自宅兼アトリエ

1984年生まれ。夫、一児の父。

映画レビューの5段階評価について

映画好きの友だちとの間で、「最近忙しいよね」という話になる。たぶん僕のまわりだけでなく、全国で大勢の映画好きが似たような状況だと思う。今年に入ってから観たい映画や、映画ファンとして観なくてはならなさそうな映画が多いからだ。

気になっている作品を漏らさず映画館で観るのがスケジュール的に厳しくなってくると、優先順位づけの参考にと、普段はあまり気に留めないレビュー・サイトをのぞいてみる。すると、5段階評価が目につく。「星いくつ」で評価を書き込むあれだ。

見ると★5や★4がほとんどで、たまに★1がある。その間はぽっかり抜けている。レビューによって評価が二極化しているのだ。

確かに、今日日わざわざ映画館に足を運んで、安くないチケット料を払って、レビューを書き込もうとするのはよほどの映画好きだ。そういう人たちが、「映画って本当にいいものですね!」と★5を連打したくなる気持ちはとてもよく分かる。

逆に、今日日わざわざ映画館に足を運んで、安くないチケット料を払って、ながながと広告を見させられ、鑑賞マナーの押し売りにあい、なかば泥棒あつかいまでされた挙げ句に本編が面白くなかったら★1を強打したくなる気持ちも分からなくはない。

このように、レビューが二極化する現象はなんとなく理解できる一方で、僕の感覚では、真に★5の作品にも真に★1の作品にもそうそうお目にかかれるものではない。完璧な映画は滅多にないが、ほとんどの映画は受け手の想像以上に完璧につくられている。「★5から★1まで20%ずつ」という一様分布ではなく、最も多い「観てよかった」を中心に正規分布しているイメージだ。

また、★4のレビューによくあるのが、「自分は最高だと思うが、人を選ぶ作品だと思うので★を1つ減らした」という手の理由。これは、余計なお世話だ。自分が最高だと思うならば、つべこべ言わずに最高だと言えばいいのにと思う。

レビューは、他人に対してどの程度薦められるかを伝えることがその重要な目的のひとつだが、中途半端に客観的なポジションをとろうとするレビューは、かえって参考にならなかったりする。

ならば、いっそ他人に薦めることを脇におき、主観に振り切るのはどうだろうか。ただし、観てよかった具合(とても観てよかった/観てよかった/まあまあ観てよかった、の違い)は分かりやすく、はっきりと区別できるようにしたい。

そこで思いついたのが、自分の時間をどれだけその作品のために捧げられるかを定量化し、層別化するという方法だ。

ドラッカーは言う。「時間は最も希少な資源である」と。また、文学作品であれば読むスピードが速い人と遅い人がいるけれど、映画の場合は基本的に同じだけ時間がかかる。等しく与えられている時間を等しく奪っていくのが映画鑑賞という営みなのである。

前置きが長くなりすぎてしまった。ここからが本題、つまりはこういうことだ。以下に凡例を示す。

★★★★★:心の底から観てよかった。これからの人生、毎年1回以上観続けたい
★★★★☆:観てよかったので、ぜひ繰り返し観たい
★★★☆☆:観てよかったし、機会があればまた観ると思う
★★☆☆☆:観てよかったけど、2回目はいまのところノー・サンキュー
★☆☆☆☆:観なければよかった

このように分けると★5も★1もそう滅多に出てこない。おおよそ、★3を中心とした正規分布になるはずだ。★3か★2で迷ったら、「金曜ロードショウでやっていたら観る/観ない」を想像しながら判断するとよい。

いかに他人の時間を奪うことについては無頓着で、自分の時間に対してはシビアにできているのを実感するはずだ。

試しに、最近観た映画をいくつかあてはめると、下記のようになった。

★★★★★:「インターステラー」
★★★★☆:「ブラックパンサー」
★★★☆☆:「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」
★★☆☆☆:「グレイテスト・ショーマン」
★☆☆☆☆:「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

最近の作品と言いつつ、★5と★1については前述の通りそう頻繁にあるものではないので、オールタイム・ベスト/ワーストを記載している。「インターステラー」は2014年の作品だから、4年前になる。その前は同じ監督の「インセプション」、2010年だ。今年こそ新たな★5に出会いたい。

夫婦のあいだの符牒

夫婦のあいだの符牒で、子どもがうんちをすることを「納品」と呼んでいる。長男が生まれて間もない頃からなので、かれこれ2年ぐらいになる。

「納品してるかも。ちょっと手が離せないんだけど見てもらえる?」
とか、

「今日は納品あった?」
「今日はまだ。でも昨日の夜、しっかり2回も納品してるから十分よ」
というふうに使う。

あるいは、僕が息子を肩車しようとしているときに、
「いま納品中だから気をつけて!」
と妻が声をかけてくれる。

とっさのひとことで出てくるぐらい定着しているので、家の外で通じないのがにわかに信じられないが、うっかり自分たちの親の前で納品がどうのと言うとしっかり怪訝な顔をされる。

納品と言い出したのは僕みたいだ。子どもが顔を赤くしてがんばっている感じが面白くて、「ご納品ありがとうございます!」と言った覚えがある。元気なうんちがたっぷり出るのは感謝なことなので、我ながらしっくりくる言葉だと思う。むやみやたらに「うんち」と言わずにすむのも便利だ。

納品と言うからには納期らしきものもある。保育園に間に合う(正確には保育園に送りとどけたあと会社に間に合う)ためには、家を出る10分前ぐらいまでに納品を済ませてもらえるととても助かる。それ以降になると少しバタバタすることになるからだ。修羅場と呼ぶのは大袈裟すぎるけれど、特急料金ぐらいはいただきたい、こっちも商売なんでね、というイメージだ。

長男も2歳になって親の言うことをいろいろ真似してしゃべるようになってきたので、そろそろ気をつけなければならないと思いつつ、なかなかやめられそうにない。