終わらない“正しくない”夏休み/サマー・コンプレックスについて
「サマー・コンプレックス」という概念を知っているだろうか?
おおよそ、ほとんどの人にとっては聞き覚えのないものだろう。
この概念は「三秋 縋」という作家が提唱したもので、簡単に言うと「“正しい夏”を過ごせなかったことから生じる後悔」といったものだ。
僕は昔からそれを「サマー・コンプレックス」と呼んでいるのですが、夏を強く感じさせるものを見るたびに憂鬱になるという人が結構おりまして、その人たちがいうには「自分は『正しい夏』を送ったことがないから」憂鬱なのだそうです。彼らの使う「正しい夏」という概念、僕はなんだかすごく好きです。
— 三秋 縋 (@everb1ue) 2015年6月25日
たとえば、眼前に広がる一面のひまわり畑、地元の人しか知らないような神社のお祭り、気になるあの事と行った隣町の花火大会。
その情景は十人十色、千差万別で例を挙げればキリがない。
唯一共通していることは、どれ一つを取っても「経験しえなかった夏」ということなのだが、何故かこの概念に心を奪われた人々の多くは、これまで自分が経験してきた「夏」はどれ一つとっても正しくなかったものだと錯覚してしまうのだ。
「経験しえなかった夏」こそが“正しいもの”という風に認識しては、言いようのない感傷の海に沈みながら、在りし日の“存在しない夏”に思いを馳せずにはいられなくなってしまう。
さながら提出期限が過ぎているのにも関わらず、いまだ完成しない夏休みの宿題のようでもある。
これが「サマー・コンプレックス」たる所以であり、ある種の幻肢痛として心を徐々に蝕んでいく。
もちろん中には「文句の付けようがないほど完璧な“正しい夏” 」を経験した、という人もいるだろうが、現代を生きる我々の多くは、ある程度フォーマット化された「夏」を経験してきたはずだ。
冷房の効いた室内でテレビを見ながら一人で行う宿題、友達の家に皆で集まってやるTVゲーム、もしくは両親に連れて行ってもらったイオンモール、フードコートで食べたハンバーガーの味。
こういった、おおよそ多くの人が思い浮かべるであろう「間違いなく存在し、経験した現実の夏」が持つ異様なまでの重力から少しでも逃れたくて、我々は「万が一にも存在しない、経験しえなかった架空の夏」に、何か希望のようなものを見出しているのかもしれない。