ソリトン、カオス、フラクタル
ソリトン研究に戸田格子としてその名を残す物理学者戸田盛和氏による物理に関する読み物。非線形力学系に関する本のような題名だが、その議論へ進む前の土台、山の裾野を含めた非常に広範な教養を提供している。
そもそも数とはなんぞや?という話から始まるのである。自然数とはこういうもので、それを拡張して有理数ができて無理数ができて‥というわけだが、個人的にはこういった数の体系・集合の話は、純粋数学の香りが強くて、憧れと同時に、現実との関係が見えず虚しい気持ちにもなる分野である。が、戸田さんの道案内にかかると、無理数の説明がいつの間にかビリヤードの話に接続して、ビリーヤードボールの軌道が空間をエルゴード的に稠密に埋め尽くすというカオスへの関連を示され、気持ち良い。
こういった調子で次々に数学と物理の関係が提示されてゆく。あみだくじで置換の話をしていたと思ったら、量子力学のパウリの原理(波動関数が粒子の置換に対して満たすべき反対称性)に行き着いたり。
フィリピンの民族舞踊やメビウスの輪の不思議な幾何的性質(一周回っても元に戻らず、2周回ってようやく元に戻る)の話から、スピン波動関数の2価性(2回転することで始めて元の状態に戻る)につなげたり。オイラーの多面体定理というトポロジカルで抽象的な式を見ていたら、水・水蒸気のような相の間に成り立つ性質(ギブスの相律)に導かれたり。
こういった書き方をしていると、だいぶ長い本になりそうである。が、しかし250ページで済んでいるのも驚きである。著者の説明が簡明で、余分な枝葉がなく、各話題が持つ幹の主張をストレートに伝えているので、このページ数で収まるのだろう。
例えば、熱力学第二法則がなぜ成立するかは統計力学的にも説明できるが、わずか数行で説明していて、しかも平易である。
終盤でようやくカオスやライフゲームが登場する。自分はそれなりに詳しいと思っていたので、こういった一般向け書物では知ってることばかりだろうと思ったが、そうではなかった。
ローレンツアトラクタは2枚の羽がから成ったような形をしており、軌道はそれらを行ったり来たりする。これはどういう現実を表しているのか?
こういうことらしい。2枚の羽は「流れ」変数の正と負に対応していて、片方の羽から別の花へ軌道が移ることは、気象モデルにおいて大気の流れが逆回転することを意味する。なんでそんなことが起こるかというと、熱い大気は上昇して、ほどほどの所でグルンと対流してやがて下へと向かうわけだが、そのときたまに流れが速すぎることがある。すると下降する際にまだ大気が冷え切っておらず、下がり始めるかと思いきや逆にまた上がるということが起きているらしい。すみません、羽の間を転移することの物理的な意味なんて、私考えておりませんでした・・恥ずかしい。
地球の地磁気は何度も逆転しているという不思議な歴史があり、さまざまな見解があるようだが、外因性の事件(隕石のせいだとか)以外に、ローレンツカオスのようにダイナミクス自体がもたらす不安定性・逆転を考えてもよい、とのこと。
文体についてひとこと。変に現代思想がかっていないのが良い。カオス、ライフゲームの話題になると、何かスイッチが入るのか、格好いい言辞や哲学的フレーズで包んで深遠さを醸す本も多いのだが、本書はもっと普段使いの言葉で書かれている。等身大で書かれたものをスーッと読んでいたら、気づいたら遠くまで連れて来られた、そういった類の本である。
かくかくしかじか
著者が、高校・美術大学・OLを経て漫画家になるまでの半生を振り返った自伝漫画。美大受験でお世話になった画塾の恩師から受けた影響、叱咤、思い出をコメディタッチにそして情感豊かに描く。
美術で思い出すのは友人O君のことである。当時ぼくらは大学生で、彼は興奮気味に語っていた。小学校の頃同級生だった子が、大きなキャンバス、画材を運んで道を歩いていたというのである。それが何?とも返せるのだが、彼の言わんとすることは分かった。
同級生の彼女は自分が労力を傾けるべきものを既に持っている、世間には屯着せずに自分が夢中に取り組むものを持っている、とショックを受けたのだ。
私の脳にもO君の思考回路ができていた。何かマイナーな文化に取り組んでいるひと、例えばベトナム語を勉強していたり、油絵を描いている人を見ると、甘酸っぱい気持ちになるのだった…
一体何の話だったか。漫画の「かくかくしかじか」だった。そんなわけで、美術漫画はつい手に取りがちなのだ。
まず、恩師日高先生のキャラが立っている。アクが強いので、画塾での出来事をエッセイ風に報告するだけでコメディになる。「ずべこべいわず、描け」と有無を言わせない真剣さと、口の悪さが際立つが、その状況に突っ込みを入れる高校生たちと合わせて見ると、笑えてしまう。
実は、数年前にこの漫画を初めて読んだときは、シリアスさの方を強く感じ、読み進めるのが少しつらかった。後から恩師を追想するという構成なので、「先生は私を気かけてこんなにも与えてくれたのに、なぜ私はそれを無視したのだろう?」という後悔が、作品の底流を作っているからだ。
しかし、普遍性のあるエピソードの力で読まされた。例えば、
- デッサン修行に重要性を感じつつも、紀元前の異国人の石膏像を描くことに、現在を生きる自分とのアクチュアルな関係を感じられない。スノボに行ったり恋をしたりする方が、大事なんじゃないのか。
- 漫画を描きたいという本心がありつつも、親や先生が受け入れ易いようにと、美術志望を表明する。しかし、世間用プレゼンテーションと本心のズレはいよいよ深まるばかり。
- 気づくと、美術も漫画も取り組まないまま、大学4年生になっている。
こういった専攻と興味の微妙なズレ、大切な人に伝えることの躊躇は、誰しもが経験することではないだろうか。
今回2年ぶりくらいに再読したところ、後悔よりも、恩師の魅力的な人柄や、型破りなエピソードの強さがスッと入ってきて、以前以上に名作に感じられた。
生徒の中で何度も再生して、そのたびに新たに影響を与えるもの。そんな存在が確かにそこにある、と感じさせてくれる作品だ。
ブルーピリオド
絵に縁の無い生活を送っていた高校生が、あるとき授業の課題をきかっけに美術に目覚め、美大受験をするという話。読んで「本気で取り組むとはこういうことだ」と突きつけられた気がした。美大出身の漫画家が自身の体験や見聞をもとにした作品。
- 作品を作る際に技術に走るが(構図の研究)、その手段が目的化してしまって、何を描きたかったかへ意識が向いていなかったり。(「俺はずーっと手段で手段の絵を描いていたのか」)
- 「あなたにとって大事なものを題材に絵にせよ」という課題に対し、八虎は友人や先生との縁が大事と考え、縁の象徴として糸をモチーフにした作品を提出する。すると「縁は糸の形してた?」と講師に聞かれる。既成イメージに頼ってて、自分なりの咀嚼ができていないことが露呈する。あるいは
- 一回褒められたら、その作品の自己模倣をして新鮮さや挑戦のない絵になったり。
- 油絵の経験の浅さを心配して再び技術的なことで頭を悩ませるが、それ以前に、どの題材をどういう視点で切り取って描こうと構想するかが出来ていないと気づいたり。
- 課題に対して素早く反応して絵を描くという枠組みに適正が無い、自分は好きな絵しか描けないと自覚して、一般受験ではなく推薦枠受験(作品の持ち込み)をする美術部の森先輩。
- 予備校のクラスメートが実は三浪目で、今回を最後の受験と決めていた話。
わたしの名は赤
- 作者: オルハンパムク,Orhan Pamuk,宮下遼
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/01/25
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16世紀末のオスマントルコ帝国、首都イスタンブールで細密画師が殺された。皇帝からの密命で装飾写本の制作に携わっていたことが、災いをもたらしたのだろうか。同じころ、青年カラがイスタンブールへ帰郷し、密命を監督している叔父の仕事を手伝うようになる。ほどなくして叔父の美貌の娘シュキレへの恋心を募らせるが、シュキレを得ようと企てるのは彼だけではなかった。
近世イスラム世界の人たちを、まさに今ここで息づいているように克明に描きながら、細密画師たちの心的衝突、東と西の文化の混交、伝統と新奇の葛藤を物語る。ノーベル文学賞受賞作家による代表作。
装飾画というのは、あの妙に平面的で、色はきれいでかわいいのだけど、実物らしさを欠いた絵のことです。なんだか自分から遠い世界だなあ、日本画にすら親近感を持てないのに、ましてや16世紀のイスタンブールってと思って、心細く読み始めました。が、良い方向に外れてました。
近年読んだ中でベスト3冊を挙げよ、と言われたらこの本を推したい。エンタテインメント性と知的な刺激を両立させている。絵を題材にして東西の文化衝突、新旧の転換点を描く知的な評論であり、登場人物の数奇な運命と生々しい言動を配した人間ドラマであり、16世紀末のオスマントルコ帝国時代に工房で働いていた人々の風俗を現代に蘇らせた小説でもある。
冒頭、死体が我々に話しかけてくる。そして、カラが語りかけ、シュキレが語りかけ、シュキレを巡る競争相手が語りかけ、犬が語りかけ、色彩の赤が語りかけ、子供が語りかけてくる。彼らがかわるがわる講談師役を引き受けているような具合で、一人称での語りにライブ感を感じる。
交代してゆく話者の語りを通して改めて思い知らされるのは、それぞれの人は、違った思惑と関心のもとで世界を生きているということだ。当たり前だが、カラがシュキレへメッセージを送るときは美女をめとりたいという点からであり、手紙の伝達を行う行商人の逞しい女は、それを第三の者へ回し読みさせて小銭をかせぐ抜け目なさを発揮し、シュキレの方は前夫との子供への愛で頭がいっぱいなのかもしれない。キャラクターたちは違う世界を見ているのだということ、理解しあっているわけでなくともゆるくかみ合って世界はずんずん進んでいくものだ、というあり方を示してくる。
多元性ということでいうと、一人の中でも単純化を拒むものがある。シュキレが寡婦としての自分の展望や弱々しくなってゆく父の将来に暗鬱としているかと思うと、家事をする奴隷女の一瞬の表情の苦々しさを見て、「オルハン(幼い息子)のうんちが臭かったのかしら」と思い、ごく日常的な思考が突如挿入されて、角度がかわる。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」のシーンで、悲劇の間際だというのに、とりとめのない考えがアンナの頭を巡っているという場面がある。深刻なときに深刻なことを考えるわけではないという真実に、読者は気づくわけだが、「わたしの名は赤」も、同じような落差や多声を感じた。
カラとシュキレの運命はともかく、密命の装飾写本制作に関わった絵師たちは、何を語っているのか?もちろん、細密画について語っているのである。
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見ること・見ないこと ルネサンス以降のヨーロッパ、あるいはそれに影響を受けた文化圏と、それ以外との違いは、「リアルに描く」という動機をそもそも持っているか?と言える。トルコの伝統絵画にそんな動機はない。かれら絵師は、馬を描くのに実物の馬を観察しながら描く、などいうことはしなかった。見るものは三流、見ないで描くのが正統なのだ。目に見えたものを描くのではなく、見るべきもの、理想としての馬、神が造形したであろう馬を再現するのが、正統なのだ。観察からの発見が優先されるのか、世界のモデルが優先されるのかという対比がここにある。
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個性・非個性 「私にはこう見えた」などいうのは重要でなくなる。なにせ、神が造形したであろう馬の再現なのだから、絵とは一つの正解へと近づいていくべきものだ。ゆえに、個性という言葉は意味をなさない。個人の絵柄とは、絵師の未熟さ、正解からのずれを意味した。弟子は正解への漸近法を師から学んで、似た絵を作ってゆく。個人としての署名はなく、絵師という集団、過去から現在へ受け継がれた集合的記憶が、彼らにとっての絵となる。
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物語のための絵 装飾写本という言葉から分かるように、絵は装飾するもの、何かの伝説を物語る文章に挿絵として添えられるものだ。したがって、単なる「リンゴの絵」というものは存在しない。物語に出てくるリンゴを表す絵があるだけだ。ただのリンゴという概念は、倒錯であり偶像崇拝(リンゴの絵自体をありがたがる)であった。
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リアルの侵入 ここまで、「実物は見ないで理想としての絵を描く」という伝統的立場を書いたが、16世紀末には、すでにイスラム世界は西洋近代絵画の影響を受け始めていた。「リアルなんて、低俗だ」と言いながら、リアルな絵にも魅力を感じて当惑していた。ある者は伝統を守ろうとし、あるものはリアルに手を出そうとして、暗に陽に互いを批判した。しかし、どちらも気づいていたようだ。少し時代が進めば西洋絵画が主流となり、彼らが一生を賭けてきたイスラム絵画は忘れ去られるであろうことを。かといって、西洋絵画へあからさまに自ら突きむことも危険であった。反動的な宗教グループが、西洋派を襲撃し殺害していく事件が発生していた。そんな中で、彼らはどんな絵を描いていけばよかったのだろうか。
細密画を通して、絵師たちは、観察vsモデル、個性vs集団、物語vs物自体、というアクチュアルな問題群と格闘しているのであった。
なんだが、堅い話になったが、小説の最後では、勘違いにもとづいて、意外な人が意外なところで首をはねられたりして、しかし子供には好評だったりして、歴史というのは変化球というか変なエネルギーがあるな、と感心するのでした。
こういうリンゴはNGなはず
女たちよ!
脱税する者とそれを突き止めようとする国税庁捜査官のいたちごっこを描いたエンタテインメント作品だが、冒頭から引き込まれ、作り手がただ者でないことを感じる。ほんの短い会話から、男が常習的に悪事を働いており、インテリジェンスと活力にあふれた人物であることが手際よく暗示され、これから起きるであろう事件を予感させる。そして、中年男性をここまで魅力的な人物として描くのに成功した例は、なかなか見つからない。たしか「おおかみこどもの雨と雪」の細田守も好きな映画に挙げていたと思う。
国税局員に対して逆にお金の貯め方を講釈する男、山崎努がクール
映画監督としての伊丹十三の素晴らしさに疑いはないが、彼の書いたエッセイは、なかなか手にとることがなかった。よく見かける紹介文に興味を惹かれなかったのだ。「本物志向のダンディズム。パスタといば、洋食屋の伸びたスパゲッティがあたり前だった時代にアルデンテにすべしと訴えた先進性」
アルデンテうんぬんといったタイプのうんちくには、時代を超えた見識は期待できない気がしたのだ。
しかし、読んでみたら、不安視していたものとは違い、良かったのである。さっさと手に取ってみるもんですな。
サラダ、卵焼きの食べ方、二日酔い、友人の俳優、車、蚊帳、ボーリングといった身辺の雑多なことについてのエッセイなのだが、読んで新鮮な感じを受ける。自分も初めて卵焼きを食べたとき、こういう居心地の悪さを感じてたなと記憶がよみがえり、物事への初心を思い出させるのだ。
われわれが気に留めず漫然と自動化した反応で済ましている事柄にも、伊丹は観察や自分の美感に照らし合わせた上での見解を述べるのだ。何が正論・本来の感覚だったか、それを思い出させてくれるのが、気持ちいい。1つ2つ引用しよう。
お料理学校というのは、私にはどうも納得のいかない存在である。料理をする場合、一番大切なのは舌である。味覚である。味覚というのは育ちと大変関係が深い。必ずしも美食ということではなく、漬物でも味噌汁でもいい。味の深いみ、というものを知っていることが先決問題である。
Eタイプ・ジャグアを、ほとんど注文しそうになったことがある。契約書に署名する一歩手前までいって踏みとどまった。
なぜ踏みとどまったかというと、Eタイプ・ジャグアは人間離れしすぎている、という気がしてきたのである。機械として、あまりできすぎてしまって、われわれ人間と気持ちがかよいあわない。むしろEタイプ・ジャグアにとって、運転手というのは邪魔っけな存在なのではあるまいか、そういう印象が次第に強くなってしまった。
ユーモラスなものもある。
散髪したての男というのは、なんとなく哀れを催させる存在である。(…)整然と刈り込まれてしまって、どこからどう見ても、床屋の美意識、床屋の解釈による、床屋の作品、という趣ではないか。もしこの作品に名をつけるなら「床屋の満足」ということにでもなろうか。
読了して浮かび上がってくるのは、森羅万象に関心と観察を向け、こだわりを持っていることである。コーヒーは豆から挽きましょう。
ところで「丁寧な暮らし」というものが、近年、期せずして批判の対象となったことがある。「コーヒーは豆から挽きましょう」、それを良しとする信仰が、負担となって人々を息苦しくする、というのだ。
丁寧な暮らしというワードが目的化し義務感となると、負への逆転を生む。「コーヒーは豆からひきましょう」という姿勢には、基底にコーヒーへの興味や愛がなければ長続きしない。丁寧な暮らしは、身辺の360度に対し、関心とフレッシュな目を持ち続けなければ苦痛に転じがちで、確かに無理があるのではないか?
しかし、伊丹は実に楽しそうに、挽きたてのコーヒーの香という常識や「良質のマッチ」について語るのだ。そう考えると、彼は、常識を語っているけど、それを語れるのは普通ではない、という感じもする。そんなこんなで、彼は変わったことを言っているわけではないのだが、全体として読むと凄みを感じる、というタイプの本である。
Four Colors Suffice
- 作者: Robin Wilson,Ian Stewart
- 出版社/メーカー: Princeton Univ Pr
- 発売日: 2013/11/10
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邦訳はこちら 四色問題 (新潮文庫)
4色問題である。その証明が、現代的な論争を引き起こしたという経緯があり、関心を持っていたトピックだ。「これは、証明なのか」「そもそも証明って何だ」という内省を数学者の間に引き起こしたというから、穏やかでない。
「これは、〇〇なのか」といった物議でまっさきに頭に浮かぶのは、1917年、マルセル・デュシャンがトイレを美術展覧会へ出品した事件ではないだろうか(作品名「泉」)。トイレは芸術なのだろうか?
この出来事は、嫌悪と賛同がないまぜになった反応を引き起こして、「芸術とは何か」という反省を人々に強いた。それ以降、無数の人々、無数の作品によって繰り返し問われる続けることになる問いを、もっとも印象深く初期の段階で示したのだった。
では、数学における泉は、どのようにして生まれ、どのように現代に根付いたのだろうか。
4色問題とは、地図を色で塗り分けてエリアを区別する際、少なくとも何色必要か?という問題である。互いに隣り合っているエリア同士は違う色で塗る必要がある。例えば、ドイツとフランスには違う色を使う必要があるが、アメリカとブラジルは隣接していないので同じ色を使っても構わない。
エリアの数が多いほどたくさんの色が必要な気もするが、いやいや、隣と色が違えばいいだけだから、色はそんな必要じゃないぞという気もする。大方の予想では「4色あれば十分」である。しかし、それを証明するのが難しい。
この問題が明解に提示されたのは、1852年だそうだ。ド・モルガンが「生徒からこういう問題を受け取ったのだけど」と手紙に記している。この単純な見かけを持つ問題は、実は一筋縄ではいかず、解決に至るまで結局120年以上の月日がかかった。それも、数学者の頭脳によって解かれとは言いきれいような形で解決がもたらされた。つまり、コンピュータの力を借りて。
まず本書冒頭で、4色問題に取り組む上で基礎となる道具、有名なオイラーの定理が紹介される。多面体を考えたとき、
面の数 - 辺の数 + 頂点の数 =2
が常に成り立つというものだ。
オイラーの定理は、多面体からその着想を得ているがその応用範囲は広い。多面体を光で照らして地面に映すと、平面上に描かれた模様=地図へと射影される。だから、地図について成り立つ性質でもあるのだ。また、この模様を、点を線でつないだネットワーク上のグラフと解釈すれば、グラフの性質を述べているとも言える。(というか、オイラーの定理といえば、今日ではグラフ理論の定理を指すことが普通)。
オイラーの定理から、すぐにいくつか重要な定理を導き出せる。「いかなる地図も、お隣の数が5つ以下の国を必ず含む」という定理もその一つだ。つまり、次の5つの形の国のどれかは、必ず地図に含まれる(Unavoidable)。これをUnavaoidableな集合という。この定理では4つの要素からなる集合だが、実は膨大な要素からなるUnavoidableな集合が存在する。これが後に4色問題の証明で決定的な役割を果たす。
Unavoidableな集合の一例↓
4色問題への取り組みの途上でもっとも貢献した人を挙げるとすると、ケンプとバーコフの2人だろう。彼らは地図の色数を減らす(Reduce)手法を示した。
例えば、5色で塗られた地図があったとしても、それを上手く塗り替えると実は4色で済むのではないか、という疑問が当然わく。難しいのは、色を減らそうとある箇所を塗り替えると、隣と同じ色になったりして、今度はお隣も別の塗り替えなきゃいけない…といった連鎖が起こって、結局、局所的な塗り替えが地図全体のグローバルな塗り替えを要求してくるという面である。キリが無さそうな話である。しかも、我々は、ある特定の地図だけを話題にしているのではなくて、あらゆる可能の地図が、4色で済むのか?という問いに答えようとしているので、かなり難しそうな感じがする。
そんな中、ケンプとバーコフは、多くのパターンで色数を4まで減らせることを示した(Reduceできるパターン)。
Unavoidable, reduceという概念が明解になるとともに、4色問題を解くには何を証明すればよいかも明解になっていった。4色問題は、「UnavoidableでReduceできるパターンの集合が存在する」ことを示すことに帰着する。(※理由が気になる人は、一番下に説明あり)
Reduceできるパターンかは、ケンプ、バーコフの方法で調べられるとして、Unavaoidableな集合はどうやって見つけるのか?ここで、放電(Discharge)という、一風変わった手法が考え出された。地図の各国が電子をいくつか持っていると想像して、それらを隣国に渡して放電させることによって、電子の分布を変えてゆく。そして、その電子の分布状況から推察して、「必ず地図に現れるパターン」を見つけることができるのだ。
このあたりは、証明をやっているような実験をやっているような不思議な印象を与える。放電させてその後の電子分布を調べる、というは物理実験ではないのか?数学とは他の科学と違って、実験による確認や反証が不要な特権的な分野という数学観が世にあるが、いつのまにか実験もどきが忍び込んできているような感じなのだ。
ともかく、Unavoidableな集合の要素は次々と見つかっていった。しかし、ReducibleでUnavaoidableな集合がなかなか見つからない。その探索をもっと速く、膨大なチェックをシステマチックに行わなければならない。コンピュータが活用されるのは必然の流れだった。
1976年、アペルとハーケンが、ついにReducibleでUnavoidableな集合を突き止めた。その論文はやたらと長かった。100ページの本文と、700ページの補足、1万個の図、100ページの要約から成り、1000時間のコンピュータの計算時間が費やされていた。決着がついた。地図は4色で塗れる。
4色問題に決着がついたは確かだったが、数学者の反応はまちまちだった。否定的な意見は、
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人の頭とペンで解けていないものを証明と呼んでいいのか
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コンピュータプログラムにバグがある可能もあって疑わしい
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コンピュータにひたすら長い計算をさせただけで、深い洞察や理解を通して解いたわけではない。理解を欠いた解決であり、ひらたく言うと美しくない。
といったものだ。
アペル・ハーケン論文賛成派からの応答は次のようなものだ。
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コンピュータは数学者の脳やペンの延長である。
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コンピュータにやらせたからこそ、むしろ逆に信頼度が高い(人間よりもミスが少ないはず)
私からは3番目の論点について述べたい。まず、4色問題とは、ReducibleでUnavoidableな集合をひたすら探すということに帰着している以上、この馬鹿らしく長い探索は避けて通れなさそうである。仮に人がコンピュータの力を借りずに長い計算をできたとしても、ひたすら計算しただけという不満は相変わらず残る。
結局、4色問題とは、力技でしか解けない種類の問題である。コンピュータを使ったから不満なのではなく、問題の性質自体が不満を呼んでいるようだ。
歴史を振り返ると、元来人間は、ばかばかしく長い計算をひたすら高速にやるということには向いていないので、美しく解ける種類の問題に注力してきた。美しいものにばかり目が向いていたため、美を志向しない数学がありうるということがなかなか意識されることがなかった。しかし近年、コンピュータで力技で解けるようになってきたため、美しくない問題の存在に改めて気づかされた、というのが実際ではないか。
数年前、Googleが、ルービックキューブの面をそろえる最短の手を発表して話題になったが、やはり、従来の意味では美しくない解法であった。
美術の世界では、実はデュシャンの「泉」は、展覧会での展示が拒否された。美の規範に合わないのだ。しかし、やがて第2、第3のデュシャンで美術は溢れて、それらが事実化し、美術の一部となっていった。何を美術かと呼ぶかの境界が再定義されていったのだった。数学でも同じことが起きているのだ。
※「UnvaoidableでReduceできる集合」見つかれば、4色問題が解決される理由
背理法で4色問題が証明できる。反例として5色以上必要な地図があると仮に想定してみる。そのような反例の中で最小の地図について考える(国の数が一番少ないもの。サイズNとしよう)。
UnvaoidableでReduceできる集合の存在が証明できたとすると、この最小反例もReduceできる国を含む(Unavaoidableなので必ず含まれる)。その国(Aと呼ぼう)を取り除いて、1つサイズの小さい地図を考えると、それは4色で塗れるはずである(5色必要な反例は少なくともサイズN以上のはずなので)。さて、取り除いた国を復活させて、何色で塗るか考えると、新たな5色目を使うことなく4色でまかなえるはずである(AはReduceできるので)。結局、最小反例のはずが、4色で塗り替えられてしまった。矛盾するので、5色以上必要な地図があるという仮定が誤り。どんな地図も4色で塗れる。
QED: The Strange Theory of Light and Matter
量子電磁気学についての一般向け書籍。この分野を今日あるような形へと作り上げてきた本人による解説。
なぜ光はガラスを通過したり反射したりするのだろうか?光は、通過か反射かどうやって「決める」のだろうか?日常的な現象に改めて目を向けて、説明を要する現象として取り上げてゆく。数式を用いずに経路積分の概念を紹介し、光と電子の不思議なふるまいに対し、新たな説明が与えられてゆく。後半では、光と電子の相互作用を図示した有名なファインマンダイアグラムも導入する。そして、原子核で起こっていることを、クォーク、弱い力、強い力などを用いて紹介する。
QED: The Strange Theory of Light and Matter (Princeton Science Library)
- 作者: Richard P. Feynman
- 出版社/メーカー: Princeton University Press
- 発売日: 2014/10/26
- メディア: Kindle版
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本書は、4回にわたる一般人向け講義を収録した本で、親しみやすい語り口になっている。日本語版↓も出ているが、英語の方で読んだ。
著者のファインマンは、おそらく最も愛されている物理学者の一人だろう。彼は、「ファインマン物理学」という有名な教科書も書いている。むかし、電車の中で読んでいたら、たまたま隣に座った外国の人に、「それ僕も大学の時に読んでいたよ!」と話しかけられたことがある。聞けば、インド出身の工学者で、いまは日本で勤めているという。見ず知らずでも、「同じ本を好きな私たち」という連帯がすぐに生まれたのであった。
「おや、君もかい」
「ああ、僕もだよ」
車中で愛が芽生えるんである。
光は、なぜガラスを通過したり反射したりするのだろうか?なぜ屈折するのだろうか?次のような説明を聞いた人も多いと思う。
「光は、目的地に達するのに一番早いルートを通ろうとする性質がある。ガラスと空気では、実は光のスピードが違っていて、ガラスの中では遅くなってしまう。そこで、光はガラスを嫌って、ガラスの通り道が短めとなるルート選ぶ。屈折して多少周り道してでも、それが最短時間の経路だからだ。
反射についても同様。光は、反射する際に「入射角=反射角」となるように反射する。こういう経路を通ると、最短ルート、すなわち最短時間でゴールに達するからだ。仮に入射角≠反射角の経路を通ろうとすると、時間をロスしてしまうからね」
初めてこの話を聞いた時は、屈折・反射という現象が、時間の最短化という原理(フェルマーの原理)で説明されることに意外な思いがした。しかし事実なのだから、「そういうもの」として受け入れるしかない、一種の公理に近いようなものとして聞いていた。
それでもなお、時間最短化のフェルマーの原理は、腑に落ちない説明である。なぜ、光は、数ある経路の中で「ゴールへはこの経路が最短だ」なんて知っているのだろうか?そもそも、ゴールがあらかじめ分かっているような目的論的な語り方は変ではないか?本来は光は、物理法則に従って時間の経過とともに一歩一歩前進し、結果的にたどり着いた場所を人間が便宜的にゴールと呼んでいるに過ぎないのではなかったのか。
フェルマーの原理は事実だけれども、不思議であることに変わりないのだ。その不思議さに着目して描かれた小説もある。たとえば、最近映画化されたテッドチャンのSF小説「あたなの人生の物語」(映画題名「メッセージ」)は、地球外生命体が使う未知の言語についての話である。
われわれは、ニュートン方式で世界を見ているが(=時間が進行してゆく舞台としての世界)、フェルマー方式で世界を認識している生き物がいてもいいはずだ。彼らには時間の進行という概念はない。未来という終着駅はそこあって既に見えている。きっと彼らのものの考え方は人間とだいぶ違うだろう。彼らの話す言葉は、われわれに意味を成すのだろうか?
脱線が長くなったが、本書「QED」では、「時間を最小化する経路が実現される」という事実を、さらに原理的な観点から解明してゆく。
この人がファインマンです。
ファインマンの経路積分による説明は明快で、光が最短経路を「知っている」のは、全ての経路を試しているからだ、というものだ。「入射角≠反射角」であるようないびつな経路も含めて、光は全部通っていると考える。
これは狂った考えに見えるが、実験で実証できる。回折格子というものを使う。ガラスの反射を例にとると、反射光とは無関係に思える位置のガラスについても、実際に光が通っていることを確認できるのだ。ガラスに細かい縞々の傷をつけてトリックを作るのだが、その工夫もきれいな理屈にもとづいているので、興味ある人は本書にあたってほしい。
では、光が全部の経路を試したとして、その中からどうやって最短経路を選び出しているのか。光は、どうやって最小化問題を解くのか。
光の振動と干渉が効いてくるのである。互いに少しずれた2本の軌道を比較してみよう。経路の違いに応じて、ゴールに着くタイミングも違うはずだから、振動のタイミングも食い違ってくる。上手くそろっていないので、互いに打ち消し合ってしまう(例えば、振動の山と谷が相殺するイメージ)。結局、2本の軌道は、最終的には相殺して人間に観測されることはない。
しかし、一つ特権的な経路がある。時間最短となる経路だ。高校の数学を思い出してもらうといいのだが、何かを最小とするような位置とは、微分がゼロとなる位置、つまり変化が無いことを意味する。少し位置がずれたところで、結果はほとんど変わらないのだ。直観的には、山の頂上(微分ゼロ)が、なだらかなことに相当する。反射の例に戻れば、隣の軌道との時間のずれがほとんど無いため、振動が打ち消しあわない。時間最短となる付近の経路の束は、タイミングがそろっているので、むしろ強化される。そして光の経路として私たちの前に現れる。
結局、微分・積分が、世界で何が実現され、何が実現されないかを決めている。
以上が、本書の前半だ。経路積分による説明の射程は広い。反射や屈折だけにとどまらず、そもそも光はまっすぐ進むのか、Yesならばそれは何故か、量子力学的なミクロな世界では軌道の概念が成立しないというが、なぜ成立しないのか、といったことも統一的に説明されてゆく。
後半では電子・陽子の移動、陽子の散乱と吸収といった単純なルールによって、いかに世界の複雑性が作られていくかが説明される。後半の書き方は、私にはちょっと駆け足ぎみに感じられたが、情報密度が高い。
光が一カ所に集まってレーザーとなる一方、電子はそうならずにバラける(排他原理)。電子は集団で固まって行動できないので、電子がいくつもある場合は、原子核の近くを回る軌道、少し離れた軌道、さらに離れた軌道・・・といった構造が生まれ、やがて原子・物質の多様性につながる。将棋のようなもので、ルールは簡単でも、盤面で展開される棋譜は無限で、人を魅了する。
本書、というかファインマンのどの著作にも共通するのだが、その魅力を挙げると
といったところになると思う。
良い本です。