黄金時代

だいたい映画のはなし

「親切なクムジャさん」がヒーリング映画だって話

親切なクムジャさんパク・チャヌク/2005)がオールタイムベストのひとつで、わたしにとっては気分が落ち込んでるときに観たくなるヒーリング映画なんだよねって父親に言ったら半ば本気で精神状態を心配されたことが過去あったが、今日もなんとなく気分が落ち込んでいて久しぶりに観たくなったので観ながらこれ書くことにした。ネタバレてます。

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パク・チャヌクの復讐三部作のひとつ。

まずパク・チャヌクの作品がすごく好きなんですよね。好みなんです。渇き(2009)を観たときにほんとパク・チャヌクって変態だなーって心底思ったけど、その気持ち悪さと歪さとゾッとする感じの塩梅が好みにドストライクなんだよな。病室の床のソン・ガンホとか死んでも死なないシン・ハギュンとか義母の目とか、怖すぎるし気持ち悪いのに、あの画の衝撃が心に残って消えなくて、そうさせる画の巧さとそれまでの伏線の張り方に惚れ惚れしてしまう。

だから苦手な人も多いだろうなと思うし、一方でわたしにはパク・チャヌク、響きまくっちゃうんです。

 

早い話、わたしのしょんぼり時の処方ってとにかく泣きまくってすっきりするだから、ぐしょぐしょに泣けてしまうクムジャさんがヒーリングに選ばれるって結論なんだけど、それに加えてクムジャさんは結末やその後味もめちゃくちゃ好きだから何度でも選んでしまうんだよね。

 

 

クムジャさんの復讐と救済

黒レザーのジャケット、真っ赤なアイシャドウとハイヒール。戦闘服、格好良すぎか。いつも観終わった後は赤シャドウを真似して出掛けてしまう…

復讐に向け、淡々と獄中で「親切」にした人々の貸しを回収しにまわるクムジャさん。でもみんな「魔女」のクムジャさんに怯えてつき従っているわけではないところ、きっと彼女たちもクムジャさんの犠牲と憤りを知っていて、クムジャさんの「天使」が演じていたものだと解ってもそれも含めて彼女のことが好きだったのだと思う。

表情ひとつ変えず冷酷無情に見えるクムジャさんだが、遂にペクを捕らえたときに激情を抑えられず鋏で髪を掻き切るシーンや対峙したペクをなかなか撃てないシーンなど、随所で等身大の姿が描かれるところもまた魅力のひとつ。彼女だっていたいけな18歳で、20歳だったし、復讐心以外はそこから成長していないのだよね。

復讐を終えた後に、復讐では満たされなかった心やこの先どう生きていくべきか途方に暮れる気持ちを抱える中、ジェニーの純粋無垢な姿と優しさに、この子とともに生きることが果たして自分に許されるのだろうかと迷う気持ちとが抱えきれなくなって突っ伏してしまったのだろう。パク・チャヌクの描く人間は等身大で不恰好で不完全だから好き。

 

復讐の道中ではどんなに切実に祈り望んでも会うことは叶わなかったウォンモに、復讐の果てに戦闘服を棄てたそのときにやっと会える=やっと得られた魂の解放の描写。どちらにも台詞はないのに、ものすごく複雑でとてもじゃないけど言葉では言い表せられない感情が交わされる、そのときのユ・ジテの表情を思い出すだけで今にも泣きそう。彼だって流れた13年の、在るはずだった月日を持っていて、だからやっと「もういいよ」って彼女のそばを離れられたのだろう。

一方で、復讐では終ぞ得られなかった魂の救済はすぐそば復讐の外に実はずっとあって(=ジェニーというキャラクター)、きっとこの先で手にすることができるだろうという可能性が、ジェニーがナレーターだったことが明かされ「自分はそんなクムジャさんが大好きだった」と述べて迎える幕引きに示唆され終わるので、復讐者には救済があって欲しいと思ってしまう性分の自分にとって、絶望的に救われない終わり方でも安っぽいカタルシスでもなく、真っ暗な夜にじんわり漂う切なさと小さな小さな希望との余韻が、本当に心地良くて大好きなのです。

じゃんじゃん泣いて発散した後に、じんわり前向きに終わるから何度でも観たくなる。復讐三部作は後になればなるほど救いがあるね。

 

 

無駄のない展開と伏線たち

とにかくパク・チャヌクの構成はいつも無駄がなく、張られる伏線もスマートである。

冒頭の豆腐からのノナチャラセヨ、最高にクールで最高に不穏な幕開けを予感させる作り方、初見の時にもうこのインパクトでダイスキ…と引き込まれた。その出所豆腐がまさかラストの真っ白なケーキで回収されるなんて。

出所日の夜、ヤンヒから借りた家での気狂いとも思える高笑いからの犬畜生の心象風景、一見訳が分からないけど、韓国で侮蔑の意味を持つ犬にペクを擬え容赦なく撃ち殺した瞬間鳴り響いた銃声は、まさに戦闘開始のゴングである。その後、本当に銃を手に入れた後の試し撃ちに犬を使うところまで、抜かりない。

 

クムジャさん一人の復讐劇からもう一山、そこから登場する遺族たちも、あの短い尺の中で各家族が抱える事情や13年間のやり切れなさを少しずつの台詞や行動で的確に表現し、想像させるところもすごい。

終始緊迫感のある重苦しい展開なのに、ウォンモのお母さんが極限状態でハイになったりチェギョンのお母さんがウイスキーを一気に飲み干したり刑事が包丁の握り方を教えたりなど、ともすれば場違いにもなりうるコミカルな描写や、一人だけ血避けコートを纏わずに遺品の普通の鋏のひと突きでとどめを刺すウンジュのおばあちゃんの最高にクールな描写など、あんな状況なのに、そういう要素を浮かせずに馴染ませて織り込めるところがパク・チャヌクだなあと思う。

般若顔も、クムジャさんの壮絶な13年間の憤りや悲しみ、後悔ややり切った安堵の気持ち、その先にある虚無感とかぐっちゃぐちゃな気持ちをこれでもかというほど切実に描写していて、イ・ヨンエもすごすぎるし、イ・ヨンエにあの顔をあの尺でやらせるパク・チャヌクもすごいし、あのシーンのパク・チャヌクみもすごい。

そしてわたしはそういうところがどうしようもなく好きなのだ。こればかりは合う、合わないの世界なんだよなぁ。

 

チェンバロも不穏に拍車を掛けていてとても格好いいし。ああ、大好きだ!

 

 

 

弁解するようだけど、人生はビギナーズマイク・ミルズ/2010)とかもわんわん泣いてリセットしたいときに選ぶよ。こちらはダークサイドとは無縁なので幅広く人にも勧めやすい。犬と会話するユアン・マクレガーがかわいすぎて最高なので、こちらも是非よろしくです。

いろんな好きがあっていいよね!

 

おわり

 

尾形百之助の深淵

ゴールデンカムイ野田サトル/2014)を読んだ。ハマると分かっていてずっと読む機会を逸していたのだが、こんなこと↓人生で二度と訪れないので、ありがたくご厚意に与ることとした。早速紙でも買わせていただきました(おとなでよかった!)。

 

で、尾形百之助という男……… 闇深すぎか!?!?!?!?

底無しの瞳と(モブ4話を除く)誰にも推し量れない腹の内、絡み付いて離れない過去と高らかに積み重なった罪の数々、それら全ての見透かせない漆黒さよ。尾形百之助という男の深淵をまんまと覗いてしまった。

尾形の目的は未だ不明だが、尾形が機能不全家族で育ったアダルトチルドレンということはすでに白日の下。絶望的に自己肯定感が低く、己の手で葬った過去に縛られ動けないどころか、無意識のうちに罪悪感を亡霊として顕現させ自ら纏っている男…。性懲りも無く今日もその深淵を覗き覗き返されじたばたします。なんてこった。

以下、最新話(286話)までのネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

  

 滲み出す過去と深層心理

やっぱり俺では駄目か うまくいかんもんだな

187話、尾形史上最も美しくて哀しいのに心底優しい微笑みに、どれだけの読者が尾形という抗えない小銃弾に胸を貫かれたことだろう。伏せられた瞳は諦めと自虐と憧憬をはらみ、脳裏に浮かんだ誰のようにも、誰の何者にさえなれなかったことを悟って、またひとり尾形が百之助を殺してしまう瞬間。つらい。

あんこう鍋が食べたい… 

尾形の貧相な想像力は、感情や感受性の乏しさをありありと映し出している。狙撃手として一流な尾形はヴァシリとの心理戦で“己であればどう思考するか”を起点に見事勝ち切るわけだが、アシリパさんとの問答において、即席で話をでっち上げられるほどには杉元に興味もなければ推し量る技量もないため(樺太編で不器用ながらどこかアシリパにとっての杉元に成り代わろうとしているような尾形は健気で滅茶苦茶可愛かったけど)、独白という体たらくに成り果てていることに自身すら無意識であるほど。尾形、きみ、母親の話しかしてないよ、好物のあんこう鍋をまだ自分に対する愛情があったころの母(トメ)と一緒に食べたい、が尾形が杉元に言わせた「故郷へ帰りたい」の深層心理ということなのだろうか。つらい。

親孝行の息子です ご報謝願います

深層心理とか言い出したら240話の悪趣味な“親孝行芸”、メイクが必然的に花沢中将と百之助を成すのも、痛切な自己風刺の奥底で“親孝行”と父親に誇りに思われるような“祝福された道”を渇望する暗喩にさえ見えてきて本当に怖い。つらい。

 

 

 

鯉登(自己承認)と宇佐美(対等)と勇作さん(罪悪感)

барчонок 

圧倒的に自己肯定感の低いこの男が唯一自己承認を得られる瞬間、それは自分より高次に生きる人間が自分の所まで堕ちてくるのを眺めるとき。199話で兄のようになれずに申し訳ないと父に謝る音之進の背中を撫ぜた尾形の手、陥落を確信したその時、尾形は労りではなく音之進に己を見て侮蔑すら抱き薄ら笑っていたのではないか。尾形の歪んだ自己の慈しみ方。その後のちゃぶ台返しに、尾形にとって至高の時間をおじゃんにされた怒りが、細くのぞいた黒目と堪らず吐き捨てられた台詞に滲み出している。

…お前達のような奴らがいて良いはずがないんだ

一方、自ら堕落への引導を渡そうとするほど、高潔な人間の光(生き方)は相対する闇を嫌というほど際立たせるので尾形にとって勇作さんはその存在を目の当たりにするだけで、自分の存在が否定されるように感じていたのだろう。差し出して取ってもらえなかった(他者による否定)宙ぶらりんの手を引っ込める方法(再適応のメカニズム)が“殺し”(否認)でしかない尾形、虚を確かめては同じことを繰り返し続けている。尾形が自ら手を差し出す相手はみな、愛してほしいと願った人間なのにね。今となってはもう過去にしか存在しないものに執着して一人だけじっと過去を見詰めている尾形にとって、金塊なんて本当にどうでもいいのかもしれない。

あんなの単なる親の七光りでしょ みんな勇作殿を美化しすぎてない?

尾形が欲しかったのは赦しでも慈しみでもなかったので、生前の勇作さんのどの言葉も尾形には届かないわけだが、その点、宇佐美と尾形はいびつな二人だからこそピッタリと嵌る何かがあって、互いの本気の地雷からその瞬間に欲しい塩梅の良い言葉や感情の機微まで、言葉なくして共有できる特異で稀有な関係だったように思う。243話で罪悪感について、ほとんど尾形の独白のような問いに肯定の相槌を返す宇佐美、決して煽っているわけじゃないんだよな。歳は宇佐美のほうが一つ上だけど入隊同期とかほぼ同い年でいつも同じようなキャリアを同時に歩んでいる、そういう腐れ縁みたいなもの。特異で稀有だけど、“特別”ではない、絶妙な距離感とバランスでなんとか保っていた均衡、崩れ去るときは一瞬に潔いところまでが二人らしくて、256話が大好き。狙撃手として完成する尾形と、鶴見のピエタと成り得た宇佐美、一方だけの搾取にならないところが限りなく対等だった二人らしいことこの上ない幕引きだった。

兄様はけしてそんな人じゃない きっと分かる日が来ます 人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです

165話、虚無顔で勇作さんの慈愛になすがままになっていた尾形、勇作さんにだけは赦されたくない気持ちと、それでも勇作さんには愛されてみたいという好奇心との捻れが“尾形の罪悪感=勇作さんの亡霊”を見事に創り上げたのだろう。アシリパの中に勇作さんを見て以来、アシリパを透かすどころか、アシリパ“勇作さん”をコンティニューしちゃってる尾形…。杞憂と分かっていながら、それでも二度も尾形に勇作さんを殺させないで欲しい。がんばれセコム! 

 

 

 

尾形百之助の向かう先 

では、あの時勇作さんが尾形の甘言に乗って見せれば、いっそのこと一思いに尾形を詰りでもすれば満足だったのだろうか。勇作さんが堕ちたところで、アシリパの手で殺められたところで、得られるのは一時の快感でしかなく、救済には程遠いだろう。尾形が欲しかったもの、原型をなくすほどまでに拗れてしまう前に、差し出した手を取って欲しかっただけなんだよね。今となっては尾形の救済が存在するのかも分からないし、尾形はこのまま過去の中に生き続けるしかないのかもしれないが、少なくとも自分で生み出した勇作さんとは生きているうちに向き合えるといい。

むむ? こいつ勇作ではないぞ!?

尾形の一番好きなシーン、278話で勇作さんが替玉と知った瞬間のお手本のような見事なへの字! 本来は無口でも無表情でもない、ちょっと不器用なだけの素直な子だったのだろうと思う。81話の最後の晩餐で転向者マタイだったからってアシリパに尾形の救済まで背負わせる気は毛頭ないし、救済も自己愛も今の尾形に望むことは酷だとさえ思っているが、マタイと描かれたように右目を棄てて生を延長することになったのだし転向者の素質はあるのだから、チタタプしてヒンナヒンナする祝福くらいは、尾形にもこの先もっともっと沢山訪れますように。

 

 

 

【旅行記】スコットランドが最高だって話 〜グラスゴー編〜

180314〜180322 ロンドンとスコットランドに行ってまいりました。相も変わらずミーハーなのですぐ聖地巡礼したがるの巻。今回のテーマはトレインスポッティングハリーポッター、裏テーマはパブでビール&スコッチ。ザ観光もそれなりに取り入れつつ、それでも対象作品を欲張らなかったおかげか、ロケ地を大方サクサク消化していけたので良き旅でした。というかそれよりも何よりも、スコットランドのハイランド地方が最高だって話を誰にだってしたい!!!!!!!!ので書き始めます。

 

  

そもそもスコットランドって

 スコットランドってこんなかんじ。思ってたよりも意外と北なんだよね。シーズンはやっぱり夏なのでぶっちゃけ3月は観光地もツアーも人で一杯みたいなことはなかったように思います。めちゃくちゃ寒い(体感東北の真冬よりももう少し寒いくらい)ので、ユニクロライトダウンとマフラー手袋は必須。耳当てか帽子が欲しくなるくらい、露出してるそこかしこが痛くなるかんじ。まあでもギリ生きていけますギリ。ハイランド地方はスコットランドの北西部で(地図のピンが刺さってる辺り一帯。地図上がなんかワシャワシャしてるところ)、山と湖と渓谷がめっちゃあるところです。

 

ロンドン-グラスゴー間(電車)

 今回は《成田→ヒースロー(ロンドン3泊)→Euston→グラスゴー(1泊)→エディンバラ(2泊)→成田》という旅程でした。ロンドンも普通にめちゃくちゃ楽しんだのでそれは後日纏めるとして、今日はグラスゴーに行っちゃいます。

 グラスゴースコットランドエディンバラと肩を並べて有名な都市。トレインスポッティングも作中の舞台はエディンバラとして描かれているけれど実際の撮影のほとんどはグラスゴーで行われたということで、ロケ地も豊富。何より街の雰囲気が一番すきでした。特に根拠はないけど、レントンが走ってそうなのはエディンバラよりもグラスゴー

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 こんなかんじ。市街地の範囲はそれほど大きくないのだけど、坂がすごい!スーツケースがちょっぴり大変でした。

 時系列逆行しますが、グラスゴーへはレイルヨーロッパで予約した特急で向かいました。5時間ちょいかかるので朝を早めに設定、案の定列車がどれもかしこも遅延してたので(20分ほど?)早め早めが良いのかも。知らないみんなと広場に立ってじいっと電光掲示板見つめてるのもなんだかワクワクして楽しかったけどね!

 1等を取ったので食事が出ましたが、パサパサのサンドイッチでちょっとしょんぼり。でも水やコーヒー紅茶が飲み放題だったのは嬉しかったです、水はペットボトルでもらえるよ〜。向かいの席におじさんが座っていたけれど、超ド観光客が乗り合わせてるっていうのに一瞥もくれないという清々しさっぷり。窓がちょっと汚くて写真がきれいに撮れなかったのが残念でしたが、北上する過程で天気がめまぐるしく変わるわ、そこかしこにひつじさんがモコモコしてるわ、緑と山と雪とでほんっとう楽しかった。

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 (↑車窓)

 

トレインスポッティング巡り 

 行ったロケ地が地図中の星印。丸で囲ったのはスコットランドで唯一の地下鉄(駅も電車もかなりきれい。ほとんどTubeなのだけど車体がオレンジで車両が短く、ホームもこじんまりしていてとってもかわいい)!中心市街地はグラスゴーと名前が入っている辺りなので、ワーイ結構不便!夕方に動き出したのであまり数は回れなかったけれど、体力だけは温存してあったので地下鉄で近くまで行ってあとはひたすら歩きました(地下鉄が日曜18時終電という悲劇に見舞われる)。基本的にバス社会なようで、これはエディンバラも共通なのだけどオイスターカード(Suica的な)のようなものがなく基本現金乗車でしかも釣り銭が出ないのだ!小銭作りがちの観光客には有り難いけれど(?)今時クレジット決済だものね、小銭って意外とできないものなんだよなあ〜。あとそのへんに置いてあるやろと思っていたバスの路線図が意外と簡単に入手できなくて、結局グラスゴーのバスは今回諦めました。

 

The Firhill Complex

 これあれですね、冒頭のフットサル場です。レントン頭ゴーンいくとこ。

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 だっれもいない。土曜の昼間に部活やって18時にはシンとしてしまううちの向かいの中学校のようだ(?)まあ街全体に言えるけれどそんなに人が多くなくてでも寂しいわけじゃなく、ちょっとゆったりした雰囲気が流れていたな、グラスゴー。お散歩がめちゃくちゃ楽しかった。

 

Café D'Jaconelli 

 やってなかった。レントンとスパッドがミルクセーキずぞぞ〜っとやるとこ。甘いのかな(リサーチの詰めは甘かった)。

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Kelbourne Saint

 さらに歩いて歩いて

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 ワーイ!今にもジョッキが降ってくるかと、、1mmも思えないほど素敵に改装されていました。お店の経営体自体は当時と変わったようだけれど大規模改修はしていないのでめちゃくちゃそのまま(青空だけど)。 この日はちょうどお誕生会で貸切のため二階には上がれませんでした〜。残念だったけれど、ベグビ〜がドカッと座っていた場所でかわいいお子たちがハッピ〜バ〜スデ〜やってるなんてなんて微笑ましいの。

 地元っぽい人が何組かいらっしゃって、お誕生会もそうだけど家族連れのお食事も多いようでした。お肉(ステーキ?)のお店のよう。ちょっと休憩ってテンションで入店したのでパイントとおつまみしか頼まない客へも優しい店員さん。基本的にスコットランドの人々全員めちゃくちゃあたたかくて親切でした。泣ける。

 

Glasgow Royal Infirmary

 レントンが運び込まれた病院のはずなのだけど、ちょっと結構ウロウロしたのにそれっぽい出入り口が見当たらず、日も暮れていたのでフーンつって帰りました。残念。これにてグラスゴーロケ地巡り終了(夜は市街地のパブでスコットランド伝統料理ハギスを食べるの巻。めっちゃくちゃおいしい)。

 

ハイランド地方1日ツアー 

 今回の旅最大の目的であるハイランド地方!ずっとずっと、007/スカイフォールを観たときからSkyfall、あの渓谷へ行ってみたくて堪らなかったのです。Glencoe(グレンコー)というところ。街ではなく、本当に渓谷の広がる土地の地名なので車で行くしかないんですよね。当初はイギリス左車線だしレンタカーしようかと思っていたのだけど、冬で雪が降ったら嫌だし、どうにかなったときに乗り切れるほどの英語力なのか?ということで、今回は安全策をとってツアーにしました。結果的にツアーめっちゃくちゃ良かった!グレンコーがメインだったけれど、ぐるぐるいろんなところに連れて行ってくれて、タイトだったけれど一人じゃあなかなか企画できない所ばかりへ行けました。なぜエディンバラではなく先ずグラスゴーを行き先に選んだのかというのも、グラスゴーのほうがハイランド地方に近いので、日帰りツアーの内容や時間を考えるとグラスゴー発のほうが都合が良かったからという理由でした。それに、スコットランドから日本に帰ることを考えるとエディンバラ空港のほうが楽そうだったので(楽でした)。

 ツアーはRabbies Tourで予約。適当にGlencoeなどなど打ち込むとツアーがダダダっとヒットするので、一通り内容を見て好きなのを選ぶの巻。ネス湖にあまり興味がなかったので廃墟になったお城や港町を巡れるコースにしたよ。コースはこんなかんじ (わたしのときは順路5→1→2→3→4だった)。

 いやあさ、インヴァレリー(①)もオーバン(③)も地球の歩き方に2ページくらい載っているけれど、じゃあ行こうやってなかなかならないでしょ!?なんっにも知らないで行ったけれど、すっごい感動したしめちゃくちゃ楽しみました。20人乗りくらいのベンツのバンで、運転手兼ガイドの陽気なおじさんがめちゃくちゃ歌いながら道中を解説してくれるので、一人でグレンコーだけ回るよりもお得だったなあと。メインどころはそれなりの時間を取ってくれるけれど他はわりとサクサク回っていくので、ノープランの人間にはめちゃくちゃ塩梅よかったです。

 

Loch Lomond National Park

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 国立公園の畔。湖と山々が眼前に広がり午前の早い時間だったからか、人住んでるの!?ってくらい長閑で空気が綺麗なところでした。それでもお土産やさんが開いていたので入店したところ、どこから来たのかと声をかけられあったかいショートブレッドを振る舞っていただき、日本のTokyoより北のまちだよと答えたら店のおじいちゃんが熊と釣り人のテレビを見たことがあるよ!!とテンション爆上げになるの巻。あったかいなあ〜(ショートブレッドお買い上げ)。

 

Kilchurn Castle

 遠目から眺めて写真を撮るだけの10分そこらで終わるのだけど、ツアー中何箇所か連れて行ってくれる廃墟になったお城のうちのひとつ。15世紀のお城が、廃墟とはいえ今でも残っているなんてすごいよなあ〜。ツアーにはハリーポッターのようなファンタジーな世界が広がるよなどと記載されている。

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Inveraray

 インヴァレリーは中心に湖畔を臨む緑の広場があり、向かいには白い建物が立ち並び、小道を進むとこれまた15世紀のインヴァレリー城が聳え立つまち。こちらは現在も城主がおり、夏のあいだは場内展示も行っているようなのだけど、オフシーズンは閉まっているので今回は少し離れた門までしか近づけず。門の中では植木屋さんが植栽のメンテナンスしてました。ちなみにインヴァレリー城はダウントンアビー2012年のクリスマススペシャルのロケ地だったようで(みてない)!お城のすぐ向かいには定番の羊さんがたくさんモコっていたりする。

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Oban

 オーバンはフェリーが発着する港町。潮の匂いに大きなフェリー!このツアー中最も大きなまちでした。お昼休憩がここだったので、どうせならとシーフードのお店へ。海鮮クリームパスタを食べたけれどほんっとに美味しかった〜!椅子の座面がタータンチェックというさりげないスコットランドみに嬉しくなっちゃったり。料理を待つ間にオーバンを急遽ググってみたところ、フェリー乗り場の目の前にあるシーフードの露店がとてつもなく美味しくて人気だという情報を入手。フェリーを目指して向かえば迷うことなし。生の牡蠣やシーフードのオーロラソース和えなど、多様なメニューがショーケースに並んでいました。牡蠣を食べたけれど、あと10個食べれるってくらい美味しかった〜〜。プリプリしおしお

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Glencoe

 そしてそしてスコットランドに行こうと決めた最たる理由であったグレンコー!歴史的にはグレンコーの大虐殺の場所として知られているようで、ガイドさんも血塗られた歴史についてしばらくお話になっていました。渓谷一帯がグレンコーなので、どこが何ってわけではないのだけど、いたるところに車の駐車スペースがあってある意味それなりに観光整備されていたように感じる(レンタカーで行っても、特に迷わず写真撮りに止まったり降りたりちゃんとできそうだなという意味で)。今回停車した場所は厳密にはスカイフォールのロケ地ではなく、実際の撮影場所には止まってもらえず通り過ぎるときに車内で紹介していただくに留まってしまったのだけど、それでも目の前を囲うように聳え立つ山々にしっかり圧倒され、谷になっている方まで下りてみたり、十分満足するまで自由にしてくれたので、めちゃくちゃ感動して満足しました。写真に収めると急にスケール感がショボくなってしまうのがとてもとても残念なのだけど、山ってほんとすごい。眼前に広がるあの圧倒感と迫力をぜひ生で多くの人に体感してほしいです。ちなみに、スカイフォールだけでなく、ハリーポッターでもアズカバンの囚人にてヒッポグリフの死刑をめぐり水面下でバトルが繰り広げられたハグリッド小屋はグレンコー撮影だったらしい。

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 ↑ スカイフォールはこのあたりらしく(車窓より)。

 

締めのスコッチ

 これにてグラスゴー編終了(結局グラスゴーは散歩はしたものの市街地観光全くできてないなw)!生ライブやってるパブでスコッチくださいって初めて言ってみたら、スコッチだけのメニューを出してくれて、しかも全部に値段と味の説明が書いてあってとってもとっても楽しかったです。普通に頼むとショットで出てくるので、氷入れてくださいと言ったら本当に家の冷凍庫で作るような氷1カケラだけ入れてくれましたw 普段スペイサイドを好んで飲むけれど、せっかくなのでハイランドを頼んでみました。いつもよりしっかりした味と重みで、でもめっちゃくちゃ美味しかったです。スコッチ大好きだけど、パブに行ったらどうしてもビールばっかり飲みたくなっちゃうんだよなあ。ってわけでスコットランド帰りにはオーバンってスコッチをお土産に買って帰りました!

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 次回はエディンバラ編!

「スリー・ビルボード」、ディクソンのはなし

スリー・ビルボードマーティン・マクドナー/2017)をみた。

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今回はもう書き留めておきたいことをワサーッと書いただけです。ネタバレてます。

 

感想

良し悪し、正解不正解、正義と悪、なんでもかんでも二元論で白黒決着を付けたくなりがちだけれど、そうはいかないところが「人間」だよなあと思う。全員が完璧ではなく見方を変えれば全員が「悪い」部分を持ち合わせていて。正義や信念だと掲げたものが、一方では正しく一方では受け付けられないものであり、しかし一手は確からしく連鎖的に波及していくという現実。その現実を目の当たりにしたとき、固く誓った覚悟の上に毅然と立ち続けられるのか。無敵に見えた彼女でも、微かに震えたシーンが印象的だった。ああ、そうだよなあ、人間だよなあ、と。

怒りは怒りを来す。それでもラストにかけて少しずつ見えてくる「変化」のそのどれもに、希望を見出せたのでとても救われた。そういう意味でとても良い具合の締めだったし好きな終わり方でした。

 

ディクソンはゲイかもしれない

別にどちらでもいいし、じゃあゲイだったとしてだからどうという話では全くないんですけど。観ているあいだにふと、「あ、もしかしたらディクソンはゲイだったのかもしれない」と感じたので。なぜ自分がそう思ったのか、他人の解説を読む前に書き留めておきたかっただけです。

 

1)いつ思ったのか

あ、もしかしてが浮かんだのはディクソン宛の署長の手紙にて、「同性愛を揶揄されたら同性愛差別だと言い返せ」的な内容が読み上げられたとき。そっかディクソンはウィロビーが好きだったのかーではなくて(今でも個人的解釈としてはそうは思っていない・後述)、ウィロビーのほうはディクソンが彼自身向き合えていない、ずっとずっと抑圧し痛めつけてきた彼の一部分にまでちゃんと気付いた上で彼を愛していたのだろうなと思ったのでした。あとはこのフレーズが出てから、それまでのシーンに対して、急に合点がいったような感覚があったから。

 

 2)レイシズムと母親と田舎

もうそれまではヤツのレイシストっぷりにはも〜〜〜〜ムナクソ悪くなってたし、解雇されたあたりまでの母親とのシーンからは、こいつママボーイかよ!とか思ってました。けれどもしも彼がゲイだったとしたら。

序盤から、母親との関係性が健全に機能していないことは少なからず彼の性格に影響を及ぼしているのだろうなとは思っていたのですが、のちに母親がディクソン同様、むしろそれ以上かと思えるほど、かなり直接的な差別発言をしたところで、絶対に彼女の言うところの「常軌」を逸することは認められないという旨の強迫観念を無意識に植え付けられながら彼は育ってきたのだろうなと思うようになりました。そんなトラウマとも言える母親を持ち、誰のどんな話も、ものの1日で広まり切ってしまうような狭く閉じられたコミュニティで育ったディクソン。

さらに、認められないものを否定しようとして自分の他に存在する同様のものを必要以上に忌み嫌い、自分はそんなものとは同一でないと言い聞かせることって(ちゃんと名称がありそう)、ほかでもよく見てきたなあとも思い(直近ではNTLエンジェルス・イン・アメリカのロイ・コーン。その前は沈黙の井上筑後守)、いよいよここで彼のレイシストっぷりがすっきり腑に落ちることに。

 

3)レッド・ウェルビーとの関係性

ディクソンがゲイだったとして、彼が実は本当に好きだったのはむしろレッドだったのかと思ってました。もう本当これは全て個人の推測の域を出ない(出なさすぎる)けれど、彼らは昔からの腐れ縁で(役者の歳が離れすぎているから同級の設定ってことはないか、でもそんなようにすら見えました)、ディクソンは昔からずっと、レッドの純朴さや素直さを心のどこかで羨んでいたのだと思えた。それが能天気な間抜けにも見えるものだから、同じだけ気に食わなくて嫌いだと思い続けて、本人はその本心にもしかしたら気付いてすらいなかったのかもしれないけれど。好きな子をいじめたくなるだとか自分からわざわざ突っ掛かりにいくだとか、ほんと小学生かよって感じだけれど、そんな類の執拗さがあったように思える。殴り込みのシーンも、署長の死をそもそも広告がきっかけだったからだとレッドに矛先が向かったというよりは、手近で発散するのに理由付けができるヤツで、それに窓から見ればほら思った通り、ヤツはいつもの気に食わない能天気で笑ってやがるもう許せねえ決まった、ってもう9割方レッドのことしか考えてないやんけ…と思ってしまった。

レッドのことを羨んでいる気持ちを持っていることや、もしかしたら好きという感情を抱いているということに、ディクソン自身やっと向き合うことができたのが病室のオレンジジュースだったのでは。その前にすまなかったと謝罪できたのは署長のおかげだけれど、レッドの与えた赦しで、やっとレッドのことを素直に認め、彼自身がレッドに抱いてきた本心をも認めることができたのだと思った。だからこそ、次には自分が赦しを施せる側になれたのではないでしょうか。

 

おわりに

以上です。なんだろう、特に最後の深読みなんかはもしかしてわたしがケイレブ・ランドリー・ジョーンズが好きだからってだけなのかもしれない(?)。でもケイレブほんとに良かったですよね。めっちゃかわいかった。

真面目に結ぶと、人間って超不完全でとても不恰好だけれど、それでも足掻きながら生きていくしかなくって、でもその道中は決して絶望だけではないのだと結んでくれていたようで、とても嬉しかったです。好きでした。

 

 

「アメリカン・バーニング」感想

American Pastoral(邦題:アメリカン・バーニング/Ewan McGregor/2016)をみた

ユアン・マクレガー初の長編監督作品。Philip Rothの小説が原作で初稿は2006年。ユアン演じるシーモアには最初、ポール・ベタニーがキャスティングされていたとか。(IMDbより http://www.imdb.com/title/tt0376479/

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ストーリー:1960年代のアメリカ、アメリカンドリームを掴み絵に描いたような成功者として順風満帆な人生が約束されていると誰もが信じて疑わなかった主人公が、ベトナム戦争の渦中で反戦運動テロリズムに身を投じた一人娘に翻弄される転落劇。

感想:めっっっっっちゃ落ち込んだ。ユアン・マクレガーをこのところ特に贔屓目で見ているからという要素を除いても、「家族」「父娘」「母親」「戦争と平和」らへんが絡むと弱くなるような人生を歩んでいるのでキツかった。そのへんはネタバレしながら以下に纏めるとして、先ほど横に置いておいたユアンの話だが、現在4人の娘の父親であるユアン・マクレガーが果たしてどんな想いでシーモアを演じたのかと思うと、結構これがバカにならないくらい応えた。監督としてのユアンの手腕は自身の至らなさ故ぶっちゃけ分からなかったし、原作も未読なのでアメリカでの手応えの悪さについては賛成も反対もなく、身に応えすぎて面白かったかどうかの評価も機能しないのだけど、「家族」「コンプレックス」「戦争」「テロリズム」「宗教」とまあちょっと風呂敷広げた割に収拾が追いついていない感は否めない。でも中年の小綺麗なお堅い真面目ユアンと、どんどん憔悴していくジェニファー・コネリー、起伏の激しい役柄を演じきるダコタ・ファニングなんかはとても良かった。ユアンもだけれど、ファニング姉妹の声が好き。

以下ネタバレ

 

 

第一部:幼少期(ワカル)

娘の吃音症は一種の防衛本能であるというような趣旨の発言をセラピストがするが、まあ確かに、完璧な美貌を持ちそれを評価されてきた母親、学生時代のスポーツと海兵隊での活躍から英雄と囃し立てられた父親を持って生まれたら、そりゃあ捻くれたくなる気持ちも分からんでもない。母親への風当たりが父親に比べて強いのは同性だからなのかなあと漠然と思ったり。母親が疎ましいとは思わないまでも、本人も自覚なしに父親の愛情を勝ち得たいと本能で敵対する気持ちがあったように見えた。せがんだキスを撥ね付けられたとき、そこで覚えた傷心と失望は、以後訪れる親子の溝の根底に流れ続けていたのではないだろうか。そして僧侶の一件を引き金に、自分の中の抗えない良心と溢れ出る純粋な信念を自覚し、疑念と不信もが同時に生まれることとなった。

まあまだね、このころのわたしはまだ「わたしだってもしユアンの娘だったらお父さんのことちょっと困らせたいと思うかもしれないなあフフフ」なんて暢気に思ってました。それに、小さい娘を愛情たっぷりにCookieちゃんと呼ぶユアンを思う存分観て浮かれるくらいには心に余裕があったのである…

 

第二部:暴徒時代(おかんめっちゃツライ)

大義のために自ら行動を起こすことはとても大切なことだが、大いなる善や幸福を勝ち得ようとする者が、目の前のたった数人の家族を理解しようとも愛そうともせずに蔑ろにし、果たしてそんな人間がより大きなものの一助となれるものなのかと疑問を抱かずにはいられない。犠牲にすることと愛さないことは同義じゃないよね。あっでももしかして反抗期で片付けられるレベルだったのか?自分の無力さを思い知って謙虚さを自覚することもなく、世界を変えられると信じた自分たちは無敵なのだと盲信して止まないのは、若気の至り?戦争とは少し違うけれど近しいことを長い間こねくり回して考えてきたので、当時の自分がどう思っていたかなんてとうに忘れてしまった。わたしは今でも、いつか積み上げてきたものや信じてきたことが「偽善」だと思い知らされることが、それに向きあわなければならない局面が訪れることが怖くて堪らないし乗り越えられるのかも分からないでいるので。

そしてもうひとつ、このあたりから特に母親が壊れていく。今まで挫折を知らずに順調に積み上げてきたものがひとたび不穏に揺れたら最後、ひどく脆いものである。美貌も賞賛も自ら望んで手に入れたものではなく、すべて失ったときに自分には故郷も学も職もないのだと思い知る。手の内に残ったものは、娘を理解できず分かり合えもせずどこかで誤った育て方への後悔と自責の念のみ。そんな最も辛い時期に娘は相変わらずの上、頼みの綱の旦那さえもが自分のためだけに生きてくれないとなっては、よく無傷でことなきを得、整形だけで乗り越えられたよなあと思う(その後の不倫には逆に良かった〜と安堵すら覚えた)。決してシーモアを責めているわけではなく。誰を見ても八方塞がりで不幸な息苦しさに、そろそろ目眩がしてくるころ。

 

第三部:ジャイナ教入信(おとんがツラすぎて泣くどころの話じゃない)

やっと再会を果たした娘も、やっと昔のように元気を取り戻した妻さえも、次々に指の隙間からこぼれ落ちるように失っていくシーモア。この映画を撮っていた時期、ちょうどユアンの長女が大学進学のため単身NYへ。そんな経験も踏まえて、程度こそ違えど子を持つ親ならいずれ経験する我が子の自立、親離れで感じる喪失感はシーモアに訪れた喪失感と同義であり、それは指の隙間を砂がこぼれ落ちていくようで手放したものは二度と元には戻らないのだとご本人がインタビューで仰っていた。レイプされたことを告白されるシーンもセラピストに詰め寄ってぶちまけるシーンも、自分の父親と父親としてのユアンを思えば二重三重になるものだから、殊更辛かった。一体どんな気持ちで。

It could also be an extreme example of just what all of us go through when our kids leave home. It is that feeling of loss, that the sand is slipping through through your fingers, and things will never be the same again. That is maybe what I come away with also in this film when I see it.


本当にサラサラサラと何も掴み留められずに失っていく主人公の絶望が心底苦しい。にも関わらず長年こんな仕打ちを受け、殺人まで犯した真実も明らかとなった後でさえ自分勝手に振舞い続ける娘を、それでも誰よりも愛し、待ち続けることを辞さなかったシーモア。最初こそ自分がどこで間違えたのか、その綻びへの後悔と責任を感じる気持ちが強かっただろうが、最後はもう愛でしかなかった。

一方で、娘の言うところの「贖罪」には父親(家族)への気持ちは含まれていたのだろうか。それがあったからこそ、いつまでも自分を待ち続けていると知っている父親にさえ最期まで会わなかったのだと言え……ないわ!!!!そんなの最高に最低な自己満足でしかなくない!?!?!?最早若さに免じることなどできないレベル。挫折も無力さも思い知り自身も深く傷ついたところで、根底にあったはずの信念を棄てることを選び、今まで犯した罪を他者になにも還すことなく自分で自分を厳しく戒めることだけで赦しを得ようとするなんて。ならばせめて父親にだけでも、心の安寧を還しても良かったのでは。誰もいなくなった後に訪れるならいざ知らず、叔父や母親の前を堂々と素知らぬ顔をして通り過ぎ、浅ましくも父親に別れを告げに来るラストも、泣きはしたけれどやはり許せない。

シーモアの、ラストのどんなに時が経っても静かに待ち続ける姿と、数少ない「あなたたちには無い、家族と築き上げた過去の想い出」に浸って忘れていた幸福を思い出し心から微笑んだ姿が作中で最も辛かった。満身創痍。

 

おわりに

「バーニング」って何ですかね。フライヤーで家が燃えているからだろうか(タルコフスキーのOffretみたい)。作品を観て、pastoral(田園詩)がどれほど的確だったかを思い知って涙を呑んだ。

こんなに身に応える映画は沈黙(マーティン・スコセッシ/2016)以来だったので、これから先ユアンが父親役を演る作品はもう見れないかもしれないとまで思ったのだった。しかしこのあと、ひとまず所感を書きなぐった後にTrainspottingとT2 Trainspottingを立て続けに観たら元気を取り戻しました。ダニー・ボイル、ありがとう!というわけで次回こそトレスポ記事を書きあげたいです。

 

 

追伸:前記事で述べた公開待ち作品のうち2作品が日本公開決定!

スイス・アーミー・マン」2017/9/22、「ゴッホ〜最期の手紙〜」2017/10

有難さを噛み締めています。心から楽しみです。