Was für Bücher lesen Sie gern?

本にまつわるエトセトラ。

自分を偽ること

1年以上ぶりに書いてみようと思った。

三浦春馬さんのことを。

 

このブログ(と呼んでいいのかも悩ましいけれど)は本について書くとテーマを決めて始めたけれど、まあ別にそれに縛られる必要もないし

2週間前に起きた一人の俳優の死が、まだ自分の中で大きな塊となってずっとあることが、自分でも思っていなかったことで、ことの衝撃を大きくしている。時間が経つにつれて、その衝撃がどんどん大きくなる。

 

私は本を読むのが好きで、小さい頃から、もう本を読むなと大人に叱られるくらいずっと本を読んできた。だから趣味は読書です、ともちろん言えるのだけど、私の趣味は他にもいくつかあって、そのひとつが舞台鑑賞である。

 

小学生の時に、地元に劇団四季の「cats」がやってきた。海に近いところにテントのような小屋が建って、公演を行い、テレビコマーシャルを流していた。友達が親につれて行ってもらったという話を聞いて、なんとなく羨ましく思った。内容はよくわかっていなかったけど、流行りにのった友達が羨ましかった。

 

中学生になった頃、地元に劇団四季の初めての専用劇場ができた。こけら落とし公演は「オペラ座の怪人」で、これもテレビでバンバンコマーシャルを流していた。コマーシャルで流れる音楽がとても美しくて、どうしても観たいと思った。

母に頼み込んで、チケットを買ってもらい、C席でだいぶ舞台からは遠かったけれど、初めての舞台を観ることができた。とても感動した。オペラ座の怪人はどちらかと言うと大人向けの話で、中学生の私には、クリスティーヌと怪人の歪んだ愛の形を理解することはできなかったけれど、とにかく音楽が素晴らしく、衣装が美しく、夢のような空間だった。

 

大学生になって上京し、勉学と部活動の合間にバイトをしてはせっせと舞台を観に行った。マチネーは少しお手頃なお値段だし、学生は平日の昼間にキャンセル待ちに並ぶこともできるし、下北の小劇場からPARCO劇場から、もちろん最初に舞台の素晴らしさを教えてくれた劇団四季の舞台も、なんでも食い入るように観た。いつかブロードウェイで本場のミュージカルを観たいと言うのが夢になった。

 

初めて三浦春馬と言う役者の舞台を観たのは、地球ゴージャスの「怪盗セブン」だった。私は岸谷五朗さんと寺脇康文さんの地球ゴージャスの大ファンで、彼らの舞台を毎年楽しみにしていたので、そこに三浦春馬という、彼らの事務所の後輩でもある、絶賛売り出し中の俳優が出演するということにあまり興味がなかった。

もちろん彼のことを知っていた。その数年前に志田未来さんと共演した「14歳の母」というドラマが世間に衝撃を与えて、ただその時はどっちかというと志田未来というすごい女優が現れた!ということのほうが大きかったように覚えている。その志田未来さんを妊娠させる恋人役を演じていたのが、三浦春馬さんだった。

めちゃくちゃ爽やかなルックスと、繊細そうな表情が印象的だった。その頃流行り始めた「イケメン」という言葉がぴったりの男の子だった。私の三浦春馬さんに対して持っている印象はそのくらいだった。舞台に挑戦するのには少し驚いた。そういうイケメン路線の若い俳優さんは、テレビドラマでラブコメの主演をしたり、映画に出たりが王道だし、そういったタイプの俳優が早い段階で舞台に挑戦することは、稀だった。

 

初めて舞台で観た三浦春馬さんは、ものすごい存在感があった。スタイルがよくて今時のイケメンだから、顔は小さい。本来顔が小さいと舞台では表情がよく見えないから、舞台役者には顔の小ささは逆に不利になるはずなのに、彼の存在感はそのセオリーを超えてきた。一言で言うと、たまげた。歌もうまい。岸谷五朗さん、寺脇康文さん他、元宝塚の女優さんや森公美子さんなど、ベテラン、実力のある俳優に囲まれても、全く見劣りしなく、声量もあるし、声もいいし、表現力もあって、とにかく目を惹きつけられる。

 

3時間弱のお芝居を観終えた時には、すっかり虜になっていた。三浦春馬、すごいよ!ただのイケメンじゃなかったよ!そう、誰かに教えたかったが、その時はなぜか、三浦春馬が好きと言うのが気恥ずかしくて、あまり言えなかった。少し経ってから、三浦春馬と言う役者は舞台を観るとイメージが全然変わるから、観てみたらいいよ、くらいは言えるようになったと思う。

 

それから、なんとなくずっと、彼のことが気になっていた。でも全然ファンというほどではなかった。テレビや映画、お芝居も、彼が出ているから、という理由で観たことはない。でも、少しずつ大人になって、彼が40代とかになったら、どんないい男になるのか気になっていた。ずっと見ていたい役者だった。ずっと見ていられると勝手に思っていた。

 

2週間前の土曜日、15時半から16時まで、ピアノのレッスンがあった。レッスンが終わりスマホを見たら速報が入っていた。最初は読み間違えたと思って2、3度画面を見直した。リンクを辿ってネットのニュースを何度も何度も読んだ。あまりに驚きすぎて、しばらく道端で茫然としてしまった。道を歩いている知らない人たちに、あなたたち知ってるの、知っているなら何でそんなに平気そうなの、と尋ねて回りたかった。

 

その日家に帰ったら、テレビで「音楽の日」と言うのをやっていて、ストーリーのあるものを観る気にもならなかったので、ちょうどいいと思ってずっと見ていた。そしたら、彼と親交の深い城田優さん(彼も私は舞台をたまたま観て、好きになった俳優のひとりである)が、本当に偶然だと思うが、「キセキ」と言う歌を歌った。歌詞が亡くなった友人を思わせるものだったし、城田さんが本当に憔悴している中、力を振り絞り、溢れる気持ちを込めて、涙を流しながら歌っているのを観て、私もだいぶ泣いた。

 

彼の死がどうしてこんなにつらいのか、悲しいのか、こんなにショックを引きずっているのか、いまだに分からない。これまでは、日々の生活の中で彼のことを考えることはほとんどなかったのに。どうして死んじゃったの。死んだらおしまいなのに。死んだら、おしまいなのに。死ぬのだけは、ダメなのに。どんなに苦しくても、どんなにつらくても、死んじゃったら、おしまいなのに。その週末、ずっとそんなことを考えて過ごした。

 

もちろん、彼が死を選んだ理由は分からない。彼の一番近くにいた人たちの苦しみを思うと、もっとつらい。想像を絶する苦しみではないかと思う。彼が生前収録したと言う番組を先日観て、少し疲れているように見えたような気もしたけれど、それも結果を知っているからであって、もし三浦さんが今も生きていたら、何の違和感も抱かない可能性も高い。私は、その二日後に彼が死を選ぶと言う結末を、知っているから、その笑顔を見て、少しの影を感じるような気がするだけだ。

 

きっと、彼が、耐えがたい苦しみを抱えていることを、(当たり前だけれど)完全に隠して、笑顔で、前向きな言葉を発し、時には同じ苦しみを感じている人々を励ましたり、そうやって生きてきたことを、彼がいなくなるまで分からなかったから、私はつらいのだろう。好きな人が、苦しんでいることに、気づけなかったことが、この悲しみの根っこにあるのだろう。もし気づいても何かできるわけじゃないかもしれないけれども、彼を好きだった人はみんな、そう思っているから、悲しみが余計に大きいのだろう。そして、時間を戻すことは、誰にもできない。

 

まだ、悲しみや苦しみはしばらく続きそうだ。少なくとも私の心の中には、彼のことがまだどこかにずっとひっかかっている。何かの折に彼を思い出し、少しの間心が痛む。自分で思っていたよりもずっと、私は三浦春馬と言う俳優が好きだったのだと、彼が亡くなってから気づく。

 

彼が、自分を偽っていたと思うと、とてもつらい。

 

自分の周りに、同じように苦しんでいる人がいるのではないかと、もしいたらどうしたらそれに気づいて、その人にとって良いやりかたで、手伝うことができるのかと、最近考えている。すごく難しいことだ。助けられると思うこと自体がとてもおこがましいと言うか、傲りのようにも思える。でも、もし、苦しい人がいたら、その人を苦しいままにはしたくないと思う。もし自分に何かできることがあるなら、したいと思う。

 

それがその人にとって苦しみを増長することにならないようにするのは、とても難しい。

 

そんなことを、ずっと考えている。

BANANA FISH①~⑩

忙しい自慢みたいになるのが嫌なんですがとにかく忙しくて、本もあまり読めず、しかも自分の会社内の立場とかについてもいろんな事件がおきていたため本を読む気分にもなれないという日々が数カ月続いてしまいました。つらかった。

 

あまりにもストレスがたまって、ひさびさに家の漫画ライブラリから何か一気読みしてやろ、と思って手に取ったのが『BANANA FISH』である。

前回のエントリが海街ダイアリーだったので、吉田秋生先生続きになってしまったが、完全なる偶然です。

 

さて。

この作品自体は1980年代のアメリカ、ニューヨークを舞台とした、少年たちの友情とか民族問題とかストリートギャングの力関係とかマフィアとか、同性愛とか小児性愛とか、その当時にしてはとにかく攻撃的、挑戦的なテーマを扱っている。今読んでも本当に色あせなくて、これが当時少女コミック誌に掲載されていたことに驚いてしまう。

 

初めて読んだのは20年くらい前で、大学生のときだった。友達から全巻借りて一気に読んだ。その時からブランカが大好きで、今回読んでもやっぱりブランカが大好きだった。男性の好みがまったく変わっていない。。。

でも新しい発見もあった。チャイニーズ・マフィアの新しいボス、シンが良い男だということに気付いた。大学生の時はまったく良さに気付けなかった。これはすごいことだと思う。我ながら。 

 

この後、アニメをアマゾンプライムで全部見てやろうと思っています。

なぜかと言うと、職場の同い年の女の子から、アニメが原作ファンでも受け入れられる素晴らしい出来だと聞いたからです。楽しみである。

 

 

BANANA FISH バナナフィッシュ 全巻セット (小学館文庫)

BANANA FISH バナナフィッシュ 全巻セット (小学館文庫)

 

 

 

海街Diary9 行ってくる/吉田秋生

 大好きなマンガが完結しました。

ちなみに吉田秋生さんは大好きな漫画家さんのひとりで、最近になって再燃しているBANANA FISHの時から大好きであり、文庫で全巻持っているほどのファンであります。アニメは見ていないけどこの後BANANA FISHも読み返してしまいそうな勢いです。

 

さて肝心の最終巻ですが

全編通じて吹いていた爽やかな鎌倉の風は今回もそっと吹き続け、すずちゃんの中学生活の終わりとともに、この物語も一旦の終わりを迎えるということのようです。

 

四姉妹の中では私自身が長女ということもあり、幸に一番感情移入をしやすかったと思っていますが、この姉妹についてはどのキャラも全て好きでした。

だいたい女が四人も集まれば誰か一人くらい気に入らないのがいそうなものなのに、この姉妹については本当に四人とも大好きだったな、最高。

 

個人的には幸さんが名前の通り幸せを手に入れてくれたらこれほど嬉しい結末はないのだけれど。

 

28歳くらいの時に読んだらまた違った感想かもしれないな。同じ女性としてそんなことを感じる物語でした。5年、10年経ってまた読み返したら、また違う感想を持つのかもしれない。そういう物語って貴重ですよね。

 

 

海街diary 9 行ってくる (フラワーコミックス)

海街diary 9 行ってくる (フラワーコミックス)

 

 

◯◯好きに悪い人はいない説

タイトルみたいなこと言う人が割とたくさんいて、それぞれみんな本気かどうかは知らないけど、なかなか真剣に言ってる人もいるようである。かく言う私は読書とか弓道とか野球観戦とか観劇とか趣味だけど、はっきり言って、絶対そんなことない。

 

1.読書

本好きに悪い人はいない

いやいや嘘やろ。ものすごい頭脳明晰で大量の本を読んでてサイコパスみたいなの、映画やドラマでもテッパンですよ。だいたい文豪と呼ばれる大作家とかも人間としてはろくなのおらんではないですか。そう言えば少し前に立ち読みした本の雑誌に「文豪とはなんだ?」っていう特集が組まれてて、面白かった。その特集でも結論としては人としてダメ、というのがポイント高いとされてた。やっぱり文豪はダメ人間に限る。

 

2.弓道

弓好きに人に悪い人はいない

あり得ませんね。だいたい弓矢というのは狩るための道具であり、さらに言えば近代弓道の祖は戦争で使う、つまり人殺しを目的とした弓矢である。さらに言うと練習や試合で使われる最も一般的な2種類の大きさの的、尺ニ(一尺二寸、約36センチメートル)と八寸(約24センチメートル)の大きさの由来が、人間の上半身(胴体)と頭部の大きさだという説もある。我々は普段の練習からして、人を殺す練習をしているのだ。悪い人がいないはずがない。だいたい私だって善人というには程遠いんだからな。

ただどうしても、これは人間の性なのかも知れないが、すごくきれいに弓を引く人をみると「美しい・・・」と思い、なんとなく美=善みたいな気持ちになるのも事実である。これって結構ありがちだけれど、冷静になってみるとそんなことないですよね。事実私の後輩にものすごく上手に弓を引くのに人としてはどうしようもない奴がいて、私なんか彼が弓を引くのを見て「おしいなあ、これで人格がもう少しまともだったら・・・」と思うことがしょっちゅうあるのだ。残念。

 

3.野球

残念でした。洋の東西を問わず、野球選手(元、現役含め)、犯罪者がたくさんいます。どんなに名選手であっても。ほんとうに残念だし、自分で自分の栄光に傷を付けていくのを見るのはとてもせつない。

 

4.芝居

3に同じ。ほんとうに残念です。

 

書いていてふと思ったのだけれど、この「〇〇好きに悪い人はいない」説の裏返しみたいな形で、凶悪犯罪の犯人がアニメを好きだったとか、ゲームは悪い影響があるとか、そういう言説が発生しているのではないだろうか。〇〇好きな人は良い人の裏返しは、〇〇好きじゃない人は、良い人じゃないということになる。その流れで、自分と趣味が合わないとか、理解できない趣味を持っている人に対して不愉快に思ったり、敵みたいに感じたりすることがあるのだろうか。何か悪いものと対峙したときにその原因を探りたくなる、ということもあるのだろうか。どうして悪が生まれたのか、みたいな。

それでこの話はたぶん、人間のいろいろな問題につながっているのだ。人種、宗教、性的嗜好、趣味や興味、思考や哲学、とにかく人は自分と違う属性をもつ人に対し、恐怖を覚えたり敵とみなしたりすることがあって、それが人間の歴史の中で大きな軋轢を何度も生んでいる。過去あんなに失敗しているにも関わらず現代になってもそんなことを言ってるところを見ると、人間が人間を滅ぼす日も近いような気もしてくる。

多様性、ということばが最近よく聞かれるようになって、多様性という言葉自体には何にも恣意的な意味はなくて、ただ物事が多様である様をあらわしている非常にニュートラルな言葉だと思うのだけれど、今、流行っているのは「多様性を受け入れよう」みたいな意味のものが多い。もちろん多様性はすばらしいことだ。われわれ人類が受け入れるか受け入れないかなんて多様性にとってはどうでも良いことだと思う。人類が受け入れようと、受け入れまいと、生物は多様であるし、そうして繁栄してきたのだ。何でこのごろになってそんなこと言っているのかよく分からないのだけど、「自分と違う」ことを「理解する」必要なんてないのにね。どちらかというと、理解できないことを、ただ「へえ、そうなんだ」「そういう考え方、生き方、あり方もあるんだね」って思って、尊重すれば良いだけなのにね。もっと進んでる人はそれを「面白いね!」って思えたら最高だと思う。

 

というわけで、なんについて書いてるかわからなくなってきたのでこの辺で終わりにします。とにかく〇〇好きに悪い人はいない、というのは嘘です。大嘘。みんなで本でも読みましょう。そのことがよく分かります。

 

 

本の雑誌423号2018年9月号

本の雑誌423号2018年9月号

 

 

ロマンス小説の七日間/三浦しをん

三浦しをんさんの作品については、先日「舟を編む」について触れたばかりだ。私には悪い癖(というか性格が歪んでいる)があって、流行ったり売れたりすると途端に読む気をなくして、ものすごく時間が経ってからふと読んでみたくなり、読んでみて「これはすごい!」とか盛り上がるんだけど、周りからしたら「だからそれずっと前からみんな言ってるやん」となることである。要するに天邪鬼なのだ。いちばん人気のものを選ぶのが嫌で、携帯も◯コモじゃないし、ICカードも◯イカじゃないし、なんかそういうところがあるのだ。それで、本屋大賞!とか芥川賞!とか言われるとつい読む気をなくしてしまう。

なので「舟を編む」もずいぶん後になってから読んだ。そのうち書こうと思っているけれど「羊と鋼の森」もつい最近になってやっと読んだ。めちゃくちゃ面白かった。早く読んでおけばよかった。でもどうしても流行っているときは読めない。「火花」もまだ読んでいない。読んだ方がいいですかね、やっぱり。

さて「舟を編む」以降、私は三浦しをんさんの作品をいくつか読んで、どれを読んでも結構好きだったので、今回書店で文庫を見つけて買ってみた。

中身をまったく確認せずに買ったら、珍しい(?)恋愛小説だった。しかも入れ子構造というか、作中作というか、登場人物のひとりがロマンス小説の翻訳家で、翻訳中の小説が作中に出てきて、その小説内の物語と、登場人物の現実の物語がリンクするような、しないようなそんな構成になっていた。ロマンス小説といえば◯ーレクインロマンスだが、この作中作はまさにそのもの。中世の騎士と豊かな領地を持つお姫様の恋物語。主人公の翻訳家の女性は、その翻訳の締め切りに追われつつ、自分の恋愛でもいろいろな事が起きて、、、という話。

恋愛小説だと思って買わなかったので、読み始めてからちょっと驚いたが、三浦しをんさんが後書きでご自分で書かれている通り、あまり恋愛小説らしくない(?)恋愛小説だった。なにしろ登場する男性がことごとくひどい。とくに現実世界のほう、誰ひとりまともじゃない。ロマンス小説のほうは典型的な王子様というか騎士でイケメンなんだけれど、どっちかというと従者のシャンドスの方が好み。

 

恋愛小説を読むときって、皆主人公やその他の登場人物に自分を置き換えて、「自分だったら・・・」と考えながら読むのでしょうか?多分そうなんだろうと思って、少なくとも私はこれまではそうやってきたのだけれど、今回はなんだか誰に置き換えたら良いか全くわからないままに読了した。それなのに面白かった。とにかく、私は神名はどうかと思いますよ、本当に。

 

 

 

人と読んだ本の話をすること、先生の話。

先日も書いたけれど、本を読むのは小さい頃からの趣味である。もはや習慣と言っても良いかもしれない。でも、本を読んだことについて、また読んだ本の感想などについて、友人や家族や他人と話す、というのは中学生になるまであまりしなかった。きっかけをくれたのは中学2年生の時に担任になった伊東先生だ。

伊東先生は見た目は典型的な「おっさん」で、髪は白髪混じりで小太り、息はタバコ臭く、中学校教師のくせにたまに酒臭い時があるという今の時代ではちょっと考えられないような中身もおっさんの教師だった。しかもちょっと色の入ったメガネをしていた。どう見てもカタギじゃない。スマートでもない。担当教科は国語。私は読書量だけは人一倍あったので、国語の成績は常に良く、当時の同級生が読んでいたような本よりも少しませた、文学作品なんかを読むようになっていた。

ある放課後に、どういう話の流れからか全く思い出せないのだけれど、私は伊東先生と、シャーロック・ホームズの話をした。私は小学生のうちに全作品を読んでしまったほどのホームズファンで、さらにその当時NHKでやっていたイギリスのドラマ版シャーロック・ホームズの大ファンだった。とにかくホームズが格好良くて、完全にハマっていた。アイリーン・アドラーに本気で嫉妬するくらいには。今考えると完全な中二病である。年の頃も完璧だ。

先生は、そんな私に対して、なんと「俺はアルセーヌ・ルパンの方が好きだ」とふっかけてきた。その時の私の受けた衝撃といったら、皆さんの想像どおりである。今となってはそれが本当のことかは分からない。先生は議論のために仮にそっちの立場をとっただけかもしれない。けれどその時の私は完全に頭に血が上ってしまって、その後数日のあいだ、先生とルパン対ホームズの議論を戦わせることになった。もちろん私はルパンシリーズも読んでいた。モーリス・ルブランがルパン対ホームズの作品を書いているのも知っているし、当然それも読んでいた。私の主張は一貫して、どんなに貧しい人からは盗まず、悪い金持ちからしか盗まないとしても、しょせん泥棒は泥棒である、ということだった。どんなに美点を並べ立てられようとも、ルパンが稀代の大泥棒であることに変わりはない。一方でホームズは人格に難あれど、探偵であり、犯罪者を捕まえる、というその1点においてしょせん泥棒であるルパンとは雲泥の差があり、その差は他のどんな美徳をもってしても埋められるはずはないのだ。というようなことを散々述べ、伊東先生と私の議論はいつまでたっても平行線のままだった。

ある時から先生は、本を貸してくれるようになった。私が読んだことのないたくさんの本を(主に文庫本だった)次々と貸してくれた。最初は返すときに口頭で感想を述べて、それについて先生と話をするだけだったが、そのうち先生が1冊のノートを持ってきて、そのノートに感想を書くように言った。私は言われた通り、借りた本を読み、返すときにその感想を書いたノートと一緒に、先生に返した。すると先生からはその感想ノートにさらにコメントがついて戻ってきた。読書感想交換ノートの始まりである。この交換ノートは、卒業まで続いた。1冊の本の話で何ターンも続くこともざらで、今になって思うと、先生はたぶん、あえて私の感想や意見とは別の見方、切り口を教えてくれていたのではないだろうか。だから、たぶん最初のルパンのときも、先生は本当にルパンの方が好きだった訳ではないのかもしれない。

 

 先生の本音がどこにあったのか、もう尋ねることはかなわない。先生は、私が大学進学で上京し、そのまま東京で就職して、何年か経ったとき、亡くなってしまった。まだ若かったはずだ。先生の年齢を知らなかったけれど、私の担任をしていたとき、50は越えていないはずだから、たぶん60代で亡くなったのだと思う。たしかに不摂生が中学生にも分かる程見た目に表れていた。でも早すぎる。大人になった私と、老いた先生とで、もう一度本の話をしたかった。私は中学を卒業したあと、本当に大切な作家に出会えたのだ。その話もしたかった。あの時どうしてルパンが好きと言ったのか聞いてみたかった。先生のことだから、本当にルパンが好きだっただけかもしれない。それならそれで構わない。また議論できる。私は今もホームズ派だから。でもルパンの良さも、少しは分かるようになったんだ。あの頃ほどは、頑なではなくなったんだ。

 

 

ルパン対ホームズ 怪盗ルパン 文庫版第3巻

ルパン対ホームズ 怪盗ルパン 文庫版第3巻

 

 

舟を編む、と、辞書のおはなし。昔書いた文章から。

「本を読むのが好き」ではなくて「本が好き」だ。 

さいころから、絵本をよく読んでいた。

このころはまだ、絵本を読むのが好きな、ただの幼稚園児だった。初めて「本が好き」だなあ、と思ったときのことをはっきりと覚えている。

小学校1年生、入学したての4月。これから1年間使います、と言って、新しい教科書が配布された。お話を読むのが好きだった私は、国語の教科書を真っ先に開き、中にどんなお話が載っているのか確認作業を始めた。

…そのとき。

紙をぱらぱら、とめくる微かな風とともに、真新しい紙とインクのにおいがふっと、鼻をかすめる。

(良いにおいだな…)

これが、私が本を好きになった瞬間だった。 

思えばそれまで読んでいたのは絵本などの薄い本や、かたい紙の本がメインで、紙をぱらぱらめくるような感じではなかった。本のにおいを嗅いだのは、1年生の国語の教科書が初めてだったのだ。

 

真新しい紙と、インクのにおい。

 

知識とか教養とか、知恵といったものにもし、においがあるとしたら、それは本のにおいではないかと思う。そして本のにおいとは、すなわち紙とインクのにおいである。(…実は、古本には古本の、また別の魅力あふれるにおいがあるのだが、それについては別の機会に)

さてその後の私は、一生追い続けるであろう大切な作家との出会いなどもありながら、これまでずっと本を読んできた。

ことばを勉強するときに欠かせない辞書というものは、あらゆる書物の中でもっとも良いにおいのする本だということを知った。新しい辞書を買ったらまずにおいを嗅ぐよね~、と言っても分かってくれる人はとても少ないけれど。

そして今、印刷会社で働いて、日々せっせと本を作っている。絵本だってマンガだって、カタログだって写真集だってエロ本だって、なんだって作る。教科書も辞書も作る。もちろん知識の泉と呼ぶには程遠い本(!)も、世間にはあふれている。

でも、

私は本が好きなんだ。「インクで印刷して折って綴じた紙の束」が。

出来たてほやほやの本というのは、まだ糊が完全に固まっていなくて、少しあったかくて、ツンとしたにおいがする。たまに工場に行って出来たての本を手に取ると、もうなんとも言えない幸せな気持ちになる。印刷機製本機をずーっと眺めていても飽きることがない。

世の中は活字離れ、本も紙の時代ではないともう長いこと言われていて、もしかしたらこの先、紙の本は(絶対になくなりはしないと思うけど)かなり高価な嗜好品になっていくのかも知れない。コレクターズアイテムのような。

そうしたら私の会社は儲からなくなって、つぶれてしまうんだろうな。どうなっちゃうんだろう… と、将来を少し悲観してしまうときもある。

でもなあ、本、好きだしな。

周りにもまだ結構本好きいるし、しばらくは大丈夫かな、なんて楽観的に生きているが。

 

最後に。

舟を編む』は皆さんご存知の、三浦しをんさんの本屋大賞受賞作のタイトルである。辞書を作るのに関わっている人たちの静かで、でも熱い日常が描かれている。かなり長い時間にわたる物語を描いた作品だが、私の会社にはこれを地で行く様な話がごろごろある。

先日、私の上司(かなりえらい方)のところに、私より少し上の先輩社員が1冊の辞書を持って来られた。

「本部長、やっとできました」

…聞くと、その辞書は(ベトナム語の辞書だった)本部長がまだ平社員だったときに始まった仕事で、20年近い年月を経てやっと本になり、世に出たというものだった。最初に担当していた社員は本部長になり、どんどん若い社員に担当が引き継がれていって、今ようやく、形になったのだった。

「すごい!…『舟を編む』みたい!!」

後で当時の苦労話などもいろいろ聞けた訳だが、本当に嬉しそうにお話されていたのが印象的だった。買うと〇万円もするような、専門性の高い辞書だ。

私の仕事は、こういう仕事である。

もちろん嫌なことも辛いこともたくさんあるけれど。

舟を編む』まだ読んでいない方がいたら、ぜひ読んでみて欲しいです。

 

舟を編む

舟を編む