どこにもいくな
「ん………」
眩しい。
手を飾して目蓋を開けば、朝日と少し肌寒い初秋の空気。
目の前にあったのはシーツの上にさらりと流れる胡桃色の尻尾だ。
私はベッドに横たわっていて、その端に座るアンタの垂れた尻尾を見つけた。
手を伸ばして、ひらりひらりと気まぐれにこちらに向く尾をすくい取って指に絡めると、ややあって私の指先に巻き付いて応える。きみのものだと、私にはそんなふうに感じられた。
それは虚勢だとわかっているけれど。
この世に私のものだと呼べるものなんていくらでもある。だが、私のために誂えたかのように丁度良い感触の尻尾の持ち主は最もそれに当てはまらないものだからだ。
「起きたかい」
澄ましたようでいて、妙に耳に親しみ深く残る声。ルドルフの声。
「……まだいたのか」
「おはよう、シリウス」
シャツのボタンを締めながら肩だけで振り返って、「今日は私のほうが早起きだったね」なんて人懐こく微笑むルドルフの向こうから香の高いルフナティーの匂いがする。
ストレートのルフナティー。私の好みだ。
……こういう気遣いが厭になるんだ。馴染み深い紅茶の香りも、子どもに言い聞かせるように触れてくるルドルフの指先も。
たまに早起きしたときくらい、アンタの好きなディンブラを淹れればいいだろうに。
「……今度はいつまでいないんだ?」
「一週間は帰ってこないよ。二日ほどあけたら今度はアメリカだ」
「そうか」
「心配してくれるかい」
「心配するほどアンタが弱いことがあったか。…………何を笑ってる」
「ふふ、君のそういう優しい冷たいふりが嬉しいんだ、シリウス」
「ハッ、そう聞こえるのか。随分と都合のいい耳をお持ちなことで」
この手の露悪的な甘え(私にはそう思える)にいちいち気を立てていたらアンタとの付き合いは成り立たない。身体を起こして尻尾を掬う手を離す。それから耳の付け根のあたりをなんの気なしに触れて撫でた。
ぴくりと身体がわずかに震えて、ルドルフの尾が私に添わる。
「……報恩謝徳。紅茶一杯分、労ってくれても良いのでは?」
「それはアンタが大人しく可愛がられる気があるならの話だ」
小さな声でくすくすとあごを引いたルドルフに私は答えずじぃっと目を合わせる。そのまま耳からルドルフの髪を撫で下ろした。
「……行くのか」
短く聞く。ルドルフは「あぁ」と、小さく頷いて私の髪を淋しそうに撫でた。
──アンタのためだけに生きれば良い。
言葉を飲み込んで、ルドルフの心を手探るような心地で私はルドルフの瞳に映る私を見る。見るほどに判ってしまう。ルドルフの心にある温かさの対象が私だけではないこと。
「私は夢の──いや、自分のために生きる人のために生きたいんだよ。シリウス」
ルドルフの瞳には私が映っている。
アンタがそう言うことなんて。とっくに知ってる。
昔と違う綺麗に飾り立てられたアンタを、美しく思うことがきっと信じるってことなんだろう。
「きみに私の髪の一房でも預ければ安心かな」
「いらねえ。それに興味はない」
ルドルフはやにわに笑う。私がそう言うとわかっていたように。
何をしたって手のひらに収まりきらない癖して、アンタと来たらいつも遠慮なしに私の懐に入り込んできてそれきりだ。
そうして柔らかい髪を指で梳かして弄べばじっと瞳を返してくる。
「シリウス、」
ルドルフがなにかの合図のように私の名前をかすかに呼ぶ。昔から甘えベタなアンタは肝心なときに目だけで私に任せようとする。顔に出すくらいなら素直に口にだせ、と。そう思うのだけれど。
私のもの、というのは案外私の方なのかもしれない。
「顔を寄せろ」
「……、……、シリウス」
「あぁ?」
抱き寄せて耳元で聞けば、自分からは恥ずかしいのだとルドルフは言った。
──思わず笑い出しそうになるのを私は堪える。かの皇帝のなんと可愛らしい悩みかと。
からかうと本気で拗ねるアンタを見てくすり、と笑う
私はまた、ルドルフから秘密を渡されるようにはなったらしい。
「ルドルフ」
そうしてアンタの名前を呼びかけた自分の声が思いがけず優しくて今度は自分が苦しくなる。
声色で察したようにルドルフが転じて艷やかに笑った。好きにしていい、と。
私はルドルフの手を取り、半ば無理矢理に肩を抱いた。
「あ」
影が重なって、すぐ離れる。
実際は瞳の端にくちびるを落としただけ。ルドルフの深い紫の瞳がそうじゃないと揺れている。
「…………」
「はは、好きにしろって言ったのはアンタだ」
「シリウスは狡いと思うぞ」
「また帰ってきたら、だ」
「むぅ」
顔を逸らして幼く拗ねるお前を見て、私は満足な心地で紅茶に口を付けた。
こういう気怠い朝も、悪くない。
Once upon a time
──いつか私たちが物語になったら。本棚で隣同士に置かれるような、そんな話が良いね。シリウス。
『廊下はゆっくり走るように』
小さく返事をして、ぴかぴかに磨かれた床と仏蘭西窓で切り取られた長い廊下をと、と、と、と走る。
「叱られたじゃんか、ルドルフのせいだぞ」
「シリウスが本気で追いかけるからだ」
こういう曖昧な雨の降っている日……私はよく屋敷からルドルフを見つけて一緒に走り回った。
気立ての良いメイド長にせがんで、紅茶とお菓子なんか作ってもらったりもして夜までずっと遊ぶ。それで夜になったら二人でお湯に浸かって、髪を梳かし合って、同じ服を着る。
「着せ替え人形じゃねえぞ」
「だめだぞシリウス。きみのお母さまと相談してちゃんと似合うからって」
クリーム色のパフスリーブ。裾には繊細なリバーレースをあつらえたお揃いのナイトドレスを渋々みにまとう。
そうしてくたくたになって小さな天蓋付きのベッドでねむる頃には、勉強がてら二人で異国の物語を読んだ。
『昔々、あるところに』
ルドルフの声は柔っこくて耳に心地よかった。月の夜おおかみに変身する少女、竜退治の英雄譚、涙が宝石になるお姫さまの話。本当は最後まで聞いていたいけど、いつも私が先にまどろんでしまう。
そうして優しい声に包まれてこのまま眠りにつこうとすれば、柔らかな夜に溶けていくみたいだった。
「ねぇシリウス、まだ起きてるかい」
「んん、まだ……」
「あしたも、また一緒に走る?」
ベッドの隣、控えめな声色がすぐそばの私の耳にかろうじて入ってきて、ルドルフの方を見た。横向けの顔の両眼に、月の光がしゅんと溜まってる。
走ると猛獣みたいに鋭いくせして普段のルドルフはたまにこんな顔をする。
「なんだよ、急に。当たり前だろ、明日こそ私が勝つまで走るんだから。そしたら次に追いかける鬼役は、アンタだぞ」
「嫌になったりしないか? 起きたときにも、シリウスはいる?」
「えぇ? なるわけ無いし、いつもいるだろ」
「そっかあ。ふふ」
おざなりに言うと何が嬉しいのかルドルフはふにゃりと綻んだ。
ばかなやつだなぁ。
アンタに勝つのは私しか駄目なのだから、諦めてやるわけない。まったくもう。
負けたって次勝てばいいだけの事だ。過去なんか振り返らない。ただ明日だけ。
「シリウスの声は、科戸の風みたい」
「しな……? とにかく、良くないものはがいしゅーいっしょくだ!」
「はは……! 空谷の跫音ってことだよ」
「なにがおかしいんだよ」
「ううん。シリウスはすごいなって思っただけ」
「とーぜんだ」
……嫌いにだってなってやらない。だって嫌いになる理由がないんだもの。
物心ついたときからずっと一緒だ。明日もまた一緒に走って、シリウスは強いなって言わせてやるんだ。
いつも「シリウス」と優しい声で呼びかけられる度に胸のあたりが弾む。
何を今更アンタに躊躇したり配慮したりする必要がある? 私にとって、ルドルフは大切な友達なんだ。お前もそうなんだろ。
途中読んでやったおおいぬ座の絵本を大事そうに抱えたりなんかして、おおかた寝る前にだって私のことばかり考えているに違いない。
深い紫色の瞳をじぃっと見やる。まるで星の海みたいにきらきらしてて、目が合うとくすぐったそうに揺れてる。
「ねぇ、シリウス」
「なに」
「私たちの匂い、本にうつってしまうね」
……? 私は、ちょっと返事ができなかった。ルドルフが何を言わんとしているのか理解できなくて尻尾がもじもじとする。なんでアンタは平気な顔して変な事言うんだ。うやむやに視線を逸した窓の向こうは、虫の声と星の光に満たされて古いまやかしのようだった。
「えと、もう! 早く寝ないとブギーマンに尻尾の毛を全部抜かれちゃうぞ」
「どうしたんだい」
「私はすごいけど、アンタはずるい」
「……変なシリウス」
「じゃぁ私、もう寝るから。ん」
顔をルドルフの前に少し寄せる。
ふと、……穏やかな顔が微笑みに変わって、それからルドルフの手が私の後ろ髪をそっと撫でた。寝る前の決まりごとだ。主導権を握られるのは気に入らない。でも、シリウスの髪は綺麗だねと髪を梳くルドルフの手はあったかくて、もっと言ってほしくて、私はその心地良いぬくもりが好きだった。
一房とき終えるたびに仄かな匂いがふわふわと漂い鼻孔をくすぐって、ルドルフの髪と同じ匂いだと気づけばほんのちょっぴり嬉しかった。
こうして誰かに髪を弄らせるなんてそうそう気の許せることじゃないけど、何にでも丁寧なルドルフになら、と思うまでにはそう長い時間はかからなかった。
「──……髪、少し伸びたね」
「なぁルドルフ」
「うん?」
「このままさ、伸ばしてみようと思う」
……髪に触れる、ルドルフの手が止まる。幾許かの沈黙、時計の針の刻む音だけが雨音みたいにしとしと積もっていく。何か言ってほしいのに言ってくれないから、お互い閉口してしまって。
けれど私は無理やりと言った感じで、閉じかけた口の隙間からどうにか一言だけ押し出した。
「似合うと、……思うか?」
今は肩先で髪を切りそろえていたから、自分のロングヘアがどんなふうに映えるのか想像もつかない。腰まで届くきれいな髪を持つルドルフを見て、空想の中でその髪を自分に当てはめてみたけれど、今ひとつしっくりこない。
……自分で考えても、分からないのだから。それならいっそ訊けば良い。私を見てくれるやつに。一番、見てほしいひとに、だ。
「……そうだね、」
言葉が途切れて、髪を撫でる手がそっと離れた。けれどルドルフは手をするりと落として、そのまま嬉しそうに私の胸にすっぽりと納まった。くっついたぬくもりが触れる。抱きつかれたことに嫌な気はしない。むしろふわふわの布団に飛び込んだような心地で、深い安心が胸の奥に沁みていくのを感じた。ルドルフの手触りでいっぱいだ。
「私もシリウスと一緒が嬉しい」
「……おそろいとかじゃねえってば」
「きっと、似合うよ」
「ほんとうに?」
「うん、一度見てみたい」
我ながら意地悪なことを訊いているなって、そう思う。アンタの立場なら、誰だってノーとは言えない質問だから。でもルドルフなら、いつだってそのあたたかい腕で包んでくれる。
優しい声と、柔らかい匂いと、ダンスと、おいしい紅茶とお菓子、それから、それから…………。なんだって。
「……アンタがそういうなら。まずは、腰までかな。はは、いつまでかかるかなぁ。でも、気長に待つよ。アンタもだぞルドルフ。ちゃんとモノになるまで──……なったあとでもお手入れはしてもらうからな。お前がみたいっていったんだ、最後までちゃんと面倒見ないと許さないぞ」
「ふふ、シリウス嬉しそう。それはかわいがれってことかい?」
「ちーがーうー。ひねくれ者め」
だってしょうがないだろう、もうアンタは、私より私のことを知っているかもしれないんだから。私だって言われたら、アンタの髪のお手入れに自信があるんだ。……なんでだろう、今日の私は頭がどうにかしているみたいだ。心がふわふわ浮いているような。
「やれやれ、私は素直だよ。シリウスが好きだもの」
「……、……。自分で言うなよなぁ」
ぼんっ、とひとりで赤くなってしまう。どぎまぎしてルドルフの髪をくしゃくしゃっと撫で返す。胸の奥が早鐘を打つ。まるで夜空いっぱいの星々が、この胸でまたたくように。
──そんな私を見て、ルドルフはむふふと笑っていた。まったく、私を誰だと思っているんだか。
「髪の手入れも明日走ることも、“命令”じゃなくて“約束”だからな。命令は無視できるけど、約束は破れない……私たちの約束は、いつも絶対なんだ。安心だろ」
「じゃぁその約束が守れたら、私もシリウスにエスコートされてみたいな」
「……欲張りなやつ。じゃぁ先に、寂しくなくなるおまじない」
今度は私のほうが「やれやれ」と息をつく番だった。
つんとルドルフの鼻を弾いてから、私の方から抱きついていく。余裕なふりなんてさせねえ。
アンタは大切なやつなんだ。
品のいい子犬みたいな、ふわふわとしたくるみ色の髪。
孔雀が羽を広げたような長い睫毛。
遠い水平線のむこう、夜明けの暁を透かした一点のようなアメジストの瞳。
涙が流れたら、それはきっと宝石だ。
まるで綺麗な月の欠けた所が地上に落っこちてきたのかなって、そんなふうに思える。
なんで、走るとあんなに格好よくて速いんだろう。
指であごを引いたら、瞳がかわいらしく細まって、物怖じもせずじぃっとこっちを見てる。
月の光に照らされてるみたいだ。
……うん。ちゃんと、私を見ていろよ。退屈だった毎日に目標が出来たんだ、私は止まらないでアンタを目指し続けるから、だから、まってろ。
なんといったってこのシリウスシンボリの親友なんだから。アンタなら変わらないでいてくれるだろ? どこへでもどこまでも、一緒だ。
「シリウス、くるしい」
「うるさい、私を受け止めやがれ」
きっとアンタといない時間は人生の無駄遣いで、出会ったときからこうなることが決まってたんだ。そんなのありふれた運命だけどいい。一緒にいるほどすごくしっくりくるから。
抱きしめて、わかった。私たちはずっと一緒にいるけど違う人間なんだ。だけど他のなにかでは代えられない。月と星どちらが欠けても完成しない。片腕とかじゃなく半身で、合わせて一心なんだ。
「明日、早起きして競争だから。一緒に走るの嫌かとか、訊いちゃ駄目だぞ」
「ふふふ。シリウス、私早起きは出来ないぞ」
「威張るなお調子者! ……知ってるよ。私が起こしてやるだろ。いっつも」
ルドルフが可愛らしく頷く。大人たちはこれに骨抜きになるらしいけど私は甘くない。
窓の向こう、雨の止んだ夜空には雲ひとつなくて、ルドルフの手を握ればいつか星の満ちる空にまでのぼっていける気がする。一番輝くあの星まで。
けれど、今はもう少しだけ二人でこのまま。
このまま、優しい時間が続いていけばいいなっておもうんだ。
椿サクラハリケーン
花には、魂が宿るという。……きっとどんな花も長く生きられずに枯れてしまうのは、中に宿っているモノがひとのそれだからに違いない。儚い人生をわがままに生きるその様や、別れ際のせつないところなんか、ほんとうそっくりなんだ。
私はそんなあなたに一目惚れしたのよ。
◇
「はぁ。これじゃぁ仕事に集中できないわ」
ここは午後二時の桜舞う河川敷。
ねえ、聞いてくれる?
サクラローレルのこと。綺麗な名前でしょ、私の担当ウマ娘なの。
その瞳にあつらえられた桜は、まるで春に恋い慕われたみたいで。
だけど優しい見た目と裏腹に、心の一番深いところに焼き付いて消せないような夢を持ってるんだ。
────世界の頂点。
見習いの私に支えることなんて出来るのか?
ううん、弱気になるな。あの子はちっとも不安に思っちゃいないんだから。
「私がしっかりしなきゃ!」
「元気いっぱいですね? 椿さん」
びよぉん! と、たけのこが伸びるみたいに背筋が伸びた。
ぎりぎりぎりって、仕掛け人形みたいに振り返る。
「あ、あああえっと、ろろろローレル?」
「ふふっ、ろろろローレルではないですよ? 昨日も明日も変わらず、サクラローレルです」
「あ、えっと…………ええ! き、綺麗な名前だと思うわ!」
あああ、もう! なんてあべこべな返事。
相手は年下なのに、うまく喋れないのがもどかしい。
だって言うのにローレルは「嬉しいです」だなんて綺麗に笑って。
どっちがトレーナーなんだか。ぐぅ。
「私も桜を見に来たんです。何を悩まれていたんですか?」
「だ、大丈夫。雲の数を数えていただけ。それが私のリフレッシュなのよ」
「わ、そうだったんですね。すごい、青いっぱいの空ですけれど」
「────まぁ、そうだけど」
「それより、椿ちゃん」
「ちゃん?」
「さっきの話の続きです」
さっきの話、と聞いて一瞬なにの話かわからなかった。
一呼吸置いて、ああ名前の話だった、と思い出す。
「私、椿ちゃんの名前も好きですよ?」
「え?」
「明しいつばき。お日さまが飾した花みたいで、なんだか風流です」
「うーん、そうかなぁ」
「そうなんです。でも、もっと好きなところがあって。椿と桜の違いって何だとおもいます?」
「えー……、椿が私でサクラがあなた」
「もう、適当。ちがいますよう」
可愛らしく頬を膨らませてローレルがいう。
それから、私の手を自らの手でやさしく搦め取った。
じんわりと唇に微笑みを浮かべて。
「───椿のほうが早咲きなんです。だから。ふふっ、春のお姉ちゃんですね?」
その声は響きが美しく、川べりの風に乗って良く通った。
私はそのときやっと、ちぐはぐな二人の糸がほぐれたみたいで、親愛に親愛を返すごとくローレルの手をぎゅっと握ったんだ。
「たはは。だったら椿ちゃんじゃなくて、椿お姉ちゃん、でしょ」
「あは……ごめんなさい。ヨシノちゃんが椿ちゃんって呼んでいたから。でも、私を選んでくれた私のトレーナーですもん!」
澄んだ悪戯心を底でゆらゆら揺すらせるみたいにローレルは言う。
スカウト、とっても嬉しかった。あなたで良かった、なんて人懐っこく。
私はローレルの瞳に映る私を見る。心の剥がれる音がした。
私だってそんな風になれたなら。自分でラインを引いた内側に、あなたを連れ込む事が出来たなら。
……私さ、みっともないよ。違うだろ、明石椿!
「本当はね」
「はい」
「雲を数えていたなんて、嘘なんだ。あなたを支えることが出来るのか、私でいいのか、なんて弱気になってた。でもそうじゃなかったんだ。私じゃないと駄目なんだわ」
「……──知ってます。だって、椿ちゃんのひとりごと。おっきいんですもん、ふふっ」
「……、……、ぐにゃぁぁああ!」
「わぁ、ねこちゃんだ」
春の妹は笑ってる。本当に嬉しそうに笑ってる。その笑顔は多分、私の様子が面白いだとか、おかしいとか、その程度の表情じゃないんだろうって、分かるんだ。
ローレルは頬を桜色に染めて、宣誓するみたいに胸に手を添えた。
「ねぇ、トレーナーさん」
「うん」
「私、私の本当を全部にあげたいって思ってます。誰にだって。こういう脚ですから。支えてくれたお父さん、お母さん、ヴィクトリー倶楽部。私に関わる全てのみんな。そして、あなたにも」
(──ローレル)
「だから、夢を叶えたその時に。椿ちゃん。あなたがいたからって、言わせてくれませんか」
……起こることの大半は自分では操れない。けれど、それにどう向き合うかは自分次第だ。
境遇に病むこともなく育った、花のようにまっすぐな笑顔には裏も表もなかった。
はじめてこの子の本質が理解できた。この子は承認なんか求めちゃいないんだ。
じゃぁ私がこの子に与えられるものって何?
希望、愛、献身。駄目だ、そんなの捧げるにはあまりに不確かで、差し出すには難しすぎる。
だとしたら、そうならば。
わたしはまだまだ見習いで、未熟で、ドジだけど。
それでもわたしと咲きたいと、そう言ってくれますか。
「────、もう、ああ、もう! 決めた。ローレル、わたし決めたわ!」
「わわ、わ、なんだか椿ちゃんがおっきくみえます!」
あなたの夢を本物にするんだ。
わたしの夢を本物にするんだ。
「するよ。ローレルの為なら、何でもする。任せておいて!
春も咲かす。夏の暑さにも秋風にも負けない。雪も溶かして、絶対に咲かすんだ。そして行くんだ!」
春の花を冠した私達二人で絶対に。
人生のその一瞬を烈しく咲いてみせるんだ。
まってろパリロンシャン!
「えー、……かわいい」
「え、今のが? 私はうわ重っ、自分勝手、ってなるけれど」
「私が向いてる方向が前って感じで、全部全部巻き込んで台風みたい」
「たはは、そう。私は優しくないよ。ローレルには私の春一番の被害者になってもらうからね」
「椿桜前線かぁ」
「何よー」
「ふふっ、別にぃ」
風で辻を巻いた桜が花筏となって水面を流れていく。
桃色の曙を映しこんだ鏡のような川に虹が差して、七色の彩が加わる。
うん、サクラって本当に。綺麗ね。
「つーばーきーちゃーん」
でも、休日の朝早くから家にまで来るのはちょっとヘンだと思う。かわいいけど。
この子が好きを武器にするオープンファイアなタイプだと気づいたのはこの頃だ。
「おーはーよーヴィクートリー♪ 今日も花マル、元気いっぱいごあいさつ───」
「おはよう、今開けるから。ローレル、何でもするって言ったけどこれは違うと思うの」
「もう、何言ってるんですか。門限があるんですから、ちょっとでも早く来たいんです。フランス雑貨巡りに行くんです!」
寝起きスリッパでずるずると玄関を開けたら、太陽の光と、満面の笑顔。
こっちは見せられた顔じゃないけど、ありのまま正直なのが幸せだからどうだっていいんだ。
だから、返すのは笑顔。
……暗に少しでも長くいたいと言われて悪い気はしないから。
ね、ローレル。あなたが望むならなんだって。
逢いにいらして
「会長、素敵なお知らせと残念なお知らせがあるのですが、どちちから聞きたいですか?」
「す、素敵なお知らせだけで」
「では残念なお知らせから」
ひと仕事をおえて、今は春のうたかたに満たされた昼下がりの中庭。
エアグルーヴが怒っている。
かろく結んだ紅い唇がつんと感情を尖らせて、私は怒っていますと、懸命に伝えてくる。
「今日会長が強奪なされた私の仕事の累計が10件を超えました」
「そ、そうだったかな」
ぐぐぐ。私は右腕をがっちりとホールドされている。笑顔でこちらを見上げるエアグルーヴの声色はなんだか恐い。しかしこれにはやんごとない理由があるのだ。
「5件までは『もうまたですか』と見過ごそうかと思ったのです。
しかし10件とは、とてもいい心がけですね? 会長」
「ええと、ええと……はは」
「どこを見ているのですか」
春空にうんうんと言い訳を探していたら、涼やかな声と共に視界が引き寄せられる。
頬に両手を添えられて、エアグルーヴの綺麗な顔。青い瞳に屈折したひかりが綺麗に揺れている。
じいっと。拗ねていた。なんだか少し幼気で、ふっと妹の顔が浮かぶような。
「おかげで今日私はすることがなくなってしまいました。貴女は酷い人です。仕置きが必要です」
「むぅ、どうすればきみは機嫌を良くしてくれるだろう」
「貴女が私の時間を奪ったので、私は会長の時間を奪おうと思います。一緒に休憩がしたいです」
奪うといった割に、うかがうような口ぶりがなんとも慕わしい。
一陣の風が吹いて、ふわりと桜の梢を揺らしていった。同じようにして、私も胸の奥がやわらぐのを感じている。それは、きっとまどろみのような優しい時間になるだろうから。
「ではこのまま。この中庭のこと。エアグルーヴが育てた花のこと、教えて欲しいかな」
「──……はい。しかた、ありませんね」
その言葉と共に、つんとした表情が微笑みに変わる。涼やかな顔色が、ようやく紅く色付いた。
春の陽気が目の前の花畑に落ちて、きらきらと銀や金を散りばめた幻想みたいに広がっていた。
◇
花達は私こそがといわんばかりに花壇いっぱいにその天然色を振りまいていた。シバザクラにネモフィラ、ラナンキュラス。小さな花弁を咲き誇らせて、まるで絨毯のように中庭を彩っている。
「それで、素敵なお知らせというのは?」
「それは、その、私の誕生日です──……」
お恥ずかしいです、と。
意地っぽくあごを引いて、尻尾を可愛らしく垂らして。ほんのわずかに耳を掠めるほどの小さな声。想像とはまるきり違っていた。きみは、ほんとうに。
「実はこれだけ言いたかったのです。誕生日に、この花畑を会長に見てほしかった。一緒に見たかったのです。なのに貴女はひとりでに、ここにいたものですから」
「ふふ、なんだかきみにしては幼子のよう──」
「怒りますよ、会長」
「ごほん、冗談だよ。実は今日のこと、私にも理由があってね」
「理由ですか」
「友人が誕生日で、祝いの品を今日中に手渡したかったんだ。いつ会えるものかと、今日はその事ばかり考えていたら仕事の手だけが回ってしまって」
「……、……、そうでしたか。その友人は、その気持ちだけできっと」
「だったらいいな。とても、大事なひとなんだ」
「……あの、困りました。会長」
「うん?」
「なぜだか、今、あなたの方を見られないのです。それもおそらく会長のせいで」
「はは……、実は私もなんだ」
言いながら、胸をあたためるこの感情が私には判らない。喜びとかせつなさとか、親愛とか情愛だとかそういうものではないと思う。
けれど私のこの感情にまとめて名前を付けたのなら、それは“好き”で良いのではないだろうか。
変だろうか。でも、いいじゃないか。不器用な二人が不器用に友人でいたって。
「会長。花の方は、どうですか。きれいに咲いていますか」
言われて、柔らかな花絨毯の中からなんとなく“エアグルーヴ”を探してみる。垢抜けていて、それでいて瀟洒で美しい。どれだろう、きっとどれでもない。仕方がないので一番傍で咲いていた藤色のルピナスが“エアグルーヴ”になった。
「うん、きみは優しくてとても暖かいのだね」
「あぁもう。私のことを、聞いたのではありません」
「冷汗三斗……御免。……プレゼント、いつ渡そうか。今は持っていなくて」
「もういただきました。それもけっこうな具合にたくさん、たくさんです」
エアグルーヴは、両手で顔をおおっている。照れ隠しなのかはわからないけれど。
ただ、優しい墨染色の耳はいつとなく力なく垂れていた。
うん……祝いの品はあとでにしよう。
寄せ合った肩が、やにわにあたたかい。
今はただ、この春の手触りがあればいいとおもった。
あしためがさめたら
そいつはいつもふらりとやって来るから、あたしはほとほと困ってるんだ。
「やぁ」
「なんでこんな雨が激しい日にわざわざ来るんだよ」
「今日、レースだったから」
「知ってるよ、こっちじゃなくて家に帰れよな」
「レース場から寮のほうが近かったんだ。細かい事はいいでしょ? 入れてよ」
「まったく、びしょ濡れじゃんか。ほら、鞄」
「あぁ、持ってくれるんだ。ありがとねエース」
久しぶりの雨続きだった。今日なんか、朝からずっと土砂降りだ。雨がざぁざぁと音を立てながら、雨粒が窓を叩いてる。
こういう休みの日は、なんにしろ室内で過ごすのが普通だ。それに一人で過ごすのは苦じゃなかった。田舎暮らしで、同じ年頃のヤツは少なかったものだから。なのに。
ミスターシービー。
どこまでも天衣無縫で、旅から旅ぐらしみたいに自由ウマ娘。でも走るとすっげえ速いんだ。
大雑把にいえば、あたしの片思いのライバルみたいなやつ。
「なぁ、来る前に連絡ぐらいしろよな。いなかったらどうするんだよ」
「えー、今から行くなんて堅っ苦しいよ。嫌だなぁ」
「あたしが気にするんだよ。いなかったらまた濡れたままフラフラするだろ」
「心配性だなぁエースは」
わかってるよ。シービーがそういうやつだっていうことは。
だから言っても無駄だけど、あたしは気になるんだ。
「だって、風邪引いちゃうだろ」
あたしがそう言うと、シービーは眼をまんまるにして、それからくすくすと微笑む。
へんなやつ。
喋りながら洗面所の棚からバスタオルを一枚持ってきて、シービーに渡した。シービーが身体を拭いている間にあたしはドライヤーのコンセントを挿す。
「シービー、こっちに来てくれ」
「わ、髪乾かしてくれるの?」
「そうだよ。線が届かないから、ほらこっち」
ぶわぁぁぁぁぁ。
ドライヤーが唸る。髪、長いなぁシービー。
ぎゅるるるる。
お腹も唸ってる。シービーの。
「おなかすいたな」
「寮のキッチン行かないとないぞ」
「えー、じゃぁいいよ」
「よくない、食べろって。取ってきてやるから」
「コンビニ行こうよ、エース」
「だから、雨だって」
「雨好き」
「だぁぁぁ、もう!」
「あはは」
あたしは大きく溜息をつく。
このとおり、シービーとの関係は手押し相撲みたいなんだ。押しても、引かれるだけ。
「ねぇ今日泊めてよ」
「やだよ。ご飯食べたら帰れ。タクシー呼ぶから」
「じゃぁ、もう少しだけ。雨脚が止んだら、歩いて帰れるでしょ? ね、きまり」
「まぁ、少しだけならいいけど──」
「あ、このコーヒー飲んでいい?」
「切り替えが早すぎだろ!」
バスタオルを洗濯かごに放り込んで、ゴソゴソ着替えながら勝手に棚を漁っている。
そもそも、そのインスタントコーヒーは前にシービーが置いてったものだ。
コーヒーなんてあたしは飲まない。眠れなくなっちゃうし、にがいのは苦手だ。
「それ、結構前のやつだろ。日付見てから飲めよ。あとそこのお菓子、たべていいから」
「はぁい」
あたしの寮部屋はそんな風にどんどんシービーの私物が増えていってる。
マグカップも、カレンダーも、Tシャツも、下着も、歯ブラシも、化粧品も、枕も。お泊りに必要なものは何でも揃ってる。
今日はいない同室のパーマーはいいよいいよ、なんて笑っていうけど絶対おかしいだろ。迷惑かけてごめん。
でも好き放題されるのはムカつくから、カレンダーにあたしの予定を勝手に書いたり枕を使ったりしてる。
でもシービーはちょっと嬉しそうにするから、あんまり意味がない。自由でいいじゃんって。
「む、Tシャツからエース臭がする」
「ちゃんと洗濯してるぞ」
「いい匂い」
「へんなこというな」
変なこと言うな。
ズズッとコーヒーを啜る。熱っ。
あたしはいらなかったのに、シービーが二人分淹れたから。でもやっぱり苦いよ。
「あはは、猫舌?」
「悪いかよ」
「アタシもだよ。冷めるまでまとうよ」
「うん」
「あ、なんだかエースの話し方がちょっと柔らかくなってる」
「なんだよ」
「可愛いなって」
「ぬあぁぁあ!」
あたしはうまく距離を取ってるつもりなんだけど、振り回されないよういつも必死で。
急に距離を詰めたり詰められたりは、あんまり得意じゃないんだ。あたしは逃げだから。
「ねぇエース、明日起きて晴れてたら買い物行こうよ」
「泊まる気まんまんか」
帰る気はないらしい。
窓のそとには雨の夜。
かたかたと窓は鳴り続けている。
今すぐやんだらこいつも帰るかなぁ。と考えて、だったらちょっとやんでほしくないなとか思う自分に驚いた。
一番そばにいて心地が良いのは、やっぱりシービーかもしれない。
その考えは、ひどくしっくりとあたしの心になじんだ。
またたび
ふぁ、とあくびをしながら、体を起こす。
両腕をぴったり締めて耳先までぎゅうっと身体を絞った。
「わ、変な起き方」
「……、……、来ていたのなら起こしてくれたら良いのに」
みられていたなんて。
ここ最近は忙しかったのだ。私はこの頃、新年度の催しである『リーニュ・ドロワット』の計画で奔走していた。
休憩にと立ち寄ったトレーナー室。誰もいなくて、ソファでブランケットに包まっていたら眠ってしまったものらしい。
春の陽気にあてられたんだ。薄い紅白の桜が、シャボン玉みたいに淡く窓の外を彩っていたものだから。
頬がしゅんと染まった誤魔化しに、そのあたりの毛布をかき寄せて息を吸い込める。
むぅ。変な起き方とは、なんだ。
「ねこのようだね、ルドルフは」
ふと、トレーナー君にそんな事を言われる。私にはどういうことか判らない。
「そう見えたから。どう思う?」
「私に聞かれても……。耳としっぽがそれらしいから、とかかな」
「なるほど」
とりあえず納得したらしい。合っているのか? どうして猫だなんて思ったのだろう。
自分の説明なんて心が妙な加減にむずむずする。休憩時間はまだあるけれど、はやく仕事に戻らねば。
でもその前に、なんとなくトレーナー君の感覚を確かめてみようと思う。
「にゃん」
手を丸くして媚を売ってみた。トレーナー君は読んでいた本を取り落としてぷるぷる震えている。
効果覿面だった。
「ル、ルドルフ……」
「にゃあん?」
鳴いてみた。トレーナー君は面白いくらいうろたえている。ふふ、普段冷静な君があたふたしているのを見るのは楽しい。とりあえずトレーナー君の膝にとん、と腰を下ろして乗ってみる。意地悪は続行だ。寝起きの猫なんだ私は。
「なぁーん」
膝の上にのって、顔を近づけて、少し見下ろすみたいに。私の猫はこういうイメージ。
飼わせてあげているのだ。こんな感じだろう? 猫って。
でも、心はどこだってきみが好き、好きだって思っている。これは、猫じゃないかもね。
ほんとは猫もそうだろうか。自問自答。
「一体どうしたんだ、ルドルフ。そんな」
うん? おかしい、きみが言ったんだろう。ねこみたいと。
視線が逸れる。追いかける。また逸らされて、追いかける。しっぽもゆらゆら。
楽しいな。猫の気分がこうなら、本当に猫になっても良いかもしれない。
「な、なぁ。ルドルフ? 近い、顔が近いぞ」
困った顔も好き。少し上ずった声も好き。白黒している瞳だって。
顔が近いなんてあたりまえだろう。きみの猫なんだから。
トレーナー君が、まばたきをした。
でも瞬きなんて許していないよ、トレーナー君!
「ちゃんとこちらを見て」
じ。猫は人の言葉だって喋る。人参だってすきだよ。舐めないで欲しい。
「と、突然素に戻らないでくれ」
「きみが見てくれないのが悪い」
「直視できないんだよ……!」
「どうして?」
「……可愛すぎると思うから」
「ふふ。では、目を離さないで」
ねえ、トレーナー君。
こんなにいい気分なら。
本当に、猫になってしまってもいいよ。
すっ、と。さっきまでこわばっていた手が、髪を撫でてくる。私を優しく梳いてくれる。
そう、そう。いい心地にさせて欲しい。猫心と秋の空は変わりやすい。大事にしてくれないとすぐどこかにいってしまうのだ。
「あまり悪い猫には、悪い狼が来て食べてしまうかもしれないぞ」
「なぁーん」
きみが狼だって? 優しく優しく耳を垂らした、犬みたいなのに。
でも、きみにだったらいいかもしれない。
ね? トレーナー君、いいよ。
「食べて?」
沈黙に、沈黙。
トレーナー君は黙って変な動きを始める。天を仰いで顔を両手で覆ったかと思えば、足でたんたん地団駄を踏んでいたりする。面白いから膝の上でもう少し見ている。
「据え膳食わねば」
「わ」
ぐっと髪を抱き寄せられて、おそるおそる顔が近づいていく。
偶然であった孤独な猫と狼が、興味を惹かれあうみたいに。
くちびるを薄く開いて、それから────ピピピッと、アラームが鳴る。
「……ふふ、時間切れだね。もう戻らないと」
さっと膝から飛び降りる。
スマートフォンが鳴って休憩の終わりを告げる音。
トレーナー君は、翻った私のしっぽを追いかけるみたいに手を空に伸ばしていた。
お預けを貰った、可愛い犬のように。
「トレーナー君ったら、そんなふうに抱きしめてくるのだね。少し苦しくなってしまったよ?」
なんて、本当に苦しいのは、リーニュドロワットのように追い込みをかけられた心。
でもね、きみが狼なら追い込みみたいな待てが出来るなんて許さない。狼みたいに噛みついて。それくらい好きでいてくれないと、困るのだ。猫だから。
「今度は間に合うように、愛でておくれよ」
ドアを引いて部屋を出る瞬間。そっと振り返って、にゃん、と手を丸める。
私の狼はまだまだ格好悪い。
春のまにまに
トレーナー君の手は私の頭にあった。
ふとした気まぐれで入った、いつもどおりのトレーナー室。ミーティング用のソファを見れば、いつもどおりのトレーナー君。
ソファに座って書類仕事に打ち込んでいるようだった。私は隣のスペースを陣取って、肩にそっと頭を乗せた。ここまで無意識だ。
長引いた生徒会業務で疲れていたのだ、たぶん。トレーナー君は驚いたと思う。
されど彼の手は私の頭にあって、撫でる。
まるで猫を撫でるみたいに、髪の流れにそって優しく撫でる。ゆるゆるとした手の動きで。
「トレーナー君」
「なにかな」
何も驚く素振りがない。
この皇帝が、話しかけもせず突然と肩に身体を預けているのに。まるで私がそうすることが当たり前みたいに撫でる。心の奥底まで知っているみたいに。
恥ずかしくないのだろうか。
私は少し恥ずかしくなってきたのだ。
「撫でるのは禁止だ」
「もう生きていけない」
……今まで撫でたこと無いくせに。資料の頁をめくる音が聞こえる。トレーナー君の細い呼吸の音も。くるくると髪を指に絡めて弄ぶ音も。
トレーナー君はなにか言いたげに唇を動かしたけれど、結局何も言わずに仕事という沈黙に落ち着いたみたいだ。
視線はずっと資料の中。私より仕事というのだろうか、無礼だと思う。
「やっぱり撫でていいよ、トレーナー君」
「どうした、主張を変えてルドルフらしくもない」
「あぁそうかい。撫でたくないなら構わないよ。別に」
私は怒った。多分今は猫だもの。
「撫でさせて欲しい」
トレーナー君は、髪をとかして私のこめかみに触れた。
髪の仲介なしに手と肌が触れ合う。
その手は少し冷たい。
視線は資料そのままだ。私の頬はあついのに。
「もう。君は仕事ばかりだね」
私はいじらしくトレーナー君を見る。ちらりと、ようやく視線が合う。しばらく無言でお互い視線を逸らさずにいた。
「トレーナー君の手は、冷たい」
「生まれつきだよ。さむがりなんだ」
もう春先なのに。私はなんだかおかしくて笑った。
「トレーナー君は、どこにあたたかさをおいてきたのかな」
彼はきょとんとした顔をして、それからなんだか難しそうな表情になって、すぐにいつもの薄い笑顔になる。
「ルドルフの頬にあげたんだ。こうやって」
「……本当に?」
「うん、大事にしてくれ」
私は黙った。
トレーナー君の言葉は、まるで雪みたいだ。音もなく静かに、私の胸の奥に積もっている。
「あぁもう。あぁもう」
「……皇帝のイヤイヤ期かな」
また視線が仕事に戻った。私はまた怒った。頭を肩にあずけたまま、その耳でべしべしと叩く。くすぐったそうにしている。でもやめてはあげない。
べしべしべしべし、ぺし、ぺし。
仕事は今しないでくれ。私のことだけ考えていればいいよ。
「こら、こら。やめなさい」
「むう」
この頬の熱さは、どうやら君の手のひらから奪ったものだったらしい。
私は一意専心に夢に向かって邁進してきた。思えばトレーナー君はいつも傍にいてくれたね。
当たり前みたいに。私は、君になにかしてあげられただろうか。
「私はきみから奪ってばっかりだ」
それはきっと、今でさえ。
「ルドルフ、僕はね。君に何かを奪われたなんて思ったこと、一度もないよ」
……君はいつだってそうなんだ。優しくて、優しくて。優しい。
トレーナー君がくれたものは数え切れないくらいにたくさんで、そして……、代わりにトレーナー君が私から奪っていったものは、他ならぬ私自身だった。
「なぁ、ルドルフ」
顔を少しおこす。お互いの顔がとても近いところにあって、胸の鼓動まで聞こえるみたいだ。
そのままくらくらと視線を交わしていると、
「まどろっこしいのは、嫌いだ」
そういわれた後。優しく抱きすくめられた。
ひんやりとした手と腕は身体に密着して、私は彼のためにあつらえられたみたい。
トレーナー君の手はつめたい。そう言おうとして辞めた。
「トレーナー君。やっぱりきみの手はあたたかいよ」
「そうか」
「だから、いつでもこうしていてほしい」
「冷たくなってしまうよ」
「私がかわりにあたためるから、いい」
トレーナー君の手は私の頭にあって、撫でる。
私たちはすっかり似た者同士だ
私から君の匂いがするように。
君から私の匂いがするように。