チラシの裏の例のアレ

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終わらない“正しくない”夏休み/サマー・コンプレックスについて

「サマー・コンプレックス」という概念を知っているだろうか?

おおよそ、ほとんどの人にとっては聞き覚えのないものだろう。

 

この概念は「三秋 縋」という作家が提唱したもので、簡単に言うと「“正しい夏”を過ごせなかったことから生じる後悔」といったものだ。

 

  

たとえば、眼前に広がる一面のひまわり畑、地元の人しか知らないような神社のお祭り、気になるあの事と行った隣町の花火大会。

その情景は十人十色、千差万別で例を挙げればキリがない。

 

唯一共通していることは、どれ一つを取っても「経験しえなかった夏」ということなのだが、何故かこの概念に心を奪われた人々の多くは、これまで自分が経験してきた「夏」はどれ一つとっても正しくなかったものだと錯覚してしまうのだ。

「経験しえなかった夏」こそが“正しいもの”という風に認識しては、言いようのない感傷の海に沈みながら、在りし日の“存在しない夏”に思いを馳せずにはいられなくなってしまう。

 

さながら提出期限が過ぎているのにも関わらず、いまだ完成しない夏休みの宿題のようでもある。

これが「サマー・コンプレックス」たる所以であり、ある種の幻肢痛として心を徐々に蝕んでいく。

 

もちろん中には「文句の付けようがないほど完璧な“正しい夏” 」を経験した、という人もいるだろうが、現代を生きる我々の多くは、ある程度フォーマット化された「夏」を経験してきたはずだ。

 

冷房の効いた室内でテレビを見ながら一人で行う宿題、友達の家に皆で集まってやるTVゲーム、もしくは両親に連れて行ってもらったイオンモール、フードコートで食べたハンバーガーの味。

 

こういった、おおよそ多くの人が思い浮かべるであろう「間違いなく存在し、経験した現実の夏」が持つ異様なまでの重力から少しでも逃れたくて、我々は「万が一にも存在しない、経験しえなかった架空の夏」に、何か希望のようなものを見出しているのかもしれない。