竿中とおる君
「竿中とおる君」をご存知でしょうか?
人の名前ではありません。
釣り道具のイノベーションにおいて重要な役割を果たした、釣具界のヒット商品です。
釣り竿は糸の這わせ方によって大きく二つのタイプに分けられます。
一つは、釣り竿の外側に付けられたリング状の金具に糸を通すいわゆる一般的な竿で、もう一つは釣り竿の内部に糸を通す構造のインターラインロッドと呼ばれる竿です。
後者のタイプの竿は、前者と違って糸が絡みにくいというメリットがある反面、竿内部への糸通しが簡単でないという難点があります。
そのため、当初は糸を通す際、ステンレス製の中通しワイヤーが使われていました。
しかし、竿の長さに見合った長尺のワイヤーが必要な上、少しの曲げでもすぐに癖がついてしまうため、使い勝手が悪く、インターラインロッド普及の妨げ要因になっていました。
それを解決したのが、吉見製作所という釣り具メーカーが1993年に開発した「竿中とおる君」でした。
形状記憶合金*1でできたこの製品は、釣り糸の中通しワイヤーで、元の形状を「直線」に記憶させています。
そのため、真っすぐな状態に戻ろうとする性質を利用して面倒な糸通しを容易にしてくれるという機能を持っていました。
この「竿中とおる君」の発売を機に、インターラインロッドという革新的な釣り竿の普及が本格化したと言われています*2。
以前、イノベーションには革新と普及の二つの要素が欠かせないという話をしました。
その考え方に立つと、革新的ではあっても十分に普及していなかったインターラインロッドをイノベーションにたらしめたのは、「竿中とおる君」という補完商品の存在が大きかったと言っても過言ではありません。
冒頭で、「釣り道具のイノベーションにおいて重要な役割を果たした」と言ったのはこのためです。
さて、この「竿中とおる君」。
釣り道具なので、一般の釣具店で販売されていますが、Amazonや楽天市場でも購入することができます。
ところが、これらのサイト上では釣具店と違って、実に興味深いことが起きています。
例えば、Amazonではこの商品に対するユーザーレビューの総数は28件ほどあり、総合評点が5点満点で4.3点となっています*3。
興味深いのはレビューコメントの内容です。
実は、レビューを投稿したユーザー28人のうち、少なくとも24人はこの商品を本来の用途とは全く違った使い方をしていたのです*4。
それは、巻き爪の矯正です。
楽天に至っては、レビュアー25人のうち、全員が巻き爪矯用途で使っており、しかも5点満点で4.76点という高い評点がついています*5。
巻き爪とは、何らかの原因で足爪の両端の先端部が内側に湾曲した状態を指し、巻き込む形や深さの程度によっては、爪が皮膚に食い込んで炎症を起こしてしまいます。
その場合、出血や化膿を併発し、痛みのあまり歩くことに支障をきたすこともあります。
その巻き爪を矯正する目的で、「竿中とおる君」が使われているのです。
元の形状が「直線」に記憶されているため、爪の左右両端に小さな穴をあけ、そこにこのワイヤーを通すと、元の形状に戻ろうとする力が常に働き続け、それによって湾曲した爪が矯正されるという原理です。
「竿中とおる君」を使った巻き爪矯正
(出所:筆者が長女の足を撮影)
もちろん、巻き爪による痛みを緩和する製品は色々と販売されています。
しかし、サポータータイプのものが多く、装着感が気になるといった問題点があるほか、どちらかと言うと痛みの緩和目的が主で、それらに矯正するほどの力はありません。
巻き爪患者は病院で保険適用外の(決して安くはない)矯正治療を受ける以外では、こうした製品に頼るほかなかったのです。
それに対し、「竿中とおる君」は痛みの緩和だけなく、巻き爪そのものを矯正する力があり、しかも装着感をほとんど感じさせないという特徴がありました*6。
また、1.5mで1,000円程度と価格面でも割安ということもあって、ある時期からこれが巻き爪の自己治療用としても使われるようになったのです。
さらに、実際にこの商品を使ってどのように巻き爪の矯正を行うのか、その詳細な過程が多くのユーザーによってインターネット上に公開されています。
例えば、2008年10月に公開された「竿中とおる君で巻き爪治療!」もその一つで、2016年5月現在で約264,000件のアクセス件数があります。
そのため、巻き爪矯正を目的に初めてこれを購入したユーザーもその具体的な使い方を容易に知ることができます。
このような背景のもと、Amazonではレビュアーの8割超が、楽天では全員が釣り道具としてではなく、巻き爪矯正アイテムとして、この商品の評価を行っていました。
5点満点で4.3点(Amazon)や4.76点(楽天)といった比較的高い評点はそうした評価に基づいて算出されていたのです。
もちろん、このような使われ方やそれに対するユーザー評価というのは、メーカーの意図とは独立に行われています。
ユーザーがこの製品の新たな使用価値を発見し、それが巻き爪に悩む人たちの間で評判になり、一定の市場が生まれているのです。
こうして見ると、「竿中とおる君」もこれまで紹介してきたマスキングテープの事例と同様、ユーザーによる用途革新の典型例の一つと言えるでしょう。
但し、一口に用途革新と言ってもその形態は様々です。
実はマスキングテープと「竿中とおる君」の事例は質的に大きく異なっています。
何がどう違うのか?
次回は、この点について「情報の粘着性」という概念を再度用いてお話します。