溺れる猿の気持ち

取るに足らない日々のなにか。澱のように溜まる愛すべきもたち。

見えているものは…2

この前の続きで。自分の見えてるもののみが真であるって話。

 

トゥルーマンショーって映画。

 

確かに作り物の中で生きてる彼だけど。そのことを知らなければ、作り物を本物の世界だと思い込む。

どれだけウソであろうと。本人がホントだと思えばそれは真なのだ。

 

例えば自分が一人でいる時の周りの世界はどうなっているのか。

そんなことを考えたりしないですかね?

 

そりゃもちろんそれぞれの生活を送っているわけで。自分と会っていなくてもそれはかわらない。

かわらないけど自分が観測していないんだから、それはわからない。

自分といる時の相手だけが真であっる。

自分が近づいた時にのみ存在してるんじゃないかって。小さい頃は本気で考えたこともあった気がする。

 

つまり、観測できてはじめて存在できるってことなのかな。

あると認められてはじめて存在できるわけで。

誰も認識してくれなければいないのも同然。

 

そうなると、本当に自分が存在するためには、他者から認識してもらう必要がある。

 

でも、他の人に意識があるってどうして分かるのだろうか。

 

うん。そりゃないわけがない。

でも極端に言えばRPGにでてくるNPCの村人のような存在でないと誰も否定出来ない。

自分でないのだから。

 

確かなのは自分が存在してるってこと。

それだけなのに、世界に自分が存在するためには、不確かな他者からの認識が必要というややこしい事態に。

 

そりゃ、目の前にあるんだからあるんだろって言われりゃそうだけど。これが難しい。

哲学的ゾンビとかね。

 

この辺りはもっと深く考えたい。

見えているものは…

忙しいと毎日書くのが難しい。

というわけで。短くサクッと、で頑張ろうかと。

 

今日は、クオリア問題について。

もしかするとクオリア問題ではないのかもしれないけど。正直まだ詳しく調べられてないのでなんとも。

 

常々疑問に思っていたのですが。自分に見える色と他人の見える色は違うのではないか?ってこと。

自分はだけど、あなたのはかも知れない。

 

でも。お互いが赤として認識していることは間違いないから、そこでの齟齬は生まれない。

 

これって他の5感でも言えますよね。

 

どうして同じものを食べて好みが分かれるのか。

ただたんに好きな味が違うのか。それとも同じものを食べても同じ味と感じていないのか。

 

あとは、人の好みとか。

同じ顔を見ても、同じに見えてないんじゃないかって薄々。

 

ただ、これって証明ができない。

他人の目を使って見ることなんてできないから。

しかも、もしできたとしても処理するのは自分の脳だから。

 

とりあえずは、今の色合いで満足してるいし。この世界が好きなので問題はないです。

無意味だとわかっていても、考えだすとキリがないですよね。

やっぱり文系なんだなってしみじみ。

努力の価値

結果よりも、頑張ったことに価値をおこうとする風潮が嫌い。

努力になんて価値があるなんて認めない、結果にしか意味はない。

 

未だに実物を見たことがないけれど、手を繋いで一斉にゴールなんてもってのほかだ。

一時期流行った2位じゃダメなんですかなんて、努力している人への侮辱でしかない。

 

これまた競馬の話になるけれど、ブエナビスタという馬がいる。

私はこの馬を偏愛している。ブエナビスタメモリアルとい動画がよくできているので、機会があれば見てほしいです。

未だに涙がでる。JCはただただ涙が溢れた。それくらいに愛おしい。

諦めないあの走りが、心をとらえて離さない。

 

とくに恵まれた馬体でもない、むしろ、ブエナビスタよりいい馬体の馬なんて沢山いる。知らない人が見たら、きっと馬券は買わないと思う。

 

彼女が輝くのは、レースの中で。

どんな展開、位置取りでも、猛然と追い込む。

届こうと届くまいと、彼女のレースは変わらない。

涼しい顔をして、凄まじい末脚を繰り出す天才少女。不屈の闘志をうちで燃やす。

 

そんな姿は、多くのファンに支持された。

デビューからの連続1番人気19回はJRAの記録となっている。

 

けれども、1番に支持され続けた彼女が勝ったのはたったの9回。23戦9勝と少なく感じるかもしれない。

 

GⅠでの2着は7回。最後の有馬記念以外は、なにか一つ変わっていれば全て勝てていた可能性もある。だけど、それは可能性でしかない。

 

ほんのちょっとの足りないなにかが、いつも彼女から勝利を遠ざける。

ハナ差だろうが、結果は結果。

どれだけ諦めずに走ろうと、2着という結果は変わらない。

後に記録だけを見れば、GⅠ6勝の名牝(最高はGⅠ7勝)。

着差も頑張りも関係ない。

 

1番人気に支持されれば、負けた時にそれだけ叩かれる。

期待が大きいだけに、落胆へと変わる。

 

2度の海外遠征、古馬王道2年皆勤。

雄馬でも音を上げるような過酷なローテを走り続けた。

でみ、そんなことは関係ない。

 

負ければ『ブエナビスタは終った』そん文字が紙面を踊る。

 

残酷なまでに勝者と敗者に分ける。

そこにある思いなんてものは、考慮されない。

 

価値が有るのは1着だけ。それ以外に価値はない。

そりゃまあ、馬券的には3着まで。馬主的には5着まで、金銭的に関わってくるから重要ではあるのだけれど。

 

ハナの差であろうと、1位と2位には天と地の差がある。

 

全員がいい結果になるわけじゃない。どれだけ努力していようと、1番になった者には敵わない。勝ったものにしか価値はないのだ。

 

でも、だからこそだ。

逆説的だけど。結果にしか価値がないからこそ、努力に価値が生まれる。

 

結果がすべての世界で、報われないかもしれない、そんな努力を続けられる。

頑張ることが尊いんじゃない、ひたむきに結果を求めることが尊いのだと思う。

 

だから、『みんな頑張ってるから、並んでゴール』それは、1番になれない者を侮辱していると感じちゃう。

ひたすらに1位を求めている人達から、1位の価値を剥奪するなんてありえない。

努力は、どこへ向ければいいのだろう。

まぁ運動会レベルだから、そこまではありえないけど。

 

べつにAKB批判とかそんな大層なもんじゃないし、AKBはそれはそれとしていいと思う。

だけど、ドキュメンタリーで舞台裏を見せて頑張っているでしょ?ってのはなんか違うなって。どうして見せちゃったんだろう。

 

だって、あれって普通だから。

過呼吸になって倒れる、そんなの本気でやってりゃどこにだって転がってる話。評価されるのはそこじゃない。

そこまでやっても、結果を出せなきゃ評価されない。そこにこそ価値が生まれると思う。

なんか、そんな悲壮感はいらない。結果だけで語るべきだと思う。

頑張ってる姿なんてフォーカスしなくても、自然と見えてくるし。

 

だから、なんだか総選挙も嫌い。あれって、頑張ってるのはファンな気がするし。

これは、きちんと追ってないからだろうけど、なにを評価されてその順位なのかも見えにくい。

順位を付けない風潮が流れる昨今。自分に明確な順位を付けられることを選べるなんて凄い。と評していた友達がいた。

でも、それって普通の事だと思う。生きてりゃ順位を付けられる。

 

むしろ、自分の選んだ場所で順位を付けてもらえるのだから、幸福なことだと思う。

しかも、1番じゃなくても評価される。

少し順位が上がれば、頑張ったね。順位が下がっても、頑張って、って。

 

まぁ、きっと対象が違うんだと思う。

どこかで部活の延長線上、身近な子たちが頑張ってる姿がいい。そんな評価を見たことがある。

 

うん、それはそれで素晴らしい。確かに身近に感じられるしね。

というか、AKB云々より、少女達の純粋な頑張りを、大人の食い物にしてる感が嫌い。

 

でも、だから、もっとシビアで、残酷な世界に身をおいている人達にも目を向けてほしい。

 

 

 

 

1/

熱い熱い、ダービーウィークが終った。

世代の頂点を極める、熾烈なレース。

 

今年の3歳馬の総数がわからなかったので、なんとも微妙なタイトルですが。

大切なのは、分母の数ではなく、分子の1。

頂点に立つ資格を得られるのは、たった1頭だけってことだから、まぁよし。

 

2013年のダービーを制したのは、ディープインパクトを父に持つキズナ。

騎乗していた武豊騎手は通算5勝目となった。

 

栄光から一転、辛酸を嘗め尽くした天才が、再び輝きを取り戻す。

1頭と1人の騎手にのみ許された、ウィニングラン

西日に輝くターフの上を歩く姿は、絵になる。

やっぱり、この人だよなって、あらためて実感。

 

まぁ、MCS辺りから復調してたんですけどね。

天皇賞春なんて、そりゃもうほんと乗れてましたもんね。

 

数いる現役ジョッキーの中で、ダービージョッキーの称号を持っているのは片手で足りるていど。

星の数ほどいる馬の中から、たった1頭。

 

ダービーという舞台に立つことすら叶わぬもの達を尻目に、さっそうとゴールを駆け抜ける。

そこにあるのは勝者と敗者だけ。

 

どれほどわずかの差であろうと、「1/」にはなれない。

 

ゴール板を過ぎた時の、福永騎手(2着)の俯いた横顔が、頭から離れない。

 

こちらは野球の話になりますが、あさのあつこさんの小説だったかな?

『この暑い夏を、一度も負けずに終えられるのは一校だけ』

とても印象的な言葉です。とか言いつつ、うろ覚えなのですが…。

 

勝負の世界とは残酷で、とても美しい世界だと思うのでした。

 

ちなみに、馬券はバッチリハズしました。

好きの強度

いつの間にやら、4ヶ月近くも放置。時間がたつのが早すぎて、少し怖い。

加速していく世界にウンタラカンタラ…。ただたんに、サボっていただけなんですが…。忙しさにかまけていたらダメですよね。

アナログなブログを書き始めたのを機に、心機一転、毎日書く。きっと書く。

 

 

好きなものは? そう聞かれると、なんとも答えづらい。

好みがないわけじゃない。猫が好きだし、ジンジャエールも大好き、あげだしたらキリがない。でもそれって、経験からくる比較の末にあるもので、今後どんどん変わっていくんだと思う。かわいい動物を見つければ、猫より好きになるし。7upかジンジャエールかで、正直迷うし。

何処かに基準を作って、好きと嫌いを分ける。ふたつを天秤にかけて、より好きな方を好きという。

 

きっと、みんなもこうやって『好き』を決めているんだと思う。わからないけど。それに、これはこれで正しいことだと思う。

 

だけど、『好き』の強度を思うと、簡単に口にできなくなる。

 

『~好き』って気持ちは、否定出来ない。本人以外が、そこに立ち入ることはできなくて、認めざるをえない。

 

『I can』は否定することだってできる。例えば、できるできないの基準は外にある。

~が得意といったって、他の人との比較で否定されるちゃう。せいぜい、自分の中では~が比較的得意、が精一杯。

 

だけど、『好き』は違うと思う。好きの基準は本人の中にしかない。

それはもう唯一絶対の強度を持ってる。

 

好きって言葉は、どうしても重く考えちゃう。

 

唯一絶対の好きが欲しいのかもしれない。

何者にも侵されない、自分だけの唯一絶対が。

 

比べられないからこそ、他人と比べてしまう。

あの人よりも、果たして自分は好きなのか。

なにもかもを捨てて、それを選べるのか。

 

例えば、プロ野球選手の野球が好きと、自分の野球が好きでは、大きな差があると思う。

でもだからといって、プロに成れた人が一番好きなのかといえば、そうじゃない。

 

同じ人を好きになったとして、選ばれなかったほうの気持ちが劣っていたわけじゃない。

 

結局『好き』なんて比べられない。言ったもん勝ち。

比べるなんておこがましい。胸を張って好きだといえる人の勝ちなんだから。

 

素直に好きといえるくらい、大人に成れればいいと思う。

 

 

 

 

毎日書くぞー!!

まあ、言うだけはタダだし…。

 

このブログの目的

1、ストレス発散

好き勝手に文字を綴れないってのは意外とストレス。それならば。どこかに吐き出してしまおう。

2、趣味と実益

自分の文章がどんなものなのかわからなくなりつつある今日このごろ。言葉を唯一の武器とするなら、もっと鋭く柔軟に。言語化する練習。

3、備忘録

今は今しかないわけで。この時、こんなこと考えてたんだ―とか。あー、文章下手だったなぁとか。後は、いいネタはないかとか。後々振り返るために。

4、整理整頓

心の整理、デフラグ。残り少ないリソースを有効活用。

 

毎日、なんかしらのテーマで書いていけたらいいなー。

日々のとるにたらないものでもいいから。