これ、どっちが大きいと思います?この現象を発見したヘルマン・エビングハウス紹介(心理学偉人紹介第7段ヘルマン・エビングハウス紹介)
前話
さあ今回も始めていきましょう。今回紹介するのはヘルマン・エビングハウス(Hermann Ebbinghaus)です。彼は1850年に生まれました。1850年というと日本は江戸幕府で将軍が徳川家慶、中国は太平天国の乱勃発中、ドイツでは1848年革命が起こっていますね。死亡したのが1909年で起こった主な出来事としては伊藤博文が韓国で暗殺され、日本の韓国併合が急速に進んだことくらいですね。
エビングハウスについて大まかに説明すると記憶に関する研究を行った心理学の先駆け的な人物です。有名なものでいえば記憶の持続能力に関してグラフで示した忘却曲線の研究などですね。
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マダナイヨ
前回の心理学偉人紹介の語呂合わせ
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1 8 32年
①ひとはさじもちやって来る。ヴェルヘルム・ブント誕生。
(人は匙持ち)
※ヨーロッパには生まれた子供に銀のスプーン(匙)をあげる習慣があります。
1879年
②いやなくうきを入れ替えて作ろう。ヴェルヘルム・ブントが心理学研究所を設立。
本編
彼のプロフィール
本名 ヘルマン・エビングハウス(Hermann Ebbinghaus)
出身地 ドイツ
年齢 1850年1月24日~1909年2月26日(59歳)
出身校 ポン大学(フリードリヒ・ヴェルヘルム大学)
勤め先 ベルリン大学 プレスラウ大学 ハレ大学
死没地 ドイツ
彼の功績
忘却曲線の研究
忘却曲線とは人の記憶に関する研究で、人は覚えたことを再び覚えるまでに前回と比べてどのくらい短く記憶できるかをグラフで表したもの。学習心理学に分類される。これは覚えたことを1時間後にどのくらい覚えているかを確認するグラフだと誤解されることが多いので注意が必要。ちなみにこの実験エビングハウス本人が被検体として行っている。実験の内容は「か と ひ」「し と れ」の様に意味がない言葉をまずは記憶して、それを30分後、1時間後、5時間後、1日後などに再度この問題を行い、再び完璧に覚えるまでの時間を記録し、それが1回目とどれくらいの時間の差なのかでこのグラフが作られた。エビングハウスによると記憶してから1時間で覚えていること(これからは記憶力と表記)は急激に減り、そこからは緩やかになっていっている。
エビングハウス錯視
彼のもう一つの功績である。認知心理学(ゲシュタルト心理学)に分類される事象。
これがエビングハウス錯視である。中央のオレンジの円に注目してください。この2つの円はどちらが大きいと思いますか。右の円の方が大きいですよね。いや、実は違うんです。手を近づけてみてくれれば分かると思うのですが実はどちらの円も同じ大きさなのです。なぜ右の方が円が大きいと思ってしまったのでしょうか。それは近くにある円が関係しています。近くにその物よりも大きいものがあるとそのものが小さく見えてしまいますが、反対に近くにその物よりも、小さいものがあった場合はその物が大きく見えてしまうということらしいです、が詳しいことはまだ分かりかねているそうです。
彼の歴史
ヘルマン・エビングハウスは1850年にプロイセン王国(ドイツ)のラインラントで
ルター派を信仰している裕福な商人の子として生まれました。彼は町のギムナジウムに通っていました。しかし幼少期の情報はそれくらいしかありません。
赤い地方がラインラント地方である。ライン川一帯を指している。
1867年(エビングハウス17歳)の時にポン大学に入学し、歴史や文学を学ぶ予定だったが最終的には哲学を学び始めました。1870年(20歳)の普仏戦争で研究が一時中断されるが1873年(23歳)に哲学の論文を書き上げて、博士号を獲得ます。それから3年間はハレとベルリンで生活していました。
下積み時代
エビングハウスは哲学博士を取得後、英仏で家庭教師をして生計をたてていました。その時ロンドンの古書店でふと手にしたグスタフ・フェヒナーの著作「精神物理学要網」に出会い、これに感化されて彼は後に有名となる心理学実験を行います。
グスタフ・フェヒナー(1801年~1887年)
心理学研究所時代
ベルリン大学で研究を始めたエビングハウスはドイツで3番目となる心理学研究所(ヴェルヘルム・ブント、ゲオルク・ユリアス・ミラーに続く)を設立し、1879年(29歳)から自身の研究を始めました。
ゲオルグ・ユリアス・ミラー(1850年~1934年)
ヴェルヘルム・ブント(1832年~1920年)
1885年(35歳)の時彼の代表作ともいえる「Über das Gedächtnis Untersuchungen zur experimentellen Psychologie」が出版されます。これは後に英語版になったのを経て、日本でも「記憶について。実験心理学への貢献」という題名で出版されています。この出版物の功績は非常に大きかったようで、彼はベルリン大学の教授に就任します。1894年(44歳)の時に確証はありませんがおそらく論文の不足が原因で哲学教授の昇格が見送られたのをきっかけに、プレスラウ大学(現在のポーランドのヴロツラフ大学)に移籍します。彼はプレスラウにいる間に子供たちの精神能力が学校がある日にどのように変化するのかを探ります。どうやって探ったかの詳細は不明だがそれが成功し後の、知能指数検査の元となっています。彼はプレスラウでも心理学研究所を設立します。
ヴロツラウ大学16世紀から続く名門校
1902年(52歳)の時に「記憶について」に続く著作「心理学の原則(Die Grundzüge der Psychologie)」を出版した。それはすぐに高い評価を受け、死後もずっと好評が続きます。1904年(54歳)彼はハレに移住して以後は死没する数年間をここで暮らしています。1908年(58歳)の時にエビングハウス最後の著作「心理学の概要(Abriss der Psychologie)」を出版し、これも高評価だった。この刊行からしばらくした1909年2月26日に肺炎により、59歳の生涯を閉じた。
まとめ
- 1850年にプロイセン王国(ドイツ)のラインラントで生まれた。
- しかし、幼少期はギムナジウムに通っていたということ以外は特に分かっていない。
- 1867年にポン大学に入学し、歴史と文学を学ぶつもりだったが、最終的に哲学に興味を持ち、博士号を取った。
- その後は英仏で家庭教師をやりながら生計を立てていた。その時にたまたま立ち寄った古本屋でグスタフ・フェヒナーの本を発見し、それに感化されて後に有名になる実験を行うきっかけになった。
- 1879年にベルリン大学にドイツで3番目となる心理学研究所を作った。
- 1885年に彼の代表作である「記憶について。実験心理学お貢献を出版する。
- 1894年にベルリン大学からプレスラウ大学に転校した。
- 1902年の時に「心理学の原則」を出版。これは彼の生前から評価が高かった。
- 1904年にハレに移住して、以後はそこで亡くなるまで過ごした。
- 1908年に「心理学の概要」を出版。これも高評価だった。
- 1909年に肺炎で亡くなった。59歳だった。
あとがき
以上でエビングハウスの紹介を終わります。彼は特に後見の教育などはしなかったのですが、「自分は今研究していることをやりたい」という思いで研究を行っていたそうです。そのおかげで、エビングハウスという名前が入ったものが色々出来たんですね。確かに前回紹介したヴントのように後見の教育に自分の人生を費やすというのもいいですが、そんな人ばっかりになってしまうと逆に心理学を深く研究する人が消えてしまいますからね。こういう人も大事だなあと思いました。
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心理学に一番影響を与えた人物。ヴェルヘルム・ブント紹介(心理学偉人紹介第6段ヴぇるヘルム・ヴント)
前話
今回の心理学偉人紹介で紹介するのは「実験心理学の父」ヴェルヘルム・ヴントです。心理学史といえば心理学三大巨頭のフロイト・アドラー・ユングが主軸になりますが彼はそれよりもっと前に活躍した人物です。いうなれば戦国時代の北条早雲のような心理学の先駆け的人物です。
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マダナイヨ
ヴントのプロフィール
名前 ヴェルヘルム・ヴント
生年月日 1832年8月16日~1920年8月31日(享年88歳)
出身地 ドイツ マンハイム
心理学学派 生理心理学 民族心理学 実験心理学
彼の功績 世界で初めての心理学研究所を設立
前回の心理学偉人紹介の語呂合わせ
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19 3
①ベルヴュー精神病院に勤務しにがまぶしいデイビット・ウェクスラーがいく、サ
2
ニーがまぶしい。
1981
②いくはいっさい何も見ずにデイビット・ウェクスラー死去。
本編
ヴェルヘルム・ブントの歴史
子供時代
ヴェルヘルム・ブントは1832年8月16日にドイツ中南部のマンハイムのネッカラウに四男として生まれました。父は牧師のマクシミリアン・ブントで父方の祖父は、ヴィーヴリンゲン(南ドイツ)大学で教授兼牧師を務めている牧師一家でした。
ヴントは高校時代までは学校と勉強が嫌いで高校時代に落第してしまいました。しかし、1851年(ヴント19歳)にテュービンゲン大学、ベルリン大学、ハイデンベルク大学の医学部に入学してからは必死に勉強するようになり、1856年(24歳)に医学博士を取得後卒業しました。卒業後は研究顧問カール・エワルド・ハッセと共に
カール・エワルド・ハッセ(1810~1902)
短期間学んだ後、ハイデルベルク大学の教員に加わり、1858年(26歳)から5年間生理、物理学者のヘルムホルツの助手に就きました。
ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ(1821~1894)
そこでヴントは「知覚の理論への貢献」を書くなどをしました。1862年(31歳)から私講師(ドイツで教授職には就いていないが教授免許を持ち教育活動を行う人の事を指す。)として「自然科学から見た心理学」「生理学的心理学」といったタイトルの講義を担当します。1863年(32歳)から翌年にかけては人間と動物の心理学に関する講義を行いました。1867年にハイデルベルク近郊で神学教授を父に持つソフィー・マウと出会いました。ソフィーとヴントはお互いが神関係の仕事をしている父を持っていることから意気投合し、1972年8月14日にキールで
結婚しました。
ドイツの地図。ベルリンより少し上。デンマークの下の方にキールがある。
心理学部時代
1873年(42歳)に「生理学的心理学綱要」の前半を出版し、翌年の1874年(43歳)に遂にスイスぼチューリッヒ大学の哲学の正教授となりました。また、同年にヴントは心理学の歴史の中でも重要な著書「感覚知覚説貢献」をかきあげました。この本は実験心理学の分野について書かれた世界で最初の本でした。
1875年(44歳)にはライプツィヒ大学(ドイツ)に哲学教授として招かれ、その地に腰を据えました。ヴントはこのライプツィヒ大学でエルンスト・ハインリヒ・ウェバーとグスタフ・フェヒナーと共に感覚心理学と心理物理学の研究を始めました。
エルンスト・ハインリヒ・ウェーバー(1795~1878)
グスタフ・フェヒナー(1801~1887)
1879年に世界で初めての実験心理学の運用を始め、心理学史の多くではこの時を持って「新しい学問分野として心理学が設立した」とされている。その実験室にはドイツ国内だけでなくヨーロッパやアメリカ、果ては日本の研究者まで集まりました。1879年のヴントの講義では平均2時間、週6日言語心理学、人類学、生理学、宇宙論など幅広いプログラムを行っています。
ヴントの研究はタキストスコープ、クロノスコープ、振り子、電気機器、タイマ-、感覚マッピング装置などの多くの機器を使って行っていました。1885年から1909年までに実に184人の大学生、15人のアシスタントが集まりました。
ヴント研究グループがライプツィヒ大学で行っている実験の様子。真ん中で座っているのがヴント。
ヴントの元で学んだ学生の内70人が海外の人間でした。またヴントの元で学んだ学生が後に有名な心理学者となった例が沢山あります。「無心象思考」の発見者オズワルド・キュルペやエルンスト・ミューマン、実業家でツェッペリン号のマネージャーのフーゴー・エッケナー、「統合失調症」の提唱者エミール・クレペリン。アメリカ人には米国心理学の名教授ジェームズ・キャッテルや児童心理学の父スタンレー・ホール。イギリス人にはデイビット・ウェクスラーの時にも紹介したチャールズ・スピアマン、ブカレスト大学の哲学部長コンスタンティン・ラドゥレスク・モトルなどの後に心理学界を背負う人物を多数輩出しています。
ヴントのドイツ人の弟子
オズワルド・キュルペ(1862年 - 1915年 )
エルンスト・ミューマン(1862年~1915年)
フーゴー・エッケナー(1868年~1954年)
エミール・クレペリン(, 1856年~1926年)
ヴントのアメリカ人の弟子
ジェームズ・キャッテル(1860~1944)
スタンレー・ホール(1844年~1924年)
ヴントのイギリスの弟子
チャールズ・スピアマン(1863年~1945年)
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コンスタンティン・ラドゥレスク・モトル(1868年~1957年)
しかし、ヴントの論文の多くは翻訳不足やヴントの学生による虚偽の証言のため米国では半世紀ほど間違って伝えられました。
ヴントの死から死後の影響
ヴントは1917年(85歳)の時に引退してからは執筆活動に専念しました。
1920年に彼は急激に衰え、8月の誕生日の直後にドイツのザクセンハイムで亡くなりました。
現在は妻のソフィーと共にライプツィヒの墓地に埋葬されています。
また、1991年にアメリカで掲載された「影響を与えた心理学者ランキング」にて米国心理学の祖ウィリアム・ジェイムズ、心理学三大巨頭の一人ジークムント・フロイトを抑えて29人の心理学者が選んだ心理学者堂々の一位を獲得しました。
まとめ
- ヴェルヘルム・ヴントは1832年にドイツで生まれる。父は牧師だった。
- 1851年に様々な大学に入学し、嫌いだった勉強を必死に取り組み、医学博士号をとった。
- 卒業後は短期間学んだ後ハイデルベルク大学で1858年から5年間ヘルムホルツの助手につき研究した。
- 1862年から私講師として講義を担当する。
- 1873年にスイスのチューリッヒ大学に正教授として教鞭をとる。
- 1875年にライプツィヒ大学に哲学教授として招かれる。
- 1879年に世界で初めての心理学研究所を創設する。
- 1885年から1909年に約200人の学生を指導し、その中からたくさんの著名人を輩出した。
- 1917年にライプツィヒ大学の教授を引退し以後は執筆活動に専念する。
- 1920年ドイツのザクセンハイムで亡くなる。
後書
以上でヴェルヘルム・ヴントの紹介を終わります。彼は心理学の研究だけではなく後の心理学者の教育に力をいれたため、非常に有名な人物となりました。基本的に心理学者はヴントと関わっているといっても過言ではありません。そんな彼ですが日本では宮城生まれの心理学者千葉胤成が持ち帰った資料が東北大学に沢山あるようです。是非一度見に行ってみてはいかがでしょうか。
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分化と統合について調べたオーストリアの真理学者ハインツ・ヴェルナー(心理学偉人紹介小話第1段ハインツヴェルナー)
今回のブログの趣旨兼前話
今回は心理学者の中でちょっと有名な人物について紹介していきます。(その人の情報が十分でない場合や顔の画像が見つからなかった時にこういう風に紹介していきます。多分すぐ終わります。
本編第一弾はこちら!!
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本編
彼の功績
今回の主役はドイツ出身の発達心理学者ハインツ・ヴェルナーです。彼の有名な功績として挙げられるのは相貌的知覚の提唱と、定向進化の原理ですね。
相貌的知覚というのは乳幼児期(生後一年前後)に全ての実在物を人間と同じ表情や運動・反応を持つものと知覚して、人間と同じ様な表情や情動の形で表現する傾向のこと。例を挙げると幼い子供が花を見て「お花がしょんぼりしてる」と考えることが相貌的知覚です。
定向進化の原理というのは有機体は未分化な状態から分化、統合へと進むという原理です。分かりやすく書くと、生き物は複雑に絡まりあっていない状態から、複雑に絡まりあい、統合へと進んでいくでしょう。という感じです。
彼の経歴
子供時代編
ハインツ・ヴェルナーは1890年に四人兄弟の次男としてオーストリアに生まれます。親は貿易メーカーに勤めていました。彼の父親は彼が4歳の時に亡くなりますが、預金が大量にあったため貧しくならずに済みます。ヴェルナーは小学から高校までをオーストリアのウィーンで過ごしています。
学校で過ごしていた時には音楽でのヴァイオリンや科学などに興味をもっていました。特にその時に読んだ進化論に関する本を読んだことでその方面に興味を持つようになり、それが後の大学の専攻に関わってきます。1908年(ヴェルナー18歳)にエンジニアを目指して、ドイツの工科大学に入学しました。しかし、自分は本当にこれをしたいのかと悩むようになり、最終的に作曲家になるためにウィーン大学に入学します。
大学在学中に様々な資料を読んでいく中で哲学と心理学に興味を持つようになります。1913年(23歳)の時には「概念的形態の遺伝的表」という論文を発表します。そして1914年(24歳)に論文「美的楽しみの心理学」を発表し博士号を取得し、卒業します。
青年時代
卒業後は知覚心理学の研究者ジークムント・エクスナーの助手として大学に残ります。
ジークムント・エクスナー(1846~1926)
そして1914年から1917年までの兵役期間を経て、ミュンヘン大学とウィーン大学の両方で研究を行いました。また、同じ年にハンブルクの心理学研究所でIQ概念の創始者ウィリアム・スターンの研究助手に就任します。結局、1921年からハンブルク大学で教授の地位を与えられ、12年間勤めました。
ウィリアム・スターン(1871~1938)
ハンブルク大学では様々な分野を研究していましたが、特に知覚、スピーチの美的表現力などについて研究をしました。彼は1933年にナチスが台頭してきたことによりハンブルク大学の地位を離れ、最終的にミシガン大学の教授の地位に就きました。
それから3年間ミシガン大学の助成金を受け取りながら、ハーバード大学の客員教授になっていましたが、翌年ウェイン郡(アメリカ)のトレーニングスクールで上級研究心理学者としてミシガン州に戻りました。妻の死後、彼は1942年にブルックリン大学の教職を得るためにスクールを去りました。5年後(1947年)クラーク大学で心理学の教授として雇われるために大学を離れました。ここでの彼の在任歴は彼の在任記録の中で一番長く17年(1947~64)勤めていました。
そして1964年の5月14日に彼はウェスト・ミッドランズで亡くなりました。享年74歳でした。
イギリスのウェスト・ミッドランズ
まとめ
- 彼は1890年にオーストリアで生まれる。
- 幼い頃はお金に困らない生活をし、小学から高校の間ではヴァイオリンや科学に興味を持っていた。
- 大学時代最初はエンジニアを目指して、工科大学に入っていたが作曲家になる夢を諦めきれず結局ウィーン大学に転入した。そこで様々な資料を読んでいるうちに心理学に興味を持つようになり在学中に論文を書ききり博士号を得た。
- その後はジークムント・エクスナーやウィリアムスターンの元で研究を続け、1921年からハンブルク大学に勤めた。
- ナチスの迫害により国外に亡命して以後はアメリカで過ごす。
- 様々な大学を転々とした後、ブルックリン大学に17年間務めた。
- 1964年にイギリスで没した。享年74歳だった。
あとがき
以上でのハインツ・ヴェルナー解説を終わります。彼は日本版のウィキペディアに記載がないマイナー偉人なのですが、相貌的知覚などは子供の生態というか気持ちの研究にとってまあまあ重要なことなので是非にこれを読み終えても覚えておいて下さい。
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ゲシュタルト心理学・群化の法則を提唱したドイツの心理学者マックス・ウェルトハイマー(心理学偉人紹介第5段マックス・ウェルトハイマー紹介)
前話
今回の心理学偉人紹介で紹介するのはゲシュタルト心理学の生みの親マックス・ウェルトハイマーです。このウェルトハイマーの出身地はドイツですが後にアメリカに移住しています。彼は1880年に生まれ1943年に亡くなります。1870年のドイツというと普仏戦争でプロイセン王国がフランスをうち破ってその次の年にドイツ帝国が成立した年です。彼が亡くなった1943年では第二次世界大戦で枢軸国が劣勢に立たされ気味な時世で、ドイツの首相はヒトラー、アメリカではフランクリン・ルーズベルト、日本では東条英機が務めている時期ですね。
それではまずはゲシュタルト心理学とは何なのかという人の為に説明いたします。
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デイビット・ウェクスラーの語呂合わせ
今回も前回紹介したデイビット・ウェクスラーの紹介を致しまするで候。
18 96
①いや、くろあちあで生まれたんじゃないのかよ!!デイビット・ウェクスラー誕生。
1949
②いくよくろあちあ(行くとは言ってない)WAIS(ウェクスラー式知能検査)誕生
1974
③いくなよクロアチア(行くなとは言ってない)WAIS改訂版を作る。
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本編
ゲシュタルト心理学の説明
ゲシュタルト心理学(別名形態心理学)とは心理学派の一つでヴントの主張の反対意見として20世紀に樹立されたものです。ユダヤ系の心理学者が多かった傾向にありました。そのためナチスの迫害によりアメリカに亡命した学者が多かったようです。ゲシュタルト心理学で有名な学者として「洞察学習」のヴォルフガング・ケーラー、ゲシュタルト心理学創始者の一人クルト・コフカ、「リーダーシップスタイル」の提唱者クルト・レヴィンなどがいます。
ヴォルフガング・ケーラー(1887~1967)
クルト・コフカ(1886~1941)
クルト・レヴィン(1890~1947)
この考えが後に知覚心理学、社会心理学、認知心理学に引き継がれました。ちなみにこのゲシュタルトというのをより元の発音に近い「ゲシタルト心理学」と呼ぶ学者もいます。
ゲシュタルト心理学の基礎として「全体は部分より大きいというものがあります。それが分かる例としてウェルトハイマーが提唱した群化の法則について解説します。
皆さんはこの二つの絵をみてどう考えたでしょうか。一枚目は■と●が列で交互になっている。二枚目は○と●が列で交互になっていると考えたのではないでしょうか。ここで模様一つ一つに注目して見たという人や横のまとまりで見たという人ははいないでしょう。このようにゲシュタルト心理学は視覚・聴覚などを部分で考えるのではなく全体として考えられていると考える心理学です。他にも
この2次元の絵(立方体)が3次元に見えるのもゲシュタルト心理学が原因です。
歴史
子供時代
マックス・ヴェルトハイマー(マックス・ウェルトハイマーとも表記)は1880年にチェコのプラハで生まれます。マックスの父ヴェルヘルム・ウェルトハイマーは金融家
で教育に非常に熱心でした。マックスは自宅で政治や教育の議論を行うだけではなくピアノとヴァイオリンのレッスンを受けています。パルーフ・デ・スピノザの本を贈り物として貰ってからは哲学に興味を持つようになり、後に大学で心理学を学ぶきっかけになります。マックスはローマカトリック教会が管理する小学校に5歳で入学し、10歳で卒業すると王立帝国新都市ドイツ州立高校に入学しました。彼はそこで優秀な成績を収めたようです。
大学生になるとドイツのベルリン大学で心理学を学びます。
ゲシュタルト心理学創始まで
ウィーン(オーストリアの首都)からラインラント(ドイツ西部)に向かう汽車の中偶然仮想運動の発想(ゲシュタルト心理学の原点)を閃きます。そしてそのままフランクフルト(ドイツ)で途中下車をしてそのままフランクフルト大学で同じユダヤ系のクルト・コフカとヴォルフガング・ケーラーと共に実験を行います。
ゲシュタルト心理学時代
1912年にケーラーとコフカと共にゲシュタルト心理学の始まりを告げる一冊となった「運動視の実験的研究」を発表します。
1916~1929年までフランクフルトを離れベルリン心理学研究所で仕事を続けます。1923年にマックス・ウェルトハイマーは医師の娘アンナ・カロと結婚し、4人の子供(ルドルフ、バレンティン、マイケル、リス)をもうけます。1929年にフランクフルト大学の教授として戻り、1933年まで滞在します。
1933年にナチスのアドルフ・ヒトラーの台頭に危機感を持ったウェルトハイマーは、ヒトラーが政権を握る前にアメリカに亡命します。そして、ニューヨーク市の新しい社会研究学校で教え始め、約10年間働き続けました。その成果もあってその学校は20世紀の心理学における重要な学校の一つとなりました。ちなみにクルト・コフカはスミス大学で教えていました。
1942年に妻アンナ・リスと離婚し、翌年の1943年10月12日に冠動脈血栓症により没します。彼の葬儀は盛大で、相対性理論で有名なアインシュタインも来たそうです。
没後1945年に「生産的思考」が刊行されます。
後に息子のマイケル・ヴェルトハイマーは有名な心理学者でコロラド大学の名誉教授となりました。
あとがき
以上でマックス・ウェルトハイマーの歴史紹介を終わります。彼は後の心理学のいわば礎を築いた人物です。彼を語らずにゲシュタルト心理学。そこから派生した知覚心理学、社会心理学、認知心理学を説明することはできないでしょう。更に群化の法則の様に新たな法則を沢山生み出した方です。ぜひ覚えておいて下さい。
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IQ検査の生みの親デイビット・ウェクスラー(心理学偉人紹介第4段デイビット・ウェクスラー)
IQ。と聞いて何を思い浮かぶでしょうか。東大とか京大に言っている人。とか、アインシュタイントかダ・ヴィンチみたいな人。などのことを想像するでしょう。でも、皆さんはIQの事についてどのようなことをご存知でしょうか。例えばそう、現在のIQを測れる仕組みを作ったのは誰なのかということを。今回はWAISやWASCなどの現在でも使われる方法を編み出した心理学者デイビット・ウェクスラーについて書いていきます。
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※次回の心理学紹介はこちら
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レフ・ヴィゴツキーの語呂合わせ
と、その前に前回も行った語呂合わせ(自作)も今回作ってきたので紹介致します。
※前回のレフ・ヴィゴツキーについて紹介されたブログはこちら!!
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189 6
①いやく(曰く)ろしあでレフ・ヴィゴツキー誕生也。
1934
②そろそろ(あの世に)いくさヨシフ・スターリンバイバイ。レフ・ヴィゴツキー死去
本編
デイビット・ウェクスラーの功績
WAIS(ウェクスラー成人用知能検査)
WAIS(Wechsler Adult Intelligence Scale、略称WAIS、ウェイス)は別名ウェクスラー式知能検査とも言います。WAISは1939年にウェクスラーが作ったウェクスラー・ベルビュー知能検査の改訂版として1955年に再びウェクスラーが出版したものです。
まず大まかにWAISは言語性検査と動作性検査の二つを測り、その後にそれを総合した評価によってIQを測ります。
言語性検査は言葉で答える問題。例を挙げるとクイズ番組など。
動作性検査は言葉以外で答える問題。例を挙げるとパズルなど。
です。更に言語性検査と動作性検査の中にも様々なものがあります。具体的には
言語性検査
- 知識
- 文化によって獲得した一般知識の程度。(例「ビクトリアの長は誰ですか?」)
- 理解
- 抽象的な社会慣習、規則、経験を扱う能力。(例「一石二鳥という諺はどのような意味ですか?」)
- 算数
- 数学問題を暗算する集中力。(例「1ドルで45セント切手を何枚買えますか?」)
- 類似
- 抽象言語理解。(例「りんごと梨はどのようなところが似ていますか?」)
- 単語
- 学習や理解の程度、および語彙の言語表現力。(例「ギターとは何ですか?」)
- 数唱
- 注意・集中。(順唱例「1-2-3」、逆唱例「3-2-1」)
- 語音整列
- 注意と作動記憶。(例「き・4・け・3・か」を、昇順に数字を言い、その次に昇順に発音して下さい→「3・4・か・き・け」)
動作性検査
- 絵画完成
- 視覚的細部を素早く感知する能力。
- 符号
- 視覚的-運動協応、運動と心のスピード。
- 積木模様
- 空間認知、視覚的抽象処理、問題解決力。
- 行列推理
- 非言語的抽象課題解決力、帰納的推理、空間推理。
- 絵画配列
- 論理/逐次的推理、社会見識。
- 記号探し
- 視覚認知、スピード。
- 組合せ
- 視覚分析、統合、組み立て。
補助問題として「符号補助問題1(対再生)(自由再生)」と「符号補助問題2(視写)」がある。
(引用 Wikipedia)
のようなものがある。そして前述した方法をすべて得点形式で評価し、その総合得点を年齢と割ったものが皆さんが知っているIQです。
WASC(児童用知能検査)
WASC(Wechsler Intelligence Scale for Children、WISC、ウィスク)は6歳から16歳までを対象としたもので、
- 言語理解指標(Verbal Comprehension Index、VCI)
- 視覚空間認識指標(Visual Spatial Index、VSI)
- 流動性推理指標(Fluid Reasoning Index、FRI)
- ワーキングメモリ指標(Working Memory Index、WMI)
- 処理速度指標(Processing Speed Index、PSI)
(引用 Wikipedia)
の5種類の観点を得点にし、総合した点数がIQとなる。初版と第2弾はウェクスラーが作ったものだが(初版1949年第2版1974年)第3版は死後(1991年)に作られたものである。
デイビット・ウェクスラーの歴史
幼少時代
ウェクスラーは1896年にルーマニア、ヤシ県のレスペジィ村で生まれました。
緑色がルーマニア。
ユダヤ人の家庭に生まれた彼は幼い頃に一家でアメリカに渡りました。その後、ニューヨーク市立大学を卒業し、コロンビア大学で、「教育評価の父」エドワード・リー・ソーンダイクやジェームズ・キャッテルに師事し、1917年に修士号を、1925年に博士号を取っている。
エドワード・リー・ソーンダイク(1874年~1949年)
第一次世界大戦辺りの時代
第一次世界大戦が始まってからは、米国陸軍と共に、徴兵作業の心理検査の開発に尽力した。その後、ロンドン大学の一般因子と特殊因子の発見者で心理学者のチャールズ・スピアマンと、記述統計学の大成者カール・ピアソンの元で研究を行った。
チャールズ・スピアマン(1863年~1945年)
ベルビュー精神病院時代
5年間開業医生活と色々な施設をみてきたウェクスラーは、1932年から1967年の35年間ベルビュー精神病院に勤務。また、アメリカの中で一番歴史が古いベルビュー精神病院に勤務した翌年からニューヨーク大学付属病院に勤務するようになった。
死去
1981年5月2日にアメリカのニューヨーク州ニューヨークで死去。享年85歳。ウェスクラーが作ったWISC、WAISは生前から評価されていた。
まとめ
- 1896年にルーマニアで生まれる。
- 幼い頃に家族と一緒にアメリカに渡航する。
- ニューヨーク市立大学を卒業し、コロンビア大学でソーンダイクなどに師事する。
- 第一次世界大戦で徴兵作業の心理部門で働く。
- その後、ベラニュー精神大学で35年間働く。この時にWAISなどを作り上げる。
- 1981年に死去。
あとがき
以上でデイヴィット・ウェスクラーの紹介を終わります。彼は19世紀生まれなのにも関わらず、現在でも使われている方法を作っていますからすごいですよね。あ、気になっている人がいるかもしれないのでいいますがナチスの迫害で逃げたのではありません。時代がちょっと違いますからね。それではここらで。
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若きトリックスター!?ロシア連邦(ソビエト連邦)心理学界の基礎を作ったレフ・ヴィゴツキーについて紹介!(心理学偉人紹介第三弾レフ・ヴィゴツキー)
前話
さあ心理学偉人紹介第3段を始めていきましょう。今回紹介するのはロシア連邦(旧ソ連)の心理学の権威であった若き天才レフ・ヴィゴツキーについてです。
彼は1896年に生まれ1937年に37歳で亡くなりました。彼のもっとも有名な功績として、発達の最近接発達領域の研究があります。それはどのようなものかというと、子供は成長するに連れて、獲得していく行動の過程についてまとめたものです。例えば音声の伴わない心の中の言葉は内言といわれます。また、これの対義語として、音声の伴う心の中の言葉を外言といいます。これが成長に応じて行動として獲得しながら成長していきます。
また、この方は後のロシア連邦の心理学に多大な影響を残していて、「神経心理学(脳の構造から心理学を研究する学問)の草分け」アレクサンドル・ルリヤや、レーニン賞(ソビエト連邦の最高賞)を受賞した心理学者アクセレイ・レオンチェフなどの後世の偉人に沢山の影響を与えました。
アレクサンドル・ルリヤ(1902年~1977年)
第一回心理学偉人紹介はこちら!!
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歴史
子供時代
1896年ベラルーシ(ポーランドとロシア連邦の間)の裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、南部のホメリで育ちました。
ベラルーシの地図。この地図の右下にホメリがある
8人兄弟の2番目に生まれ、1913年に中学を金メダル(主席)で卒業しました。
そしてモスクワ大学に入学し、法学を専攻しましたが、当時から哲学に興味を持っていた彼は法学だけでは飽き足らず、シャナフスキー人民大学にも入学して歴史と哲学を専攻しました。更に社会科学、心理学、言語学、文学、美術など広大な領域の知識を身に着け、これが後の彼の心理学の基礎になりました。1917年モスクワ大学法学部とシャナフスキー人民大学歴史科哲学科を同時に卒業しました。
1918年にホメリに帰って文学と心理学部の講師となり、それと同時に演劇学校で美学と美術史の講義をしました。その間もずっと勉学をし続け、多くの中学校、師範学校(教員を教育するための学校)、演劇学校に出かけ学生から人気を集めました。この頃にゴメルスキー国民教育部の演劇科の主任を務め、また、師範学校に心理学研究部を設立しています。
青年時代
1918年から1920年にかけて「世紀と日々」と名付けられた出版事業を開始します。しかし、紙不足を理由に出版授業を中止しました。また、この頃結核を発病しますが後に回復します。1921年から1923年において後に(1926年に出版)「教育心理学」と題する本を出版するころになる講義をホメリ師範学校で行いました。
1924年1月、レニングラード第2回全露精神神経病理学会において、ゴメリ県国民境域部の代表委員として「反射学及び心理学研究の方法について」と題する発表を行います。この直後、コンスタンチン・コルニーロフ(1879年~1957年)に招かれてモスクワに舞い戻り、心理学研究所に勤務することになります。そして本格的な心理学研究を開始しました。それと同時に教育人民委員部の障害児教育課主任も務めます。この年にローザ・スメホワと結婚し、また先ほど紹介したアレキサンドル・ルリヤと同僚になります。
心理学研究所時代
1925年意識の問題が唯物論(意識や精神の根源は物質にあると考えている主張。これはつまり、物が最初に生まれてから神や仏{ちなみにこの考えと逆で神や仏、つまり私たちの精神が生まれてから物ができたと考えるのを観念論という}が生まれたと考えている主張ということである。)心理学が心の確立に重要な意味を持つことを指摘。そして今までで集めた論文や、師範学校での講義の内容をまとめて「芸術心理学」とし、学位を得ます。この時結核の症状がひどくなっており、公開審査は免除となります。大学で講義をする資格を得たヴィゴツキーはロシア国内の様々な大学に招かれ講義をしました。
1926年唯物弁証法(分かりやすく言うと二つの矛盾した主張を合わせてより高度な主張を作るということ。例を挙げると、子供が「ゲームをしたい」と主張する一方で、母親が「宿題をしなさい」といった場合に、解決策として「勉強ができるゲームを買う」と、二人の意見が両方とも反映されるようにすることである。
そして弁証法的に運動する物質が精神の根源であるという考え方が「唯物弁証法」だ。前の二つとまとめてわかりやすくすると、物が最初に生まれて、矛盾が起こり、その矛盾がまた新しい高度な主張を作ることで観念が出来たという考えである。)の立場から現代心理学諸流派(成員分析学や行動心理学)の批判的検討に取り掛かり、「心理学の危機」の執筆を開始。またそれと同時期に「教育心理学」という本も出版。翌年の1927年に「心理学の危機」が完成されます。
1928年に「子供の文化的発達の問題」を発表。同じ年に「学童期の児童学」を刊行します。
海外生活時代
1929年に数か月間タンケント市の第一中央アジア州大学で、教師及び心理学者に
対する訓練と講義を行います。またこの時ロシア精神分析協会に入会。
「児童期における随意的注意の発達」を出版。
「少数民族の児童学に関する科学的研究活動計画についての問題」&「青年期の児童学」を刊行。
1930年「行動の歴史に関する試論」をアレクサンドル・ルリヤと共著。この年から翌年にかけて、「思春期の児童学」を刊行。
1931年ヴィゴツキーは精神病理学の研究の必要性を感じ、心理学の教授兼医学部生となった。「障害児のための発達診断および育児相談」、「高次精神機能の発達史」を執筆。1931年~1932年ルリヤと共にウズベキスタンで認知過程の形式の歴史性と構造変化を研究した。
その後ウクライナの神経心理学研究所に新設された心理学部門の要請に応じて、ハルキウ市に活動の拠点を移す。
ハルキウ市の位置。赤い点の部分にある。
1933~1934年に「年齢の問題について」を執筆。
1934年6月11日に結核が再発しロシアのモスクワで死亡。享年37歳。
没後、名著「思考と言語」を刊行。またこの年、ヴィゴツキーが生前執筆していた児童期における教授と認識の発達」、「統合失調症時の症状」も出版されました。
まとめ
- 1896年ベラルーシの裕福なユダヤ人家庭に生まれる。
- 1913年に中学を金メダル(主席)で卒業し、モスクワ大学で法学を学ぶが、哲学に興味を持つようになりシャニャフスキー人民大学にも入学する。
- 1918年ホメリに帰り、文学と心理学の講師をしながら勉学を励む。
- そこから1925年まで様々な論文や本を執筆する。
- 1925年にコンスタンチン・コルニーロフに誘われて、モスクワの心理学研究所に入所する。その時にアレクサンドル・ルリヤと同僚になる。
- 1929年にウスベキスタンのタンケント市に赴き、研究を行うようになる。
- その後ウクライナのハルキウ市に拠点を移す。
- そこから1934年までに論文を沢山挙げるが、昔発祥した結核が再発し6月11日に亡くなる。
- 没後に発表した「思考と言語」が有名になり、現在もヴィゴツキーの思想が受け継がれている。
フィリップ・ジンバルドーの語呂合わせ
「前回のブログで紹介したフィリップジンバルドーの歴史を覚えたいけど年代覚えるのが難しすぎてむりぽよー」という人の為に自作ですが語呂合わせを用意しました。ぜひご覧ください。
※前回のフィリップジンバルドーを見ていない人はこちらをチェック!!
sakanouenotamuramaroyosihisa.hatenablog.jp
193 3
①お腹からでていくさっさとフィリップジンバルドー誕生。
1971
②いくないっせん超えたところへスタンフォード監獄実験。
あとがき
今回は「心理学のモーツァルト」との異名を持ったレフ・ヴィゴツキーについて紹介しました。彼は小さい頃から天才でありましたが、大学を同時に二つも入学し、卒業後も心理学の講師をしながら自分も論文を挙げるという、努力も出来るスーパースターだったのです。だからこそ若くして亡くなってしまったのが非常に悔やまれますね。しかし、前述しましたが彼の思想は後のロシア心理学界に多大な影響を残しており今でも議論されるほどなのです。そのことを皆さんにもぜひ知っていただきたいです。
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スタンフォード監獄実験を主導した社会心理学者フィリップ・ジンバルドー人物紹介
皆さんは2004年に起こった衝撃の事件を覚えていますか。ヒントはアメリカ・イラクです。
はいそうですね。正解を言ってしまうとイラク戦争で起こった「アブクライブ刑務所における捕虜虐待」事件の話ですね。この事件は結構衝撃を受けた人が多いですよね。
ただ、この事件は残酷だなあと思っただけでなぜこの事件はおこってしまったのか
についてはわからない人が多いのではないでしょうか。
今回はその分野(社会心理学)で有名であり、スタンフォード監獄実験で有名な「フィリップ・ジンバルドー」について紹介いたします。ちなみにこの人は前回紹介したスタンレーミルグラムと高校で同級生になっている人です。ミルグラムも社会心理学を専門とした人物なのでそこに運命を感じますね。
※スタンレーミルグラムの歴史についてはこちらをどうぞ
sakanouenotamuramaroyosihisa.hatenablog.jp
※次回の心理学偉人紹介はこちら!
sakanouenotamuramaroyosihisa.hatenablog.jp
本編
フィリップ・ジンバルドーの経歴
まずはフィリップ・ジンバルドーのプロフィールについて紹介いたします。
名前 フリップ・ジンバルドー
生年月日 1933年 3月 23日 (87歳{2020年現在})
生まれ アメリカ合衆国
妻 ローズ・E・アブデンヌール(1957年~1972年)
クリスティーナ・マスラック(1972年~)
子供 有り
出身校 ニューヨーク市立大学
フィリップ・ジンバルドーは結構昔の人のように感じますが今現在も生きている言わば心理学の生きる伝説ですよね。それでは早速フィリップ・ジンバルドーの歴史について紹介していきましょう。
歴史
1933年 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークで、シチリア島イタリア
3月 人移民の元で生まれました。そのため幼いころから差別や
23日 偏見を受けていました。それが刺激となり、ジンバルドーの
好奇心に影響を与え、後の彼の研究に影響を与えました。
1954年 ニューヨーク市立大学の社会学部を主席で卒業する。1955年に博士号
(21歳) を獲得する。
1957年 ローズ・E・アブデンヌールと結婚する。
(24歳)
1959年 イェール大学で1959年から1960年までの一年間
(26歳) 教鞭をとる。
1960年 1960年から1967年までの7年間でニューヨーク市立大学の生徒に
(27歳) 師事する。
1967年 この年から1年後の1968年まで、コロンビア大学で教師を務める。
(34歳)
1968年 スタンフォード大学で師事をする。このスタンフォード大学の在任時に
(35歳) スタンフォード監獄実験を行った。
1971年 この時、自分の高校の同級生だったスタンレーミルグラムの「アイヒマン
(38歳) 実験」などに影響を受けて、スタンフォード監獄実験を行う。
1972年 この時、ローズ・E・アブデンヌールと離婚し、スタンフォード監獄実験
(39歳) の時にこの実験の中止を求めた当時26歳のクリスティーナ・マズラック
と結婚。以降現在まで48年間結婚生活は続いている。またクリスティー
ナ・マズラックは燃え尽き症候群(バーンアウト・シンドローム)を研究
した心理学者として有名である。
この実験の後、ジンバルドーは「もっと人を救える方法を探そう」と考え
それから慈善活動などを行うようになった。
クリスティーナ・マスラック
2003年 正式にスタンフォード大学の教授を引退する。
(70歳)
2004年 「アブクライブ刑務所における捕虜虐待」事件が起きる。この時、ジンバ
(71歳) ルドは兵士の弁護として出廷するが無罪にはならなかった。
2007年 この年にスタンフォード大学で最後の講義を行う。
(74歳) スタンフォード大学医学部の精神科医の教授デイビット・シュピーゲルは
彼の事を「伝説的な講師」だと述べた。
2008年 フィリップ・ジンバルドーはスタンフォード大学を卒業してから、タイム
(75歳) パラッドクスや社会強度症候群などの新しい理論をどんどん開拓してい
く。
2012年 ジンバルドは心理学の科学における生涯功績でアメリカ心理学財団の
(79歳) 金メダルを受賞しました。
2015年 本( "Man (Dis)connected: How Technology Has Sabotaged What It Means
(82歳) To Be Male", )を共同執筆し、男が社会から切り離されていると提唱した
2020年 現在まだご存命
(86歳)
まとめ
- フィリップジンバルドーはアメリカのニューヨーク州ニューヨークで生まれた。
- ニューヨーク市立大学を主席で卒業。
- イェール→ニューヨーク→コロンビア→スタンフォード大学で師事。
- スタンフォード大学で「スタンフォード監獄実験」を実施する。
- スタンフォード監獄実験を実施してからミルグラムはもっと人を救おうと考え、慈善活動などを行った。
- 2003年に正式に引退し、2007年にスタンフォード大学で最後の講義を行う。
- 引退してからは様々な実証を証明しようと試みる。
あとがき
以上がフィリップ・ジンバルドーの歴史でした。彼は現在86歳のご老体ですがとても精力的に活動を行っています。近頃はTEDという講義番組にも出ています。「フィリップ・ジンバルドー」と検索すればみれます。日本語字幕もあるのでぜひ見てみてください。
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