わすれもの

音楽を言いあらわすときに「映像的である」とか「シネマティック」とかよく言いますよね。まぁ理解はできるんですが、直感としてダイレクトにそれを感じることは昔からほとんどできませんでした。
でも私にとってrei harakamiさんの音は風景をみることができた唯一の音楽でした。10年後、20年後の作風がどのようになるのかもとても興味がありました。残念です。
Come Here Go There...好きな曲なので貼っとこう。

(徐々にここも復活させたいんですけどね…、まぁ言うべきことがないことは幸せなことかもしれません)

と言いつつも

読書といえばもっぱら(広義の)形而上学な本ばっかりですが。
んで引き続きいろいろ書きたいこともあって、セルフツッコミの予定だったんだけど、いかんせん目に入ったリンクがたいへんすばらしく、べつにもういいやってなってます。絵描きさんかな腐女子かなと思いましたけど、とりあえずとても良かったですはい。
書きたかったことは、たとえば「自然化」のことでいえば、主にGTTM(Generative Theory of Tonal Music)とかを念頭に置いていて、あと楽曲分析のこと、そしてそれとかなり関係あることだけど「できる」と「わかる」についてとか、そのアクセス可能性、音楽における「技術」「テクノロジー」の特段の優位性とか、なんですけど*1。前述したように、それもこれもべつにどうでもいいや☆ってなっちゃって。
こういう気分は経験的に周期的なもので、またなにか考えようとは思うんだけど、音楽は聞いたり演奏したり楽しむもので、あんまり考えているとつまんなくなります(ぼくだけかもしれないけど)そしてもうすこし楽器を練習しようかなと思いました[もううまくなんないと思うけど(たいしてうまくはないけど)]


*いきなりはなしかわって
CD等のデジタルデータを長時間聞き続けると脳内のアルファ波が減少する実験結果あるみたいです。これはレコードとは真逆の結果らしいですよ。ハイパーソニックエフェクトがないからかな!最低でも24bit/192kHzじゃないとダメとか言ってる人いる。ソースは忘れました。

bcvsmgcd

bcvsmgcd

A Certain Distance

A Certain Distance

ジャイアント・ボックス

ジャイアント・ボックス

Slide Show

Slide Show

Sheikh Aljama

Sheikh Aljama

Acid in the Style of David Tudor

Acid in the Style of David Tudor

Subliminal

Subliminal

Atavism

Atavism

A LA MODE2(chuぅ☆) 通常盤

A LA MODE2(chuぅ☆) 通常盤

双界儀 ― オリジナル・サウンドトラック

双界儀 ― オリジナル・サウンドトラック

Juicy

Juicy

S O N O G R a M

S O N O G R a M

Best of

Best of

Tribes at the Temple of Silence

Tribes at the Temple of Silence

ヴァージョン・シティ・ハイライツ

ヴァージョン・シティ・ハイライツ

Tanzmuzikのもうどこにも在庫ないのかなと思ったらアマゾンにしっかりあった。
*本*
現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー

現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー

プラセボが一番効k書いてw
ひっそりと精神病理学が復活すればいいのにSFみたいになって。300円で売ってたんで買って、んでだいぶ放置してた。先日パラっとページ開いたらたまたまベルクソンの章で、『持続と時間に関するベルグソンの全理論は、回想という現在の出来事と回想されている過去の出来事とを混同する、という初歩的な誤りにつらぬかれている』ってところにぴっちりマーカーで線が引かれていて、いろんな意味で大爆笑した。まだ全部読んでいない。ちなみにベルクソンラッセルもスキである。

*1:あえて付言すると、もし「権力」や「システム」という語を使うなら、その利得はなんなのってところから、最後は「実践」概念について。あと、もしすべてを「意識」に還元できるのなら、その空間的、歴史的差異をどのように説明することができるのか、っていう怒りのアウトバーストから最終的に技術、自然、概念とかについてもいけそうな感じがした、んだけどね。

カントの場合

ひさびさに判断力批判を読んでみた。
なんていうの、カントほんとに(゜Д゜)ウマーって感じだけど。やっぱりね、なぜ美学的判断が普遍妥当性を要求し得るのか、がわからない*1。もちろん現実的にそういうことありますけど、それはおそらく資本主義と欲望の体系のうちに生きるそれとして感じるのであって。
ただやっぱり目的なき合目的性とか自然の狡知のはなしは笑っちゃうほどおもしろいし、ドゥルーズの「カント敵」発言や、『カントの批判哲学』での諸能力の置換体系とそれを「基礎づける」判断力、「不調和的調和」、『差異と反復』での共通感覚の扱いとかについて、いろいろ考えた。やっぱりカントは厄介すぎるな。これでドイツ観念論まじで読み進めて行ったらいろんな意味で人生オワタになる*2

んで、「意図」に関して。行為論とかから攻めて、アーティストをめぐる特異な帰責処理と、それを利用したネット界隈でのフェイク(たぶんいまあるのは大雑把に分けて二パターン、でも本質的には同じようなもん)について言及してみてもおもしそうだけど、それはもっと優秀な方がたぶんやってくれるでしょう(残酷でハードコアで、倫理的でさえあるようななにか、激しく期待してます)。
あと「実験」については、『文化領域における「実験」をめぐる知識社会学的アプローチ』とかどうですか(笑)「スタジオと実験室のアナロジーはどこまで可能か」「この場合〈実験〉はなにをもって成功するのだろう」とか(笑)ソフトウェア群の介入と楽理の理論負荷性ブルーノートという防御帯とか(笑)いや、これかなりやばいでしょ!エラい人に完全に怒られる!しかもおもしろそうだけどかなり身が少ない感じ!だし、たぶん科学哲学とか出すと思惑に反して当初仮説した人々の考えがかえって強化されていくというパラドックスが…。
いや、でも茶化してるんじゃなくて、こういう分野でも文芸誌的アプローチだけじゃなくて、社会化、自然化したようなものが一般的な本でもあったらいいと思うんですけどね。最近 RATIO の『思想としての音楽』読んだんだけど、これどうなのまじでってのあったし。いや、とうぜんおもしろいのもあったんだけど。輪島裕介さまの「《東京行進曲》《こんにちは赤ちゃん》《アカシアの雨がやむとき》ー日本レコード歌謡言説史序説」とか、「誌上シンポジウム「いい音」は普遍か?ー近代西洋音楽の外側から」、とか勉強になったしおもしろかった。

あと、なんだろう。誤解があったらアレなので、ちょっと書くと、「主体化しろよ」ってこといいたいんじゃないんだよね*3。むしろそれにこだわってるのはだれなの?ってことなんだよね。表現の動機、意図、目的、信念、そんなもん簡単に答えられるわけないんだよ。
信用できるのは「自分でもよくわからないや」っていうやつ。はぐらかす感じじゃなくてね。ぜんぜん無責任じゃないと思うよ。誠実だと思う。

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

(快・不快の感情における判断力の美学的使用に関する理性の)アンチノミーを回避するには次の二通りの方法しかないわけである。そのうち第一はこうである、ーわれわれは、美学的趣味判断の根底にアプリオリな原理が存するということを否定する、それだから必然的な普遍的同意に対する要求はすべて根拠のない妄想である、たまたま多くの人達が趣味判断に関して一致することがあるので、このような判断がその限りにおいてのみ正しいとみなされるに過ぎない、しかしそれとてもわれわれがかかる一致の背後にアプリオリな原理を思いみるからではなくて、(味覚におけるように)すべての主観が身心に関して偶然に一様な組織をもっているからである。また第二の方はこうである、ーわれわれは趣味判断は、或る物において発見された完全性と、この物の含む多様なものと或る目的との間の関係とに関する理性判断にほかならない、したがってまた趣味判断は、けっきょく目的論的判断であるにもかかわらず、かかる場合におけるわれわれの反省が混雑しているために誤って美学的判断と称せられているのである。なおこの第二の場合に、先見的理念によってかかるアンチノミーを解決しようとすることは不必要でありまた無意味であると断言してよい、仮に趣味のかかる法則を感官の対象に適用し得るとすれば、そのような対象は単なる現象としての対象ではなくて、物自体としての対象であろう。要するにこのアンチノミーを回避しようとすれば、この二通りの方法のいずれかを取らねばなるまい、しかしどちらもけっきょく窮余の一策であって、二つながら殆ど全く役に立たないことは、さきに趣味判断の解明を試みた際に、数個所に亙って論述したとおりである。
われわれの演繹は、必ずしもすべての点において十分に明らかにされたといえないかもしれない、すくなくともこの演繹が正しい方法によって進められているということが認容されるならば、ここに三個の理念が成立することになる、即ち第一は、[われわれのうちおよびそとにある]自然の基体としての超感性的なもの一般の理念である、しかしこの超感性的なものは、それ以上規定され得るものではない。第二は、われわれの認識能力[判断力]に対する自然の主観的合目性の原理としての超感性的なものの理念である。また第三は、自由の目的の原理、および道徳的なものにおける自由とかかる目的との一致の原理としての超感性的なものの理念である。

自分自身のアプリオリな原理をもつのは反省的判断力だけであって、規定的判断力ではないということ、それだから規定的判断力は他の能力(即ち悟性)の法則のもとで図式的に処理するにすぎないが、反省的判断力の方は(自分自身の法則に従って)技巧的に処理するということ、そこで後者の処理の仕方の根底には自然の技巧という原理、従ってまたかかる[反省的]判断力においてアプリオリに前提されねばならないような合目的性の概念が存する、ということである。かかる合目的性は、反省的判断力の原理に従えば主観的なものにすぎない、換言すれば、この能力そのものに関し判断力によって必然的に前提されるのであるが、しかしそれにも拘らず可能的な客観的合目的性の概念、即ち自然目的としての物の合法則性という概念を伴うのである。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

…われわれは決して、現象としての感性的自然が自由や理性の法則に従属していると考えてはならない。歴史をそのように解するのは、諸々の出来事というものが、理性によって規定されると、そして、ヌーメノンとしての人間の中に個々に存在している理性によって規定されていると考えることになってしまう。すると、諸々の出来事は、人間たち自身の「理性的な個人的意図」を顕在化しているのだということになってしまうだろう。だが、感性的自然の中に現れるような自然は、全く反対の事態を示している。すなわち、純然たる力関係と諸傾向の対立が、子供じみた虚栄と狂気の織物をなす、そのような事態である。これはつまり、感性的自然は常に、自らに固有の法則に従っているということである。だが、感性的自然には自らの最終目的が実現不可能なのだとしても、それでもなお感性的自然は、みずからの諸法則に沿って、この目的の実現を可能ならしめねばならない。ほかならぬこの力の機構と諸傾向の対立によってこそ、感性的自然は、人間そのものにおいても、最終目的が歴史的に実現される唯一の場としての〈社会〉の創設を主宰する。だから、アプリオリな理性的な個人的意図の観点からすれば無意味に思われることでも、人間という種の枠内での理性の発展を経験的に保証する「〈自然〉の意図」たりうるのである。歴史は、個人的な理性からではなくて、種の観点から判断されねばならない。したがって〈自然〉の第二の狡知があることになる。われわれはこれを第一の狡知と混同すべきではない(二つが一緒になって歴史を構成しているのである)。この第二の狡知によれば、〈超感性的自然〉は、人間そのものにおいても、感性的なものが自らに固有の法則に従って働き、ついには超感性的なものの効果を受けいれることができるようになるのを欲していたことになるのである。*4

2010年終わる。時の流れ早すぎる。死人はよみがえらないし、天使は一向にやってこない。

*1:その「解決」だけが理解できるというカントのいつもの(ry

*2:悟性とか構想力とか統制的、構成的とかことばのもんだいだしけいじjy…と一瞬でも思ってしまったおれはたぶん哲学徒に殴られる。

*3:どうしてそんなことが可能なのかもよくわからないし。

*4:『カントの批判哲学』文庫本での國分功一郎さんの解説のとおり、ドゥルーズは『カントの批判哲学』以後、もっぱら内官とか無規定なコギトとかについて言及するばかりでこのテーマについて取り上げることはしなかった。たしかドゥルーズは講義でルソーを取り上げたこともあったような気がするけど、それもたぶん60年代のことだろう。おそらくこのことに言及しなくなったのは、どっちにしたってヘーゲルっぽくなるからだと思うんだけど、解説の言うように、たしかにガタリと最後に「自然哲学」の本を書いて欲しかった。

まえの続きだよ

実験音楽ってなんかやべー言葉だな(笑)ウィキペディアに「実験音楽のバンド」ってカテゴリーがあったんだけど、あれ、ほんとすごいですね(白目、ちょっと血出てる、今日あんま寝てない)
あれですよ、固有名は出さないけど一部の範囲のものですよ。前エントリーの、『わたしは実験音楽と言われるものの一部があまり好きではない。それらのジャンルのくくり方も妥当だと思う』っていうのは、それらの一部のものに対して「ほんとにー実験音楽だわねー」と揶揄してるわけで…、実験音楽の外延(とされているもの)すべてを射程にしているように読める感じだけど、そういうわけではないのです。そうですね、とりあえず補足的になんか書いてみましょう。
んで、まず実験音楽の祖とされるジョン・ケージのことですが、わたし的にケージは「音楽家」ではないんじゃないかなーと思ってます。これはとても重要なことなのではないかなーと思うのですよ。ただね、そうは言ってもやっぱり気になるのはケージの定義による実験音楽の「実験 experimental 」のことなんですが。これは「サイレンス」に直接あたってみないことには、はっきりとは言えないんですけど、ネットで調べてみると…「実験とは結果が予測できないことである」とあります…。うーん、これちょっとどうなのかなー、と思うのですよ。そしてその衣鉢を継いで呼称としてそのまま流布してしまっている現実的状況も、うーん、これまたどうなのかなーと思うわけです。むしろ「不確定性」「偶然性」の音楽とした方がまだいいような気がするのですが。これについては後々また出てきますので。
んで出オチの件ですが、もう一度断りを入れておくと(笑) 前エントリーでは「あまり好きではない」と書いていて、わたくし「嫌い」とは言ってないようですね…(笑) いや、まじで、ほんとうに一部のものですからね。ヘリコプター使うとかね、マージャンやるとか、寝るとか*1 そういうやつですよ。(←いやぁ、なんだかんだけっこうそういうのフォローしてるじゃないですか。けっこうな悪趣味をお持ちじゃないですかェ)…まぁ、わたしが感じてることを書きましょう、書きましょう。

えーっと、まず、それらの「実験音楽」とされる演奏、作品があります。そして、鑑賞者、批評家、評論家、受け手はその表現に対して、そこで起きていること/起きたことの記述をし、なにか感想、意見を持つわけですね。そしてそれに対して「実験音楽家」は抵抗するわけです。へんな言葉で語るな、そんな風に言われるのは心外だ、等々、と。まぁここまではいいですよ、ここまでならどんなアーティスト、音楽家だって、同じようなふるまいをしてみせたりするわけですから。んでちなみにその記述なんですが、べつに突拍子もないことを言っているわけではないのです。むしろ精度からみたら妥当なものだと思います。(というよりか、その音楽家たちは意図的に、何のことはない行為をしてみせているわけです)*2
はい、んで、ここで、まっさらな気持ちになって、思うのですよ。はたしてこの「実験音楽」の「実験」とはなんのことだろう…と。これは「即興演奏」とはだいぶ事情が違うものですよ。(即興演奏において、「相手の音を聞かない」というアレな命法がありますが、これなんかはかわいいもんです)

つまりこういうことです。それらの「音楽」は記述に対して抵抗するんですね。しかしながら、それにおもいっきり依存するようにして楽曲を構成しようとするのです。どうですかー、なんかこう、現代に生きるわれわれの心性を強烈に利用する、ニヒリズムめいたものを感じませんか(笑)
これがクリティカルってことなんですかねえ。そうであるのなら、やっぱりあんまり好きではないんですよ、そういうのはね。もしかしたら、これ、むしろ、わたしが、釣られているんですかね(笑)…なおさらだよほんとにという感じなんですが。 これべつに実験音楽と自称しなくてもおんなじですからね。実質的なものなのです。

わたしはですね、その言語ゲーム的状況についてとやかく言うつもりはないのです。というかですね、現在の音楽環境は、その形式/実質をめぐる「美」のゲームによって現代音楽まで発展してきた歴史の延長線上にあるわけで、調性の拡張や音色の追求も、とうぜんその一貫として捉えられるわけです。しかしながらその歴史の条件とその極限的展開のうえで、無知なのか、ありがたがってるのかよくわからないけど、その状況を密輸入してクリティカルだ、実験的だ、なんて言ってるのが腹立たしいだけなのですよ。それならわざわざ「演奏」などしてみせないで、文章で「こうして」、そして「前エントリー」みたいに、書いたほうがいいと思いませんか、わかりやすいと思いませんか。 「音楽でしかできない」なんて、「言うのも憚るくらい」当然のことなのですよ。 そして、「結果が予測できないことである」のは、べつに「実験」だけではないのです、どの音楽だってそうでしょう?わざわざ三千円払って、まずいカクテル飲まされて、ただ牛乳瓶積んでるだけなんですよ。*3

ああ、あとメディアアートについてですが、こちらのほうはですね…プランとかがなんか見えすぎちゃっていて、あんまり驚けないことが多いかなって気がするのです…(メディアアートってそういうのじゃないの、おどろきがあるもんじゃないの、ひんこんなかんせいをろててるのぼはくのもるねむしり)…まとめるとですね、現実が凄すぎてアートがそれに追いついていないってことですかね(爆

→ここで筆者の眼球が飛び散り、パーソナルコンピュータごと爆発、壁にシンメトリーの血痕模様、虹色の蝶、光り輝く少女の睫毛と、それに守られた眼球の中で蠢く死体兵たちの、此世に残した最後の微笑。つまり地図だ。

追記1:ダァーっと書いて、んて時間置いて読みなおして気づいた。ケージ以後のソレ系のやつって、ザックリいくと、「実験」を結果の予測不可能性ではなく、演奏行為の原因の遡及、ひいては因果連関の破棄として捉えようとしている、ってことかもしれないな。つーかそうだろ。まぁ、懐疑論のお遊びというか。ここで脚注2の追記2ですよ。なるほど(笑) これは堂々巡りだよなーほんとうにー。マジたちわりーよー、俺が堂々巡りしてるんだよー。寝てないんだよー。朝になっちゃてるよー。もうアタマパンパンしてるぅ。ヌチャヌチャヌチャヌチャ、これウラね、ウラで取ってね!
*4
…えーっと、ただね、ケージのことなんですが、そういうことではないんじゃないかなーと思うんだよねー。これは前エントリーのところと関連してくるはなしだけど。おそらくケージに、そして音楽に忠実であるのなら、まずなによりもそれは、出来事の因果連鎖を一瞬でもいいから解き放とうとしてみせること、なんじゃないのかな。そして、それはべつに「実験」だけで起きていることではないのですよ。*5 詩的すぎますかね。でもこれはしょうがないよね。そしてここいらへんが、ケージが音楽家ではない所以、だと思うわけです。
…しかしあれだな、なんか本文読みにくいな、いろいろごちゃごちゃしてるし、もっと簡潔に書けたな。もはや本文に登場する「実験音楽」もフィクションでもべつにいいような気がしてきた、途中から、なんかもう呻きみたいだね。まだ続くかも。

*1:寝ちゃうとかならいいねジョアンみたいに。

*2:(追記2:ハハハハハハハハ)

*3:聖霊が降りてくるのなら許す、つーか演劇にしてもっとおもしろくしてくれ、そのほうがいいだろ。

*4:(追記3:ここで、自動手記によって、架空の国家の架空の戦争と、冴えない男子高校生のありきたりの日常、つまり「運命」が描かれるのだが、それは一言で言ってしまえば、萌え死のことであり、決してなにか重大なことが起こるわけでもなく、学園の平和は妹たちのパンチラさえない戦闘シーンによって、しっかり守られているのである。しかしながら、それらは大量の記号列(ごく少数の規則と文字によって記されているのだが、日本語に変換するには、京都にあるはてなダイアリーのサーバーを、破壊するほど)によるものなので、全カットした。)

*5:(追記4:だからなおさら、「実験音楽のバンド」のカテゴリーなんて概念的混同があるし、それは無意味なわけだ)

Speech Melody

(以前に少しメモったものを加工して掲載)
前エントリで「芸術は〜」と大風呂敷を広げてみたが、つつましく音楽のことについてだけ少しばかり考えてみよう。

(1)音楽について何かを話したり・語る状況をいくつか思い浮かべてみるだけで、なにか気づくことがあるかもしれない。例えば、演奏中の掛け声(演奏者どうしのものでもいい)、演奏終了後の演奏に対する評価、同定、その文字化、終わらない演奏への注意・勧告、ライブのビラのアジテーション…。これらの雑駁ではあるが注目すべき事例について、それぞれ言語学社会学などを援用して事態を分析することができるだろう。

(2)「批評家は適当なことをいう」「作品に対して難解なわけもわからない用語を使って都合のいいように物事を曲解する」このような作品をめぐる紛争はさまざまな場所、メディアで散見され、もはやクリシェのようなものになっているのだが、果たしてここで何が問題になっているのだろうか。賭け金はなんだろうか。「作者はそんなつもりで作っていない」「批評する者は彼らを誤解している」ということだろうか。つまり、ここで最も重要視される/されなければいけないことは、作者の「意図」だろうか。もしそうであるのなら、もはやこの問題は紛糾する余地などないだろう。作者自身がその意図について語ればいいのだから。*1

(3)少しはなしを変えよう。ご多分に漏れず失語症と脳のことだ。その多様な段階的症状、その発現と脳のモジュールとの対応、そしてそれらと音楽行為(聴取、反応、読譜、演奏、採譜など)との関係だ。一時期私の考えていたことは、全失語症者(しかも先天的なケース)が音楽を奏でることができるという奇跡的な事実によって、もはや消滅してしまえるのではないか、と思っていた。しかしながらよーく考えてみると、そんなにうまくいかないんだからね!残念なんだからね!ということに容易に気づくのだが、そのような過程で音楽療法のおもしろいエピソードを知ることができた。知悉されている方なら初歩的な症例であるのかもしれないが、失語症者が歌だけは歌えるという事実だ。

(4)意図のはなしに戻ろう。意図は少なくとも大事だ。という本文の意図を感じ取ってくれたまえ!…現代において創作者の意図など全く看過できる/されるべき音楽的状況がある。ポップミュージックとダンスミュージックだ。前者は「売上げ」によって、後者は「踊れる」という是認の身振りによって、とりあえずは規定されると言ってよい。

(5)批評のはなしに戻ろう。わたしも批評に対して「あいつは適当なこと言いやがる」とか「知らねーくせに権威づけに利用しやがって」とか「〇ねよ〇〇」と思うようなことがたまにある。だが、だからといってそれが亡くなってしまえばいいとは思わない。ここで複雑な心情を吐露してみたくなる気持ちもないではないが、批評がなぜ必要なのかではなく、批評がなぜこのように見向きもされずディスられてんの、ってところから考えてみたほうが、現状を把握するにはよいのかもしれない。つまりそれはネット上のインフラに起因する「他のもの」によって、批評に変わる機能がスムーズに代替されるようになってきたからだ…、といったあたりまえの事実を指摘しておくことはできる。

(6)偏執病と正義のはなしをしよう。のまえに美学の欲望について考えてみよう。芸術と美学は西洋に特殊のものだ。批評はおそらく18世紀にその開始を位置づけることができるだろう。それは局所的で決して普遍的なものではないのだ。果たして今日、美学は必要だろうか。「美」は必要だろうか。わたしは実験音楽と言われるものの一部があまり好きではない。それらのジャンルのくくり方も妥当だと思う。なぜなら出オチだからだ。*2「それ」について演奏するよりも「それ」が言葉で難なく言えるからだ。それ以上ではないからだ。演奏するよりも文章にしてあらわしたほうが簡潔で分かりやすく手っ取り早いのに(ときには莫大なコストをかけて)もったいぶってわざわざ演奏するからだ。そしてそのことについてまた語ったりするからだ!最初からそうすればいいのに、音楽と称して美のゲームをするからだ。

(7)音楽とともに移動の言葉を編み出さなくてはならない。音楽は普遍だろう。

*1:反論はあるだろうが、精神分析に注意せよ。事情は同じだ。

*2:これはメディアアートにも言えるようなことで。いさぎよく「デザイン」であるほうが何倍もよかったりしますよね。そしてうだうだ言ってる前衛さんは早く脳というメディアに電極ぶっこんだがいいですよ。他人は法律的にまだアレなんでとりあえずセルフポートレイトな感じで。

ビル・エヴァンスとケニー・バレル

これで共演してたんや

Quintessence

Quintessence


あと再発もののこれ↓オーケストラ、ストリングス系との演奏っつうと、ルグランの曲とかやってる『From Left To Right』(←これはとってもいいですね)とか、クラウス・オガーマンとのもう一枚のやつが有名だと思うんだけど(あとオーケストラものはもう一枚くらいあった気がする)、なんだろうね、これ、すげーおもしろい。ストリングスのっけました感は皆無。エディ・ゴメスたんのベースがとってもいい。

シンバイオシス (紙ジャケット仕様)

シンバイオシス (紙ジャケット仕様)


ジョージ・ラッセルビル・エヴァンスの関係について、LCCを全く理解していないわたくしごときが何か申し上げるのは憚られますが…、この時期のジャズプロパーによるジャズロック特有の煮え切らない感が漂ってくる消化不良系アルバムなどと、ばっさり口を滑らせ切っててしまいそうですけども、このダ・ダ・ダ・ダ・ダーンっていうエレピ、ビル・エヴァンスやってるのよってだけで、あーこれすげー珍しいなー、いいねー、さいこー、よし!としてしまうくらいホント珍しい演奏が聞けるんで、機会があれば是非って感じのアルバムですね、はい。通しで一回しか聴いてないんであれですけど、普通に変な演奏です、はい。んでMVPはやっぱりトニー・ウィリアムス

リヴィング・タイム

リヴィング・タイム


EP出す前にThrill Jockeyにあがってた「Ah!」の試聴で、こういうアルバムになるんだろうなってのはだいたい想像つきましたよ(キリッ

O

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ただライブどうすんのかはわからん笑たぶんマーカスくん頼める友達とかいないと思うんで昔とおんなじようにオーソドックスなスタイルでラップトップで自分で演奏したストックをliveのセッションビューのクリップに入れてリアルタイムでオーバーダブしながらループさせてもしかしたらハードシンセwaldorf?なんかも交えたかなり忙しい感じになるか、事前にアルゴリズムは組んどいてギター中心の(テーブルトップかも)ゆるい設定の即興をプロセシングするとかそんな感じと予想。