ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

崩壊

崩壊

 

Of course all life is a process of breaking down, but the blows that do the dramatic side of the work—the big sudden blows that come, or seem to come, from outside—the ones you remember and blame things on and, in moments of weakness, tell your friends about, don't show their effect all at once. There is another sort of blow that comes from within—that you don't feel until it's too late to do anything about it, until you realize with finality that in some regard you will never be as good a man again. The first sort of breakage seems to happen quick—the second kind happens almost without your knowing it but is realized suddenly indeed.

 

 なんでそうなったのかわからずに、ぶっこわれてしまうことはある。

 ふりかえってみても、明確にこれといった原因がわからずに、ぼやけている種類の崩壊というものがある。

 これは、フィッツジェラルドのエッセイ「崩壊」で紹介される、ふたつの崩壊のうち、致命的な方と同じものだと思っている。

 ぼくにとって、その崩壊がやってきたのは、大学のときだった。

 今からふりかえってみても、これが原因の一撃だったのだろう、と明晰に判明できるような一撃が存在しない。

 フィッツジェラルドは、そのエッセイ「崩壊」の中で、外からくるような急な一撃は、思い出して悪態をつけるような一撃は、友達に語れるような一撃は、影響が一気にあらわれるわけじゃない、と言っている。

 本当に注意すべきは、最初に紹介されるこっちの一撃ではない、と言っている。

 こっちの崩壊は、「まだマシ」だ。

 本当に「やばい」のは、二番目に紹介される方の崩壊だ。

 それは、知らないうちにやってくる。

 そして、それがやってきたことに気づいたときには、もう手遅れなのだ。

 最初の崩壊は外からくるが、二番目の崩壊は内からくる。

 二番目の崩壊を経験しない人もいるだろう。

 ぼくは経験した。

 一番目の崩壊は、たとえば、自分より大切に思うほど愛していた人と付き合うことができて、しあわせの絶頂にあったのに、結局わかれてしまったときに経験する、あの崩壊だ。

 睡眠時間は三時間くらいになる。

 横になっても眠ることができない。

 意識があること自体が苦痛になる。

 般若心経がとても心安らぐものになる。

 正信偈を唱えることで精神の健康を保つようになる。

 以前は、世界中すべてが黄金色に輝いていたのに、色を感じることができない。

 クオリアというものの実在を感じる。赤色を見ることができ、それが赤色だと認識することができるのに、それを赤色だと感じることができない。

 これは、明瞭に原因がわかっている崩壊だ。

 好きな人と別れたこと。

 これが原因だ。

 二つ目の崩壊は、原因がよくわからない。

 なぜ、そうなったのかが、明確にわからない。

 何か小さな負担が雪のようにつみかさなって、最後には、ぼくを押しつぶしてしまったのかもしれない。

 それが来たのは、大学三年生の春のときだった。

 四月は最も残酷な月だ、とエリオットは言った。

 ぼくにとって、四月は、しばしば残酷な月となってきた。

 しかし、この年の四月は、数ある四月の中でも、最も残酷な四月だった。

 大学を辞めたい。

 心の奥底からわきあがってきたのは、この気持ちだった。

 

 しかし、結局、理性というものが人間にはあるもので、ぼくは大学を辞めることはできなかった。

 

 高浜虚子が詠っている。

 春風や闘志いだきて丘に立つ。

 ぼくはまだ闘えるだろうか?

 そうだ、もちろん闘える。

玉砕

昔書いた小説を公開する。小説を書いたあと、ほとんどいつも、僕の書きたいものは本当はこんなものじゃないんだという気がしてしまう。 本当に書きたいことはこんなことじゃないんだ、だけど本当に書きたいことがわからない。本当に書きたいことを直接書こうと思えば思うほど直接書けない。近づけば近づくほど遠ざかってしまう気がする。もしかしたら、間接的に書くことしかできないのかもしれない。

 

玉砕

 

Before I go on with this short history, let me make a general observation—the test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function. One should, for example, be able to see that things are hopeless and yet be determined to make them otherwise.

 

 バレー部の女の子は、なぜみんなかわいいのだろう?

 ひとそれぞれ、好みはあるとおもうが、ぼくはある一人の女の子が、特にかわいいとおもった。

 武者小路実篤の「愛と死」に登場する夏子みたいにかわいい。

 だから、ここでは、彼女のことを、夏子さんとよぼう。

 「売られた喧嘩は買わねばなるまい」とも言わないし、宙返りもできないが。

 ぼくは、夏子さんのことを愛していた。

 とても好きだった。

 

 絶対に無理だとおもっていた。

 きっと告白しても玉砕するだろう。

 しかし、それでも、もしかしたら成功するかもしれない。

 相手のこころはわからない。

 ふせられたトランプのカードがある。

 ひっくりかえすまでは、その模様はわからない。

 ジョーカーがないトランプかもしれない。

 ジョーカーがあたる確率なんてひくい。

 だが、ゼロではないかもしれない。

 ならば、ひっくりかえす以外の選択肢が、ぼくにあるだろうか?

 フィッツジェラルドのエッセイの言葉を思い出す。

 第一級の知性とは、正反対の概念を同時に心の中に抱く能力であり、しかもその能力を機能させ続ける能力なのだという言葉だ。

 告白したところで、絶対に玉砕するという確信を持ちながら、それでも、もしかしたらうまくいくかもしれないという希望を同時に持ちながら、この正反対の概念を心の中に抱きながら生活していく能力。

 これが、フィッツジェラルドの言う、第一級の知性なら、あの頃のぼくは、中学生だったときのぼくは、この第一級の知性を有していた。

 

 夏目漱石の「彼岸過迄」に出てくる須永は、(ぼくは名前を忘れてしまった)健康的な男に嫉妬していた。

 武者小路実篤の「友情」でも、主人公は、大宮に嫉妬していたはずだ。

 主人公の野島は、貧相な体格で、大宮はスポーツマンだったとおもう。

 小説を読むような人間の多くは、ぼくのように体格に優れているわけではないんじゃないか、という疑念が昔からある。

 これは、日本だけではないはずだ。

 ドイツ人のトーマス・マンだって、「トニオ・クレーガー」で書いていた。

 金髪のインゲボルクは、そう、主人公を選ばない。

 詩を書く主人公のことを「軽蔑」しているに違いないという「快活」な女の子!

 だけれど、そのインゲのことを主人公は愛している。

 マグダレーナ・フェアメーレンという、主人公を愛してくれる子のことを、詩を書く主人公のことを理解してくれる、その子のことを、主人公は愛することができない。

 インゲが主人公のトニオを愛さないことも不幸にはちがいない。

 だけれど、主人公のトニオが、マグダレーナを愛することができないということだって、おなじくらいに不幸なことだろう?

 ぼくが小説を書くことを、夏子さんは、きっと興味を持ったりしないだろう。

 しないだろう?

 残念ながら、しないのだ。

 しないということを、もうぼくは知っている。

小説を書いているというぼくのセリフに、「すごいね」の一言だけで終わったあの会話をぼくは覚えている。

 だけれど、そう、クラスで一番足が速い彼に対して、夏子さんは、そういう風な会話はしないのだ。

 あんな風に一言で終わったりはしない。

 確信しているが、あいつよりも、ぼくのほうが、先に夏子さんのことを好きだったはずだ。

 

夏子さんがうつくしいのは、小説を読まないからなのか?

詩なんて軽蔑しているからか?

そうかもしれない。

小説や詩を書く能力は、強い人間が持つ能力ではないからだろう。

この能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。

小説や詩を書くことは、生命力あふれる活動というよりは、むしろ死に近い。

生命力あふれる活動は美しい。

死は美しくない。

死に関連する能力を持っている人間が、魅力をまとうというよりは、むしろ、忌避されるのは常識的なことなのかもしれない。

生命力あふれる男性の方が女性に好かれる。

死をまとう男性の方が女性に避けられる。

これは、一見、常識的な帰結のように見える。

小説や詩を書く能力は、「人生に勝利する」ための能力ではない。

小説や詩を書く能力は、「人生に負けない」ための能力だ。

文学は、「勝つための学問」ではなくて、「負けないための学問」だからだ。

高島ざくろが、かつてゲームの中で、そう言っていた。

ぼくは、完全に、賛成する。

夏子さんの、後ろめたさのない快活さ、影のない明るさ。

これは、人がいつか死ぬかもしれないという感覚とは無縁の人だけが持つ快活さだろう。

生命力の強さが、そのような感覚からその人の思考を引き離す。

そして、それは欺瞞だと、ぼくは思ってしまう。

そうだ、欺瞞だ。

でも、あまりにも、美しすぎる欺瞞だ。

惹かれてしまう。

どうしようもなく。

だって、本当は、ぼくも、自分がいつか死ぬかなんて考えずに生きていきたいからだ。

でも、ぼくの機根が、その精神の傾向性を許さない。

自分がいつか死ぬことに、なんらかの納得を、なにかしらの決着をつけずに生きていくことなんてできそうにない。

夏子さんはかわいい。

夏子さんは魅力的だ。

きっと、いつか自分が死ぬことなんて考えてないようなところが好きだ。

ぼくは、自分がいつか死ぬことに怖がりながら生きていたくない。

だから、夏子さんにあこがれる。

でも、夏子さんは、きっと、生き物として、そういうことを考えない。

だからこその夏子さんの明るさだ。

しかし、その明るさに、ぼくは到達することができないだろう。

ぼくは、そういうことを考えてしまうからだ。

だけれど、そんなぼくだって、自分がいつか死ぬことを怖がりながら生きなくても済む方法があるんじゃないか?

自分がいつか死ぬことを考えないからこそ明るい、という種類の明るさじゃない。

自分がいつか死ぬことをわかっていながらも、それにもかかわらず、明るく前向きに生きられる、そういう種類の明るさだ。

そういうものが欲しいと思う。

夏子さんの持っている明るさを、ぼくは今生では手にすることはありえないだろう。

それはぼくの機根が許さない。

でも、そうじゃない、別の種類の明るさなら、ぼくにだって。

それが、ぼくの、ちょっとした希望だった。

 

 トーマス・マンが「この地上ではそんなことは起こらないのだ」といったように、ぼくがどこかにふらりといなくなっても、夏子さんは追いかけてはくれないだろう。

 ぼくのような文弱な人間では、夏子にはふさわしくないのだろう。

 この非対称性。

 ぼくのような種族が夏子さんを愛することがあるのに、夏子さんのような種族は、ぼくのような種族を愛さない。

 片思いが命づけられた種族がいるとして、そういう人たちには、救済が存在するのか?

 それとも、そういう種族は、「天国には行くことができない」のか?

 (ぼくは、ここでひとつの反例をおもいつく。とても美人な黒髪のKさん。彼女はとても本が好きだが、たくさんの男の子から愛されている。文弱な女の子は、愛されることができるだろう。だが、文弱な男の子は愛されることができない。なぜなら、女の子にとって弱いというのは武器になりうるが、男の子にとって弱いというのは武器になりえないからである。少なくともこの現代日本社会では)

 

 二葉亭四迷の平凡で、雪江さんの「にっこり」を楽しみに、自分も「にっこり」する主人公の気持ちが、百パーセントわかる。

 わかるよな?

 ぼくだって、夏子さんの「おはよう」を楽しみに毎日、学校に通っていたんだ。

 

 天使が通ったので、みんなの話が、そこで止まった。

 複数人で話しているとき、ふと会話が途切れることがある。

 それを、天使が通った、と表現する。

 フランス語の表現らしい。

 天使が通ったという言葉は、二葉亭四迷の平凡にも出てくる。

 でも、そんな言葉が出てきそうになったとして、みんなの前で、そんなことを言ったとしても、お前は何を突然にそんな言葉を言うんだ、と言われるだけかもしれない。

 知識がいくらたくさんあったところで、それは好きな女の子を魅了する力にはならない。

 クラスで一番足が速い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番力が強い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番顔がいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番話が面白い男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番ダンスがうまい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番サッカーがうまく男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番権力、パワーがある男の子は、自分の好きな女の子を魅了できる。

 クラスで一番頭のいい男の子は、自分の好きな女の子を魅了できない。

 そんなこと、ずっと前から、みんな知ってた事実だろう?

 ぼくだって知ってるさ。

 だけど、だからこそ、許せない。

 こういう世界の在り方が、許せない。

 全員ぶっ殺してやる。

 いつか見てろよ。

 

 所詮、いつか見てろよ、としか吠えることができないから、何もできないのだ。

 プロシュート兄貴もいっていた、ぶっ殺すというのは弱虫の言葉だって。

 言葉で言う前にすでにやっちまってる、弱虫じゃないなら。

 ああ、そうだよ、ぼくは弱虫だ。

 弱虫だから愛されない。

 そうだよね、わかるわかる。

 弱い男の子を愛する女の子はいない。

 弱い女の子を愛する男の子はいるのに。

 なんでこんな不公平。

 女の子は妊娠するから、その間男の子に守ってもらわなくてはならないから、強い男の子を求めるんだって誰かが言っていた。

 男の子が、守ってもらいたくないなんて、だれが言ったんだ?

 ぼくだって、守ってもらってほしいのに。

 

 だれも、守ってくれない。

 

 ボロボロのナイフを研ぎ澄ますような感覚で、おのれの神経の細さに集中する。

 繊細さが何かの武器になることはあるのか。

 所詮、自分の不幸をもたらす才能なんじゃないか。

 この精神のもろさ、繊細さが、女の子から愛されることから遠ざけ、世間のさまざまなことに痛みを感じる原因なら、こんなものは、ない方がいいんじゃないか?

 それとも、何かあるのか。

 この精神特性が、何か意味のある条件が。

 

 このある種の内向性のせいか、わからないが、文章がうまく読めなくなったことがある。

 高校のころだったろうか。

 現代文を読むのが本当にきつかった。

 英語は、日本語ではないから、まだ読めた。

 そのときの状況において、数学はよかった。

 あの学問は、感情が入らないで解答を得ることができる。

 でも、あのときサリンジャーだけは読めた。

 荒地出版のサリンジャー全集。

 あれだけは読めた。

 サリンジャーの作品は、たぶん特殊なのだ。

 人が死なないわけではない。

 そういうわけではなくて、あまりにも間接的な表現なので、心に直接痛みを撃ち込まれることがないのだと思う。

 

 夏子さんは、どこかの運動部の男の子と付き合った。

 夏休み、コンビニですれちがったことがある。

 トイレの男女共用の個室から、夏子さんは出てきた。

 ぼくは会釈した。

 少しおどろいて、恥ずかしそうな顔をして、夏子さんはすれちがった。

 いいにおいがした。

 男のそばにいった。

 知っている男だった。

 ぼくは軽く会釈した。

 男も少し恥ずかしそうにして会釈を返した。

 飲み物を早々に買って、二人は店を出た。

 ぼくがいたから、恥ずかしかったのかもしれない。

 なにもかもがどうでもよくなったようないたみがやってきて、少しだけ呼吸困難になった。

 心臓のあたりの鼓動がおかしくなったような感覚があって、たぶん動悸がした。

 ぼくは男女共用の個室に入った。

 そのまま便座にキスをした。

 頼むから、これくらいの幸福は、ぼくに分けてほしかった。

 両手の指の数をあわせても数えられないくらいのキスを便座して、その日は、数時間、水も飲まなかった。

 親に心配をかけたくなかったから、食事はした。

 せめて祈りにもにた敬虔さで、ぼくは一枚のルーズリーフにキスをした。

 ここにすべてを閉じ込めるつもりだった。

 そして、普通に食事をした。

 丁寧にそのルーズリーフを封筒にいれて、封をした。

 フレイザー感染呪術を思わせるような確信さでもって、この封筒の中に、ぼくが現在の能力で手に入れることができる幸福のすべてがつまっていると信じた。

 

 

 

 それから十年以上経って、夏子さんが結婚したという話を聞いた。

 相手は、ぼくが知っている運動部の男だった。

 心の痛みがほとんどおこらなくなったことを確認して、ぼくは封筒と、そこに入っているルーズリーフを、ごみ箱にいれた。

絶叫

But at three o'clock in the morning, a forgotten package has the same tragic importance as a death sentence, and the cure doesn't work—and in a real dark night of the soul it is always three o'clock in the morning, day after day.

 

 

幸福になると良い創作はできない、みたいなポストがタイムラインを流れていくのを見たが、それはそうだろうという気がする。もちろん、すべての創作がそうではないだろうが、いくつかの創作は「たすけて」という耳をつんざくばかりの絶叫を変形させたものだと思うから。

https://x.com/PP29H9GixlN66UJ/status/1778413667195015536

 

 

 

 秋が一番好きな季節なのは、それが死に向かう季節だからかもしれない。

実際にすべてのものは終わりに向かって動いている。

すべてのものは終わりに向かって動いているのだというのに、まるで終わりに向かって動いていないかのようにふるまうのは、欺瞞だと思う。だから、すべてのものが終わりに向かっていると思わせてくれる秋という季節のことを、僕は好きなのだろう。

 

僕は、しぬのがこわかった。

 これが、ぼくの精神が不安定になった理由かもしれない。

 因果関係が逆で、ぼくの精神が不安定であったから、しぬのがこわくなったのかもしれない。

 まわりをみまわしてみて、まわりの人がみんなしんでしまうことをしる。

 これは、絶叫するくらいに、こわいことだった。

 みんな、このことに、気がついていますか?

 気がついているのに、みんな正気をたもっているようにみえるのが、とてもしんじられない。

 みんなどこかで、目をそらしているのでしょう?

 だけれど、ぼくは、うまく目をそらすことができない。

 目をうまくそらすことができていても、たまに、いつか自分が死んでしまうことに、意識が向いてしまい、一気に心がおかしくなってしまう。

 

 ホールデン・コールフィールド式の自己紹介ではなく、むしろデイヴィッド・カッパーフィールド的な自己紹介から始めよう。

岡田淳さんという作家がいて、ぼくはけっこう好きだった。

「選ばなかった冒険」が好き。

ゲームの世界に入ってしまうのだけど、これが面白かった。

「選ばなかった冒険」は、小学校のとき、友達と話しながら帰った記憶がある。あまり本を読む友達がいなかったから、同じ話題を共有できてうれしかった。

「雨やどりはすべり台の下で」「びりっかすの神さま」「扉のむこうの物語」「ふしぎの時間割」「ようこそおまけの時間に」などなど。

作者本人が絵を描いているのも好きだった。

高校三年生くらいの時に、文章を読むのが苦痛になって、本を読めなくなった時期があった。小学校のときが一番本を読んでいたと思う。中学校のときはノベルゲームや小説を作ろうとしていて、高校のときは勉強していた。どれも楽しかった。

高校三年生のときに文章が読めなくなったのは、あれはなんだったんだろう。たぶん、文章を読む、文字を扱う能力を酷使しすぎたのかな、あるいは飽きたのか。

現代文の文章量くらいなら大丈夫だけど、継続して読むことができなくて、小説が読めなくなった。

なぜかそのころ、古典を読みたくなって、でも挫折した。結局、古典を読み切ったことはない。

外国語は好きだけれど、古典語に関しては、あまり相性はよくないらしくて、たぶん現実の人間と話すことができない言語については興味がわかないのだと思う。本当はだれかと話すのが好きなのかもしれない。

高校のとき、長い文章を読むのが苦痛だったときでも、なぜかサリンジャーは読めて、あれはなんだったんだろう、と思う。読んでもあまり感情が悪いように動かない特性がある。

普通の本は感情を揺さぶるから、かなりきつかった。サリンジャーの本は優しい感じがする。

シーモア序章、とか、ハプワースとか、手紙形式の文章というのも読みやすかったのかもしれない。

でも、荒地出版社の全集を読んでいたから、他の普通の形式の小説も読めた。

サリンジャーの小説は、起こっていることはわかるけれど、それが直截的に書かれているというよりは、なにか抽象的に、象徴的に書かれているようなところが好きなのかもしれない。

読みたい本がもう読めない。精神的に集中できない。

ここ数年、かなり厳しくなってきた。労働環境が変われば、それも改善するのかもしれないが、読みたいという気持ちすらなくなってきた。そしてそれがつらいことだとも思わない。(たぶんこれは悪いことではないと思う……もっと僕は外に出るべき)

トーマス・マン魔の山、全部は読み切れなかったけれど、拾い読みでも楽しかった。

原文はドイツ語で、中にフランス語で書かれた章があるのだけれど、読み手はそれを理解できるという前提で書かれていることを考えると、「読み手を選ぶ」本だと思うが……労働者階級が読むことを想定していない?

英語圏ではない外国文学にあこがれがあるのだけれど、自分にしっくりくる外国人作家、というと、やはりサリンジャーになる。結局大国の文学になるのか。あのひとの世界の切り取り方は、本当に独特というか、類似性を持つ作家をあまり知らない。

第二外国語を学ぶとき、植民地主義の遺産である英語を義務教育で勉強するのはかまわないが、植民地を拡張したフランスの言葉ではなく、敗北したドイツの言葉を勉強したいみたいなことを考えていた。勝っていない側につきたい欲望があるのだろう。

でも、実は、そもそも、発音が一番好きな外国語はドイツ語。文法構成など見ても、かなり好き。結果論だけれど、勉強してよかった。

村山早紀さんという小説家がいて、「はるかな空の東」という作品がとても好き。岡田淳さんの小説と同じように、この作品では、作者本人が絵を描いている。とても上手。

続編の構想はあったみたいだけれど、おそらく形にはならなかったのか、文庫本のときに補遺、みたいな形で構想が語られていた気がする。

英語の原文を読んだときに、「高慢と偏見」や「ジェーン・エア」は手も足もでない感じだったから、「月と6ペンス」や「清潔でとても明るい場所」を読んだときはびっくりした。簡潔な英語で小説が書けるんだ!という驚き。

簡潔な英語、という観点からいうと、「アルジャーノンに花束を」は、文体から言って原文で読めるなら一度読んでみてほしい。

僕が生まれてから初めて原文で通読した洋書。こんな書き方があるんだ、と思った。部分的に読むんじゃない達成感があったな。すごく暗い部屋で読んでた。

あの頃、ごはんと、ほうれんそうに醤油と七味かけたのを夜ご飯にしてた。一日二食で、暇な時間ほぼすべてを勉強にあてていたが、それが精神のバランスを崩した原因かもしれない。勉強を思いっきりやれば、どこかにたどり着けると信じていたのだが、かえって心を病んだ。

結局、あの頃、どこにもたどり着けなかったが、行きたいと思っていた道のすべてが袋小路だとわかったのはよかった。自分の能力では、このままでは、その道は歩けないとわかったのは、本当に良かった。もっとひどいことになっていた可能性だって十分にあった。やはりバランスは大事だ。

月並みな言い方だけれど、死ななくてよかったと思う。それは本当に思う。本当に、もっとひどいことになっていた可能性だってある。体感的には、あの頃が一番しんどかった。肉体的には今の方がはるかに過酷なのに。

結局、何事もやりすぎはよくないという教訓が得られた。いくら好きで得意なことでも、それをやりすぎるなら、(少なくとも自分の場合は)バランスを崩す。たぶん、人にはそれぞれ許容量があって、僕はそれを超えてしまったのだろう。

大学の卒業証書はビリビリに破いて捨てたが、いくつかの本だけは捨てなかった。洋書のすべて、「日本語音声学入門」「組織戦略の考え方」。あの時の自分の選択眼は、あの精神状態でもかなり正常だったなと思う。最悪の状況でも、死んでいないなら、まだすべてが失われたわけではない。

松原秀行さんのパスワードシリーズが好きで、よく読んでいた。続き、もう出ないのかなあ。パソコン通信の時代から書いてあって、とても雰囲気があってよかった。なんらかの形で完結してほしいが、いちおう一冊で完結する話なので、それでいいのかなあ。

パスワードシリーズは、未来編みたいなものは見てみたい。四つ葉学園の「将来の学園長」になるかもしれない彼は倒してほしいね。

WindowsME時代に、Caravanというゲームがあって、それもよかったな。ファレスというハンドルネームでプレイしていて、プレイ歴だけは長かったけれど、能力は全然低かった。

みんなが出すようなハイスコアは出せなかった。でも楽しかった。

基本的に、勉強以外の能力値は低い気がするし、勉強についても、基本的に他に興味があることが少なかったため、可処分時間をほぼすべてつぎ込んだためにそれなりにできただけなのかもしれない。だけど、他人と比べても仕方ない気がする。自分が好きなことをできていれば、他人より劣っていてもいい。

楽しいことはいっぱいあった、友達と遊ぶことは少なかったけれど、それでもないわけではなかったし、一人でやっても楽しいことがいっぱいあったから、それは本当によかった。だれかと一緒にいても話が合わなかったりしてちょっとさみしくなったりする。誰も僕の読んだ本の話を知らなかったりして。

無理に他人に合わせるよりも、自分が楽しいと思うことをやってきたから、たぶんいろいろ取りこぼしたものもあるんだろうと思うけれど、無理に合わせなくてよかったなとも思っている。楽しめるものがなくなった今から、合わせられるところは合わせればいいと思っている。

楽しいと思う気持ちがなくなってきたことが、必ずしも不幸ではないと思えるのは、仏教の影響かもしれない。仏教の考えは、知っておいてよかった。仏陀さん、法を説いていただきありがとうございますの気持ちだ。

最悪の状況でも、死んでいないなら、まだすべてが失われたわけではない。何もかもが失われたとしてもまだ未来だけは残っている。好きな女の子に好きだと言って人間関係が滅茶苦茶になっても、最後は死ぬんだから大丈夫だよ。

蹴りたい背中について、20年越しの書評

偉大な小説とは何か、という質問には、いくつかの回答が可能だと僕は考えるが、そのうちのひとつの回答として、「要約できないものを要約しないままに表現する」、「要約するという行為からはみでてしまうものをとらえる」というものがある、と思っている。
蹴りたい背中」というのは、この意味では、まさしく偉大な小説である。
少なくとも、僕がはじめて読んでから、もう一度読んで、書評を書いてみようと思うほどには、何かしらの波紋を僕の心の中に投げかけた小説である。

この作品は、僕が見る限り、要約できないものを書いた小説だと思っているので、もちろん書評を書いてみたところで、そこから抜け出てしまうもの、回収しきれないものは当然に存在する。
それでもあえて、少し書いてみたい。

主人公の女性の置かれている状況は、クラスで孤立していて、「他のグループが本当にまれに面白いことを言ったときに笑いをこらえないといけない」レベル。
完全に外野という感じだ。
同じクラスにも、にな川という男の子がいて、彼も孤立している。
ただ、この孤独に対しての向き合い方が全然違っていて、主人公は、みんなと仲良くなりたい気持ちもあるが、みんなに合わせることはどうしてもできないという形に対して、そもそも、にな川はみんなに合わせようとも思っていない(おそらくそれは佐々木オリビアというモデルの熱烈なファンだから)点が違う。

このクラス内での一種の浮遊状態に対する描写も上手だと思うが、この小説の面白いところは、主人公の性欲が書かれているところだと思う。
これは、たぶん、性欲といっていいと思うのだが、断言してもいいかは、正直、若干、自信がない。
あえて以下は断定調で書くが、実際に読んだ感想、感触は、人によって異なる可能性は十分ある。
サディズムに近い性欲を、にな川に対して、主人公は持っている。
これは恋や愛ではない、と主人公は独白でも、友人の絹代(この人はいい人だなあと思う、賛美両論あるだろうが。でも善性はあるだろう)に対しても言っている。
これを単なる虚勢、ポーズ、強がりと見る人もいるだろうが、僕はこれは純粋に受け取っていいと思っている。
性欲は感じるが、恋心は感じない異性というのは、(人によるだろうが)存在するでしょう。
にな川を傷つけたい、という気持ち。
その気持ちが、憎しみや復讐心でなく、性欲から出ていることを書いた小説だ、と解釈している。


陸上部の顧問の先生に関する描写も好き。
先生は先輩たちに丸め込まれている、と主人公は描写するし、一回は飼いならされてるだけ、と先輩に直接言ってしまう。
でも先輩は、あんたよりもわたしたちの方が先生のこと好きだ、と言い返す。
これは先輩の虚勢だ、と主人公は言う。
最初に読んだときも思ったが、ここは僕も主人公に賛成だ。(いや、先輩の言うことが正しい、という人もいるだろう)
そのあと、先生から、がんばって練習しているからお前は伸びる、と言われてうれしくて泣きそうになる主人公もいい。
その直後の文章がいいので、引用する。

「認めてほしい。許してほしい。櫛にからまった髪の毛を一本一本取り除くように、私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。
 人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに。」

やはり要約すると陳腐になってしまう。
きっとこれは、読む人によっていろいろ感じ方が違うと思うので(これも優れた小説の特徴のひとつかもしれない)、短い話でもあるし、興味があったら読んでみてほしい。
それから、この小説の最後に、にな川が、佐々木オリビアのライブに行ったが、今までで一番遠くに感じた、と言っていることは注目されるべきだろうと思っている。にな川の「推し方」では、現実と接触した時に、断絶を感じてしまったのだろう。


補足1
偉大な小説の定義のひとつとして、未来を予言する、ということがあると思うが(ウェルベックの闘争領域の拡大はそれにあたると思っている)、「推し活」という言葉が流行るずっと前にこの小説を書いた綿谷りさのすごさと僕は感じてしまう。

補足2
この小説は、容姿に優れた人が書けるようなものじゃない(のに書けているのはすごい)というコメントをどこかで見た。だれだったろうか。角田光代か、林真理子だったと思うが、検索をかけても出てこない。
これは今の時代にはあまりピンとこないかもしれないが、本当にこの時代は、作者の綿谷りさが美人だというのは、一種の共通認識として存在していたと思う。
あまり作家の容姿など取り上げられることはないかもしれないが、そしてそれは不幸なことだったかもしれないが、一種の「スター性」を付与されてしまった作家だと思う。
もちろん、それは当時最年少で芥川賞を受賞したこととも関係したかもしれない。「きことわ」の作者が美人、という話もその後出たが、綿谷りさのスター性は、やはり突出していたと思う。

ブログの「About」や小さな記事について

About

https://didhe.github.io/hatfree/about.html

 

このブログは、主に、あるマイケルによって維持されている。(役者注:綴りからすると男性名であり、ブログ主は男性のようだ)無理のない努力によっておそらく苗字を明らかにできるだろうが、もはやそれについてあまり心配していない。公然の秘密(意味としては自由に利用できる情報だが広くは知られていない)と公然の秘密(意味としては広く知られている情報だが広くは受け入れられていない)の間のどこかで、探したいとおもうかもしれない誰かに、このことをずっと考えてきたが、魔女の1×1だ。もしこのブログを理由として人が私を見つけだしたいなら、それなりにめんどうだろうが、他の人が私を見つけるのとそこまでめんどうすぎるということもないだろう、とりあえずそう思う。

 

このブログはHakyll上で動作する、部分的には、Hakyllが素晴らしいからだが、ほとんどはいろいろいじるのが楽しいからだ。いずれにせよ、たとえばBloggerや Edublogs Wordpress blogよりもずっともっと構造化できるし、その構造化はしばしば、わたしにとっては不快な障害というよりは面白い問題だ。

 

これは静的なブログで、その不幸な帰結はコメント機能が元々ないことだ。しかし、ブログという媒体にとってコメントというのはとても重要なので、外部サポートを搭載して向上させたが、コメントは(おそらく不幸にも)Disqusによって提供されている。おそらく、もちろんより効果的に統合されうるだろう。

 

もし他の批判的に重要な側面が失われているとするなら、実装したいと思う。わたしは自分がブログにとって重要だと思った側面を実装したにすぎない。

 

 

 

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-11-03-another-perspective-.html

別の視点?

2013年11月3日投稿

 

この画像は少し大きい。  https://www.smbc-comics.com/?id=3164

 

台本

 

 「永遠に生きる呪いをお前にかけてやる」「それはどんな呪いですか?」

 

 「社会は変化し、変化し、変化し、そしてお前はいつかどこにも属すことができなくなる」「あぁ、でも、でもどんな時代でも、一番年取った人として有名になるんじゃ」

 

 「お前の不死はおまえを死すべき同胞から孤立させるだろう」「あぁ、その人たちよりも優れた存在になるわけだからね」

 

「お前の愛した人が死ぬのも見ることになる」「克服する。永遠がある」

 

 「好きな映画が終わりなくリメイクされるのを見なくてはいけないかもしれない」「慈悲を! 慈悲を!」

 

(これはちょっと真面目なだけだ)

 

 

"He who uses elbows is not helped."

Posted on 31 October 2013 by en

タイトルのみのエントリ。

肘を使うものは助けられない。

(役者注:意味はよくわからない)

 

 

 

吾輩は猫ではない

2013年9月12日投稿

 

名前はある。どこで生まれたかだいたい見当はついている。

 

(注意。これは、吾輩は猫である (I am a Cat)[1]への言及である。このブログタイトルは The Cat in the Hatに言及している。たぶんわかりにくいよね)

 

(訳者注:最初のエントリ。原文リンクを確認してもらえばわかるが、吾輩は猫である、は日本語原文で書いてある。まさか、多少は読めていたのか? 単なるコピーアンドペーストかもしれないが、引用元の文献を原語で表記するのは、ある程度の学術訓練を受けたか論文のようなものを読んだことがある経験があるのではないか)

 

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/I_Am_a_Cat

原文ではリンクが貼ってある。

だけど何人かは反対の側にいる

だけど何人かは反対の側にいる

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2013-12-17-but-some-of-them-are-on-opposite-sides.html

 

2013年12月17日投稿

 

なぜ善が報いられるべきであり、なぜ悪が罰を受けるべきなのかを、そしてなぜそれが逆ではないのか(あるいは、なぜ逆であるのか)[1]についておそらく考えることができるようになる前には、最初に善と悪が何であるかを考えるべきだし、とにかくそれらが何であるのか、ものごとが善い、悪いというのはどういう意味なのか考えるべきだ。もしわたしたちが、人間の本性というものが、善は報われるべきであり、悪が罰を受けるべきだと信じさせるのだということを受け入れるのなら、それは以下の運用上の定義を許可する。善とは報われるべきもので、悪とは罰を受けるべきものである。

 

このような定義はとても単純化したものであり、簡単になぜ人が善くあるべきかについて説明する(良い報いがあるから)し、なぜ人が悪いことをしてはいけないのか説明する(罰があるから)が、富める者や力のあるもの栄光をたたえ(報われている、食料を得てきているはずだ)、犠牲者を非難する(罰をうけているから、悪いやつに違いない)。

 

なぜ罰を受けてさえ倫理的にふるまうべきなのかの説明は、ならば、おそらくほとんど満足のいくものにはならないだろう。ふるまうべきないなら倫理は善ではない。罰を受けるときでさえそれをしなくてはならないような固有の性質をもつから倫理的にふるまうべきではない。このような考えはまったく無意味だ。罰に報酬があるとでも仮定しない限りは。しかし、これは仮定された嘘と同じくらい間違っている。

 

このモデルにおける複雑化は、みっつの点で立ち現れてくる。最初に、なぜ人間の本性はそのようであるのかという点。第二に、公道に対する結果が報いあるいは罰あるいは他のものあるいはなんでもないものとして知覚されるかどうかという点。三つ目は罰よりも報酬を大事に思う点。                                                                                    

 

最初の点は人類のバイアスによってもっとも簡単に説明できる。これは私たちが観察したことだ、なぜならもしそうでないなら、観察することができないからだ。このようであるべきかそうでないべきかをわたしたちが定義しないなら、十分な人間がまわりにあまりいないことになるだろう、一人で充分な時間を確保して倫理と道徳性の源泉について考えさせればよい。そうであるいいわけはあまり存在しない。このように考える人もいるようだが、このように考える人は考えるのを止める確かな傾向があるようだし、ちがったように考えたり、そのようにある間違いに陥らないようになっている。

 

第二の点と第三の点はもっと面白くて、お互いに幾分かかわりあっている。

 

報酬と罰の任意のペアを比べることが実際に可能かどうかを言うのは難しいが、確かに私たちは二つの極端を仮定する。究極の報酬を生む最大の報酬が同時に起こる可能性のあるすべての罰の総数と比べられるとき、そして究極の罰を生む最大の罰が同時に起こる可能性のあるすべての報酬の総数と比べられるとき(このふたつは、もちろん、同時には不可能だが、繰り返すことのできないすべての組み合わせを含む組み合わせは、繰り返すだろうか?)。これは、絶対善と絶対悪の親しみある概念を、最大の顛末を結果するすべての行動という観点から、提供する。

 

しかしながら、善と悪をその結果という観点から定義することにおいて、わたしたちは未来性、そしてしたがって不確定性という要素を付け加えるが、これは行動の結果を判断するという問題を呼び起こす。ある程度は、私たちは似たような行動の後に過去起こったことに基づいた結果への期待を形成するのは自然なことだし、もし他の哺乳類の心理学がなんらかの指針になるのなら、機体が外れたときのみしばしば一般化と差別化が起こる。

 

そして、依然私たちは、その結果が望ましい(善い)か望ましくない(悪い)を評価しなくてはならないし、結果が完全に不合理あるいは最低でも部分的に識別不可能なことは完全にありそうなことだ――その理由は情報の不足のためか情報が矛盾しているためなのだが。さらに、報酬と罰の両方がありえそうな結果であるなら、それぞれの価値と可能性はおたがいに相殺しあうし、結果に割り当てられたそれぞれの価値と可能性にわりあてられた相殺分は実質的に違う人間の状況評価に寄与する加えて、不可知であり予見不可能な要素があり、それは理解可能だろうが、割合を占めるのは難しい。

 

しかしながら、未来は、我々の視点からすると、決定されているようではないから、行動の是非を問うのは、決定的な時間の終わりがきて、すべての可能な結果が明らかになるまで不可能であり、因果法則を考慮に入れると、動作主が動作したあとに得られた行動についての情報はその行動に影響を及ぼさないので、その行動を起こした時点での動作主にとって利用可能なすべての情報に照らしてその行動が善か悪かを判別することのみが役立つことである。

 

これらすべて、わたしたちをヨブ記のヨブへと呼び戻す。ヨブは悪い結果を受けたが、ヨブが得た情報で、ヨブは自分が正しいという結論を得る。ヨブは自分が罰にえらばれたかを知ることはできないなぜなら、ヨブはもっとも正しいものだからだ。

 

しかしながら、予想されたことが実際に起こるという保証はまったくない。そして神の持つ情報はヨブの持つ情報と同じではない。それゆえ、ヨブや他の人間が持っている善と悪についての信念を、神が原因であるとすることはできない。実に、全能の存在にとって、結果による道徳性はあまり意味深いものではない。神は何かに理由を必要としない。それはそのようにあるだけだ。そしてちょうど同様に、もし神が何にも理由を必要としないなら、神がだれかの行動にどのように反応するかを心配するのは無意味なことだ。神はいずれにせよ反応することができるし、神の行動を予想することはできないのだから。人はかわりに、理由をまさに必要として、限界の存在のすることに注意を払うべきであろう――つまり、たとえば世界のように。

 

[1] 役者注:筆者のこういう書き方が僕はとても好きだ。ここで筆者は、世界が善は報われず悪が報われる可能性について言及している。話の前提は、なぜ勧善懲悪であるべきなのかという話だが、そうじゃない可能性にも言及する「しつこさ」がたまらなく好きである。

そのやり方じゃない

https://didhe.github.io/hatfree/posts/2014-01-09-this-is-not-the-way.html

上記URLの翻訳

 

 

そのやり方じゃない

2014年1月9日投稿

 

自分自身について知ることは、その人の自己についての知識を持つことである。

 

この説明は少し、それ自身でそれ自身を説明しているが、この「自分自身」についてこじ開けて考えてみることは重要だと思う。自己とは何か? 段階的に接近してみよう。ある人にとっての自己とは、その人が何者かということである。その人の自己とはその人の本質的な性質である。その人の自己とは、おそらく、周りの環境の特殊性を除いたその人の潜在能力と価値観の性質により成り立つ。

 

ならば、自己知識とは、「自己」についての知識である。自分に何ができて何ができないかについての知識、自分がなにをしたくて何をしたくないかについての知識、何をするだろうか何をしないだろうかについての知識。[1]

 

これは有用な未来予見の道具だ。わたしはこの文脈において価値(下記も参照)について議論することを拒否するが、自己知識は有用性を持つし、自己がうまく成し遂げることができることが何かを判断することを助けるし、効率性を高め、適用できる場所で分業を強化し、おそらく幸福か何かを推進する、望ましい目標のように見えるなら。一般的に、自己知識は人に、もしより多く達成することをしないなら、少なくとも、より少なく達成することを失敗させるように見える。

 

まさに少なくとも、おのれの欠点に自覚的である人は、そちらのほうにはまりこむ代わりに、よけたり回避したりする方法を見つけるようになるはずだ。

 

わたしは、自分の原則的弱点を、意味の否定として捉えているようだ。自分なりの観点からすると、これはかなり複雑な問題だ――しかし、自分が偏った見方をしている可能性はある、もちろん、原則的な属性と自己奉仕する偏った見方の両方はここで有効化されているとして――なぜならばわたしはおそらくわずかに相反する信念を維持しているからだ。意味があるべきであるが、同時に意味のある何物も認識できない、自分には意味が存在する原因を何も認識しないからだ。物事のこの状態は、不条理の一種として特徴づけられるかもしれない。前に書いたように、わたしは存在が観測されるときまたその時に限り、存在が存在を生むなら存在はありえるために、そこに存在の意味はないと信じている。

 

意味を認識することがないということは意味と目的と方向性とやる気がないという感覚をもたらすけれども、自分がやることのほとんどを、わたしはただ自分がやるだけのこととして考えているし、変化が特に意味のあることだとも思えないなら自分が何かをして変化させることもない。

 

このような意味欠乏症に対してなんとかしようとしていると言いたいが、このことに考えることがそんなに努力のいることなのかどうか、望ましいことなのかどうか判別するのはちょっと難しいと思ってもいる。「何も意味がない」主義は確かにやる気を大幅にくじくし、慢性的な先延ばし癖の主な原因であろう一方で、実際に意味を見つけようとすることは、実際に意味の源泉がないことをあらためてわかったりする結果になる傾向がり、やる気を出す助けにならない。

 

 もし、わたしが、人間によって作られた物語の中の登場人物で、私の長所がだいたい「心配ごとから自由で、本当にやらなければならないことに集中できる」的な何かであるなら、しかしわたしは自分がそうだとは思わないのだけどそうであるとして、わたしの物語を語る人は、違う文学伝統に寄与することになりそうだ、わたしはそんなにやらなくてはならないと思えることに出会ったことがない。

 

かわりに、わたしの長所は期待していることに気づくことだと主張したい。わたしの主張は検証しにくいが、確かに確証バイアスの影響下にあるだろう。他人とくらべて、わたしは自分がたまたましたいこと、たまたまするだろうこと、そしてその両者がどんな風に曲がった方向にいくかの、よりはっきりした自覚があると思うし――ある程度、平均以上の自己知識があると主張したいと思う。

 

思うのだが、わたしがこの種の自己知識を持っているのは、自分がプログラミングをすこししたことがあり、数学の照明をいくぶん書いたことがあって、自分には下手なことがたくさんある一方で、これらは一般的にだいたい上手にできた。他人は、出来事が予見できず予測不可能なときに混乱するのをわたしは知っているが、これは私が経験を思い出す問題ではなくて、もしわたしが知っているとするなら、それを修正してきた、もしかしたら過剰に修正してきたからだ。

 

しかし、短所と長所について主張することさえ、それらがあまり自分を描写しているとは感じない。広く、長所と短所はしばしば自分が披露する特徴であり、全体的におそらく自分を作るのに大事な特徴だろうが、それによってわたしの真の姿をつかむことはできない。おそらくこのことについて考えると、議論すると、自分の短所と長所は、自分として認められる自分の概念を必要とするところが難しいが、全体的に心の中にもたらすことができる。つまり、自分についてすべてを知ることさえ十分ではなく、任意の外部環境にどう反応するかを予測することができることさえ十分ではない。このようなモデルが完全な自己知識のタイプであろう一方で、それは役に立つ自己概念とはいえない、なぜなら、それはわたしたちが合理化するにはあまりにも複雑すぎるので、わたしたちは自分の特徴を考えるときにこの自己概念という仮定を単純化しなくてはならないからだ。

 

しかしながら、自己概念を単純化することは難しい、なぜならば、自分がどちらの属性にあるかによって見る側と見られる側には非対称性があるからだ。見られる側としては、自分の行動を固有の要素というよりも状況的要因によるものとしがちである。そのため、自分を一般化することをあまりわたしたちはしないが、自分の短所と長所をはっきりさせることは一般化をともなうため、なぜならわたしたちの行動の特別に特殊な状況的側面はあまりのも状況依存で特殊なためにわたしたちについておおざっぱにしか全体的に意味のある情報を提供できないので――そしておおざっぱなまとまりは単純化を必要とするし、状況に応じた善悪の判断を捨てないといけなくなるので、わたしたちはしたいとは思わないのだ。

 

わたしは、少なくとも、自分について一般化をしたいとは思わない。ふたつの特徴をわたしはもつわけではなくて、実際に、決定的であるかもしれないしないかもしれない相互作用の複雑なシステムなのだ。自分自身であるすべてを失いことなしに、いくつかの概略をどのように書きつけるべきかわたしはわからないでいる。単純なことは美しいが、悪魔は細部に宿り、ファウストの契約[2]とおなじくらい多い提案を美しさはしてくれない。

 

[1] “mightn’t”という短縮形はここで使われているほかの二つの短縮形よりも全然使われることがないだけだろうか、それともそれ自身あまり使われない“might not”が違う効果を持つ? “I might not be able to”はちゃんとよくある表現に見えるが、自分は”I mightn’t be able to”という表現を今まで聞いたことがない。

[2] ……暗喩を混ぜるのは自分の長所のひとつではない、ということも記録しておこう。