多数決は民主主義か?
私が小学生くらいの頃、テレビでこんなドラマを見た記憶があります。
とある学校のクラスでは、男子と女子が対立する問題がしばしば起こるので、そのたびに多数決で解決を図ることになりました。
しかし、そのクラスには男子の方が多くいたので、どんな問題も男子の思い通りに決定されてしまいます。当然、女子には不満がたまりますが、男子は「多数決で決めたのだから民主主義だ」と主張するのです。
その後も男子は、女子を黙らせる便利な道具が手に入ったとばかりに、「民主主義だ!」を連呼しながら次々と自分たちに都合の良い決定を行い続けるのですが、女子の意見が聞き入れられることは一度もありません。そして最後に、一人の女の子が「多数決なんて暴力よ!」と泣きだして、ドラマは終わりです。
このドラマを見て、まだ子供だった自分は「そうはいっても、意見が割れることは多数決で決めるしかないんじゃないかなぁ」と思っていました。
でも、大人になった今では、何が問題だったのかがハッキリと分かります。
皆さんは、このクラスのどこに問題があったのか、分かりますか?
そうです、このクラスの多数決は民主主義だとは言えません。なぜなら意思決定のプロセスに「議論」が無いからです。
多数が支持しているというだけでは、正しい決定とはいえない
民主主義の本質は、多数決にはなく、議論にあります。たとえば一つ例を出しましょう。
10人で山道を歩いている時に、分かれ道に差し掛かったとします。左の道は景色が美しく、右の道は目的地まで早く着ける道です。
多数決を取ったら、10人中9人は「左の道へ進もう」と言いました。彼らは美しい景色が見たかったのです。でも残りの1人は「左の道には反対だ」と言います。
さあ、多数決を尊重して、左の道へ進むべきでしょうか?
「多数決で決めたのだから、それに従うべきだ」と考える人もいるかもしれません。
でも、ちょっと待って下さい! もしかすると、反対している1人は「左の道は危険だ!」と言うかもしれません。
「それでも多数決を尊重して、迷わず左へ進むべきだ」という人はいないと思います。どうして左の道が危険だと思うのか、彼の意見を聞くべきです。
たとえば、その人はこう主張するかもしれません。
左の道には、途中に古い吊り橋がある。長い間メンテナンスされた様子がなく、10人で渡れば落ちるかもしれない。
この話を聞いたことで、左の道に賛成していた9人の中の8人が「やっぱり右の道へ進もう」と意見を変えるかもしれません。では、新たに多数派となった右の道へ進むべきでしょうか?
いいえ、今度も1人が右の道に反対しており、まだ議論が尽くされたとは言えません。なぜ右の道に反対なのか彼の意見を聞くべきです。もしかすると彼はこう答えるかもしれません。
実は右の道にも、古い吊り橋がある。その橋もいつ落ちるか分からない。
すると、別な一人が声をあげます。
そういえば、今来た道を少し戻れば3つめの道があり、新しくて丈夫な橋がかかっている。少し遠回りになるが、安全なその道を行くのはどうだろうか?
この話を聞けば、今度は全員が3つめの道へ進むことに賛同するでしょう。もう多数決を取る必要もありません。
もし最初から多数決で道を決めていたら、この解決策にはたどりつけませんでした。それぞれが自分の意見を表明し、他人の意見を聞いたからこそ、彼らは最善の道を選ぶことができたのです。
このように、多くの人の意見を聞いて、議論を尽くし、より良い答えを見つけるのが民主主義です。
議論をすることなく、単に「多数が支持しているから」というだけの理由で決めてしまっては、誤った道を選択してしまうかもしれないのです。
優しさとは何か
私が小学校低学年だった頃の話です。
私の家がペンキの吹き替え工事をした時にペンキ屋さんのオジさんと仲良くなって、そのオジさんに近所のお店でガチャガチャを1回やらせてもらったことがありました。
するとナイフの模型が当たって子供だった私は大喜び。プラスチック製で、差すと刃が引っ込む作りのおもちゃです。
ところが、なんとそのオジさん、そのナイフの刃の先を、道路のアスファルトでこすって丸めてしまうではありませんか!
銀色にカッコよく塗ってあった刃の塗料も、そこだけハゲてしまって、当時の私はすごくガッカリしました。
でも、私がもし子供におもちゃのナイフを買ってやる機会があるのなら、私もそのナイフを道路で丸く削ってあげようと思います。
もしかするとそのオジさんも、子供の頃に同じ経験をしたのかもしれませんね。
MacBook Airのキーの外し方
※キーを外すのは、個人の責任で行ってください。このアドバイスの内容に責任は持てません。
先日、MacBook Airのキーボードに、飲み物を少しこぼしてしまい、「英数」ボタンの押し加減に違和感を感じるようになったので、キーをはずして掃除することにしました。
英数ボタンを外すと、写真のように、上下に金具があり、中央に白いプラスチックの台座があります。
キーには金具や台座を挟むための、爪が付いてます。
下の画像の●で示した場所は、キーの爪で挟む部分です。
■で示した場所は、台座の爪をキーの爪で引っ掛けている部分です。
キーを外す時は、爪楊枝を隙間に差し込んで持ち上げるのが良いと思います。マイナスドライバーだと、キーやMacが傷付きます。
外す方向は、矢印のように、横から外すのが良いと思います。(1)と(2)は爪を外す順番です。
私は矢印の方向ではなく、下から上にはずしてしまったため、キー側の爪が3か所も折れてしまいました(T_T)
100円ショップで、瞬間接着剤と、ピンセットと、虫眼鏡を買ってきて、ペットボトルのプラスチックを削り出し、爪を再生して、なんとか修復しました。
ただ、一番良いのは、自分でキーを外して掃除することではなく、Apple ShopのGenius barに持って行って、相談することだと思います。相談は無料です。色々と親切に教えてくれるので、私は何回かGenius barへ行ったことがあります。
また、ここで紹介したキーの外し方に責任は持てませんので、もし外すならば個人の責任で行ってください。
iPhone5を再び交換した話
2014年の夏にiPhone5の電池膨張があり、Apple StoreでiPhone5を無償交換してもらいましたが、2016年の夏に再び電池膨張がありました。
ふと気がつくと、iPhone5のディスプレイの脇から、光が漏れているではありませんか!!
うーむ、iPhoneに使用されているリチウムイオン電池は、だいたい2年で膨張してしまうようです。とはいえ、私はかなりのヘビーユーザーなので、ごく通常の使い方をしているユーザならば、もっと長い期間は大丈夫だと思います。
それにしても、そろそろiPhone7が発表されようとしておりますが、まだまだ私のiPhone5は現役です。パフォーマンス的には全く不満を感じていないので、あともうしばらくは使うと思います。
再びApple Storeに行きましたが、今回はさすがに有償交換でした。¥10,150でした。バッテリーだけの交換はできないようで、本体ごとの交換です。
ところで、私はこれで4台のiPhone5を所有したことになります。
・初代 (2012年に、iPhone5発売直後に購入。2014年に電池膨張を起こす。Apple Storeで新しいiPhone5に無償交換してもらう)
・二代目(2016年に、電池膨張を起こし、¥10,150で新しいiPhone5に有償交換してもらう)
・三代目(カメラが起動しないという初期不良がある。2日後に4代目に無償交換してもらう)
・四代目(2016〜)
私とiPhone5の付き合いは、もう少し続きそうです。
下町ロケット2
下町ロケットの第二話を見ました。
平たく言うと「正義が勝って、悪者は酷い目に会いました」という話です。
弱い者が強い者に、知恵と勇気で立ち向かう、という話は大好きなのですが、このドラマはちょっと違う気がします。
テレビ局が、「こいつは悪者なんだから、酷い目にあっても当然だ」というキャラを作り出して、その悪者達が負けて泣く姿を、ことさらに強調して視聴者に見せて、視聴者に爽快感を与えるというスタイルになってしまっているのです。
嫌な奴が酷い目に会う姿を見せると、テレビの視聴率って上がるのでしょうか?
そんなことしなくても、正攻法で作るだけで面白い話だったと思うので、そこが残念です。
下町ロケット
今更なのですが、新しく始まったドラマの「下町ロケット」が、かなり面白いです。
http://www.tbs.co.jp/shitamachi_rocket/introduction/www.tbs.co.jp
実は、今日Gyaoで偶然見つけて、初めて見ました。
無料で見ることができます。(第一話が見れるのは今日までです)
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00505/v13604/v1000000000000009424/gyao.yahoo.co.jp
TBSのページでも、放送後一週間までは見れるようです。
http://www.tbs.co.jp/muryou-douga/rocket/001.htmlwww.tbs.co.jp
「半沢直樹」と同じ原作者のドラマです。
放送は毎週日曜日 TBS 21:00。今晩は第二話が放送されます。
半沢も大好きだったのですが、第一話だけを比較すると半沢に負けていません。
今晩、第二話が放送なので、今日この記事を見て一話を見た人は、一日で二話見れます!
主人公の佃 航平(つくだ こうへい)は、宇宙科学開発機構で働く、ロケットエンジンの技術者でした。
しかし、彼が作成したエンジンは爆発してしまいます。
佃は、彼は責任を取って退職し、父が遺した町工場の「佃製作所」の社長になります。
その会社は、社員200人の小さな会社ですが、技術力を武器にした会社です。
研究開発費にお金がかかり、資金繰りに苦しみますが、社長に就任してから7年間なんとかやっています。
ところが、ある日、佃製作所は特許侵害で訴えられてしまうのです。
銀行は融資を打ち切り、取引先も離れてしまい、佃製作所は倒産の危機に。
相手は社員数1万5000人、年商6000億の大企業。
はたして、佃 航平と佃製作所の運命やいかに!?
最後の演説が、映画「インディペンデンス・デイ」の大統領の演説みたいでカッコよかったです。
我々は戦わずして滅びたりしない!今日が佃製作所の独立記念日となるのだ!!
(とかは言っていませんが)
思い出のマーニーをふりかえる14
もうすこし十一(トイチ)のことを書いてみようと思います。
なぜか人気があるトイチ。私のブログにくる人の多くは、彼の名を検索した人です。
彼の名は、岩波版と新潮版ではそれぞれ"ワンタメニー"と表記されているのですが、角川版だけは"アマリンボー"と意訳されています。
映画でも無口な彼でしたが、原作でも殆ど口を開きません。
物語の中で、彼とアンナが会話するのはたったの2回。
彼とアンナの初めての会話は、こんな感じです。
ワンタメニー「Cold?」 (寒いか?)
アンナ「No」(ううん)
これだけ!わずか4文字(笑) アンナも2文字(笑)
その日ふたりが交わした言葉といったら、このふたことがすべてだった。(角川版P42)
それにもかかわらず、ワンタメニーはこの小説のなかで独特な存在感を持っています。
心理学者の河合隼雄は「子供の本をよむ」という書籍の中で、ワンタメニーのことを「この物語の片隅にひっそりとたたずむものの、欠くべからざる人物」だと書いています。*1
アンナも、人一倍顔見知りする性格のハズなのに、なぜかワンタメニーのボートにはチョクチョク乗ります。
しかし、アンナはボートにこんな感じで乗っているようです。
アンナもへさきにすわってじっと前を見つめ、アマリンボーのことを気にせずいられた(角川版P41)
どうやら顔を見合わせるのは嫌なようです(笑)
物語前半のワンタメニーは、アンナを湿地のあちこちに連れて行ってくれるだけの存在のようでした。
しかし、やがてアンナは彼のことを愛すべき存在として理解するようになります。
アマリンボーに小さな男の子だったころがあるなんて、考えてもみなかった。なんてかわいそうな、小さなころのアマリンボー・・・。(角川版P271)
そして物語の最終章で、もうすぐロンドンに帰ることになったアンナ。
愛すべきアマリンボーおじいさん!さよならを言わなくちゃ。もう二度と会えないかもしれない。(角川版P344)
雨の中、窓の外にワンタメニーを見かけた彼女は、さよならを言うために傘も持たずに家を飛び出して走り出します。
「アマリンボー!」
アマリンボーがふりかえってアンナを見た。
「わたし、家にかえっちゃうの!さようなら!」
小船はどんどんアンナから離れていく。アマリンボーに声が届いたかどうかはわからないけど、アンナに向ってかすかに頭をかたむけたように見えた。
アンナは手を振ってから、思わず口もとをおさえ、また手をふった。
「金曜日に帰るの。さようなら!」
アマリンボーが「ああ、うん」と言うようにあごをあげた。
それから片手をあげて、まるでおごそかな敬礼みたいに一度だけふると、船はそのままカーブを曲がって見えなくなった。(角川版 P355)
この「思わず口もとをおさえ」という部分ですが、岩波と新潮は「投げキッス」と書いています。
原文では
She waved, then put her fingers to her lips and waved again.
と書かれています。
恐らく岩波と新潮は、アンナが手をふって、その振っていた手を唇にあて、再び手を上げて振りなおした、という解釈なのでしょう。それならば、確かに投げキッスに思えなくもありません。
しかし、アンナが振っている手と、口元に当てた手は、それぞれ別な手ではないでしょうか。
私としては、ここはアンナが投げキッスをしたのではなく、手を振っているうちに感極まってしまい、思わず片手で口元を押さえたのではないかと思います。
つまりアンナは涙を流していたのです。
アマリンボーにさよならを言えて、うれしかった。あんなにさびしい人を、アンナは知らない。(角川版 P346)
アンナは雨でびしょ濡れになりますが、心の中はポカポカしています。
アンナは気づいたのです。
ワンタメニーが、アンナと同じだということを。
彼がなぜ表情を無くしているのかということを。
それはアンナの「ふつうの顔」と同じことだったのです。
ワンタメニーも「ふつうの顔」を装着していた。
もしアンナが黙ってロンドンに帰っていたら、きっとワンタメニーは傷ついたはずです。
ふつうの顔をしたまま。
でも、ワンタメニーの心の中で、きっとアンナの存在は「たしかなもの」になったのではないでしょうか?
つづく
*1:岩波の特装版マーニーの後書きにも、同じ書評が書かれているようです
思い出のマーニーをふりかえる13
今回は小ネタです。
テレビ初放送から、結構多くの人がこのブログに来てくれているのですが、Yahooの検索ワードを見ると、以下のキーワードが多いようです。
うーん、みなさん太っちょブタが好きですね。
そして、次に人気があるのが「十一(トイチ)」です。
このブログのアクセス数を稼ぐのに貢献しているトイチ
原作での彼の名前には哀しい由来があることは、以前に紹介しました。
彼は11番目の子供であり、彼の母親が言った言葉「One too many(1人余分)」が原作での彼の名前「Wuntermenny(ワンタメニー)」になったのです。映画では「十一(トイチ)」と、そのまんまの意味の名前に変わっていますね。
しかし、この「Wuntermenny」という名前。実は日本に昔からある名前だって知っていました?
実は、中学校の歴史の教科書に出てきたであろう
「那須与一(なすのよいち)」こそがWuntermennyだったのです!!!*1
彼を知らない人のために一応説明しておくと、彼は源平の戦いの一つ「屋島の戦い」で、船の上にいる平氏が竿に立てた扇の的を、弓で見事に射落としたことで有名な源氏方の武士です。
トイチという名前はボートとの縁が深いらしい
Wikiにはこのように書かれています。
与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠、浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
彼の名前の「与一」とは「ひとつ余計」という意味。
すなわち那須与一はWuntermennyだったのです!!
ΩΩΩ < な、なんだってー!?
・・・まあ、それだけの話なんですけどね(笑)
来週学校が始まったら、友達に「ねぇねぇ、那須与一って、思い出のマーニーのトイチと同じ名前だって知ってる?」と聞いてみてください。
きっとカッコいいと思います。*2
ちなみのこの与一さんは見事に扇を打ち落としました。この時ばかりは源氏も平氏も敵味方一緒になって大喜びします。
中には船の上で踊りだす侍までいたほどです。
しかし与一さんは、つぎの瞬間にその侍を射殺してしまうのです!!
うーん、トイチさん、容赦ないですネ。
思い出のマーニーをふりかえる12
思い出のマーニーがテレビで初放送されましたね。テレビの影響でこのブログを訪れる人も増えたようです。
マーニーファンも、すこし増えたでしょうか?
まだまだマーニーについては書きたいことがあるので、引き続き考察をしていこうと思います。*1
別れのシーンの解釈 ふたたび
以前、このブログにこんな図を載せました。
アンナには三つの悩みがありました。しかし、マーニーの謝罪だけでこれらの悩みが全て解消されるのは不自然です。これらの悩みを同時に解決する「何か」が必要なはずです。
それは一体何なのか?
この答えを分かっている人はきっと多いですよね。
私は鈍いので、ようやく気がつきました。
この3つの悩みの根底にあるもの。それは「アンナは誰にも愛されたことがない」(と彼女が思い込んでいる)ことです。
アンナが祖母や母を憎むのは、アンナを愛してくれるべき彼女達から、愛を注がれた記憶がないからです。
アンナから友達が遠ざかるのは、愛に飢えたアンナが、友達を猜疑の目で見てしまうからです。
アンナが養育費で悩むのは、自分は愛されていないかもしれないと不安になったからです。
三つの悩みの根源は同じ
幼い頃のアンナは、祖母であるマーニーから愛されていました。しかし、その記憶は遠くなり、やがて失われてしまいます。
アンナは何か大切なものをなくしたはずなのに、彼女にはそれが何なのかが分かりません。
自分が何を無くしたのかが分からないアンナ(角川版P109)
そんなアンナが出会ったのが湿地屋敷です。
湿地屋敷を見つけたアンナは「これこそ私が捜し求めていたものだ」と感じます。
しかし彼女が本当に捜し求めていたものは、湿地屋敷ではないように思えます。
彼女が本当に捜し求めていたもの。
それは、かつて彼女が知っていた「愛」だったのです。
アンナは湿地屋敷に、失われた「愛」を感じていた
物語でアンナは、まるで「他人に関心が無い子」であるかのように書かれています。しかし、アンナは本心では他人と友達になりたいと思っています。
けれども、アンナが他人と仲良くなろうとしても、すぐに相手の方がアンナから興味をなくしてしまいます。
アンナは自分が他人と仲良くなれない理由を自分が「目に見えない魔法の輪」の外にいるからではないかと考え始めました。
自分は他人から愛されない子かもしれない。
でも、アンナにはたった一人の例外がいました。それは養母のミセス・プレストン(頼子)です。
ミセスプレストンだけは自分を愛してくれているとアンナは信じていました。
ところが、養育費の存在を知ったアンナの心は揺らいでしまいます。
もしかするとミセス・プレストンも本当に自分を心から愛しているわけではないのかもしれない。
養育費の存在がアンナの心に陰を落とした
やはり自分は他人から愛されない子なのではないか?
そんな時に出会ったのがマーニーです。
アンナは、マーニーは本心からアンナのことを好きなのだと信じました。
二人は一生友達でいる誓いを立てました。アンナは「こんな幸せを感じたことが無い」とまで思います。
ふたりは砂の上に、自分達をかこむようにぐるりと輪をかき、手をにぎりあって、永遠に友達でいる誓いを立てた。そうしてはじめて、マーニーは満足した。アンナはこれまで、こんなに幸せだと感じたことはなかった。(角川版P158)
しかし、風車小屋(サイロ)の事件が起きてしまいます。
心からの親友になれたと思ったマーニーも、結局は自分を心から好きだったわけではなかったのだと、アンナは絶望してしまいました。
マーニーは、わたしをひとり風車小屋に残して、行っちゃったんだ。まっ暗な中、おびえるわたしをひとりぼっちにして。それなのにわたしときたら、マーニーを親友だと思っていたなんて!(角川版P195)
マーニーも結局はうわべだけの友達だったのか?
もう二度と、だれも信じない。(角川版P195)
しかし、嵐の中で必死に叫ぶマーニーの声がアンナに届きました。
マーニーの言葉はほとんど風に運ばれてしまい、マーニーの顔は窓の外を川のように流れ落ちる雨のせいで、ぼんやりかすんでいた。
それでもアンナには聞こえていた。ちゃんとわかった。
その言葉はまるでアンナの中から出てきたかのように、風や雨などものともせず、はっきりとアンナの耳に届いた。(角川版P201)
アンナは「マーニーが1人で帰った」から怒っていたのではありません。
アンナは「マーニーからの謝罪」を求めていたわけではありません。
そして「謝罪されたから許した」わけでもないのです。
この解釈は誤り。アンナにとって謝罪はどうでもいい。
このとき、アンナにとって本当に大切だったことは、たったひとつ。
たったひとつのシンプルな答えです。
「マーニーとの友情は、本物の友情だったのか?」
このことだけが、アンナにとって本当に大切だったのです。
そして、マーニーはやっぱりわたしの友達だ、私のことを大好きなんだと、アンナは心から信じることができました。
突然、マーニーに対して感じていた、あのはげしい怒りがすべて、さっととけてなくなった。マーニーはやっぱりわたしの友達だ。私のことを大好きなんだ。(角川版P201)
アンナはマーニーを「許した」のではなく、マーニーが本当の友達なのだと「信じる」ことができた
物語で度々登場する言葉
Hold fast that which is good (よきものをしっかりと掴め)
アンナはしっかりとよきものを掴んだのです。
魔法の輪とはなにか
物語が終る直前、アンナはこんなことを思っています。
雨の勢いが強くなって、びしょ濡れになりかけていたけど、そんなのはどうでも良かった。体の内側は暖かかった。
うしろに向きなおって、堤防を走りながら考えていた。"内側"とか"外側"という考え方、なんて不思議なんだろう。
それは他の人と一緒にいるかどうかとか、"一人っ子"か大家族の一員かとか、そんなこととは関係がない。
プリシラやアンドルーだって、ときどき"外側"にいるような気がすることがあるらしい。それも今はわかっている。
だから、問題は自分の心の中でどう感じているか、なのだ。(新潮版 P350)
物語は最後、アンナが輪の「内側」に入ったかのような描写で終わります。
しかし魔法の輪とは、一度入ればよいものではなく、実は内側に入ることも外側に出ることも、しばしば両方があるものだったのです。
リンジー家の子供たちだって、時々輪の外側に出てしまうことがあることに、アンナは気づきます。
問題は、アンナが、常に輪の「外側」にいて、「内側」に入ることができなかったことです。
リンジー家の子供たちは、輪から出ても「内側」に戻れるのに、アンナはなぜ「内側」に入れなかったのか?
それはアンナの心の中に「たしかなもの」が無かったからではないでしょうか。*2
先日、テレビで心理学者が話すのを偶然に聞いたのですが、心理学には「ドック理論」という言葉があるそうです。*3
ドックとはDock、すなわち「母港」*4です。
人には、何か失敗したり、落ち込んだり、自信を失ったりすることが良くあります。
こんなとき、心の中に「母港」と呼べるものがあれば、そこに戻って傷ついた心を癒すことができます。
「母港」とは探索の基地であり、冒険に出かけては帰ってくる母港でもあり、癒しとともに次なる行動のエネルギーを補給してくれる存在なのです。
しかし、アンナの心には、その「母港」となるべき物がありませんでした。
アンナは人と知り合うと常に「相手が本当に自分のことを好きなのか?」ということばかりを気にしてたように思えます。
愛に飢えていたからです。
でも、知り合ったばかりの人を心から好きになる人なんて、いないですよね?
それは友情が深まるに連れて、だんだんと育まれるものだからです。
それなのに「誰からも愛されていない」と感じているアンナは、そんなことに価値基準を置いてしまっているのです。
けれどもマーニーとの出会いにより、アンナは「たしかなもの」すなわち心の「母港」を手に入れることができました。
「たしかなもの」を得たアンナは、輪の「外側」に出ても大丈夫になった
物語の後も、アンナが再び輪の「外側」に出てしまうことは、何度もあるでしょう。
しかし、心の中にしっかりと「錨」を下ろすことが出来たアンナは、このさき魔法の輪の「外側」に何度出てしまおうと、しっかりと「内側」に戻ることができるようになったのだと私は思います。
ハウルの動く城 感想と考察1
10/9(金)に、日本テレビの『金曜ロードSHOW!』で、ついに思い出のマーニーがテレビで初放送されるそうです。
予告動画も公開されました。
https://youtu.be/yllU8n5RDOwyoutu.be
※放送終了と共にリンク切れになりました
思い出のマーニーについては、まだまだ書きたいことが残っているのですが、今日はマーニーに先立って10/2に放送されるという、ハウルの動く城について感想と考察を書きたいと思います。
この記事ではネタばれをするので、映画を未見の人は読まないことをおススメします。10/2の放送をお楽しみに。
また、映画を見ていたとしてもストーリーを忘れている人は、事前にwikiのあらすじを参照すると、この記事をより楽しめると思います。
目次
- 目次
- 世間の評価
- 死に場所をさがす少女
- 現代っ子で甘えんぼうのハウル
- ソフィーの呪いはいつ解けたのか?
- ソフィーの髪はなぜ白髪のままなのか?
- ソフィーはなぜ城を壊したのか?
- 指輪の色はなぜ赤から青に変わったのか?
- ハウルはソフィーをずっと待っていたのか?
- ソフィーの涙はなぜ止まらないのか?
- 戦争の原因は隣国の王子の失踪だった!?
- ヒンの正体はマダム・サリマンの夫?
- 城が動く理由
世間の評価
確かこの映画を見たのは、テレビ初放送の時だったと思います。調べてみると初放送は2006年です。もう9年前になります。その時はあまり面白い映画だとは思わず、それからは見返す機会がなかったのですが、先日9年ぶりにこの映画を見返しました。
見てビックリしました。これは大傑作です!
9年前とはまるで違って、最後まで夢中で見てしまいました。私の中で何らかの変化があったのかもしれません。宮崎駿の最高傑作と言っても良いくらいです。これほど美しいファンタジー作品が、他にあるでしょうか。
でも他のジブリ作品に比べると、評価はイマイチぱっとしません。Yahoo! JAPANのレビューを見ると以下の点数でした。
- カリオストロの城 4.53
- 風の谷のナウシカ 4.34
- 天空の城ラピュタ 4.50
- となりのトトロ 4.46
- 魔女の宅急便 4.50
- 紅の豚 4.21
- もののけ姫 4.02
- 千と千尋の神隠し 4.11
- ハウルの動く城 3.74
- 崖の上のポニョ 3.31
- 風立ちぬ 3.33
- 思い出のマーニー 3.81
たしかに、ハウルは「誰が見ても面白い」という映画ではなく、ある程度「人を選ぶ映画」になっている気がします。
宮崎駿は、この映画を作る際に、映画に登場するシーンや魔法の説明を一々説明するような映画にはしたくなかったといいます。それがこの映画の敷居を高めている原因でしょう。
今回は私がこの映画を見て感じたことやネット上で見つけた解釈などを整理して、皆さんに紹介したいと思います。
きっとこの映画の魅力を発見するきっかけになると思います。
死に場所をさがす少女
主人公のソフィーは二人姉妹*1の長女です。父が遺した帽子屋を継いでいますが、その仕事を望んで働いているわけではなく、自分の運命に受動的になっている様子です。
妹からはこんなことを言われてしまいます。
お姉ちゃん、自分のことは自分で決めなければダメよ。
性格も社交的ではないようです。街では軍の出陣式らしき華やかなパレードがあり、他の従業員が着飾って見に行こうとするのに、1人だけ誘いを断わって仕事を続けます。
けれど本当はお洒落にも興味があるようで、鏡の前でポーズをつけたりもします。ですが、自分には自信が持てないようです。
鏡の前でポーズをつけても、すぐにブスッとするソフィー
そんな女の子だったソフィーですがが、町で出会った美青年の魔法使いハウルに一目ぼれ。束の間の夢を見ます。
生まれて初めてイケメン男子と手をつないだソフィー
しかし現実は非情です。その晩、ソフィーは呪いで老婆にされてしまいます。
「おちつかなきゃ!」という彼女が、おちついて下した決断。それは「死ぬ」こと。帽子屋を抜け出して荒地に死にに行くというまさかの急展開!
死に場所を求めて荒地に向うソフィ
ヨボヨボのおばあさんが、一食分だけの食べ物だけを片手に、何のあても無く荒地に向う。これ、客観的に見て死に場所を見つけることが目的ですよね。風も強く、雪も降り始めて、非常に寒そうです。ついには地面に座り込んでしまいます。
途中まで馬車で送ってくれた人に「この先に妹が住んでいる」と説明した様子ですが、その妹とやらはこの会話だけでしか登場しません。恐らく嘘でしょう。*2
物語冒頭のソフィーには、厭世的な気配が漂っています。
この後、ソフィーはカカシのカブが連れてきたハウルの動く城に住むことになるのですが、このすこし後のシーンに印象的なセリフがありました。ソフィーは美しい湖の畔でこんな会話をします。
もしかするとカブはソフィーがあの世に行く時に出会った死神で、今見ている光景はあの世の光景かもしれない、ということなのでしょう。
実際、カブに出会っていなければ、ソフィーはあの夜に飢えと寒さで死んでいたかも知れません。
ソフィは、カブに命を救われたのです。
ソフィーに助けられたカブは、ソフィーの命を救っていた
ソフィーを愛したカブの目には、最初から若きソフィーが映っていたのでしょうか?
この後、ソフィーは城で掃除婦として働くことになります。
ハウル 「掃除婦って、誰が決めたの?」
ソフィー「そりゃあ私さ。こんなに汚い家はどこにもないからね」
考えすぎかもしれませんが、どうやらソフィーは「自分のことは自分で決めた」ようです。心なしか、彼女の背は当初よりまっすぐになった気がします。
現代っ子で甘えんぼうのハウル
なんだかんだでハウルの動く城に住むことになったソフィー。
この城の主のハウルは、自分の見た目にこだわるナルシスト。物腰もスマートで、外見はパーフェクトなイケメン青年です。
しかし、自分の見た目にはこだわるものの、城の中身は全く逆。すごい汚れ方をしています。
どうやら、イケメンなのは見た目だけのようです。この後、ソフィーが風呂場の掃除をしたせいでひと悶着あります。
ハウル「ソフィー!風呂場の棚いじった!?ソフィーが棚をいじくって、まじないをメチャクチャにしちゃったんだ!」
ソフィー「なにもいじってないわ。綺麗にしただけ」
掃除をする母と、それに怒る息子。まさにどこの家庭にもありそうな会話です。
この映画のテーマで「家族」があるそうですが、このあたりのハウルは現代っ子の象徴といった感じなのでしょうか。
この出来事が原因で髪の毛の色が、金髪から赤髪に変わってしまうハウル。
ハウル「美しくなければ生きていたって仕方がない!」
この映画を作ったとき、宮崎駿は既に還暦を迎えていました。老いて醜くなった老人には価値が無いのか、という問いが一つのテーマとしてこの映画にはあったようです。
映画冒頭のハウルは、現代の若者を象徴しているかのような描かれ方です。ハウルの一言は、見た目や外面ばかり気にして、内面は軽視している若者の象徴なのです。
コンプレックスを突かれたソフィーは「私は美しかったことなんて一度も無い!」と号泣。
私は美しくないので、生きていたって仕方がない・・・
この直後、ハウルは赤髪から黒髪になってしまうのですが、ハウルの髪の色は本来黒のようです。
もともとの髪の毛は黒
余談ですが、ヨーロッパでは歴史的に赤髪の人は迫害されていたそうです
参考:http://matome.naver.jp/odai/2138926037443895401
ですから、このシーンは私としては非常に気になる描写です。社会的弱者を露骨に傷つける表現になっているからです。もし白い肌が黒い肌にかわってしまって「美しくなければ生きる価値が無い!」などと言ったら、数多くのクレームがくるでしょう。
もしかしたら、実際に来ているのかもしれません。
さてさて。髪の毛の色が戻ってショックを受けたハウルは寝込んでしまいます。
そしてソフィーに、自分は本当は臆病者なんだと告白するハウル。王様に戦争に呼び出されたようですが、とんでも無いことを言い出します。
ハウル「ソフィーが代りに(召集を断りに)行ってくれればいいんだ!」
ハウル「マダム・サリマンも諦めてくれるかもしれない!」
私は最初、この時のハウルの意図が分かりませんでした。
マダム・サリマンはハウルの師匠で、大魔法使いのようです。恐らくソフィーの呪いもひと目で見破る力があるでしょう。彼女が騙されるとは思えません。
それなのに、なぜこんなことを言い出すのか・・・?
つまり、ハウルはソフィーに甘えています。彼にとってはサリマンを騙せないことなんて、実はどうでも良いことです。
ハウルはソフィーを試しているのです。自分のワガママを聞いてくれる人なのかどうかを。
映画にはこんな会話がありました
ハウル 「子供の頃の夏に、よくあそこで1人で過ごしたんだ」
ソフィー「1人で?」
ハウル 「魔法使いのオジが僕にこっそり残してくれた小屋なんだ」
ハウルはオジに育てられたのでしょうか?どうやら孤独な子供時代をすごしたようです*3。カルシファーと契約する前の子供の頃は魔法学校に入っていたようですし、恐らく寄宿舎生活です。
映画の描写からは、ハウルは母を知らずに生きてきたような印象を受けます。
もしかすると、ハウルはソフィーに母性を求めたのかもしれません。甘えるということによって。
ハウルはソフィーに母を求めている
ブツブツ言いながら、特に抗うでもなくハウルのために王宮へ向うソフィー。それだけでハウルは嬉しかったことでしょう。授業参観に母が来てくれたときの、あの感覚です。
ここまで書いてきてふと気付きましたが、風呂場の掃除での一悶着の件も、もしかするとハウルは母とああいう言い争いをすることに憧れを感じていたのかもしれません。
見栄っ張りで、人の見えないところはだらしが無く、けれども母を知らずに甘えん坊なハウルなのでした。
これ以降、彼は髪を染め直すことも無く、服装もごく落ち着いた姿になります。ハウルの心境に何らかの変化があったのかもしれません。
ソフィーの呪いはいつ解けたのか?
この映画の謎の一つは、ソフィーの"老人になるという呪い"がいつ、どうして解けたのか?ということです。
この物語は、ソフィーが呪いにかかるところから始まるので、普通ならば「呪いが無事に解けるかどうか」が映画の重要な「焦点」になるはずです。
しかし不思議なことに、この映画ではそれが焦点にはなっていません。いつの間にか何の説明もなく呪いが解けてしまっています。
恐らくこれが、この物語が観客を混乱させてしまっている最大の原因でしょう。
実は、原作ではかなり早い段階でハウルがソフィーの呪いを解いているようです。映画でもカルシファーが呪いを解くのは「簡単」と言っているので、ハウルにも簡単に解ける呪いだったのかもしれません。
しかし原作では呪いを解いているにもかかわらず、ソフィーは老婆のまま若い姿にはもどりません。ハウルはそれを「彼女が無意識的に、老人でいることを望んでいるから」だと解釈しているそうです。
この映画においても、ソフィーに「老人でいたい」という無意識の心理が存在するという設定は維持されていると思います。
それどころか、むしろ宮崎駿はこの設定をさらに強調しています。映画では、ソフィーは若返ったり、老人に戻ったりを繰り返しますが、これは原作にはない描写だそうです。
若返ったシーンを「ソフィーが呪いを破って若返ろうとしている」と解釈することも可能ですが、映画冒頭の彼女や若返っているシーンの彼女を見る限り、呪いを破るほどの活力を彼女から感じることができません。
むしろ本来若いはずの彼女が、呪いが解けているにもかかわらず、なんらかの理由で老人の姿に留まっている、と解釈したほうが自然に物語を見ることができます。
物語冒頭の彼女は、運命に受動的で、自分の未来を自分の意思で決定しようとしません。自分の容姿に自信がなく、若い兵隊にお茶に誘われても喜ぶどころか恐怖で声が上ずってしまいます。年齢は若いのに心はひどく乾燥しているのです。
もし若者が老人になってしまったのであれば、元の若い姿に戻りたいと思うのが当然であるはずです。それなのに、なぜかソフィーは若返りたいような素振りを全く見せていません。老人の姿であることを自然に受け入れてしまっています。
それはなぜか?
つまりソフィーは老人であることに居心地の良さを感じているのです。それどころか「こんなに穏やかな気持ちは初めて」とすら言いだします。
老人でいればもう美しさは問題にならず「自分は美しくない」というコンプレックスからも解放されるからです。老人ならば、未来に立ち向かう必要もありません。*4。彼女は少女でありながら心は既に老いていたのです。
「勇気を失っていること」これこそがソフィーの心の中に隠された、魔法の呪いよりもさらに深刻な"本当の呪い"ではないでしょうか。
私の考えでは、ソフィーは城でハウルに会った直後に荒地の魔女から掛けられた呪いを解かれています。
ソフィーが寝ている間は若返っているかのような描写がありますが、あれは寝ている間は呪いが消えるのではなく、寝ているあいだは「老人でいたい」という気持ちが消えているのではないでしょうか。
実はもう呪いが解けている
その証拠に、ソフィーが城でハウルと出会う前に、椅子で寝ている時は少女に戻っていません。
城でハウルに会う前(呪いを解かれる前)は、寝ても少女に戻らない
次に若返りが見られるのは、サリマンとの会話シーンです。この時、恐らくソフィーは自分がハウルに恋していることには気付いていません。
若い姿の時でさえ自分には自信がなく、しかも今は年老いた姿の掃除婦なのです。どうして今の自分が、若いハウルに恋などできるでしょうか?
けれども、ハウルについて語っているうちに、彼女の本当の気持ちが内側からあふれてきます。ソフィーは無意識のうちに、一瞬だけ少女の心を取り戻します。
しかし、自分の本当の気持ちをズバリとサリマンに指摘され、思わずソフィーはハッとします。そして自分が恋をしているという事に初めて気付き、驚き、自分の感情に恐れを抱いたのです。
自分が恋をしていることに驚き、老人の姿に逃げ戻るソフィ
マダム・サリマンの指摘によって、ようやくソフィーは自分の気持ちに気がつきました。その夜、ソフィーはハウルの夢を見て、そして愛を告白します。
夢の中では自分の気持ちに素直になれるソフィー
しかし夢の中のハウルはソフィーを受け入れませんでした。目覚めたソフィーは「勇気を出さなければ」と呟きますが、なかなかそうは行かないようです。
しかし、この後もソフィーは勇気を出せない
それは、このシーンによく現れています。ハウルが自分の帽子屋の部屋を用意してくれて、胸をトキめかせたソフィーは思わず少女に戻ってしまいます。机の上にもベッドの上にも、プレゼントの箱が積まれており、ソフィーの胸は一杯になってしまって、彼女は少女の心を一瞬だけ取り戻したのです。
ああっ、まさかハウルが私のために?(ドキドキ)
しかし「自分は掃除婦のお婆さんなのだ」と思い返し、再び老人の姿に逃げ戻ってしまいました。
いいえ、勘違いしたらダメ・・・私はただの掃除婦よ
つづく花園のシーンで、ソフィーは「小屋へ行ったらハウルがどこかへ言ってしまう気がする」とか「私、ハウルが怪物だって平気よ」などと言いますが・・・
ソフィ、どんだけ(笑)
そして、最もソフィーの感情が如実に表れているのが、ハウルが「ソフィーはきれいだよ!」という場面です。
勇気を出すことができずに、自ら老人でいることを選択してしまうソフィ
ソフィー「年寄りの良いところは、無くすものが少ないことね」
もし、ハウルからの愛を素直に認めてしまえば、今後の彼女は、それをいずれ無くすかもしれないことを恐れつづけねばなりません。
しかし、彼女が老人でいさえすれば、無くすことを恐れる必要はないのです。
・・・最初から手に入れることがない代わりに。
もしかすると、ハウルと同様に、ソフィーもまた現代の若者の象徴なのかもしれません。若いのに、失うことや失敗することばかりを恐れて、心はまるで老人であるような若者の姿です。
このとき、老婆に戻るソフィーを見るハウルの表情が、映画の前半で、少女の姿で寝ているソフィーを見つめるハウルの表情と通じるものがある気がします。
老婆でいることを選択しつづけるソフィーに、ハウルは何を思うのか・・・
しかし、動く城での「家族」との触れ合いが、彼女の呪いを解きほぐしていきます。恐ろしかった荒地の魔女も、今や良き相談相手です。マルクルは彼女を「家族」だと言ってくれます。そして彼らには戦火が迫り、彼女はいつまでも「逃げている」わけにはいかなくなってくるのです。
そして、決定的なシーンが訪れます。「戦いに行ってはダメ!」とおいすがるソフィーに、ハウルは決然として語ります。
僕はもう充分逃げた。ようやく守らなければならない者ができたんだ。君だ。
この言葉でソフィーはハウルを心から信じました。もはや彼女には老人に戻る必要はなくなったのです。
このシーン以降、ソフィーは二度と老人の姿を見せなくなります。
本当の意味で、彼女の"呪い"が解けたのは、この瞬間だと言えるかもしれません。
ハウルの言葉が、ソフィーの心に隠されていた"本当の呪い"を打ち砕いた
ハウルは逃げ続けてきました。そして、ソフィーもまた逃げ続けてきました。しかし、もう二人は逃げません。愛する者ができたからです。
余談ですが、花園のシーンでハウルが「花屋さんがあの小屋でできないかな?」と言っており、最初この映画を見たときは「こんな場所に客が来るわけがない」と思ったのですが、よくよく考えればカルシファーの「どこでもドア」で出口を街につなげられますね。たぶん、そういう意図の発言だったのでしょう。
ソフィーの髪はなぜ白髪のままなのか?
ソフィーの髪の毛も、この映画の謎の一つです。
当初の色、寝ているあいだ少女に戻るときの色、サリマンの前で一瞬若返ったときの髪の毛の色は「茶色」なのに、それ以降は若返っても「灰色」です。ソフィーの髪が灰色のままというのは映画のオリジナル要素のようです。
この点についても、いろいろな解釈があるようですが、私はベタに「茶色は昔のソフィー」「灰色は生まれ変わろうとしている/生まれ変わったソフィー」を表現しているのかなと思います。
もう一つ不思議なのは、映画の最後でハウルが「ソフィーの髪の毛、星の光に染まっているね」と言うのですが、ハウルは以前に何度も灰色の髪のまま若返っているソフィーを目撃しているはずなんですよね。
最初、髪の毛の色は変わっていないのに、どうしてそんなセリフを言うのだろう?と思いました。
でもよくよく見ると・・・・
左:花園のシーン、中:ハウルに心臓を返す直前、右:ハウルが目覚めたとき
肌の色は変化がないのに、髪の毛の色は次第に明るく変化しています。
もしかすると流星や、解き放たれたカルシファーの色に染まって、だんだん明るい色になっていったのかもしれません。
ハウルが見たのは左のソフィーで、中のソフィーは見ていませんから、色の変化も大きく、気づきやすかったのでしょう。
【追記】ソフィーの髪の色については、気になったので図書館で調べて見ました。「THE ART OF HOWL'S MOVING CASTLE」(徳間書店)の69ページに、この映画の色彩設計をした保田道世のインタビューとしてこんなことが書いてありました。
いつもキャラクターの性格や感情の変化、それと監督がどういう映画を作りたいのかという点を考えて色を決めるのですが、今回は特に場面によってキャラクターがどんどん変化し、それにつれて気持ちも大きく起伏します。それで、その時その時で色を細かく変えていきました。例えばソフィーは、途中でおばあさんになって、またもとの若い娘に戻るシーンがありますが、その間にハウルとの出会いとか、色んな体験をしているわけですから、最初のころのソフィーとは違っているだろうと。そう思って、ハウルの秘密の小屋がある高層湿原のシーンでふっと娘に戻ったソフィーの髪の色を白髪のままにしてみたら、これが意外に似合っていたのです。監督も「白髪のままでいったらどうかな」ということで、後半はそれで通しました。ただ、白髪の色もソフィーが中年に見えるときと、おばあさんに見えるときとでは微妙に変えています。
つまり「若返ったソフィーを白髪のままにするというアイディアは、ソフィーの人生経験を表現するために、作品に色を付ける段階になってから色彩設計の保田道世によって考案された」というのが真相のようです。
あと、これは作画ミスなのか、意図的なものか良く分かりませんが、ソフィーの髪の付け根のリボンが突然1つ増えます。このシーンで走るソフィーは大人のソフィーです。髪の付け根にはリボンはありません。
その直後のシーンがこちら。走りながら大人から少女へ変化したソフィーにはリボンが1つ増えています。
ちなみに、ソフィーが呪いを掛けられる直前はこのリボンをしてたようです。
どうやら呪いでおばあさんになる時に、リボンが1つ減ったようです。
・・・いろいろ書いてきてアレですが、もしかするとリボンが増えた瞬間に魔法が解けたのかもしれないですね(笑)*5
ソフィーはなぜ城を壊したのか?
印象的な城のどこでもドア。カルシファーの魔力で、城の出口がいろんな場所に繋がっています。
上段:帽子屋への引越し前、下段:引越し後
引越し後は青いドアがなくなり黄に置き換わった
出口は複数ありますが、部屋そのものが移動するのではなく、部屋は特定の場所に固定されていて、出口だけが別な場所に繋がるようです。
さて、この映画で観客を混乱させている要素に、ソフィーが「引越しをする」と言って城を壊すシーンがあります。
ソフィーは自分で城を壊しておきながら、その次に「城を動かして」とカルシファーにお願いをするのです。
ちょっと意味がわかりませんよね?
まずソフィーが引越しを行おうと思った理由ですが、それは「ハウルが戦わなくてもすむようにするため」です。
ハウルはソフィー達がいる帽子屋を爆弾から守るために戦っているので、ソフィー達が帽子屋から荒地の城に引っ越せば、ハウルは戦わずに済むのです。
しかし、部屋のドアの色を荒れ地の城にあわせたとしても意味がありません。
なぜなら、あくまで部屋の実体は帽子屋の中にあり、部屋が城に移動するわけではないからです。
部屋の出口がカルシファーの魔力によって城の出口に繋がっているにすぎず、帽子屋に爆弾が落ちたら部屋はやられてしまいます。
だから、帽子屋から城に引っ越すには次の手順が必要になります。
- カルシファーを部屋から出して、城と帽子屋の空間のリンクを絶つ
- 帽子屋との関係が絶たれた後の城の中に、あらためて移り住む
これでもう帽子屋に爆弾が落ちたとしても、城の中は帽子屋とは繋がっていないので、ソフィー達に危険が及ぶことはなくなります。
しかし、この引越しには問題があります。
引越し先である城は、中身が空っぽなのです。
サリマンの追っ手が、キングスベリーや港町にあった家に来るシーンがありますが、その時も家は空っぽでした。
空間のリンクが切れて空っぽになった部屋
これからも分かるとおり、部屋の実体が無い場所は空っぽなのです。恐らく当初の部屋の実体は城の中にありました。しかしハウルによる引越しで実体は帽子屋に移ってしまい、今の城は空っぽで、移り住めるような部屋がありません。
カルシファー「あっちは空っぽだよ!」
それでもソフィーは引越しを強行しようとするのですが、さらに別の問題があります。
カルシファーがドアを通れるのかという問題です。
図で示したとおり、帽子屋にある部屋と城はカルシファーの魔力で空間がリンクされており、このリンクを維持するためにはカルシファーが部屋にいて魔力を発揮している必要があります。
ドアを通過するということは、カルシファーの魔力に支えられたつり橋を渡るようなもの
それなのに空間をリンクさせているカルシファー自身がドアを通過しようとしたら、いったい何が起きてしまうのか。
例えるなら、つり橋を支えているロープの端を持ったまま対岸に渡ろうとするようなものです。そんなことが可能なのでしょうか?
カルシファーは自分が支えているつり橋を渡れるのか?
カルシファー「オイラを最後にしたほうがイイぜ!どうなるかはオイラにもわからないんだ!」
結果としては、カルシファーは無事にドアを通過しました。そしてその瞬間に時空のリンクは切断され、その結果中身が失われてしまった城は、ペシャンコになります。
しかし、もしカルシファーをソフィーよりも先に出していたら・・・・カルシファーが部屋から出た瞬間に空間のリンクが切断されて、ソフィーの腕の先だけが荒地に行ってしまったかもしれません。あぶない所でした!
もしカルシファーを先に部屋から出していたら、ソフィーは腕を切断していた
さて、無事に帽子屋と城のリンクを切断したソフィーは、空っぽになってしまった城の中に入って引越しを終らせます。一見すると城を壊してから城に入るという奇妙な行動のようですが、上で説明したとおり最初から彼女が想定していた合理的な行動です。
次に「ハウルを助けに行く!」と言い出すソフィー。
ここはちょっと分かりません。ソフィーが引越しをした理由は「ハウルが戦う理由を無くすため」だったので、もしソフィーが戦場に戻ったら、ハウルは彼女を守るために戦い続けなければなりません。
そもそも、ハウルのところに行って、どうやって彼を助けるというのでしょうか?戦場では得意の掃除スキルも役に立ちそうにありませんし・・・。
そこでふと思いました・・・
城には巨大な主砲が三つもあるではないですか!
見たところ、この世界の戦艦と同等以上の口径がありそうです。この主砲ならば、戦えるかもしれません。
城とは本来、戦争のために作られた要塞であり、その防御力と火力は戦艦を上回るはずです。
はたして、ソフィーは砲撃戦をしようとしたのか!?
けれど残念!
右下の、崩れた砲門に注目してください。何と空っぽです!
どうやらあの大砲は張リボテのようですね。
指輪の色はなぜ赤から青に変わったのか?
ソフィーがハウルから貰ったお守りの指輪。
物語前半では宝石の色が赤色をしています。指輪が放つ色も赤です。
しかし物語後半では、宝石は青、放つ色も青です。
これはどうやらカルシファーの色と関係がありそうです。カルシファーの色は赤ですが、弱ると青色に変わります。
指輪は、カルシファーの魔力で出来ているのでしょう。後半でカルシファーは水を掛けられて弱っていました。
ソフィー、オイラくたくただよ・・・
そして、ソフィーが子供時代のハウルを目撃している最中、ついに指輪に込められていたカルシファーの魔力が尽き、ソフィーは元の世界に戻ってしまいます。
ハウルはソフィーをずっと待っていたのか?
「私はソフィー!待ってて!私きっと行くから、未来で待ってて!」
この映画で一番印象に残るセリフですね。ソフィーは子供時代のハウルとカルシファーに出会っていました。
では、ハウルにその記憶があったのでしょうか?
ネットで調べてみると「記憶があった」と思っている人が多いようです。
根拠としては、映画冒頭でハウルがソフィーに出会ったときに、ハウルの指輪が光っていること。そしてハウルの「さがしたよ」の一言です。
ハウルは子供の頃からずっとソフィーをさがしていたのでしょうか・・・
意味ありげなセリフと、光る指輪
ソフィーの涙はなぜ止まらないのか?
「歩くよ、ヒン。歩くから・・・涙が止まらないの」
このソフィーの涙にも、ネット上では様々な解釈があるようです。
一番多く見かけた意見は「ハウルが自分を子供の頃からずっと待っていたことに気づいたから」というものでした。
自分は「ハウルは、他人のために魔法を使っていたことに気づいたから」だと思います。
マダム・サリマンはハウルについてこう語っていました。
「あの子は悪魔に心を奪われ、私のもとを去りました。魔法を自分のためだけに使うようになったのです」
しかし、実際はどうか。
ハウルは自分のためではなく、他人のために戦っていました。
そして、謎だったハウルとカルシファーの契約の秘密。ハウルはなぜ悪魔と手を結んだのか?
実はハウルがカルシファーと契約したのは、自分が魔力を得るためなどではなく、カルシファーの命を救うためだったのです。
カルシファーはハウルが救わねば死ぬ運命だった
「魔法を自分のためだけに使う」と、人から言われているハウル。
しかし、実際のハウルは常に他人のために行動していたのです。悪魔に身を蝕まれながら。
ハウルは他人のために身も心もすり減らしてしまう
ソフィーは、それを知ったから「涙が止まらない」のだと、私は思います。
ちなみに、物語の最後でソフィーがカルシファーに
「心臓をハウルに返したら、あなたは死んじゃうの?」
と聞いているのは、カルシファーが死ぬ運命だったことをソフィーが気づいていたからですね。
戦争の原因は隣国の王子の失踪だった!?
物語の最後、マダム・サリマンはハウルたちの"ハッピーエンド"を見て「このバカげた戦争を終らせましょう」と言い出します。
当初は「じゃあ、なんのために戦ってたんだ?」と不思議に思っていましたが、合理的に考えれば、「戦う理由がなくなったので戦うのをやめる」はずですよね。
サリマンが目撃したいくつかの事実、例えばハウルが悪魔と手を切ったことや、ソフィーの呪いが解けたことなどは、国が戦争を止める理由にはなりそうにありません。
しかし、戦争の理由が「隣国の王子の失踪」であり、その責任の濡れ衣を隣国から着せられていたことによる戦争だったのであれば、それは確かに「バカげた戦争」だと言えるわけで、その戦争を終らせる理由をサリマンは見つけたことになります。
ヒンの正体はマダム・サリマンの夫?
謎の犬、ヒン。物語の最後にサリマンが「この浮気者!」と言っていますが、もしかするとヒンはサリマンの夫が犬に化けた姿なのかもしれません。
遠く離れたサリマンに、テレパシー的な連絡を取れる能力があるようですし、何らかの魔力もあるのでしょう。
そういえば、ソフィーが城の階段でヒンを持ち上げたとき「なんでこんなに重いのよ!」と言っていました。
ヒンの正体が人間だったなら、重くても無理はありませんね。
城が動く理由
そもそも、あの城、どうして歩くのでしょうか?
その理由はズバリ「逃げるため」
原作ではハウルの趣味は女の子のナンパで、片っ端から口説くのですが、ハウルがふった女の子が家に押しかけてくるので、それから逃げるために城を動かしているそうです。
映画では、荒地の魔女からの手紙を受け取った直後に100キロメートルも逃げています。
100キロ城を動かせと言われたカルシファーも、目的地すら聞こうとしていません。「とにかくここから離れろ」という意味で、カルシファーも慣れっこになっているのですね。
僕はもう充分逃げた。ようやく守らなければならない者ができたんだ。君だ。
確かに充分逃げたのかもしれません(笑)
いかがだったでしょうか?
もし、これまでハウルがあまり好きではなかったのなら、もう一度見返してみてください。
きっとあなたも、ハウルの動く城が大好きになるでしょう。
おしまい
*1:原作では三人だそうです
*2:原作では三人目の妹が荒地の先にある谷に住んでます
*3:原作では家族が登場するようです
*4:ちなみに原作ではソフィーの髪の毛は赤毛のようです。髪の毛の色も、コンプレックスの原因だったのでしょう。そういえば、かの有名な「赤毛のアン」も、主人公のアンは自分が赤毛であることにコンプレックスを感じていましたね
*5:気になったのでDVDを見返しましたが、呪いを掛けられてから、上で紹介したリボンが復活する時までの間では、洞窟の中に倒れている鳥ハウルをソフィーが見に行くシーンにのみ、この付け根のリボンがありました。サリマンの前で若返る時や他のタイミングで若返る時にはリボンが無いので、作画のブレのような気がします
思い出のマーニーをふりかえる11
原作小説について調べようと思い、この雑誌を図書館で借りてきました。MOEは児童書に関する雑誌で、図書館でも児童書のコーナーに置かれていました。
このMOEの2014年9月版に、思い出のマーニーのアニメ映画や原作に関する情報が巻頭から24ページにわたって大特集されています。
アニメ映画の情報も多かったですが、アニメ雑誌ではないので、原作に関する情報も豊富でした。
この雑誌に興味深い記事があったのですが、東京子ども図書館の評議員で大学の名誉教授でもある池田正孝という人物が思い出のマーニーの舞台を訪ねて「今から15年前」にバーナムオーバリーに行ったとのことです。
雑誌が出たのが2014年ですから、15年前というと1999年頃。さほど有名でもない物語の舞台を訪ねて遠くイギリスまで行く人もあまりいないでしょうから、もしかすると以前紹介したバーナムオーバリーに来た日本人というのは池田氏だったのかもしれません。
池田氏によると「アンナが滞在していた低い2階建てのメグさんの長屋や、ミス・マンダースの郵便局を見つけて写真に収めた」とのことです。
メグさんの長屋というのは初耳ですが、もしかするとペグさんの家のモデルになった場所があるのでしょうか?
ミス・マンダースの郵便局もそれらしき建物があるようですが、具体的にどこにあるのかまでは書いてませんでした。
Googleマップで探したのですが、もしかするとこの建物かもしれません。
【岩波版(上)P33】
ゆうびん局はすぐに見つかりました。おどろいたことに、ゆうびん局というのは、ペグさんの家とおなじようなふつうの小さな田舎屋で、このあたりによくある丸い灰色の石を使って建ててあって、壁には、どこにでもあるような、郵便を入れる細い口のついた平べったいゆうびん箱がうめこんでありました。
十字路を曲がって直ぐの場所にある点、丸石を使って建っている点、平べったいポストが壁に埋め込んである点が、作中の文章と一致します。
そしてもう一つ、池田氏によると湿地屋敷のモデルっぽい建物が、例の赤レンガと青い窓の穀物倉庫以外にも見つかったようなのです。
その写真が以下のリンクにありました。
http://www.jidoubungaku.jp/
MOEの記事によると
【MOE 2014年 9月号 P24】
物語の中心となる、しめっ地屋敷も発見しました。でもこれは、作者がしめっ地やしきと考える"グラナリーやしき"と違っていて、ボート小屋の北の方にある、かつてはホテルだった建物でした。このやしきの裏側には、干潮の時、アンナのように靴を脱いでクリークを渡らねば近づけません。そして満潮時、私はアンナのようにボートにのって「壁に切り込んで作った階段」のそばまで辿りつくことができました。そのようなことで、私は、物語の中のしめっ地やしきは、これら2つのやしきを合成してできたものと考えております。
とのことです。
でも、ボート小屋の北には入江しかないので、恐らく西の間違いではないかと思います。具体的にはこのホテルのようです。
Googleマップではホテルの近くまで近づけず、かろうじて屋根が見えるだけですが、上で紹介したURLの写真と屋根が一致するのでどうやらこのホテルで間違い無さそうです。
このホテルが入江側から写っている写真を探したのですが、これくらいしか写真が見つかりませんでした。
ちょっと遠くて分かりづらいのですが、確かに堀を切り込んで作っている階段があるように思えます。
例の穀物倉庫の湿地屋敷は普通に歩いて近づけるので物語の描写とは食い違いを感じていたのですが、物語に登場する入江側の湿地屋敷の描写は確かにこのホテルをモデルにしているのかもしれませんね。ちなみに岩波文庫版の後書きに、物語の地理には作者の想像が付け加えられていると書いてありました。
他に、作者の長女であるデボラ・シェパード(Deborah Sheppard)さんの話としてこんな話がありました。
【P22-23】
祖母はとても厳しい人で、母は愛に飢えた子どもでした。一度こんなことがあったそうです。遠くの寄宿学校に通っていた小学生時代、学期の終わりに、学校に誰も迎えに来ませんでした。遠い道のりを一人で戻ってみると、家のドアを開けたお手伝いさんが『どなたですか?』と言ったのだそう。祖母は、母の学期終わりを忘れていた上、お手伝いさんに母のことを話していなかったんです。なので『思い出のマーニー』の主人公アンナは、母そのもの。そんな幼少期を過ごしたので、母は、自分の家庭を持ったとき、『愛情あふれる家庭にする』という強い決意があったようです。実際、私たちは笑顔の絶えない仲良し家族でした。
作者の両親は2人とも弁護士で、しかも母親はケンブリッジ大学に入学を許可された初めての女性の中の一人だそうです。
尊敬すべき両親と、愛されなかった子供時代。私はこの話を読んで、作者の境遇はアンナよりもマーニーのほうに近いかもしれないなと思いました。
親元から離れていたという境遇は、マーニーの娘のエズミにも似ていますね。
また、先に紹介した池田氏によると、作者は毎夏に2人の娘を伴ってバーナム・オーバリーを訪れていましたが、下の娘は養女で、アンナのような境遇の子だったようです。
作者にアンナのような養女がいたという事は、もしかすると作者も養育費を受け取っていたのでしょうか?
アンナのことを愛して心配するあまり、かえってすれ違いを起こしてしまうプレストン婦人は、もしかすると作者自身なのかもしれません。
つまり作者は、アンナでもあり、マーニーでもあり、エズミでもあり、ミセス・プレストンでもあったのでしょう。
デボラさんは「これだけは伝えたいの」と、以下のように語っています。
【P24】
「主人公のアンナは悲しい少女だけれど、物語の中でアンナは誰のことも責めていません。自分の人生を受け入れて成長していくのです。母も同じでした。母は悲しかった少女時代を決して嘆かなかったし、祖父母のせいにしなかった。自分の人生を受け入れ、前に進むことこそ、母が言いたかったことなんです。」
作者が思い出のマーニーを執筆したという、自宅の庭に建てられた小屋
他にもいろいろとマーニー情報が満載の特集でした。マーニー好きなら入手して損はありません。
思い出のマーニーをふりかえる10
早いもので、思い出のマーニーが公開されてからもう1年になりますね。
「公開から1年」と書いて、なんとなく思ったのですが、そういえば、本物の(?)マーニーとアンナは今何歳なのでしょうか?
まず原作ですが、マーニーが日記を書いたと思われる1917年時点で10歳だったと仮定すると、2015年現在で108歳ということになります。ちなみに長寿の日本記録は117歳だそうです。
次に原作のアンナですが、もし原作本が出版された1967年時点で10歳だったと仮定すると、彼女は現在58歳。アンナも、そろそろ還暦のお婆ちゃんに近いですね。
映画版だと、2012年でアンナは12歳のようですから、現在は15歳。もう立派な女子高生です。
ふとっちょブタの信子は16歳。きっと今年の夏は大学受験の夏期講習に通うことでしょう。
幼いアンナ
原作のアンナは、小説の前半と後半で年齢の印象がだいぶ違います。私のイメージだと前半のアンナは9歳くらい、後半は14歳くらいの印象を受けます。実際の年齢としては、以前にも記事で書きましたが、10歳が一番可能性が高い年齢だと思います。
原作では幼さが見られるアンナですが、前半で印象的だったのがこのシーン。
見知らぬ女性にガンをつけるアンナ
列車の中で、自分が周りの乗客から「物静かなおちびさん」と思われているのではないかと不安になったアンナは、あろうことか周りの乗客にガンを付け始めます。(なぜ・・・)
すると、列車の中で化粧をしている女性を発見!興味をもったアンナは彼女をロックオン!
アンナはマジマジと彼女を見続けてしまいます。
ところが・・・
あらら。
彼女の化粧に見入ってしまったアンナは、当初の目的を忘れてしまい、キュッと寄せていた眉も、いつのまにか離れてしまうのでした。
似たようなシーンが、もうひとつありました。
湿地屋敷をロックオン!
湿地屋敷を発見して、興味シンシンのアンナ。屋敷の中がみたくてたまりません。
少しずつ、少しずつ、屋敷に近寄り始めます。そして結局は・・・
※犯罪です
あらら。
結局、屋敷の窓にかぶりついて中を覗いてしまいました。
・・・うーん、大人がやったら逮捕されますね(笑)
原作では、何かをロックオンすると当初の目的をすっかり忘れてしまうアンナなのでした。
思い出のマーニーをふりかえる9
本当の友達
マーニーが消えてしまった後、増水した湿地で溺れかけるアンナ。
映画では、マーニーとの別れは「夢の中」だったこともありアンナは無事でしたが、原作ではリアルにアンナは死にかけます。
■角川版 P203
土手に着くのがまにあわなければ、おぼれてしまうかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ。水はもう太ももまであがってきているのに、まだやっと半分しか進んでいない。でも、おぼれるわけにはいかない。みんなわたしに好き勝手なことをすればいい。だけど、わたしがおぼれたくないといったら、ぜったいにおぼれさせることはできない。なんとしても、あの角までたどりつかなくちゃ。
わたしが小説から受けるイメージでは、アンナは9歳くらいです。
小説のアンナは映画版よりも何歳か年下で、幼さを感じさせる描写も多いのですが、映画版の杏奈にはない一種の「気高さ」「孤高さ」のようなものを感じます。
つづくアンナの心の声には胸を打たれます。
■角川版 P203
アンナはこれから起こることを思いうかべた。想像の世界で、ずぶぬれのアンナは足を引きずりながら家に帰り、はうように階段をのぼって、自分の部屋に向っていく。あやうくおぼれるところだったけれど、そんなことはだれも知りはしない。
いつだってそうだった。わたしにとって大切なことは、だれもなにも知らなかった。
わたしがどういう思いでいるか--プレストンさん夫婦がお金をもらっていることや、わたしが変わり者扱いされていること、どうしたものか困ったと思われていることを、どう感じているかなんて、だれも知らなかった。マーニーのことだってそう。はじめてできた、わたしだけの親友なのに。そのマーニーはもういない!アンナはしゃくりあげた。そのとたんによろめいて、息をつまらせながら、灰色にうずまく水の中へたおれこんだ。
水の中に倒れこんでしまうアンナ。大ピンチです。
想像の世界で無事に帰宅するアンナ
このアンナの気持ちには共感する人も多いのではないでしょうか。自分にとって本当に大切なことは、他人は知らないものですよね。
それにしても、角川版のここの訳文は凄く気に入っています。特に以下のセンテンスなのですが
いつだってそうだった。わたしにとって大切なことは、だれもなにも知らなかった。
原文ではこうです。
Nobody had ever known anything that was important to her.
この"ever"を"いつだってそうだった。"と独立した文に訳すことによって、アンナの心の声が、より繊細に読者の心に響いてくると感じます。
この「アンナの本当の気持ち」に着目すると、アンナとマーニーの関係が良く見えてきます。
まずはパーティーの三日後にマーニーに出会ったときのアンナのセリフです。
■角川版P135
「すごくさみしかった」アンナは、自分がそう言ったことに驚いた。だれかに気持ちを打ちあけるなんてめったにないことだ。
自分の感情を素直にマーニーに伝えたことに自分でもビックリしてしまうアンナ。二人の関係が深まりつつある様子がわかります。
そして物語の最後付近のセリフ。
■角川版P347
あれはいつだっけ?---やっぱりこんな風の中、堤防をかけていて、同じように幸せを感じたことがあったような気がする。そう考えてからアンナは思い出した。あれはマーニーといっしょにいたときだった。はじめてキノコ狩りへ行ったあのとき---はじめてほんとうの友だちになったあのときだった。
アンナがマーニーと「本当の友達になった」と感じたのはキノコ狩りのときのようです。
その時、いったい何があったでしょうか?
■角川版P150
アンナは、心の中にしまいこんでいる、もうひとつの悩みに思いをめぐらせていた。そして、考えながらマーニーのほうをみた。
「すごい秘密を教えてあげたら、だれにも言わないって約束してくれる?」
そうです。「すごい秘密」・・・つまり養育費です。
キノコ狩りのシーンでは、アンナは自分の最大の悩みである養育費の話をマーニーに打ち明けていたのでした。
■角川版P154
マーニーはアンナの涙をぬぐった。それから急に、また楽しそうな調子にもどって言った。「どう?ちょっとは気分がよくなった?」
アンナはにっこり笑った。そう、ほんとうに気分がよくなっていた。まるで重いものが取りのぞかれたような気持ちだった。マーニーといっしょに草原を走ってもどりながら、アンナの心は空気みたいに軽やかだった
はじめてキノコ狩りへ行ったあのとき---はじめてほんとうの友だちになったあのとき
アンナにとって大切なことを、初めて知ってくれた人が、マーニーなのでした。
思い出のマーニーをふりかえる8
ある日本人のはなし
思い出のマーニーの原書のあとがきに、作者の娘であるDeborah Sheppardさんが聞いたという日本人のはなしが載っています。
ちなみに私が購入した原書はこちら
本が出版されてから30年後、ある日本人の男性が小説の舞台となったリトル・オーバートンを探してバーナム・オーバリー(Burnham Overy)にやってきました。
ずっと昔、彼がまだ若かったころ、彼は日本語訳された「思い出のマーニー」を読んだのです。
その本は彼に深い感銘を与え、彼は小説の舞台となった土地を見たいと切望するようになりました。
ある年の九月の終わり、彼は数泊のロンドンツアーに参加しました。
彼はほとんど英語を話せず、おまけにリトル・オーバートンがどこにあるのかも知りませんでした。彼の頼りは、手にした「思い出のマーニー」の本だけでした。
だから彼は、アンナがそうしたのと同じように、列車でキングス・リンまで行きました。そしてノーフォークの海岸へと向うバスに乗ったのです。*1
バスは満員で、誰もが彼に優しくしてくれました。しかしリトル・オーバートンがどこにあるのかを知る人は誰もいませんでした。
やがてバス停ごとに乗客は少なくなり、1人残された彼は不安になりました。そんな時、バスが道の角を曲がると、風車小屋が見えたのです。*2
「ストップ!ストップ!」彼はバスを降りました。「きっとここにちがいない」
しかし、そこはリトル・オーバートンではありませんでした。その村はバーナム・オーバリーでした。
彼はパブに向いました。そしてパブの主人から、彼は正しい場所にたどり着けたのだと教えられました。リトル・オーバートンとは、バーナム・オーバリーをモデルとした架空の村だったのです。主人は彼を入江に案内しました。
彼は感動にふるえました。
潮が満ちた入江や、錨につながれて揺れているボート、自然の湿地や野鳥、そして全ての始まりとなった屋敷の姿を、ついに見ることができたのです。
※画像はイメージです
原書が出版されたのが1967年。本が出版されて30年というと、この日本人のはなしは1990年代の終り頃の出来事ですね。あとがきが書かれたのは2002年です。
日本語訳が出版された1980年に彼がティーンエイジャーだったとすると、彼は今50代でしょうか。
思い出のマーニーがジブリで映画化されると知ったとき、彼は凄く喜んだでしょうね。
※やったッ!! さすがジブリッ! おれたちにできない事を平(以下略)
私もいつか、バーナムオーバリーに行って、アンナが見た風景を自分の目で見てみたいと思っています。
思い出のマーニーをふりかえる7
アンナの風景
■リバプールステーション
かわりにアンナは、スーツケースをぶらさげたまま列車の乗り口の前にぎこちなく突っ立って、こう願っていた。わたし、「ふつうの顔」をしているといいけど・・・どうか早く列車がでますように。(角川版P7)
■田園風景
じゃあ、「ふつうの顔」はうまくいったわけだ。おかげでだれもアンナに気づいてもいない。ほっとして窓の外に目をやると、平らな干拓地がどこまでもつづき、いくつもの畑をあいだにはさんで、農家がぽつり、ぽつりと立っていた。アンナはひたすらその景色を見つめつづけた。・・・なにも考えないで。(角川版P15)
■ヒーチャム
https://flic.kr/p/me3mQD
プラットホームで、丸顔の大きな女の人がこちらに向って買い物袋をふっている。ペグのおばさんだな、とすぐにわかり、アンナは歩みよった。(角川版P16)
■バスからの風景
そして、はるか左へ目をやったとき、海が細く長い線のようにのびているのが見えた。アンナは胸がどきんとした。ほかにも海にきづいた人はいないかとあたりを見わたしたけど、だれもいない。(角川版P17)
■入江へ続く道
「うちの前の道をずっと行って、十字路を左に曲がるんだよ」ペグのおばさんが教えてくれた。「郵便局は、そのすぐ先だからね。そして十字路を右に行けば入江があるんだ。ちょっとそこらを歩き回ってごらん」(角川版P26)
■郵便局
郵便局はすぐに見つかった。驚いたことにペグさんの家と同じような丸石づくりの一軒屋で、平たい郵便箱が壁に埋め込んであったので、そこにハガキを投函した。それから十字路まで引きかえした。なんだかとても自由な気持ちだ。自由でからっぽな気持ち。(角川版P26)
■湿地
アンナは入江の水ぎわまで歩いていって靴と靴下をぬぎ、はだしで水に入って、目の前に広がる湿地を見わたした。湿地のむこうの砂浜には砂丘がもりあがり、日差しを受けて輪郭だけが金色に輝いている。砂丘の両側には、海が青い線のように細くのびているのが見える。小さな鳥がアンナの頭上をかすめるように入江を飛びこし、一本調子のもの悲しい泣き声を四回、五回とくりかえした。まるで「ピティー・ミー、オー、ピティー・ミー」と言っているみたいに聞こえる。「悲しいね、ああ、悲しいね」と。(角川版P29)
■そのとき、その屋敷が見えた
右へ目をやると、村は畑のあるほうにむかってだらだらと広がり、遠くには風車小屋がひとつ、空を背に黒々とそびえている。つぎにアンナは、ずっと左のほうを見わたした。数軒の家の向こう、草におおわれた土手にそって長いレンガの塀が走り、塀がとぎれたところに黒っぽい木立がある。
そのとき、その屋敷が見えた・・・。(角川版P30)
■湿地屋敷
見えたとたん、これこそ自分がずっとさがしていたものだとわかった。屋敷は入江に面していて、大きくて、古めかしくて、角ばっていて、たくさんある小さな窓には色あせた青い木枠がついている。こんなにたくさんの窓に見つめられていたら、だれかに見られている気がするのも無理はない。(角川版P30)
■細い窓
アンナはだんだん大胆になって、玄関の両側についている細い窓から中をのぞいてみた。一方の窓台にはランプがのっていて、破れたえびとり網が立てかけてあった。玄関ホールの真ん中には、広々とした階段がついている。(角川版P40)
■よきものなんて、どこにもない
アンナは壁にかかった刺繍の額を見て、それにも腹を立てた。「よきものをつかめ」って言うけど、よきものなんてどこにもない。だいたい、これってどういう意味なんだろう。錨って、よきものなの? でもそんなものを持っていたところで、一日じゅう持ち歩くことなんてできやしない。それこそばかみたいだ。アンナは額をうらがえしにして、窓辺に歩みよった。床にひざまずいて、夕焼けに赤くそまった畑を見はらすと、みじめな気持ちが熱い涙になってほおを伝った。「よきもの」なんてどこにもない---いちばんよくないのは、このわたしだ。(角川版P56)
■シーラベンダー
湿地は紫色のかすみにおおわれていた。咲きはじめたばかりのシーラベンダーだ。アッケシソウを摘み終えたら、シーラベンダーも少しつんでみよう。(角川版P62)
■アッケシソウ
アッケシソウは緑色でみずみずしかった。食べても海の塩の味がするだけだけど。アンナは袋がいっぱいになるまでアッケシソウを摘むと、シーラベンダーはまた別の日に摘みにくることにして、郵便局へ向った。(角川版P63)
■砂浜
アンナは入江を横切って湿地を歩き、さらにその向こうにある入り江もバシャバシャと渡って砂浜へ行った。そして、鳥達だけをおともに砂浜のくぼみに横たわって、長く暑い昼下がりをなにも考えずに過ごした。(角川版P70)
■「浜辺は、なんのにおいもしません」
もっとも、風向きが悪くて、自然がいじわるをしたときには、死んだアザラシのにおいがすることもある。でも、死んだアザラシのにおいのことなんて、だれもハガキに書いて欲しくないよね。そうおもったアンナは、かわりに天気のことと、ここ数日の潮の様子(このときいちばん気になっていたこと)を詳しく書いた。(角川版P110)
■風車小屋ちかくの堤防
つぎの日、アンナは早起きをした。こんなに幸せな気持ちで目覚めたのはすごくひさしぶりだ。そしてペグのおばさんが起きだす前に、そっと家をぬけだした。今日はマーニーといっしょにキノコ狩りをする日だ!(角川版P142)
■風車小屋
見あげると、風車小屋は空高くそびえたっていた。黒くて、とてつもなく大きい。一瞬、自分のほうへかたむいて、たおれてくるような気がして、アンナはぞっとした。(角川版P183)
ちなみに風車小屋は現在コテージとして利用されているようです。
料金や中の様子はコチラ
思い出のマーニーに登場する風車だということも、中に書かれていますね。