刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

「事後」に関心の薄い日本、感情論の奴隷ゆえか

https://news.yahoo.co.jp/articles/d649ff3da242e0d963c69bab7715083977aab2a8

 

やはり北欧には肝心してしまうことが多い。

 

 

そのことについてはひとまず後記とする。

 

 

 

 

私は日本のニュースの在り方に煮えきらぬ不満を抱えていた。

 

例えば住宅街で単純な火事が起きたとする。

 

すかさずニュースにあがるが、「警察は原因を調べています」と言って、そのニュースは終わってしまう。

 

後々、判明したその原因を報道することはほぼなく、人々は大方「火事は怖いねー」との感情的な感想だけでその情報を捨ててしまうし、また原因はなんだったのかと気にする人もほとんどいない。

 

それを私は「感情論の奴隷」と呼んでみた。

 

 

これは時事の大小に関わらない。

 

 

 

そこで、ノルウェーの記事に入ってみる。

 

 

犯罪者のその後に対するアプローチの一つとして、この記事は重要な考察になりえると感じた。

 

現代の日本人は理論武装した論客を好む風潮が強い一方で、感情をひとまず抜きにした論理を展開できない場面が多いという矛盾がある。

 

その矛盾は往々にして断絶という社会の歪みとなって国民の新たなる常識を形成している。

 

京アニ放火事件でも、単純に犯人憎しと死刑を求める声が大きかったが、そこに同情できても犯人を処刑して憂さ晴らしのようにすっきりすることで事件を終わらせるような思慮の浅さには同調できない。

 

勘違いかどうかは別として、そもそも社会との断絶を感じさせることが無差別事件の引き金になっているようにも思うのだ。

 

秋葉原の事件もそう。

 

ノルウェーの「事後」に取り組む姿勢は、受刑者を社会と断絶させないことに寄与している。

 

それは分断なき一つの社会のあり方として、今後世界が目指すべき形のひとつでもあるように思う。

マウントを取ることに、何の躊躇いもない時代

下記の記事に現代に蔓延る病魔が見えるので、記事内容に対する意見ではないが、思うところを述べたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c4fc68eefd958bba519a85be034db33bd567a7d0


ここで言う大人たちの思慮浅さに辟易とする。

彼らの批判のほとんどが言論の交流を望まない一方的なものとなっているため、熟慮を著しく欠いており稚拙甚だしい。

事実、「子供騙し」にすらなっていないことは恥ずべきである。




嘆きや批判より発想に活路を見出だす子供たちに対し、発想や提案へと及ばぬ思考の怠慢を棚に上げ、浅はかな批判を軽々しく口にする呆れた大人の跋扈する現代は誠に愚かしい。




批判は簡単である。

所詮、人の考えうることに完璧などないのだから、粗探しはさほど難しくない。

感情的で一方通行な表面的批判に終始するのではなく、その発想の足りないところを補いうる理性的な批判を、大人としてはすべきではないか。

それが誠に理性的であれば、もはや批判が拒絶的でなくなり心の通いあった交流になるであろう。




マウントをとる、という言葉が広く使われて久しいが、いい大人が自己満足でしかない勝った負けたの空想勝負にばかり心を砕くのは見苦しいことこの上ない。

しかし、本来ならば他者との激しい揉み合いの先でマウントはとれるものなのに、ネット上では陰から寝首を掻くかのように容易く揚げ足を取り、その批判の整合性も客観的に検証せぬまま言いっぱなしでマウントを取ったつもりになれてしまう。

他者と衝突することもなく勝手に優越を貪る現代はやはり病的である。

紡ぎ出すことの苦しみ、抜け出すことの安らぎ

私の稿は極端な言論ばかりだと思われるかもしれない。

事実、言葉というものが真実を表し得ない「道具」である以上、言葉を使えば正か否か、右か左か、貴か賤か、のような二極的表現に流されざるをえないのである。

あるいはその前提を踏まえ、表面的な感情や言葉尻にばかり囚われず言いたいことの「軸」を捉えてほしいとの勝手な望みは拭い去りがたいのだが。


だから私は言葉や安易な表現でなく実践を重んじ、その姿勢に捉えた本質を体現することにしか興味がなく、ゆえに知識ばかりに偏り、又それを得意気にひけらかし敢えて対立を煽りながら勝った負けたの自己優越に囚われ続ける現代人と距離を置きたいのである。


しかしながら既に上記の文に現れている「矛盾」の通り、冷静に自分の文章を眺めてみると、私のなかにもはっきりと「現代人の血」が混じっていることに気付く。



この発見は今に始まったことではない。




むしろそれに苦しみ続けた人生と言ってよい。







真実とは、「今」にしか存在しない。


言葉や絵画、音楽、あらゆるもの全ては人がいくら今を表現したと主張したところで、人の内側から外界に発せられた時点でそれは最早過ぎ去った事実でしかないのだ。


では「今」とは表現しえないものなのかといえばそうではないのだが、とくに現代では他人が自分の捉えている「今」を見ることはまず不可能で、それを可能とするのは中庸的な感受性のなせるところなのだと思う。

つまり受け手の問題なところが大きい、ということは現代の芸術観にも通じるもので、特に受け手側の自己都合的な「愚」の蔓延が表現世界を偏重的に歪め、表現側と受け手側の心の交流で開く豊かな世界がどちらかの一方的な「押し付け」で狭く苦しいものになってしまっている。




私は20歳の頃からそのことに苦しんでいた。


私の考えは人の普遍的理想を実現するための正しい思想であると信じ、それをどうにかしてこの浮き足だった人の世にぶちこみたかった。


方法はいろいろと試し、それぞれでそれなりにのめり込んだが、のめり込むにつれて自分のなかに「偏り」を見つけてしまう。

すると自分だけでなく、私の表現を受け取る人にも都合よく受け取りたい何かが具体的に存在していることに気付く。


そのなかで行われる表現を通した心の交流は、自分にとって都合の悪いもの、嫌いなものを徹底的に排除した、誠に居心地のよいご都合世界でしかなかったのである。



ニュースなどでスポーツ選手にインタビューする記者に、こう答えてほしいという意図が丸見えな「クソつまらん」質問が多いと思うのは私だけではないだろう。



そのような極めて「バーチャル」めいたご都合世界の創造に腐心するのは何も現代だけの特徴ではないが、今は化石燃料を効率的に熱源としうる技術があるため、そのバーチャルへ向かう加速度的な時代遷移が人々をさらに「阿呆化」させ、ありえない世界を夢見させてしまう。




私はとにかく隔離的なバーチャル世界から逃げたかった。


だから大学を離れ、言論から離れ、ギターから離れ、社会活動から離れ、人から離れ、そして旅に旅を重ねて逃げ惑った。



人に対して自己を表現する、つまり今という生命体としての本質を、何かを媒体にして「分かち合う」ことなど不可能であると先に気付いてしまった「不幸」が私を逃避行に駆り立てた。











だが、これがいわゆる「転換期」というものだろうか、最近はその苦しみから距離を置けている気がする。


近頃の私は今までにないほど「快活的」といえる。


その要素はいくつかあるかもしれないが、ひとつだけはっきりしているのは現在私の活動全てには毛ほども目的意識がないことである。





…「毛ほど」は言い過ぎかもしれない。





だがそれがないだけで、何をしても誠に心安らぐ思いで日々を過ごせる。


目的意識をもつことは一般常識的な最良であるだろうが、私はそれを持つことで過去の自分より大して成長していないなどと比較の連鎖に苦しむだけであった。


目的に向かって汗を流し、喜びになればそれもいいが、私のように苦しむだけであるのなら、いっそ目的など捨ててしまえばいい。




そして、こうも思う。


例えば人が私の武術鍛練を見て、それが何を意味するのかわからなく、「それは何のためにやっているのか」と聞かれたとき、「さぁ、意味など考えたこともない」と素直な心で言えたらいいと。


意味や目的、未来の理想像に囚われない境地から初めて足裏で大地を感じることができ、そして呼吸のなかから自己を見出だす、まさに「今」というものが表現できるのではないだろうか。

NHKラジオを聞いて

たまたま聞いていたラジオに思うところがあり、眠気眼で脈動の激しくなるような「ご意見」を公式サイトに送った。

だが文字数制限に苛まれてしまい、消化不良を起こしかねないために当ブログを利用して気持ちのいい朝を迎えることにする。



いや、それができないことはあえて言うべくもないか。




以下全文



なぜNHKは我田引水の権化たる竹中平蔵を臆面もなく出演させているのでしょうか。彼の経歴や肩書きを誉めそやしたいのであれば、その「功」にいたるまでに犯した「罪」についても同様に言及すべきです。東京五輪は彼の会社に莫大な利益をもたらすものであり、利権の蜜に群がる虫の如き彼らが是が非でも開催に漕ぎ着けた結果、コロナウィルスの感染爆発が起こりました。当然、それが全ての原因とは言えません。しかし彼ら「上流階級」の節操なき厚顔無恥な経済活動が国民を振り回し、また死に追いやった事実は確かにあるのです。
そして東京五輪が始まるまで開催の是非をしきりに報じていた貴社を含む各メディア、いざ始まってしまえば手のひらを返し五輪美談の活字探しに腐心するその浅ましい体質は実に恥ずべきものです。事が過ぎた後こそ、その是非について大いに論じ、考察すべきなのです。いつも「功」のみをひけらかし、反省もせず曖昧な態度で過ぎたことに蓋をする日本人のふざけた気質は、日本の歴史が時の権力者の監視下で不都合を塗り潰しながら伝えられてきたという「遺伝的性格」を見事に体現しており、またその日本的宿痾に拍車をかけるのはあなた方メディアなのです。その責任の重さを痛感しなければなりません。
常に利権と内外の政治バランスに翻弄されていては時事を伝えることの本義を掴むことはできないでしょう。

本質的にピラミッド型である社会構造は上から見下ろすのではなく下から見上げ、さらには距離をおくということが社会を片寄りなく捉える姿勢であります。なぜなら社会とは個人の積み上げによって成り立っているからです。
竹中氏を含む、社会を実質的に回している極一部の「トップリーダー」たちは社会の上層だけで金が回ることを「経済」と呼んでいます。その立場から下に降りようとせず、常に高いところから世を眺める人間に誠の「経世済民」はありえません。

いい加減な権威に阿るのはもうやめましょう。社会をよくしたい、との想いが純粋で報道理念に少しでも引っ掛かっているのなら、世の中を歩いてその「原石」に気付きましょう。泥臭く地をゆき、路傍に転がる同じような石の、それぞれが各々に含蓄した空間的な記憶の多様さに気付くことは仏教に言うところの「知慧」であります。また本物の「篤志家」とは、そのような石ころだらけの在野にこそあるものです。

食品偽装から見る日本の体質

熊本におけるアサリの産地偽装問題が衆目を浴びた。

 

相変わらず正義の立役者になりたがる報道機関と政府の厚顔無恥さにあきれ果てるのは私だけか。

 

 

これまでも社会問題の度に事の正否を問うただけで何か好転したことがあっただろうか。

 

周知の通り食品偽装はこの20年間だけでも枚挙に暇がない程に各地で乱発し、その度に食の安全云々と論うものの、世間は時世時節の信者よろしく忘れてまた新たな活字に飛びつき、正義の立役者たちも諸悪の種を大事に育てて次はいつその芽を摘み取ってやろうかと都合のいい時期をただ窺い続け、それまで放置している。

 

 

肩を持つつもりはないが、はっきり言って熊本はさらし首にされたようなもので、別に熊本のアサリでなくてもよかったはずなのである。

 

海外で生まれ日本で育てた家畜が国産肉と表記できてしまうのは、法律でその権利が保障されているからで、疑念の余地は十分にあるが、それがなぜ槍玉にあげられないかといえば、その「構造」を追及させたくない正義の立役者たちに守られているからである。

 

 

その「構造」に切り込んだ、珍しく見応えのある記事があったので紹介する。

 

アサリの産地偽装はなぜ繰り返されるのか? ~みんなが幸せになる産地偽装のカラクリ~(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

この文章からは問題意識を注ぐべきところが1か所に留まらず、また物事が表層だけでなく目に見えない根の果てしない広がりから成り立ち、繋がっていることを理解している稀有なる人物だということを窺い知れる。

 

学者がここまで問題の根底を掘り下げ、質そうとしているのは稀なことで、大抵はその追及のどこかで忖度という名の「自制」を課してしまうことが多いのだ。

 

在野の無頼派こそ誰に阿るでもなく純粋な眼を持ちうると思い、権威と距離を置き続けたことも悪くはなかったが、大学をやめたことの唯一の後悔である、「唾棄したいほどの違和感に対し、その違和感の中で向き合うべきだった」ことを回想させるこの記事に、多少胸の空く心地を得た。

 

 

それはさておき、この記事で重要なことは、我々消費者が自身の生活に密接なはずの事の背景に対して甚だしく無知であり、しかも大して知ろうとしないその姿勢を言外に非難していることであり、また面白いのは何も知らないままで過ぎれば皆幸せだとも言っていることである。

 

つまり我々は常に正義の立役者たちに翻弄され、あるいは手玉に取られ、我々の細やかな幸せすらも彼らに左右されてしまう無力な「愚民」であることにいつまでも甘んじているということを皮肉り、穿ってみればいら立ちさえ感じさせる内容にもなっている。

 

大抵の情報ならネット環境次第でいくらでも得られる時代にあって、人々は自分都合で興味のあるコンテンツのなかだけに「引きこも」る性質があることを私は度々指摘してきたが、それはネット環境の有無や操作の得手不得手を詰る以前の問題として、人間性の前提的な「情報弱者」としての一面を表すものである。

 

そこで私は、ネットという極めて都合性の高い情報源は汎用性にさえ資するにも関わらず、テレビという媒体がしぶとく生活の一部になり続けている理由を垣間見るのである――生来的な情報弱者たる我々に最低限度の社会時事を手頃な容量にまとめて報じてくれる全自動情報発信機は、その情報が例え都合よく「切り取られ」ていても「嘘」でさえなければ「社会的」には有能な情報源であり続けられるのだ。

 

 

今回の食品偽装に関する各社の報道の仕方はやはりまずく、馬鹿の一つ覚えのように偽装はいけない、との論調に終始するこの日本社会はどこまで幼稚園なのだろうか。

 

 

人々にとって数ある情報の一「選択肢」でしかないこの記事の洞察的な言及が、根本的な情報弱者たちに有無を言わさず情報を浴びせる全自動情報発信機からの提供にさえならないようなら、我々は自ら民主制を遠ざける愚かな民であり続けることだろう。

 

また、それほど情報機関とは民政のあり方に大きな影響を与えうるということでもある。

夢について②

前稿にて「叶わないのも夢」と書いた。



確かに夢にまで見るものだから叶えば嬉しいが、叶わなくとも夢を見る、ただそれだけで心が豊かになることもあるだろう。



また何らかの影響で夢が果たせなくなることは、例えばこのコロナ禍において多くの人が経験したことでもある。




私もその一人だ。


おそらく私が社会的に身軽なうちに海外へ行くことはもう叶わないだろう。

ワーホリ、シルクロードサンティアゴ巡礼、世界を舞台にした民俗研究、数々の望みが夢として散った。

それでもふと、散った破片に想いを馳せる一時は実に心地よいものである。







夢に想うと書いて「夢想」という言葉がある。


私の縄文研究におけるテーマの一つとして「祈り」を掲げていたが、夢想と祈りはその性質において近しいものを感じる。


祈り自体は縄文期と弥生以降で意味合いが違うのではないかという持論があるのだが、それについては稿を改めるとして、祈りと夢想は空間的、もしくは現実的な制約を受けることなく自由に、そして対象を強く実感しようとする積極的な行である。









私の夢想の話をしたい。





会いたくても会えない人がいる。



それは亡くなった人もいれば、遠くにいる人、裏切ってしまった人、再会を望んではくれない人など様々である。



たくさんいるが、印象的な人がいる。




素敵な人だった。


あれほど一緒にいて楽しい人もいなかった。


宝物のように大事にしまっては時折取り出して懐かしむ私のように、その思い出が今もあなたの胸を温めてくれていたら、と願わずにはいられない。


正直に言えば思い出のままにしたくない。

新たな気持ちで共にまた日々を積み重ねていきたいと未だに思っているし、それが無理ならせめて話だけでもしたいのだ。




しかしそれは儚い私の「夢」でしかない。


人の夢とは「儚い」のだ。


叶わないからこそ、もう会えないからこそ、そして儚いからこそ、あの日あの時の思い出たちが夕焼けのような優しさで裸の心を包んでくれる。


「美し」と書いて「かなし」と読むように、まこと美しさとは悲しさの裏返しであり、悲しみという純粋さが心を真心として受け止め、温めてくれるのだ。


それを「愛し(かなし)」と呼ぶのである。


その愛というものを愛せるうちに気付けられないから人は「可愛い」のだ。








図らずも最後は「愛燦燦」のような稿になってしまった。




じきに年が明けてしまうので、このとんでもなかった一年を自分なりに締めくくっておきたかった。

綺麗にまとめている感じが少々気に食わないのが私らしい。


また、私らしくないのが来年は盛大に面白いことを企画していることだ。


その詳細は追々として、できる限り日々を稿にしてまとめていくつもりなので、来年も稀有な読者の耳目に敵う内容を書いていきたい。

夢について①

夢について書きたい。


しかしながら世間一般的な「我が夢を語る」類いの話題でないことは、聡明なる当ブログ読者にとっては言うまでもないことだろう。

物事の本質を捉えるために常識的な視点をずらしてみるという試みとして読んでいただきたい。



「夢を現実にする」というような文言をさも健全なる諸氏の美徳のように持て囃すが、そのように肩肘張って叶えることばかりが夢の価値であるような風潮はただ息苦しいだけではないだろうか。


それも夢だとして、しかし私はむしろ叶わないのが夢であると考えたい。


ゆえに「夢は寝て見るもの」といった言い草は嫌いでなく、「覚めては弾けて消えるもの」と付け加えてもよさそうなもので、国や個人もその刹那なる「バブル」に度々囚われがちである。


とはいえ叶えるための夢に邁進する挑戦者をからかっているのではない。

そのような人らは目立ちやすく衆目を集めがちなために評価を受けやすいが、夢や希望ではなく今をただ懸命に生きているだけの人をこそ余さず愛でたいという想いが私にはある。


歴史上、その困苦たる境遇から生きることの本質のみを求めざるを得なかった国家のマジョリティーたる庶民は今を生きることに必死で、その必死さから土着的な実践的文化が開花した。

史実に明らかなる偉人たちは変革のきっかけを生むことはあってもそれは歴史上の点でしかなく、変革が形を帯びるためには名も残らぬ被支配層の連綿とした犠牲がなくてはならない。

家柄、権力、所得など、どの時代にも存在するピラミッド型階級社会の下層部は、わずかばかりの上層部が富裕であるための必然的な努力と犠牲を支払ってきており、それは民主化の名のもとに見えにくくなった今日でも変わらない事実である。


自分を含めたその下層部をこそ愛でたい、というのは国、組織、集団というのは下から個を積み上げていった結果であり、ゆえにそれら社会を洞察するには上から見下ろすのではなく下から見上げることが大事だという想いがあるからである。

しかもこの発想はやはり武術的でもあり、我々は大地という下からの支えがなくては動くことすら叶わないのである。


現代のように大多数たる庶民が実践しえない言葉や思考、方法論が跋扈し、それを為し得る極一部が自らのマイノリティーをひけらかし名実の満ち足りた暮らしを謳歌したがる利己的社会の浮き足立った不安定さを捉えなくてはならない。

同時に「支え」となっているところを知覚することは自らの芯を捉える「内観」と相通じるが、順序としてはまず自身が支えの上に芯を立てることであろう。