この前、昔の友達と会った。コロナ禍になる前はよく会っていたのだけど、それを機にめっきり会わなくなってしまっていたのだ。そもそもぼくはほとんど誰とも会わない生活を送るようになってしまっていた。
その友達は大学時代の友人で、当時1番遊んでいた。ぼくと違い、友達が多く社交的で多くの人から好かれていた。少なくとも彼を嫌うと公言する人はぼくの知る限りいなかった。そんな彼がどうしてぼくのことを気に入ってくれたのかは、なんとなく予想がつく。彼は物珍しいものが好きなタイプだったのだ。当時のぼくは大学では珍しい勉強しまくります系の人間で、それでいて格好や性格はだらしない、つまりどうしようもない人間だった。彼は人間の汚いところを見るのが好きで、それは人間の最も人間らしいところに触れることができるからなのだけど、ぼくもその点については同じだったから、それもあってぼくたちはよくつるんでいた。
ぼくたちは新宿で夕食を終え、街を歩いた。トー横、新大久保、二丁目、三丁目、なんとか横丁。新宿という街は少し歩くだけですぐ景色を変える。歩く人の格好も全然違うし、落ちているゴミとか、喧騒とか、匂いとか。街が変わる瞬間を感じる。これは僕は何度か経験があって、たとえば銀座から歩いたとき、ある時点で急に街がグレーに汚くなった気がして、そしたらそこは新橋だったのだ。新宿ではそれがあの小さい範囲で何度も起こる。あるいは街というのは本来そういうものなのかもしれない。
さて、友達と新宿を歩くぼくの口は、まあずいぶんと悪くなっていた。昔からどうにも口が悪かったのを、少しずつ矯正していって、いまは多少問題はあれど仕事ができるくらいにはまともな口調にはなったと思うのだけど、やはりかつての友達と話すとそのときのノリが蘇ってくる。
人は関係性のなかであり方が決まるのだなと思う。
高校時代の人間と話せば更に口は悪くなるのだろう。大学院の頃の仲間となら多少は良くなるのかもしれない。人のキャラクターは相手によって変わる。片想いの好きな人の前と気の置けない奴とでキャラクターを変えるのとあるいは似ているかもしれない。関係性が異なれば演じる性格も異なってくる。
ぼくは自分が根暗な人間だと思う。喋ることは好きじゃない、だって疲れるから。でもコミュニケーションを取ること自体は嫌いではない。他方で喋らないでいると感じが悪いのは知っているから、頑張って喋るようにもしている。その結果うるさいと言われることさえある。どうやら周りはぼくのことをお喋りな人間だと思っているらしい。本当のぼくはそうではないのに。
でもそれは本当に「本当のぼく」なのだろうかとも思う。結局関係性のなかでしか人間が人間であれないのならばその評価こそがぼく自身ではないのだろうか。関係性のなかにしか自分が現れないとすれば、本当の自我みたいな設定にそもそもミスがある。文章をよく書いていたころ、いつも誰かの顔を思い浮かべるようにしていたのだけど、あるいはそれも似た理屈だったのかもしれない。書くこと自体がいつだって他者を求めている。
今日ぼくは遅刻をして、下らないミスもした。こいつはこういう奴なんだと、周りから思われないようにはしたいのだけど。