「ガラ携」。私にとって何だったのか?。 「楽天モバイル」/「あんしんリモートサポート」はすばらしい!

昨年の春頃と記憶しています。それまで10年程使用していた所謂ガラケー、仕事をやめざるを得なくなり、対外的活動は殆ど停止した結果、使用の機会がなくなっていました。外出先で急ぎの電話を気にする必要がなくなり、当時は家の固定電話だけで十分な状況。それ迄のように充電量を気にする習慣がなくなり、ある日気がついたら完全にバッテリー揚がり。あわてて携帯ショップに持ち込みましたが,万事窮す。使用出来なくなると、改めて携帯の効用を再認識させられる結果となりました。自分はともかく世の中では携帯は持っていて当然で物事が進みます。

 

ガラ携を購入したのは、代理店ではなく、通信事業者の直営販売店。昔の事なので記憶は定かではありませんが、購入にあたり使用目的をはっきり話して契約した積りでした。ちょうど当時、人生に於ける2回目の苦渋の時。心を休めるため、路傍の何げない花などに一時の心の安らぎを求めていた時期、それらを写真に撮っておきたかったのです。このためのSIM。また、何等かのトラブルで器機故障が発生した場合,まとまった出費を抑えたいたいための保険。この2点をはっきり伝えた積りでした。

 

購入した店舗、隣接する地域でしたが、電話してみると、「現在使われていません」、「104」で問い合わせても、掲載されていません。さすが伸び盛りの通信キャリアー、不採算店舗の統廃合の決断も早い。(10年ですから、当然かも?)。別の直営店舗に行く、ガラ携を渡して確認依頼。驚きました、SIMが入っていません。結果全てのデータは喪失。保険は継続的に引き落とされていましたが、継時年数の経過で対応不可。 何という事でしょう。10年程前の私の手落ちで、契約後申し込みスペックの再確認をしていなかったのです。教訓として、物事の再確認の重要性を改めて認識させられました。

私も過って企業経営の立場にあり、特に1度納入すれば次の新規予算の導入まで長期間稼働を要求される産業機器関連であったため、契約に際し幾多の付帯がともないます。担当部門には常に先手を打って顧客御担当者様に留意点をご案内する様社内徹底していました。プライベートの事になるとその考えが全く欠落している事に改めて気が付いた瞬間です。10年程前にキャリアーの直営店へ引き取り行った時、再度希望通りのスペックになっているかどうの説明を求め再確認すべきでした。(今。最後までそれに気が付かなかった自分自身に呆れています。)ショップ担当者を責めてもしかたないことです。幸い携帯のメーカーは品質保証も確りしていて10年間なんのトラブルもなく使わせていただきました。さすが日本を代表する企業。別の部門は過っての得意先でもありましたが、残念ながら当時の勢いは全くありません,収益部門を海外企業に売却せざるを得ないなど、甚だ残念です。

 

この間10年近くなるでしょうかソフトバンクが、iphone3G。NTTがandroidと所謂スマホ時代の到来。私といえば、経済面を重視し、さして緊急と云う状況の少ない1個人、必要となればパソコンを勉強すれば、スマホに高いランニングコストを払う事はない。と考えてきました。(実際はPCを学ぶ事はなかったのですが、汗)

 

使用していた番号を換えずに使えると云うMNP(番号ポータビリティー)の存在は知っていましたが、敢えて食指は動きませんでした。 


こんな背景もあり、スマホのハードは高額で私にとって、高峰の花との認識をもっていたのですが、たまたま「楽天モバイル」が非常に低廉な機種を用意していましたので、余り深く考えずに、価格優先で契約しました。丁度1年前です。契約後1年間の費用の比較を記します。あまりにも差が大きかったので驚きました。

ガラ携と楽天モバイル月間支払い金額の比較 (12ケ月平均)
  ガラ携  7,225円
  楽天   2,736円(期間限定の割引料金1500円が引かれています、契約項目によ           り加入より1年~2年)
  差額   4,489円  

この金額の説明で補足しなければならない事はガラ携の上記金額には通話料があまり含まれていない事です。なぜならば、この期間はガラ携で電話を掛けた機会は少なく、受信のみで発信は殆ど固定電話を使用していた事です。従って実質通話料はあまり含まずこの金額です。楽天では10分以内「かけ放題サービス」で無料です。予め10分以上になると思う時は固定電話を使用しています。10分を経過すると別途30秒毎に10円ずつ加算されます。長電話をしがちな方はメリットが割り引かれるかもしれません。私の場合は上記使い分けで充分機能、実際には10分以内を活用し、固定電話はめったに使用しなくなりましたので対NTTの支払いも大分低減しました。ヘビーユーザーでトフィックが集中する時間帯にも使用の度合いが高い方には使い勝手がどうなのかは解かりません。これはあくまでも、あまり使用頻度の高くない者としての考えです。私の様に年配で対外的活動の少ないものにとっては、利用価値が高いと思います。

 


残念ながらスマホ操作は私には、とても難しくいつも難儀しています。また楽天モバイル上で行う種々の表記が高齢者にはわかりずらく、同様戸惑っています。この様な日常の中で、頼りにさせていただいているサービスが「あんしんリモートサポート」です。月額500円の別途契約ですが、IT弱者の私の事、このサービスに加入していなかったらスマホも同様、宝の持ち腐れであったと思います。

 

通話料無料で、これでもかと思う位、懇切丁寧に解りやすく教えてくれます。(サポートは年中無休9:00-18:00)。画面共有で理解度を確認しながらですから本当に助かります。「あんしん先生達(私はこの様に思っています。)、どなたもやさしいですよ。」
特筆すべきはスマホの操作だけではなく、タブレット、パソコン、ウエラブルディバイス、スマート家電等様々な通信機器をサポートしてくれる様です。同様なサービスを固定電話でも契約利用させて頂いていますが、対象範囲がパソコンとインターネットに限られており、他の周辺機器を含め、無論スマホも対象外。また担当者によりけりではありますが規定でこれ以上は対応出来ませんと言はれ、私のお願いしたいところまでは教えていただけない事もあります。こちらは9:00-21:00と対応時間が少し長いのが利点ではあります。


私はスマホ同様、パソコン操作にもいつも難儀しています。市販の教本を何冊も購入して挑戦しても、むなしい結果。おまけに無謀にもブログに挑もうと奮起。こんな状況のなか、私にとって「あんしんリモートサポート」は駆け込み寺。PC教室に通い、解ったつもりで家に帰ってやってみると再現出来ません。再度あんしん先生に頼ります。正解に導いて戴きます。

 

何年か眠っていたも同様のガラ携、なぜもっと早くスマホに換えなかったのか、つくずく後悔しています。今では起床から就寝までスマホ無しの生活は考えられません。お陰様で若い人達との交流も生まれ、若返りました。世の中が広くなりました。また私にとって最後の長大なステップの「挑戦テーマ」も決まりました。ハードではなくソフトの時代。「あんしんリモートサポート」で改めて認識しました。出費以上の有り余る見返り、必ずあると思います。

 

 

今。振り返ってみると通信機器には随分お世話になって来ました。最初はポケベル。30年位前でしょうか、それまでは、外出先で社内と連絡を取る時は予め公衆電話の場所を覚えておき定時に連絡していました。社内から緊急で所用がある時は、到着したら社内誰々に電話をくださいとお客様に伝言をご依頼。今ではとても考えられないのですが、その場で、客先の電話を拝借して連絡を取るというありさまでした。初めてベルトにポケベルを着けた時は、取り敢えずこれで緊急の連絡は受けられると安心したものでした。自動車電話は少しばかり、ありましたが、とても高額で公的使用や1部大手企業の役員クラス以上の社有車位が装着対象の時代と記憶しています。

 

その後4~5年後位にFAXが普及し始め、企業間の文書のやり取りが大分楽になりまた。この後間もなくPHSを使い始めて現在に至ります。いずれにしても業務の効率化はこれらの後継機器の出現で極めて大きな推進がはかられ、産業界、経済社会の発展につながり、その技術の普及版として、個人、家庭用向けとして低価格器機が市場投入され一般消費者の御評価を戴き現在のスマホ盛況に至ったと思います。この需要を満たすため再投資、経済の好循環の1例と考えます。

 


これを書いていて懐かしく思い出した事があります。
家にあった電話の事です。記憶では細長い茶色の木箱。壁面の脇についているハンドルをグルグル回して、局を呼び出し、正面に付いていた送話器に向かって話す、受話器は右側のフックに掛かっていたように思います。掛かってくると正面についた2っの電鈴が真ん中に付いたハンマーにより叩かれじりじりと報せてくれた様に記憶しています。当時の家の電話番号は「(局名)50番」でした。電話器は玄関を上がったところ、座敷の木の柱に取り付けられており、ご近所の方に呼び出しがあった事を知らせるのが、当時小学低学年の私の役割でした。
家族に云われ、いつも走って報せました。今思い出すと実はその後が楽しみだったのです。しばらくして、「ありがとうございました」。其のお宅で取れた柿や栗、ミカン、時にはブドウ、いちじく、又手作りの和菓子(その頃、洋菓子はまだ殆どありませんでした)等をもってきてくれたのです。今のようにどこでも買える時代ではありませんでした。それだけに子供心にうれしかったのです。その家も父の事業の失敗で手放さざるを得ず、何もかも忘れましたが。この「50」番と云う電話番号だけは不思議に鮮明に覚えています。呼び出しでお伺いした御近所の方々はどの様にお過ごしでしょうか。

 

ポスティングをしています。 気分爽快です!。(この時期だけは汗、汗、汗)。

配布日程が重ならないものを選んで、複数対応させていただいています。私の年齢になると雇用先は全くと云う程なく。当然ですが。収入面で幾ばくかのものでも、ありがたいですし。何よりも、積極的(強制的?)健康維持の手段と捉えています。経済的に多少の余裕があった時期には、ジムに通ったり、体力的にかなりハードさを要求される趣味を持ったりしていましたが、現在では望むべくもありせん。

それでも、健康であり続けたいーーー。


1つの終着点が、地域情報誌のポスティングでした。10年程前、事業に失敗(まさかの、親子2代)。既に当時の社会通念でも、求職と云う範疇を超えた年齢でした。子供は幼稚園年少組。

まさに生きる為の仕事。複雑な状況のなかで知ったポスティングと云う仕事。時間に余り捕らわれないとの事。やってみましたが。結局続けられませんでした。


扱う商品は所謂「チラシ」。なにも知らずに1軒ずつ投函しました。ある時ポストに入れるところを、そのご家庭の奥様が見られておられ、やめて戴きたい旨。お聞きしたところ、他の業者もあり、かなりの量になりその処分に困っている。また大切な郵便物が混ざってしまい、うっかり見逃す恐れがあるとのお話でした。

 

こんな事もありました。私鉄沿線、その電鉄会社が開発し、傘下の不動産企業が造成した街並み。1軒の瀟洒な家から突然ご主人と思われる方が飛び出し、私を追い掛けて来ました。「おい、おっさん。てめーか。入れたのは。こんなの、いらねーよ。戻って持って帰れ、2度と入れるなよ。今度見たら、ぶっ倒すぞ」。心が寂しくなり、やめました。

お疲れ様。ご苦労様、いっもありがとうと云ってくれる方々も多く。なかには、ご自宅でご自分で手入れをしている、庭木や花壇を招き入れて説明してくれる方などもいらっしゃいましたのに。また前述の主婦のお話とは別の奥様。「ポスティングのチラシは他にも入りますが、主人の購読している日刊紙の広告も沢山。新聞店の回収日に一緒に出すので、かまいませんよ。役に立つ物も、ありますので。」いろいろです。 


今のポスティングはタブロイド判の「地域情報誌」(ミニコミ誌)です。市や、県の公共施設、駅、大型商業施設等にも置いてありますが、別途定期的にマンション等集合住宅、戸建て家屋、個別店舗等に配布させていただいています。

一般の新聞、日刊紙とは異なり、1~2,3町村に月1~2回定期配付されるもので、その地域の公的、私的催し物、行事のお知らせ。歴史,人物、など生活に密着した身近な記事が多く、ご家庭では喜ばれています。特にこの地域に新たに転入されたご家庭では次の配布はいつですかと尋ねられる事もあります。日刊紙ではとても届かないマイナーな記事ですが、そこがまた、楽しみに待たれる理由なのでしょうか。


私の場合、発行元が異なり、配布時期の重ならない数誌を担当させていただいています。配布させて戴いているからには、紙面の事を知る事は当然。お陰様でこの地の事に関して、町の成り立ちや1000年に亘る古事、歴史など身近なところでいっも振り返る事が出来、楽しくポスティングを続けています。

地域の方ともこれを通じて親しく会話もさせていただき、街中で偶然出会うと声をかけて戴いたり、この町がより好きになりました。


配布は他の仕事との兼ね合いもありますが、通常、早朝の日が昇る頃から開始します。ひんやりした新鮮な空気を胸いっぱい、爽やかです。気持ちいいものです。その日の他の仕事との兼ね合わせ、まず500部前後を配布後朝食を取ります。おいしいです。いずれにしても、住まいから半径1km弱ですので、規定期日内に完了する様調整します。


月4~5回、強制的に運動する事になります、1回に30000歩はありますので、健康状況を把握する、絶好の機会になります。少し調子が悪いかなと感じられる時は次回までに改善策。日常の悪習慣を探し、改めます。


収入面では必ずしも良いとは云えません。時により町、市など公的お知らせ、広告等のチラシなどが入りますが、配布前に「折」の作業が入り、これが単純ですが、以外に時間が掛かります。トータルで計算すると時間単価500円位の様な事もあります。

配布完了日と云う期限はありますが、それ以外は全く時間の制約はありせんし、家の周りでいつでも自由に出来ますのでその点は割り引いて考えています。これからも、配布日を自己定期健診日と解釈し、健康維持のため継続して行こうと思います。

調理補助 どんな仕事? 現在働いている者として、ご説明させていただきます。

前回のブログ。包丁など持ったことがない自分。この仕事を続けていると書かせていただきました。ひと昔前と違い(私はもう間もなく傘寿)。専業主婦の皆様の中にも、近くに、特別な知識、技術が要らない、通いやすい仕事があれば、やってみようかしら、と思っている方がいらっしゃると思います。


1年半程の経験から、その様な時の選択肢の1つが「調理補助』と考えます。様々な理由で、この年齢でも働かざるを得ない自分(自業自得!)は当初仕事といえば、電車、バス、車、バイク等での通勤が前提で考え、遠回りしていました。求人誌でも関心がなかったので見逃していました。考えてもみませんでした。住まいから歩いて15分の距離に職場があろうとは!。

 

おまけに今までは、仕事に行く場合取り敢えず着替え、多少身だしなみを整える事は必須の前提。現在。清潔でさえあれば、どんな普段着でもよく、特に外出の準備はなく、気軽です。

現在の職場にも女性が5名程いらっしゃいます(希望シフトによる交代制)。通勤に対する準備はお化粧を含め、特別にはせず、普段のままと仰っています。

 

私の住まいは関東地方のある市。「区」の人口は約17万。端から端まで歩いても2時間程度の広さ。このそれ程広くもない範囲に、現在の職場と同様の老人向け施設が70箇所程あります。近くに従来から有ったにも拘わらず気にも留めていませんでした。私が、ご近所の方との何気ない会話の中から、歩いて15分のパート職を得た地理的理由です。

高齢化社会への移行が顕著な現在、これ等の施設は私の住む所だけではなく、どの地方でも同様と思います。気軽に買い物に行く様な範囲内にもあるかもしれません。


私はたまたま、老人ホームですが、

「調理補助」を必要とする職場は他にも企業、工場等の社内食堂、病院、養護施設、幼稚園、小中学校等がある様です。従って気をつけてみれば、お住まいの近くにも必ずあると思います。求人誌にもよく掲載されているようです。

比較的公共性の高い施設の中の厨房が実際に働く場所であるため、職場環境としては、物理的にも整備されており処遇面なども、受託業者として多数の拠点を持つ企業が多いため、法制面に則り全うに運営されてされているようで、ある意味安心して働ける場所と思います。

ご希望に合う働き場所。見つけられる可能性があると思います。例として、学校内の業者では土日祝休み、長期休暇(夏、冬)も取れる様に聞いています。


私の現在の職場。お子様の手が掛からなくなったので扶養内で働きたい。定年退職後からパートとして最小限の時間で勤め始め、趣味の旅行等を楽しみに既に10年という男女。調理師免許を目指す若い女性など様々。皆様ご自分の時間、望む条件にあわせて勤務、安定した仕事として捉えていらっしゃる様です。また、主婦の方のお話では、限られた時間、材料の中で、いかにおいしく、早く、彩り豊に作るか、大変勉強になり、日々の生活に活かせるせる。との事です。

 

私の場合、長年一貫して工業系の仕事に従事、調理師という職業に関して全く知識ゼロでしたが、今、何とか継続できています。

 

ご自分は転勤族の妻と仰っているある女性。ご主人様が定年退職したら、お世話になった方がいらっしゃる、気に入った前任地でご夫婦で小料理屋さんを始める事が夢とのお話。転勤先で、同様なお仕事をされていて、そこでの実務経験証明書を既に持たれていて再度転勤になるまでここで働き、証明書をいただき、2年以上の実務経験を取得したいと云い、調理の見習いもされています。

お話では各県で年1回(神奈川県のみ2回),6月~11月にマークシート方式での試験があり60%の正解率で合格できるそうです。

調理学校に通うと、年間100数十万、通信講座でも4万数千円。無論内容はより豊かでしょうが。ここではお給料を戴きながら、お2人の夢の実現が出来ると輝いておられます。夢。うらやましいですね。言い出しっぺといわれる、ご主人様も、将来の夢、奥様のお陰で実現。うれしいでしょうね。

 

ご参考までに

現在の私の職場で仕事の内容を記します。

1  厨房のある場所  収容人数 50人程度の有料老人ホーム

2 雇用先      集団給食委託サービス業者

3 人員       当直3~4人(シフト勤務)計6人

4 勤務時間    1, 6:00~9:00 (朝食対応)  検食提出時間=7:10 提供時間=7:30

           2,     9:00~12:00(昼食対応) 検食提出時間=10:45 提供時間=             11:30

                    3 ,   15:00~18:00 (夕食対応) 検食提出時間=16:45 提供時間=            17:30

                                          ご希望により複数対応可

5 業務内容     調理補助

 


時系列で私の仕事内容を記させていただきます。

1 出勤       4:45 (他の方5:30, 私は高齢で仕事が遅いため自主的に)

 厨房事務所で指定の白衣に着替え、体調管理台帳記入(体温、お腹、爪その他約10項 目)、 マスク、帽子等着用。時計、携帯は厨房持ち込禁止。

2 厨房に入室    5:00 まず、入念に手洗い、殺菌。6:00の調理担当者出勤までに下 下記の段取りを完了の事。         
 
  1) お客様(入居者)個人の食事内容変更指示連絡書の確認、サイン。
  2) 調理形態別提供数量の確認(常食、一口大、刻み食、ミキサー食等)。
  3)前日、滅菌乾燥済み調理器具,備品(プロセッサー、ミキサー、その他の定位置設   置と動作確認)・
  4)前日、滅菌乾燥済み食器類の定位置収納及び、当日使用分の数量確認準備(約20種   類のうちから当日の献立に合わせる)。
  5)提供用ラックの配膳盆へお客様食札の配置 (個人別食事形態の詳細が記号・色分   け等で記載)提供順番はホーム側指示による。
  6)お客様飲用 白湯の定位配置。
  7)洗い場、熱湯洗浄滅菌機、乾燥装置の整理、準備。
  8)調理担当者使用調理器具確認,定位置設置。
  9)朝食パン指定お客様向け作業 指定形態(常食、1口大、刻み、1,5  0.5分割    等)でカット、ラップを掛け配膳盆へ。 

  厨房は配膳のため、食堂に直接面しており、皆様のご様子も直接うかがい知る事

  が出来ます。忙しく立ち働きながらも、自分の行く先を垣間見る様です。

 

         (5:30) お客様がそろそろ食堂へ。1人で確りといらっしゃる方、

            介護職員の方に両手を引かれてよちよち歩きで来られる方、

            歩行器で少しずつ、車椅子で静かに、元気に「皆様、おはよ

            うございます」と云いながら入ってくる方、 

            「わあわあ」云いながら賑やかに入ってくる人 等様々。      
                             

(6:00 調理担当出社) この後は全て調理担当との連携作業 朝食提供時間 7:30

        (6:30) TVを食い入るように見る人。じっと腕組み考え事をしている

           方。「お腹すいたよ、早くして」と叫ぶ人。うとうとの人。

       
           数人の職員の方達、前掛けを準備する等、食事介助の準備に

           お忙しい。この時間、職員の方も戦闘開始です。          

           「もう少し、お待ちになってくださいね」。(作業しながらの             私の独り言)
3 副菜開始
1) 調理担当者から調理済みで受け取る(通常、ステンレス容器に入った状態で受け取る)。
2)予め数量別に用意した器に常食、一口大別に盛り付け(使い捨てポリ手袋、レードル  を 使用)。一口大分は鋏で小さくカット。

3)完了した器をお客様配膳盆に置く。
4)刻み食のお客様分をプロセッサーに掛ける 。
5)予め用意した数量分の器にレードル或いはスプーンで盛り付け。
6)刻み食のお客様はとろみを掛ける人、とろみ禁の人あり、要注意,再確認後お客様配膳盆へ。
7) ミキサー食のお客様分をミキサーに掛ける。予め指定された調味料、とろみを入れ味見、確認。
8) 味が適正であれば、こし器で濾す。

9)予め用意した数量分の器にレードルで盛り付け指定配膳盆位置に置く。  
10)上記で使用したステンレス容器を手洗い、熱湯洗浄機に掛ける。
11)プロセッサー、ミキサー、こし器、レードル、スプーン等を熱湯で手洗い。

4 主菜開始
作業内容としては、副菜とほぼ同様。常食、一口大、刻み、ミキサーの各食事形態の順に作業。大きな違いは、主菜盛り付け作業は時間との戦いになります。お客様へのお食事提供時間は7:30ですが、その前にホーム担当者に「検食」を提出し、合格点を貰はなければなりません。7:10が提出時間です。7:00近くなると、自然、時計の針をを気にしながらの作業になります。

 

5 飲み物

お客様指定で特別な栄養剤、牛乳、ヨーグルト等毎朝付ける方とは別に、日替わりでその日の献立に合わせて1つずつお付けします。 各種野菜ジュース、ヤクルトなど9種類程あります。お客様により禁止されているものがある日は基準により他の代替品で対応します

 

6  味噌汁

味噌汁椀。4種類程の中からは夫々のお客様に対応する物が指定されています。常食、一口大のお客様は同一、ミキサー食指定は別途。    

塩分制限のお客様は半量用でご用意いたします。
この作業は時間的に通常、食事提供指定時間7:30直前になります。焦るとせっかくよそったお椀を配膳盆に置く時にこぼしてしまったり、要注意です。準備される量は殆どギリギリの計算で用意されるため。急ぐ中にも慎重さを要求されます。

 

        (7:15) 皆さま、夫々ご自分の席に着いてお待ちになっています。独

            り言をつぶやく人。隣の人となごやかに歓談する人。

            時には喧嘩めいた口調、職員のかたが慌ててなだめる場面

            も。童謡を突然口ずさむ方も。(心がほぐれます。)

            担当者の指導で「嚥下体操」が始まると。もうすぐです。

それ!慎重に、且つスピーディに。自分に言い聞かせる。

 

7 配膳
7:30 全ての料理が指定調理方法で定位置に乗せられているか、また箸、スプーン、ストロー等の各お客様提供基準に合致を再確認。指定の順 番どうりに職員の方にお渡し。急いで且、慎重に50人分。最後の配膳盆を職員の方へ。ほっと一息。思わず深呼吸。 早く配膳されたお客様は、食べはじめている。不思議に静か。(美味しく召し上がっていただいているかな。)

8 回収と洗浄滅菌

20分後位には通常最初の配膳盆が戻ってくる。元気な方の分です。残さているもの全くなし。美味しく召し上がっていただいたのだ。嬉しいです。 職員の方が済まれた方の配膳盆を配膳ラックに次々に回収してくれている間、私はすぐに調理器具全ての洗浄,滅菌等の作業。 主菜から副菜の器、蓋付の物、箸、スプーン等々細かく分けると500点位。 手順としては、残飯の取り分け、シンクで手洗い、濯ぎ、熱湯機械洗浄、分類、滅菌乾燥、となります。 まさに機械的作業です。特に手洗いはご家庭とは違い、最初は戸惑う事と思われます。なにしろ量と求められるスピードが違います。 ここだけは大変です。ただお客様を待たせているわけではなく、次の昼食との兼ね合いでスピードを要求される訳で、多少は気が楽です。 私はまだですが、長年続けている女性は普通に時間内に完了し、苦とも思ってない様で、早さを楽しみながらやっていらっしゃる様です。
分類は食器を種類別スチールの籠に纏め、滅菌乾燥庫の指定場所に入れます。少なくとも8:45分位に入れないと、同じ器を使う昼食用として間に合いません。箸、スプーンを滅菌乾燥庫に入れると一段落です。                       次に取り分けた残飯を計量し、日報に記入。残飯籠、箸、スプーン用ステンレス容器を滅菌乾燥後定位置に置きます。
朝食担当の最後の仕事は滅菌乾燥後の配膳盆を配膳ラックの指定位置に置き、昼食用にお客様の食札をセットして朝食分作業完了です

 
食事介助を受けているお客様分の回収はどうしても遅くなり、お盆も取り散らかった状況で戻ってきます。なかには全く手をを付けられていないものもあります。その時は、忙しい中でもお客様の体調が気になり、心配します。作業終了目標時間に近ずくほど処理に手の掛かるものが返って来ます。召し上がる方も一生懸命食べようとし、介助職員の方も、1口でもと工夫をこらた結果の老人ホーム特有の事でしょう。お疲れ様です。


朝、昼連続勤務時は、ここで15分の小休止、軽い賄食を取ります。 


        (8:15) *ごちそうさま。おいしかった。ありがとう。なにしろ食 

             る事が一番の楽しみなの。  

             次に好きな事はお風呂とおトイレ。             

            *お兄さんありがとう。ご馳走様。

             (私、80歳もそう遠くないのに、マスク、帽子だ                  らかな?、うれしい事です。)
             でも。私。朝ご飯まだ食べてないんですけれど。すぐ用意

             してください!。

            *おじさん。量が少ないよ!。俺昔から、丼飯ばかりだった

             から、明日から丼にしてよ。

            *(お薬のコップを持って)お兄ちゃん、これにコーヒー入

             れてよ、コーヒー好きなんだ。

            いろいろあります。     

          

          (9:30) *ありがとさん。またお願いしますね。

着替えて帰るとき、エレベーターのなかで偶然一緒になった車椅子の女性からの言葉です。私の年齢故、まだ、慣れているとはいえず、周りの同僚にその分負担を掛けて居ると思いますが、この様な言葉を貰うと、大変うれしく、頑張ろうと改めて思います。

 

最後に私の出勤時間4:45と記しましたが、これは私の年齢故、動作が遅いと思い自主 的にこの時間にしているだけで、皆様は定時の 30分前に出られて、十分間に合っている様です。 

 

時給に関しては、多少の相違はあるようですが、通常その地域の最低賃金、場合により

50~100円増し。 1000円位でしょうか。 休みに関しては前月に翌月の希望休を予め

申請し、プライベイトを優先。職場がら月1回検体を提出。年1回の定期健診があり、

健康管理の参考になります。                                

多少同僚の皆様にご迷惑をかけながらも、この仕事をさせて戴いています。他のシフ ト(昼、夜)も対応しています。多少の違いはありますが取り敢えず朝食分だけ書かせていただきました。ご参考になれば幸いです。
拙いかつ長い文をお読みいただきありがとうございました。                                       

 
         

 

 

 

 

 

 

 

 

  「調理補助」  パート、アルバイト 可能です! ご存知ですか?

この様な仕事があるとは全く知りませんでした。藁をも掴む状況の中で偶然知った仕事

あれから間もなく1年半、何とかやり続けています。

傘寿もそう遠くない自分ですが、身から出た錆、めげずに挑戦しています。

 

 

後期高齢者証が翌月届くというある日。食堂で昼食中、突然携帯が鳴る。工場の責任

者から、「持ち場に直接戻らず、私の所に寄ってください。」

 

何時もの様に、雑談でもしたいのかな。部屋をノック。普段と違い、少し硬い表情。

瞬間 、「来たな!」と思う。

 

5年程、この高齢に拘わらず、格別のご配慮で仕事をさせて戴きました。私の企業経営

時代の御担当者、時が経ち実績で責任者に栄達されていました。電車の中での、偶然の

再会。

 

窮状を察してくれ、社則では無理な私に何とか算段して職場を作ってくれたのです。

日本の機械産業の中でも代表的な,歴史ある企業。これ以上の算段は不可能。

 

切り出しにくそうな表情が見えました。

私から先手を打って「長い間、ありがとうございました」と申し上げました。

ほっとした様子で、「こちらこそ」との笑顔。

この瞬間がいずれ訪れるとはその前、半年程前から覚悟をしていました。

 

さてどうしよう。お陰様で5年間。久振り多少落ち着いた時を過ごさせていただきまし

たが、蓄えは殆どなく、子供はまだ当時小学生。

 

 

ある日、自動的に後期高齢者の括りの中に投入されました。

結果。職探しは全く不可能。当然のことですが!。

 

1人になって初めて気が付きました。企業としては、産業分野及び科学技術庁等よりの

公的分野でそれなりの実績を揚げてきた積りでしたが。「1人になると全く何も出来な

い」自分でやってきたと勘違いしていたのです。「この大馬鹿者!」。

全て社員の皆様の結集があって初めて出来たことでした。

  

その後、求人誌、チラシ等、目を皿の様にして探しました。電話数十件。話が順調に進

んでいても、最後年齢の点になると「ガチャン」。少々疲れ気味の頃。

 

突然、降って湧いたような「調理補助」。

居住する集合住宅。子供の事を聞かれて話をしていた顔見知りの、良くお世話になって

いる方、なんとなく仕事の話になり、求職中と云うと。すぐ近くにありますよ。職種を

選ばなければ。歩いて15分程。

老人ホームでの調理補助の仕事?。そんな近くに職場候補 ‼?。

 

仕事内容は全くわかりませんが、取り敢えず,早速電話。 

本社担当者から面会していただけるとの連絡。

 

前記、企業での社食はキャフテリア方式で毎日おいしく戴きながらも、何も見ていませ

んでした。

 前提知識なにも無し。見ていれば多少の参考になった事とその時、思いました。

 

大規模な食品関連企業の生産ラインの合理化は何度も手掛けていましたが、手作業での

料理の現場は見たこともありませんでした。見当も付きません。

 

60を過ぎて家庭を持つまで、企業のことしか考えておらず、包丁など殆んど持った経験

もありませんでした。務まるかどうか。

 

2日後、現場の老人ホーム厨房で本社からの担当者と面会。

仕事内容などの説明を受ける。

幸い料理という行為は全くと云う程なく、器の準備から盛り付け、配膳、洗浄、乾燥、

片付け、次の食事の提供段取りと云うサイクルの繰り返しです。

あれから約1年半。多少失策を起こしながらもなんとか継続しています。次の仕事の段

取りが出来るまでは頑張ろうと思っています。

 

 

ただ1つ想定外の事がありました。

 

6:00の作業開始。同時に手、足、指、目その他、体の全機関総動員の開始。全く気を抜

けません。これが7:30の食事提供迄、連綿として続きます。その後も、かたずけ、洗浄

乾燥、残飯整理、食札清浄、お食事盆と食札再配置。そしてちょっと深呼吸。昼食の段

取り開始。以上が1サイクル。現在はこれにも多少なれ、開き直って、痴呆症予防

に最適の職場(笑い)と自分を納得させています。

 

家族に平均的豊かさをと思う水準からは、まだまだ遠い現状です。翻って私は人生の

前半20%程度ですが、とても豊かな生活をさせて貰いました。父は質実剛健、華やかな

事は避ける方でしたが、現在の基幹産業の1分野をになっていた時代、当時の社会とし

ては珍しい米国との関係もあり、今、考えると恵まれすぎていたと思います。その分、

今、多少の苦労をしても私自身は甘受すべきと思っています。家族は無論、別ですが。

 

家族の平安のため。今を耐えて次の目標のステージに向かうため。まず、ステップに

なるスプリングボードに辿り着く事が必須です。その為の軍資金が必要です。今は正に

その資金作りの時と心得ます。頑張ります。

「石田塾」12期募集開始!。喜寿を超え傘寿も間もなく。失敗続きの人生と やっと「さようなら」!。

「ありがとうございます」

 

昨年暮れ。長年読ませて戴いていた無料メルマガ「毎日1分!英字新聞」。

 

読後のなにげなしのクリック。人生、初めての経済的多少の安定が、視界に入ってき

 

たようです。この年になってやっと!。

 

 

親子2代。計、約100年。産業社会の中で必死にもがき続けて来ても達成出来なかっ

 

たささやかな経済的安定。

 

出来そうです!。

 

2人共、夫々の分野でそれなりの一定の御評価を戴きましたが、討ち死に。

 

 

既成の経済社会のシステムでは、有り得ない事です。

 

 

わずか半年。なんとか、多少の経済的安定に手が届きそうです。

 

こんな事があるのでしょうか!。

 

あるのです。石田塾、塾長はじめスタッフの皆様の心からのバックアップにより。

 

 

意に半して、長年の家族に対する経済的困窮。

 

入塾の費用も正に清水の舞台から飛び降りるつもりで工面しました。

 

 

同期11期の皆様、私と違い既にかなりの実績を揚げていらっしゃる様です。

 

勉強会、懇親会など皆さん希望に溢れて勉強の成果を話してくれます。

 

 

私は、既に通常の就労の年代を遥かに超えている関係で、雇入れてくれるところは

 

当然なく、現在も幾つかの労働を掛け持ちしています。(これも、ブログのテーマとし

 

て書かせていただきました)。この年ですから、体力的にも、今を食べていく仕事を

 

優先せざるをえず、PCに向かえる時間は1日せいぜい2時間が限度です。おまけに

 

自分で生産技術系の企業を経営して来たにも拘らず、PC操作は出来ず。人任せ。(

 

遅まきながらまきながら、大反省。)

 

 

塾長の心からの励まし、スタッフの皆様の笑顔でのご指導。

 

やっとアドセンスに手が届きそうなところまで来ました。

 

11期同期の皆様からは遥かに遅れていますが。

 

ご指導を少しずつでも着実に実行していけば、遅くはありますが、

 

目標に1歩ずつでも近ずけると確信し、今後もあきらめずに頑張って行く考えです。

 

LINEグループの皆様今後とも宜しくお願いいたします。

「ブログ」って、忘れていた事を思い出させてくれるのですね!。nobulog-「インドネシア」を読ませて戴いて。

「インドネシア世界遺産巡りの旅」「プランパラン寺院」を読ませていただいている時、人生の荒波。すっかり忘れ去っていた事が、突然心の中に湧き上がって来ました。

 

確か茶色のフライトバック(神鳥、ガルーダのマーク入り)とウッドレリーフ。

いつの間にか消えてしまつた。その時期も全く思い出せません。

経緯で当時とても大切にしていた物の1つだったのですが。

 

もう半世紀以上前。

 

その時の人生の選択がインドネシアに関連(当時)する方を選択していれば、少なくと

も、現在の経済的困窮とは全く(?)縁のない人生を歩む事になっていたと思います。

 

私はその時のご厚意を自分なりの熟慮の末、感謝を感じながらも、ご遠慮させて戴きま

した。今もその時の判断に関し、後悔はしていません。

(家族に経済的苦労をかけている事を除けば。)

 

 

インドネシアと某大手商社

 

父の企業の倒産後、志望していた高校をあきらめ、仕方なく入った高校。学費も

払えず、朝夕の牛乳配達で何とか凌いでいた私の姿を見てくれていた友人の父母。

ある時、食事によばれ、突然の考えもしなかったご提案。

 

友人の御父上より、「私の会社に入りませんか!」時期は何時でもよい、高校卒の時、

或いは大学卒業後の御提案。全く考えてもいませんでした。

 

中央線の荻窪駅。戦前から住宅地として比較的広い敷地を有する家が多く友人の家も

私の家の斜め前。幼馴染でした。

また、倒産した父の本社が京橋にあり、偶然彼の御父上の企業も八丁堀から京橋に移転

した、関係もあり、特に身近に感じ、小学時代の頃は毎日一緒に遊んでいました。

(八丁掘から移転新築した当時、その壮麗な建物は内部の豪華さもあり、よく新聞に掲

載されていました。現在、某大企業の所有。)

 

父の倒産後、急速に基幹産業として日本の経済を牽引する存在となった業界を横目に、

正に赤貧の真っただ中、自分で企業を興そうと誓っていた私は、丁重に趣旨を話してご

遠慮させていただきました。経営者だけによく解ってくれ、その後より一層ご子息との

交流を望まれました。

彼は順調な人生を歩み、同じく父上が創設に拘わった大企業を定年退職。悠々自適。

折に触れ電話をくれ、「お前はいつも苦労するなー。ちょっと飲みに行こう」

と誘ってくれます。

 

 

対インドネシア800億円の戦後賠償(昭和25年初代スカルノ大統領)。船舶、トラツ

ク、軍事ジープ等の取り扱いで莫大な利益、八幡製鉄、富士製鉄系の鉄鋼商社。

1954年2大商社の1つと合併。

幼馴染のお父上は残念ながら、当商社との合併、役員就任を直前にお亡くなりになりま

した。

 

友人のお父上が1度インドネシアへ2人で行って来たら、と戴いた物が先ほどのガ

ルーダのフライトバックとウッドレリーフでした。

 

「nobulog」の壮麗な写真が思いもしなかった人生の貴重な思い出をよびおこしてく

れました。ありがとうございます。

 

 

不思議ですね、思い出した事が他にもあります。このブログを読ませていただかなかっ

たら、間違えなく忘れ去っていたでしょう。

 

 

今、大手町に新社屋を建設中の様ですが、後年、当商社の情報通信事業部の新規参入

分野のプロジェクトに参加させていただき、約1年。机もお手配いただき、週2日程、

旧社屋に通っていた時の話です。

 

11階トイレでの予期しない邂逅

 

ある日、トイレに入った際、なぜか視線が気になり、振り向いたとき、お互いにびっく

りして、顔を見あわせ合いました。なんと。お借りしていた住居の家主さんだったの

です。

 

所有していた不動産の全てを債務のために処分、住む家もなかった時、父が心労ですっ

かり体調を崩してしまい。どこか静かなところを探していました。

知人の一人が、知り合いで広い敷地の中に離れを持った方がいらっしゃるので、事情を

話してみようとのご厚意。

 

お陰様で数年間住まわせて頂きました。緑溢れる広い庭の一隅にある離れ。父は健康を

取り戻したようです。

 

トイレでの出会い。なんとその家主さんだったのです。

当初、お互い、相手がそこにいる理由がわかりませんでした。

家主さんは財務部門にいらっやいましたが、お借りするときもその後も、職業、勤務先

に関しての話はありませんでしたし。

その時初めて当商社で重責を担っていらっしゃる方と知りました。

 

私も零から始めた工業系の仕事に関して多少の事は話しましたが。無論お借り出来たの

は文無しの私の信用ではなく、紹介者との長年にわたる、信頼関係でしたから。

 

家主さんも、私が自社の事業部のプロジェクトに携わっていることいる事を知り大変喜

んでくれました。

 

その際、幼馴染の御父上との事を話しましたら、大変な逸材で当商社も重席で迎える

準備をしており、大変残念な事をした。とお話しされていました。

 

そして、君がその厚意の提案を受けていたら、今は当社鉄鋼部の社員になっていたんだ

ね。本当に奇遇だね。頑張ってください。と喜んでくれました。

 

 

nobulogさんのお陰で、失敗続きの人生にも拘わらず、こんな自分にも、その時々に親

身に応援してくれた方々がいらっしゃったこと改めてを思い出すと共に、感謝いたしま

した。

 

何としても再起しなければ。

 

「ありがとうございました。 nobulogさん」

 

 

 

健康への道標。毎日の小さな積み重ね、あきらめないで,これからも。

 

私のブログタイトル「100歳を目指し、希望を捨てず、毎日を明るく健やかに生き

る」

 今回、募集を見て瞬間思いました。タイトルににピッタリ。応募してみよう。

だが待てよ。改めて思い返すと、タイトルにふさわしい日々を送っているだろうか。

そもそも、このブログを始めた切っ掛けの1つは、自分の不甲斐なさが原因の,長い

経済的不遇に疲れ気味の自分を鼓舞しようと考えた事でした。はかどっていません。

 

後期高齢者と云う括りの中に強制的に入れられた結果、5年程仕事をさせて頂いてい

た機械メーカーを辞めざるを得ませんでした。その企業の定年は60歳。

とてもお世話になったところで、それは、むしろ当然の事。その年齢まで、事情を斟酌

して働かせて戴いた事を感謝しなくてはなりません。そこは2回目の転職先でした。

 

人生っていろいろな予期しない出会いがあるものですね。電車の中で偶然旧知のある方

に再会した事がこの2回目の就業への道を開いてくれました。

 

晩婚にも晩婚。還暦に近い年で初めて伴侶を得、弟、妹にそれぞれの孫が誕生した頃、

子供を授かるにも拘わらず、その大切な子供が幼稚園年少組の時に父に続き、私も事業

に挫折。

私が中3の時に味わった苦渋をより幼い子供に押し付ける結果となってしまいました。

 

多少込み合っていた車内で,躊躇はあったものの、経過で事実を話す結果となりました。

暫くして、電話あり。

「貴方の事は分かっているので、うちで働きませんか?」。「本体は規則上無理なので

取り敢えず出入り業者からの出向という形でいかがですか?」。

 

その方がまだ若い頃、私の企業のご担当者でしたが、かなりの時を経て重要な役割を担

う立場になっておられました。

その企業のお得意先製造現場に出張する国内外保守メンテナンス要員の管理業務。パソ

コンは出来なくても可,サブの女子を1名考えます。願ってもないご提案!

 

順調に人生を歩んで来た方々であれば、定年に至る年齢で、まさに「零」に陥入る。働

く場所。全くありません。年の話になると、順調に話が進んでいても、即座に拒否。

 

1回目の就業も、不思議でした。いろいろ奔走しましたが私の年齢、経歴では、同様。

途方に暮れていました。その時半世紀ほど前の、ある考えてもみなかった提案が窮状を

救ってくれました。

持つべきは友人です。大学に入学した幼馴染が、自動車部に入部し、その活動のため大

型免許に挑戦。

大学の施設内で練習するから、来ないか。費用は0でよい、お前も大変だろう。他の部

員は俺が説得するから、遠慮するな。何かあった時、役に立つだろうから。

 

大変役に立ちました。当時、定年に達した退職者の雇用は今ほどなかった時代。

運送会社の欠員代替要員として、その免許証のおかげで、24時間対応。関東周辺から

東北、北陸、中部、関西、中国、など対応し、なんとか生活を凌いで来ました。

 

企業経営していた時期。大企業を始めとして、生産工場がそろそろ、地方に進出、移転

を始めた頃。高速道路、新幹線もまだ在りませんでした。これが幸いでした。

独自に企画開発した製品。当時はまだ電話でアポが取れる時代でした。狙い定めて

売り込み。東京本社、工場で、担当先にたどり着きにくかった場合。次の手段。

地方工場にターゲット。当企業向けの企画書、積載出来るものであれば、サンプルを積

み込み。(GPS、ドラブレコーダー等まだありません)。地図を頼りに、とことこ。

近くの旅館(ビジネスホテルなどもまだありませんでした。)をベースとします。

翌日に備え、資料、説明ポイント等の再確認。日本酒かビール。明日にかける。熟睡。

翌日。守衛さん攻略でご挨拶。東京からわざわざ来たのか、とご担当部門に連絡を取っ

て頂く。当日むりであれば再度訪問。その間、周辺の生産工場を調査、次の目標企業。

首尾よく成約出来れば、納入までの間、何度も往復が必須。その間も飛込で新規営業先

開拓。納品当日、状況によっては営業部、技術部員、時には開発部隊も同行し、何台か

の車に分乗。

ある時など、予期しない大雪で予定の運送会社で、手配がつかない。や無負えず、平ボ

ディーをお借りし比較的大型の装置でしたので、クレーン搭載。自分が運転、なんとか

得意先の地方工場に納入。得意先は、この雪では受け入れは無理だろうと判断し、工程

変更の段取りをしている最中、大分遅れましたが到着。大変感激され、信用を確保。

これも.あの時、苦渋の現状を思いはかって、声を掛けてくれた幼馴染のおかげ。

 

この様に、道だけは詳しく。運送会社の人もビックリし、採用要因の1っでした。

 

しかし、70歳になる月に退職勧告。や無負えません。

さて。生活はどうする、蓄える余裕はなく、ぎりぎりの生活。子供と、家内がかわいそ

うです。

やむを得ず、繋ぎとして、2人のため、それなりに真剣に取り組んでいたトラックド

ラバーとしての仕事。自分の年齢も顧みず,少し甘く考えていました。当時は今ほど高齢

ドライバーが話題になる事はありませんでしたが。入社3年目、幸い無事故でしたが、

運送会社としての退職勧告、は当然の規約でした。  そんな時の電車内の偶然な再会、

そして全く予期しなかったご提案。

 

「健康第一」

この時、本当に思いました。健康でさえあれば。

私が初めて真剣に「健康」を意識した瞬間です。かつての得意先、偶然電車の中で再

会し、わざわざ混雑する車内で声をかけてくれた前述の社員に対する感謝。

 

運送会社で生活の糧を得ていた時。平日、休日、昼、夜、ナシ。24時間対応の出来高

払い。時間給も最低賃金、多少重労働。必ずしも良い条件ではありませんでした。

その中で、たった一つ。とても良いことがありました。

いつでも仕事の依頼に完全に、安全に対応する事が、生活のために必須でした。

アルコールを継続的に絶った事です。結果的に実質約3年間、全くの断酒でした。

 

企業経営の時代,どうしても酒席(?)の時間が多くなりがちでした。

対外的だけではなく、社内でも開発の打ち上げ、その他多かったと思います。

 

今,考えるとそれが、若い企業のある意味で活力となっていた事は事実でした。

年間の計画的な開発テーマとは別に、実態以上に得意先の要請に応える為の過剰

な受注をし、その慰安としてある意味打ち上げをしていたと、今は反省。

 

特に開発部門は、平行してテーマが走っている事が多く、若い社員達もそれを余り苦と

もせず、自分たちはまだ世の中にない物に取り組んでいると云う意識で頑張ってくれて

いました。技術部門含めて、皆、仮眠室での一時爆睡で、体調を維持しながら、納入ま

で取り組むと云う事がしばしばでした。それが今言われるブラックとはだれも考えても

おりませんでした。少し休んだら、と声を掛けても、ここががんばり時ですとの返事。

 

時には,まだCADなどがない時代、製図科出身の女子社員や事務部門の社員までが、帰

宅後、軽い料理を包み、お疲れさんですと差し入れを持参してくれたりしていました。

それに感謝するためもあり、完納後、社内でささやかな打ち上げを行う。時には得意先

が状況を確認にいらっしゃる機会を捉え、仮眠室をにわかに女子社員が自発的に整えて

くれ,客先技術や発注部門担当者の皆様を歓迎する準備をしてくれていました。

 

この様な中で、通常はセーブを心がけていましたが、自分から飲まないと、皆、遠慮す

るだろうと考え、乾杯。自然に数値が悪い方向に行く傾向になっていました。

 

 現在、過去の悪癖を正すため、いくつかの約束の励行を,自分に果たしています。

居住する、市の定期健康診断は必ず受診し、基準値との数値差は常にある時期から始め

た体調管理台帳に赤字記入します。私に出来る唯一の家族に対する責任感の現れです。

事業に失敗した時、生命保険すら解約しなければならなかったからです。

 

市販のB5ノート見開き2ページ。起床、就寝時間、血圧、食事の咀嚼度、排便、排尿

、体調特機事項、食事内容、飲酒、体温(週1度)、気分等を夫々記号、数値化記載

、月末に月間の総括と翌月の平均数値目標を記入します。生活上の特記事項もメモ。

 

階段があれば、体調測定、維持のチャンスとしてとらえ、原則エレベーター、エスカ

レーターは敬遠させていただきます。地下鉄の長いエスカレーターは軽登山と捉える。

乗り物は時間の余裕を作り、1駅手前で乗降。経済効果(笑い)もあります。

車は原則、重い物がある時だけ。多少の重さは自転車で。普段使わない筋肉の維持、増

進の機会と思い、心地よい風を受けながら喜んで漕ぐ。

目的地への往復。できれば幹線を避け、緑の環境をえらび、路傍の花をめで、精神的リ

ラックス。

 

現実は膵臓、糖代謝が区分「C」で経過観察。血圧少し高く、医師は薬を勧める。

次の検診目指し、食欲のセーブ(笑).も新たなテーマとして加へ,日々を送ります。

 

「100歳を目指し、希望を捨てず、毎日を明るく健やかに生きる」ために。

 

 後記。偶然にも森永牛乳の名。失意の高校3年間、牛乳と共に、当時は瓶入り、

カタ、カタと音を立てながら自転車を漕いでご家庭の木箱に1つずつ配つていた事

を思い出しました。今となっては、辛くはありましたが、良い思い出になりました。

生きて行く為の私の最初の仕事でしたが、どんな困難にもくじけさえしなければ

次のステップに進めるという貴重な体験をさせて頂きました。

「トリプルヨーグルト」。手にして、やさしく、暖かな感覚を受けました。

経過観察の数字の変化を楽しみにします。