学生

学生が勉強しなくてはならないのは分かる。
若いうちに色んなことを知っておいたほうがいいってのは耳にタコが出来るほど聞かされているし、またこの数式一つで世界が如何に変わったかもいくらでも説かれてきた。

だがしかし一つ言いたい。
必要性を説くばかりでは、人の興味は惹けないのだ。

今の学習体制は、いわば保険のCMだ。不安を煽るかのように、理想を語る。やれ備えておけば安心だ、やれ知っておいたほうが得だ、まるで知らないと死んでしまうかのような物言いだ。
いつ病気になるかもしれないと囁くばかりで、「勉強しないことに対するデメリット」ばかり説いてくる。「勉強することに対するメリット」があまりに少ない。
勉強は楽しいと教えてくれる先生があまりに少ないのだ。そして、それを感じさせてくれる先生もいない。

今通う公立高校の先生が言っていたのだが、受験制度がそうさせているらしい。
私はそれに半分賛成だ。授業中先生がやたらと口にする「受験に使える」という言葉が、授業ひいては勉強をつまらなくしていることは明らかである。

いい高校、大学に入ればいい人生を歩めるとは限らないのに、「いい学校に入らなければ死ぬ」といった形相で脅しに来る。これでは自分を高めるはずの面白い勉強が、やらなければ死ぬ強制労働になってしまう。

本来いい学校に入る目的というのは良質な学習環境のためで、良質な学習環境は「もっと学び自己を高めたい」という欲求から来るべきなのだ。それなのに手段と目的がまるで逆になってしまっている。いい学校に入れば良い学習環境が手に入り、そこで初めて「勉強って面白い!」と思ってもらおうとしているのだ。

そもそも自己を高めるのは良い人生を送るためなのである。自己実現は平成における幸せのキーワードだ。好きに生きることが幸せな人生、良い人生とされる。

親なら90%以上が「子に幸せな人生を送ってほしい」と願う。そのために自己を高めてほしい。そのために良い学習環境がほしい。そのために「勉強しろ」というのだ。将来への保険のために。

しかし世の親は忘れているのだ。あるいは、儲けたがりの資本主義者が忘れさせているのかもしれない。自己を高めるのは「自分のやる気」であり、「良い学習環境」ではない。
「良い学習環境」は自己を高めるのに良いかもしれないが、それは単なる補助だ。自転車の補助輪のようなもので、あったほうが良いかもしれないが、まっすぐ走るためには絶対に必要ではないのだ。
「自分のやる気」は違う。自転車でいうと、少々無理があるが「漕ぐ力の強さ」である。やる気があるのとないのではスピードがまるで違うのだ。その上スピードがあれば滅多なことでは曲がらない。曲がれない。良い人生を歩むことが、まっすぐに遠くへ進むことならばやる気がなければ不可能に近いのだ。漕ぐ力がなければ、不可能に近いのだ。

じゃあやる気はどこから出てくるのか?それは「より遠くへ行きたい」「よりまっすぐに進みたい」と思うことからだ。このことがつまりは「良い人生を歩みたい」「勉強をもっとやりたい」ということなのだ。
もし人にそう思ってほしいのなら、セルフでお願いしま〜すと突き放さず、きちんと考えてやってほしいものだ。


と、私は思うのだが。また歳をとれば変わるだろうか。
そんな学生の愚痴でした。

良いと悪い

よく議論される。

「これは悪だろうか?」

その一言が発されれば、水面に石を投げたように波紋が広がる。文字通り。「いや、この物自体は悪くない」「これを使う人が悪い」「支持してる人が悪い」「私は認めません」「いや、私は好きだけど?」「好きとか嫌いとかじゃない」「本当に?」「悪は悪だろう」「これは悪じゃない、むしろ正義だ!」「これを否定する君たちが悪だ」「悪じゃないけど正義でもない」……

でも、悪いと良いは表裏一体だ。
時代が変われば人殺しは戦争の英雄となり、文学に親しむ王はポンコツ指導者になる。

人を殺すのが悪いこととは誰が、何故決めたのだろう?自分が殺されたくないから?他人が死ぬところは見ていて気持ちが良くないから?気持ちが良くないだけ?

そう言うと「倫理観の欠如だ!」とか言い出す人がいるのだろう。けど倫理観は時代で変わる。今は平成の世で日本では犯罪だけど、絶対的な正義ではないことも確かなのだ。自分が殺されそうになっても殺してはいけない、これは人殺しは悪という倫理観に従っている。殺された方が正義だ。けど、これだと不満が出る。殺された奴が報われないだのなんだの、不満が沢山出る。不満は少なくとも「良い」ではないと考える人が多い。だから正当防衛があるだけなのだ、と私は思う。

物事に善悪はつけられない……この「善悪はない」という考え方自体、否定と肯定の両意見がある。この考え方もまた絶対的正義ではない。そのことを忘れてはいけない。……そうすると、「これは悪だろうか?」という問いに対しては、答えがなくなる。「悪い」も正解。「良い」も正解。でも、「悪い」は不正解になるし、「良い」も不正解になるのだ。

でも答えがないのでは困る。決断が必要な場面は沢山ある。その時、「どっちも正解でどっちも不正解」じゃ困るのだ。

そこで、ある程度の基準を作ってそれに準じて決めようと思いつく。これが「倫理観」であり「思想」であり「正義」となる。これはある程度の一時的な基準だから「本当の正義」ではないけど、「一時的な正義」としては肯定する。そうすると、「どっちもどっち」という状況からひとまず脱せる。

しかし人は個人だ。違う思想を持った人とは基準の合致をしない限り、同じ事象に対し違う結論を出す。絶え間なく論争は起こる。「俺はこの基準に沿ってこう考える」「私はあの基準に沿ってああ考える」これでもう、十分戦争を起こす理由になる。正義が違うのだから当然だ。世界のお偉いさんが会議したり会談したりするのは、この基準の合致をさせようっていう会談なんだろうな。まあ個人レベルでも難しいのに国同士なんてそううまくいかないから、世の中は平和にならないんだろうけど。

少し脱線した。じゃあ、次に考えるのは基準の合致だ。基準が同じなら何も争いは起こらない。同じ結論を出すのだからな。
合致をさせるには、即ち自分の基準を主張し正当性を訴えるには、自分の基準を把握してなきゃいけない。じゃないと他人の基準と比べたり、正当性の検証をしたりが出来ないからね。

『自分のその一時的なある程度の基準は、いつどのように変わるのか?また影響範囲はどのくらいか?どうやって「私はこの理由でこの基準に従い、こう考えます」と主張すべきなのか?』

以上を把握して初めて、他人の基準に首が突っ込めるようになる。いくら色眼鏡といえど、ピントが合わないんじゃ何も見えない。見えすらしない。見えなければ始まらないのだ。
基準をお互いに理解して初めて、ここは譲れないとか、ここはお前が正しいとか、話し合いが実現する。争いではなく、交渉や妥協で解決される。

よって、「これは悪だろうか?」という質問は、「お前の基準ではこれは悪に分類されるか?」という質問なのだ。
そしてこの質問者の目的は、自分の色眼鏡を、自分の基準を、少しでも多くの人と擦り合わせ真実に近い色で見ることだ。多くの人が「赤」と答えれば、"赤である可能性が高くなる"。平均の考え方だな。
そこで自分の基準を人に押し付けることは本来の目的ではない。「お前らはどう思う?」と問うことで議論を活性化させ、その過程を見て何割何分くらいはこの色に近そうだ、という結論を出すためなのである。つまり、議論による基準の補正、交渉、妥協なのだ。

これでより多くの人と妥協しあい、譲れないところは守って、自分の基準を整えて、色眼鏡を直していく。完全に治ることはないけれど、ある程度皆と同じものが見えていれば話し合いがしやすい。争って勝者が「俺の基準に従え!」という暴君になることが比較的少なくなるわけだ。

議論は世界を平和にする、という考えはおそらくここから来ている。「良い」と「悪い」は明確ではないが、ある程度共通の認識下で区別されるのだ。そうすれば基準の衝突は減る。色眼鏡は誰にも外せないから、なくなりはしないが。
この「なくなりはしない」というのが厄介で、争い事の絶えない原因なのだろうが……

よって「これは悪だろうか?」という質問は、そもそもの目的が「議論を見て色眼鏡を直すこと」なので答えは一時的なものしか出ない。と結論づけよう。

もちろん、私の一時的な基準での話だ。この記事を見てみなさんが、あるいは未来の私がどう思うかは、私のこの基準では善悪を判断しないとしよう。


……言い忘れていたが、「俺はこう考える」「私はこう考える」と基準の違いが起こった時、「じゃあ違くてもいいね」という解決方法があるのも、忘れちゃいけないことの一つだ。色眼鏡を直さず、合致も求めず、ただ「そういう見方もあるのね」に収める。私はこれがもっと増えてもいいと思うが……さて、この考え方は悪だろうか?

どうも。

こんばんは。熱砂と申します。熱い砂でネッサです。
はてなさんのブログには以前もお世話になってたんですが、またやってみようと思います。
日々の思想もどきや愚痴なんかを淡々と、厨二的言い回しで綴ろうかなぁと思ってます。あと人生整理もしたいので、自己紹介がてら、ありし過去の回想をしてみたりしたいです。恐らく五年もしたら黒歴史確定なので、自覚済みなので、痛いの前提で閲覧お願いします。
ちなみに年は花の17歳です。女です。高校生です。……信じないならそれはそれでいいです。お任せします。
適当に興味のある記事は読者として追おうと思っていますが、学生の身なので忙しい時期もあるしあまりコメント返しなどは予定していません。ご了承ください。
そんな感じです。よろしくお願いします。