Park Side Hygge

幸せってなんだろう?豊かさってなんだろう?雑記ブログでテーマは色々だけど、そんな問いを含んだ方向で書いています。 きっと今は、そんな問い直しをする時期なんだと思うんです。

Hygge?

simple,natural,smile,cocoa,chocolate...

家にいます、Twitterにいます。

関東甲信が梅雨入りしましたね。蒸し暑さは苦手だけど、夕方涼しくなってきたベランダでアイスカフェオレを飲みつつchillするのが日々の小さな楽しみです。

 

1.家にいます

2.ご飯つくってます

3.Twitterにいます

 

1.家にいます

第二子が3月に生まれました。

育休を3ヶ月取ることにしていたので、『仕事から離れてリフレッシュするぞ〜』そんなことを思っておりました。実際には休みなしで毎日フルパワーで家事育児しています。休日がほしいぞ。ちなみに奥さんは何してるかというと、フルパワーで家事育児してます。何言ってるかわからないかもですが僕もわからないです。2人でそれぞれ子どもみたら誰が家事するの?子ども見る人2人+家事する人+休む人で4人はほしいぞ。世の中のお母さんどうやって生きてるの?

育休を6ヶ月に延ばしました。はい。しばらく家にいます。

 

2.ご飯作ってます

当然家事は奥さんと分担してやっているんだけど、ご飯は僕が3食作ってます。もともとご飯作るの好きなのですが収入減で節約しないといけない状況なので『美味い×ローコスト(×栄養価高い×胃もたれしない)』なご飯を探究する日々です。コレがなかなかに楽しい。最近のヒットはガパオライスとパッタイとグリーンカレー。ナンプラー多め。

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タイ料理好き

 

3.Twitterにいます

育児はナマモノ。予期せぬことが次々起きてなかなか計画通りにはいきません(×2人)。纏まった時間を取ってじっくり腰を落ち着けてブログを書いたりすることも難しくなりました。その代わり隙間時間に思ったことをポンっと発信するのにTwitterが合っているなと感じています。最近はずっとTwitterにいます。ほぼ毎日何か言ってます。メシ投稿多め。絡んでください。

 

忙しい日々ではあるけれど、子どもは可愛いしご飯は美味しいしベランダのトマトは赤くなってきたし、なんだかんだ幸せだなぁ〜って思いながら生きてます。

 

習慣とツナトースト

ツナトーストを、毎朝作っている。

玉ねぎ4分の1を微塵切りにして、ツナ1缶と混ぜ合わせる。これにマヨネーズ、粒マスタード、粗挽き胡椒を加えて混ぜ合わせて、パンの上に乗せる。最後にチーズを乗せて焼く。

 

焼いている間にコーヒーを淹れる。以前は豆を挽いて淹れていたのだけど、最近は忙しくてインスタントにしている。といっても奥さんが見つけてきたUCCの117というブレンドはインスタントの割になかなか美味しくて、結構気に入っている。

 

これが我が家の朝食で、たまにピザトーストに変わることもあるけれど、基本的にはツナトーストを僕が毎朝作って食べ続けている。

 

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ごく稀にサラダもつける

 

年が明けたので、何か目標を作ろうと思った。だけど長年目標を作っては挫折するを繰り返してきたこともあって、自分のことをあまり信頼できなくなっていた。『壮大な目標を作ったって、どうせすぐやらなくなっちゃうんだ』

言い訳するわけではないのだけど、娘が生まれてから自分自身のことについて思い通りにいかないことが増えた。持っていかれる。とにかく持っていかれるのだ。自分の注意が。エネルギーが。子供がいると幸せは増える。ただ苦労も増える。

 

ただそんなことばかりを言っていても仕方ない。そんなことを言ったら子供がいる全ての親は自分の人生をコントロールできないということになる。そんなはずはないのだから。

「毎日ツナトーストを作れるんだから、他に何かいいことを習慣化できないだろうか」

そんなことを思ったのが始まりだった。

 

 

とてもいい本だった。習慣を形成することに興味のある人には全力でおすすめしたい。

 

習慣を身につけるためには、入口を簡単に(とにかく簡単に)すると良いらしい。0から1として習慣が現れたら、それを少しずつ増やしていけばいい。そんな訳でいくつか作ってみた。

 

・毎日プッシュアップ(腕立て伏せ)を1回する

・毎日腹筋ローラーを1回転がす

・毎日10秒間掃除機をかける

・毎日バスタオルを1枚畳む

・仕事がある日にはお弁当を作る(ただし作るのは玉子焼きのみで他は冷食とする)

・・・etc

 

これらを毎日行うと決めて、1ヶ月くらいは続いている。やるべきノルマが少ないのでとても簡単だ。そして「1回だけ」と思ってやり始めるとプッシュアップは1回で終わるなんてことはなくて大体10回前後、どんなに疲れている時でも5,6回はやってしまう。腹筋ローラーも同様だし、掃除機を10秒でやめることなんてできない。大体気になるところの埃をほとんど綺麗にするまでやってしまう。

 

毎日続けていると、自分自身のことをコントロールしている感じがしてとても満足感がある。そしてノルマは1回、10秒等なので、必ず達成できるのでとても気が楽だ。

当然、筋トレはギリギリまで追い込んで2日ほど空けて超回復させながら別の部位を鍛えて・・というのが最も効果的ではあるのだろうけど、僕には難しかった。1つ目に、ギリギリまで追い込むというのは気分が乗っていないとハードルが高く、もう1つ、毎日違うことをするには頭を使わなければならないということ。頭を使わないでできるのが習慣のメリットだ。

 

他の習慣についても、やっていること自体は大した内容ではない。でも続けていくことでアイデンティティ(自分はこういう人間だ)が変わる。アイデンティティが変われば、それを自動的に行えるようになる。アイデンティティベースの変化というのがこの本の主張の1つで、アイデンティティが変わらないうちは何かを習慣にすることはできない。なるほどそう思う。

 

気に入っているのは掃除機の習慣で、

掃除機をかける→普段気にならなかった汚れを見つける→気になってしまう→ウエットティッシュで磨く

というループが発生しやすい。他に片付けるべきものを片付けようと思い立ったり、思ってもいなかった場所を綺麗にしようという気持ちが生まれたりする。先日新しく棚をDIYした。掃除機10秒をきっかけに人生が変わる。

綺麗な部屋で過ごしているとインスピレーションが湧いてくる。1人暮らしをしている時はそれはそれほど難しくなくて、それがどれほど気持ちの良いことかよくわかっている。子供がいる状況では難易度は段違いだけど、それができたら本当にいいなと思う。

 

この歳になって、意志の力だけで自分を動かそうという試みは(最初はよくても)大体うまくいかない、ということがわかってきた。

自分をうまく動かす方法を探しつつ、試行錯誤しながら、少しずつ前進していけたらいいなと思っている。

 

 

単気筒への回帰

季節が驚くほどの速さで過ぎ去っていく。

正月が終わって、大して雪も降らずに2月が過ぎて、3月に早めの桜が咲き始めたと思ったら、今月緊急事態宣言が発令された。

 

職場のショッピングセンターは休業になって、今は他店舗へ出勤している。こんな時は休みたいという気持ちと、こんな時だからこそ仕事ができて嬉しいという気持ちとが混ざり合った、複雑な思いを抱えながら。

 

先月バイクを買い替えました。

 

CBはとてもいいバイクだったけど、僕には少し速すぎた。200kgの重量は引っ張り出すのに苦労するし、ちょっと道が傾いてたりすると停めるのにも苦労するし、高回転まで気持ちよく回るエンジンは加速した後で後ろのセダンに赤ランプが点灯してないか、ついバックミラーを覗いて確認してしまう。とは言いつつも、手放すときはとても寂しい気持ちになったのだけど。

 

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サヨナラCB

 

僕にとってバイクは旅のメタファーとしての乗り物であって欲しいところがあって、テントやら寝袋やらを積んでトコトコ走りたいイメージがある。大して旅とかしてない癖に、それに対する憧れみたいなものは持っている。

 

知らない土地の空気を感じて、寂れた自販機の前でバイクを停めて缶コーヒーを飲むような。そんな時に感じる一抹の寂しさみたいなものを心のどこかでいつも求めているのような気がする。CBの持つ方向性はそれとは少し違っていた。

 

買ったのはKawasaki エストレヤ。250cc 空冷単気筒エンジン。ざっくり言うと昔ながらのプリミティブなエンジン構造で、レトロな外観と相まってどこか懐かしい雰囲気を醸している。バイク屋でエンジンをかけさせてもらったとき、『ああ、やっぱり自分にはこういうのが合ってるんだろうな』と思った。

 

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サイドバッグがよく似合う

 

そういえば最初のバイクも、同じような理由でSUZUKIのGN125という空冷単気筒のレトロテイストなバイクを選んだのだった。そういう意味で原点に戻ろうと思っての選択だった。

 

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2008年式。目立つ部分はピカピカ。

 

単気筒エンジンのバイクに乗っていると、その鼓動の隙間が心情を反映させるためのスペースになるように感じる。心地よい振動は田舎道をまったりとどこまでも走り続けたくなるような、そんな気分にさせてくれる。

 

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with 桜

人間は無い物ねだりの生き物なとこがあると思っていて、『あのときはあんなに自由だったのにな』みたいなことをたまに考えてしまう。『自由だったあのとき』というのは、それはそれで今ではない葛藤や分からなさみたいなものを抱えながら苦労して生きていたのだけど。

 

それでもやっぱりどこかで『自由』というものを求めて、その象徴として『バイク』という形で所有しているというのは少なからずあると思うんです。良いとか悪いとか、いまある幸せを感じられていないとかそういうことじゃなくて。男ってそういうとこある生き物じゃないですかね。

 

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あったかくなったら、また少し遠くまで走りにいこう。

 

 

BESSの家でワクワクした話

家が欲しい。

 

結婚して、子どもが生まれて、そして思うのはやはり家が欲しいなということである。

 

たまプラーザ徒歩4分、築45年のマンションは1LDKで賃料90,000円(+管理費5,000円)。立地としては最高だけどやはり家賃は高い。

 

マンションを買うか、実家近くに家を建てるか。。。色々と考えているのだけれど。

 

家(と住む場所)を選ぶことは人生を選ぶことになるから、簡単には決められない。

そんな中、今日は代官山にBESSの家を見に行ってきた。

 

なぜBESSの家か。率直に木の家が好きだからというのはあるんだけど、それ以上にワクワク感があるから。

何よりBESSの家のキャッチコピーは『住むより楽しむ』である。ワクワクしないはずがない。

 

そもそも家について考えるとき、「家」というものを定義するところから始める必要があるのだと思う。家とは何か。

安心できる、くつろげる、集中できる、楽しめる、一人になれる、快適である、守られている、団欒がある、開放的になれる...。

 

間取り、採光、動線、建材、床や壁の材質、色、外構、、、などからそれらの要素を引き出し、「住らし」をつくる。これって凄いことだなと思う。

 

時にはそれらの要素は相反するもので、何かをを選んで何かを選ばないこと、つまり人生を選ぶことを否応なしに迫られる。だから迷う。そして機能性やコストパフォーマンスはともかく、ワクワク感に全振りしてるのがBESSだなと思う。

 

今回の目当ては『ワンダーデバイスGANG』

これは小さなログハウスと小屋とそれをつなぐウッドデッキで構成されていて、『小さく建てて大きく暮らす』がコンセプトのBESS渾身の新商品だ。

一歩踏み入れて、不覚にも良いなと思ってしまった。

 

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正直狭いし収納は少ないし仕切りはないし(増やせるらしいけど狭くなりそう)なんならリビングがないし(リビングは外ということなのだろう)。

 

でも、「うわぁ、、これ住んだら楽しそう、、」と思ってしまう。ウッドデッキでBBQしたいし小屋で本読みながらうたた寝したい。

 

やっぱり木の家は良い。そして小屋ってのも良い。小屋だったりウッドデッキだったり土間だったり、、、僕はどうやら暮らしの中に「遊び」があって欲しいようだ。この発見は収穫だった。

 

遊びの中で創造性は発揮される。それは自分や奥さんにとっても、勿論子どもにとっても必要なものなんじゃないかな。

 

自分の持っている無意識の欲求が表面化してくると、また家について考えるのが楽しくなる。

 

まだまだ先は長いけど、家について考えていく中で、「暮らす」ということについて探求していきたい。

組織とか集合体とか。

寒い。めっちゃ寒い。

入社して1年半、最近、組織というテーマに関心がある。

 

少し前から『ティール組織』だとか『ホラクラシー経営』だとか『マネジメント』『チームビルディング』『心理的安全性』とかのワードが自分の中で少しずつ引っかかるようになってきて、最近その引っ掛かりの強度がだんだん増してきている。自分自身が成果を上げることより、組織、チームはどのようにしたらより高い成果を(より幸せに)達成することができるのか。その辺りが気になっている。

 

これからの時代に求められる良い組織とは、『個々人に全体性があって、有機的で、上下というより役割で構成されていて、全員が安心してリスペクトし合えている状態だよね』というふうな合意が伺える。僕もそう思う。そんな状態なら生産性は上がるだろうし働いていて楽しいだろう。でも簡単に導入できるかというとそうはいかない部分もある。何故か。それはやはり資本主義という社会構造とそれに基づいた学校教育なのだろうか。

 

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近所にできたふわふわパンケーキ屋

 

学校では個々人が『テストの点数』『成績』という軸で評価され、それぞれがいかに高い成果を出すかということが注目される。『クラス全員の平均点が一番高いクラスが評価される』から『そのために勉強が得意な生徒が苦手な生徒に教えたり、運動が得意な生徒が苦手な生徒に教えたりする』とかそういったことは普通はない。『自己』と『他者』は基本的には分断されていて、自分が他人より優れていることが評価されるという構造がある。

同時に学校では(幼稚園からか)社会的生き物としての役割も求められる。人とコミュニケーションをとり、仲良くなり、一緒に遊んだり、協力したり、相手が喜ぶことをしたり、助けてもらったりする。そこには利他的な性格も多く含まれる。

ちなみにこの『自己と対立する他者』と『自己と共存する他者』の2つを上手く統合できないことが、青年期に(僕みたいに)いろいろ拗らせてしまう人物を生み出してしまう1つの要因ではないかと思うのだけど、どうだろう。

 

資本主義社会では競争と協力のジレンマが常に存在していて、そのバランスを取りながら進んでいく必要があるのだと思う。集合意識的には『すべての人が幸せな世界』という理想的合意があって、時代が進むに連れて、競争から協力に掛かる比重が少しずつ増えていくような繊細なオペレーションが求められているというか。そんな中『こうすると上手くいくらしいから今日からそうしよう!』とやっても上手くいかないのは明白で。

 

話が大きくなりすぎてしまったけど、結局のところ組織というのは人間が集まってできているのであって、『評価されたい』『働くの楽しい』『サボりたい』『あいつムカつく』など様々な思惑が混在している。そんな中で全員にとってより良い影響を持つ方法というのは、きっと存在する。

 

自分に何ができるのか。探究しがいのあるテーマです。

 

時の流れについて。

12月。ブログ開設から2年という通知が来た。そして今月娘が2歳になる。早い。いくらなんでも早すぎる。

 

家ではEテレを流し続けている。みんなのうたは2ヶ月で入れ替わると知ったり、ニャンちゅうは最近宇宙にいるのかぁとか思ったり、昔は絶対になかったプログラミングやダンスの番組がやっているのを眺めたり、日々流れるパプリカにうんざりしたりしている。ちなみに僕はあつこお姉さんとチッチとオフロスキー推しである。

 

娘がいる生活は楽しいのだけど、いなかった時とは全く別のレイヤーで生きているということを強く感じる。仕事に行き、適度に外の世界と関わっている僕ですらそう感じるのだ。世の主婦が言う『世界から切り離された感じ』という表現は全く大袈裟ではない。奥さんもよく言っている。

 

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よく笑う。

 

思った以上に娘中心の生活になるし、思った以上に自分の時間はないし、思った以上に体調を崩す。家族全員で。

 

やることが多すぎて世界の動きに追いつけていない感覚がある。やることに追われているうちに今年が終わろうとしている。

 

そんな中で『これはマズイ』という感覚が湧き上がるも、『かといってこの状況じゃなぁ』という思いにかき消される。そんな風にして日々を過ごしている。

 

時間について考えることが増えた。時間は伸びたり縮んだりする。そう、アインシュタイン先生の相対性理論。ここ最近の時間の流れの早さを感じていると、時間は本当に縮んでいるみたいだ。見える。僕は多分あと50年ほど生きるのだろうけど、一瞬で過ぎ去って死の淵で『ああ、僕は本当に自分の人生を生きていたのだろうか』という問いを発する。というところまで見える。

 

加速していく時間の速度を落とすための鍵は、日々の密度なのだと思う。流されるように生きずに、やるべき事と向き合って日々を全力で生き抜いたら、きっと何かが残る。それは結構しんどいことなのかもしれないけど。それでも一生懸命生きなきゃなぁとか思うわけです。

 

2019年も残り1ヶ月ですが、悔いのないように走り抜けたい所存でございます。

 

 

 

服とわたし

ここ一週間ほど奥さんが風邪を引いている。

今日は休みなので、午前中に家事を済ませ、娘を近所のログハウスに連れて遊ばせ、帰ってみんなで昼食を食べて、寝かしつけをした。

 

外はあまりにもいい天気で、雨上がりの風が金木犀の香りを運んでくる。久しぶりに一人で駅前をふらつくことにした。

 

KALDIでコーヒー片手にチーズや調味料を見比べ、服屋を見て回る。ニットというニットを広げ、これだ!っていうのを探してみたり、バブアーのオイルジャケットを触って手がベタベタになりつつなんて良い色合いだろうと思って眺めたり。こんなに落ち着いて服屋を回ったのはいつぶりだろう。

 

僕はファッションについては多分生まれつきセンスがない。興味がない訳じゃないんだけど、カッコいい服装を目指すと、逆に変にカッコつけすぎた服装になってしまう、ナチュラルなお洒落ができないタイプの人間だ。それで若い頃は随分悩んだ気がする。

 

今では自分なりの基準ができて多少マシになったとはいえ、服を選ぶのはなかなか勇気がいる。よく失敗もする。

ただ方向性としては、白いTシャツもしくはカットソー、ブラックのスキニー。ブラック、もしくは茶色からカーキの間にある様々な段階の色合いのニットとアウター。レザーのシンプルなスリッポン。このあたりを着ている時が一番落ち着く。

 

結局、インテリアと一緒でアースカラーが落ち着くみたいだ。

これはおそらく、奇抜なモノを使わなくても、ここにあるもので、それを加工したり組み合わせることで魅力だったりを価値だったりを創り出せる。それがイケテル。という個人的信念からきているのだと思う。

 

服というものは、着ることを通じて自分自身を定義するような役割もあるし、世の中に向けて自分がどういう人間か発信するという意味合いもある。素材や着心地でその日の気分を左右するし、トレンドの変遷なんかはその時点で人々の集合意識がどの方向に向いているかを如実に表していて、本当に知れば知るほど面白いなって感じます。

 

ただまあ現在そこまで深く学んでいくだけの気力はないので。自分の基準を見つけつつ、考えすぎなくてもある程度まともな格好ができるように。上手く付き合っていきたいなぁと思う日々です。