民衆とは

久々に長い文章が書きたくなった。

選挙や吉本の問題があるとは思いますが、そのあたりはみんながそれぞれ思えばいいと思います。僕はもう少し抽象的な話をします。オチはないです。

 

色々な話の中で、民衆と呼ばれる一般社会にいる人間、僕もその1人ですが、なぜ考えて行動しないのだろうと思います。

人は完璧じゃないです、欠陥だらけだと思います、間違ったら正すことは必要です。

でも、それらは本人が意識したことではなく、だれかが右を向け、左を向け、という事に従うだけになってしまっています。

 

あるコミュニティの話です、架空の話と思ってください。

コミュニティの中で生きづらくも何かを考えながら行動する人間がいました。彼は本人が思っているよりも人気が出て、それなりの発言力を持つようになりました。次第にそれを恐れて、コミュニティから抜けることを決断しました。辞めるという事で、彼の周りの人間はそれを止めました、それでも辞めるしかなかった、いろんな事情がありました。

勿論賛成だけでなく否定的な人間もいました、それはきっと必然でした。

 

彼がそのコミュニティを抜けた後、こっそりとその世界を覗くことにしました。だれにも迷惑をかけず、誰とも深く関わろうともせず。

でも次第に彼であることに気づきます、嗅覚なのかなんなのか、それはわかりません。

喜びながらも彼の意思を汲んで、そのことを黙りながら少しずつ馴染んでいきました。

そして同じくして、彼を否定する人間も彼の存在に気づきます。そして謂れのない言葉で彼を批判します。知らない人間はそれを正しいと思い、同じように批判します。伝播するのです、悪しきことほど。

彼はそれを知り、憂いながらそこから去ります。言い訳もせず、何事もなかったかのように、立つ鳥後を濁さずに。

いなくなると、批判した人間はそのことを殊更に言います、俺たちが勝ったと。民衆はそれを信じ、彼を同じように批判します。

何も知ろうとせず、ただ批判します。

事実が違ったとしても、彼らは謝りもせず、言わないあいつが悪いと言います。民衆は同調します、何も知ろうとせず、批判だけをします。

そして、数年後に自分の過ちに気づきながらも、また違う誰かを批判します。考えようともせず、同じような犠牲者が出ても、自分ではないから痛くもありません。

それが民衆です、実態なんてものはどこにもなく、ただ声の大きいものが勝つ。

勝ち負けなんてものでこの世界は決まらないのに。

 

 

この話を聞いて、自分は違うと思うかもしれません。でもそれ自体が傲慢で自分勝手なのです。人は誰だってそういう一面を持ちながらも、自分が好きなんです、僕だってそうなんです。誰かを追いやることで自分の立ち位置を奪われたくないし、足元は簡単に掬われます。

 

この世界は変わらない、醜い、そう思っていても、そうなるのです。それを受け入れるんです、人は、人間は。

 

人に優しくありたい、少しでもそう思うなら、自分を過信せず、何かを犠牲にしてでも、声を上げる、それでも変わらない、そんな世界でも、強く生きようと願えば、きっと少しずつでも変われると、僕は思ってます。

話すことと話さないこと

自分の中でこれだけは譲れないというものが誰しもあると思う。
それを相手に主張するかしないかはおいといて、
例えばそれを相手に伝えた時に相手がネガティブな印象を持った時、
あれ、自分は間違ってるのかなと思ってしまうことがよくある。
その時、自分は何をするかと言うと、
自分の考えを再度考察してみる。
そこで、自分の考えが間違いだったと思えたなら、
すぐに軌道修正して、自分の過ちを認める。
逆に、自分の考えはやっぱり合ってると思えたなら、
その時は自分の考えを極力話さないようにする。
それは、逃げとかではなく、一般的な考えとしては許されることではないけども、
自分としてはそれを曲げたくないという意志を、
誰かに伝えることなく認めてあげたいからである。

世の中でタブーとされていることとは別に、
あえて言うべきことではない考えを、
無理に押し付けたくはない。
押し付けたとして何が変わるのか。
変わらない、変えたくない。
自分がスタンダードな人間になることを恐れてしまう。
マイノリティになりたいとかではない。
ただ純粋に自分のアイデンティティをまもりたいだけ。
そこにはポジティブもネガティブもなく、
これでいいんだというある種の決心を伴っている。

それができるうちは俺は幸せなんやろうなって思う。

話すことと話さないことで結局は自我を守っている。
それこそが自分が生きる術なんやろなって、
笑いながら今日も過ごしている。

Syrup16gというバンドについて

2013年3月1日
Syrup16gという日本のロックバンドが解散して五年を迎えた。
思えば2007年12月にNHKホールで解散の宣言をして、翌年3月に日本武道館で解散ライブを行った。
フロントマンである五十嵐隆は鬱々した中にも希望を見出していて、
それが彼ゆえのカリスマ性となり、アングラ的な人気を得ていた。

そして今年、解散した日に復活ライブを五月に行うことが発表された。
Twitterでもかなり湧いて、ライブが行われるNHKホールの動員可能人数をゆうに超える倍率のチケットとなるらしい。

私は今28歳でシロップを知ったのは20歳の時だった。
先輩の家に行った時、先輩がSONIC DISORDERという曲を流していて、かっこいいなと思ったのがきっかけだ。
彼此8年のファンになる。

だが、8ねんと言う歳月、もっというと解散してからの5年と言う歳月は私にとって大きなものだった。
言ってしまえば大人になってしまって後戻り出来ない状態になってしまった。

今回、この発表を受けた時の率直な感想は、なぜ今になったんだ、ということ。
この5年の間に五十嵐隆は犬が吠えるというバンドを組み、
ライブまで行ったにも関わらず、CDを出さないまま解散してしまった。
私にとってはその時点でいろいろなことを、諦めてしまった。
それは五十嵐隆のせいとかではなく、自分の中でのけじめをつけてしまった。

私はシロップのファンの中でもシロップを好きだという自信がある。
それくらい、彼らの音楽に傾倒していた。
だからこそ、今回の発表を聞いて、そのライブに「行かない」ことを決めた。
見てみたい、というのは正直ある。
だが、それによって自分の中でのある種のけじめに対して、ありえない、という感情を持ってしまう。
頑固でただの意固地なかんがえでしかないかもしれないが、
私にできることは五十嵐隆という存在に、外野から見守るしかないと思った。

大人になることは、必ずしも正しいことではないかもしれない。
でも、自分が決めたことは、もはや覆りようのない事実でしかないのだ。
五十嵐隆が今回ライブを、すると決めたことと同じように。

ライブにいく皆様、楽しんできて下さい。
私に言えるのはそれだけです。

誰も旧世界の話をしない

さて、眠れぬ夜にブログを書きます。

その前に、あけましておめでとうございます。
本年も当ブログ共々、私をよろしくお願いします。


というわけで、今回のテーマは特に力説したいわけでもなく、
ただ何と無く思ったことです。
なので割と短めです、何もないし。


私の崇拝するバンド、ACIDMANが新譜を出しました。
タイトルは「新世界」です。
ノブオはキラにでもなるのかしら、と思いながら聞いてます。
曲を聞く限りでは、そんなことはなさそうなんですけどね。
私、不安やから、現にこんな時間にブログ書いてるし。


で、タイトルが新世界なわけですよ。
大阪の危ない街も新世界、あんま関係ないです。
でもさ、よく新世界って言葉は聞くけども、「旧世界」って言葉聞かないですね。
もっと聞いても良かろうもん、と思うんやけども。
あれか、過去は振り返らないタイプか、それなのか。
でも新暦と旧暦は使うし、新市街と旧市街も使うし。
旧正月に至っては、新正月ってあんま言わんし。あ、新正月の話は今度ね、あんま興味ないけど。


で、私が思うに、ただの語呂の問題じゃないかと。
言いやすさと分かりやすさじゃないかと。
旧世界ってなんか言いにくいし。
多分それじゃないかと。


と、ここまで書いておいてあれやけども、
世界に旧も新もないやろ、とか思う派です。
世界は終わってないんやし、マヤ暦終わらんかったし。


そんなわけで、結論はもうちょいしてから、まあ、世界が終わってからかな。
どうか、この世界が旧世界になりませんように。

音楽は人を救うか

救いようがない、というのが自分の考え。

よく、私はこの音楽に救われた、という言葉を聞くが、
その解釈に戸惑うことがある。
自分の境遇について慰みなのかなんなのかわからないが、
そういう類の歌詞だったりするのか、
はたまた縋りたいだけなのかもしれないが、
それは若干違う気がする。


こうやって書くと非常に冷酷な印象を受けるかもしれないが、
この言葉の裏には全くの逆の意味が込められている。


音楽が救ってくれたわけでは決してなくて、
音楽なりなんなりのきっかけによって、
「自分が自分を救った」のだ。
感化される、という言葉を使うと非常にチープになるが、
まあそれに近いものじゃないかな。


こうやって書くと、それは救っているのではないか、
と感じる人がいるかもしれないが、
救うというのは本来はもっと違う意味を持っている気がする。
あくまで自分の解釈であるが。

結論を改めて言う。
音楽は人を救わない。
自分を救うのは自分でしかない。
それが私なりの答えです。

複数解を認めないことについての考察

パンはパンでも食べられないパンは?

これはなぞなぞの中でもかなりベタなやつで、

誰しもが聞いたことあるかと思います。

答えはフライパン(僕の知ってる限りでは)なんですが、

ようはパンがつく食べれないものを挙げれば、フライパン以外でもいいわけです。

昔、チュートリアルが漫才のネタで、このなぞなぞの答えで「パンパース」と答えるものがありました。

福田が違うと言うと、徳井が、お前パンパース食べるの?と言ってこのやりとりが続くわけです。

さて、相変わらず枕が長くてすいません。

今回の内容としては、なぜ複数解が認められないんだろうと。

最近のクイズ番組を見てて、よく思うわけです。

答えはそれだけじゃないはずなのに、

間違いとして扱われるものが多いです。

数学の世界では、二乗して1となる数字は、と聞かれると、

答えは1と−1が正解なわけです。

証明に関しても、証明するという点では違いますが、

そこに至るプロセスは決して一つではありません。

そして、複数解を認めないというのは、めっちゃ危ういわけです。

つまり、それは可能性を奪って思考停止になるからです。

個性を伸ばすことにおいて、昨今オンリーワンなんて言葉を使ってますね。

某ジャニーズが歌にしてますよね、あんまり好きじゃない歌です、余談です。

個性なんてのは、無数にある答えの一つであるのに、

それは違うと言われて、没個性が進むわけです。

今回、ブログにこれを書いた理由としては、

ネットにおいて、たくさんの「解」が渦巻いていて、

たくさんの「個性」がばら撒かれているにも関わらず、

それがリアルにおいて全く評価されていないのが悲しいなと思ったからです。

そして更に悲しいのが、その人たちが、それでいいと思ってしまっていることです。

才能が閉鎖されていく瞬間を目の前で見るのは辛いです。

こんな適当な僕でも泣いちゃいます、嘘ですけど。

なんていうか、評価されたい、とかそういうレベルの話じゃなくて、

それより大したことない連中が評価されてるのが嫌なんですよね。

リアルってのが何かはわかりませんが、

少なくとも、ネットでたくさんの「解」を持ってる人は、

それをこれからも出し続けて欲しいと思ってます。

僕程度の人間ではございますが、目一杯評価してやるからな!偉そうでごめんな!偉くないのにな!

これを読んでるあなたのことですよ。

ネットにおけるタブーな話題

僕がネットを始めたのは中学三年生の頃です。

当時はまだISDNとか、テレホーダイとか、そんなものがあった頃です。

あの頃のネットは所謂テキスト系サイトの走りの時期でした。

僕もそういったサイトを見るのが楽しくて、毎日読んでいました。

その中で、もう閉鎖されてしまったんですが、あるサイトの管理人さんが、

プロフィールに書いていたことがありました。

「当サイトは政治、宗教、野球に関する話題は致しません」

最初見た時はなんでやろって思いましたが、理由を知った時はなるほどなぁと思いました。

上記みっつの話題って、絶対荒れるんですよね。

熱狂的な支持によって成り立っているものですから、

それだけ沢山の人を敵に回しかねない。

つまり、その管理人さんはよくわかっていたのです。

そして、自分もこの話題はなるべく出さないようにしようと思い、

今日までブログに関しては上記の三つはタブーとして、

記載せずにここまできたわけです。

まあでも実際、上記のこと書くのって難しいから、

書こうと思ったことないんやけどね。

まあこれからもきっと書かないと思います。

書く需要があれば、書きますけど。