気分屋で怖かった父との思い出
父の日ということで、父との思い出について。
◇週末
小さい頃、私にとって父は絶対的な存在だった。
全部言うことをきかなければならないと思っていたし、父の言うことはすべて正しいと思っていた。
父は気分屋で時にめちゃくちゃな理由でキレたり、理不尽な内容で叱りつけたり、怖いと思うことも多かったが、一般的には良い父親だったと思う。
私が物心ついた頃から、父は毎週一緒に遊んでくれた。
近所の公園でかけっこをしたり、かくれんぼをしたり。
もっと大きくなってからは自転車でぐるぐる走り回るようになった。
ほかにも一輪車やローラースケート、キックボードなんかを買い与えてくれた。
野球、サッカー、バスケットボール、テニス、バドミントン……などなど色んな球技に付き合ってくれた。
というか、父は私にスポーツをやらせたかったようで、いろんなことを片っ端から試していた節もある。
私は父が「今日はキャッチボールをするぞ」と言えば黙ってグローブを用意したし、「今日はテニス」と命じられたら父の分のラケットも玄関に持って行った。
そこに私の希望や意思はなかった。
でも、小さい頃はそこそこ何でも楽しめていたように思う。
体を動かすことは嫌いではなかったし、家の中でしかめっ面をして黙っている父よりも、外で一緒に遊んでいる父のほうが好きだった。
◇気分屋
父は気分屋だ。
すごく機嫌が良いときは徹底的に私を褒めて、もっと上手くなれる方法を丁寧に教えてくれる。
父も私も笑顔で、ふたりして子どものようにぎゃあぎゃあ騒ぎながら遊ぶこともよくあった。
その辺りにいる全然知らない子も巻き込んで一緒に遊ぶパターンも稀にあった。
基本的に、父は子どもが好きだったようだ。
一方、機嫌が悪いときも多くあった。
それなら無理に遊ぶなよと今なら思うが、父は父なりに「娘と遊んでやらなければならない」という使命感に燃えていたのだろう。
機嫌が悪いとき、父は私をきつく叱った。
そんなフォームじゃだめだ、もっと早く走れないのか、成功するまで帰れると思うな!などなど、昭和の熱血な運動部のようなノリでスパルタ指導に励む。
また、例えばバドミントンをしていて、私が偶然上手いショットを打ち、父が打ち返せなかったときなんかは気分が急降下する。
小学生の女の子では到底打ち返せないような、大の大人の本気のショットを顔面に向かって何発も打ち込んでくるのだ。
「調子に乗るな!」と何度もシャトルをぶつけられ、泣きそうになりながらラケットを振り回していた記憶は鮮明に残っている。
あるときは、一緒に凧を飛ばしにいった。
私が大きな紙に愛犬のAの似顔絵を描いて、父がそれを使って凧を作ってくれたのだった。
大きく描いたAのイラストは我ながらよく似ていて、愛犬の可愛らしさを上手く表現できていて満足のいく仕上がりだった。
私ははしゃいで公園を駆け回り、凧を木に引っかけてしまった。
すると父は急にキレだした。
落ちていた石を投げて、どうにか凧を下ろすと、父は物凄い形相でそれを地面に投げつけた。
そして凧を真っ二つに折り、更にまた半分に折り、何度も足で踏みつけた。
私は可愛らしい顔で笑う愛犬Aの似顔絵が泥だらけになっていくのを黙って見ていた。
◇思い出
人の記憶とは不思議なもので、こうして思い出そうとすると何故かマイナスの記憶ばかりが鮮明に思い出せる。
毎週のように遊んで貰って、きっと楽しいことや嬉しいこともたくさんあったはずなのに。
「お父さんが遊んでやったことちゃんと覚えてろよ」
父はよく、小さい私にそう言った。
遊びに行く度に繰り返し、繰り返しそう言うので、その台詞ばかりが刷り込まれてしまっている。
「公園に連れて来てやったこと、ちゃんと覚えてろよ」
「夏でも遊んでやったこと忘れるんじゃないぞ」
「大人になっても、キャッチボールしたこと覚えてろよ」
口答えしたり、冗談でも嫌だと言ったりしら機嫌が悪くなるので、私は決まって「うん、わかった」と頷いた。
「うん、わかった、忘れないよ。ちゃんと覚えてるよ」と。
残念ながら、あまり良くはないほうの思い出のばっかりちゃんと覚えているけれど。
◇父が怖くなくなった日
はじめに書いたように、私は長いこと父を絶対的な存在だと思っていた。
口答えしたり反発したりすることもほとんどなかったし、怖かった。
しかし、小学生になって、父が怖くなくなったのだった。
具体的な時期はあまりよく覚えていない。
父が病気で入院したことがあった。
何の病気か、どんな手術かも私には知らされなかったが、とにかく何らかの手術のための入院だった。
どうやら父は何日か入院して、お腹を切って、中にある悪いものを取り出すらしいということだけ、幼い私は理解していた。
手術が終わってから母と一緒にお見舞いに行った。
いつも怖い父がじっと黙ってベッドに横たわっている姿は衝撃的だった。
父の体には何本もの管が繋がれていた。
意識は朦朧としているようだった。
やつれた様子で目を伏せた横顔は私がそれまで一度も見たことがないくらい弱っていた。
母が父に近寄り、声を掛けたとき、父は半分意識を失ったような状態で声を上げて泣き出した。
「痛い……痛い……」と、父は啜り泣きながらそう言っているようだった。
幼児のように泣く父の姿は衝撃的だった。
いつもみたいに怒鳴ったり、高圧的に命令したりするしかめっ面からは想像もできない光景だった。
私は何も言えなかった。
何故だかただただ悲しくて父と一緒に泣いていた。
病院からの帰り道、なんとなく母も私も疲れ切っていた。
「お父さん泣いてたね」と言うと、母は私の手を握った。
「お父さんはね、お腹を切ったばっかりなの」
「痛くなくなる薬も切れて、凄く凄く痛いのを我慢してるの」
「だから沖ちゃんも応援してあげてね」
静かな声で告げる母に、私は黙って頷いた。
その日から、私は父に対して以前ほどの恐怖を感じなくなった。
例えば大人になって、年老いた両親に感じるのと似通った感情を抱いたのだった。
今、父と二人で暮らし始めてからもうかなりの年月が経つ。
母が亡くなってから、父と私のパワーバランスはまた少し変わった気がする。
もう子どもの頃のような恐怖はまったくない。
腹立たしく思うことも苛つくことも多々あるが、まあ、お互い様だろう。
むしろ気兼ねなく喧嘩したり言い合いしたりできるという意味では、今のほうが良い距離感と言って良いかもしれない。
もう何年も前に我が家では父の日の制度が廃止されたので、今年も、これからも、特に何もしないと思う。