思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 週末のご詠歌

気がつくと、もう弥生の三月に入りました。
昔の人が、年が明けてからの月日の経つのが速いことを、よく「一月は往(い)ぬ」、「二月は逃げる」などと言ってましたが、今年ほどそのことを実感したことはありません。

というのも、1月の下旬に私の新型コロナ陽性から、家族五人中の四人に感染。
結局、父親はその後に重い誤嚥性肺炎になり、3~4日の入院で急逝してしまいました。それが建国記念の日のことで、その後葬儀関係が落ち着くと、今度は相続関係の手続きに忙殺される日々が続いています。

我が家は、近隣の多くがそうなのですが、真言宗の檀家なので、49日の忌中の間は毎週土曜日の夕方に「逮夜」といって、家族3人に従兄夫婦の計5人で西国三十三ヵ所のご詠歌を唱えています。

普通は喪主が先達となって、鉦をたたきながら唱えるのが普通なのですが、自信がないのでYouTubeからダウンロードした、本物の僧侶の先達に合わせてやっていますが、葬儀社の営業に聞くと、CDを買いに来る人もあるとか。

 

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7pkd84WT4LU

何回も唱えているうちに、旋律(節回し?)は覚えるはずなのですが、長年の間、楽譜通りに歌う癖がついてしまっているので、それが却って難しかったりします。

それと、花山法皇の読まれたとかいう和歌にも、見たことのない語彙があったりすると、これも(元)職業病なのか、意味を考えたりするために、今度は旋律の方がおろそかになったり・・・・。

(こういう本を葬儀社から無料で数冊レンタルしています(^_^))

同じ県内でも家内の実家のあたりは、真言宗は少なく、浄土真宗が圧倒的に多いのですが、こちらは49日の忌中というのはないそうで、「亡くなったら即、成仏」なのだそうです。
息子が出た大学が、元々この浄土真宗の学校で、校歌を初め真宗宗歌」「恩徳賛」など素晴らしい歌があります。(以前に本ブログでとりあげています)

♪ 「真宗宗歌」 - 思い出の中のあの歌この曲 (hatenadiary.com)

また、家内の身内では3人の葬儀・法要などを経験しており、檀那寺の住職とも世間話をする機会がよくありました。

一方、我が家の真言宗の檀那寺の方は、近隣では古刹として有名ですが、正直、なにか縁遠いような気がしてなりません。宗派の特色の違いからなのでしょうか、それとも・・・・。

 

そもそもが、高野山にも伊勢神宮にも行ったことがないという無信心な人間ですが、一応、いい年をしてと笑われない程度にはしなくていけないかなと思って、由来も意味もよくわかっていないご詠歌というものを唱えております。

♪ 「天長節」

天長節の歌 12月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲 - YouTube

黒川真頼(まより)作歌・奥好義(おく よしいさ)作曲

 

今日の吉き日は 大君の
うまれたまひし 吉き日なり

 

今日の吉き日は みひかりの
さし出たまひし 吉き日なり

 

ひかり遍(あまね)き 君が代
いはへ諸人 もろともに

 

めぐみ遍き君が代
いはへ諸人 もろともに

大日本帝国唱歌を歌い継ごう④」    https://nihon-omokage.com/?p=1201

 

本日2月23日は天皇誕生日ということで、3連休の方も多いことでしょう。
我々昭和中期(私は花の30年組ですが(^_^))生まれの者には、天皇誕生日といえば、ゴールデンウィークの初め、4月29日というのが一番長くて記憶に残っています。
続いて平成の頃は12月23日でした。(失礼ながら現役の頃は冬休み前で、なんか中途半端な感じが・・・・)

 

戦前はこの日を天長節四大節の一つ、他には「四方拝・1月1日」、「紀元節2月11日、「明治節・11月3日」)と称しており、当日学校はお休みではなく、児童生徒は登校して式典に参加していました。

戦後に廃止されていますので、当然実際に唄ったことはないのですが、小説に描かれた昔の学校教育の様子をあれこれと調べては、ブログにあげたり、自費出版(よかったらアマゾンで「藤原重彦」と検索してみてください)したりしているものですから、関心はもっていました。

上は明治20年代後半、元旦(「四方拝」)で勅語奉読と祝歌を合唱する様子(「ジャパンアーカイブズ」より)
  また、クラシック系の音楽、中でも日本歌曲も好きで、古いものを中心によくYouTubeなどで聴いています。

 

さて、この曲の作曲者奥好義(おく よしいさ)氏ですが、京都で長らく続いた雅楽の家柄で、明治以降は宮内省の楽部で勤められたそうです。日清戦争の頃に作られた「婦人従軍歌」も有名ですね。

以前に投稿した「一月一日」の作曲者である上真行(うえ さねみち)氏もお年は多少違いますが、やはり雅楽の出でした。どちらの歌にも優美で格調高い雰囲気が漂っているのは、そうしたご経歴に由来するものなのでしょうね。

 

以下は余談ですが、天皇誕生日明治天皇(11月3日、明治節文化の日)、昭和天皇(4月29日、天長節みどりの日→昭和の日)となっているのに、大正天皇(8月31日)だけは、戦前に「大正節」があったのを聞いたことがありません。なぜなのでしょうか?

この疑問については、以下のような記述を見つけましたが、失礼ながら文末に「~そうです。」とあるようにあくまでも一つの説と見てよいでしょう。

大正天皇の誕生日は8月31日です。 現在祝日としては定められておらず、平日となっています。 大正年間は8月31日が天長節でしたが、暑さが厳しい時期に式典を行うことが難しく、10月31日が「天長節祝日」として祝日が設けられたそうです。

大正9年10月31日/大磯町ホームページ

 

【参考】

島崎藤村『破戒』から「天長節」の場面
   https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2022/08/31/151124

田山花袋田舎教師』から「天長節」の場面

 https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/05/07/114653

♪ 「たき火」

www.youtube.com

作詞:巽聖歌 作曲:渡辺茂  昭和16年(1941)

かきねの かきねの まがりかど
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている


さざんか さざんか さいたみち
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい


こがらし こがらし さむいみち
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

巽聖歌(たつみせいか)  (明治38~昭和48年・1905―1973)

童謡詩人、歌人岩手県生まれ。本名野村七蔵。北原白秋に師事して『赤い鳥』に詩、童謡を発表。「水口」は白秋の絶賛を得た。早くから与田凖一(よだじゅんいち)と親交を結び、上京後は、凖一、佐藤義美(よしみ)らと、戦前戦後にかけて童謡の一時代をつくる。戦後は児童詩教育にも力を注ぎ、新美南吉(にいみなんきち)の作品を世に広めることにも努めた。童謡「たきび」は有名で、『巽聖歌作品集』2巻がある。『多磨(たま)』に拠(よ)る歌人でもあった。 日本大百科全書(ニッポニカ) 

  渡辺茂(わたなべ しげる大正元年~平成14年・1912 - 2002)は、日本の童謡の作曲家、教育者。「たきび」「ふしぎなポケット」の作曲で知られる

12月に入っても、25度以上の夏日を観測したところがあったというニュースを聴いたのは十日ほど前だったように思いますが、月の半ば以降はこの時期らしい寒さが続く毎日です。
  介護ベッドで横になっている老母に、昔の童謡・唱歌をダウンロードして聴かせている中に、この歌がありました。
  そいういえば、小学校の低学年の頃、家の隣の田んぼで大人たちが落ち葉や枯れ枝を燃やしているところで、しばらく暖をとってから登校したものでした。
  その頃から、60年ほどが過ぎました。そこにいた上級生の中には、故人や消息不明の人も数名あります。
  冬から春先にかけての風のない天気の良い日には、畦の枯れ草を燃やす農家の人たち(自分もその一人ですが)はよく見かけますが、さすがにたき火にあたって暖を取る様子を見かけることはなくなりました。
  
  この歌は調べてみると、東京の住宅地でのたき火を詠んだものだそうで、法令で規制されていなくても、現代では隣近所から苦情が殺到することでしょう。(その前に消防署が飛んでくるでしょうが・・・・笑(^0^)

 

歌ができた背景は次のように説明されています。

  

【歌詞の誕生は散歩中】
 <「ケヤキ屋敷」はサザンカと茶の木の生け垣だった> 

 ※上の写真と違って当時は屋敷もまばらだったのでしょうか・・・・。

 
 東京都中野区上高田三丁目に鈴木宅があります。千五百坪という広大な敷地に、ケヤキやカシ、ムクなどの屋敷林があり、中でも樹齢三百年を超す六本の大ケヤキが目立つ。戦前からケヤキ屋敷と呼ばれた。
 たくさんの木々が落とす枯れ葉は、かつては畑の肥料として取り置き、一部は焚火にした。それを、聖歌が散歩の途中で見て「たきび」になった。昭和十六年(1941年)三十六歳の時の作品です。
 聖歌は昭和初期、鈴木宅から歩いて十分ほどの、現在の上高田四丁目に住み、この屋敷のわきの農道をよく散歩したそうです。
 (中略)
 現在、この「ケヤキ屋敷」は、生け垣に代わって、一辺の長さが百メートル余りもある竹を組んだ垣根に囲まれている(吉田悦男著『うたの里を行く』(舵社)を参考にしました)。
     (池田小百合 なっとく童謡・唱歌    https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00sentyu.htm

なお、この歌は戦時中の作だったために、たき火が攻撃目標になることや落ち葉も貴重な資源であることなどから軍部からのクレームを受け、早く放送が打ち切りになってしまったそうですが、戦後の1949年に同じくNHKのラジオ番組『うたのおばさん』で松田トシ安西愛子が歌ったことで全国に広まったということです。

 

贔屓の落語家のひとり、桂雀太さんがいつか自分たちで「上方落語 たき火部」というのをつくってキャンプの中での「たき火」の楽しさを語っていたのを思い出しました。
非日常の雰囲気の中、色々と面白い話題が次々に湧いてくるそうです。

ホントにキャンプかバーベキューでもなければ、直に燃える火を見るなどということもなくなってしまいましたね。

♪ 『運命』(ベートーヴェン)―芸術鑑賞会で聴いたN響―

【N響】ベートーヴェン交響曲第5番 運命 Beethoven Symphony No 5 - YouTube

 

 先日、ツイッター(今はXとか言うらしい)で偶々東京混声合唱の投稿を見ることがありました。地方の小学校でのいわゆる芸術鑑賞会でした。本邦最高峰の合唱団の演奏を小学生が聴いているということに驚くと同時に、50年あまり前の高校時代(たぶん2年生の秋)にNHK交響楽団(といっても小編成で20数人だったでしょうか)の演奏で「運命」を聴いたことが思い出されました。

 在学していた高校ではなく、近くの中学校の行事でしたが、吹奏楽部顧問のN先生の配慮だったのか、部員の1・2年生20名ほどが、秋の日の午後5・6時限を公欠扱いでその芸術鑑賞会に参加することができました。

 団体で正門を出て行くときに、校舎の二階からうらやましそうに眺めていた同級生の姿を覚えています。

 

 田舎の高校生でしたが、N響がわが国で最高のオーケストラであることは知っていました。生のオーケストラは中学3年のときに、地元の小学校にやってきた朝比奈隆率いる大阪フィルで「新世界」を聴いたことがありましたので、2回目の生オケということになります。(朝比奈さんは、冷房のない小学校の体育館で、演奏中にあまりの暑さに、右手のハンカチで汗を拭き、左手のタクトで指揮していたのが忘れられません)
 小編成(下の写真よりは多くて20数名だったでしょうか)ですから、指揮者はいなくて、バイオリンのトップの年配の奏者が合図して「運命」などを演奏されていました。
 いかんせん、迫力には欠けるものの、普段聴くことのない生の弦の音は新鮮に響きました。

今も芸術鑑賞会に出向かれているようです(NHKプロモーションのホームページより)

 現職の頃は、毎年秋に芸術鑑賞会があり、50代の頃は数年間にわたりその担当をしていました。音楽・古典芸能・演劇というサイクルでやっていましたが、音楽の年にクラシックをやることは年々少なくなり、クラシックの年でも予算的に呼べるのは、そういう鑑賞会を主な仕事にしているような、あまり知名度の高くない(?)小編成のオケがほとんどで、文化庁あたりの補助事業でもない限り、予算の面で一流のオケや合唱団を呼ぶことは不可能なのが現実です。
 そういう意味で、半世紀も前に貴重な機会を提供して下さった当時の顧問の先生には感謝しています。

 

 これは余談ですが、そのN先生(英語科の先生で50代後半だったでしょうか)に生徒指揮をしていた私が職員室で「ティンパニを買ってほしい」と直訴(笑)したときに、「藤原君、そのティンパニっていうのは何や?」と言われたのには参りました。

 

 10数年前のことでしたが、この芸術鑑賞会への県の補助が削減されるということがありました。その時はPTAからの補助でなんとか凌いだと思いますが、おそらく今もなかなか予算的には厳しいのではないでしょうか。

 色々と苦心してそれなりの演者を招いても、価値観の多様化、また子ども達を取り巻くメディア環境の変化などもあってか、それほどの興味関心を呼び起こせないというのが、残念ながら現状のようです。

 ちょっと見たいな、聴きたいなと思ったら、YouTubeなどで家庭でも簡単に色んなジャンルの音楽が視聴できるというような時代になり、私のような高齢者もその恩恵に預かるような時代が来るなどと、昭和の時代に誰が想像したでしょうか。

 

♪「牧場の朝」

www.youtube.com

作曲:舟橋栄吉 

作詞:杉村楚人冠  

初出昭和7年(1932)12月「新訂尋常小学唱歌(四)」


ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から 勇ましく
鐘が鳴る鳴る かんかんと

 


もう起き出した小舎小舎の
あたりに高い人の声
霧に包まれ あちこちに
動く羊の幾群の
鈴が鳴る鳴る りんりんと

 


今さし昇る日の影に
夢からさめた森や山
あかい光に染められた
遠い野末に 牧童の
笛が鳴る鳴る ぴいぴいと

牧場の朝(まきばのあさ)は、日本文部省唱歌の一つ。福島県岩瀬郡鏡石町にある牧場岩瀬牧場がモデルとなったとされる作詞者は定説として杉村楚人冠、作曲は船橋栄吉。初出は1932年12月「新訂尋常小学唱歌(四)」。

NHKの『みんなのうた』でも紹介された。

鏡石町ではこの楽曲を町歌に相当する「町のシンボルソング」と定めている

この歌の歌碑は兵庫県明石市善楽寺戒光院にある(西新町駅より徒歩10分)。(Wikipedia

 先日、所属する混声合唱団の4年ぶりの定期演奏会が無事に終わり、今後の練習曲目を見た中に、この「牧場の朝」がありました。
 戦前・戦後を通じて小学校の音楽教科書(4年生)に載り続けた有名な歌ですから、もちろん知ってはいるたのですが、それよりも毎朝食べているヨーグルトの商品名が同じなので、心の中で苦笑したようなことです。

 いつかもこのブログの中で書きましたが、小学4年生当時の私は、歌は好きなものの、人前で歌わなければいけない音楽のテストとなると、口から心臓が飛び出しそうになるぐらいドキドキするほうで、歌唱には全く自信がありませんでした。
 ただ、歌詞の中の表現にはこだわる(?)ほう(後に国語科教員となったことと関係があるのでしょうか・(^0^))で、一番の「うっすりと」とか「黒い底から 勇ましく」(「黒い底」って?)などの言い回しが、妙にその後も長らく心に残り続けたのでした。

 

 最近、ネットで検索していると、作曲者の舟橋栄吉氏は兵庫県明石市の出身。東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)では声楽科の主任教授として、あの藤山一郎さんなどの恩師に当たる人であったとか。 

明石市善楽寺戒光院にある歌碑
https://meikyokuka.exblog.jp/19381589/

 また、長らく「作詞者不詳」(昔の文部省唱歌には多かった)とされてきたものが、実はジャーナリストの杉村楚人冠によるものだということが定説となっていることも初めて知りました。

杉村楚人冠(明治5~昭和20年・1872~1945)
Wikipediaより

 (高等女学校の教科書(「女子新読本 巻四」至文堂、大正15年)などに掲載された杉村楚人冠の紀行文「牧場の暁」の内容が、この曲の歌詞に似ていることなどから・・・)

 

 

 昭和7年(1932)に当時の尋常小学校4年の音楽教科書に採られてから、90年も歌われ続けているという名曲なんですね。

「尋常小学唱歌 第四学年用」より
広島大学図書館教科書画像データベース

 今後練習で歌うのは混声四部に編曲されており、バスの声部ではメロディーは期待できませんが、今から楽しみにしています。

 

 なお、福島県の岩瀬牧場は観光地としても有名なようで、なんと「楚人冠ヨーグルト」なるものも販売しているようです。

https://liter6.com/4167

岩瀬牧場

 

♪「それ行けカープ 〜若き鯉たち〜」(広島カープ応援歌)

 https://www.youtube.com/watch?v=faUZuVX8bNc

歌:塩見大二郎

有馬三恵子作詞、宮崎尚志作曲
「それ行けカープ 〜若き鯉たち〜」

 

カ-プ カ-プ カ-プ
広島 広島カ-プ

 

空を泳げと 天もまた胸を開く
今日のこの時を確かに戦い
はるかに高く はるかに高く
栄光の旗を 立てよ

カ-プ カ-プ カ-プ
広島 広島カ-プ

 

勝ちにいくのが 選ばれた者の運命
一投一打が 勝負のすべて
闘志をつくし 闘志をつくし
今ここで 花と咲けよ

カ-プ カ-プ カ-プ
広島 広島カ-プ

 

鍛えぬかれた 精鋭の技と力
その意気 愛して 見守るわれらの
あしたへ続く あしたへ続く
きりのない 夢であれよ

カ-プ カ-プ カ-プ
広島 広島カ-プ

 

晴れのあかつき 旨酒をくみかわそう
栄冠 手にする その日は近いぞ
優勝かけて 優勝かけて
たくましく 強く 踊れ

カ-プ カ-プ カ-プ
広島 広島カ-プ

 プロ野球では、早くも交流戦が始まりました。一昨年からファンになったオリックスバファローズはまず広島カープとの3連戦。
 京セラドームでは、7回の攻撃時にカープの応援歌が流れました。普段はセ・リーグの試合を見ることはまずないので、この曲も新鮮に感じられます。
 思い出すのは、昭和50年(1975)のカープ初優勝時のお祭り騒ぎです。

   

ついにやった! 興奮の広島 その日の街角
バンザイの大合唱 花火上げ紙吹雪舞う
やったぜ、わしらのカープ。苦節26年目のV1に振る舞い酒も意気上がる。口々に「おめでとう」「うれしいのー」(1975年10月15日)
 その瞬間、デルタ広島は異様な大歓声に包まれた。クス玉が割れる。紙吹雪が舞う。テープが飛ぶ。バンザイがとどろき、祝砲の花火、汽笛、ファンファーレ。街角のあちこちでタル酒が景気よい音をたてた。3時間18分―。千キロも隔てた中継放送に、息をこらした84万都市は、優勝の瞬間から興奮のるつぼ。被爆の廃墟から立ち直りかけたヒロシマにプロ球団が生まれて26年。市民を励まし、県民に励まされた。称して、県民球団。万年最下位から一挙に王座へ。酒場につるされた垂れ幕に「苦節26年“悲願のV1”」―。    https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/6473

 

市内東千田町にあった大学の正門
昭和50年代前半かと思われます

 

 当時、私は広島大学の2年生でした。
 その年の3月には山陽新幹線が博多まで延伸。姫路から広島までの移動時間が半分になりました。
 もともと野球好きの私は市民球場に何度も観戦に出かけましたが、今と違って巨人ファン(子どもの頃から一昨年までは一応巨人ファンでした)はレフト側の一画にひっそりと固まっているような状況でした。
 一度、外野レフトスタンドで観戦中に、王選手のホームランにうっかり(?)拍手して、近くの広島ファンから「何が、うれしいんじゃ!!」と怒鳴られたこともありましたっけ(笑)
 まあ、とにかく広島では「野球はカープ」「車はマツダというような時代だったのです。

 調べると、やはりこの応援歌も初優勝が決まる直前の8月にリリースされたとか。
以後、耳になじみが出来てしまいました。
 あれから、もう50年近くの歳月が流れ、20歳の青年も70近い爺に(笑)
今、改めて歌詞をみると、確かに時代を感じさせるところもありますが、メロディーは色あせることなく、今もマツダスタジアムで流されていることでしょう。
 

 広島在の学生時代の友人とも、もう30年余も会っていません。マツダスタジアムでの観戦のあと市内でつもり過ぎた話を肴に一献というのはいつになることやら・・・・。

♪「少年時代」(井上陽水)

www.youtube.com

 

歌:井上陽水

作詞:井上陽水
作曲:平井夏美

発売:2005-09-16 15:36:04

夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様

夢が覚め 夜の中
永い冬が 窓を閉じて
呼びかけたままで
夢はつまり 想い出のあとさき

夏まつり 宵かがり
 胸のたかなりに あわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様

目が覚めて 夢のあと
長い影が 夜にのびて
星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき

 夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
八月は夢花火 私の心は夏模様

 

 所属する混声合唱団の定期演奏会まで一月余りとなりました。
 コロナ禍で4年ぶりの定演。3年間に団員は6割ほどに減ってしまいました。
 これまでは何度か暗譜で望んだ本番でしたが、アンコール含めて全12曲をなんとか覚えようと、YouTubeに音源があるものはCDに焼いて、車でちょっと出かけるときにも、発声練習をかねて「車内自主練」を続けています。
 ところが、4年前もたしかアンコールで歌ったはずなのに、歌詞が覚えられない曲の筆頭が、この「少年時代」なのです。
 原因は、おそらく多くの人も感じているであろう、陽水さん独特の歌詞です。
 特に、「風あざみ」「宵かがり」は『日本国語大辞典』にありません。
 便利な時代で、そういうときに「Yahoo智恵袋」などを参考にすることが出来ますが、問題なのは匿名で無責任な回答も結構多いことです。
 やはり、「風あざみ」についても数件の質問がありました。

 結論から言いますと、これは陽水さんの全くの造語と言うことです。

https://www.youtube.com/watch?v=XGqqqBkp7dY

井上陽水に聞く「陽水の詩の世界」#1 @金田一秀穂「謎解き・うたことば」ラジオ深夜便      ※21分過ぎあたりから「風あざみ」に言及

 

 あと練習も4回となりました。この曲の他にも、歌詞の覚えにくいものがあります。
 6月初めの田植え前の代掻きの時にでも、トラクターのキャビンの中に冷房をきかせて練習することにしましょうか(笑)