瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(4)

 昨日の続き。――過去の記事を確認してから書き始めたら文体が敬体になってしまった。そういう気分なのでそのままにして置く。
 さて、昭和36年(1961)11月15~17日の「竜の子太郎」初演(砂防会館)時のパンフレットの松谷みよ子「作者の言葉」では、この「旗竹」の話の舞台について「熊野の山おく」としかしていなかったのですが、2020年3月28日付「飯盒池(8)」に取り上げた講談社現代新書370『民話の世界』を見るに、67~120頁「第二部―民話の魅力」の、113頁8行め~120頁7行め「6――妖怪と人間たち」の1節め(113頁9行め~114頁12行め)に、この話が取り上げられておりました。但し「龍の子太郎」執筆への影響などについては(そこを強調すべき文脈でなかったことから)なかったことになっております。

伐ってはならん竹
 私が民話の世界に魅かれることの一つに、神秘的な世界がある。どこがどういいのか、説明/してくれといわれても困る、そんな世界である。
 和歌山の奥の大塔川という川に沿*1った田代という村に行った時のことである。その村は平家/の落ち武者がかくれすんだ里だとかいって、小さな山一つがそっくり村になっている。そのま/【113】わりを川が流れ、そこへ行くには細い吊り橋一本が通い路だという心許*2なさだった。橋を渡る/と細い道が石を畳*3んであり、崖もまた石で畳み、それがみな苔むして自然と村へ入って行くよ/うになっている。いかにも隠れ里にふさわしいつくりだった。この村は、田畑あわせて六町五/反、このうち四町五反が水田で、代々牡牛七頭で耕した。戸数も十三戸ときまっていた。村の/中に機竹という竹林がある。旗竹ともいうそうだがいかにも平家らしい。
 この竹林の中に親竹というのがあって太さは一斗樽ほど、けっして伐*4ってはならんことにな/っていた。それを明治になって桶屋の和三郎が伐った。その時、牡牛七頭がいっせいに鳴いた/という。和三郎の一家はその年のうちに死に絶えたという。
 しんとした真昼どき、パーン、パーンと竹を伐る音、いっせいに首を振りあげて鳴いただろ/う牛。
 私はこの話が好きでならない、どこがと問われれば返事のしようがない。滅んで行く時代の/象徴的な姿なのだろうか。なんとも理屈ではいえないのだけれど、忘れ難いのである。


 この記述に拠って場所がはっきりします。「大塔川」に沿った「田代」は、当時の和歌山県東牟婁郡本宮町田代(現、田辺市本宮町田代)です。地理院地図を見るに熊野本宮大社から 4km ほど南南西、熊野川の支流、大塔川の右岸、標高 409mの山から北北西に開けた谷が「田代」です。県道は左岸に通じているので、現在は車道が通じていますが当時は大塔川を吊橋で渡って、徒歩で入るしかなかったのでしょう。
 北斜面の日陰の村かと云うとそうではなくて、左岸から見ると標高 57mの大塔川から 標高134mの「小さな山」の頂まで急な斜面になっているのですが、それを越えると「小さな山」の南側は標高 115m前後の盆地のようになっていて、航空写真で見てもよく日が当る緩斜面に集落と耕地が、それこそ「箱庭」のように開けております。対岸からは見えませんからちょっとした「隠れ里」と云うか、それこそ落人伝説の舞台となってもおかしくないような場所になっています。
 『民話の世界』では田代が大塔川に囲まれているように書いてありますがこれは記憶違いで大塔川に対してはむしろ凹んでおります。「小さな山」の左右にそれぞれ大塔川へ下る小さな谷があって、「小さな山」がちょっと島のようになっているのです。それから「竹林」が今もあるように書いていますが、ネット上では全く話題になっておりませんから「作者の言葉」の書き振りの通り現存しないのでしょう。
 しかし、どうして「田代」を訪ねようと思ったのでしょうか。それから『民話の世界』の記述ですと「田代」を訪ねた時期が分かりません。
 さて、この「平家の旗竹」の話ですが、江戸時代後期の地誌2つに見えております。ここではそれぞれ国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る活字本から抜いて置きましょう。
・和歌山縣神職取締所 編纂『紀伊風土記』第三輯(明治四十三年十二月十日印刷・明治四十三年十二月十五日發行・〈帝國/地方〉行政學會出版部(京都)・索引五+四四四+附録四〇三+三頁)
 一七四頁下段8行め「[田 代 村] 多志呂」と3行取りの見出し、以下この条の本文全部(9行め~一七五頁上段2行め)を抜いて置きましょう。

皆瀬川村の小名川湯の坤の方川を隔てゝ十町餘川の南にあ/り狭き谷の內に梯田ありて村居其四方を圍めり
◯竹口瀧
村の丑の方三町にあり懸瀉十間許
◯竹口藪
村の子の方二町許筌川の川岸にあり土俗平家の旗竹といひ/傳へて伐る事なし若是を伐る時は村中の牛悉鳴*5ゆとそ又是/【一七四下】を伐りて祟を受けし者四五人に及へりとそ竹數舊は八九本/許ありしに今僅かに三四本となる


高市志直 編著『紀伊國名所圖會 熊野篇』卷之二(昭和十三年十一月 六 日印刷・昭和十三年十一月十二日發行・高市伊兵衛・前付+五八丁)
 これは『紀伊國名所圖會』の編者高市志友(1751.正.七~1823.三.七)の遺稿として残された牟婁郡の部の未定稿約十巻を、五世の裔孫高市志直(1938歿)が校訂編集追補して卷之一(昭和十二年十月 十 八 日印刷・同   年十月二十四日發行・高市伊兵衛・前付+五一丁)を刊行、続いて卷之二の刊行直前に病歿したため、友人の雲溪鈴木尚俊(1867.九.十~1945.5.9)が引き継いで卷之三・卷之四を刊行、完成させております。
 卷之二、二〇丁表8行め「竹 口 籔 田代村より二町ばかり北にあり」と2行取り、以下9行め~裏1行めの本文は1字下げ、句読点は原文では字間に収まっています。

村老云ふ、此の筌川の河岸に、平家の旗竹とて唐竹八十本ばかりあり、筍生/じて生ひ立つ時は、親竹は自然と枯るゝを常とす。若し此の竹を伐る時は、/田代村中の牛こと〴〵く吼ゆると傳ふ。先年この村に新左衛門と云へる/ありて、此の數竹を伐りしに、村中の牛吼へ、新左衛門等家族五人の者ども/は、三年の內に死失せて家もまた絕えたり。其の後和田村の新九郞、大野村/の九右衛門、同じく新藏等の三人は、伊勢講に當り酒造料の酒桶の輪竹に/用ひんと示しあはせ、この竹三本伐りし時も、村內の牛こと〴〵く吼へた/る由、此の九右衛門、新藏等も其の年死に失せ、殘る新九郞は其の翌年に死/失せけると云ふ。また當村にては牛孕む時は他村へ預ける風習ありと云/【二〇表】ふ。


「筌川」は大塔川の古称でルビ「うけ」があります。和田村と大野村は大塔川の上流、現在の田辺市本宮町東和田と田辺市本宮町上大野で、田代・上大野・東和田とともに本宮町に併合されるまで東牟婁郡請川村でした。
 さて、松谷氏の書き振りですと「親竹」のみ「伐ってはならん」ことになっていたようですが、『紀伊風土記』及び『紀伊国名所図会』の記述だと特に親竹に限らないようです。松谷氏は「桶屋の和三郎」が「明治になって」初めて禁忌を犯し「一家‥‥死に絶えた」かのように書いていますが、実は江戸時代に既に田代村の「新左衛門」の一家が3年で死に失せていたのでした。(以下続稿)

*1:ルビ「そ 」。

*2:ルビ「こころもと」。

*3:ルビ「たた」。

*4:ルビ「 き 」。

*5:ルビ「ホ 」

日本の民話『紀伊の民話』(3)

 一昨日の続き。『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――「3「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ 一九六〇年――一九六三年」の章の〔資料〕には1箇所だけ、この『紀伊の民話』の準備に関する、具体的な記述がある。
 132~140頁「太 郎 座/竜の子太郎初演パンフレットより1961年」は、副題にある通り公演パンフレットの再録らしく、最後(140頁下段12~17行め)に座員28名が列挙されるが松沢・笠井・小林の名は既にない。いや、ここに名前のある人が実は初演に参加していなかったり、色々あったらしいのだがその詳細に及んではいよいよ脇道に逸れるので、このパンフレットに8篇収録されるエッセイの1篇め、133~134頁上段14行め、松谷みよ子「作 者 の 言 葉」を見て置こう。133頁上段3行めより。

 おととしの秋、和歌山へ民話の採集にいった時のこと/である。熊野の山おくに平家の落武者の子孫であるとい/う部落をたずねた。
 戸数わずか十三戸、代々雄牛七頭でたがやしてきたと/いうこの部落は、一つの小さな山がそっくり部落になっ/ていて、そこへ入っていくには谷川にかけられた吊橋一/本というたよりなさだった。
 部落に入っていくと、細い道は石をたたんだゆるやか/な段になっており、道の両側はこけむした高い石垣であ/る。その間をめぐっていくと、畳なら三枚ほどもひける/かとおもう小さな土地に、大切に稲がつくられていた/り、杉苗が勢ぞろいしたりしている。一くれの土もいた/わり育てている山おくのくらしがそこにあった。私はそ/の箱庭のような田んぼや畑をみているうちに「だから私/は龍の子太郎がかきたかったんだ」と、こみあげるよう/に思った。ちょうどその頃私は、龍の子太郎の第二稿を/【133上】かきあげていた。
 部落は貧しかった。ノートをひろげて坐った私に、そ/の家の主人は長いことごとごとやったあげく茶わんに水/をくんで、すまなそうにさしだした。それが精一杯のご/ちそうだった。
 昔ここには旗竹という竹林があったという。機竹とい/うのが本当のようだが、旗とつかうのは平家の落人らし/く面白い。その親竹は一斗ダルほどもある太い竹で、決/して伐ってはならぬことになっていた。それが明治にな/って、桶屋の和三郎というのが伐ってしまった。そのと/き、部落にかわれている雄牛七頭がいっせいに鳴いたと/いうことである。和三郎の一家はその年のうちに死絶え/た。
 和歌山の旅で、この部落のことは、なぜか一番つよく/心にのこっている。「龍の子太郎」を、なぜ自分は書き/たかったのか、ということが、実感としてたしかめられ/た、ということもある。もともと龍の子太郎は、信濃、/秋田の民話を採集する中で、どうしても書きたいと思っ/たテーマだった。民話の採集の中で、自分自身に、また/現代の中で尚かつ共感をよぶものをえらびだし、深める/【133下】のでなければ、民話は単なる懐古趣味になるだろう。
 しかしまた、さきほど親竹を伐ったとき、雄牛七頭が/いっせいに鳴いたという、筋もない、たんなる話の断片/が、私を感動させるのだ。なぜだろうか、人の世からわ/すれられたような部落の、まひるどきでもあろうか、竹/を伐る音、一せいに頭をふりあげて鳴いたであろう牛、/絵としての美しさか、いいようのない神秘さか、といっ/てしまえば身もふたもない。ともかく私の心のおくふか/く、この話は影をおとす。一見無意味にみえるこうした/感動。
 以上二つの感動がこの部落を忘れがたくしているよう/だ、そしてこの二つの要素が龍の子太郎という作品のし/んにもなっているし、新しい作品へのうごめきも、こう/した中から育っていく。


 長くなったが、松谷氏の民話観と創作への影響を窺う資料として全文を抜いて見た(が、今日は分析までする余裕がない)。「おととし」と云うのは一昨日見た「瀬川拓男と太郎座の年譜」に一致する。
 この『紀伊の民話』が実現しなかったことについては、4月28日付「飯盒池(11)」に見た瀬川拓男『民話=変身と抵抗の世界』295~298頁、松谷みよ子「あとがき」にも記述がある。295頁5行め~296頁3行め、

 私が人形劇を通じて瀬川拓男と出会ったのは彼がまだ二十三歳、少年の面影の残る頃でした。折し/も木下順二を中心とする「民話の会」が発足、同じ時期に「民族芸術を創る会」も活動、創造面に理/論面に民話への思いが沸きおこっており、瀬川も人形座の創立に参加、ここでもまた民話の再創造へ/の議論が白熱していました。私は瀬川を通じこれらの運動に触れ、『全国昔話記録』三省堂を手に/民話への、芸術への展望を語る彼の情熱に魅せられたものでした。その共感がやがて私どもを劇団/「太郎座」の創立、ひきつづき、信濃・秋田の民話採訪、『信濃の民話』『秋田の民話』未来社を/まとめる仕事へむかわせることになりました。この本の中に、「秋田の民話について」という一文が/ありますが、当時執筆されたもので、二十九歳の瀬川の姿です。このあと私どもは和歌山の採訪に入/りましたが、本としてはついにまとめることができませんでした。劇団「太郎座」の仕事が次第に忙/しさを増したためでした。
 以来瀬川拓男は民話の採訪や民話運動からある時期はなれ、人形劇・オペラなどによる民話の再創/【295】造へむかうことになります。この間の仕事は一声社より『脚本・龍の子太郎、うぐいす姫 ほか』とし/てひきつづき出版の予定ですが、十五年にわたる劇団生活での凄じい仕事ぶりが、おそらく発病の原/因となったのであろうと思わずにはいられません。


 具体的な状況は『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――から窺うことが出来る。私は「太郎座」の公演にも、テレビ番組にも全く接していないから、この本を読んで初めて瀬川拓男・松谷みよ子そして太郎座が、演劇(人形劇)そしてマスメディアでかなり大きな存在であったことを知って、驚いたような按配なのである。(以下続稿)