昔書いた小説を公開する。小説を書いたあと、ほとんどいつも、僕の書きたいものは本当はこんなものじゃないんだという気がしてしまう。 本当に書きたいことはこんなことじゃないんだ、だけど本当に書きたいことがわからない。本当に書きたいことを直接書こうと思えば思うほど直接書けない。近づけば近づくほど遠ざかってしまう気がする。もしかしたら、間接的に書くことしかできないのかもしれない。
玉砕
Before I go on with this short history, let me make a general observation—the test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function. One should, for example, be able to see that things are hopeless and yet be determined to make them otherwise.
バレー部の女の子は、なぜみんなかわいいのだろう?
ひとそれぞれ、好みはあるとおもうが、ぼくはある一人の女の子が、特にかわいいとおもった。
武者小路実篤の「愛と死」に登場する夏子みたいにかわいい。
だから、ここでは、彼女のことを、夏子さんとよぼう。
「売られた喧嘩は買わねばなるまい」とも言わないし、宙返りもできないが。
ぼくは、夏子さんのことを愛していた。
とても好きだった。
絶対に無理だとおもっていた。
きっと告白しても玉砕するだろう。
しかし、それでも、もしかしたら成功するかもしれない。
相手のこころはわからない。
ふせられたトランプのカードがある。
ひっくりかえすまでは、その模様はわからない。
ジョーカーがないトランプかもしれない。
ジョーカーがあたる確率なんてひくい。
だが、ゼロではないかもしれない。
ならば、ひっくりかえす以外の選択肢が、ぼくにあるだろうか?
フィッツジェラルドのエッセイの言葉を思い出す。
第一級の知性とは、正反対の概念を同時に心の中に抱く能力であり、しかもその能力を機能させ続ける能力なのだという言葉だ。
告白したところで、絶対に玉砕するという確信を持ちながら、それでも、もしかしたらうまくいくかもしれないという希望を同時に持ちながら、この正反対の概念を心の中に抱きながら生活していく能力。
これが、フィッツジェラルドの言う、第一級の知性なら、あの頃のぼくは、中学生だったときのぼくは、この第一級の知性を有していた。
夏目漱石の「彼岸過迄」に出てくる須永は、(ぼくは名前を忘れてしまった)健康的な男に嫉妬していた。
武者小路実篤の「友情」でも、主人公は、大宮に嫉妬していたはずだ。
主人公の野島は、貧相な体格で、大宮はスポーツマンだったとおもう。
小説を読むような人間の多くは、ぼくのように体格に優れているわけではないんじゃないか、という疑念が昔からある。
これは、日本だけではないはずだ。
ドイツ人のトーマス・マンだって、「トニオ・クレーガー」で書いていた。
金髪のインゲボルクは、そう、主人公を選ばない。
詩を書く主人公のことを「軽蔑」しているに違いないという「快活」な女の子!
だけれど、そのインゲのことを主人公は愛している。
マグダレーナ・フェアメーレンという、主人公を愛してくれる子のことを、詩を書く主人公のことを理解してくれる、その子のことを、主人公は愛することができない。
インゲが主人公のトニオを愛さないことも不幸にはちがいない。
だけれど、主人公のトニオが、マグダレーナを愛することができないということだって、おなじくらいに不幸なことだろう?
ぼくが小説を書くことを、夏子さんは、きっと興味を持ったりしないだろう。
しないだろう?
残念ながら、しないのだ。
しないということを、もうぼくは知っている。
小説を書いているというぼくのセリフに、「すごいね」の一言だけで終わったあの会話をぼくは覚えている。
だけれど、そう、クラスで一番足が速い彼に対して、夏子さんは、そういう風な会話はしないのだ。
あんな風に一言で終わったりはしない。
確信しているが、あいつよりも、ぼくのほうが、先に夏子さんのことを好きだったはずだ。
夏子さんがうつくしいのは、小説を読まないからなのか?
詩なんて軽蔑しているからか?
そうかもしれない。
小説や詩を書く能力は、強い人間が持つ能力ではないからだろう。
この能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。
小説や詩を書くことは、生命力あふれる活動というよりは、むしろ死に近い。
生命力あふれる活動は美しい。
死は美しくない。
死に関連する能力を持っている人間が、魅力をまとうというよりは、むしろ、忌避されるのは常識的なことなのかもしれない。
生命力あふれる男性の方が女性に好かれる。
死をまとう男性の方が女性に避けられる。
これは、一見、常識的な帰結のように見える。
小説や詩を書く能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。
小説や詩を書く能力は、「人生に負けない」ための能力だ。
文学は、「勝つための学問」ではなくて、「負けないための学問」だからだ。
高島ざくろが、かつてゲームの中で、そう言っていた。
ぼくは、完全に、賛成する。
夏子さんの、後ろめたさのない快活さ、影のない明るさ。
これは、人がいつか死ぬかもしれないという感覚とは無縁の人だけが持つ快活さだろう。
生命力の強さが、そのような感覚からその人の思考を引き離す。
そして、それは欺瞞だと、ぼくは思ってしまう。
そうだ、欺瞞だ。
でも、あまりにも、美しすぎる欺瞞だ。
惹かれてしまう。
どうしようもなく。
だって、本当は、ぼくも、自分がいつか死ぬかなんて考えずに生きていきたいからだ。
でも、ぼくの機根が、その精神の傾向性を許さない。
自分がいつか死ぬことに、なんらかの納得を、なにかしらの決着をつけずに生きていくことなんてできそうにない。
夏子さんはかわいい。
夏子さんは魅力的だ。
きっと、いつか自分が死ぬことなんて考えてないようなところが好きだ。
ぼくは、自分がいつか死ぬことに怖がりながら生きていたくない。
だから、夏子さんにあこがれる。
でも、夏子さんは、きっと、生き物として、そういうことを考えない。
だからこその夏子さんの明るさだ。
しかし、その明るさに、ぼくは到達することができないだろう。
ぼくは、そういうことを考えてしまうからだ。
だけれど、そんなぼくだって、自分がいつか死ぬことを怖がりながら生きなくても済む方法があるんじゃないか?
自分がいつか死ぬことを考えないからこそ明るい、という種類の明るさじゃない。
自分がいつか死ぬことをわかっていながらも、それにもかかわらず、明るく前向きに生きられる、そういう種類の明るさだ。
そういうものが欲しいと思う。
夏子さんの持っている明るさを、ぼくは今生では手にすることはありえないだろう。
それはぼくの機根が許さない。
でも、そうじゃない、別の種類の明るさなら、ぼくにだって。
それが、ぼくの、ちょっとした希望だった。
トーマス・マンが「この地上ではそんなことは起こらないのだ」といったように、ぼくがどこかにふらりといなくなっても、夏子さんは追いかけてはくれないだろう。
ぼくのような文弱な人間では、夏子にはふさわしくないのだろう。
この非対称性。
ぼくのような種族が夏子さんを愛することがあるのに、夏子さんのような種族は、ぼくのような種族を愛さない。
片思いが命づけられた種族がいるとして、そういう人たちには、救済が存在するのか?
それとも、そういう種族は、「天国には行くことができない」のか?
(ぼくは、ここでひとつの反例をおもいつく。とても美人な黒髪のKさん。彼女はとても本が好きだが、たくさんの男の子から愛されている。文弱な女の子は、愛されることができるだろう。だが、文弱な男の子は愛されることができない。なぜなら、女の子にとって弱いというのは武器になりうるが、男の子にとって弱いというのは武器になりえないからである。少なくともこの現代日本社会では)
二葉亭四迷の平凡で、雪江さんの「にっこり」を楽しみに、自分も「にっこり」する主人公の気持ちが、百パーセントわかる。
わかるよな?
ぼくだって、夏子さんの「おはよう」を楽しみに毎日、学校に通っていたんだ。
天使が通ったので、みんなの話が、そこで止まった。
複数人で話しているとき、ふと会話が途切れることがある。
それを、天使が通った、と表現する。
フランス語の表現らしい。
天使が通ったという言葉は、二葉亭四迷の平凡にも出てくる。
でも、そんな言葉が出てきそうになったとして、みんなの前で、そんなことを言ったとしても、お前は何を突然にそんな言葉を言うんだ、と言われるだけかもしれない。
知識がいくらたくさんあったところで、それは好きな女の子を魅了する力にはならない。
クラスで一番足が速い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番力が強い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番顔がいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番話が面白い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番ダンスがうまい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番サッカーがうまく男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番権力、パワーがある男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。
クラスで一番頭のいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できない。
そんなこと、ずっと前から、みんな知ってた事実だろう?
ぼくだって知ってるさ。
だけど、だからこそ、許せない。
こういう世界の在り方が、許せない。
全員ぶっ殺してやる。
いつか見てろよ。
所詮、いつか見てろよ、としか吠えることができないから、何もできないのだ。
プロシュート兄貴もいっていた、ぶっ殺すというのは弱虫の言葉だって。
言葉で言う前にすでにやっちまってる、弱虫じゃないなら。
ああ、そうだよ、ぼくは弱虫だ。
弱虫だから愛されない。
そうだよね、わかるわかる。
弱い男の子を愛する女の子はいない。
弱い女の子を愛する男の子はいるのに。
なんでこんな不公平。
女の子は妊娠するから、その間男の子に守ってもらわなくてはならないから、強い男の子を求めるんだって誰かが言っていた。
男の子が、守ってもらいたくないなんて、だれが言ったんだ?
ぼくだって、守ってもらってほしいのに。
だれも、守ってくれない。
ボロボロのナイフを研ぎ澄ますような感覚で、おのれの神経の細さに集中する。
繊細さが何かの武器になることはあるのか。
所詮、自分の不幸をもたらす才能なんじゃないか。
この精神のもろさ、繊細さが、女の子から愛されることから遠ざけ、世間のさまざまなことに痛みを感じる原因なら、こんなものは、ない方がいいんじゃないか?
それとも、何かあるのか。
この精神特性が、何か意味のある条件が。
このある種の内向性のせいか、わからないが、文章がうまく読めなくなったことがある。
高校のころだったろうか。
現代文を読むのが本当にきつかった。
英語は、日本語ではないから、まだ読めた。
そのときの状況において、数学はよかった。
あの学問は、感情が入らないで解答を得ることができる。
でも、あのときサリンジャーだけは読めた。
荒地出版のサリンジャー全集。
あれだけは読めた。
サリンジャーの作品は、たぶん特殊なのだ。
人が死なないわけではない。
そういうわけではなくて、あまりにも間接的な表現なので、心に直接痛みを撃ち込まれることがないのだと思う。
夏子さんは、どこかの運動部の男の子と付き合った。
夏休み、コンビニですれちがったことがある。
トイレの男女共用の個室から、夏子さんは出てきた。
ぼくは会釈した。
少しおどろいて、恥ずかしそうな顔をして、夏子さんはすれちがった。
いいにおいがした。
男のそばにいった。
知っている男だった。
ぼくは軽く会釈した。
男も少し恥ずかしそうにして会釈を返した。
飲み物を早々に買って、二人は店を出た。
ぼくがいたから、恥ずかしかったのかもしれない。
なにもかもがどうでもよくなったようないたみがやってきて、少しだけ呼吸困難になった。
心臓のあたりの鼓動がおかしくなったような感覚があって、たぶん動悸がした。
ぼくは男女共用の個室に入った。
そのまま便座にキスをした。
頼むから、これくらいの幸福は、ぼくに分けてほしかった。
両手の指の数をあわせても数えられないくらいのキスを便座して、その日は、数時間、水も飲まなかった。
親に心配をかけたくなかったから、食事はした。
せめて祈りにもにた敬虔さで、ぼくは一枚のルーズリーフにキスをした。
ここにすべてを閉じ込めるつもりだった。
そして、普通に食事をした。
丁寧にそのルーズリーフを封筒にいれて、封をした。
フレイザーの感染呪術を思わせるような確信さでもって、この封筒の中に、ぼくが現在の能力で手に入れることができる幸福のすべてがつまっていると信じた。
それから十年以上経って、夏子さんが結婚したという話を聞いた。
相手は、ぼくが知っている運動部の男だった。
心の痛みがほとんどおこらなくなったことを確認して、ぼくは封筒と、そこに入っているルーズリーフを、ごみ箱にいれた。