まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(41)カール・マルクス『資本論 第一巻』

目次

カール・マルクス今村仁司・三島健一・鈴木直訳)『資本論 第一巻』筑摩書房ちくま学芸文庫)、2024年。

 『資本論』の新訳がちくま学芸文庫より出版された。帯には「『マルクス・コレクション』版を全面改訳」したものだと書かれている。実際に手に取ってみると、訳文は見事に読みやすく、大きさも上・下二分冊で手に取りやすい。『資本論』の翻訳はさまざまな訳者の手で出版されてきたが、本書は今後の普及版として最もスタンダードなものとなるだろう。

 もちろん新訳とはいえども先行訳と同様の誤訳を完全に免れているわけではない*1。とはいえ、わざわざ取り上げるほどのものではない。むしろ訳文の随所にみられる工夫から学ぶところの方がはるかに大きいと思う。ドイツ語に忠実な訳文としてはすでに大月書店から出ている岡崎次郎訳(国民文庫)がある。それでも読みやすさと手に取りやすさの観点から言えば、ちくま学芸文庫から新訳を出す意義は大きい。

引用文献から見た『資本論

 マルクスは「資本」を考察の中心に据えることで、「経済学」「貨幣」「貿易」「利益」などを全てその下に包括するともに、資本の観点から人間生活のあらゆる事象をさまざまに分析することを可能にしたが、それは同時にあらゆる事象が資本に従属していることを明らかにしたともいえる。

 加えて今日では新MEGA(Marx-Engels-Gesamtausgabe)の第Ⅳ部門からマルクスの多数の抜粋ノートが出版されており、『資本論』第一巻出版以降の晩年のマルクスが『資本論』第一巻を超えるような射程を持っていたことが明らかとなっている*2マルクスの抜粋ノートの重要性は日々高まっているものの、マルクスが『資本論』第一巻で実際に言及し引用した諸文献に限定して、それらの文献の各々がもっている固有の文脈を理解することなしには、『資本論』第一巻の議論を十分深く理解することもまた難しいであろう。

 以下に示すのはマルクスが『資本論』第一巻で引用した書物の一例である。唯一、Th・ホジスキン『資本の要求に対する労働の防衛』を除いて、「資本」をタイトルに入れているものはない。この点に限って言っても、「資本」に注目したマルクスの着眼点がすぐれて独特のものであることがわかる。

マルクスが『資本論』第一巻で言及している書籍(一部)

経済学

  • デュガルド・スチュアート『経済学講義』
  • J・ブロードハースト『経済学論』
  • J・ケイズノーヴ『経済学要論』
  • J・B・セー『経済学概論』
  • J・B・セー『マルサス氏への書簡』パリ、1820年
  • ジェイムズ・ミル『経済学綱要』
  • マカロック『経済学原理』
  • S・ベイリー『経済学におけるいくつかの用語論争についての考察、とくに価値、供給、需要に関して』
  • シスモンディ『新経済学原理』
  • シスモンディ『経済学研究』
  • シュトルヒ『経済学教程』
  • ピエトロ・ヴェッリ『経済学に関する考察』
  • リカード『経済学および課税の原理』
  • R・ジョーンズ『諸国民の経済学に関する講義教本』
  • Th・チャーマーズ『経済学について』
  • Th・ホジスキン『民衆の経済学』
  • Th・ホジスキン『資本の要求に対する労働の防衛』
  • W・ロッシャー『国民経済学の基礎』
  • デュポン・ド・ヌムール『ドクトル・ケネーの原則』
  • モリナリ『経済学研究』
  • コラン『経済学』
  • ルソー『経済論』ジュネーヴ、1760年。

貨幣論

  • フラートン『通貨調節論』
  • ガリアーニ『貨幣について』
  • ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く鋳造することに関する論考、ロック氏の考察に答えて』
  • S・ベイリー『貨幣とその価値変動』
  • ヴァンダーリント『貨幣万能論』
  • ウィリアム・ペティ『貨幣小論 ハリファクス侯爵閣下へ』
  • ウィリアム・ペティ『租税と貢納についての論集』ロンドン、1667年。
  • ジョン・ロック『利子引き下げの結果についての若干の考察』

商業

  • ジョン・ロー『通貨と商業に関する考察』、E・デール編『十八世紀の財政経済学者』
  • ジョン・ベラーズ『貧民、税増業、商業、植民地および不道徳に関する論証』
  • V・ド・フォルボネ『商業基礎論』
  • クラウド『銀行業の理論と実際』
  • ケネー『商業と手工業者の労働に関する対話』
  • ダドリー・ノース『商業論』
  • アダム・アンダソン『商業の起源の歴史的、年代記的概説』ロンドン、1764年。

貿易論

  • S・クレメント『相互関係にある貨幣、貿易、為替の一般概念に関する考察、一商人の著』
  • J・チャイルド『貿易、とくに東インド貿易に関する一論』
  • Th・バビロン『最も利益を生む貿易としての東インド貿易』
  • ボアギルベール『フランス詳論』、デール編『十八世紀の財政経済学者』
  • トレンズ『穀物貿易論』
  • 『イギリスにとっての東インド貿易の利益』

文学

哲学

  • デステュット・ド・トラシー『意志とその作用についての論考』
  • ユア『マニュファクチュアの哲学』
  • ヘーゲル『論理学』
  • ヘーゲル『法の哲学』
  • ジョフロワ・サン=ティレール『自然哲学の構想』パリ、1838年

社会史

法学

政治学

  • アリストテレス政治学
  • メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』
  • ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』
  • ケアンズ『奴隷の力』
  • バーナード・ド・マンデヴィル『蜂の寓話』
  • アーサー・ヤング『政治算術』
  • トマス・モア『ユートピア
  • R・ブレイキー『太古からの政治文献史』
  • ビュシェおよびルー『議会史』
  • メリヴェール『植民および植民地についての講義』

社会的富と利益

  • スカルベク『社会的富の理論』
  • テュルゴー『富の形成および分配に関する省察
  • ラムジー『富の分配に関する一論』
  • ル・トローヌ『社会的利益について』

報告書

  • 『児童労働調査委員会』
  • アイルランドにおける農業労働者の賃金に関する救貧法監督官報告書』
  • ドクター・ハンター『公衆衛生、第七次報告書、1864年

*1:誤訳の一例を挙げるならば、『資本論』第一巻の原注8に記載されているバーボンの著作からの引用頁数が「五三、五七ページ」(『資本論 第一巻』上80頁)となっているが、これは正しくは「五三、七ページ」である。この点については拙稿「マルクス『資本論』覚書(11)」を参照。こうした単純な誤りについては引用元の原著に遡って確認していく以外の方法はなく、文法的に解釈する余地はまったく存在しない。

*2:この点について詳しくは斎藤幸平『大洪水の前に』を参照。

『源氏物語』「宿木」覚書(1)

目次

はじめに

 今月2024年4月より、KUNILABO(国立人文研究所)の「『源氏物語』を読む」(西原志保講師)に参加している。受講を決めた理由は三つある。一つ目の理由は、仕事が忙しくて独学する余裕がないこと。今年の2月より「『源氏物語』覚書」を書き始めたが、一人で『源氏物語』を読むといっても正直なところ限界があった。二つ目の理由は、西欧の言語に関しては大学でみっちり訓練を積んだものの、『源氏物語』のような日本語の、しかも古文のテキストを読む訓練を筆者は十分に受けていないからである。そして三つ目の理由としては、純粋に講義に参加したくなったという、筆者の意欲によるものである。

 実はちょうど同じく今月2024年4月より、東京外国語大学オープンアカデミーの「コプトエジプト語初中級Ⅰ」(宮川創講師)の授業もZOOM形式で受講している。私とコプト語との出会いはアタナシウス・キルヒャーの著作からであった。およそ3年前にキルヒャーの著作についてまとめた際に、キルヒャーコプトエジプト語に関する著書を見つけた。それからというもの、キルヒャーを理解するにはコプトエジプト語についていつか勉強しなければならないと思うようになった。コプトエジプト語の講師である宮川創先生はいつの頃からかX(旧Twitter)でフォローしていたのだが、ちょうど授業の募集が目に入ったので受講してみることにした。これが非常に良い授業で、ナグ・ハマディ写本コプト語で読むための手引きを兼ねてコプト語を学ぶことが出来るという、多少の受講料を払っても御釣りが来るぐらい素晴らしい内容なのである。

 そういうわけで、仕事の合間にZOOM形式で良質な授業が受けられることに味を占めた筆者は、KUNIALBOの「『源氏物語』を読む」に参加することを決意したのである。仕事の方面ではこういう時に限って同じく2024年4月より新潟・長野の担当へ異動となったのだが、多忙の中での筆者の唯一の喜びがこれらの授業である。

 社会人のリスキリングにこの上ない機会を与えてくれているKUNILABOと東京外大オープンアカデミーには大いに感謝したい。

「宿木」とはどういう意味か

 さて、今回「宿木」から読み始めるのには理由がある。KUNILABOの授業に今学期から途中参加したため、授業はすでに「宇治十帖」の「宿木」の途中まで進行していたからである。進捗に追いつくためには、自分でそこまで読み進めるしかない。

 

 最初に「宿木」というタイトルの意味について考えてみたい。

 

 「宿る」という言葉には、人間の生活の中で「宿泊する」という意味のほかに、「生命が宿る」という用法がある。西欧では、そこに宿るのは精神的なもの(プシュケー)である。

 「木」もおよそ「生命」を表す。木をモチーフにカバラーの「生命の木」やデカルトの学問の体系などが観念された。ちなみにジェームズ・フレイザー『金枝編』(The Golden Bough, 1890)の「金枝」とはヤドリギ(学名:Viscum album L.、「白い宿り木」の意味)を指している。こうした考え方は西欧的であるから、『源氏物語』の文脈では基本的には想定されるべきものではない。

 

 「宿木」について岩波文庫では次のような解説を付している。

宇治の八宮旧宅を訪れた薫が「深山木に宿りたる蔦」の紅葉を愛でてひとりごちた歌「宿りきと思い出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし」(二二八頁)、および弁尼の返歌「荒れ果つる朽木のもとを宿りきと思ひおきける程のかなしさ」(同)の歌による。「やどりぎ(宿木)」は蔦の異名で、この二首では「宿りき(むかし宿った)」の掛詞。底本の題は「やとり木」。〈薫二十四歳春ー二十六歳夏〉

(『源氏物語(八)早蕨―浮舟』岩波文庫、62頁)

上の解説にある通り、「宿木」巻の作中に「宿りき」を歌で詠んでいる。「き」は過去を表すので、「むかし宿った」の意味になる。同時に「宿木」とは蔦の異名であり、蔦の表象である。実際、作中には紅葉する「蔦」も登場する。蔦には建物に絡みつくような特徴がある。

 秋に紅葉する(ツタ、学名:Parthenocissus tricuspidata)は日本、朝鮮半島、中国が原産国である。ヨーロッパや西アジアに自生している西洋木蔦(セイヨウキヅタ、学名:Hedera helix)は紅葉しない。その限りで、紅葉する「蔦」を表象する「宿木」という文脈は、西欧の土地では不可能なのであって、東アジアに位置する日本固有の土地が我々にそれを可能ならしめている。

木枯しの耐えがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを見わたして、とみにもえ出で給はず。いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる、

 「こだに。」

などすこし引き取らせ給ひて、宮へとおぼしくて、持たせ給ふ。

  宿りきと思い出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし

とひとりごち給ふを聞きて、尼君、

  荒れ果つる朽木のもとを宿りきと思ひおきける程のかなしさ

あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞいさゝかの慰めにはおぼしける。

(『源氏物語(八)早蕨―浮舟』岩波文庫、228頁)

(つづく)

文献

『葬送のフリーレン』における〈尊さ〉

『葬送のフリーレン』(原作:山田鐘人・アベツカサ、小学館

 『葬送のフリーレン』(原作:山田鐘人・アベツカサ、小学館)が人気を博している。

 なぜ人は『葬送のフリーレン』に心惹かれるのか。『葬送のフリーレン』の核心は何であるか。この点について筆者は陳腐な言葉で語ることしかできない。『葬送のフリーレン』を通じて読者・視聴者が体験するであろう心揺さぶられる〈尊い〉感情は、容易く文字にすることを許さないほどに儚く脆いからである。

 それでも誤解を恐れずに言うと、『葬送のフリーレン』とは、いわば未来への配慮が描かれた追憶の物語である。主人公であるフリーレンは、かつて勇者一行(ヒンメル、ハイター、アイゼンという仲間たち)とともに魔王を退治した。それから80年以上の時を経た現在のフリーレンは、フェルンやシュタルクらとともに旅する中で、勇者一行の追憶に想いを馳せるのだが、その追憶の中で描かれるのは、過去のキャラクターたちが未来のフリーレンへと向ける配慮の眼差しなのである。なぜそれが〈尊い〉ものとして人々の眼に映るのかといえば、ヒンメルやハイターをはじめとする人間の寿命を超えてなおそこに込められた想いが、フェルンやシュタルクといった次世代の人々の時代に受け継がれ、実現されているからである。

『独仏年誌』「1843年の交換書簡」覚書(1)

目次

はじめに

 以下ではマルクス&ルーゲ編『独仏年誌』所収の「1843年の交換書簡」(以下「交換書簡」と略記)を読む。「交換書簡」の邦訳は、マルクス城塚登訳)『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫、1974年)に収められている。

 『独仏年誌』には、マルクスが書いたものとしてこの「交換書簡」のほかに「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載されている。「交換書簡」は手紙という形式を取っているがゆえに、マルクス自身の個人的な意見が述べられているが、同時にマルクスその個人的な見解を「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」の中で論考の形式へと昇華させているのである。したがって、「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読み解く鍵は「交換書簡」の中にあるといっても過言ではない。

「1843年の交換書簡」

オランダから見たドイツ人

 マルクスからルーゲへ

           D行の引船上にて 1843年3月

 私は今、オランダを旅行しています。当地とフランスとの新聞から見た限りでは、ドイツは深く泥のなかにはまりこんでおり、今後もますますひどくなっていくことでしょう。国民的自負など一向に感じないひとでも、オランダにいてさえ、国民的羞恥を感ぜずにはいられないのは請けあいです。もっとも卑小なオランダ人ですら、もっとも偉大なドイツ人とくらべてみても、なお一個の公民なのです。しかもプロイセン政府にたいする外国人たちの判断はどうか!そこには驚くべき一致があり、もはや誰一人としてこの体制とその単純な性質について目をくらまされるものはありません。ですから新学派は少しは役に立ったのです。自由主義の虚飾ははげ落ちて、この上なく憎々しい専制主義が赤裸々な姿で万人の目の前に立っているのです。

(Marx et al 1844: 17,城塚訳99頁)

ここでマルクスがオランダという外国から見た場合のドイツ市民への眼差しについて述べている。マルクスは「オランダにいてさえ、国民的羞恥を感ぜずにはいられない」と述べているが、ここからマルクスドイツ国民としてのアイデンティティを強く持っているように思われる。

省略された固有名の問題

 翻訳だけ読んでいては気づかなかった点として、「誰から誰へ」という手紙の宛名が原文では「M.」や「R.」といったように省略されていることがわかる。城塚登訳(岩波文庫)ではご丁寧に「マルクスからルーゲへ(M. an R.)」「ルーゲからマルクスへ(R. an M.)」「バクーニンからルーゲへ(B. an R.)」「ルーゲからバクーニンへ(R. an B.)」「フォイエルバッハからルーゲへ(F. an R.)」といったように、「誰から誰へ」宛てられた手紙なのかが、その固有名によって明らかにされている。だが、原文のニュアンスを尊重するならば、本来こうした固有名は、それとなくほのめかされる程度に省略され、文字通りには隠されるべきものではなかったのだろうか。換言すれば、宛名として書かれた固有名(マルクス/ルーゲ/バクーニンフォイエルバッハ)は、そこに掲載された手紙の内容ほどは重要ではなかったと言えるのではないか。

その手紙はどこで書かれたか

 それぞれの手紙には書かれた場所が記載されているが、この情報はけっして無視されるべきではない。というのも、例えばマルクスは自身からルーゲに宛てた手紙を三つ、この「交換書簡」に掲載しているが、そのいずれも同じ場所で書かれた手紙は存在しないからである。マルクスからルーゲ宛の最初の手紙は「1843年3月にD行の引船上にて」書かれており、二つ目の手紙は「1843年5月にケルン」で、三つ目の手紙は「1843年9月にクロイツナハ」で書かれている。ここからマルクスが半年の間に場所を転々と移動していることがわかるのだが、手紙が書かれた時期も違えば場所も違うのであるから、その間にマルクスの思想が変容を遂げて深化していると考えることも可能である。それゆえ我々は、マルクスの思想的発展を裏付けるに値するような、それぞれの手紙にみられるマルクス独自の見解を捉える必要があるであろう。

(つづく)

文献

マルクス『資本論』覚書(26)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

有用労働は合目的的な生産活動か

(1)ドイツ語初版

 上着は,ある特殊な欲望を満足させる使用価値である.それを生産するためには,ある特定種類の合目的的な生産的活動が必要である.この活動は,その目的,作業様式,対象,手段,および結果に従って規定されている.このようにその〔労働の〕有用性が,その〔労働の〕生産物の使用価値のうちに,あるいはその〔労働の〕生産物は一つの使用価値であるということのうちに表現される労働を,ここでは単純化のために,略して有用労働と呼ぶ.この観点のもとでは,労働はつねに,その目的としてもたらされる有用効果との関連において考察される.

(Marx1867: 7)

(2)ドイツ語第二版

 上着は,ある特殊な欲望を満足させる使用価値である.それを生産するためには,一定種類の生産的活動が必要である.この活動は,その目的,作業様式,対象,手段,および結果によって規定されている.このようにその有用性がその生産物の使用価値のうちに,あるいはその生産物が使用価値であるということのうちに表現される労働を,われわれは簡単に有用労働と呼ぶ.この観点のもとでは,労働はつねにその有用効果に関連して考察される.

(Marx1872a: 16)

(3)フランス語版

(Marx1872b: 16)

(4)ドイツ語第三版

 上着は,ある特殊な欲望を満足させる使用価値である.それを生産するためには,一定種類の生産的活動が必要である.この活動は,その目的,作業様式,対象,手段,および結果によって規定されている.このようにその有用性がその生産物の使用価値のうちに,あるいはその生産物が使用価値であるということのうちに表現される労働を,われわれは簡単に有用労働と呼ぶ.この観点のもとでは,労働はつねにその有用効果に関連して考察される.

(Marx1883: 8,『資本論①』83頁,訳は改めた)

このパラグラフで「有用性 Nützlichkeit」という言葉が出てくるが,この「有用性」は,労働生産物がもっている使用価値それ自体の「有用性」のことではなく,生産物に使用価値をもたらすという点において労働それ自体がもつ「有用性」である.したがって,自分自身の使用価値であれ社会的使用価値であれ,生産物に使用価値をもたらさない労働は「有用労働」とは見做されないことになる.

 さて,ここではドイツ語初版だけにみられる特徴として,生産的活動すなわち労働が合目的性(Zweckmäßigkeit)という観点から言及されている.マルクスが初版において,生産物に使用価値をもたらす「特定種類の合目的的な有用労働」と述べる際に念頭にあったのは,ヘーゲルが『法の哲学』で述べているような職人の熟練労働ではなかろうか.実際,ヘーゲルは『法の哲学』第三部「人倫」第二章「市民社会」b「労働の様式」において,「労働」を「価値と合目的性」の観点から次のように述べている.

 第196節

 もろもろの特殊化された欲求にふさわしく,同様に特殊化された手段をしつらえたり,獲得したりする媒介作用が,労働である.労働は,自然から直接にあたえられる材料を,きわめて多様な過程を通して,これらの種々の目的に合うように細別化することである.ところで,この形成が手段に価値と合目的性をあたえるのであり,その結果として,人間はその消費において,主として人間によって生みだされた産物に関わるのであり,人間が消費するのは,このような人間の努力〔の成果〕なのである.

(Hegel1820: 198,上妻ほか訳(下)97頁)

マルクスはドイツ語第二版ではこの合目的性の観点を文章から削除しているが,しかしだからといってマルクスが有用労働から合目的性の観点を退けたことにはならない.というのも,ドイツ語第二版においても,少し先のパラグラフでは「こうして,どの商品の使用価値にも,一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった」(『資本論①』84頁)と述べているからである.

(つづく)

文献

マルクス『資本論』覚書(25)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

「W」で表わされる等式

(1)ドイツ語初版

 二つの商品,たとえば一着の上着と10エレのリンネルをとってみよう.前者は後者の二倍の価値をもっており,したがって,10エレのリンネル=Wならば,一着の上着=2Wであるとしよう.

(Marx1867: 7)

(2)ドイツ語第二版

 二つの商品,たとえば一着の上着と10エレのリンネルをとってみよう.前者は後者の二倍の価値をもっており,したがって,10エレのリンネル=Wならば,一着の上着=2Wであるとしよう.

(Marx1872a: 16)

(3)フランス語版

 二つの商品,たとえば,一着の上着と,10メートルのリンネルをとってみよう.前者は後者の二倍をもっており,したがって,10メートルのリンネル=xならば,一着の上着=2xであるとしよう.

(Marx1872b: 16)

(4)ドイツ語第三版

 二つの商品,たとえば一着の上着と10エレのリンネルをとってみよう.前者は後者の二倍の価値をもっており,したがって,10エレのリンネル=Wならば,一着の上着=2Wであるとしよう.

(Marx1883: 8,『資本論①』83頁)

ここで注意しなければならないのは,「一着の上着」と「10エレのリンネル」の価値を表すのに記号「W」(「商品 Waare」の頭文字)が用いられている点である.ここで「W」は,上着でもなくリンネルでもない第三の商品である.貨幣形式としての商品が予告されているともいえる.

 なおドイツ語のRockは「スカート」を指す言葉だが,古い用法では「長いジャケット」を指す言葉であった.『資本論』では「上着 Rock」と訳されるのが通例となっている.

 「エレ Elle」は長さの単位で,ドイツ語圏では通常50〜60cmの長さを表すが,地域によっては90cmの長さを表す場合もあったようである.

 「リンネル Leinwand」は,亜麻布,つまりリネン繊維で作られた布地のことであり,キャンバスにも用いられている.「10エレのリンネル」ということは,およそ5〜6m程度の長さになる.

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文献

マルクス『資本論』覚書(24)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

ポリティカル・エコノミー理解のコペルニクス的転回

(1)ドイツ語初版

 もともと商品は,われわれにとって一つの二面的なものとして,使用価値および交換価値として,現象した.より詳しく考察すると,商品に含まれている労働もまた二面的であることが示される.私によってはじめて批判的に考察されたこの点は,ポリティカル・エコノミーの理解を転回するための跳躍点である.

(Marx1867: 7)

(2)ドイツ語第二版

 第二節 商品に表現されたる労働の二重的性格

 もともと商品は,われわれにとって一つの二面的なものとして,使用価値および交換価値として,現象した.それから,労働もまた,それが価値に表わされているかぎりでは,もはや,使用価値の生みの親としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された.このような,商品に含まれている労働の二面的な性質は,私によってはじめて批判的に証明されたものである.この点は,ポリティカル・エコノミーの理解を転回するための跳躍点であるから,ここでもっと詳しく説明しておかなければならない.

(Marx1872a: 16)

(3)フランス語版

(Marx1872b: 16)

(4)ドイツ語第三版

 第二節 商品に表現されたる労働の二重的性格

 もともと商品は,われわれにとって一つの二面的なものとして,使用価値および交換価値として,現象した.それから,労働もまた,それが価値に表わされているかぎりでは,もはや,使用価値の生みの親としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された.このような,商品に含まれている労働の二面的な性質は,私によってはじめて批判的に証明されたものである.この点は,ポリティカル・エコノミーの理解を転回する*1ための跳躍点であるから,ここでもっと詳しく説明しておかなければならない.

(Marx1883: 8,『資本論①』82〜83頁,訳は改めた)

資本論』がその副題に「ポリティカル・エコノミー批判」を持っていることは最初に確認したが,ここでマルクスは「ポリティカル・エコノミー批判」の論点が「商品に表現されたる労働の二重的性格」のうちにあることをずばり述べている.

 すでに見たように,使用価値と交換価値という二面的性質が,商品という形をとって我々の目の前に現れる.これは現象形態であった.だがその価値の内実をつくるのは,本質的には労働である.そして使用価値をつくる労働と,交換価値をつくる労働とは,その労働の性質が個人的なものであるか,あるいは社会的なものであるかによって異なるのである.こうした理解をマルクスがはじめて証明したのはいわゆる『経済学批判』においてであった.

ところで,ポリティカル・エコノミー〔politische Oekonomie〕は,不完全ながらも,価値と価値量とを分析し,これらの形式のうちに隠されている内容を発見した.しかし,ポリティカル・エコノミーは,なぜこの内容があの形式をとるのか,つまり,なぜ労働が価値に,そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に,表わされるのか,という問題は,いまだかつて提起したことさえなかった.

(Marx1872a: 57-58,岡崎次郎訳『資本論①』147頁,訳は改めた)

「なぜ労働が価値に,そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に,表わされるのか」という問題提起が,従来の「ポリティカル・エコノミー理解」に革命的なコペルニクス的転回をもたらすことを,マルクスは「転回する dich dreht」という語で表現している.

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文献

*1:内田はマルクスがカント哲学を摂取したことに着目し「旋回する sich dreht」という訳語を当てている(内田2016).