Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

街と、その不確かな自分について(遅刻した)

この前、昔の友達と会った。コロナ禍になる前はよく会っていたのだけど、それを機にめっきり会わなくなってしまっていたのだ。そもそもぼくはほとんど誰とも会わない生活を送るようになってしまっていた。

その友達は大学時代の友人で、当時1番遊んでいた。ぼくと違い、友達が多く社交的で多くの人から好かれていた。少なくとも彼を嫌うと公言する人はぼくの知る限りいなかった。そんな彼がどうしてぼくのことを気に入ってくれたのかは、なんとなく予想がつく。彼は物珍しいものが好きなタイプだったのだ。当時のぼくは大学では珍しい勉強しまくります系の人間で、それでいて格好や性格はだらしない、つまりどうしようもない人間だった。彼は人間の汚いところを見るのが好きで、それは人間の最も人間らしいところに触れることができるからなのだけど、ぼくもその点については同じだったから、それもあってぼくたちはよくつるんでいた。

ぼくたちは新宿で夕食を終え、街を歩いた。トー横、新大久保、二丁目、三丁目、なんとか横丁。新宿という街は少し歩くだけですぐ景色を変える。歩く人の格好も全然違うし、落ちているゴミとか、喧騒とか、匂いとか。街が変わる瞬間を感じる。これは僕は何度か経験があって、たとえば銀座から歩いたとき、ある時点で急に街がグレーに汚くなった気がして、そしたらそこは新橋だったのだ。新宿ではそれがあの小さい範囲で何度も起こる。あるいは街というのは本来そういうものなのかもしれない。

さて、友達と新宿を歩くぼくの口は、まあずいぶんと悪くなっていた。昔からどうにも口が悪かったのを、少しずつ矯正していって、いまは多少問題はあれど仕事ができるくらいにはまともな口調にはなったと思うのだけど、やはりかつての友達と話すとそのときのノリが蘇ってくる。

人は関係性のなかであり方が決まるのだなと思う。

高校時代の人間と話せば更に口は悪くなるのだろう。大学院の頃の仲間となら多少は良くなるのかもしれない。人のキャラクターは相手によって変わる。片想いの好きな人の前と気の置けない奴とでキャラクターを変えるのとあるいは似ているかもしれない。関係性が異なれば演じる性格も異なってくる。

ぼくは自分が根暗な人間だと思う。喋ることは好きじゃない、だって疲れるから。でもコミュニケーションを取ること自体は嫌いではない。他方で喋らないでいると感じが悪いのは知っているから、頑張って喋るようにもしている。その結果うるさいと言われることさえある。どうやら周りはぼくのことをお喋りな人間だと思っているらしい。本当のぼくはそうではないのに。

でもそれは本当に「本当のぼく」なのだろうかとも思う。結局関係性のなかでしか人間が人間であれないのならばその評価こそがぼく自身ではないのだろうか。関係性のなかにしか自分が現れないとすれば、本当の自我みたいな設定にそもそもミスがある。文章をよく書いていたころ、いつも誰かの顔を思い浮かべるようにしていたのだけど、あるいはそれも似た理屈だったのかもしれない。書くこと自体がいつだって他者を求めている。

今日ぼくは遅刻をして、下らないミスもした。こいつはこういう奴なんだと、周りから思われないようにはしたいのだけど。

みんなと生きる

というのは大変なことだと思う。共生って言われても実感ないし。あの人の〇〇が気に入らないとかよくあるし。変わってくれりゃいいのにと思ってもまあ変わってくんない。言ってたらこっちがファシスト扱いされる。

色々なアプローチがあるなかで政治学は、異なるみんな(というのはわりかし「民主主義論」的な前提かもしれないけれど)が生きる政治社会のルールを作ったり消したり調整したりとか、そういう過程に目を向ける癖があるように思う。違うもんは仕方ない。だから、みんながうまくやっていけるよう、ルールの方から考えていく。あるいはこれはしばしば法律学と同じ学部にある日本の政治学的な考え方なのかもしれない。

ルールの話だからどうしても権力の話が出てくる。だってルールに効力がないならそもそもルールとして成り立たないから。でも待って、ルールって法律とか社則とかだけじゃなくて、それこそ友達同士とかでもある。先輩後輩とかでもある。上のもんを立てろみたいな暗黙のやつが。忖度みたいなのを強いられているとしたらそれも権力と言えるかもしれない(まあ言えるのだけど)。

ルールといってもどの範囲の話やねんという話だってある。その範囲自体をどう設定するかも権力問題だし、逆に、我々だって関わっているんだぞというのも、その制度が公共性を問われる案件としてよく出てくる。まさに参政権拡大は我々も政治社会の設計に関わるべきだという理念的な面を多分に含んでいる。労働組合もあるいは会社ないし企業社会というあえて言えば政府よりもダイレクトに生活にかかわる問題について発言権を得ようという試みとも言える。

こうした諸問題を抱えながら政治は進む。ルールの策定過程。でも多くの人はどうしたって思う、「そんなことしてないであの人がちゃんとしてくれさえすればいいのに」。これは組織あるあるだろう。同じチームのあの人が仕事できない、舐めたマインドがむかつく、とかとか。ぼくだって思うことはある。実際問題児はいるのだ。ぼくだって思うさ、おむつ交換もなぜろくにできないんだとかおっとこれ以上は愚痴になっちゃう

で、そういうむかつきとかがある時に、でもルールをとか言うのはドライに聞こえると思う。実際それは(少なくとも短期ベースで)他人が変わることを信じていないみたいなもんだから。正直ぼくもわずかながらしっている政治学者たちに対して、こいつらなんてドライで人間味のないことを言うんだと思ったことが多い(全員じゃないですよ!)。だからあるいはぼくの言うこともドライで、時として現実味のないことのように思われることも多いのかもしれない。

でもそんなこと言ったってしょうがないじゃないかと、ぼくの心の中のえなりくんが言っているのだ。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。もうその誰々の〇〇はその人の個性なわけだし、そりゃ指摘してけばちょっとは変わるかもしれないけれど、でもよく見たら指摘してる側のお前も割と大概なとこあるよ? 

と、いうわけで、結局みんなと生きるというのは、どうにかこうにかうまくやりくりすることなんじゃないかと思う。同じ目標を向いた人同士(とりま生きる、でも)で、とりあえず場当たり的でも関係を続けながら、でも持続的であるように人間関係のシステムを構築していって、それを後世に繋げていって、またダメなとこがあるなら直してもらうこと。だからこの発想は常に自分たちにも間違いが認められるという余地を残す。

めんどくさいなって思います。でもまあ、めんどくさいもんは仕方ないじゃないですかと、これまたぼくの中のえなりくんが叫ぶのです。

結婚しました

というわけで(どういうわけで?)結婚しました。ただし籍は入れてないです。

どゆこと?

理由は単純で、ぼくは自分の苗字を変えたくないし、相手(女性です、ちなみに自分は男です)も苗字を変えたくなかったからです。そりゃ自分がこれまで馴染んできた苗字は変えたくないですし(ぼくも嫌だ)、ましてや変えることによる面倒なんて想像もしたくないですしね。

で、どちらも苗字を変えたくねえぞって時に「黙れユーが苗字を変えるのだ」っていうのは単にファシストですよね。で、パートナー様もファシストではないので、なら夫婦別姓で行きましょうと。しかしピースとデモクラシーを謳うファックネーションこと我らがジャポンは夫婦別姓を絶対に認めないネーションなので、

まあそれで事実婚みたいな感じでやろうか、となったわけです。

めんどくさいですね。

この夫婦同姓制度について、男女ともに自分の苗字を変える機会が保障されてるのだからアンフェアでないとか言う人がいますけど、現に苗字を変えるのは9割型女性なわけで、結局制度がそういうふうに機能しちゃってるんだから、どう考えてもアンフェアなわけです。これが気に食わなかったのも理由の一つです。

ちなみにパートナーシップ条例みたいなのに申請することで形式上(?)結婚したことにしましょうとパートナー様と話し合いそうしたのですが、このパートナーシップ制度みたいなのも諸々問題ありまして。あ、同性婚とか、そういうのを基本的には念頭においた制度です、多分。

まず土日祝日はやってない。これ想像してみて欲しいんですが、当然結婚するにあたり特別な日(正月とか)を選ぶ人もいると思うんですよ。まずそれが保障されていない。

んでこの申請も役所の隅っこでやるんですよね。まあ映えない。映えないから何だって話ですが、でも世の中の結婚した皆さん(おめでとうございます!)ってわりかし役所のステキなコーナーで写真撮ったりとかなんやかんやで映えタイミングがあるわけです。それをこちとら役所の隅っこでやらざるを得ないんですね。

もちろん役所も上の言うこと聞いてしっかり仕事してくださっているので感謝なんですが。ついでに雇ってください!

さて、そんなわけでこのパートナーシップ何たらも、結局、「正式な」結婚の二番煎じ扱いみたいになってるわけです。そしてそれを突きつけられるシーンが意外とこういうところだったりするんですね。

む〜ん、となりました。自分はパートナー様と一緒になんやかんやで末永く楽しくやっていきたいなとは思ってます。が、夫婦別姓でも、もちろん同性婚でも、何でも、正式な結婚の権利くらいはよこせよと思っちゃいますね。別に夫婦同姓がいいっていう人を止める気は毛頭ないですし。

てなわけで、ちょっと長めで文句も多めな結婚報告でしたとさ。ちなみに当日の本日は(本当は今日を結婚記念日にするつもりが土日祝日はやってないってことで書類の提出は平日に済ませたのです)今日は豪華にいこうぜってことで食べた寿司があたってしまい見事にダウンしてました。なーにやってんですかね。これからパートナー様に華麗なるスライディング土下座をかましてきます。

アイドルカルチャー

ぼくは大学に入るつもりはなかった。少なくとも現役で。というのもぼくは恥ずかしながら中学高校とろくに勉強というものをしてこなくて、それが急に「おれは大学に行って超勉強するんだ!」となってしまったので、まあそれはそれで結構苦労したのだ。

ちなみにこの決意が高3の夏の終わりの頃。文転しますと言ったぼくを親は快く受け入れてくれた。そりゃそうだ、偏差値25の理系が偏差値20の文系に変わったところでそう変化はない。

さて、そんなふうにやる気を見せた僕は完全に浪人で大学に行くつもりだったのだけど、さすがに親も浪人ありきはどうなのかということで、高3の終わりに受験をしてみて、そしたら何故か大学に受かってしまったのだ。E判定だったのに。人生というのは分からん。

さて、そうして大学に現役で奇跡的に受かってしまったぼくには一つ困ったことがあった。周りはぼくなんかよりずっとずっと頑張ってきた人たちだ。追いつこうにも差は大きい。そこでぼくは一つの噂を聞いたのだ。

 

ーーー大学にはノートという文化があるらしい

 

ーーなるほど、ならそいつを手に入れよう

 

ようするに、授業のメモをちゃんととったノートを借りれば単位は何とかなるよ、という都市伝説だ。これはいい。ただ問題はひとつ、誰がそんな理想的なノートを持っているというんだ?

そこで当時の偏見まみれのぼくは直感的に思った。「オタクっぽい人ってノート超とってそうじゃない?」(ほんとにひどい偏見)

というわけでそんなありがたさ極まるオタクの方々に近づくためにぼくは大学に入るにあたり準備をした。そう、これが今回のテーマであるアイドルカルチャーである。

本題までが長いな。

AKB、perfume涼宮ハルヒ、この辺をとりあえずおさえておけば良かろうとこの手のコンテンツをとにかく蒐集した。オタクのイメージが実に貧困ですね。ちなみに当時のPerfumeは自分のなかではこの枠でした(ポリリズムあたり?)

さて、ここからは華麗なオチがついており、ミイラ取りがミイラになるとはこのことで、ぼくはアイドルカルチャーにずっぽりはまり(課金はしてない、なぜならそんな金がないから)、結局ノートは自分で取り、マイパーフェクトノートは他の人に貸し出され無事多くの人の単位を救ったのであった。めでたし、めでたし。

 

と、これだけではさすがにアホな話なのでひとつだけ。ぼくが偶然受かってしまった大学は実は近所にあり、すぐに原付で通学するようになってしまった。そんななかで実は心に響いていたのはperfumeの「ワンルーム・ディスコ」だった。実家暮らしの恵まれた立場なのに。

でもあの曲を聴くたびに、ぼくは、ここにあるいはあったかもしれない可能性をどうしても想起せざるをえなかった。「新しい場所で うまくやっていけるかな/部屋を片付けて 買い物に出かけよ」。こんな生活は当時のぼくにはもちろんなかった。でも進学先や受験のときの運によってはあるいはこんな思いをもっていたかもしれない。すべてはあるいはに過ぎない。歴史にイフはない。それでもぼくはこの曲を聴いては、ここにはないどこかに思いを馳せていた。

人は現実の上に立っているから、ここにはないどこかに思いを馳せるだなんて本来無理な話で、そのためにはフィクションの力を往々にして借りることになる。それは音楽のかたちをとることもある。小説や、絵や、映像や、さまざまなかたちを。思えばアイドルの語源もidol偶像なわけで、ぼくらは常に遠くのものを勝手に近くに引き寄せたつもりになって日々を過ごしている。握手できたところで(基本的に)届かない。僕たちは夢を見ている。圧倒的な現実のなかで眠れなくたって、眠れないほどに夢を見てる。「俺は自分がcoolだと知ってる」。残るのは自意識だけだ。でもそれさえも残らないのかもしれない。

大学を出て、入学したときの野望みたいなものは気づいたら忘れていて、それでもぼくはその野望に恥じないくらいには、まあ頑張ったんじゃないの、と当時の自分の頭を叩いてやりたいくらいの思いはある。まあよくやったよ、あんなにアホだったのにねえ。やりきったことだけしか自分には残らないんだ、ただもうちょっと遊ぶか、あるいはもっと死ぬ気で勉強してみてもよかったかもね、とかそんなふうに。それともうひとつ、「結局君はノートを貸し続ける羽目になるよ」。

 

 

ちなみに進学先の大学院では掲示板にノートのコピーを有料で買い取らせてほしいという貼り紙があった。おまえ、なぜおれのいた大学にいなかった?

映画「バービー」を観てきました

というわけで、映画「バービー」を観てきました。Barbie。感想をつらつらと。

最初に思ったのは、映画「君たちはどう生きるか」と、あるいは「街とその不確かな壁」と似ていることでした。どちらも今この現実に立ち返ることをオチにもっていっていて、それらはたぶん時代の空気みたいなものとして共有されているのかな、と。片方はフィクションの世界でもう一つは現実・・・って言うとものすごく紋切り型で面白くないのだけど。そういえば作中で出てくる「裂け目」は女性器の暗喩なんじゃないのという指摘を一緒に観た人から受けてなるほどなと。最後にバービーは肉体を、同時に「裂け目」を手にするわけだけど、人は想像されるのでなくすることをやめないし、やめることができない以上、常に現実世界とフィクション世界の間の裂け目に立っていて、その意味でバーバラはフィクションを決して捨てていない。常にフィクショナルな想像力は自分を前に進ませて選択肢を多様にし、現実世界を乗り越え変革する力になるから。かつてバービー人形が子どもたちの前に現れた時のように。

それともう一つ感想として思ったのは、あの世界には討議やら熟議やらといった意味での政治はほとんどないということ。代わりにある政治はむしろ儀礼や演劇の領域だったりする。ケン道場カサハウスみたいなものの支配体制を確立しようとする投票過程も大部分がノリだったし。で、個人的なことは政治的なことで、あの映画における言葉による政治みたいなのの一シーンとしては、洗脳を解くフェミニズム的な言葉だったりする。でもこう言うと怒られるかもしれないけれど、「あの程度」で洗脳が解ける程度にはケンの持ち帰った男社会は底が浅いんですよね。なんたって本4冊程度のもんだし、馬と男社会は関係ないし。でも実は元のバービーランド自体も底は浅いんですよね。フィクショナルな想像力(それも主に子どもによる)の限界とでもいいますか。そうした想像の世界そのものの限界を悟り、ファックだけどより多面で多様な深い人間の世界で肉体をもって生き続けることを選んだ、というのがオチなのかなと。

音楽は結構楽しかったです。僕はMatchbox Twentyが世代じゃないんですけど好きで、だからpushが出てきたときはびっくりしたと同時に、こういう使われ方すんのかあって思いました。でも確かにあのバービーワールドから続いていた音ノリからロックバンドのメロウな感じの曲調がすごく異物感あったんですよね、演出としてすごいなあと。そもそも人間界に行ったときの画感とかも違ったりと、そういう対比へのこだわりが強いんだろうなと印象を受けました。それと最後のBarbie Worldが良かったです。プレイリストに入れちゃいました。しかもちゃんと元ネタもあり、そういうのを受けて今どきのgirls power的な、でもBarbie bitchとか言っちゃう感じのノリとか、いいなあと思いました。最初聞いた時、これ絶対bitchって言ってるけどワンチャンbeachじゃなかろうなって思ったんですが、よくよく考えてみたらこの映画が作られたアメリカってhip hopが日本なんかよりはるかに商業的に成功しているわけで、そこらへんのワードとかについても流布されてるんですよね。ここは自分が浅はかでしたね。

この映画がフェミニズム映画かどうかってとこですよね。男社会への対抗みたいなところを見れば確実にそうだと思いますし、そこは絶対にそうなんだろうなと。でもフェミニズム映画だけかと言われればそうでもないのかもしれない。あるいはフェミニズムそのものが含む要素がいかに広いかという話にもなる。ここはどういうアプローチでこの映画を観るかという話にもなるんだと思います(創世記のオマージュだという意見もありましたけど、これは真偽どうこうよりむしろ創世記というアプローチでこの映画を観た、という話なのかなと)。まあでも映画ってそういうもんですからね。単にフェミニズムのさわりに触れたいんならもっと手軽な本読んどきゃいいわけで。バービーという物語のなかに何を読み取るかということについて、色々なアプローチはあれど、ただそのメインにあるのは間違いなくフェミニズム・アプローチなんだろう、という話なんだと思います。

とりま思ったのはそんなとこですかね。もう一度観たい映画だなと思いました。特に「裂け目」は字幕で観ていたので聴き逃しちゃって、実際は何て言ってたんだろうというのが気になります。

さいきんのできごと

君たちはどう生きるか、観ました。まさか冒頭から宮崎駿が出てきて2時間近く説教されることになるとは、、、

というわけで、内容としては村上春樹との相似が気になりました。街とその不確かな壁でも主人公は戻ってくるんですよね。大学院にいたころ、なぜかハードボイルドワンダーランドの話になり、ちょうど戦後ヨーロッパ史をやっていたこともあり、これって社会主義と資本主義とをモチーフにしてるのではみたいなことを言ったのですが、案外当時の気分としては間違ってなかったのではないかも、と。現実、この現実に立ちかえることの意味と、それによって失われている過去の夢の世界とか。

隅田川花火大会に行ってきました。人混みを進みゆくスキルってありますよね、ええ。花火は素晴らしかったです。自分東京の人間じゃないんでこんなに花火で盛り上がる実感特になかったんですが(東京ってお祭り好きですよね)、ホコ天もできてて良い感じでした。危ないロケーションはありましたけど。

初⭐︎新大久保! メシとコスメの街でした。そういえば下北沢にも久々に行きました。スラックスとか買ってみても良いかなとか思いました。歳をとるにつれて選択肢が増えていくことが楽しいですが、他方で「この歳になってこれ?」みたいな目線もあると思うので難しいですよね。まあ楽しく生きていきたいものです。

楽しく、日々の糧を大事にして、生きていくことって、側からみれば恐ろしく無価値で、その中で必要以上の役割を果たしながら日銭を稼ぐ人たちがいる。この街中には沢山。世界はあまりに尊いのだと感じる。

だからこそフェアな世界を、と思ってしまいます。自分の仲間たちの延長線上にいる人たちが目の前にもいる。少なくとも何の気兼ねもなくじいさんの説教や花火を見れて、ラフなマインドで旅行できるように。そうそう兄家族含めでの家族旅行に行ってきました。結婚前の責任ない立場としての、まあトラブルがなければ、最後の旅行に。超楽しかったけど疲れました。10歳やら13歳やらと一緒に遊園地に行っちゃいけねえ。おじさんであることを思い知らされました。いや実際おじさんなんですけど。

あ、そうそう今日ちょっとむかいついたことを一つ。どこぞの人文系の学者様がマスクを外すよう説くのは医療者の責任みたいなこと言ってたんですよね。別に自分は医療者じゃないしその人が人文系レップしてるわけでもないですが(それは流石に失礼)、でもね。

お前は本当に無関心なんだなって思いました。興味もないんだなって。新聞より鏡見てそー。こういうインフルエンサー的な強いこと言ってみちゃう名だけは学者な奴の方の意見の方が世に出回りやすいのもわかるけど、でもおれのアホな仲間どもの声の方がよほど重みあんよ???とも。

真っ当に、楽しく生きることは難しくて、声は響かない。でもだから思い出す、宮崎駿はそんな世界を木っ端微塵にするために開口一番言ったんだ

「そもそも君たちはねえ、、、、」

 

こここら2時間のスピーチ。涙が止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら自分だけ違う映画を観ていたらしい、

身体拘束について思うこと

「身体拘束「なぜ心が痛むの?」「地域で見守る?あんた、できんの?」精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら… 」東京新聞2023年7月7日 16時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/261541

この記事について思うところがあったので書いてみようと思う

 

まず前提として身体拘束は良くない。この記事の、山崎氏はこの点をそもそも問題視しているような発言をしているようなので、そこに関しては問題だろうと思う。その上で。

実はこれは双方理がある面があるように思えた。少なくとも、現場にいる身としてはむしろ氏に共感するところさえある。というのも、身体拘束は職員を守るためのものでもあるからだ。どうしてパンチを避ける才能を開花させなければいけないんだ? 人によっては損害賠償案件だって生じるし、もちろん拘束をされないことにより、記事にもあるようにより危険な行動をとってくる可能性さえ考えられる。身体拘束それ自体の問題はあるとしても、しかし身体拘束にも理由はあるのだ。

身体拘束はよくない、OK、しかし現実に身体拘束はあるし必要な場合さえある。身体拘束の議論は規範をめぐる原則論に加え、というよりそれを前提とした上で、しかしそれでもなお必要な時があるよねというプラグマティックな現場論がある。この記事を読む限り、東京新聞が前者に、山崎氏が後者に立っているような印象を受ける。もちろん山崎氏の言い方は問題だらけではあるけれど、他方で拘束の数だけで問題を語るのでなく疾患も含めて議論しろというのは「そりゃそうだ」という話ではある。もちろん、医療から語るのなら「ならその拘束がどの程度治癒に寄与できたんですか」という問いもあって然るべきだとは思うけれど。

個人的にこの東京新聞の記事がアンフェアでないと感じたのは、そのあとで「私は拘束してほしくなかった」みたいな声(だけ)を紹介していたことだ。結局原則論の土俵に持っていってしまうやり方は、身体拘束はしたくないけれど、でも、という現場の葛藤を見逃す可能性が高い。原則の前に実践のなかの葛藤は無力だからだ。

また、何が当人にとってハッピーであるかを決めるのは誰かという問題も残っている。それはもちろん当事者であろうけれど、しかし拘束を受けざるを得ない状況の当人がどれだけ自らのハッピー可能性を自己決定できるかという問題にはシビアに向き合っていく必要はある(それでもなお当事者主権をという立場には与したいけれど)。これは医療のみならずケアにも含まれるパターナリズムの問題でもある。あなたの幸せは何ですか?→わからない、なら誰がその軸を定めて実践していくのか。あるいは過去に拘束を受けていたことは実は後々当人にとって良かったのかもしれない。でもそれは誰が決めるのだろう?

原則を遵守し理想を擁護することはこの上なく大事だ。しかし世界は無菌室ではない。どこかにゆらぎのようなスペースがある。身体拘束は往々にしてこういうスペースで行われるものだし(だって(基本的に)誰も身体拘束なんてしたくない)、何ならケアだってそういう面がある。ケアは往々にして強くて余裕のある方が、弱くて余裕のない方に与えるもので、それでもケアなんて面倒なことを担う人は少なくて、だからこそ資源の少ないなかで取捨選択を迫られている。それはケアテイカーによる取捨選択だから、さっき言ったようなパターナリズムを必然的に含んでいる。そしてケアの側に葛藤がないわけがない。

東京新聞の言いたいこともわかるし、このおじいさんにムカつく気持ちもわかる。でも現場にいる身としては、どうにもこの東京新聞の構成がアンフェアだなという印象が拭えなかった。こっちは境目でやってんだよ。