心のありよう

楽器店でのボーカルレッスンの帰りに、ホームセンターDCMで買い物をいくつかして帰ろうと思っていたのだが、レッスンが少し長引いて、もうお店があいている時間に間に合わないなぁと思いながら車を走らせていた。

すると、21時までやっているドラッグストア・コスモスの看板が目に入った。「そっか!ここでも、買い物できるじゃん」。店内に入りながら買い物メモをチラ見すると「B5コピー用紙」の文字。そうだった!そもそも、B5のコピー用紙が欲しかったんだ!と、本来の目的を思い出す。

B5サイズなど、今や使う人はほとんどいないだろうけど、私はピアノ弾き語りのあんちょこを作るのに愛用しているのだ。

店内を数分うろつき、目的のブツがある棚を遠目に見つけた。ちょうど商品の目の前に男性がひとり。なんと!その男性、たったひとつしかなかったB5サイズのコピー用紙を買い物カゴに入れたのである。

わざわざ、そんなレアなものを、同じタイミングで、いや、少し先に、買い求める人がいるなんて。なんということでしょうーーー!!!

「ということは、わたしは、ここで、今、買うのではなくて、もっと、良いタイミングがあるっということ!?」ニヤニヤ。「次はもっと、すっごい、素敵なことが待ってるってこと!?」ニヤニヤ。「いつ、どこで!?」ニヤニヤ。

なんだか、ひたすら楽しい気持ちになってしまったのです。あぁ幸せ。平和だ。なんだか面白いわ、人の心って。

写真は、コスモスで初めて買った一品。これはこれで美味しかった(これで幸せは、終わりではないと思う)



水鳥さんとそら豆くん

わたしが料理をするのは時々なのですが、それでもほとんど自宅で食事をしています。向田邦子のエッセイに出てくるように「箸置きを置くくらいの余裕を大切にしたい」と、思ってはいるわけです。

島崎智子ちゃんから頂いた水鳥さんの箸置きが大好きなのですが、お上品に置かないとお箸が転がっていってしまう。これが悩みの種でした。

少々がさつな振る舞いでも留まってくれる形状の箸置きも欲しい。木目のテーブルに似合う色味のものがいい。そうなると、やっぱりそら豆タイプで、かつどこか笑える感じのがいい。そして安いのがいい!

と思ってメルカリで見つけた好みにぴったんこのブツが、今日届きました。これなら転がらない。いいぞいいぞかわいいぞ。

水鳥さんとそら豆くん。これから仲良くよろしくね。それにしても、そら豆くん、水鳥さんより、かなり大きいですなぁ。






 

 

メガネとコンタクトと歌

近視、乱視(ちょっとだけ老眼)です。

手前の「紅子ちゃん」は長いこと毎日使っているのですが、だんだん夜の運転が怪しくなってきて、一昨年、運転用に一番奥の「ザマスさま」が登場しました。

それで数年過ごしましたが、日常使いもちょっと見えにくくなってきたので、新入り、「まるちゃん」が新登場(遠近は入れてない)。

度数はさほど変わってはないのですが、乱視が更にちょっと乱れている、らしく。店員さん曰く、近視の度数と乱視の補正、どんなバランスで入れるかは正解はなく、本人がどう見えるかが大事とのことで、とても細やかに、いろいろな方向で試してくれました。おかげさまで、まるちゃん、快調です。

思えば、ボイストレーニングも同じなんだよなあ。正解はなくて、いろいろなバランスをとりながら、本人の持ち味を最大限に引き出せるように、いろいろ試しながら進んでゆくわけで

眼科で、使い捨てコンタクトも新しく処方してもらいました。女性スタッフとこれまたざっくばらんに話ながら、彼女「じゃぁ、この度数で試してみましょうね」とコンタクトが入っている引き出しの方へ移動しながら ♪シャランシャラン〜〜〜♪ とな。

あら鼻歌なんて歌っちゃって、ノリのいいスタッフさんだわね。と思っていたら、「斜乱視、しゃらんし、、、」と呟いていただけだと判明。(私、斜めに乱視が出ている斜乱視なんだそうな)

どこへ行っても何をしていても、歌や音楽と思考が結びついてしまう、さとこでありました。

9月の朝顔

毎年9月になると、我が家の朝顔はようや本気を出します。必ず忘れずこの時期に。ちゃんとDNAに刻まれているのだなぁ。

最近しみじみ思うのは、私には「うみださずにはいられない」「自己表現するのは当たり前」というDNAが刻み込まれているのかもねぇ、、ということ。かっこよく言えば、クリエイトする、創造する、アーティスト、ということなんだけど、別にかっこよく言わなくてもいい。

世間ではよく「幸せに生きるために、自分の心を見つめよう」「自分軸で生きよう」と言われていますが、それは自己表現をしている私にとっては大前提のこと。だから、、、組織に属せない、社会にあまり適応できないなどナド、見方によってはマイナスと感じられる点もあるけど、自分の人生に不満はないわけです。

みんなも、もっと自己表現したらいいのに。歌を作って歌うことだけじゃなくて、絵を描いたり、文章を書いたり、他にも色々あるから、やったらいいのに。なんでしないんだろう?それが商売に結びつこうが、つくまいが、そんなことは関係なく、やったらいいのに!こんなに充実できるのに!何でうみださないんだろう?

・・・と度々感じていたのですが、いやいや待てよ、これは良し悪しではなくて、DNAに何が刻み込まれているのかの違いなのかも?と、朝顔を見ながら、思い始めているわけです。

さといもちゃん

雨がたくさん降りまして
お庭はジャングル 伸び放題
知らない間に さといもちゃんは
しっかり 育っておりました

 

夜がたくさん流れまして
夢と現実 いき放題
気づかぬうちに さとこちゃん
じゆうに 歌っておりました

鴨と私


(※ここに簡単にスマホの動画を貼ることができなかったので、上記二枚は動画のスクショです。Facebook→ochiaisatoko、Instagram→otiai.satokoでは、動画と文章を両方お楽しみ頂けます)
◾️ 落合さとこ関連 URLまとめ  ◾️

lit.link


数日前に、SNSに、鴨のカップルの動画を投稿しました。我が家の目の前の田んぼの光景です。(一つ目の写真=動画のスクショ)。2時間くらいずっと同じ場所にいた仲良しカップルです。
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そして、その数時間後、突然雷がとどろき、豪雨になりました。田んぼをのぞくとまだ鴨がいます(二つ目の写真=動画のスクショ。あの日は投稿しませんでした)。撮影後に、カメラのアングルには入らないところに、もう一羽がいたことに気づきました。よかった。これだけ長時間いるということは、よほどこの場所が気に入ったのでしょうか。
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それから更に2時間後。雨があがり、先ほどの場所に目をやると、さすがに鴨はいませんでした。「だよね」。
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けれども、鴨の代わりに、ベージュ色をした楕円型の物体があります。家の中からではよく見えませんが、まさか?あんなところに?でも、そうだったらどうする?
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夕飯のお米を炊く準備の真っ最中だったので(精米機にかけたりなんだかんだと)、急いで終えてから、確認に走りました。
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「あぁ!」それは、やはり、たまごでした。
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そして、更に、的中して欲しくなかった方の予感が、的中していました。目を離した数分の間に何者かに割られて、中が食べられていたのです。白身のようなものが少し残っていました。田んぼには白鷺がいました。犯人が誰かはわかりませんが、とにかく田んぼには白鷺がいました。


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なんであの時、わたしはすぐに確認に行かなかったの?いや、たまごが無事だったとしてもわたしには何ができた?鴨のカップルは何故この場所にたまごを?どうやって子育てするつもりだったの?孵化する可能性がなさそうだから見捨てなの?ってか、なんでわたしはすぐに確認しに行かなかったの?
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と、ぐるぐると。
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あとで二本の動画をよく見てみると、鴨のとなりに既にたまごが写っているではありませんか。全く気づいていませんでした。
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翌日もその場所に行くと、たまごの殻すらほとんどなくなっていて、ちいさなカケラが残っていました。田んぼには白鷺がいました。この日は気温が急上昇して田んぼはカンカン照り。たまごのカケラもカラカラです。
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身を隠すことも日差しをさけることもできない丸見えな場所では、コガモちゃんが無事に巣立ってゆける可能性はとても低かったに違いありません。あれから姿を見せていない鴨のカップルは元気にしているのかしら。
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「あぁ・・」思いを馳せながら小さなため息、そして今朝も目玉焼きを食べるわたし。にんげんって、なんなのでしょう。

田んぼの満月


田んぼに映った満月。 

夜8時頃の我が家からの風景。
街の灯りがない分、月の明るさが際立ちます。

だけれども、その光はまやかし。
さも自分で輝いているかのように私たちに錯覚させるけれども、
そうではないのですよね。

「月の欠損」(マドモアゼル愛さん提唱)という考え方に出会った時に、
なるほど!と、膝を叩きました。
そして、月の危うさもしみじみと感じるようになり、
空を見上げて、月を、特に満月を、見つめるということがなくなりました。

むかしの人たちは、月を水面に写してお月見をしたそうですね。
盃に映った月を飲み干すことで月から解放される、といったような話も聞きました。

だから、わたしは田んぼに映った満月を楽しみます。
カエルの合唱は月を揺らし、山の端まで響いてゆきます。
なんて贅沢な夜。サイコー。