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森達也はジャーナリストなのか

7月9日(土)、森達也監督の「FAKE」を見に行きました。

レポをあーでもないこうでもないと考えていたら、日があいてしまいました。

 


『FAKE』劇場予告編

 

東京ではもう公開から1ヶ月、大人気満員御礼だそうなんですが、福岡の上映はこの日が初日でした。

初日は森監督の舞台挨拶があるとのことでしたので、行ってきました!

 

当日入場券(先着順)で10時50分の1回目の上映を見るために9時に映画館に行きました。

すると、すでに70人待ち…この日8時50分から配布とのことだったので結構早い方だろうなと思ってたんですが、なめてました森監督・この映画の人気。

 

感想としては

「とっても面白かった」です。ありきたりですが。

正直、佐村河内さんの映画ときいて「あのマスコミを騒がしたゴーストライター」を森監督がどう撮るのか?ということにすごく期待をよせて観たのですが、いい意味でも悪い意味でも?裏切られます。

これは「あのマスコミを騒がしたゴーストライター」の映画ではなく「世間からレッテルを貼られ捨てられた男とその妻(たまに猫)」の映画でした。

 

当時、私を含め多くのテレビ視聴者はこのゴーストライター問題のセンセーショナルさを驚きながらそして少し、興味本位で見ていたような気がします。それはメディアの扱いがまさしく興味本位で語り、時にはゲスにそして時には嘲るように扱っていたからだと思っています。そのうちゴーストライター問題はうやむやとなり、もう一人の当事者新垣さんがテレビの露出が増え、バラエティー番組などに出ることで風化しました。

私は新垣さんのテレビ露出が増え本業(音楽)でないファッション誌の仕事やバラエティーでのいじられ役で出るのを見るたび「この人結局なにがしたかったんだ?」と思ってました。

 

映画ではその時期の佐村河内氏が描かれています。テレビに出まくる新垣さんをどう見ていたのか。その時佐村河内氏は何をしていたのか。

 

本当に耳は聞こえていたのか?作曲活動にどれくらい関与していたのか?様々な謎をこの映画が解決してくれるわけではありません。

 

メディアのあり方、そして私たち視聴者の受け取り方

信じるということ、疑うということ

 

そんなことを考えされられた気がします。

 

私がブログのタイトルにした「森達也はジャーナリストなのか?」というのは、

佐村河内ゴーストライター問題の発端となった文春の記事を書いた神山氏の記事を読んだからです

 

↓映画のネタバレを含んでいますのでお気をつけください

blogos.com

神山氏が何を語っていたかというと (上記紹介記事引用)

 

この作品に、真相や真実を問う姿勢などない」

さらにいえば、森監督が「主観と客観の狭間の表現で苦悩する」ジャーナリストであるならば、このシーンのあとには次の質問を用意しておくべきだった。

「自分で作曲演奏できるのに、なぜ他人に創作を委ねたのか?」、と。

まったく音楽に無知無能な者が他者に創作を委ねるならば、まだ理由もたとう。けれど仮にも4分の曲を仕上げることができる者が、なぜ他者に創作を全面依存するのか。 それは無知無能よりも愚かな、唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。

その問いかけすら放棄するこの作品は、ジャーナリズムではない。単なるエンタテインメント作品だ。

ということであったのだが、

映画を見た後これを読むと「そんなことはどうでもよくね?」の一言だ。

この映画はジャーナリストではなくドキュメンタリストが撮った映画だと思うから。

 

この映画のタイトルである「FAKE」

和訳:偽造する・見せかける・いんちき・虚報

どんな和訳が当てはまるのかは見た人に委ねられている気がする

 

 

 

映画『FAKE』公式サイト|監督:森達也/出演:佐村河内守

フリーライターに俺はなる!と言ってみる

フリーライター」って言ったもん勝ち!言ったその日から「フリーライター」です!と言われ、けしかけられその気になり念願の「フリーライター」になりました。

 

そんなに甘っちょろい世界じゃないことは今も重々わかっているけれど、これからも嫌という程思い知るのだと思います。怖い

 

とりあえず仕事始めは来年から。今年はいろんなものを見て聞いて、人に会って学ぶそんな約半年間になりそうです。

 

よろしくお付き合いください。