習をさせられたことで身に付いてしまった「取られたら取り返せ」的な精神が本能的に蘇ってしまい、試合は人工芝が剥げるほど激しくなった。でも試合が終わったあとはみんないい表情をしている。

ただその後に行われる飲み会は大抵断る。フットサルと飲み会あわせて毎回3、4千円払わないといけないのがいやなのだ。なんてケチ臭い人間なんだろうと書いてて思った。いや、正直に言うとお金の問題以上に人付き合いが苦手だからなんだけど、毎回誘ってくれる人に対して、少し困ったような苦笑いを作って断るのは申し訳ない気もするし、上手な断り方ないかなと思う。

そして次の日は予想通り体中が筋肉痛になっていた。やっぱ毎月やるのはきついかもしれない。

酷い気分の一日を無駄に過ごす。

馬鹿みたいに眠い日。やってられない!コーヒーもまずい。なんだこれ。ただの苦いお湯じゃないか!そんな風に思ってしまう日がある。そういう日は時間の感覚も忘れ、今が何時なのかも解らないまま、ずっとベッドの中に閉じこもったり、椅子に座ってじっとしていたりする。

 

日が沈んだころ、ようやく自分が今日という一日を特に何もせずに過ごしたことに気が付き、焦って何かしたことにしようとするのだけど、何もしてないのに一日が終わってしまうことに耐えられないので、せめて自分の中で何かしたという事実を作っておきたくなる。

 

たいしたことじゃない。例えば観るつもりもない映画を借りてみる。勿論まったく興味がないというわけじゃなく、当然見たいものを借りてくるわけだけど、でも根底にあるのは映画を借りたという事実を作ることだ。結局見ないで返すことのほうが多いかもしれない。だから僕が借りてくる映画にはパターンも何もない。人気があろうがなかろうが関係はない。だって見ないことのほうが多いんだから。だからその日の気分に合わせて借りてくる。でもスターウォーズはなんとなく見てみたい。

 

映画を借りたらすぐ近くのカフェに入って2階の席に座り、外の景色を眺める。車が走り去っていく。信号が赤になると止まり、その後ろに列ができる。青になると一番最初の車が動きだし、それに続いて後ろの車が少し遅れて徐々に動き出す。そしてまた車が走り去る。その規則的な流れをじっと見つめる。そのことで何かが劇的に変わるわけではないし、変わってほしいとも思わない。大地震が起きて、急に現実がぐらぐらと傾きだしたとしても、きっと僕は車の動きが不規則になることに苛立ちを覚えるんじゃないか。

 

 外の様子をなるべく自分は干渉はせず、ただ見ているほうが気が楽だ。今のこの瞬間を一生懸命生きるっていうことが僕にはとても難しい。すぐに動揺して状況を飲み込めなくなってしまう。そんなことばかりだ。

 

人生は暇つぶしだ!と言っていた人を思い出す。そのときは、え?何言ってんのこの人?と思った。今ではその意味が解るが、その人が今もそう思っているとは限らない。その人はいまや人生は毎日を充実して送るべきだと考えているかもしれない。人間の人生観なんてコロコロ変わる。働いている人とそうでない人では色んなものの見え方も違うだろうし、子供がいる人といない人でも全然違うだろう。僕もこの数年で随分変わった。自分の置かれた状況によって、考えが180度変わることだってある。しかもそのことに自分でも気が付いていないということもあるだろう。

でももしそんな風に変わっていくとしても、多分それはもともとその人の中にあった考え方なのだ。それが周りの環境とか色々な要因で変わっていく。どんな服を選ぶのかと同じだ。そのバリエーションが増えていくだけだ。だから人生が暇つぶしだと思って生きていた人が、次の日に意味のない人生を生きていても仕方ないんじゃないかと言い出したとしても多分それはその人の中で繋がっているんじゃないかと思う。

 

同じように自分がやられて嫌なことを他人にするのはよくないと言うけど、実際には自分がやられて嫌なことを他人にしているケースはよくある。 ありすぎてびっくりする。でもそのことに本人は気が付かない。それを後になってから気が付くこともあるけど、結局客観視できるのは一人でゆっくり考えているときだけで、例えば僕は頭の中では誰のことも嫌ってなどいない、多分そうだと思う。でも現実に誰かとあったり、仕事をしていたりすると気が付けば腹が立っていたりする。

現実は頭の中で考えていることなど殆ど理解されないし、どんなにいいこと考えていても能面のような顔をしていては全く誰にも相手にされない。他人と分かり合うには一緒のことで笑ったり、共感したりすることの力が大きい。だからなるべく楽しいことを考えるようにしたほうがいいんだと思う。つまらないと思って過ごしているとどんどん悪いサイクルに嵌っていく。

 

そんなことを考えている間にカフェの中には誰もいなくなり、店員が慌ただしく机や椅子を拭き始めている。閉店の時間になっていたのにも気が付かず、こんな時間まで何してんだろうと思う。自分でもさっぱりわからない。でもこうして自分がカフェに行ったという事実だけは作られる。こういう日があってもいいんじゃないかと思う。

 

こういう無駄な一日に何か意味があるとすれば時間が経つということだけだ。嫌なことは大体時間が解決してくれる。それならただ悩むより何かしたほうがいい。

 ブログをやり始めたことは自分にとって本当によかった。何かを書いている間は、何かをしている気分になれる。テレビをずっと見ていたり、ネットサーフィンをしたりするよりよっぽどましだ。

酷い気分の日にはコーヒーが美味しいとも思えない。本当にお湯と何が違うんだろうとさえ思う。気分によってコーヒーの味は変わるのだ。最悪の気分の日には、どんなに美味しい最高のコーヒーもただのお湯だ。多分そういう時はお酒を飲んだ方がいい。

コーヒーが一番美味しいと思える時は自分が充実しているときだと思う。集中して何かに取り組んだ後に飲むコーヒーは本当に美味しい。だから本当に美味しいコーヒーを飲むためには充実した毎日を過ごしていないといけないんだと思う。ぼんやりと生きていると、コーヒーの味もぼんやりとしか感じられなくなってくる。起きてすぐお湯を沸かしてコーヒーを入れるのがいい。そうすると大抵美味しく感じられる。だから何か頑張ったほうがいいんだろう。コーヒーのおいしさを思い出すために。