高度経済成長期の幻影。「磯野家の謎」

なんか最近、書店の店頭で、東京サザエさん学会の新刊というのを見かけた。

東京サザエさん学会といきなりいわれても、なんのことやらですよね。20年以上前にベストセラーになった「磯野家の謎」の執筆グループである。

 

磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き

磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き

 
磯野家の謎・おかわり

磯野家の謎・おかわり

 

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nlab.itmedia.co.jpいわゆる「謎本」ブームの先駆けになった本で、92年ごろにはこれに続けとばかりにいろんな作品を題材にした謎本が相次いだ、らしい。自分が好きに本を買うようになったころにはもうブームが収束していたので、主に古本屋で見かけることの多い系統の本だったように思う。この「磯野家の謎」も例外ではないが、世紀が変わってからも何度か装丁を新たにして再販されているところは店頭で見たことがある。

版元としてはデータハウスがこの手の本をよく出していた。何かの謎本を買ったときに本の中に閉じこんである広告ビラに「〇〇の秘密」がずらっと並んでいたのをなんとなく覚えている。

で、そのデータハウスと並んで謎本の大手版元であったのが、飛鳥新社で、磯野家の謎はこちらから出ていた。というか経緯を考えればこっちが本家かもしれない。これはちょっと余談なのだが、「トンデモノストラダムス本の世界」のブックガイドで山本弘氏がMMRのネタあかし同人誌を「データハウス飛鳥新社で出してくれないかな?」と書いていたのはたぶんそういう事情を踏まえての話。ほかにもいろいろな出版社が参入していたようで、今でもブックオフや普通の古本屋の新書コーナーにときどきこの系統の本を見かけることがある。

一応謎本とはなにかということについて書いておくと、フィクションの登場人物や舞台について、作中の描写などをもとにいろいろ謎解きをしていったり、特に表に出ていない性格や行動の特徴について解き明かしていこう、というていの本である。「磯野家の謎」では、シャーロッキアンに自分たちの活動を例えている。

 

もちろんあまり作者がそこまで深く考えてなかったりすると途中で矛盾が生まれたりすることもあるのだが、それも敢えてネタとして処理せずに読み解いてしまう。例えば「磯野家の謎」では、トイレがたくさんあるという点を指摘している。別に上から見た間取りを見たらトイレがたくさんあったという話ではない。登場するたびに、廊下や庭との位置関係が食い違っているので、つじつまをあわせようとするとこういう答えになるというわけだ。

もっとも、上の記事や帯に書かれている惹起などを見る限り、今回新しく出た本はちょっと趣向が違う内容のようである。しかし、「磯野家の謎」の奥付けでは「テレビ・アニメーションなどは、研究対象としていない」とあったのに、今回はどうやらTV媒体も扱っているようだ。いったいどういう風の吹き回しなのか…… まあいいか。

で、本題は磯野家の謎である。続編「磯野家の謎・おかわり」も含めてだが。

「磯野家の謎」は雑学というかオタク的な研究というか、そういう系統の本としてとらえられがちだし、実際そうだと思うのだが、よくよく読んでみると著者の別の意図も読み取ることが出来る。

それは、たぶん、高度経済成長によって失われた日本の姿、だと思う。

別にこれは、私の思い込みというだけではない。「編者あとがき」で東京サザエさん学会会長、岩松研吉郎氏はこんなことを書いている。

敗戦、復興そして高度成長。-われわれのどの世代をとっても、生活の出発点は、「戦後」といわれるその時期にある。そして今やそれは、はるかな過去の記憶の彼方にうずもれている。『サザエさん』は、まさにその時期、日々をいきていた。現在それが、全六十八巻の形でわれわれの前にのこされているとすれば、それらは、今日のわれわれの生活と感情の始原をかたる「神話」といえるだろう。(正・p223)

 

だとすれば、『サザエさん』をみてゆきながら、われわれは、戦後とそれ以後のみずからの深層と表層をかんがえることになる。それは、われわれの自己確認に他ならず、自分たちのタテマエとホンネ、演技と日常とを、『サザエさん』を媒介に点検することでもある。

―大仰にいうと、「サザエさん学」の方向はこういったものだが、「学」の対象の性質からして、それは半分冗談である。というよりも、冗談と真率は判別しがたくいりまじっている。(正・p223)

 

 

二番目のは引用の仕方がちょっとぶつ切りだが、ここが受けている前段まで引用してしまうと相当長々と引用することになるので。

このような著者らのイデオロギーの所在は、高度経済成長をすぎたあとを語る項目でかなりはっきり見出される。たとえば、問30で「磯野家のインテリアは、なぜ急に洋風になるのか?」という問いが出されている。回答とはこうである。

答 波平が万博で悲しい事実に気づいてしまったから。

著者らは単行本61巻以降で、磯野家のインテリアが急に洋風化する、という。そんなこと意識しないと見れないわけで、「問」もなにも著者が気づいたことをベースに問にしたに決まっているのだがそれはそれとして、この答えを60巻で作中に登場した大阪万博に見出している。

ここで波平は子供たちをともなって万博見物にでかける。そして彼は戦後の日本が急スピードで変化してきたことにようやく気がついたのだろう。波平は寂しくなった自分の頭をそっと撫でながら「明治は遠くになりにけり」とそっとつぶやいたに違いない。家の中を洋風化することは、世間から取り残されないための必死の努力だったのだろう。(正・p103)

 この後の波平は、物忘れが日に日にひどくなり、一家の厄介者へと身分を落としていくことになる。(正・p103)

続編の問36「時代が進むにつれて、磯野家周辺でもっとも変化していったものはなんだろうか?」に答えはこうだ。

 すべての環境と人間。後半は磯野家の幸せにも、暗く微妙な影が落ちはじめた。

 このあたりは実際、サザエさん本編を読んでいると後半の巻でそういうものを感じるのは確かにも思う(全部きちんと読み通したかは自信がないが、それなりの巻には目を通したことがある)し、あるいは連載の末期の世情を反映しているのかもしれない。

ただこのあたりの問題は、ベストセラーになった「磯野家の謎」を受けて批判的に述べた個所のある「サザエさんの秘密」でも触れられていた。今手元にないので具体的にふれることはできないのだが、やはり似たようなところが指摘されていたように思う。

一方、サザエさんが日常の反映としてみている回答の際たるものは、問9「磯野家の生活水準はどのくらいだろうか?」

 ランクをつけるとしたら生活レベルは中の中。ただし世田谷に持ち家があることを加味すれば、中の上に少し足をかけたあたりだと思うが、はたしてどうだろうか。(正・p40)

問14で磯野家の食卓を分析した箇所で、「豆腐で栄養を取っていた」とするのも、古い日本人の食卓を想定していることが想像できる。もっともここではイメージに反して朝食にパンがよくのぼることにも触れているので、資料に基づいた物言いではある。

別にウソを言っているとは思わない。ただ、謎本という資料に基づいた本でも、その裏に著者の意図はやはりこもっているということである。あるいは、だからこそベストセラーになったという邪推もできるかもしれない。

 

 

文明の進歩は、夏の死亡を減らした。 籾山政子「季節病カレンダー」

季節病、つまり季節によって流行がある病気というと、インフルエンザとか食中毒なんかが思い浮かぶ。インフルエンザは冬に猛威を振るうし、食中毒は夏に多い。小中学校時代なんかは、冬になるとインフルエンザが大流行して学級閉鎖するかどうか、なんてことになってたのを覚えている人も多いかと。

しかし、あんまり広くもない教室にたくさんの子供が生活しているというあのスタイル非常によくなかったんじゃないだろうか。おまけにストーブを付けていい条件もやけにきびしかったり。それを守らないと使用禁止になったり。

体の具合を悪くするための措置だったようにしか見えないんだが……まあいいや。

ともあれ、季節によって発生しやすい病気がある。それに着目して論じたのが、ブルーバックスのごく初期にラインナップとして刊行された「季節病カレンダー」である。

 

 

著者の籾山政子氏は、1918年生まれの気象庁気象研究所に勤めていた方。著者紹介を見ると、「女性研究者にはめずらしく活動の分野は広い」と書いてあるのだが……そもそも、この時代(この本は1963年初版)に女性研究者がどれくらいいて、どれくらい有意にそんなことがいえたのだろう?なんだか本題とは関係ないところで気にかかる著者紹介である。

この本では、流行病といってもカゼのようにかかって治る病気の件数の季節変化ではなく、そのまま亡くなってしまったケースの件数を扱っている。まあこれは、統計的に議論したいなら、データがふんだんにあるだけにそのほうが研究しやすいのは当然かもしれない。厚生省の統計には、病気別の死亡率の統計が含まれているので。

 

で、籾山氏の作った季節病カレンダー、まず基本的な傾向として、冬に人はよく死ぬ、というのがある。これはほとんどの病気で共通していて、結核や心臓病、脳卒中、肺炎・気管支炎、といずれも主に冬に死亡率が高まる傾向がある。ちなみにインフルエンザも冬に多いのだが、死亡に至ることは(当時でも)あまりないので、あまり扱われていない。

意外なのが、老衰である。グラフの変動そのものを見るとあまり大きな年較差があるわけではないのだが、それでも冬の方が多くなっている。

肺炎・気管支炎は要するにカゼがこじれた結果ということだろうから冬に多いのは分かるし、脳卒中が多いのもわかる。寒いところに急に出るとよくない、なんてのは今でも言われますよね。でも老衰もそうというのは興味深い。

興味深いのは、夏に気を付けなければいけない病気の代表のように言われる下痢や腸炎も冬の季節病として数えられているということ。死亡率で比べると冬に多くなっているのだそうだ。

この話には続きがあって。この「季節病カレンダー」で最も新しいデータとして使われているのは昭32-36(1957-61)年の間にとられた統計データを基にしたものなのだが、それとは別に、過去のデータを使ったカレンダーというのも紹介されていて、これで比較すると、時代の変化が如実に表されている。

これによると、先ほどの下痢・腸炎、実は戦前にはイメージ通りの夏に大きな山があったそうだ。明治大正は、下痢や腸炎による夏の死亡率は冬の倍以上あったのである。これが時代を下るにつれてだんだん山が小さくなり、昭和10年ごろには夏の山がなくなってしまった。結果、冬に山が出来たわけである。

紛わしいのだが、戦前と現在(というかこの本が書かれた1960年ごろ)だと、死亡率そのものが違う。戦前、特に明治大正期は、そもそも死亡率が今の水準でみたら異常に高い。だから、夏の死亡率の山がそのまま冬に移行したわけではなくて、夏の山がなくなって、冬の山だけが取り残されたような形に近い。

戦前の下痢・腸炎は死亡原因の中でもトップクラスだったのだが、今はそうではないし、昭和30年当時もすでにそうなっていたわけだ。言い換えると、夏に下痢や腸炎で死亡していた人が死ぬことがなくなったため、死亡率そのものが低下したともいえる。これについて、著者は、環境衛生対策や食品衛生行政が功をなしたのだろう、としている。同じことは赤痢にも言える。

これに限らず、戦前の季節病カレンダーには夏に流行がある病気が多かったそうで、脳卒中や心臓病なども明治時代には夏の終わりにも多かったし、老衰は冬と夏にピークがあった。

夏に人を死に追いやるのは、体が暑さで弱ってしまうところが大きいわけで、つまりこれは文明の進歩でわりに早い時期に克服できた障壁だったのだろう。実際、地域別に季節変化を調べると、都市部ほど早い時期に夏のピークが消えていくのだという。文明国ほど冬に死亡が増える、というか冬の寒さのほうが克服しにくいといったほうが近い気もする。

ちょっと興味深いのがガンが季節病であるということ。ガンによる死亡は秋に多い、という。戦前はこちらも夏にピークがあったのだが、戦後は秋にピークが移行している。これは冬ピークではないのだ。なぜこんなところにピークができるのか、理由は著者もよくわかりかねているようだが、夏の暑さで細胞の代謝が活発になってガンが進行して結果的に秋に死亡率が高くなるのではないか?としている。

季節病が時代によって変化したのは、医療をとりまく環境が文明によって進歩したためである。ということで、冬に死亡につながるような病気を防ぐためにどうすればいいか?という話も提案されている。まあ、暖房をきちんと入れるということなのだが、「人工気候」という言葉が出てくるあたりは時代を感じさせる。要するにエアコンで温度管理をするということなのだが。

「子供は風の子」というありふれた言い回しにもくぎをさしていて、5歳未満の乳幼児は肺炎や気管支炎、腸炎や下痢による死亡が非常に高いのでむしろ寒さに弱い。そのため、寒い時期に外で遊ばせていいのは5歳から、なのだという。

上でもちょっと触れたが、この本で登場した一番新しい統計は1960年ごろのものである。半世紀前だ。半世紀前というと大昔に見えるが、そこで比較されている明治大正と比べると、間違いなく「現代」だ。

じゃあ何もかもが同じかというと、そうでもないところもある。

本の終わりの方で、ちょっとSFじみた未来も紹介されている。つまり、人工気候によって、気候の脅威を取り除いてしまおうという話だ。はては、ベーリング海にダムを造ることで北極海を暖かくして、寒冷地隊を暖かくしてやろうという話まで登場する。これは寒い地域の本場であるソ連が大真面目に検討していたらしいのだが、今では言語道断の自然改造と言われそうである。

とはいえ、この本の統計が示しているのは、文明の進歩が死亡を減らして来た道、という。公衆衛生や保健医療の普及、といったほうがいいかもしれないが、夏にたくさん人が亡くなっていたピークは、戦後どころか、昭和に改元したあたりから急速に小さくなっている。かわりの山が現れた、というわけではないのだ(こまかいことをいうと、脳卒中など山が持ち上がっていたりするのだが、それは過去は別の原因で死んでいた人が長生きして老人病といわれる病気で亡くなったということだろう)。

となるとその先にあるものが自然改造というのは自然な流れかもしれない。このあたりの感覚が一番半世紀前との違いかもしれない。

あすかあきおの「超能力あばき」

 サイエンス・エンターテイナーなる肩書を持つあすかあきお飛鳥昭雄)氏は、オカルトや疑似科学方面の著書が多いことでしられている。恐竜は実は4500年前のノアの大洪水で滅んだのであるとか、地球の反対側(ヨリ正確には、点対称側)には第12番惑星、ヤハウェが存在しているとか、そういう主張をしている人だ。

 子供のころ、それまでは子供コーナーしか行ったことの町の図書館で、成人コーナーに初めて(2回目くらいかもしれない)足を踏み入れ、恐竜の面白そうな本だと思って借りたのがこの人の「恐竜には毛があった?」であった。今思うといろいろヤバい。

 そのほか、ノストラダムスの伝記などもものしているそうだが、なぜか表紙に「教科書に出てくる人の伝記」というマークがついていて、いったいどこの教科書が載せたのか大いなる謎でもある。

ノストラダムス―予言者で奇跡の医者 (講談社 火の鳥伝記文庫)

ノストラダムス―予言者で奇跡の医者 (講談社 火の鳥伝記文庫)

 

  かなり昔の本にしては珍しく? ちゃんとアマゾンの表紙画像があるので、左下のところをよくご覧になってほしい。未読なのだが、内容はそこまでぶっとんでいないとかなんとか。

 ところで、この人がもともとオカルトの伝道者だったかというと、そういうわけではないらしく、そういう作風になったのは90年代なかば以降らしい。

 山本弘「トンデモノストラダムス本の世界」やと学会「トンデモ本の世界」では、まだ「転向」する前の本として「きみにもスグできる超能力マジック」という著書が言及されている。

 

  こっちもちゃんと表紙の書影があるな…… それはともかく、コロタン文庫という子供向けレーベルということもあって長らく存在はともかく目にしたことのなかった本なのだが、最近入手する機会があった。巻末の既刊一覧をみると、「UFO全百科」「世界の妖怪全百科」なんていう、オカルトっぽいものもあるが、「キテレツ大百科 アッとおどろくからくり道具大図解」「最新ドラえもんひみつ道具カタログ 上・下」「ドラえもん全百科(正・続・新あり)」うん、持ってたわ子供のころ

 というかコロタン文庫というと自分にとってはそういう本なんですよね。小学館だから当たり前ではあるが。でも今回ラインナップを見ると、恐竜やプロ野球、星と星座など子供が興味持ちそうなものはかなり網羅していて結構充実したレーベルなんだなと思わされた。小学館のサイトをみてみると、最近でも妖怪ウォッチポケモンなどの本がこのレーベルから出ているが、昔と違ってオカルトや科学の本はほとんどなくなっているようだ。

 で、「超能力マジック」である。

 内容はけっこういろいろで、念力や透視を「起きているように」見せるマジックというようなタイトルどおりのものから、超能力っぽいとこもあるけど子供向けの普通の手品の範疇に近いんじゃないの?というもの、はたまた心霊写真やUFO写真のトリック撮影法あれこれ、あるいは実際のオカルト現象として有名なものを模したもの、などと多岐にわたっている。難易度別に初級・中級・上級・プロ級といくつかの章に分かれているが、上級やプロ級になると実際に世を騒がせたオカルトネタをモデルにした、トリックに凝ったものが増えてくる。

 なかにはたわいないのも。初級の冒頭に「いちばん簡単」なマジックとして出てくるものだしそんなものかもしれないが、「何色でも書けるペンシル術」 

1 まず、ふつうの鉛筆を見せて、「これは超能力をもった鉛筆デース。どんな色でも書けマース。何色にスルウ?」と聞いちゃう。(p22)

 どこかの英国から技術をお持ち帰りした戦艦みたいな口調が気になるが、この本でのあすか氏の文体がこんななのである。それはそうと、それからどうするかというと、

2 そこでもし友だちが「オレンジ色!」といったら、キミは紙をとって、そこに”オレンジ”と字で書いちゃうのサ!」

(p22)

 子供相手でも相手怒り出すと思うんだけどいいのかしら。「これをやると、必ず友だちの目が点になる!」とあるが、たぶんそれはあまりいい意味ではないと思うのだけれど。

 いやまぁ、そういういじわるクイズみたいなのの集大成ならそれはそれなんだけど、これ、残りはトリックの凝り方はいろいろあれど、ちゃんとマジックやってるからなあ。いいのかねえ。いいのか。

 まあしかし大半はそうではなくて、ちゃんとしたトリックやマジックである。念力や透視などを模したマジックについては、実際に子供が何かの出し物としてやれそうなものが多い。子供にすぐタネを見破られそうなのも多いけど、まあそれも含めてごく普通の手品の紹介だと思う。

 トリック写真の撮影術については、かなりいろいろな方法が紹介されている。なお一応マジック本なのでなるべくタネは書かないつもりだが、これについては手品として人前で演じる手のものではないと思うのである程度言及してもいいと思う。ので言及するが、例えば灰皿を投げてUFOっぽく見せる。航空写真の上にUFOの模型を置いて複写する、カメラのシャッタースピードをバルブにして飛行機を撮り、ときどきカメラこづいてやる(ふらふらUFOが飛んでいるっぽく見せかけるわけだ)、見えない糸でUFOを吊るして撮影、など。まだフィルムカメラの時代なので、ネガフィルムに黒絵具でUFOを書いて、焼き増しするとあら不思議白い光点が!なんていう荒業もある。ここではUFO写真ばかりを挙げたけれど、心霊写真のほうもなかなかバリエーションに富んでいる。

 実際のオカルト現象を模したもの、というのは最初のケースとそう線引きがはっきりしているわけではないが、ようするに半ばトリック暴きのような項目である。これになると、ちょっと毛色が異なってくる。

 「トンデモノストラダムス本の世界」では「ノストラダムスの予言術」が引用されていたが、これはp190に登場する。「巨人軍の優勝」と「年内に起きる核戦争」をテーマに予言を書いて、それを後になってからどうこじつけるか、という解説。巨人と核戦争を相並べるセンスはともかく、

もう君にもわかったと思うけど、四行詩のやりかただと、右へ行っても左へ行っても答えは正しくなるってことなのサ!これぞまさしく究極の『超能力マジック』なのダ!!(p193)

 山本氏は「身もふたもない解説である」と評している。まあそうなるな。

 また、「プロ級」の章には「フィルム直接文字念写術」というのがあるが、これは千里眼事件で使われたといわれているトリックを少し現代風にアレンジしていたものである。

 「コックリさん術」はまあぶっちゃけ10円玉を使ったコックリさんの紹介なんだけど、「ハハッご苦労様、キミが10円玉をかってに動かして驚かせただけサ!」というシンプルな種明かしがされている。というかこのページでタネらしきものはそれしか記載がないので、これはもはや超能力マジック紹介というより「コックリさんの正体はこうだ」である

 また、「人体浮遊写真術」というのもある。難易度別に2か所に似たようなマジックが紹介されているのだが、明確に出所は書いてないけれど、時代背景を考えてもアレをイメージしてるんだろう。何もないところから血や内臓を取り出す(あらかじめ肉汁やブタや鶏の内臓を仕込んでおくというもの)「心霊手術」なんてのもある。これは東南アジアや南米あたりで行われている(た?)スピリチュアル系医療をモデルにしているようだ。本文を読むとどうも当時はモデルとして子供でもピンとくる人がいたように読めるが、何を想定していたかはよくわからない。

 上で紹介したUFOや心霊写真トリックも、この範疇といえなくもないのがいくつもある。というのも、トリックのやり方というよりは正体をあばいているといったほうがいいのがちらほらあるからだ。例えば、視野内に明るい光を入れてゴーストを出させる「ゴーストUFO写真術」、金星を映しこんでUFOだと主張する「金星UFO写真術」など。

 でまあ毛色が異なる、と書いたのはどういうことかというと、このあたり、マジックとしての有用性はそれほど高くなさそうだなということだ。マジックは普通ショーとして人前でやるものなので、念力や透視を模したマジックというのはわかる。でも、UFO写真や心霊写真はふつー、「こんな写真が撮れちゃって……」と内輪で見せるものだろう。いや、テレビとかだとパネルでドーンと見せるけれど、それはマジックにはならないし。予言にしても、ずっと経ってから結果に合わせてこじつけるのだから、数か月にわたるわけだ。マジックとしてやるにはちょっと無理がある。

 念写はこれに比べたらマジックとして成立しそう…… と思うが、実際には撮影して現像しなくてはいけない。そんな二日も三日もかかる「マジック」は出し物としてはあまり向かない。心霊手術はやること自体は可能だろうけれど、準備と後始末は子供の手に負えるかどうかという問題がある。欄外に「あとしまつも、ちゃんとやろうネ!」とあるけれど、まあ実際大変なことになりそうだ。

 だから、このあたりのマジックは、マジックとしての紹介というよりは、超能力っぽいことがこういうふうにしてマジックとしてやれるんですよ、というのを「超能力マジック」というていをとって紹介している、という側面があるんだろうと思う。

 逆に言うと、これらは「マジック」ではなく「超能力」と言い張れば、成立する術なわけである。能力だと主張すれば、そりゃあ結果が出るまでの何日かを待つ理由も出てくるわけで。だからこそ、本の最後の項目「作者からの超能力マジック・ライセンス」で、

「しかし、これだけは約束してほしい。”術”を使った後は必ず、これは「超能力」ではなく『子超能力マジックな』なのだと公表すること!

 そうでないと、大騒ぎが広がって後でどうしようもなくなるぞ!後になっても、ちゃんというほうがいいのだ!それだけこの”術”には、スゴイ力が含まれているということなのだ!(p253)

 という忠告をしているのだろう。

 山本氏は良心的であると評しているし別にそれを否定するつもりもないけれど、なにしろ、念写事件やコックリさんなど、いくつかのトリックは、実際夜を騒がせたものを下敷きにしているわけだ。万が一著者自身や出版社が非難の矢面に立たされることを想定した護身というところも大だと思う。

 それはいいことだと思うけれど、のちに人騒がせな本を量産するようになる人、ということを考え合わせてみると、どうしてそうなってしまうんだろう…… と考えてしまう話ではある。