鑑賞録やその他の記事

映画する人、奧山順市

書き下ろしです。

奧山順市の『我が映画旋律』(1980)を最初に観た衝撃は忘れられない。

ハイコントラストな白黒の7分間のフィルムで、メインのイメージは、黒地に素早く伸び縮みする白い横縞。伸びて画面端を過ぎるたびに不思議な音を立てる。突如、耳を聾するノイズとともに網目・木目・デコボコ模様などが現れ、そしてまた白い横縞のイメージに戻る。そんな構成の中で、ノイズとともに現れる模様は変化し、音も変化する…。

言葉にしてみればこんな具合だから、うまく伝わるとは思えない。しかし当時、大学に入ったばかりで、実験映画ってナンジャラホイ、今まで知らなかったから好奇心で観てみるかと、その手のフェスティバル的な上映会に行った自分が、案の定「ナンジャラホイ、でもあんま面白くねえなあ」と生意気に思っていたとき。あまりにも唐突に、強烈な豪雨のように降りかかってきた未知の体験だった。
それまで見せられていたのに比べ、圧倒的に「断固たる」映像がそこにはあった。芸術家ぶった「イメージの世界」とか「ポエム」とかではない、フィルムという物質の生のまま姿で可能な表現をギリギリまで絞り込んだものを見せつけられたような衝撃。

後で知ったのだが、本作はX線で撮影され、伸び縮みする横縞は機織りの筬(おさ※注1)だという。そしてさらに重要なのは、印象的な「音」は、撮られた映像がフィルムのサウンドトラック部分にまで焼き付けられて発していたものだという。
一般に光学アナログ方式の映画フィルムの音声は、画面外に焼きつけられた音声波形の模様-レコードで言えば溝みたいなもの-を、映写機が読み取って再生するのだが。ここに映像そのものの端を焼き込んで異常な音にしているのだ。だから例えば筬の横模様ならば、画面端を過ぎてサウンドトラック領域に達するたびに、音が鳴るわけである。伸び縮みせずにフィルム全面を覆う模様ならば、轟音のようなノイズが出てくるわけである。
ただ、そういう「タネ」を知らぬまま観ても、映像自体が音に直結してることは体感できるし。実験室から出てきたばかりの即物的な-その名の通りの-「実験映画」に触れてしまった驚きが身体を貫いた。いや、ある意味、映画=フィルムそのものに触れてしまったと驚き、打ちのめされたというべきかも。もちろん、知って観てても、それはそれで感動したと思うが。

以来、奧山順市の名は意識するようにして、実験映画の上映会には熱心でない自分でも、『Le Cinema』(75)『映画の原点』(78)『E & B』(81 "B" は左右反転で表記)『写真を刻む』(83)『INGA の世界』(96)などの作品を観た。そして観れば必ず、フィルムそのもの、映画の仕組みそのものにこだわった作品づくりに感銘を受け、徹底した表現に触れたとき特有の充実感を得た。
同時に、優れた映画作品にしばしばある「これ絶対、変なひとが作ってるぞ!」という手応えに嬉しくなった。このような「変さ」を、自分は尊敬する。このようなひとを芸術家と呼ぶ必要はないと思う。研究家であり実験者であり探求者であり、そうした生き方が奧山順市の芸であり、映画なのだ。

そんな奧山順市の上映会「映画する人-奧山順市レトロスペクティブ2024」が渋谷のイメージフォーラムの3Fで開催され(実は今までにもこの優れた作家の特集は何度かあったのだが、実験映画情報に疎い自分は逃し続けていたのだ)、4つあるプログラムのうち、A「映画解体計画」・B「映画組成計画」の2つを観てきた。
やはり期待通り、奇妙な映画研究者の実験室に迷い込んだような素晴らしい体験で、その中でフィルムは、一コマずつ手動でシャッターを押した旅の記録を描き出したり(『BANG VOYAGE』(1967))、ちぎれたり(『切断』(1969))溶けたり(『No Perforations』(1971))焦げたり(『紙映画』(1972))して物質性を生々しく曝け出し、作り方としては、同じ1秒分の24コマのフィルムを再構成し続けたり(『Le Cinema』)コマどうしの変わり目ではないところで繋いだり(『MOVIE WATCHING』(82))裏返してつなぐことで動きを生み出したり(『写真を刻む』)縦に切断されたのを縫いつけたり(『映画する人』(86~87))して、原初的な映画の仕組みへの-容赦ないとも言いたくなる-こだわりを見せつけてくる(※注2)。

もちろんこれらは多数の観客に向けた娯楽映画とは対極のもので、観るひとによってはどう味わっていいのか全くわからぬ、意味不明で退屈なだけのものになるのだろうし。そういうひとがダメだというわけでは、決して無い(その中には、別種のキレイな映像詩然とした「実験映画」を気に入るひともいるかも知れない)。
しかしこれらの-とても舌触りがいいとはいえない-映画の原液を飲み干す魅力を「たまたま」知ってしまった場合には、他では得難い貴重な体験となる。そして、かつて黒澤明が長尺映画『白痴』(51)のカットを要求されて「これ以上、切るならフィルムを縦に切れ」と怒鳴ったとき、「いいんでしょうか?」とハサミを手に現れる奧山順市の姿を想像したりして、愉しくなってしまうのだ(もちろん実際は監督の意思を尊重されるだろうから、あまり真面目に受け取らないでね)。

各プログラムには奧山順市氏本人が同席されて、最後には質疑応答の時間が設けられた。
そのとき自分は、「初期のフィルムは繰り返しの上映の中でゴミや傷が加わっていきますが、これらの無かった出来たばかりの上映時のものを見せたいとお思いですか?」と問うてみたのだが。奥山氏は映画作家によってさまざまな考えがあるでしょうが-という前置きをされてから、自分としては、作家も年を取るように映画も年を取って変わっていっていいのではないかと考えているという旨のお答えをされた。
それでこそ映画する人、奧山順市だと思う。逆にいえば、年を取ってしまってボロボロの傷とホコリだらけになったフィルムでも、前とは決して同じ形ではない最新版なのだ。
フィルムは上映されたとき、その場限りの新作の姿をあらわす。そんなことを強く感じさせてくれる映画作家の作品群を目にすることができたのは、とても幸せだった。

注1:以下、日本竹筬技術保存研究会のサイトにある筬(おさ)の説明を引用する。
> 筬(おさ・オサ)とはハタオリを行う際に、経糸に通された緯糸の目を詰める作業に使用する櫛状の道具のことです。
> 筬には、経糸が絡まないようにすること、経糸の間に杼によって通された緯糸を強く織り込むこと、また櫛の歯にあたる筬羽の間に経糸を通すことで織幅を一定に保つこと、といった役割があります。

注2:この上映会では『我が映画旋律』もかけられた。もちろん素晴らしい作品ではあったが、上映されたのは16ミリ版だった。最初に観たのは35ミリ版で、作品の作り方からして出てくる音が異なってしまうのだ。そして記憶では35ミリの方がより音が刺激的で、白黒のコントラストも強烈だった。また35ミリ版が観られる機会があれば、ぜひとも駆けつけたい。

奧山順市公式サイト https://www.ne.jp/asahi/okuyama/junichi/

生きる場を繋ぐ『夜明けのすべて』(2024)

書き下ろしです。

三宅唱監督の新作『夜明けのすべて』(2024)を観る。

PMS(月経前症候群)を患い、月に一度自分がコントロールできなくなってしまう藤沢美紗(上白石萌音)は、仕事に大失敗して失職。病気に理解ある新たな就職先で、パニック障害を抱えた青年、山添孝俊(松村北斗)に出会う。当初は美紗が病気ゆえの癇癪をぶつけてしまったこともあってギクシャクするふたりだったが、やがて性別の垣根をこえた同志のような関係を築くに至る…。

職場で発症して壊れてしまった美紗がベンチで大雨に打たれている冒頭から、病ゆえの生きづらさが説得力をもって描かれ、母親とともにコートを雨よけにして警察署から出てくるみごとなフルショットに心震える頃には、早くも乗せられてしまっている。
以降、カットごとに的確に捉えられた場所の雰囲気の中、登場人物の言葉にし難い心の動きが声高にならずにじみ出してくる感じで、しっかり見せていく。うまくて、品位がある。

上白石は三宅監督の前作『ケイコ目を澄ませて』(22)の岸井ゆきのにも通じる「質量ある小動物的存在感」を漂わせつつ、病気の厄介さとそれゆえの悩み深さをしっかりした輪郭で演じている。
その上で、ちょっとズレた人柄がユーモラスに表出しているのが、非常にいい。甘くないお菓子としてしば漬け(だったっけ?)を差し出したり、素人床屋として一発目のハサミで大胆に切っちゃうところなど、声を出して笑ってしまった。
その関係性の中ではどちらかというと受けにまわる松村のちょうどいい抑制も気持ち良くて、孝俊が癇癪を起こしそうな美紗に車を洗わせるところなど、芝居で見せる映画の楽しさを堪能した。

タイトルにある「夜明け」は、単純に「新たなる希望」なだけではなく、人間が生きる「時」のシークエンスをつなぐ曖昧な(オーバーラップ的な)区切りとして、意識させられる。それは「夜」という豊かな時との別れでもあり、また新たに時間をつないでいくことで、ひとは生きることを充実させたり苦しんだりする。
そんな「夜明け」を語る言葉が、映画の中ではすでに生きてないひとから生きる美紗に繋がれるのが味わい深い。

死者をも宇宙をも-決して断ち切った関係にはない-外部に置いたところで、うつろいゆく場から場へ生きる登場人物たちを見て、無意識下にでも、何らかの「発見」があったのかも知れないと感じる。そんな充実が得られるから、この映画を観たことも、我らの貴重な人生体験になるだろう。
本作はシーンごとに(他の映画に比べて)、人物どうしが「それじゃまたね」と言い合うまでを描き切る。物語を調子良く進めるため、末尾を省略するようなことが比較的少なめだ。それゆえ、人間が生活の中で、ひとつの「場」をやり終えて次の「場」に移っていく-いわば-「生き続けること」の実感が出てくる。こういう作り方もいいじゃないか。

あとは余談。作中で美紗が、「宇宙ネタ映画」として挙げる選択が面白い。
もしリアルで「映画に限らずそれなりに知識のある大人」なら、まず「『2001年』は観た?」になるよね? それは避けて、「この人物が『映画ファン』になっちゃってもいいからあの2本にしよう」という作り手の意思を感じる。
それらをタイトルを直接言わせずにボカすあたりが、「ちょうどいい感じの通俗」なのかな? 村上春樹の小説で『ザ・ミュージング・オブ・マイルス』ってアルバムを、「『ギャル・イン・キャリコ』の入ったマイルス・デイビス」と書くみたいな…ね。

追記:職場の時間経過を固定カメラでオーバーラップで重ねていくところは、もしもそこだけ独立した作品であっても感動するぐらい、とても美しかった。もちろん、この映画の中でこその深い意義があるわけだが。

『すべて、至るところにある』(2023)、或いは、「ない」?

書き下ろしです。

マレーシア出身で大阪を拠点に活動するリム・カーワイ監督の最新作『すべて、至るところにある』を、渋谷のイメージフォーラムで観た。

バルカン半島で出会った女性エヴァ(アデラ・ソー)と男性映画監督ジェイ(尚玄)。ふたりは意気投合し、ジェイはエヴァをヒロインに映画を撮影する。やがてジェイは姿を消し、エヴァは完成した映画も観ないまま、彼の行方を追ってバルカン半島の国々を巡る…。

物語には大きく3つの流れがある。1、エヴァとジェイの出会いと映画作り。2、エヴァと別れたジェイの旅。3、エヴァのジェイを探す旅。
-これらがときには前後し、ときには並行して描かれる中、別の要素もある。随所でバルカン半島で取材した人々のナマのインタビュー(というより、カメラの前での語り)が挿入されるのだ。戦争の体験を語る彼らはドキュメンタリーの取材対象でありながら、エヴァとジェイの物語の登場人物にもなる。
フィクションとドキュメンタリーを独自の手つきでミックスした作りだ。

エヴァとジェイの最初の出会いに注目したい。
ジェイは-橋の上だったか-高い、かなり離れた場所からエヴァの小さな姿を見下ろす。それからすぐ、エヴァがジェイに-目と鼻の先にいたが如く-近よるカットになる。実際は時間をかけてやってくるのが省略されてるわけで、そのこと自体は映画として珍しくはない。むしろそういうのがない映画は、かなり「たるい」。
にもかかわらずここで印象に残るのは、作り手の距離に対する鋭い感覚もあるだろうし。前もって-このシーンから時系列的には後になる-離れてしまったエヴァとジェイを見ているからかも知れない。

そのように本作では登場人物間の空間的(または時間的な)距離が描かれ、同時にそれが「映画である」ことで消えさる予感をも漂わせ続ける。
それは例えばこういうことだ。別々になったエヴァとジェイだが、映画の作り方として、片方が見つめるカットの次にもうひとりをつなげれば、一気に近くの相手を見ていることになる。ふたりが再会しないのは、たまたまそのようにカットがつながってないからではないのか-という気にさせられる。

あるいは逆に、ある場所をジェイが訪れ、しばらくしてから同じ場所をエヴァが訪れるとき、結局ここで感じられる時間的な(または空間的な)距離は映画が捏造したものではないか-という気にもなる。
ふたりは同じ場所にいたのに、映画の作り方として、別のシーンにしたから距離が生まれたのではないか。カメラが回ってないとき、エヴァとジェイ-というより-アデラ・ソーと尚玄は、一緒にその場にいたのではないか。だとしたら、役になることが距離を引き寄せたのか?

こうして観客の俺は、距離があること、無くなることを、「それが映画だから」として捉え、しかも実在する距離に縛られたドキュメンタリーと共存してることに、心地よい混乱を覚える。

その混乱を通じて共有できる「映画の旅」の不定形の魅力が頂点に達するのは、エヴァとジェイの再会と言えるかも知れないシーンだ。
美しく捉えられた川にいるエヴァ(と、もうひとりの女性)を橋の上から見下ろすジェイ。
それはエヴァの感じた幻かも知れないし、実はジェイは生きていて見ていたのかも知れないし。さらにいえば、時制的には過去にそこにいたジェイの見ている姿といまのエヴァが、映画として、たまたま「つながってしまった」のかも知れない。

そのどこにも結論づけられないまま、その後の映画が上映されるシーンでエヴァが「ジェイは私たちを見ている」というようなことを-不気味にではなく-あっさりと語ってしまうのを見ると、「映画」における距離の捏造も無効化も、人間の「心」とつながってくるような気がして、「すべて、至るところにある」と呟きたくなってしまうのだが。
いや、逆に「ない」からこそ、ひとは映画を、映画はひとを、追いかけたくなるんじゃないか。そういうことに気づかせてくれる映画なんじゃないか…とも、つけ足したくなってしまう。

SF的なモニュメントが散在する風景を取り込みつつ、自らのリズムで消化していく監督の語り口は、人間臭い息遣いを感じさせて魅力的だし。まずはそこに「在ろう」とする役者たちもよき共犯者となっている。
あと一歩、例えば、歌か、歌に匹敵する美しいモノローグがあればもっと凄かった-と思うのは、俺の趣味なのかな。もちろん今のままでも充分に刺激的で、世界を見る目が少しだけ変わるような得難い体験をした。

芸術的珍品『あるじ』(1925)

書き下ろしです。

2022年末に好評だったカール・テオドア・ドライヤー監督特集が、再び開催されている。
今回新たに加えられた3作のうち『あるじ』を観た。初見。1925年、ドライヤーが30代半ばのときに母国デンマークで撮ったもので、フランスなどで大ヒットし、映画史に名を残す傑作『裁かるるジャンヌ』(28)制作につながったという。

失業中のヴィクトルは家庭では暴君のように振る舞い、特に献身的な若妻イダに辛く当たる。その有様を見かねたヴィクトルの乳母マッスは、一計を案じる。イダを病気療養の名目で実家に帰らせ、彼女のいない生活の不自由を思い知らせようというのだ…。

マッスを演じるマチルド・ニールセンが貫禄たっぷりの肝っ玉おばさんぶりで、まずはこのひとの芝居を楽しむ映画と言えるだろう。
当時すでにデビュー40年のベテランで、この後も多くの映画に主演。42年には本作のリメイクで同じマッス役を演じた。彼女に肩入れして見れば、ワガママ男を凹ませて可愛そうな女性を救う痛快コメディに見えるわけだし、実際、そういうのが本作の "売り" なんだろうと思う。

しかし、どうもそれだけの印象ではない。
もちろん、ドライヤーらしいある種の徹底性を感じさせる美的な魅力はある。当時のデンマークの家庭を再現したセットは、リアルでありながらも、役者の動きとともに見事な映像を形作っていく。ストーブ、やかん、鳥かご、ネクタイ、机の脚などの細部が的確に役割を演じ、映画全体のテンポも着実。高度に完成された無声映画を観るときのしっかりした手応えを得ることができる。

しかし自分が強く揺さぶられたのは、この映画のヤバさというか、倒錯的なところだ。

まず前半のヴィクトルの横暴ぶりは、暴力的なサディズムを感じさせる。
ストーリー上この男が酷ければ酷いほど後半に効果が上がるんだから仕方ないじゃないか…という意見もあるだろうし、それはその通りなのだが。演じるヨハンネス・マイヤーの病的に凝り固まったような表情が、必要以上の悪魔性を感じさせてはいないだろうか。単に「荒れてる」のではなく、神経症的な怖さと一触即発の加虐性を漂わせている。
彼の家族への虐待の中で-デンマークではよくあるのかは知らないが-息子を壁に向かって立たせて手を後ろに組ませるというのがあり、その印象はとりわけ陰惨だ。その後のシーンで息子の後ろ姿が、さりげなく「道具」のように映り込んでるのに、何とも言えないものがある。

そして後半、ヴィクトルは思い知らされ、徐々に反省していくのだが。そんな彼はあたかもマッスに「調教」されているように見えてくる。マッスはマッスで支配下に置いた者を観察する「主人」となり、ふたりの関係はSM色濃厚に見える。
その関係の中でヴィクトルは「罰せられるべき者」としての自分に目覚め、子どもの立場に追いやられる…いや、自らを追いやるのである! 成熟した子どもという倒錯!
そして遂には-自分が息子に強いたような-鞭打ちをも受け入れる体勢で、壁に向かって立つことになる。それは、「調教を受け入れる者」としての、マゾヒスティックな「奴隷完成形」に見える。後手を組むことは、縛られることを受け入れるための決定的な仕草だ。

映画はそこまでやっておきながらヴィクトルとイダの再会(それも「主人」たるマッスの思惑通りなのだが)で、穏やかなハッピーエンドを迎えるのだが。倒錯性の印象は鑑賞後も澱みのように残る。
それが美しさへの感銘と共にあるのだから、これはかなり厄介な、一言では言い難い魅力ある映画だと言えよう。もしもクリント・イーストウッドが観たら、自分がヴィクトル役でリメイクしたいと思うのではないだろうか。

傑作である-と言うには、そんな明快な結論は似合わないような気がする。あくまでもコメディであることも踏まえて、異常に魅力的な珍品と呼びたい。ドライヤーらしい芸術性に満ちた珍品として、こわごわ、愛でていきたい映画なのだ。

力作『窓ぎわのトットちゃん』(2023)

書き下ろしです。

八鍬新之介監督作『窓ぎわのトットちゃん』(23)を観る。
言わずとしれた黒柳徹子の大ベストセラーの映画化で、黒柳は製作にも名を連ね、ナレーションも務めている(※注)。

勉強不足なことに自分はこの原作、読んでないのだ。ただしそんな自分でも、"トットちゃん" と呼ばれる幼い頃の黒柳が、問題児扱いされて転校し、新たな学校のユニークな教育方針のもと、のびのびと育つ話らしい-ということは知っているし、映画を観てもそういう部分が大きかった。…というのは、それだけではない部分も充分にあったということなのだが。

アニメの絵柄はちょっと癖のある感じの個性的なもので、予告を観たとき「苦手かな」と思ったのだが、本篇でも馴染めなかった。
逆にピッタリ来るひとならば、最初からずっと「ノッて」観ることができるだろう。それ自体は-自分の嗜好に合わなかったのは残念としても-良いことなんだろうと思う。

では、そうした "タッチ" 以外のドラマ演出的な面はどうだったかというと、これはかなりしっかりと作ってある。
登校の際に通る改札のオジサンとの交流とか、新しい学校での教育内容の描写など、丁寧に押さえていくことで、気持ちよく主人公のトットちゃんに寄り添って観られるようになっている。もちろん、トットちゃんの個性というか言動の特徴もよく伝わってくる。

一方で、「これはどうかな?」と思ってしまう箇所もある。
ここからはネタバレ全開になるが。例えば、(電車の車両が校舎になっている)学校に新しい車両が来ると知った子どもたちが、「どういう方法で来るか」を話題にした後で、未明に来るのを見るシーン。
ぼんやりとしたモヤの向こうから、いよいよ車両がやってくる。うっすら影が見えてきた。さあ、どういう風に!?…というところで、あっさりカットを割って、方法が分かる画面になってしまうのは、物足りなかった。近づくにつれ影から実体になる描写がアニメ技術的に難しかったにしても、ここはもう少し子どもたちの見た目で「うわぁぁぁ…」と徐々に真相が目の当たりになる感じが出なかったものか。『フェリーニのアマルコルド』(1974)のドドーン!と船が出てくるのとは、違うのだから。
また、仲良しの "泰明ちゃん" と木の上に登る(というかトットちゃんが登らせてあげる)ところは本作の重要シーンのひとつだと思うが。最初のうち失敗して落ちるふたりを直接描かない(別のものをカットインする)のは、どうかと思った。
ここはしっかり子どもたちのアクションや痛みを描くところで、カットインは美的に逃げてる感じが-少なくとも自分には-してしまったのだ。

しかしそうした細かな不満も、後半、トットちゃんと泰明ちゃんの美しい夜の雨のシーンから、お父さんが家でヴァイオリンを弾くのを経て、悲劇が訪れ、トットちゃんの走りになるまでの流れの凄みで吹き飛んでしまう。
この次から次への展開に、作り手たちの「これだ! これを見せたいんだ!」という気持ちが濃縮されているのが素晴らしい。そこでは幼いトットちゃんの個人的体験が、生きた時代と離れがたいものとして、アニメーションという表現に昇華されているのだ。
その熱気に打たれ、感情を掻き立てられる手応え。自分には、尊重すべき "力作" という表現がピッタリ来るように思えた。
決して甘い映画ではないのだ。

ただ、ラストでもうひとつ、ちょっと見過ごせない疑問点があった。
赤ちゃんを抱えたまま走行中の汽車のドアを開けるというのは、いかがなものだろうか。いや、あのシーンは半分幻想で、ドアを開けたのも「つもり」だったのかも知れないけど。絵面では、はっきりそういう危ないことをしてるわけで、自分にはしっくり来なかったな。皆さんはどうだろうか。

それにしても、ここんところ続けて本作、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)、『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』(23)と観て、改めて日本のアニメは凄いと痛感させられた。
評判の良い "ゲ謎" だけじゃなく、そこまででもない "スパファミ" もキレイだし、しっかりエンタテインメントしようという気概が伝わってくる。去年全体を振り返ると宮崎駿新作だけじゃなく "スラダン" もジャズのやつもあったし。映画の中ではアニメと縁遠かった自分だったけど、しっかり観ていかなきゃなあ。

注:最初と最後に出てくるだけで、全篇に流れるわけではない。

見事な綺麗事『PERFECT DAYS』(2023)

書き下ろしです。

ヴィム・ヴェンダース監督が日本で撮影し、役所広司がカンヌで最優秀男優賞に輝いた『PERFECT DAYS』(2023)を観た。

役所演じるひとり暮しの男、平山が、朝起きて車で出発し、渋谷各地の公園のトイレを清掃してまわる繰り返しの日々と、その中にささやかな変化をもたらす出来事の数々、そして平山自身の寡黙な賢者のような人間像を描く。

冒頭、朝日に染まる街の俯瞰にタイトルが重なり、滲んだような色合いの早朝の住宅街で箒をかける人物のローアングルのショットから、「シャ、シャ…」と音が繰り返される中、アパートの部屋に眠っていた平山のアップとなる。
ここでもう、みごとな "タッチ" を感じさせ「ヴェンダース、調子良さそうだぞ!」と思う。

そして始まるテキパキした段取りの出発の "儀式"、車でトイレを巡って清掃、神社の境内で昼食、仕事後の浅草地下街の店で一杯…といった一日の決まりごとを、繰り返し、繰り返し見せる。
通常の映画では一度描いたら充分なところを-合間合間の省略はあるとはいえ-律儀に繰り返すのだ。

だから退屈かというと、そうでもない。描写に魅力があるし、何より繰り返し自体に、何度も同じ旋律に戻ってくる音楽のような味わいがある。
かつてエンケン遠藤賢司)さんは「みんな純音楽家なんだ」と言ったが、まさにこの主人公こそ、生活という純音楽の演奏家な気がしてくる。
一日の終わりになると訪れるまどろみを実験的に表現した白黒映像も、よい区切りになっていると思う。

こんなふうに書いていくと慎ましやかな、禁欲的な映画かと思われそうだが-主人公の人間性はそうであるにしても-そんなことはない。
作り手側は過剰なぐらいやりたいことやってる感じで、趣味的な趣向も、「ちょっといいでしょ?」と言いたげな細部も満載である。割と自己主張の強い自主映画みたいなところはある。
だからまあ、芸のない作り手が真似すると大失敗しそうな感じは、物凄くある。

そして先に言った "出来事の数々" の中に比較的目立つ事件が3つあるのだが、それぞれについて、一歩間違えば観ていて気恥ずかしくなってしまいそうなポイントがある。
ひとつ、ネタバレをお許しいただいて、具体的に書いてみよう。

ある夜、平山のもとに高校生ぐらいの姪が転がり込んでくる。母親(平山の妹)と喧嘩して家出したのだ。翌日、いつものように早起きした平山についていき、トイレ巡りし、慣れぬ手つきで仕事も手伝う。一日の終りのお決まりの銭湯タイムも、それぞれの湯に入り、休憩所で落ち合ったりする。
橋の上、隅田川の流れを見下ろすふたり。
「この先、どこに続いているの?」と姪(ここから、セリフは不正確)。「海だよ」「行きたい」「今度ね」「今、行きたい」「今度は今度。今じゃない」「今度は今度…」「今は今!」
そしてふたりはそれぞれ自転車に乗り、「こんどはこんどー!」「いまはいまー!」と、明るく叫びながら、その場を立ち去るのだった…。

どうっすか? 文字面だと、相当、気恥ずかしくないっすか? 自分はおぼろげな記憶で書き起こしてて、「ヴェンダース、よくやるよ」と-あんまりよくない意味で-思っちゃいましたよ。

ところがこれが、そんなでもなく、見れちゃうのだ。他の "恥ずかしポイント" も、「これはこういうもの」という感じで、見れちゃうのである。
なんというか、この映画ならではの "タッチ" の良さ、全体の音楽的構成の中で成立しちゃってるのだ。ヴェンダースがその個性を極めた筆致で仕上げた絵本のような世界の中の出来事だから、オッケーなのだ。
その意味でこの映画は-ドキュメンタリー風にも見え、即興性をとりいれた演出にも拘わらず-よくできたツクリモノといえよう。

ツクリモノ…いや、もっというとキレイゴトと言えるかも知れない。平山の存在を含め、語られている内容の中核は、ヴェンダースがスタッフ・キャストと総力をかけて作り出したキレイゴト。
だから-この映画にしばしば指摘される行政や資本との絡みという意味ではなく-「こんなの、観てられないっすよ!」と言うひとが出てきても仕方ないし、何なら、気持ちは分からんでもない。俺だって映画でしばしば「キレイゴト過ぎてついていけないよ…」と思うこと、あるからだ。

しかし、それでもこの "作家性" に裏付けられた見事な綺麗事には、気持ちよくさせられてしまう。やはり多少の気恥ずかしさはあるものの、甘やかな語り口に解きほぐされたようになり、ニーナ・シモンの鳴り響く-もし他の監督が撮ったら-「うーん、ちょっとコレ、どうかなァ」と言いたくなりかねないラストも受け入れてしまう。
ただし「真似るな危険」という警告を自分に発しつつ-だ。

役者はみな見もので、特に女優陣が魅力的に撮られている。姪役の中野有紗なんて、デビュー作でこんなに美しく撮られて幸せだねえ…と感じ入ってしまった。