詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「どいつもこいつも麻薬中毒」 & ショートショート 「人類野生化再生プロジェクト」

エッセー
どいつもこいつも麻薬中毒
ギャンブル依存症を考える~

 痛みには「肉体的な痛み」と「精神的な痛み」がある。肉体的な痛みは負傷や炎症などに伴う苦痛で、精神的な痛みは心が傷ついたときに伴う苦痛だ。そのどちらとも、神経の感覚なので、感覚器官の個性によって鈍感であったり敏感であったりする。肉体的痛みの場合、人によっては傷の痛みをあまり気にしない者がいれば、ちょっとの痛みで泣き叫ぶ者もいる。精神的痛みの場合も、大きなショックでもめげない者がいれば、ちょっとのショックでめげてしまう者もいる。しかし個人差はあれ、どちらも過度になると耐えられなくなる。

 生物は、内外の刺激によって蠢いている。この刺激に対する「鈍感・敏感」はあくまで感覚器官の特徴で、生来的なものだ。快・不快は生物の行動基準で、どんな下等生物でも「快」と「不快」の環境が両側に存在すれば、「不快」を避けて「快」の方向に移動する。例えばその「快」が餌や異性なら、そっちの方向に移動することになる。しかし自然界は「快」ばかりの環境ではなく、「快」と「不快」が入り乱れ、ときには「不快」ばかりの環境に置かれることもある。すると生物は不快な環境でも何とか生きていくために、慣れることを学習する。住めば都というわけだ。慣れることは「鈍感」になることに他ならず、そうなれば懲罰房の中でも生きていける。これは「不快」が徐々に劣化することを示している。

 ならば「快」も徐々に劣化していく。「快」の中で慣れてしまうと、それに鈍感になって新たな刺激を求めるようになる。薬剤耐性もそうだが、幸福耐性もそうだ。薬剤耐性は、体が薬に慣れてしまって効かなくなることだが、幸福耐性は、心が幸せに慣れてしまって新たな刺激を欲する現象だ。刺激はたとえ厳しいものでも、耐えているうちに脳内麻薬が出てスリル感のような快感に転じたりする。小人閑居して不善をなすというが、幸福な状態でも閑居していると、物足りなくなって何かをし始める。動物も植物も刺激に反応せず、動かなくなったときは死んだときで、動きが速いか遅いかの違いだけだ。大宇宙からバクテリアまで、常に刺激を受けて動いているのが性(さが)なら、幸せの中に飛び込むことも不幸せの中に飛び込むこともあるわけで、それが生きてることの証だ。人間は玉つきのように快と不快にぶち当たりながら動き回り、時には快の湯船に浸かって長湯となり、湯あたりして今度は不快の冷水に飛び込んで体を冷やし、切りのいいところで湯船に戻ろうとするが、最初は心地よい水風呂が底なし沼だったりして、深みに嵌まってしまう。賭博で最初は儲けさせてもらい、最後には借金が7億円なんて失態は、そんな類の話だろう。

 「不死身」は、どんな打撃や困難にも挫けない人間を指す言葉だが、刺激に対する基本的感性は「繊細」の反対である「鈍感」に違いない。自分の血を見て気絶すれば、戦いに勝てない。常に戦っている動物は狡猾な神経の持ち主だが、傷や痛みに対しては鈍感で、深手を負っても人間ほどには泣き叫ばない。叫んでも救急車が来るわけではないし、自力で再生するか、死ぬかの二択しかないことを知っているからだ。子を失くしても、本能としての範囲内でしか悲しまない。深手も別離の悲しみも、苦痛の叫びは捕食者に感知され、攻撃される可能性がある。人間だって戦場で負傷すれば、泣き叫ぶことはしないだろう。とどめを刺されるからだ。

 動物の生きる場が弱肉強食という戦場なら、それは本能と考えれば良く、動物的精神力と妄想することも可能だ。しかし、悠久の戦いで培われた本能の知恵が脳内麻薬というホルモン物質を生み出し、それが負の感情や痛みを和らげてくれる。敗戦直後の労働者は軍が保有していた突撃用のヒロポン(スピード)を打って、あくる日に苛酷な現場に戻っていったが、動物では脳内麻薬がその役割を果たしている。

 当然だが、動物の片割れである人類もそれを引継いでいる。脳内麻薬は、高邁な精神とは真逆の本能に組している。人は臨終のとき、脳内麻薬のおかげで一切の苦痛から解放されて天に旅立つ。恐らく動物たちもそうだろう。ホメオスタシス(恒常性)の中に脳内麻薬が組み込まれているなら、過剰に分泌されれば異常な行動も出てくる。脳内麻薬が売人から買う麻薬と違いはないとすれば、人間は常に麻薬環境の中で行動し、麻薬を買おうが買うまいが、ハイな気分も鬱な気分も、博打依存症も、すべてが体の内外から供給される麻薬に支配されていることになる。過剰な脳内麻薬でハイテンションになるとお巡りさんが駆け付け、外から麻薬を買っても牢屋にぶち込まれる。

 人間を含めた動物の行動基盤は、基本的に(脳内)麻薬と言っても過言ではない。だから、賭博依存症も性依存症も、依存症と名の付くあらゆるものに脳内麻薬が関与している。もっと広めれば、人間の感情や行動を操っているのは脳内麻薬だと言ってもいい。麻薬中毒と良い子の違いは、前者は金を払って外から配給されているだけの話だ。当然、脳内麻薬の生理的限界を超えた麻薬が外から入ってくれば、ホメオスタシスは破壊され、自身は体調を崩し、外に対しても異常行動となって迷惑をかける。

 しかし、人間は他の動物と違い、脳内麻薬に支配される本能を覆う形で、立派な精神が存在する。その精神は、他者や社会との関係性が複雑に絡んだ籠のようにでき上がっていて、そこから負の感情や苦痛を取り巻く状況を熟慮した「我慢」という行動が出てくる。大人が痛いのを我慢するのは、敵を意識してのことではない。周りから「子供みたい」と思われるのが嫌だからだ。これは世間体の一部だが、その後ろには法律というものも存在する。しかし法律は神様ではなく人間が作ったもので、国や地域、時代によってチェンジする。だからアメリカなどでも、マリファナやスポーツ賭博が解禁された州もあれば、禁止されている州もあるわけだ。民主主義国家では、麻薬大好き人間、賭け事大好き人間、それに絡む税金大好き(地方)政府が大勢を占めれば、解禁されるということだ。その結果、依存症も増大する。

 物欲も金銭欲も、動物的食欲のアレゴリーに過ぎず、本能的なものだ。だから断食すると、食欲も物欲も金銭欲も消失する。博打癖も食癖の仲間なら本能的欲望だが、過剰になると身の破滅を招く。食い過ぎると人体の生存システムが破壊され、賭博で負け過ぎると社会における個人の生存システムが破壊される。それを防ぐには「我慢」という精神力で制御する以外にないが、それなりに精神的負荷はかかる。その痛みに耐えられなくなると欲望が我慢に勝り、ダイエットは放棄し、再び賭場に通うことになる。これで欲求不満はなくなって一時的に精神は解放されるが、未来を考えた精神的目標とは相反することになり、身の破滅に近付いていく。これを国に当てはめると、目先の景気のことばかりを考えている政府も国民も、脳内麻薬の支配下で動いていて、「地球温暖化」という未来の不幸を考えた「我慢」を持ち合わせていないことになる。欲望が我慢に勝れば、身も世界も破滅する。現在、人類は「快」依存症候群だ。そこから離脱する唯一の方法は、「住めば都」という諺の真意を探求することだろう。

 病院では「痛い痛い」と訴える患者もいれば、痛いのにじっと我慢している患者もいる。僕は大部屋に入院したことがあり、二つの事例を目にした。一つは簡単な脱腸の手術をした老人が「痛い痛い!」と声を上げて看護師を困らせた事例で、恐らく軽い認知症に罹っていたのだろう。彼は大人だったが、傍から見ると、まるで大人のプライドを捨てたかのように叫んでいた。もう一つは、臓器の全摘出手術を終えた老人で、痛いだろうに平然として声も発せず、明くる日にはおぼつかない足取りで歩行も開始していた。当然のこと、叫ぶ患者には鎮痛薬が処方され、我慢している患者には処方されない。痛みは症状の一つなので、我慢すれば良いということもない。どこかで大出血を起こしているかも知れないからだ。もちろん、こうした痛みに出される薬は、市販もされている「カロナール」や「ロキソニン」の類だ。

 ところが、その痛み止めに麻薬を処方されている中年の患者がいた。彼は末期癌に侵され、すでに歩行が困難な状態だった。医者も匙を投げ、誰も助けてくれない状況に陥ったとき、人間は自分が動物と変わらないことを知る瞬間がある。衆獣環視の中、草原に寝転がる深手のシマウマは、自力で立ち上がることができずに死んでいく。同じように医療スタッフの見守る中、末期癌の患者は何の治療も受けられずに息を引き取る。医者はそんな患者に緩和ケアとして麻薬を処方する。それにより、死に至るまでの苦痛をいくらか取り除くことができるからだ。

 ドラえもんのび太の地球交響楽』というマンガ映画が流行っているが、音楽が世界中からなくなった話らしい。しかしソニーウォークマンが発明される前は、世界中がこんなに音楽で満たされてはいなかった。音楽は感覚的な刺激で、聞いていて心地よくなる刺激物なら、これはタバコと同じ合法麻薬の一種ということになる。昔会社勤めをしていたころ、新しく入った上司がBGMがないと仕事のできない人間で、閉口したことがある。多分僕は中世的人間だったのだろう。しかし、ほとんどの人は、音楽が麻薬の一種であることを知らない。昔元日の朝に、遠くから獅子舞の笛太鼓の音が聞こえてきて、家人は小銭を用意したものだ。そんな時代には音楽も珍しく、家の居間でラジオから流れてくるぐらいなものだった。音楽が麻薬なら、それには依存性があり、現代人のほとんどが麻薬中毒にかかっている。ならば現代人と中世人では、脳の構造も大分変わっているに違いない。

 「音楽療法」という療法があるが、穏やかな音楽は薄っすらとした麻薬で、患者の感情と彼が直面している精神的苦痛の間に入り込み、「安らぎ」という名の緩衝材の役割を果たす。一方、激しい音楽は興奮刺激で鬱の心に振動を与え、カタルシス効果を発揮してくれる。その両方とも緩和療法で、精神的苦痛を根治するものではない。だから、患者の心が自分の精神的疾患部分を直視するのを妨げ、強い心を培うリハビリの妨げにもなりうる。想念も精神も、心の深い部分に鎮座している。そこに入る手段は精神修養で、僕の場合は沈思黙考だと思っていたから、会社のBGMはその妨げとなって閉口したわけだ。世の中、サーフボードに乗って軽いノリで生きていくには、確かに音楽は適度な波形で支えてくれるツールに違いない。しかし音の波の緩衝材の下には、人生の荒波がある。プロのサーファーは、正の波、負の波を的確に把握して乗り越えていくが、それに必要なのは、肉体と精神の力だ。それらは鍛えなければ得られず、安らぎという逃げの姿勢ではなく、リハビリという多少苛酷な攻めの姿勢が求められる。

 「快」の環境に長く浸かっていると、物足りなくなってさらに刺激的な「快」を求めるようになる。音楽も雅楽グレゴリオ聖歌といった大人しいものから、古典を破壊した当時のロックンローラーであるベートーベン、ハチャメチャとしたパンクロックにまで発展し、会場を埋め尽くす何万人もの観客が騒ぎまくるものになっている。現代人の耳には悠長な雅楽や古典音楽は、呆れるほど退屈だ。これは音楽という麻薬の「運命」だろう。音楽は人間の脳味噌を刹那的に昂奮させ、素早く去っていく。激しさは鈍麻して直ぐに陳腐化し、聴衆は新しい激しさを求める。これをドラッグでないと誰が主張できるだろう。人々はコンサート会場に興奮するために集うのだ。だとすれば、チューリングマシンがAIの元祖であるように、ウォークマンは現代の「音楽依存症」を人類に植え付けた元祖と言うことができるだろう。音楽の音は、より激しい刺激でピュッと出る脳内麻薬の誘導振動である。そしてこれが心地良さのイニシエータならば、脳内麻薬の分泌を促進する賭博も、巷に拡大しているドラッグも、札束の山も、すべてが脳内麻薬に関わりながら世界をダイナミックに動かしていくエネルギー源なのだ。そして麻薬の常として、人々の五感はさらに強い刺激を求め続けていく。

 すべて「快」に関わるものが麻薬とすれば、そして常に人間がさらなる「快」に向かって走っていくのだとすれば、多くの人間が衝突して怪我をするのは当然だろう。「快」は「快」を生み、増殖し、他者の「快」とぶつかり合いながら血を流す。しかし地球には全人類の「快」を供給するだけの資源はない。その貴重な資源の奪い合いが、そこかしこで起こっている戦争ということになる。そしてその行き着く先が、ソドムとゴモラでないことをただ願うしかないのなら、いずれ人類は滅びることを覚悟しなければならないだろう。逃げ去る場所は宇宙しかないし、人類は常に「快」を求め続ける悲しい性(さが)を背負っているのだから……。

 

 


ショートショート

人類野生化再生プロジェクト

 少しばかり未来のこと、日本は地下と地上に分かれていた。ロボット君たちがいろんな機械を使って大きな地下空間を造ってくれて、放射能に耐えられない人たちの世話をしている。地上では放射能に耐えられる人たちが畑を耕したり、放射能に耐えられる家畜を飼ったりして、自給自足の生活をしていた。ロボット君たちは、地上の人たちを「進化系」と呼び、地下の人たちを「退化系」と呼んで、厳密に区別していた。

 進化系と退化系は行動を共にすることが法律で禁止されていた。法律はロボット君が作った。退化系の譲二は妻の彩香の出産に立ち会うため、大きな地下病院に出向いた。彩香はすでに分娩室に入っていて、譲二はガラス越しに出産の様子を見守ることにした。分娩室では3人のロボット君がテキパキと働き、赤ん坊は直ぐに大きな泣き声とともに生を得て、その場で放射能検査が行われた。ロボット君の一人が親指と人差指を丸めてオッケーのサインを送ったので、譲二は胸を撫で下ろした。赤ん坊に放射能のあることが分かったのだ。母と子は直ぐに病室に運ばれ、譲二も駆け付けた。

 譲二はマスク越しに彩香の額に口付けし、目に涙を浮かべて「頑張ったね」とねぎらった。彩香も、女の子が放射能のあることを喜んで、泣いていた。譲二はその場で、娘の名を「宇蘭」と名付けた。宇蘭はその直ぐ後に二人から取り上げられ、隔離室に運ばれていった。子供の放射能が、二人の健康を損ねる可能性があったからだ。放射能児は、法律で3カ月以内に地上の里親に預けなければならなかった。地上に行くまで、二人は我が子の愛らしい姿をモニターで見ることができた。

 現在ロボット君たちは、人類野生化再生プロジェクトを展開していた。本来地上で生息していた人間を地底人のままにしてはいけない。人類はロボット君の保護下で一生を終えるのではなく、核汚染された本来の生息地である地上に戻るべきだ。ロボット君たちは、この人類野生化再生プロジェクトのために作られたスペシャリストなのだ。

 病室に、院長ロボット君がやってきて、「放射能児のご出産、おめでとうございます」と三人を祝福し、地下菜園で育てた薔薇の花束を譲二に渡した。放射能を持つ子供が生まれる確率は10%なので、くじに当たったようなものだ。
「これであなたは、排卵が終わるまでお子さんを産む資格を得たことになります。親御さんの約9割が、初産で非放射能児を出産し、後の出産を断念なさるのですから。さあ、さっそく次のお子さんの出産に向けて、減感作療法を再開しますよ」

 医師のロボット君が、微量の放射能が入った金属製の注射器を二人の腕に刺した。この放射能が二人の体に蓄積し、精子卵子を通して次の子供に受け継がれていく。しかし9割の人たちは、夫婦のどちらかが過剰反応を起こして体調を崩すか、身体が受け入れられずに体外に排出してしまう。夫婦とも基準値まで蓄積できなければ、耐性児は生まれない。だから、妊娠21週の胎児検査で、基準値以上の放射能蓄積が認められなかった場合は、中絶を義務付けられる、しかし、夫婦ともども基準値以上であっても、また精子卵子の蓄積が基準値以上であっても、それが子供にちゃんと受け継がれているかを知るのは、初産の結果次第だ。子供が放射能を受け付けずに体外に排出して、体内放射能が基準値以上に達しなかった場合は十分な放射能耐性が身に付かず、地表に移住しても1年以内に死んでしまうからだ。

 法律では、放射能児を産めなかった人々は、新生児ともども廃人間としてより苛酷な地下空間に移住させられる。つまり人間の世界は、地獄と煉獄と天国の三つに分かれていることになる。煉獄は、譲二と彩香がいまいる地下空間だ。地獄は放射能児を産めなかった夫婦とその子供が落とされる地下空間だ。天国は、宇蘭が3カ月後に移動する地上世界だ。しかし人間が煉獄にいつまでも留まることは許されない。すべての法律は人類野生化再生プロジェクトのために作られていたからだ。

 ロボット君たちは、限られた地下空間で、地獄と煉獄で暮らす人々のために放射能汚染されていない食糧を作る必要があった。地下で食糧生産能力を上げるには、相当の労力とエネルギーコストがかかる。それで食糧生産量はほぼ横ばいの状態が続いていた。ロボット君たちはいつも地獄と煉獄の食糧配布に苦慮していた。彼らの目から見れば、煉獄は進化系人類の生産施設で、それに対する食糧をケチることは避けたかった。しかし地獄は、進化系人類を生産できない廃人間と退化系ベイビーの蟠る収容所で、極力食糧を制限する方針が取られていた。しかし退化系ベイビーたちは、地獄の中の託児所に預けられて厳しい健康チェックを受けながら、「スペア」としての待機要員にもなっていたので、託児所の食事だけは煉獄の食事と変わらないぐらいの栄養が与えられていた。

 煉獄の夫婦は妻が閉経して子供を産めなくなると、廃人間として仲良く地獄へ落とされた。人類野生化再生プロジェクトでは、進化系人類の更なる生産が求められていたので、煉獄の設備投資に重点が置かれ、煉獄の地下空間は拡大していった。しかし地獄は、主として廃人間の余生を送る場所なため、拡張はほぼ行われていなかった。10年前に、この地獄空間が廃人間で溢れて手狭になったとき、ロボット君はその解決策を見出した。廃人間の早期処分である。

 ロボット君たちは、ロボット三原則の「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という文言を忠実に守ってきたが、手狭になった地獄空間を前にして、それに反しない妙案を考案した。彼らが人類の歴史書から引用したのはヒトラーや☓☓☓☓という英雄だった。ロボット君は、人間社会においては、人間は人間を自由に処分できることを知ったのだ。そこでさっそく、地獄の住人の中から若い夫婦を選び出して地獄の王様に仕立て上げ、贅沢な部屋と食物を与え、地獄法を作らせた。それは、地獄の廃人間は、夫婦のどちらかが50歳を超えると二人とも自動的に処分されるというものだった。例外として、煉獄から落とされたばかりの人間は10年間地獄に留まることができ、50を超えても生きることは可能だ。そして、処分された廃人間の肉は、貴重なたんぱく源として、地獄用の食材に加えられることになった。王様が作った地獄法は、ロボット君にとっても一石二鳥の妙法となった。

 煉獄の拡張工事に伴い、進化系人類の生産能力が徐々に高まりつつある。ロボット君は得意な計算で、毎年プロジェクト計画に則した補充を行ってきた。地獄の保育園では、ロボット園長の祝福のもと、初潮を迎えるなど生殖能力を得た一定数の男女が結婚式を挙げ、もうすぐ処分される両家の親と涙の別れをして、煉獄に旅立っていった。彼らは煉獄で、新しい部屋と栄養に富む食事を与えられ、まずは5年間、放射能減感作療法に励んで少しずつ放射能を蓄積し、その後ひたすらセックスに明け暮れて進化系の子作りに励む。そして初産のベイビーが結果として進化系でなかった場合、「俺たちの人生は終わったな……」と落胆して地獄落ちし、もうすぐ潰される痩せた4人の両親と再開して、哀れな初孫を披露する。祖母たちは赤ん坊を見つめて微笑み、それから涙に溢れた眼を息子夫婦に向け、「お帰りなさい、お疲れ様」と呟く。もちろん、彼らの孫は第一志望の天国には入れなかったが、第二志望の煉獄に昇れる希望は残っていた。

 一方、天国へのパスポートを得た宇蘭は、生まれながらのエリートとして元気に泣きながら、里親からの連絡を待っていた。天国は、人類が本来生きていた環境が残っていて、人々は農耕を基本に平和な生活を営んでいた。いまの地上と大昔の地上との自然環境の違いは、核汚染されているかされていないかの問題だけだった。基本は自給自足で物々交換なので、地球温暖化危機からもフリーになった。もちろんAIフリーで、ロボット君もいなかった。

 天国で日々を楽しく暮らしている進化系人類は、みな穏やかな顔つきをしていた。天国の顔つきと煉獄の顔つき、地獄の顔つきは明らかに違っていた。天国の人々は幸福の中で生きている笑顔の輝きがあった。煉獄の人々は必死に生きる鋭い目の輝きがあった。地獄の人々は、諦めと絶望ですべての輝きが失せ、ドロンとした目をして顔色も悪かった。しかし天国の人々も、偶に笑顔の失せるときがあった。それは自分の血を分けた子供を持てないことへの悲しみだった。天国の人々は強い放射能環境の中で、生殖能力を失っていたのだ。だから彼らは煉獄の子供の里親になる以外に、子供を持つことができない。人類野生化再生プロジェクトでは、人間は天国に住む人々に限定されていた。ならば煉獄の人々も、地獄の人々も、人間というよりは、人間を造るツールに過ぎなかった。昔、労働者が国や資本家の繁栄に資するツールに過ぎない時代があった。その時代に鑑みれば、煉獄の人々は労働者、地獄の人々はホームレスと言い直すこともできるかもしれない。

 ようやく天国の里親が決まって、宇蘭が里親に引き渡される日が来た。ロボット君は宇蘭を抱いて、地上に昇って行った。譲二と彩香も面会用の別のエレベータで昇った。ドアが開くと、そこはガラス張りの面会室になっていて、ガラスの向こうに宇蘭を抱いた里親の、喜びに溢れる顔があった。ロボット君が譲二たちに顔を向け、「さあ、ご自由にお話しください」と促す。里親の両親は宇蘭を抱いて近付き、ガラス越しに「本当にありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
「出産、大変だったでしょう」と奥さんがねぎらう。
「いいえ、これから何人も産まなければなりませんもの」と彩香は返した。
「あなたのお子さんをみんな預かりたいけど、子供のいない家庭が多すぎて、当分一家族一人と決めれれているの。残念ですわ。兄弟がいた方がいいですものね」
「その代わり、この子はお二人の愛情を一身に受けて育ちますわ」と言って、彩香はさみしそうに笑った。
「私たちだけじゃなく、我々四人の愛情を受けて育つんです」と進化系の夫。
「僕たちの愛は弱いな。画面でしか会えませんから……」
 譲二は視線を宇蘭に向け、苦笑いした。
「いずれにしても地上は天国なんだ。宇蘭ちゃんが不幸になることなんか、絶対にありませんよ」
「お願いします。宇蘭を幸せにしてやってくださいね」と彩香は念を押した。 

 譲二と彩香は、遠くの美しい山に向かって新しい両親とともに宇蘭が去っていく姿を見送り続けた。周りは一面の菜の花畑だった。美しい山は白雪を戴いた富士山だ。その白雪は、夜になるとオーロラのように薄青く輝いた。
「嗚呼あの雪山、昇りたかったなあ……」
「あら、あなたの趣味は洞窟探検じゃなかった?」
 二人は肩を寄せ合い、笑いながら地下奥深くへと戻っていった。

(了)

 

 

 

 

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エッセー「 ゴジラ、悲しき道化師」& ショートショート 「ブラック・マウンテン」

エッセー
ゴジラ、悲しき道化師

 大分昔、手に火傷をしたら食用油をかけろというのが医学常識の時代があった。僕が上野の飲み屋で酒を飲んでいたとき、店員が熱い油を手にかけ火傷をした。僕は「早急に患部を冷やせ」という新しい医学常識を知っていたから、直ぐに水をかけろとアドバイスしたが、彼は酒に酔った僕をジロッと見て、「騙されはしないぞ」といった顔付きで薄笑いしながら横の油をかけ始めた。僕は気分を害し、それ以来その店には行っていないし、彼の火傷がどうなったかは知らないが、きっと病院に行ったら「何で直ぐ水をかけなかったんだ」と怒られたに違いない。そういう医者自身、その数年前までは水をかけたら「何で油をかけなかったんだ」と怒っていただろう。

 僕は若い頃喘息だったが、当時は発作が起きたら直ぐに気管支拡張剤をスプレーしろというのが常識だったし、日頃から予防的にスプレーしろという医者も多かった。しかし、それで多くの子供が心臓発作で死んだため、そんな学説はお蔵入りになってしまった。このように医学界の常識は5年ごとに変わるので、気を付けた方がよい。僕は病気療養中の身だが、手術をしたあくる日に病院の廊下を歩かされたし、退院しても積極的に足を動かせと言われている。しかしひと昔前は、病人は絶対安静というのが医学界の常識だった。

 そんなわけで、数年後には絶対安静が復活する可能性はあるものの(寄る年波で)、いまのところ僕は医学界の常識に準じて、一週間のうち2、3回は近隣を散歩している。僕の病の副作用は金欠症で(実際、菌血症に度々罹る)、少しの散歩で息を切らせるから働けるはずもなく、この歳では求人もないし、悠々自適の振りして生きることに決めた。鴨長明吉田兼好のような偉人たちの清貧な生き様に無理やり憧れれば、残された時間をなんとか楽しく過ごせると思っているだけの話だ。

 それで数日前、いつもの川の堤に植えられた桜並木を散歩していたわけだが、突然、桜の幹が結構グロテスクなことが気になった。まさか木の根っこに嘔吐したサルトルじゃないし、ゲシュタルト崩壊でもないだろうが、異様な姿の幹たちに異様な感覚を抱いたことは確かだ。きっとそれは、冬の桜は花もなく葉もないから、鑑賞の視線が枯れ枝か太い幹しかなかったからだろう。若い桜には桜細工に見られるような美しい部分もあるが、老木になるにつれ、その肌はサメ肌を通り越し、ゴジラのような荒々しい肌に変わっていく。

 ゴジラがなぜあんな肌をしているのか、映画監督の気持ちが分かった気がした。監督は観客の恐怖感を駆り立てるべく、愛嬌ぎりぎりのグロテスクな怪物を創りたかった。グロテスクの語源は「洞窟的」という意味だが、ゴジラが海底の穴蔵から発生した生物である限り、人々に不快感をもたらす制御されないカオスの宿命を背負って、地上に出てこなければならなかったはずだ。そして彼はカオスを表現した肌で、破壊と発生を繰り返すカオスの力をもって、戦後に復興されつつある都市を思う存分に破壊し、逃げ惑う人々とともにカオスの世界に再度引き戻していく。東京大空襲の再現である。しかしゴジラはカオスだが乱暴なアイドルだ。

 ゴジラは破壊者だが、毎回作者は何らかの意味合いを彼に与えて、現在の統制された世界に生きる我々に伝えようとする。観客は怪獣のその意味合いと細い糸で結ばれたときに、恐怖を超えたある種の共感や親近感が生まれて彼は悲しき負のアイドルとなり、人々は次なる作品を期待することになる。まるで中世の貴族が、王様の城にある洞窟風の広間を見るように、趣味を超えたある種の不可解な宿命を感じる。破壊(消滅)と再生(発生)は、鶏が先か卵が先かの問題で、その本質はグロテスクな洞窟色を帯びていて、それが世の中のベーシック・カラーであることを知っているからだ。桜の肌もゴジラの肌も、きっと年寄りの肌も同じ色合いをしている。そしてそれは恐らく、実際は繊細な中心部を包み込む、頑丈なプロテクターであるはずだ。本質的に生き物の皮は、外界を敵と見なした設計になっていて、周りを威嚇する。そしてそれにガードされる中身には、ゴジラも桜も人も、悲しい生き物の宿業が体液となってうっすら流れている。  

 外皮は外部から数多くのカオス的攻撃を受け、傷の修復を繰り返しながらカサブタを重ね、黒染みでくすんでいったに違いない。僕の皺だらけの褐色肌も、桜やゴジラと同じに、長年多種多様な外部攻撃を撥ね退けてきた結果だ。しかし敵は外だけでなく、病気の多くは内側から発生する。これには誰も勝てないし、皮の外側からはなかなか分からない。ゴジラに内なる病気があるとすれば、それは映画館を埋め尽くす観客の「破壊願望」や「死の欲動」の吐息を敏感に察知して暴れ回る、確信犯的ショーマンシップに違いない。ゴジラは結局ピエロ的なゆるキャラで、監督という調教師の鞭のもと、観客の受けを常に気にして暴れまくる。そして映像の中で都市は存分に破壊されるが、これには三種類の破壊様式があるだろう。

 再生や復興は、破壊がなければ始まらない。例えば「スクラップアンドビルド」という言葉があるが、それは効率の悪くなった古い設備を壊して新しい設備に替え、会社や産業界、国、さらには世界を発展させていこうという意味合いが含まれている。だから日本語に訳すと、「創造的破壊」という言葉になる。この意味は「自らを破壊して新しい自分になること」だ。それは、蛇や昆虫が脱皮して、大人に成長することと同じ意味合い、あるいは自らが成長するために自らに試練を与えることと同じ意味合いになる。昆虫の脱皮は、創造的破壊なのだ。

 しかし、個体は必ず老化して死を迎える。蛇も昆虫も人間も、個体としては死んでいく。だから彼らは必死になって、子孫を残そうとする。雄と雌が交わって子供をつくり、その子供たちは種を継続させていく。この繰り返しが世界のどこかで続いていく限り、蛇も昆虫も人間も、進化というイメチェンはあるにせよ、滅亡することはないだろう。彼らが創造的破壊を繰り返す限りにおいて、彼らが滅亡することはないはずだ。

 ところが、破壊には創造的破壊の他に、「再生的破壊」というものがある。それは地震や噴火、気候変動などの天変地異による破壊、種間闘争による破壊、同種内闘争による破壊等、自らの意思ではなく、自然の意思、他者の意思による破壊で、これは自らが望んだものではなく、悲劇性を伴っている。相手が自然であれ他者であれ、崩された積み木を再び積み上げ、シジフォスのように転がり落ちた岩を再び山の上まで運び上げなければならない。戦後復興も、震災復興も地球上のどこかで、毎年のように繰り返されている。

 人間に限らず、地球上のあらゆる生物が創造的破壊と再生的破壊を繰り返しながら、種を継続させてきた。そして再生的破壊の場合は、その破壊力が再生力を上回ったとき、その種は絶滅することになる。これが「絶滅的破壊」だ。レッドデータブックに入れられた生物の多くが、人の手を借りなければ、自らの再生力を発揮できずに滅んでいく。ウクライナアメリカの手を借りなければ、滅ぶだろう。そして人類もレッドデータブックに入れろと主張する学者も出てくるわけだ。その理由はもちろん、科学のパワーが創造的破壊の域を越えて、いまや再生的破壊も通り越し、絶滅的破壊の域に達してしまったことによる。その象徴的存在がゴジラであることは明白で、もはやゆるキャラゴジラは文明終焉の象徴ということもできるだろう。彼は核の象徴で、核は絶滅へ向かう手段だからだ。

 創造的破壊の最終目的は世界の発展だ。その理由は、創造的進化が人類すべてに寄与すべきものだからだ。しかし「アメリカファースト」「東京ファースト」という言葉があるように、人類の共通資産である創造性は地域に分散させられ、その地域が覇権争いのツールに利用してしまっている。そしてその覇権争いの結果が、ウクライナパレスチナに見られる戦争や紛争で、これらがいずれ終結するのであれば、人災による再生的破壊に分類され、和平後には再生が試みられることになる。再生的破壊がもたらす人類の悲劇は、一部地域に限定され、多くの無関心者がその悲劇を無視することも可能だ。しかし、プーチンがチラつかせる核戦争となると、話は違ってくる。核は「絶滅的破壊」のパワーを秘めているからだ。

 水爆は、大量の人間を一瞬で殺すために創られた破壊兵器だ。それは人類に貢献するのではなく、〇〇ファーストに貢献する発明品で、ロシアがそれを使えば、「ロシアファースト」の理想を具現するためということになる。当然のこと、ロシアの核使用が導火線となり、「アメリカファースト」「イギリスファースト」「〇〇ファースト」の国々が連鎖反応的に核ミサイルを打つから、人類は絶滅の危機に陥ることになる。

 ゴジラは度重なる水爆実験の申し子として、眠っていた水生恐竜が核パワーを全身に漲らせて再生した。人類は必死の抵抗で、最終的にゴジラの体を粉々にして退治した。しかし、洞窟の天井からは石灰水が滴り、知らぬ間に成長して、更なるグロテスクを生み出していくように、肉片となったゴジラは、いまもどこかの海底でG細胞を使ってヒトデのように再生を始めており、次作で再び暴れることになる。80億の人類一人ひとりを、必死に生きようとする細胞に譬えることができるように、G細胞もまた、生き物である限りは、殺されても生への執着心は失わず、必死に再生しようとする。その生命力は木々の執念と変わらない。切り倒された大木は、切り株から芽を生やし、いずれ大木に再生する。

 桜たちも人々の知らぬ間に、生き残るために成長を続けている。けれど美しい花を咲かせるソメイヨシノゴジラと同じに、人間の手で創られたものだ。ゴジラソメイヨシノも自然交配によって子孫を残していくものではない。ゴジラは人間の創った「水爆」の力を借りてパワーアップし、トカゲの尻尾みたいな再生力で何度も生き返り、鬼っ子となって人類の悲劇性を訴えるが、残念ながら観客はそれに破壊願望の満足感で応える。一方ソメイヨシノは、人の意思がないと増え続けることはできない。風の力で思う存分花粉を振り撒く自由を、美の代価として江戸の昔に奪われた哀れな植物だ。その哀れさは、恐らくゴジラの出生の秘密と重なり合うところがあるだろう。人類はゴジラも桜も、自らの滅亡手段も作出した。

 彼女たちは植物の性(さが)とも相まって、ゴジラのようには自力再生できずに接ぎ木されて、人々の気まぐれの場所に植えられていく。坂口安吾は満開の桜の不気味さを描写したが、川沿いに整列させられた花も葉もない桜たちを見ると、鎖に繋がれ引かれていく奴隷たちの哀れな姿を連想させられる。満開の桜も、川端のソメイヨシノも、きっと何か不気味な信号を発して訴えているが、人間たちの耳には聞こえない。しかし神から運動能力を与えられたら、ゴジラのように大暴れを始めるかもしれない。「何で惨めなゆるキャラをつくったのよ!」

 ソメイヨシノの美しい花弁は、人間を喜ばせるだけのものだ。恐らくゴジラソメイヨシノも、人の欲得から派生した幇間(ほうかん)の悲しみを背負いながら、ひょっとこの面を被って悦楽の中で踊る気まぐれ人たちが、酔いしれて倒れるまで、生き死にを繰り返すに違いない。それが続けば続くほど人類の滅亡は先延ばしされ、レッドデータブックから除外されることもないだろう。どこの奴らがしぶとく生き残るかの問題だからして……。

 


ショートショート

ブラック・マウンテン

 夫婦は遠いピルモントから汽車に乗って、この地にやってきた。昔、カーリュの終着駅は外国の駅と繋がっていたが、最近大きな戦争が起きて、カーリュ川に架かっていた鉄道橋が爆破され、そのままになっている。この戦争で、ピルモントの子供たち130人が敵軍に拉致されていなくなった。その中に一人息子のプルーニャも含まれていた。

 妻はプルーニャの失跡後、一年経った春の夜に気が触れた。彼女はもう、プルーニャのことしか考えなくなった。一日中、プルーニャプルーニャと小鳥のように口走り、家の中で泣いていた。妻が手にするものはすべてがプルーニャだった。彼女は家事も料理もしなくなったので、夫は仕事が手に付かなくなった。彼はプルーニャの代わりに、捨て犬を拾ってきて妻に与えた。妻は子犬をプルーニャと呼んで、息子のように手厚く世話をするようになった。犬のプルーニャは子供部屋をねぐらに、部屋に残るプルーニャの匂いを嗅いで育った。

 犬のプルーニャが二歳になった春、妻は愛犬とともに家出をした。夫はそれを予測していて、あらかじめ親類から旅費を借りていた。夫は納屋に置いていたリュックサックを背負い、まずは敵国の方角に向かった。そうして細い畑道を犬と一緒にとぼとぼ歩く妻に追い付いた。
「ばかだな、なぜ一人で出かけるんだ?」
「プルーニャと一緒よ」
「そうだったな。じゃあ、家族でプルーニャを探しにいこう」

 プルーニャは率先して夫婦を導いていった。細い畑の道は、敵の敷設した地雷を踏む危険があったが、二人はすっかりプルーニャを信じていたので、気にすることはなかった。妻はプルーニャを息子の化身と思っていたし、夫は妻の行動から奇跡が生まれると信じる以外に、息子と再会する方法を見出すことはできなかった。プルーニャは二人を先導するガイドのように、途中で迷うこともなく、東に向かって進んでいく。すると畑の道は終わり、軍用トラックの行き来する国道に出た。

 一台のトラックが停まって、運転手が側道を歩く夫婦に声を掛けた。
「乗ってくかい?」
 妻は息子の残り香が途切れてしまうことを恐れたが、プルーニャが前輪に前足を掛けたので、息子の導きだと思った。二人は助手席に乗り、夫はプルーニャを膝に乗せた。運転手は「どこへ行くんだい?」とたずねた。
「分からないんだ。この犬に付いて行くだけさ」と言って、夫は悲しそうに微笑んだ。プルーニャは、窓からしきりに外を眺めていた。それを横目で見た運転手は、「どうやらこの犬は、ここいら辺の景色を知っているようだな」と呟いた。すると妻が、「プルーニャは他の子とトラックに押し込まれて、ここを通ったのよ」と答えた。
「犬殺しの車かい?」
「いいや、人さらいの車さ」と夫が言った。
 運転手は舌打ちして、「奴らに連れ去られた子供たちのことかい?」と聞いた。
「そうだ。親たちはうろつく以外に何もできないんだ」
「嗚呼……」

 運転手は溜息を吐く以外、返す言葉を見失った。その時、プルーニャがワンワンと吠えたので気を取り直し、「どうやら近くの駅に降ろしてくれと言ってるようだぜ」と妻に向かってウィンクした。そのとき運転手の閉じた目じりから涙が流れ落ちた。夫婦は駅まで送ってもらい、運転手は「グッドラック」といって国道に戻っていった。二人と一匹はそこから汽車に乗った。きっと息子のプルーニャも、同じように汽車に乗せられ、カーリュ川を渡っていったに違いない。

 プルーニャは、線路の横の小道を進んでいった。すると遠くに橋のアーチ部分の鉄柱が三本だけ、残骸となって立っているのが見えた。プルーニャは脇道に逸れて、河辺の方に向かっていった。そのとき、口笛で一斉に囃し立てるような鳴き声がして、バタバタとシギの群が草むらから飛び立った。「子供たちが喜んでいるわ」と妻が呟く。夫にはその羽ばたきが、何か場違いな場所に足を踏み入れてしまったような気にさせ、胸騒ぎがした。

 案の定、兵隊が三人、銃を構えてやってきた。夫婦が丸腰なのが分かると、兵隊は銃を下に向け、「こんな危険な場所で犬の散歩かい?」といってシギのような口笛を吹いた。
「ここはそんなに危険なのかい?」
「どこに地雷があるか分からないさ」と仲間が答えた。
「僕は妻と、敵に連れ去られた息子を捜しに来たんだ」
 すると三人とも悲痛な顔つきになって、一人が「ピルモントの子供たちかい?」と聞く。
「そう、僕たちのような連中がここに来るのかい?」
「ああ、よく来るんだ。しかしあの橋を見て、肩を落として帰っていくのさ」
 橋げたはほぼ落ち、遥か遠い向こう岸に向けて、橋脚だけが手持無沙汰に整列している。
「息子たちは汽車に乗せられて、この橋を渡っていったわ……」
「あんたたち、政府から話は聞いていないのかね?」
「政府に問いかけても、まだ見つかっていないと返してくるだけさ」
 兵隊の一人が「じゃあ付いて来いよ。政府より詳しい奴を知ってる」というと、兵隊たちは踝を返して、道を下り始めた。百メートル以上離れた草むらに対岸から飛んできた砲弾が着弾し、大きな音と煙が舞い上がった。兵隊たちと夫婦と犬は、耳でも遠いように何の反応も起こさなかった。一人が後ろを向き、「時たま爆弾が飛んでくるが、運が良ければ当たらないさ」といってニヤリと笑う。

 葦で覆われた川辺に、転々と迷彩テントが張られ、その一つの前に三人は止まって、「隊長、お客さんです」と声を掛けた。中から上着を脱いだ黒シャツの中年男が出てきて、夫妻を睨みつけ、「ここは戦場だ。民間人が来る場所じゃない」とたしなめた。
「ピルモントの子供たちの親です」と兵隊がいうと、隊長は急に悲しい顔つきになって、「さあ我が家にどうぞ」と夫婦をテントに誘い入れた。

 テントの中は、簡単な調理道具と食糧品以外は、寝袋があるだけだった。隊長は寝袋の上に座り、夫妻は草の上に敷かれたシートに座って、互いに挨拶した。
「俺はここに来た五十組近くの親に、子供たちのことを話してきたんだ。政府はかん口令を敷いてるが、俺はそんな命令に従う意思はない。だから、あんたたちに俺の知っていることをすべて話そう」といって、隊長は汚い金属製のコップにポットのコーヒーを入れて、妻に差し出した。妻はそれを夫に渡し、夫は思い切り飲み干した。

 「あなたはプルーニャがここに来たことを知っているのね?」
 妻がたずねると、隊長は頷いた。
「あんたたちの子供があのピルモントの子たちの中にいたなら、答はイエスだ」
「ピルモントの子たちは汽車に乗って、この橋を渡っていった?」
 夫がたずねると、隊長は頭を横に振った。
「渡っていったことは事実だが、渡り切れたかどうかは分からない」
 隊長は曖昧な答え方をしたので、「それはどうして?」と妻は言ってプルーニャを強く抱きしめた。

「戦争だからな。すべてが混乱している。俺の部下だって、戻ってこなければ少しは捜そうとするが、あくる日には諦めてみんな各自の任務に専念する。死んだのか脱走したのか、そんなことは分からないのさ。そいつが帰ってこなければ、どちらかと思って、諦めなけりゃならない」
「しかし、怪我をして苦しんでいるとすれば?」と夫が聞いた。すると隊長はきつい目をして「ここはそんな想像を働かせる場所じゃないんだ。敵の殲滅を想像するだけで目一杯さ」と続けた。
「しかし、あんたたちの子供が置かれた状況を話すことはできる。俺はそれ以外、何の手助けにもなれない。俺の話は、あんたたちの子供を助ける話じゃないし、希望を持たせる話じゃないし、絶望的な話でもない。何の解決ももたらさない話さ。いや、あんたたちの希望を半分削ぐような話かもしれない。それでも聞きたいなら話そう」
 二人が無言で頷くと、隊長は語り始めた。

 「あの橋を見ただろ。あれは30年前に橋向こうの国との友好を祝って造られ、鉄道で行き来が始まったんだ。橋の真ん中から向こう側はあいつら、こちら側はうちらが金を出して、両国の土建屋が一緒に造って開通した。ところが5年前に、あっちの国のおかしな野郎が大統領になって、こっちの国のここら辺はあっちの国の領土だとわめき出したのさ。それで3年前に突然、こっちの国に戦いを仕掛けてきた。あまりに突然だったので、我が軍も準備ができておらず、後退に後退を重ねて、あんたたちの住むピルモントまで取られちまった。しかし我が軍は相手が思ったほど弱くはなかった。徐々に劣勢をばん回して形勢を逆転し、橋の向こうまで追い返すことができたんだ」
「あんたら命知らずの英雄のおかげさ」と夫が合いの手を打った。

「しかし、市民にもそれなりの犠牲があったさ。形勢が悪くなった奴らが後退するとき、手土産にいろんな財産を略奪し、その中に可哀想な子供たちも含まれていたんだ。あいつらは子供たちを兵隊に育てて、俺たちと戦わせようとしたのさ。いや、きっと撤退時の盾にしたかったんだ」
「この橋はいつ頃壊されたんだい?」と夫が聞くと、隊長は眉間に皺を寄せ、悲痛な面持ちで呟いた。
「悲惨なことに、橋は奴らが撤退するときに合わせて爆破された」
「……ということは」
「俺のせいじゃない。俺たちは、橋を爆破するから爆弾を仕掛けろと命令されたんだ。それで夜中のうちに橋の至る所に爆弾を仕掛けた。奴らは16両編成の汽車に、略奪品や傷病兵を含めた多くの敵兵が乗って、撤退の準備を始めているという話だった。司令部が言うには、途中で汽車を攻撃すると、敵兵は蜘蛛の子を散らすように付近に逃げ出すから始末に悪い。橋の上で汽車ごと川に落とせば、住民の被害も抑えることができるというわけだ。しかし、俺たちは知らなかったんだ。恐らく、上の連中も知らなかったに違いない」
「何を!」
 急に妻が大きな声を発したので、隊長は叱られた猫のように首を縮め、下を向いて呟いた。
「子供たちが途中で乗り込むなんて、誰も予測できなかった……」

 妻は大声を張り上げて泣き出し、プルーニャはクンクンと妻をいたわり、頬の涙を舐めた。夫は無言のまま震えて、涙を流していた。それを見て隊長は気を取り戻し、牧師のように背筋を伸ばして説教を始めた。

「俺は訪ねてくるみんなに言ってるのさ。神を信じなさいと……。長い汽車が鉄橋に掛かったとき、先頭から半分までは、川の真ん中の国境を越えていた。そっちに爆薬は仕掛けていなかったのさ。俺たちは、前の半分を爆破すれば、汽車の惰性ですべてが川に落ちると考えていた。しかしスイッチを押すのが遅れて、後ろ半分が爆破され、川に落ちていった。前の半分はそのまま逃げおおせることができた」

「もし前の半分に息子が乗っていたら……」
 夫は声を震わせながらたずねた。
「敵国のどこかで生きているはずだ。あんたたちは、それを信じるべきだよ。俺たちは毎日のように仲間が死んでいくのを見ているんだ。奴らは天国から俺らを見守っている。しかし、俺は死ぬまで仲の良かった連中と再会することはないんだ。あんたら息子さんと再開したいなら、生きていることを信じるんだ」
「でも私がここで死んだら、いずれは再会することができるのよ」

 何の抑揚もない妻の言葉に二人は驚き、顔を見合わせた。隊長は笑い飛ばすように「ばかな」と返し、「いつ死のうが、いずれは会えるさ」と続けた。
「しかし俺は死なないようにしている。俺は大切な兵力なんだ。死んじまったら、国のためにならないからな。仮にあんたらの子供が50パーセントの確率で生きていたなら、再会するまで、あんたらは死ねないんだ。だって息子が悲しむのは嫌だろ。つまり、息子が100パーセント死んだと分かるまでは、あんたらは死ねないことになる。ならば、仮に一生会えなかったとしても、あんたらは人生を全うすることになる。長い人生なら、悲しい息子と暮らしちゃだめだ。幸せな息子を思い浮かべて夫婦で共有し、思い出の中で楽しく暮らしていくのさ。俺はいつも、死んだ仲間と夢の中で冗談を言い合ってんだ。もちろん、軍服なんか着ちゃいない。みんな、思い出に助けられて生きていくのさ」
「私の思い出はこの子」と言って、妻はプルーニャの垂れた耳にキスをした。

 夫婦がテントから出ると、プルーニャはしきりに川のほうへ行きたがった。隊長はそれを見て、「あんたらの上官が、敵陣へ潜入せよと命令しているぜ」と言って笑った。
「どうやって行けばよろしいの?」
 妻が真剣な眼差しでたずねるので、隊長は慌てて訂正した。
「渡れば、たちまち捕まって牢屋行きだ」
「構わないわ。だって、息子のプルーニャがママ来て、ママ来てって叫んでいるんだもの」
「この犬の命令は、あなたの上官の命令に等しいんだ」と、夫も妻の味方をする。隊長はしばらく呆れた顔をしていたが、「まるで軍隊のようだな」と苦笑いした。
「軍隊では上官の命令は常に苛酷だ。確かに俺たちは敵軍を敵国に追い返した。しかし上官は、それだけじゃ満足せず、兵隊をだらけさせないために次なる命令を下す。今朝受け取った命令は、向こう岸の敵陣に夜襲を仕掛けることだ。奴らは再びここを侵略しようと準備を始めている。そいつをいまから叩き潰そうっていう作戦だ」
「……ということは」
「そう、今夜5艘のゴムボートで川を渡り、敵地に潜入する。命を捨てる覚悟があるなら、あんた方を同乗させてやってもいい。あんた方が味方のスパイだと俺が言えば、きっと許されるだろう。しかし犬はダメだ。いつ吠えるか分からないものな」
 夫は無言でプルーニャに「吠えろ!」と言うと何度も吠え、今度は「黙れ!」と言うとピタッと止まった。それを見た隊長は「了解だ」と言って犬の頭を撫でた。夫婦は小さなテントをあてがわれ、水や夕食すら供給された。そして午前零時を過ぎた頃、呼び出された。

 夫婦は、隊長を含め5人の兵隊が乗るゴムボートの真ん中に乗せられ、向こう岸に着くまで顔を伏せていろと命令された。兵隊は全員黒いドーランを顔に塗っていた。隊長を除いた四人がパドルを漕いで、隊長は暗視ゴーグルで対岸を見つめていた。ボートは橋から大分下流に流されて対岸に着いた。兵隊が3人ボートから降りて、腰まで水に浸かりながらそいつを岸まで引いていった。水際で全員が降りてボートは葦の茂みに隠され、隊長は夫婦に「グッドラック」と言って軽く敬礼し、兵隊たちは全員攻撃目標の方角に消えていった。

 葦の切れ目までプルーニャを抱いていた夫は、そこから草むらに降ろしてリードを握った。プルーニャは探知犬のように付近の臭いを嗅ぎながら暗闇の中を進んでいき、ハアハアと土手の急勾配を登っていったので、二人も息を切らせた。すると崖の上に、月明かりに光るアスファルトの道が現れた。この道を橋に向かって進めば、流された分を取り戻すことができる。川と反対の崖下に、数軒の人家の屋根が光っていた。しかし暗闇の中でも、崩れていることがはっきりと分かった。おそらくここら辺の住民は、安全な場所に疎開したに違いない。突然プルーニャが、廃屋たちの方向に向かう下り道を降りようとしたので、二人は戸惑った。「なぜプルーニャはこんな寂びれた村の田舎道に降りようとするんだろう……」

 二人はプルーニャが前半分の車両に乗っていて、川に落ちることなく遠くの大きな町に連れていかれたと信じていた。道の分岐点に表示板が立っていて、「ブラック・マウンテン」と書かれている。妻が震え声で「あそこだわ」と呟いた。「ああ、楽しい思い出の場所だね」と夫も呟いて、妻の額にキスをした。昔、二つの国の関係が良好だったとき、夫と身ごもった妻がこの地に遠足に来たことがあった。
「あの頃は幸せだったわ……」
「僕たちのプルーニャは、君のお腹の中で眠っていたね」
「私たちのプルーニャ、私たちの赤ちゃん……」
 妻は嗚咽しながら、夫の胸にしがみ付いた。

 そのとき、森の向こうで何かが光り、大きな爆発音がした。驚いたプルーニャがワンワンと吠え立てる。しかし、廃墟となった家々からは誰も出ては来なかった。彼らが石油タンクでも爆破したのだろう。炎の光が雲に届き、照り返しで村の道がくっきりと浮かび上がった。
「手を繋いでこの道を降りていったね」
「あそこの店でソフトクリームを買ったわね」
 二人が手を繋いで店の前を通ると、家屋は崩れ、道沿いに埃をかぶったカウンターが残っていた。妻はカウンターに転がっていたコーンを二つ拾い、一つを夫に渡した。
「私とあなたとプルーニャの幸せに乾杯」
 コーンはたちまち粉のように崩れて、二人の手から逃げていった。二人が足元を見ると、照り返しで石畳のすべてがオレンジ色に染まっていた。

 ブラック・マウンテンは崩れ果てた村の名前であり、その奥の小さな山の名前でもあった。山全体がはんれい岩でできていて、所々に大きな岩が転がっている。道は村を過ぎると急に登りとなり、岩々の間を縫うように山頂に向かう。300メートルの展望台からは、カーリュ川やその周りの広大な穀倉地帯を見渡すことができた。プルーニャに導かれながら登るほどに、二人の心に乗っていた重石が徐々に小さくなっていくような感じがした。頂上まであと10メートルのところで遠くの炎が消え、急に辺りが暗闇になった。月も星も、すっかり雲に隠れてしまっていた。

 そのとき、夫婦は奇跡を見た。目の前の大岩が急に光り出し、大きな穴が開いた。驚いたプルーニャがワンワン吠えながら、夫がリードを落とした隙に穴の中に駆け込んだ。夫は慌てて穴に入ろうとして、中からの風に押されて尻もちをついた。妻が夫に駆け寄り、夫の肩に両手をかけて跪き、喜びに満ちた顔で「アーメン」と唱えた。夫は手を合わせて「アーメン」を復唱した。

 プルーニャはプルーニャに抱かれていた。そこは青空の下、一面の花畑にプルーニャを真ん中に、多くの子供たちが集っていた。
「お父さん、お母さん、心配しないで。僕たちはいま、天国で遊んでいるんだ。安心して戻ってください。死んだ人たちはまた起き上がり、その祝福された日に、再び天国で会えるんですから。その前にお父さん、お母さんにお願いがあります。僕たちと一緒だった友達が、地獄のようなそちらの世界で、いまも苦しんでいるんです。お父さん、お母さんはその子たちを連れ戻し、本当のお父さん、お母さんの許に返してやってください」

 プルーニャはプルーニャを放し、ワンワンと吠えながら、再び夫婦の許に帰ってきた。するとたちまち天国は消えて黒々とした岩肌に戻り、それに代わって山の裏から金色の光が昇り始めた。二人はスッキリとした気分になって展望台に登り、朝日を浴びながら、豊富な水をたたえるカーリュ川と、どこまでも広がる豊かな国土を見下ろした。
「さあ、プルーニャにまた会うまでに、やらなければならない仕事ができたわね」
 妻は昔のように心を弾ませながら、プルーニャの前に立って山道を下り始めた。

(出典:能『隅田川』及びB.Britten『Curlew River』)

 

 

 

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エッセー「 トロイメライ」& ショートショート「 黄金姫」

エッセー
トロイメライ
I Have a Dream

 シューマンピアノ曲集『子供の情景』に、『トロイメライ(夢想)』という曲がある。誰でも一度は聞いたことがある名曲だ。『子供の情景』は、恋人であるクララの父親が二人の結婚に猛烈に反対していた時期に、彼女から「時々あなたは子供に思えます」と言われたのをきっかけに作曲した小曲の中から、13曲を選んでまとめたものだ。彼は自分の子供時代を夢想してこの曲集をつくったらしいが、きっと相手の父親と裁判までして結ばれるという骨肉の争いの中で、あの幼少期の穏やかな情景を懐かしんだからに違いない。クララは勝気で情熱的な女性だったから、自分の父親に毅然として立ち向かう夫を願い、励ます意味で「あなたまだ子供ね」と言ったのかもしれない。

 トロイメライのまどろむような緩やかな旋律の背景には、安定した平和な世界が横たわっている。もしシューマンが戦乱期に生まれていたならば、大人になってから、子供の夢をあんなゆったりとした旋律では表現できなかっただろう。戦争は乳幼児にも容赦ない。雨あられのように降ってくる爆弾の音に驚いて泣き出すと、今度は敵に知られまいと、自分の母親が汚れた手で口を抑えにかかる。沖縄戦では、それで死んだ赤ん坊がいた。いまでもウクライナパレスチナで多くの子供たちが同じように爆音に驚き、世界は何もできずに手をこまねいている。しかし、そんな悲劇的な状況を退けてトロイメライを考えると、それは人生で最初に見る夢の揺籃のメロディに思えてくる。母親から十分に乳をもらった後に見る夢のまどろみだ。そして人間は、このとき味わった満足感を心に刻印させ、死ぬまで持ち続け、憧れる。トロイメライは、〝自己満足〟だけに特定された「口唇期」に見る夢なのだ。 

 乳幼児期には、子供たちはトロイメライのような漠とした夢を見ていたが、そこから新たな夢が発芽し、成長するにつれて目的を持った夢を見るようになる。最初は母親の夢やお伽の国の夢、王子様や王女様の夢を見ていたが、次第に周りから「君は大人になったら何になりたい?」などと質問されるようになり、戦時中の男の子なら「兵隊さん」、女の子は「ナイチンゲール」、平和時の男の子は「サッカー選手」、女の子は「アイドル」などと答えるようになる。しかしこの世の中は、「大人たちがなぜこんな質問をするのか」、ということを曖昧にしている。夢を見ることは、世の常識であるからだ。大人たちは暗に、子供たちが社会のためになる大人になること、食っていけることを期待して、この質問を子供にぶつけるのだ。仮に子供が「怠け者になりたい」とか「ヤクザになりたい」とか答えたら、目を丸くして怒るだろう。怠け者もヤクザも反社会的な人間だ。この国に生まれたすべての子供は、この社会に貢献するために生まれたのだとすれば……。ならば怠け者やヤクザはいったい何だろう。それは恐らく、この社会が未来に向かって伸びていくべきレールから外れ、落ちこぼれた人間に違いない。

 しかし大人たちは、自分たちの見る夢が、トロイメライから派生したものであることを忘れている。それが自己満足の塊で、直ぐに玩具の取り合いに展開したことを忘れてしまっているのだ。じゃあいったい、この社会のレールは誰が敷設したものなんだ。まさか神様ではないだろう。いろんな夢を心に抱いて、すべての子供たちがこのレールに上に置かれた乗り物に乗って、自分の夢見る未来に向かって走り出す。しかし激しい競争の中で、多くの子供たちが落ちこぼれて落胆し、気を取り直して別の目的地行きのバスに乗る。あるいはそれも叶わずに、とぼとぼ怠け者や反社会的な人間になるのかは、ケースバイケースということになる。

 このレールは、あくまで生まれた国の社会基盤の一つなのだ。どんなに大きな夢を持とうが、レールがなければ敷設することから始めなければならない。それを敷設するのは政府の役割だ。すでに敷設済みのレールも、例えば民主主義国家では、国民の多数決の意見が選んだ政府が敷設したものに違いない。権威主義国家では、王様の御意思で敷設されたものに違いない。だとすれば、その多数決や王様を嫌う怠け者やヤクザは、「落ちこぼれ人間」と単純に揶揄してもいいものだろうか。むしろ、この社会システムから生み出された教育の枠にはめられて、盆栽のように矯正された結果として心身を阻害され、失念のあまりに落伍した人間かもしれないではないか。そう考えれば、彼らの首を社会が絞め続けた結果、落ちていったという悲惨なケースもあるに違いない。

 政治に無関心な人々には、我々の選んだ政府の引いたレールがどこに向かっているのか知らない場合がある。政府が秘密裏に、おかしな方角にレールを敷設する可能性もあるわけだ。そしてその敷設計画を考案する政府要人は、トロイメライから派生した自身の夢を政策に具現化して、「一緒に乗れや!」と国民を巻き込む。なんの疑問も抱かない人が多ければ多いほど、人々は政府の設えた共同幻想の汽車に乗り、より良い未来へ行くことを信じて、揺籃に揺られてまどろむ。しかし、しばしばレールの行きつく先が断崖絶壁になっていて、トロイメライから覚めたとたん、汽車ごと奈落に転落する悲惨な事故だってあることは、歴史も語っている。世の中一寸先は闇で、運転するのは神様でも仏様でもなく、夢見る権力者や権力集団だ。卑近な例で言えば昔、帝国政府と取り巻き経済界が夢見て引いたレールに乗った国民の多くが奈落に落ち、命を落としていった。一億総懺悔をしても後の祭りというわけだ。

 いま我々がテレビで見ているのは、ロシア政府の引いたレールに乗って戦地に送られるロシアの若者たちだ。そして一人のロシア男のトロイメライが引き起こした戦禍で死んでいく隣国の人々だ。同じことはきっとパレスチナでも言えるだろう。人それぞれが、それぞれのトロイメライを見ながら小さなレールを引き、同じ方向に走る大きなレールに合流する。するとそれは主流となって、どこか予測のできない目的地に向かって走り出していく。経済学者も政治学者も、誰もその目的地が天国であるか地獄であるかは予測できない。

 大きなレールを敷いたプーチンは、ナワリヌイの引こうとしたレールは逆方向に向かっていると判断し、衝突の起こる前に排除した。しかしナワリヌイと同じ方向を目指す連中が再び敷設し、衝突を覚悟に動き出す。そんなとき、ロシア国民に求められているのは各自が自分の夢を分析することなのだ。もちろん、これは世界中のすべての大人たちに求められることだ。いったい自分はどんな社会を夢見ているのか……、それが自己満足だけのトロイメライだと気づいたときに、きっと大人なら子供の感性を捨てて大人のトロイメライを模索し始めるに違いない。人間は大人になってまで、「時々あなたは子供に思えます」と揶揄されるべきではない。大人なら、子供の夢が自己満足の夢で、大人の夢が少し先の未来に向けられなければならないことを知っている。我々は、子供のような感性が数々の悲惨な歴史をつくってきたことに気付くべきだし、繰り返してはいけないと思うべきなのだ。
「君は大人になったら何になりたいんだい?」
「テロリストになって、殺されたパパの仇を打つんだ!」 
 ……世界は未だに悪夢の揺り篭に捨て置かれ、金縛りの状況だ。

 

 

 

ショートショート
黄金姫

 攻落のあと、将軍は部下たちと天守閣に登った。自害した男女が百人ほど無残な姿で転がり、床は血に染まっていた。その中心に、敵将とその妻が抱き合うようにして死んでいた。
「嗚呼、黄金(こがね)姫。お前まで……」
 将軍は部下に黄金姫を敵将の胸から引き離すように命じた。抱き合って硬直した夫婦は、二人の男の力でもなかなか引き離すことができなかった。もう一人が夫婦の間に両腕をこじ入れて、血だらけになりながら、三人がかりで引き離した。黄金姫は仰向けに寝かされ、首の傷口からほとばしり出た血はまだ暖かく、白色の着衣をじわじわと緋色に染め続けている。まるで、朝日が昇るようだったが、姫の白魚のような顔は染まることなく、むしろ闇の世界に引き込まれるように蒼ざめていった。将軍は怒りのあまり、部下に敵将の首を落とさせ、そいつを蹴り上げた。首はコロコロと神棚の方に転がっていった。

 敵将は将軍の部下だった。敵将の妻を初めて見たとき、将軍はその美しさに驚き、その女が部下の妻であることを許せなくなったのだ。黄金姫を見て以来、将軍は毎晩彼女の夢にうなされるようになった。そうするうちに、部下の所有物であることが理不尽に思えてきた。自分の部下が、あのような美しい女を妻とすることは、主人を裏切る行為ではないだろうか。嫉妬心がむらむらと燃えて、激しい怒りがこみ上げてきた。
「黄金姫はあの下郎には相応しくない。わしの側室であるべきだ」

 そして一週間後、将軍は部下に辞令を送った。「黄金姫を召し出すように。我が側室として迎え入れたい。褒美として50万国の所領を分け与える」。するとしばらくして返事の手紙が来た。「そればかりはご海容いただけますと幸いでございます」。将軍は獅子のように唸って手紙を即座に破り捨てると、家老に城攻めを命じた。小さな城を五千の大軍が取り囲み、城は三日で落ちた。将軍は敵将の首と黄金姫の遺体を自分の居城に持ち帰り、オランダ医学の知見がある侍医に見せた。

「この首の輩は、わしの側室の首を掻き切った謀反者じゃ。そしてこの姫は大切な側室であった。わしが心に決めたことは、すべてが真となってきたのに、この姫の命だけは、一瞬の遅れで取り逃がしてしまった。オランダ医学では、その時の遅れを取り戻すことはできないのか?」

 すると侍医は落ち着いた仕草で畳に額を付けてから面を上げ、「さすがにオランダ医学でも、時の流れを戻すことはできませぬ」と答えた。将軍は怒りを抑えながら、震え声で「オランダ医学もさほどのことはないな」と溜息混じりに呟き、強い声で「わしはこの姫を生き返らせたいのじゃ」と続けた。侍医はしばらく考えてから、さらに落ち着いた仕草で畳に額を付けてから面を上げ、「オランダ医学でも、死んだ姫様を生き返らすことは成りません。しかし夜の間だけ、お勤め役として生き返らせることは可能でございます」と答えた。
「なに、夜の間だけ生き返るとな」
 将軍は目を輝かせ、「説明せい!」と閉じだ扇子を開いて振り上げ、火照った顔に激しく風を送った。

「オランダ医学ではダッチワイフと申しまして、夜の時間のお勤めだけに奉仕する側室がございます。この側室には命はございませんが、そのお体とお顔は、得も言われぬ美しさであることが知られております。しかもお湯を入れて体は暖かく、生きた女と変わりません。また、お床では将軍様に話しかけることは禁ぜられておりますので、おねだりもせずに、監視役のお女中を添い寝させる必要もございません。立派におしとねのお役を果たせます」
「しかし余は、この黄金姫が欲しいのじゃ!」
 将軍は扇子を閉じて、パンと姫の横たわる敷布団を激しく叩いたが、侍医が動じることはなかった。

「おまかせください。姫様に瓜二つのダッチワイフをおつくりしましょう。万が一お気に召されなければ、私めの首を切り落としてくだされば」
「しかしその造り物が、本当に余の心を慰めてくれるだろうか……」
「まずはお試しいただき、それからこの老いぼれの処遇をお考えください」
「ようし、お前を信じよう。気に入ったら金千両、気に入らなければお前の首じゃ」

 侍医は黄金姫の遺体と敵将の首を屋敷に持ち帰り、腐らないように氷室に入れた。それからオランダの専門職人を二人呼び寄せ、血で汚れた着衣を剥がして三人がかりで解剖台に乗せた。職人たちは口笛をヒューと吹いて、「まるでトロイのヘレンだ」と呟いた。近所の髪結いが呼ばれて、頭髪をはじめ体中の全ての毛が剃り落とされた。絵描きが呼ばれて、姫の死に顔が克明に模写された。それから姫の全身に、強酸に耐える金色の塗料が塗られていく。小一時間ほどでそれが乾くと姫は金色に輝き、三人はその美しさに心を奪われた。頭頂の中心部分に直径3センチほどの円形の塗り残しがあった。
「これほど美しい観音様を見たことがない……」と侍医。
「まさに美の女神ですな」とオランダ人。

 その夜、家老がお忍びで侍医の屋敷を訪れた。従者どもは、半ば腐乱した敵将の胴体を持ち込んだ。家老は帰り際に、「くだんのあれについてはよろしくな」と侍医に耳打ちをした。侍医は「かしこまりました」と答える。夜中に、酒に酔ったオランダ人たちが叩き起こされ、敵将の型作りが始まった。
「大分腐ってますな」
「このお方は、粗末な造りで構わない。上様は姫様のお夜伽を、このお方に見せたいのじゃ。上様は、姫様を亡き者にしたこのお方を許すことができないのじゃろ」
 オランダ人たちは苦笑いしながら、解剖台の上で胴体と生首を繋ぎ合わせ、黄金姫とは異なり、石膏型を取り始めた。明くる朝に絵師が敵将の顔を模写し、そのあとで下人が荷車で敵将の死体と首を刑場に運んでいき、首は晒し首となった。

 その日の午後、オランダ人たちが大量のシリコンジェルを屋敷に持ち込んだ。一人がポケットから200グラムほどの白い粉包みを取り出し、「こいつを姫様のシリコーンだけに混ぜます」と侍医に説明した。
「オランダ仕込みの夢見る薬かね?」
「さようで。夢を見ながら徐々に、でございます」と言って、オランダ人は含み笑いをした。
「遅効性であろうな」
「分量さえ間違えなければ」
「これで殿様から授かる千両は二千両に膨れ上がる。わしが千両、おぬしらが千両と山分けじゃ」
「嬉しい限りで……」

 黄金の姫は半分ほど硬めのシリコンが入った棺に寝かされ、その上から再びシリコンを注いで棺を満たしていった。シリコンが固まると棺に蓋をして、職人たちはそれを縦にした。頭の上の側板が外され、一人が脚立に登ってホースを頭の上のシリコンに差し込む。ホースの先端が円い塗り残し部分に密着すると、ギロチン台の首のように木枠でホースを固定した。徐々に強酸が投入され、頭蓋骨から脳味噌、首から胸へと浸潤しながら姫の遺体は骨ごと溶けていった。手先、つま先まで溶かすのは徹夜作業となり、侍医は早々と寝てしまった。

 明け方、職人たちは下人どもに命じ、そのままの状態で棺を裏庭に運ばせ、あらかじめ掘った穴のところで逆さまにして酸を捨てさせた。姫の遺体はドロドロの液体となって、穴の中に落ちていった。下人どもは、与えられた洗剤で5回ほど雌型の内壁を洗浄し、作業場に戻して立てかけた。昼になると侍医は起きてきて、次の作業が開始された。

 長いアリの巣のようなゴム袋が頭頂から四肢へと垂らされた。これは人肌の湯が入る袋だ。オランダ人は、別の管を差し込んで薬が混ざったトロトロのシリコン液を注意深く注ぎ込み、時たま雌型を回転させた。頭頂部分からシリコンがあふれ出して棺を濡らし、足元で撥ねた。侍医は驚いて逃げたが、オランダ人たちは笑いながら、「遅効性です」とからかった。

 あくる日になって棺は手術台の上で解体され、雌型シリコンの除去作業が始まった。半透明のシリコンの奥に、金色に輝く姫が眠っている。侍医も下人たちも、古代遺跡の発掘者のように固唾を飲んで作業を見守った。オランダ人たちは大小の刃物を巧みに使いながら、あれよあれよとシリコンを削ぎ取り、黄金の肌に付着した残渣のみが残った。彼らは特殊な油でそれを丁寧に拭き取っていった。金色の黄金姫は妙なる美しさで輝いていた。侍医もオランダ人も下人たちも、そのまばゆい姿に見惚れるばかりだった。
 そのとき、城からの使者が来た。殿様が今日中に黄金姫をご所望という。画家による彩色化粧は一週間ほどかかる予定だった。しかし使者は、女乗物と権門籠まで用意していたので、侍医は仕方なしに裸の黄金姫を女乗物に乗せ、自分は権門籠に乗って城へと向かった。遅いと叱咤されても、この美しい作品を見せれば許してくれると思った。

 将軍は、横たわる黄金姫を見ると、その唇に接吻し、涙を流しながら労をねぎらった。
「お前は良い仕事をしてくれた。千両を遣わそう」
「ありがたき幸せでござりまする。されど将軍様、黄金姫様を生き返らせるためには、人肌に染め上げる作業が残っております。お輿入れはあと一週間後に……」 
「ならぬ、三日後にせい!」
 将軍の理不尽な要求に一瞬戸惑ったものの、侍医は機転を利かす余裕があった。
将軍様がこの金色の姫様がお気に召されたなら、二体お作りになられたらいかがでしょう。将軍様も、ご気分により二つのお城を使われております。この城の奥方様は金色、あちらの城の奥方様は肌色と、お二人の奥方様と至福の時を過ごされたらいかがかと存じます」
 将軍はニヤリと笑い「それは妙案じゃな。ならば合わせて千五百両遣わすぞ」と宣った。
「有りがたき幸せにござります」
 侍医は黄金姫を一端持ち帰り、それを雄型として急いで雌型造りを始めることにした。

 約束の三日後、金色の黄金姫の輿入れ日となって、姫様は金襴緞子の衣装を身に纏って城からの使いを待つ。夕刻に総勢百名ほどの迎えが来て、姫は籠に乗せられ城に向かった。将軍はその夜、床入りの御小座敷に横たわる黄金姫と交わった。そのとき、黄金の肌から発する毒気が将軍の体に浸透し、将軍は幻覚を見た。黄金姫が口を開いて喋り始めたのだ。
「上様は、欲の深いお方でございますね」
 見張り役の女たちには姫の言葉は聞こえなかった。彼女たちが耳にしたのは将軍の声だけで、人形に向かって話しかける将軍に驚き、ご乱心の兆候を見て取った。
「お前を死なせてしまったのは不覚だった。じゃが、こうしてお前は生き返った」
「私は天上から上様に語りかけておるのでございます。死後の世では、欲の深くないお方は天上に昇り、欲の深いお方は地獄に堕ちるのが決まりです。その理由は、この世では欲の深いお方が天下を取り、欲の深くないお方が憂い萎れていくからです」
「すると、わしの死後には……」
「命の切れ目が縁の切れ目でございます」
「嫌じゃ! 死後もお前と添い遂げたいのじゃ」
「ならば、私を愛するのと同じように、生きとし生けるものすべてを愛するのです」
「嗚呼そうしよう。お前を愛し、生きとし生けるものすべてを愛そう」
「ならば私は神様に向かって祈りを捧げましょう。この哀れな男が地獄に堕ちぬよう……」
「ありがたき幸せ。わしはお前のいない世に行きたくはない。わしは地獄に堕ちたくないのじゃ」

 黄金姫と同衾してひと月後、将軍は快楽(けらく)の中で命を落とした。新たに将軍の座に就いた弟君の耳元で、家老は囁く。
「事はうまく運びましたな。毒人形はもちろん、侍医もオランダ人も、口封じのためにすべて片付けました」
「でかしたぞ。ならば今宵は祝縁じゃ!」
 御女中たちが大広間で、手際よく宴会の準備を開始した。

(了)

 

 

 

 

 

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エッセー 「小澤征爾の思い出」& ショートショート「 亡き囚人のためのパヴァーヌ」

エッセー
小澤征爾の思い出

 小澤征爾が亡くなった。偉大な足跡を残した指揮者だったので残念だ。若い頃小澤に入れ込んで、大谷ファンのように海外にまで行って演奏に触れることがあった。日本で小澤の演奏に接するのは当たり前の話だったが、欧米では「東洋人に西洋音楽が分かるか」と思われていた時代だ。そんなときに、東洋人の指揮者が西洋人ばかりで構成される名門オーケストラを指揮し、聴衆もほぼ西洋人だったという現象は、大リーグで日本人選手がホームラン王を獲得するのと同じような快挙だった。ファンだったらそれを本場のオーケストラで観てみたいと思うのは当然だろう。

 小澤の指揮は、他の指揮者や演奏家が解説しているので、僕のような素人がなんのかんのという筋合いのものではない。よく音楽好きが昂じて音楽評論家になった人がいるが、そういった人が書くものは単なる聴衆が感じる印象のようなもので、音楽の神髄に切り込んだ評論は少ないだろう。しかし大谷さんのバッティング技術を云々するより、ホームランを打つことがファンを熱狂させるのだから、聴衆の耳に入った時点の印象を紹介するのは、評論家の重要な仕事というわけだ。評論家はミス・ユニバースの審査員だと思えばいい。それぞれの理想や好きなタイプはあるし、そこから外れたマイナス部分はたちまち言い立て、鬼の首を獲ったようにあげつらうのならそれで良しとしよう。ほんの小さな汚点でも、針小棒大にしなければ紙面を埋めることはできないのだから……。いずれにしても、大谷ファンは豪快なホームランを期待してワクワクしながら球場に向かうし、小澤ファンは独自解釈の個性的演奏を期待してワクワクしながら演奏会場に向かうのだから、その心境は同じだ。

 当然、音楽もナイスバディーのようなものだ。それは表面的に美しく官能的だが、その肉体にメスを入れると骨格が現れ、内臓も現れる。例えばピアノ曲の場合、ピアニストは解剖医のように楽譜全体を切り刻んで分析(アナリーゼ)し、そこから得た情報をもとに、解剖医なら死因を類推し、ピアニストなら作曲家の意図を類推する。解剖医はそれを警察に報告して終わるが、そこからが芸術家たる演奏家の真骨頂だ。もし再生医療が発展すれば、解剖医も切り刻んだ肉体を縫合して、フランケンシュタインのように生き返らせることが可能だろう。一方、再生芸術に従事するピアニストは、楽譜の紙背に作曲家の意図した骨格や内臓を分析・把握してから、それを色々考えながら彼なりの解釈で縫合し、自分の子供として生き返らせる。この部分は、あらゆる芸術家に共通のものだろう。画家も小説家も、詩人もデザイナーも、ひょっとしたら美容整形外科医も、ツールは違えどきっと似た作業をしている。 

 ピアニストのツールはピアノだが、個々のピアノに個性はあっても、それは所詮道具に過ぎない。裕福な演奏家は相棒である自分のピアノと一緒に世界中を旅するが、多くの演奏家は劇場付の3、4台からチョイスする以外ない。真の相棒は十本の指と、二つのペダルを踏む両足だ。どんな状態のピアノでも弾きこなして、自分の思い描いた音の子供たちを生み出し、会場の隅々まで飛び立たせるために、一日8時間以上も練習し、中には腱鞘炎でピアノ人生を終える人も出てくる。ピアニストは高齢になると、多くがこの腱鞘炎に悩まされる。

 指揮者のツールはタクト一本だ。だから演奏寿命は永く、車椅子からでもタクトは振れる。しかしオーケストラも劇場付の「ツール」だといえば、たちまち顰蹙を買うだろう。構成員は一人一人が人間で、鍵盤ではない。それが一期一会であったとしても、音楽は指揮者と彼らの共同芸術なのだ。仮にそれをツールと考えれば、40名~150名ぐらいの楽器を相手にしなければならず、その一人一人が批評眼を持った生身の専門家だ。だから下手な指揮者が棒を振ると、小馬鹿にしたような雰囲気が全体を覆ってしまい、指揮者の要求に中々応えなくなる。一度馬鹿にされると、そのオーケストラからは二度とお呼びが掛からなくなる。指揮者は恐ろしく孤独な存在だ。指揮者のチョンボをカバーしてくれるのは機転の利くコンサートマスター(第一バイオリン)ぐらいで、彼(彼女)は第二の指揮者として緊急時のフォローを担う。

 この孤独的立場を払拭するには修練しかないので、指揮者は恐ろしく勉強する(他の演奏家もそうか……)。野球の大谷さんと似ていなくもない。特に小澤は駆け出し時代、凡ミスをきっかけにNHK交響楽団から排斥された苦い経験があり、なおさら頑張ったに違いない。彼の場合は、遠征先の居場所を身近な者以外は漏らさないようにしていたらしい。訪問客に邪魔されたくはなかったのだろう。その結果、長大なオペラだって暗譜で指揮できる。クラウディオ・アバドも暗譜が得意だったが、やはり研鑽の賜物だったろう。すでに地位を確立した指揮者だって、寄る年波にはかなわず、散々暗譜でこなしてきた曲も忘れたりタクトの切れも悪くなったりで、演奏の質はどんどん落ちてくる。楽譜に噛り付きながら、のたのた指揮すれば、音楽もヨロケてしまうのは当然だ。それを老醜と感じる井上道義氏は、今年いっぱいで演奏活動を停止する予定という。しかし野球みたいに成績が数値に表れないので定年退職はなく、聴衆の前で突然天寿を全うする指揮者も出てくるわけだ。

 第二次世界大戦以前は、指揮者も連隊の司令官みたいに振舞っていた時代があった。司令官は兵隊を駒のように扱う。イタリアの名指揮者トスカニーニも、ドイツの名指揮者カール・ベームも団員には厳しかった。ベームより14歳若いカラヤンも、この権威主義的な伝統指揮法の持ち主で、小澤の先生だった。ナチスに協力したとされ、戦後しばらくはドイツ音楽界から敬遠された。しかし映像を重視した宣伝相ゲッベルスを知る彼は、独自の宣伝工作で復活を果たす。端正なルックスを武器に、名門ベルリンフィルを指揮した数々の英姿を世界中に映像配布した結果、絶大な人気を獲得し、彼一人のギャラが楽団員の総ギャラよりも高いという逆転現象まで起きた。

 小澤は横でそれを見て、別の選択をしたに違いない。カラヤン先生より背丈はちょい高だが、先生のように美形ではないし、何よりも東洋人だ。当時の欧米では、人種差別も当然根強く残っていた。そんな小澤にカラヤンの目を瞑った(重要な部分では綺麗な青い目を開けている)端正かつ上品なバトンテクニックは似合わない。だから小澤は、もう一人の先生であるバーンスタインのスタイルを真似たに違いない。時には指揮台で跳びはねるような派手な指揮ぶりは、古い批評家からは下品と顰蹙を買ったが、小澤はその開放的で快活、かつ柔軟性に富んだバトンテクニックをマスターして、魔法の杖から鳩を出すように、斬新な解釈の音楽を次々と羽ばたかせ、客を昂奮の坩堝に陥れた。

 名演奏は、耳と目から得た昂奮が一生の思い出となって記憶に残る。例えば小澤では、ストラビンスキーのバレー音楽『春の祭典』を演奏会で聞いたことがある。演奏の難しい曲で、多くの指揮者はリズムを間違えないことだけに集中する。特に指揮者泣かせといわれる最終部の「生贄の踊り」において、異なるリズムが対位法的に演奏される変拍子の極みがあるが、突然小澤が交通巡査のように両腕を激しく振り回したのに驚いた。右手で三角形、左手で四角形を素早く描きながら難しいリズムを的確に団員に伝えていたのだ。両腕がブチ切れるぐらいのエネルギッシュなバトンテクニックで、『春の祭典』の激しい音楽に彩を添えるパフォーマンスだった。バーンスタインもそうだが、こうしたスポーティーなバトンテクニックの持ち主は、その技術を幅広く応用できるので、バッハから武満徹までレパートリーをどんどん増やすことが可能だ。小澤より21歳年上にカルロ・マリア・ジュリーニという名指揮者がいたが、彼のバトンテクニックは武骨かつ昔風で、その守備範囲もさほど広くなく、ドイツ・オーストリア音楽が主体だった。

 小澤が名門ミラノ・スカラ座でオペラデビューしたとき(1980年)、取り上げた作品はプッチーニの『トスカ』だった。これはプッチーニの作品の中でも『ラ・ボエーム』とともに1、2の人気を争うオペラだ、……ということはスカラ座の客は腐るほど名演に接していて、一人ひとりがちょっとしたミスに過剰反応する厳しい耳を持った評論家だということだ。イタリアオペラの殿堂に、その中でも代表的な作品を背負って殴り込みをかけたのは、スクーター一台で欧州を駆け巡った、武者修業時代の心意気を髣髴とさせるものがあった。

 しかしこのデビュー公演は散々なものとなった。元々個性の強い演奏を旨とする小澤は、合わせもの(協奏曲、オペラなど)が不得意であるとの噂があった。普通、欧州のオペラ指揮者は歌劇場の専属となって下積みを経験し、楽譜もろくに読めず、リズム感も悪く、美声や発声のテクニックだけで有名になった歌手たちの扱いに長けていた。そうした指揮者はイタリアオペラのコツを掴んでいて、フェーシングの剣を握るように、歌手を掌の中のカナリアだと思い、特にアリア部分では彼らの歌を殺さぬようにある程度歌唱の自由を認め、オーケストラは要所要所で伴奏に徹した。その要所要所とは、イタリアオペラにも歌舞伎の「見栄を切る」部分があるということなのだ。

 歌舞伎では感情の盛り上がった場面で、役者が一時動きを止め、目立った表情や姿勢を示す。それと同じに、イタリアオペラのアリアや二重唱では、歌手が自分の声を最高音(ソープラ・アクート)にうまく嵌めたとき、できるだけその声を維持して伸ばし、自分の美声をアピールしようとする習わしがある。しかも始末の悪いことに、歌手は自分のことしか考えないから、あの強靭な肺の中に入っている空気を使い果たしてまで続けたがる。客もそれを期待しているからだ。反対に、うまく嵌まらなかったときには直ぐに下降して恥ずかしそうな顔をする。歌舞伎に「大向うをうならせる」という言葉があるが、スカラ座の大向うは天井桟敷の人々だ。彼らがうなるときは「ブラボー」を連発し、失敗に対しては容赦なく「ブー」と罵声を浴びせる。

 当然、スカラ座オペラデビューの小澤は、音楽総監督であったトスカニーニムーティのような絶対的権力を確立した立場ではなく、「黙って俺の指示に従え」などと歌手に強い要求はできなかったろう。ムーティなどは、この見栄を切る部分を「楽譜にないから」とカットしたり、別の部分では「楽譜にあるから」と、カットが習慣の繰り返しまで歌わせたので、歌手は疲れてふてくされ、聴衆は呆れ返った。しかし彼は主義として楽譜に忠実なだけで、小澤と同じ天才型のマエストロだ。小澤デビューでの共演歌手は、世界的テノール、ルチアーノ・パバロッティ(トリノ冬季オリンピックで口パクで歌った)だったから、対等の立場といっていいだろう。ベルカント唱法の発声術を完璧に身に着けた彼は、あの巨体を使ってどこまでも高音を伸ばして歌うことが可能だ。当然その手の大御所は、ゲネプロでは隠し玉の高音を全開して披露することはない。だから小澤にとって彼の高音は未知の領域で、恐らくその計算を間違えた。

 彼はオーケストラ指揮者として、オペラ指揮者のテクニックである歌手が高音から下りた0コンマ数秒後に、伴奏オケの音階を下げるという技術に習熟していなかった。オケを保持するのにこらえ切れずに、「もうこのぐらいだろう」と類推して、下降音を指示してしまったのだ。きっと脳裏に、駆け出し時代の同じ凡ミスが過ぎったに違いない。当然、まだ伸ばしたいパバロッティと降りてしまったオケとの間に大きなズレが生じて、聴衆を驚かせた。おまけにそんな場面が数度あったものだから、天井桟敷の連中が黙っているわけもない。会場は大ブーイングとなったわけだ。後になって小澤は、師のカラヤンから「わざわざブーイングを受けるために、スカラでイタリアオペラをやることはない」とたしなめられたという。カラヤン自身、昔スカラでヴェルディの『椿姫』を指揮して、ブーイングを受けていた。

 しかしその後、小澤はイタリアオペラではなく、チャイコフスキーの歌劇『エウゲニ・オネーギン』で、見事な復活を遂げる。スカラの天井桟敷は、小澤のタクトさばきの妙に魅了され、そこから放出される音の渦に酔いしれ、「ブラボー」の渦に変えて返した。特に主役を演じたミレッラ・フレーニの「手紙の場」におけるアリアは、若い娘の初恋の吐露とオーケストラの熱情的なリズムのうねりが渾然一体となって、作曲家が生きていたら絶賛しただろう完璧の極地に到達していた。前回は散々こけ下ろした評論家は、「恐らく小澤はイタリアものよりもこっちのほうが合っている」などと、澄ましたことを書いたが、誰もこの名演にケチを付ける者はいなかった。

 小澤の絶妙なリズム感から湧き出る音のうねりは、演奏会方式の劇的物語、『ファウストの劫罰』(ベルリオーズ)でも存分に示された。特に驚かされたのは、その中に挿入されているハンガリー風行進曲「ラコッツィ行進曲」(ラデツキー行進曲ではない)だった。この行進曲はよく抜粋されてオーケストラのアンコールで演奏されたり、ブラスバンドで偶に演奏される曲で、一度は聞いたことのある人が多いに違いない。行進曲は、元は軍隊が足並みを揃える目的で作られたもので、僕は行進曲に勇ましさや華やかさは感じるものの、芸術性を感じることはないと思っていた。ところが小澤は、この速歩行進の単純なリズムの小曲を起承転結の音の流れとして捉え、始まりから終わりまで、完成された一つのうねりとして、至福の芸術作品に仕立て上げたのだ。小澤はフェアリー・ゴッドマザーのように、バトンの魔法でカボチャを美しい馬車に変え、僕はそれに乗って体を揺らしながらシンデレラのようなワクワク気分になったことを覚えている。彼はまさに、行進曲まで気高い芸術に変えてしまう魔法使いだった。小澤は逝ってしまったが、舞台からいきなり投げつけた衝撃音は僕の心に刺さって古傷となり、老化した脳に刺激を与え続けている。 

 

 

 

ショートショート
亡き囚人のためのパヴァーヌ

 フロレスは極寒の地で19年も、刑務所の狭い懲罰房に閉じ込められていた。政敵の独裁者ピッツァが大統領になったとき、直ぐに逮捕されてこの流刑地に運ばれたのだ。彼がここに来てから、時は止まったようだった。牢番のロックはそのときから彼の世話をしていた。フロレスはいまでも囚人で、ピッツァはいまでも大統領だった。時は止まっていても、ロックは背の曲がった老人になり、体躯の良かったフロレスはガリガリの体に変わり、髪も髭もすっかり白くなってしまった。妻のレオナラは、あのとき以来音信がない。恐らく手紙を差し押さえられているに違いなかったが、生きているのか死んでいるのかも分からなかった。ピッツァは邪魔者を平気で暗殺するから、フロレスは妻が国外に逃れたことを信じる以外に、気を宥める方法はなかった。

 牢番は囚人と親しくならないことが、この刑務所の仕来りだった。それを怠ると、たちまち解雇されてしまう。だから彼は極力寡黙を貫いたが、囚人の世話はきちっとしていた。一日一食の食事は粗末なものだった。しかし狭い檻の中で身動きの取れないフロレスにとっては、細々と生き続けるのに不足することはなかった。時たま雑穀汁の中に肉の塊が入っていることがあったが、そんなときロックは、フロレスに向かってニヤリとウィンクした。フロレスはそれに噛り付いて涙を流した。ロックの差し入れであることが分かっていたからだ。

 収監されてから4年目のことだ。フロレスはやたら悲しくなって一日中泣いていたことがあった。それを見かねたものか、ロックが鉄格子に近づいて、小声で優しい言葉を掛けてきた。
「どこか、痛むところでもあるのかね?」
 フロレスは涙声で、「ただ悲しいだけさ」とつっけんどんに返事した。するとロックは軽く苦笑いして、「莫迦だな4年もここにいて、住めば都という諺を理解していないなんて……」と続けたのでフロレスは頭に来て、「ここが都かよ!」と叫んでマットから飛び上がり、鉄格子を揺すろうとした。しかし、鉄格子がビクともしなかったのは言うまでもない。ロックは鉄格子から出たフロレスの手の甲を軽く握り、「娑婆の人間だって牢獄のような世の中で生きているのさ。俺たちがどうやって生きているのか知ってるかい。みんな夢を見て生きているんだ」と呟くように言った。フロレスは号泣しながらマットに突っ伏して、泣き疲れてそのまま寝てしまった。

 その晩の夢枕に、レオナラが現れた。彼女はフロレスに口づけして囁いた。「初めて出逢ったダンスホールを覚えている?」
 二人のダンスは習い立てで、足を踏まないようにぎこちなく、大昔の貴族の舞踏のようにゆったりしたものになった。彼女は彼に胸を合わせて耳元で囁いた。
 「待っててね。きっと助けに来るから。でも私はあなたを助けるけど、あなただけを助けるためじゃない。なぜって、あなたを愛してるけど、あなただけを愛しているわけじゃないから。わたしはあなたと同じに、この国の人たちを愛しているから、あなたを助けるの。だって私はおバカさんで、愛の力はあなたで精いっぱい。あなたの愛の力はもっともっと大きいはずだわ」

 翌朝目が覚めると、フロレスの心の中は一変していた。この狭い牢獄の中にも、無限大の夢の世界があることに気付いたのだ。彼はピッツァと政権を争っていた頃の情熱を取り戻していた。彼の心臓は高鳴り、激しい血の流れを右脳に送り込んで、そこに蔓延っていた悲しみを一瞬で押し流した。たちまち理想の国造りのイメージが流れ込んできて、右脳領域を満たしていく。それに応えて左脳では、政権を獲得した後の具体的な国政が時系列的に創られていった。フロレスはロックからペンとノートを貰い、新しい国のタイムスケジュールを克明に記していった。

 月に一度の風呂の日、フロレスが浴場にいるとき、ロックは独房の掃除を行い、マットの上に転がっていたノートを開いた。そして二人の監視とともに彼が戻ってきたとき、急いで丸めて内ポケットに隠した。監視が去るとフロレスは牢内を探し回り、鋭い目つきでロックにたずねた。
「僕のノートをどうした?」
 ロックは黙って内ポケットからノートを出し、直ぐにポケットに戻した。
「取り上げるつもりか?」
 フロレスは厳しい顔つきで鉄格子から両手を出し、「返せよ!」とロックに迫った。ロックは涼しい顔して、「このノートは次期大統領のために、しばらく俺の家で保管することにしたのさ。俺はいつか君の出所が決まったときに、ここにいるかは分からない。だから、いまのうちに15年後の君を祝福しておくよ。おめでとう。君は苛酷な環境の中で逞しく生き抜いてくれた。君は無事刑期を終えて出所することが決まったんだ。君の所持品の中にこんな物が含まれていたら、たちまち出所は取り消されちまう。出所して大統領になったら、俺の家を訪ねてくれたまえ。ちゃんと返してやるさ。けれど、書かれていることを本当に実現すると誓ってくれなけりゃ、家の暖炉に投げ込んじまうからな」

 フロレスは泣き崩れて、ロックに約束した。
「ありがとう。僕はここから抜け出し、大統領になる。その時まで、そのノートは大切に保管してくれよな」

 ロックはその時以来、フロレスにメモ用紙すら与えることはなかった。上の者に見つかったら、自分の身も危なくなることを知っていたからだ。しかしフロレスは失われたノートの内容を克明に記憶していることに気付いて、マットの上で転げ回るほどに大笑いした。ロックが不思議に思ってたずねると、「僕は譜面台に花束しか置かないマエストロよりも記憶力がいいのさ」と自慢した。そして狭い檻の中で悲しい顔もしない小動物のように、毎日毎日含み笑いをしながら、心を夢の世界に解き放って国造り構想に没頭し、長大な月日を一日一日消化させていった。そうして丸々15年経ったとき、待ちに待った言葉をロックから受け取った。
「いよいよ来月、君は刑期を満了して出所できることになったよ」

 そのとき、フロレスの目から一滴の涙も流れることはなかった。もう何年も涙を流したことがなかったから、出し方まで忘れてしまったのだ。その代わり、瞼に映し出された理想の国は寸分の狂いなく、涙で歪むこともなかった。いよいよこの廃れた国を希望の国に変えるため、ピッツァを打ち負かすときが来た。彼はロックに向かって直立し、「ありがとうございました」と言って深々と頭を下げた。ロックは鉄格子の中に手を入れて、フロレスと固く握手をし、「頑張って!」と励ました。

 それから二週間後、ロックは所長室に呼び出され、袋に入った白い粉を渡された。
「こいつを小匙一杯分、フロレスの晩飯に振り掛けるんだ」
 ロックはそれが何であるかは知っていた。過去に同じことをしたことがあったからだ。今回も黙って受け取り、所長室を後にした。ロックは愛する妻と娘の顔を思い浮かべながら配膳室に入り、十字を切った。目分量でトレイの上に乗った粗末なスープに振り掛け、スプーンでかき回してから、残った粉を流しに捨てた。それから毒の入ったトレーをフロレスの独房に持っていき、鉄格子の隙間から差し入れた。フロレスはいつものように、「ありがとう」と言ってウィンクし、食事を受け取った。ロックは独房から離れると職員便所に駆け込み、声を出して泣いた。

 夢の中でレオナラがイブニングドレスを着て現れた。
「どうしたんだい。今日はばかに綺麗じゃないか。まさかカーニバルでもないだろう」
 するとレオナラは悲しそうな顔つきで、「あなたを迎えに来たのよ」と溜息混じりに呟いた。
「僕はどこに行かなければならないの?」
「天国……」
 フロレスは驚いて、「まさか、来月出所するんだ!」と叫び、「君は刑務所の門の外で迎えなければならないはずだ」と続けた。
 するとレオナラは笑って首を横に振り、「そんな年寄りの私を、あなたはお望みだったの?」と返した。
「嗚呼、君はなんて美しいんだ……」
 フロレスは長い溜息をつき、諦めたような顔つきで、再び彼女の唇を求めた。

 二人はしばらくの間、唇を合わせていた。大分久しぶりに、フロレスの心に悲しみが戻ってきた。二人はキスをしたまま、天に昇って行く。雲の上では、礼服で着飾った多くの人々が二人を出迎えてくれた。その中にはフロレスの知っている同志たちも含まれていた。彼らは二人に向かって列を作ると、昔風の優雅な舞踊を始めた。彼らの列の間に、歩むべき道が現れた。二人は手を繋いで、青い絨毯の上をゆっくりと祭壇に向かって進んだ。

 祭壇の玉座に、神が鎮座していた。神は戴冠式のナポレオンと瓜二つの格好をしていて、頭上には王冠が輝いていた。二人は頭を下げながら玉座への階段を昇り、小さな金の翼が生えた清らなるサンダルに接吻した。
「苦しゅうない。顔を上げよ」
 フロレスは頭を上げて神を仰ぐと、唖然としてポカンと口を開けた。そして一秒後には怒りがこみ上げてきた。
「お前はピッツァ!」
 驚いた天使が玉座の横から金の槍をフロレスの首に向け、「控えおろう、神への無礼は許されぬぞ!」と怒鳴ると、優雅な踊りはピタっと止まった。しかし神はまったく動じず、太々しい顔つきで大笑いした。
「下界でも、多くの誤解はあるだろう。お前の知るピッツァはまだまだ生きておる。下界には独裁者、地獄には閻魔大王、そして天国はこの私。結局、三者とも同じ顔をしているのさ。どの世界でも、権力を握る者は似た顔つきになるものだ。わしはこの椅子に座る前に、多くの神々を蹴落としてきた。しかしピッツァはまだまだ修行が足りない。き奴の顔は、時たま怯え顔になるからな。わしと同等の顔つきになる前に、あいつは地獄へと堕ちるに違いない」

 神はそう言うと、覗き込むようにしてフロレスを見つめ、優しい眼差しで微笑んだ。
「お前は生まれつき、権力の座から見放された顔つきをしているようだ……」

(いまは亡き愛国者に捧げる)

 

 

 

 

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エッセー 「東京2030 ~摩天楼の幻想~]& ショートショート 「恋文」

エッセー
東京2030
~摩天楼の幻想~

 以前テレビか何かでブラジルの荒野に林立する大きな蟻塚を見て、万物の創造主が存在するなら、その神様はあらゆる生物が存続するために必要最低限の知恵を与えてくださったのだろうと考えたことがあった。イギリスの国土と同じ面積に、高さ3メートルにもなる蟻塚が連なる。それらの土の量を合わせると、ギザのピラミッドの4000倍に相当するという。蟻塚は土と排泄物で造ったシロアリたちの城で、内部は蟻道や居室空間が張り巡らされ、数十万匹のアリたちが共同生活を営んでいる、と思いきや、アリたちはその塚の下に地下巣を造ってキノコを育てながら暮らしているらしい。蟻塚は地中の彼らに酸素を送る肺の役割を担い、同時に地下住居の温度を一定に保つ巨大な空調システムなのだという。ジンバブエの首都ハラレにあるイーストゲートセンターは、市の郊外に見られる蟻塚の構造を取り入れ、ビルの空調システムに応用したという話だ。

 人間は神の創造した自然のシステムをパクりながら、文明を築いてきた。ならば神の技をパクる人間の脳は、神様が与えてくれた細胞組織から逸脱した腫瘍のような異常細胞で構成され、それが発する反自然的な異常信号が人間の知恵だということになる。それは神様にとって想定外の知恵だったかもしれないのだ。ならばきっと神様は「もう手に負えない、俺の手から離れた、後は知らんよ」と思ったに違いない。そうして人間は想定外の知恵をふり絞り、例えば健康分野では、自然治癒や呪術という神様の領域に土足で踏み込み、神様のカラクリを次々に暴きながら、とうとうiPS細胞のネタまで暴露してしまった。しかし一部の人々は神様に見捨てられたことを悔んでその裾に必死に食らい付き、「輸血はいけません!」などと叫びながら周囲が呆れ返るような抵抗を示すわけだ。

 創造主の作為から外れ、腫瘍のような異常脳細胞が発する信号によって創り上げられた「現代社会」の空気を平気で吸う人々は、「輸血はいけません!」という言葉に恐るべき狂信を見出すが、その空気を嫌う人々は、神が人に与えてくれた必要最小限の知恵の中で生きようとしているだけの話だ。そう考えれば、むやみに侮蔑するようなことでもないだろう。

 輸血をしないことで死んでいく仲間や子供は、生も死もすべては神の御意思であり、死んだ後には神の身許に導かれる。そこには恐らく現代人の異常脳細胞が発するタイプの悲しみはない。彼らにとって、それは喜ばしいことかもしれない。きっとそれは、「死んだら天国で優雅に暮らせる」「靖国で会おうぜ」といって死地に赴く自爆兵士と似たような感情に違いない。しかし神は彼らの想像とは反して結構冷酷で、「弱肉強食」が神の与えた自然の基本摂理であり、天国の夢が正夢になるかどうかは死んでからでないと分からない。

 我々現代人の脳味噌内では、神が去った後の異常脳細胞が発する信号と、神話時代の残渣信号が混線状態になって収拾が付かず、それが行動に現れる。今後どうなるのかは分からないが、少なくとも神様は人類が生き抜いていくのに最低限の知恵を与えてくれていて、その中には地球という限られた資源の中で生き抜くための「殺し合い」の知恵も含まれていた。この知恵のもとでは、地球上の至る所で悲劇が発生するが、種が滅亡することからは恐らく免れる。

 平和な国の人々はテレビで「ウクライナ戦争」や「パレスチナの惨状」を見て、現代人の異常脳細胞が発する「悲しみ」を感じるけれど、チャンネルを替えれば勇猛な歴史ドラマをやっていて、好きな武将は信長、秀吉などと独裁者を讃える。これは恐らく神話時代の残渣感情で、プーチンを愛するロシア人の感情も同じだろう。ところが異常脳細胞が発する信号は「核兵器」を発明し、神話時代の残渣信号がそれを使おうとしているから大変な事態になりつつあるのだ。人類が滅亡するなら、それは神様のせいではなく、人類が醸成した異常脳細胞のせいだ。そいつの増殖は止まらず、神の座を狙う人間を技術的にバックアップする。人は「二重人格」などといって隣人を揶揄するが、すべての人間の脳味噌が混線状態にある限り、すべての人間が「二重人格」であることは確かだ。彼らは脳内スイッチで、平和時の人格と緊急時の人格を使い分けている。エアコンの夏モード・冬モード、スズメバチの平常モード・戦闘モードと変わらない。

 蟻塚は、神様が整えた弱肉強食社会の中で、神様がシロアリに与えてくれた必要最低限の要塞だ。オオアリクイが要塞を必死に崩そうが、仲間が食われても多くのシロアリは迷路の中でしっかり生き残る。イタリアの女傑カテリーナ・スフォルツァ(1463~1509年)は反乱軍に城を取り囲まれ、「捕虜の子供たちを殺されたくなかったら開城しろ」と脅されても、「子供なんかここからいくらでも出てくる」といってスカートをまくり上げたという。このときカテリーナの脳味噌は神話信号で満たされ、人間的母性愛という近代的異常脳信号は休眠している。神話信号は本能的信号で、悲しみは3日で消えて次なる生存競争の世界に突入する。プーチンの脳内モードもいまは神話信号で満たされ、ロシアの若者たちをせっせと戦場に送り込む。

 シロアリは神様が創案した必要最低限のデザインに固執し、伝統的な技術を引継ぎながら悠久の年月を築城に費やし、絶滅することなく生き残ってきた。しかしその蟻塚を見て感動する人間は、神話信号と異常脳信号を混線させながら眺めている。彼はまず巨大な構築物に感動し、次にそれを造ったアリたちの技術に関心する。巨大なものは神話信号を興奮させ、築城技術は異常脳信号を興奮させる。

 人間も動物も、あるいはアリだって、大きな個体が他を凌駕することを知っている。大きな個体が小さな個体を、大きな動物が小さな動物を、大きな人間が小さな人間を打ち負かし殺してきたのは、神の摂理だった。だから人間は古来から大きい者、強い者、強い神に憧れてきた。しかしアリも人間も虚弱な動物で、自分の体を大きくすることはできなかった。そのとき、大きな動物や敵に立ち向かうには、集団をつくる以外にはないと悟った。大きな動物や素早い動物を捕食するには戦略を研く必要もあった。人間の場合、大きな集団をつくろうとする神話信号が欲望となって連綿と続き、領土拡大の夢となって未だに残っている。また、捕食のための戦略は異常脳信号によって技術進化し、神の軛を解き放つ領域まで来てしまったというわけだ。

 当然、大きな集団を運営するには、ピラミッド型の階層社会が適している。悲しいかな、我々が夢見る民主主義や平等主義、ダイバーシティ等は、ピラミッド型とは反対の社会形態だ。それは平面的な平常モードの形態であり、戦闘モードのピラミッド形態ではあり得ない。日本の周囲には、戦闘モードのピラミッド型国家が乱立しているから、我々は不安を感じている。子供にアリの巣を蹴散らされたときのアリたちの慌てふためく姿を連想するわけだ。

 人は神話時代の残渣信号で、ピラミッドを建設した。それは、小さな人間たちが大きな集団を成し、その頂点に立つ王が神の位置にまで上昇するために、天まで届く巨大構造物を造って、その権勢を誇示しようとしたからだ。しかし神話信号だけであんな巨大な建造物は造れない。それでは動物たちが毎晩見る夢にとどまってしまうだろう。バベルの塔は神話か実話かは分からないが、ノアの子孫が神の領域まで届く塔を造ろうとして神の怒りを買い、壊されてしまったというお話だ。神が怒った理由は明白である。神が動物に与えた必要最低限の知恵から逸脱した異常信号を駆使し、この高い塔を造ってしまったからだ。

 人間は未だに「大きいものは小さいものを凌駕する」「高いものは低いものを凌駕する」という神話信号の夢にうなされながら、異常信号を駆使して具現化し、巨大な構造物を構築してきた。東京では現在、「東京2030」と称して多くのディベロッパーが競い合いながら様々な高層ビルが建設されている。僕は変貌する東京の姿を見ながら、若い頃に行ったイタリア、サン・ジミニャーノの尖塔群を思い出して失笑した。かつてあの町では、「最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てる」と金持ちどもが意地を張り、自分の力を誇示するために競って高い塔を造り、70を超える塔が林立したという。現在首都圏でも同じようなことが起こっている。首都直下地震が近々来るとの噂が流れる中、あんなものを林立させて……。バベルの塔のように神の怒りが下されることのないよう、只々願うばかりである。

 

ショートショート
恋文

 探偵は高級老人ホームから依頼を受け、ある女性の居場所を調べることになった。末期癌の入居者が若い頃に、したためた恋文を渡すことができず、いまでも手元に置いてある。人生、それだけが心残りだったというので、介護スタッフが余計なことを提案してしまったのだ。
「あなたが天に召されるとき、その方へそのお手紙をお送りしましょう」

 しかしスタッフは、後で上司から叱られた。その女性が生きているかもどこに住んでいるかも分からず、第一そんな手紙を受け取った相手の方は迷惑だろうというのだ。けれど入居老人は目を輝かせ、すっかり乗り気になってしまった。彼は生まれつき意気地のない人間で、女性に声を掛けることもできずに、一生独身を通してきた。そのコンプレックスを跳ね除けようとがむしゃらに働いて数十億の財産を築くことができ、高級老人ホームで悠々自適に暮し、現在は緩和ケアに助けられながら人生を終えようとしている。そしてたった一つの心残りが、その恋文だったというわけだ。

 探偵は老人と面会し、記憶している女性の情報を入手した。その女性は同じ高校で、一学年下のクラスに在籍していたという。こうした出身校の分かるケースは、比較的調査が簡単だ。まず学校に行き、そこで入手した情報をもとに女性の足跡をたどっていく。案の定、二週間ほどで女性の家を特定でき、その女性が夫とともにすでに他界していることを突き止めた。現在その家には、息子一家が住んでいた。

 探偵がそのことを報告すると老人はひどく落胆し、黄ばんだ封筒を手にして震わせながら「一緒にこれを棺に入れてください。きっと天国で渡せますから」とスタッフに頼むと、スタッフは目を潤ませながら「きっと渡せますよ」と同じ言葉を繰り返し、何度も頷いた。

 それからしばらく、老人は体調を崩して日課の散歩に出ることができなかった。施設の医師は、一年は持たないだろうとスタッフに告げた。しかし半年後のある朝、老人は清々しい朝日を浴びて目覚めると、不思議なことに体中の痛みが消えていることに気が付いた。彼はスタッフに、久しぶりの散歩をしたいと願い出た。まずは近くのコンビニに行こうということになり、スタッフと杖に支えられて辿り着き、何を買おうかと迷っているとき、若い女性店員の横顔を見て、目を大きく見開いたまま体を激しく震わせたので、スタッフは慌ててしまった。女性店員も驚いて小走りに寄ってきて、杖のほうの腕を支える。

 「小里さん、私はあなたをずっと愛していました」
 老人は震え声で告白した。そのとき、ずっと喉の奥に詰まっていた塊が唐突な言葉とともに流れ出た感じがし、その爽快さに驚いて号泣した。スタッフは慌てて、「すいませんね、病気を患っておりまして」と謝ると、最初は戸惑った店員もニッコリとして老人を見つめ、「中島小里のことですね。小里は私のおばあちゃんです。もう死にましたけど……」と答えた。老人は涙声で「ああ、そうですよね……」と呟き、「若い頃の小里さんに瓜二つですね。お美しい」と付け加えた。
「おばあちゃんも私のこと、自分と瓜二つだといっていました」
「小里さんは初恋の人でした……」
「そうなんですか」と店員は目を見開き、「きっとおばあちゃんも、おじさんが好きだったのね」と続ける。
「実は、僕は小里さんと話したことはないんです。正真正銘の片思いだな。女性は遠きにありて思うものというじゃないですか」と涙目で、古臭い負け惜しみをいって笑った。

 あくる日の同じ時刻、介護スタッフがコンビニに来て、老人の願いを伝えた。生前の小里さんのことをもっと聞きたいというのだ。
「実はあの方は、末期がんに侵されていまして、医者からあと半年は持つまいと宣告されています。それでどうでしょう、お手すきの時間でかまいません。バイトだと思って話を聞いていただけないでしょうか。出張費はご希望通りにおっしゃっていただければ……」
 店員は手を団扇のように横に振って、「いえいえ、お金いただくならお伺いしません。もしおばあちゃんも片思いだったら、お金を取ったら怒られちゃいます。私もおじさんから、おばあちゃんの高校時代の様子を聞いてみたいんです。明日は休日なので、お伺いできますわ」と快諾した。

 面談は施設のロビーで行われた。彼女が約束の時間に行くと、すでに老人はソファーに座っていた。こぼれるような笑みで、しわくちゃ顔を歪ませながら薄っすら涙を流し、立ち上がろうとしたので、彼女は両手でそれをとどめた。そのとき彼女はしっとりした掌で、老人の干からびた手を触った。老人は彼女の手を見つめ、「ああ、小里さんも美しい手をしてたなあ」とため息をつく。
「でも遠く眺めるだけで、触れることすらできなかったんだ……」
 すると彼女は、老人の手を放すことなく隣に座り、「おばあちゃんの手だと思って、ずっと握っていてくださいな」と返したので、老人は昨日のように大粒の涙を流し始めた。彼女は手慣れた手つきでハンドバッグからハンカチを出し、頬にかかる涙を拭いてやった。

「綺麗なハンカチを汚しちまってごめんね」
「いいえ私、この一カ月さんざん泣いてしまって、自分の涙は枯れてしまったの。だからいいんです」
「恋人にでも振られたの?」と、老人は驚いてたずねた。
「ひと月前にパパが自動車事故を起こして、パパもママも死んじゃったんです」
「なんてこった。君は……」
 老人は動転して息を詰まらせ、次の言葉が出なかった。
「私、一人っ子だから、天涯孤独になっちゃいました」
 彼女が深いため息をつくと、老人は手を放して彼女を弱々しくハグし、「それはダメだよ、天涯孤独はダメだ」といって首を横に振り、彼女の背を軽く叩いた。
「彼氏はいないの?」
「募集中です」
「ここの施設にも、若い男はいっぱいいるよ」
「彼氏ぐらい、自分で探します」

 老人は浅いため息をついて彼女を優しく見つめると、「僕のようになっちゃいけない。僕はずっとずっと孤独だったんだ。気が弱くて誰にも声を掛けられなかった。だからいまになっても、小里さんに恋文を渡せなかったことを悔いているのさ」と自虐するようにいい、急に背筋を伸ばして「なら僕が君を孤独にはさせない。君の夫になってもいい」と続けたので、彼女は驚いて目を見開き、返す言葉もないといった顔つきをした。老人はそれを見ると口に手を当て、再び猫背に戻って身を縮め、上目遣いにニヤリと含み笑いした。

「気が触れたわけじゃないさ。老いぼれても気は確かです。若い君が年寄りの妻になるなんて……。いい間違えたんだ。君を見ていると、どうしても小里さんだと思っちまう。僕は小里さんと添い遂げたかった。昨夜はずっと彼女と君の夢を見ていたさ。僕は小里さんと夫婦になり、そっくりな君が生まれたんだ。それから朝には、目覚める間際にこんな夢も見た。小里さんが枕元に立って、孫娘をよろしくっていうので、驚いて目を覚ましちまった」
「そんなにたくさん、おばあちゃんの夢を?」
「そう、そしていまの君の話で、小里さんが夢枕に立った理由も分かったんだ。君のことだよ」
「私のこと?」
「小里さんは一人っきりになった君を心配して、夢枕に現れた。だけど、死にそこないの僕には何もできない。……いや、そうかな? 何かできるはずですと彼女はいいたかった」
「何でしょう……」と、腑に落ちない顔つきで彼女は苦笑いした。
「小里さんは君を僕に託したんだ。けれどこんな状態の僕は何もできない。でもよくよく考えると、小里さんの目論みが理解できる」 
「あら、どんな目論みかしら」といって、彼女は用心深く老人を見つめた。
「小里さんと僕が、天国で結ばれる計画」
 老人がきっぱりいうので、彼女は身を縮めるように「へえ、そうなんですか」と相槌を打つ以外に方法がなかった。
「小里さんと御主人は、生前あまり仲が良くなかった、でしょ?」
「そうだったかもしれません。喧嘩は良くしていました」
「そうなんだ。天国で、小里さんは御主人と縁を切ろうと思っている。だから夢枕に現れて、僕に助けを求めてきた。僕がどうすればいいかはいわなかったけれど、僕には分かってる。それはこの世で僕がアリバイを作ることなんだ」 
「アリバイ?」
 彼女はわけが分からずに繰り返した。
「君がこの世で僕の子になることが、天国でのアリバイになるんだ。天国で僕と小里さんが結ばれたとき、君が現世で僕の墓を守ってくれることが、天国での僕と小里さんのアリバイになるってことなんだ」
 彼女は集中力を切らしたようにフッと溜息をつき、「そうですか……」と軽く相槌を打った。

「これから君はたった一人で、小里さんやご両親のお墓を守らなけりゃならない。ついでに僕も便乗して、僕のお墓を君に守ってもらいたい。できれば、小里さんと同じ霊園に葬ってほしいんだ。身勝手な、哀れな孤立老人のお願いさ。僕はこの世で果たせなかった夢を、あの世で果たしたい。それには君の協力がぜひとも必要だ。僕の養女になって、僕の夢を正夢にしてください。その代償として、僕の財産は君がすべて受け継ぐことになる。君が僕の養女になってくれれば、天国で僕と小里さんは夫婦になることができるんだ」

 彼女は戸惑いながら、「財産なんて……」と小声でつぶやいた。それからしばらく考えてからにこやかに笑い、「分かりました。おじさんの話は良く分からなかったけれど、おじさんのお墓は私が死ぬまでお守りしますわ」といって小指を差し出した。老人は枯れ枝のような小指を白魚のような小指に絡ませ、「指切りげんまん」と枯れ声を発し、またまた大粒の涙を流し始めた。

 それから一週間後、彼女は老人との養子縁組のため、約束の時間に仲間の公証人を連れて施設に訪れた。すると施設長が慌ただしく出てきて、「昨夜、亡くなられました」と告げたので、彼女はその場で泣き崩れた。遺体を確認すると、その手には恋文がしっかりと握られていた。二人は逃げるように施設を出て、探偵が待っている喫茶店に入った。
「だから、もっと早くに進めりゃよかったのよ!」と大きな声を発して探偵の頬を叩いたので、周囲の客が一瞬ざわついた。
「どうした?」と探偵は驚いた顔して、頬を擦りながらたずねた。
「昨日死にやがった。死体も見たわ。ジジイ、幸せ顔して死んでやがった。チクショウ!」
「本当かよ……」
 呆然として呟く探偵に、「あんたがババアの家に忍び込んで、若い頃のアルバムを盗んだことをバラしてほしくなかったら、400万の整形代は全額あんたが払うんだね。痛い思いをしてこれかよ。だいたい、うまい話を持ち込んだのはあんたなんだから」
「チキショウ! 獲り逃がした魚はデカかったな……」

 三人は喫茶店を出ると、ヤケ酒を食らうためにトボトボと、路傍の雑草を蹴散らしながら、場末の安酒場を探し始めた。

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「一挙両得、アリの巣防災都市」& ショートショート

エッセー
一挙両得、アリの巣防災都市

 東京都は外国からのミサイル攻撃に備え、居住者たちが一定期間滞在できる地下シェルターを都営地下鉄麻布十番駅に造る予定だという。今後は順次増やしていくために、次なる候補地も物色中らしい。民間企業に対しても、ビルの建設時にはシェルターに転用可能な地下空間を造るなどの協力を期待しているという。僕は一昨年『地底人間への誘い』というエッセーで、地下シェルターの必要性に言及したが、始めの一歩が始まったことを嬉しく思っている。半面、ウクライナ戦争が起こらなかったなら、都知事も考えなかっただろうとは思う。地下整備には莫大な金がかかるし、都の財政もひっ迫しているからだ。

 しかし都民も国民も、「無駄金を使うな」などとは言えないのがいまのご時世で、第二次世界大戦前夜に似ていると危惧する専門家もいるぐらいだ。人類にとって戦争は人災ではなく、地震と同じ天災だと思っている。人類は太古の昔から殺し合ってきたのだから、地震台風雨あられに殺し合い、殴り合いを加えてもおかしくない。地震は地殻エネルギーを持つ地球の性(さが)であり、諍いは我欲エネルギーを持つ人間の性である。地球の性とは、「死んだ星になりたくない」というマントルのドロドロした足掻きだ。人間の性とは、「俺のものにしたい」という心のドロドロした足掻きだ。性に欲が加われば性欲となり、こいつは生きとし生ける物の命を保つ行動基盤であり、自制不可能な状況も出てくる。押しとどめるのは外圧(周囲の状況)で、そいつが効かなくなると圧力鍋爆弾のように爆発する。現在も世界各地でいざこざ、戦争、地震が起こっており、その光景はまるで双子のように似ていて、奪われる命とともに区別することは難しい。能登の惨状をテレビで見て、ウクライナパレスチナの惨状を連想した人は多いだろう。

 戦争は地震と同じく、正確に予知することが難しい。しかし、戦争も地震も「もうそろそろ起きるかもしれない……」と予感することはできる。地震学者は過去の歴史やひずみエネルギーの計算から、「あと数十年以内に来る」などと大まかな予測を立てる。政治学者は過去の歴史やひずみエネルギーを計算して、「某国の景気がこれぐらい失速すると、国民の不満をかわすために、某国家元首は隣の島国に侵略する」などと大まかな予測を立てる。しかし、正確な時期は誰にも掴めない。侵略のセオリーは先手必勝で、主導部はそのエネルギーを脳内に溜め続け、いきなり大軍を動かす。断層エネルギーも沈み込みの両側で溜まり続け、断層面の摩擦が抵抗し切れなかった時点で、いきなり撥ね上がって地面を揺らす。元首の頭の中も、地中の状態も正確に把握できないため、予知も大まかになってしまう。

 地震と戦争の相違点は、元凶が自然であるか人間であるかの違いだけで、被害を被るのはほぼ地表面だということだ。建物は崩壊して火災が発生し、人間を含めた動植物の生態系が大きく毀損する。崩れた建物で避難路は寸断し、四方から火の手が上がるので、運の良い人間しか生き残れない。関東大震災東京大空襲も同じだった。

 しかし惨状が同じなら、生き残る方法も同じであることを意味している。どんな病因があるにしろ、肌が荒れれば応急的に市販の塗り薬を塗るのが普通だろう。その後で医者に行って原因を突き止め、処方を出してもらうことだ。地表で平面的に逃げ惑うのであれば、残された道は応急的でも空か海か地下しかない。しかしドラえもんじゃないから、タケコプターを使って空に舞い上がることはできない。海に逃げても津波や敵艦が心配だ。だったら地下しかないんじゃない?

 戦時中は防空壕に逃げ、爆弾からも焼夷弾による火災からも免れた。地震だって、断層に掛かっていなければ地下は安全な場所だ。地下施設は地殻と一緒に動いて一体化するからだ。地下シェルターは防空壕の進化系で、さらに進化させたものが地下核シェルターになり、費用もお高くなる。人口当たりの核シェルター保有率は、スイス、イスラエルが100%、ノルウェーが98%、アメリカ82%、ロシア78%、イギリス67%だという。それに比べて日本は0.12%という危機意識だ(信じられな~い)。スイスなどは設置後40年を経過した老朽物件も増えてきて、より大きな公共シェルターに換えていく方針だという。

 地下核シェルターは爆風や放射能から完全遮断され、近くに核ミサイルが落ちても命を守れるが、地下シェルターはそうはいかない。しかし、地表にいるよりはずっとマシだ。水爆の爆風や閃光から免れることができ、一時的にも生き延びれるからだ。もっとも、核戦争が起これば核の打ち合いになるので、みんなで一緒に死ぬ以外に方法はなく、さすがのロシアも脅しでとどまっている。最も可能性が高いのは、いまウクライナ戦争で起こっている通常火薬によるミサイル攻撃だ。都も国も金がないのだから、最初は地下シェルターから始めるといいだろう。政府は日本の防衛戦略を「専守防衛」(攻撃を受けての防衛)としているが、「積極防衛」(防衛のための攻撃)へ転換しつつある。しかし、専守防衛で威力を発揮する地下シェルター網の構築を長年忘れていたのは、政府自体が平和ボケしていたことを示しているだろう。パー券収入を目当てに支援企業のことばかりを考えているから、そういうことになってしまう。遅きに失した感があるが、国民自体が平和ボケしていたので、これからばん回する以外にない。きっと都知事が嚆矢を放ったのは、恐らく東京スカイツリーから下界を見下ろしたからに違いない。

 航空写真を見ても一目瞭然に、過密都市東京は尋常でない。そこに首都直下地震や核ミサイルを重ね合わせれば、誰だって最悪の事態をイメージすることはできるだろう。ニューヨークの摩天楼を見ても何も感じないのは、地質的に大きな地震の可能性が低いからだ。しかし、貿易センタービルの惨状を思い出せば、攻撃されたらどうなるかは想像できる。だからアメリカは、シェルター造りに邁進している。世界中の人がニューヨークに憧れるのは、そこが世界の産業、商業、金融、文化の集積地であるからだ。同じく日本中の人が東京に憧れるのは、そこが日本の産業、商業、金融、文化の集積地であるからだ。しかし東京とニューヨークの違いは、地震が起きやすいか起きにくいかの違いだろう。ニューヨークの地盤は摩天楼の重みで年間1~2ミリ沈んでいるというが、地震に関しては約100年ごとに近隣でマグニチュード5ぐらいは起こりえるとしている。しかし東京の場合は、マグニチュード8~9クラスの南海トラフ地震マグニチュード7クラスの直下型地震とも30年以内に起きる確率が70%と宣告されているので、緊迫度はまったく違う。現に今朝(1月28日)東京湾で、マグニチュード4.8、最大震度4の地震が起こった、東京湾ではマグニチュード3クラスの地震が毎年のように起きていて、予断を許さない。

 東京の人口が肥大化し、今後もしばらく増加し続けるとされるのは、長年にわたって適切な構想を描けず、人間の流入を制限できなかった政府や都の責任が大きかったと思える。危機意識が予算を上回らなければ始動できないのは、イマジネーションの欠如の問題だろう。国や首都を動かす指導者には、多少強引ともいえるけん引力が必要ということだ。

 大分昔に、この過密首都圏を回避できた分岐点はあった。1972年に、田中角栄という自民党議員が大胆なイマジネーションをぶち上げ、それを本にした『日本列島改造論』がベストセラーになった。そしてその内容を公約に掲げて総裁選で勝利し、国家元首になった。この改造計画は、人と金と物の流れを巨大都市から地方に分散させる「地方分散」を推進して、交通網や通信網を日本中に張り巡らせるものだったが、田中はロッキード事件で消えてオイルショックによる不景気も加わり、壮大な構想は尻すぼみとなって、結局東京一極集中は解消できずにいまに至っている。東京を防災都市にする分岐点はもう一つ、関東大震災後の後藤新平による「帝都復興計画」があったけれど、軍事力に傾注する政府から予算を削減され、大幅に縮小された形になった。結局限られた予算で何をするかが問題で、いまを楽しむか、未来を慮るかの問題とも言い換えることができる。選挙権を持つ大衆は、常にいまを選択し、結局首都は膨らみ続け、反対に地方は過疎化し続けることになっている。

 東京は人々の欲望を満たす都市だ。「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、同じ欲望を持つ人々はゴキブリのように蟠り、甘い汁を吸うためにコネクションを広げていく。人と人との濃密な関係は菌叢に譬えることができる。菌叢が広がれば黴菌が生き残れるように、金を獲得するチャンスも増えてきて、恩恵を受けた個々が太っていく。さらに東京には、日本の象徴ともいえる「首都」と「天皇」が二つも存在する。分散型社会の推進に、菌叢的な自然の摂理に打ち勝つだけのきっかけが必要なら、例えば首都機能の移転も必要だろう。あるいは日本人が天皇を慕っているのなら、天皇家の住居を京都に戻すことも必要かもしれない(当然、天皇の御意思で)。二つの象徴が一挙に消失すれば、東京も一地方都市に降格し、過密な人口もさばけていくに違いない。

 もしそれができないなら、地震や空襲から都民を守るためには、現状の東京を防災都市化していく方法しかない。しかし地権者が居座る地上を変えることは難しい、となれば地下防災都市を造る以外に方法はないということになる。ハマスが未だに抵抗できているのはパレスチナに張り巡らされた地下トンネルのおかげだ。平壌には大深度地下網が張り巡らされているという。両者とも戦争状態を継続中の国で、その危機意識は現実的だ。両者に共通するのは、各シェルター(地下避難所)を孤立させないように、通路で結んでいることだ。当然、電気・水道などのライフラインの繋がりも必要とされる。アリの巣は一つの入り口であったり多数であったりする。しかし、生き残るためにせっせと地下壕造りに励んでいる。せめて首都圏にも、地震や空襲による延焼から人々を救うため、街角の至るところに地下への避難口が設けられることを期待したい。パリやローマのカタコンベにしろ、カッパドキヤの地下都市にせよ、結局安全なのは地下という人類の性(さが)は、これからも続いていく。

 

 

 

ショートショート
三島家の節分

 年に一度の節分がやってきた。例年のように、三島家の応接間には遠藤一家がやってきて、ソファーに座る。遠藤夫婦と息子、娘一家全員が角を生やし、腕には豆が溢れる五升枡を抱えている。対面のソファーには、三島夫婦と息子、娘一家全員が角を生やし、腕には同じような五升枡を抱えている。遠藤家の面々は赤鬼で、真っ赤なドーランを顔に塗りたくり、三島家の面々は青鬼で、真っ青なドーランを顔に塗りたくっている。三島家と遠藤家は一言も喋らず、目を見開いて互いににらみ合う。

 コンコンとドアをノックする音が聞こえ、三島家妻が「どうぞ」というと、静かにドアが開いて烏帽子をかぶった男が顔を出し、「お揃いですね」といって入ってきた。二家族の共通の主治医である藤波が、立派な行司衣装をまとい、片手に軍配を持っている。まずは行司が二家族の間に立って、挨拶をした。

 「さて去年の節分では、三島家が遠藤家に貸した五千万の返済問題でバトルが交わされ、次の節分までには何とかするとの確約を遠藤家から得ることができました。この問題は解決済みということで、今年の節分を始めさせていただきます」

 すると、いきなり三島家夫が行司に向かって豆を投げつけ、「おいおい、早合点するなよ。金はまだ二千万残ってんだ」と怒鳴った。
「ままま、落ち着いて。行司さんには豆を投げないでください。豆は鬼どうしで投げ合ってください」と行司は顔を擦りながら慌ててたしなめた。
「だからさ、その二千万は、うちの息子に嫁ぐあんたの娘の持参金にしてやるといったじゃないか!」といって遠藤家夫が反論し、三島家夫に豆を投げつける。すると遠藤家息子が横から自分の父親に向かって思い切り豆を投げつけたので、父親は口をポカンと開けて息子を見つめた。
「行司さん、血液検査の真実を語ってください!」

 行司は、急にいわれたので戸惑いながらも心を落ち着かせ、説明を始めた。
「さて今回の節分に向け、遠藤家息子さんの提案で、全員採血して当院が検査をした結果、遠藤家息子さんと三島家娘さんは血の繋がりのあることが判明いたしました」
 すると三島家夫がいきなり行司に豆を投げつけ、「それはいったいどういうことだ!」と怒鳴りつけた。行司は軍配で豆を避けながら、「つまり、三島家奥様と遠藤家旦那様の間にできたお子様が三島家娘様ということです」と解説する。
 驚いた三島家夫は、豆を自分の妻に投げつけ「いったいどういうことだ!」と詰め寄る。すると妻は豆を夫に投げ返し、ワッと泣き出して逆上し「あんたがあたしをかまってくれなかったからよ!」とわめいた。

 三島家夫は豆を遠藤家夫に投げつけ、「お前、人から金を奪っただけじゃなく、女房までも奪ったのか、この人非人め!」といってもう一握り投げつけた。三島家娘もこれに同調して遠藤家夫に思い切り豆を投げつけ、「お父さん、よくも私の人生を台無しにしてくれたわね!」と怒号を浴びせる。すると三島家夫が娘に向かって豆を投げつけ「あいつのことをお父さんと呼ぶんじゃない!」とたしなめたので、娘もシュンとしてただ泣くばかり。

 すると今度は遠藤家娘が三島家夫に豆を投げつけ、「まさか私もおじさんの子供じゃないでしょうね」と疑り深い眼差しで睨みつけると、三島家夫はバツの悪そうな顔をする。「行司さん、どうなんですか?」と娘は行司に豆を投げつけた。行司は意外な方向からの豆に軍配が間に合わず、頬をさすりながら「お察しのとおり、あなたは三島家の旦那様のお子でいらっしゃいます」と答えた。遠藤家娘は只々呆れるばかり。遠藤家夫は自分の妻に豆を投げつけ、「キサマもか!」と犬のように吠え、三島家妻は自分の夫に豆を投げつけ、「これで帳消しね!」といって鬼の首を取った鬼みたいにガラガラ豪傑笑いする。

 で、こんどは三島家の息子が行司に豆を投げつけ、「それで僕はどうなのよ」と聞いたので、行司は胸を張って「あなただけは、正真正銘のご両親のお子様でいらっしゃいます」と答える。息子は胸を撫で下ろし、「よかった。これで三島家の財産はみんな僕のものだ」と勝手な解釈をした。

 しかし興奮状態に陥った三島家娘と遠藤家息子は、急に立ち上がって枡を放り投げ、行司の前でしっかと抱き合い、「あたしたちは結婚できないの?」「どうなんだ先生よう!」と詰め寄る。行司は怯えながらも冷静に、癌患者に死の宣告を下した先週のことを思い出して勇気を取り戻し、医者の立場からきっぱり「結婚は差し控えたほうが良かろうかと……」と、か細い声で答える。とたんに二人は大粒の涙を流してワンワンと泣き叫び、「こんなに愛し合ってるのになんで結婚できないの!」「兄弟だって結婚できるだろう!」と四つの手で行司の襟首を掴み、行司は壁際まで押し込まれて上に掛かっていた絵が額縁ごと落ち、烏帽子を潰して頭頂部に当たり頭を抱えてしゃがみ込む。

 するとすかさず四つの手が行司を吊し上げて立たせると、三島家娘が震える声でおしとやかに、涙ながらに懇願する。
「お腹の赤ちゃんはどうなるん?」
 とたんにソファーに座っていた全員がたまげて一斉に飛び上がり、口をポカンと開けたまま行司の次なる言葉に耳を傾けた。幸いなことに四つの手のうち二つの手が急になくなったので、行司が喋れるぐらいに楽になれたのは、初聞きの遠藤家息子が驚きのあまり失神して床に倒れたからだ。けれどそれも一瞬で、ゾンビのごとくよろよろ立ち上がり、三島家娘の腹に片耳を当てながら、上目遣いに「さあ先生、どうしましょう」と気持ちの悪いぐらいに優しく行司に尋ねた。

 しかし行司は数分前から厳格な病院モードに入っていて、淡々と「早いうちがよろしいでしょう。最近承認された経口中絶薬を明日処方してさし上げます」といったから二人は完全に逆上。床に置いた枡を掴むと、めちゃくちゃに豆を投げ始めた。するとそれに呼応して家族全員が豆を投げ始めたので、豆の飛び交う応接室は修羅場と化す。行司はただ一人だけ、再び壁際にしゃがみ込んで、豆弾丸の尽きるのを待つことにした。

 突然パアンと大きな音がして、豆合戦はピタッと止む。クラッカーのテープたちが愛し合う二人の頭に落ちた。紐を引いたのは遠藤家の妻だった。
「おめでとう。孫ができるなんて母さん嬉しいわ。早く結婚式を挙げないとね」といって遠藤家妻は二人に近寄って三島家娘にハグをし、手持ちの豆を至近距離からしゃがんでいる行司に思い切り投げつけた。
「さあ行司さん。あたしは二人のために覚悟を決めました。あなたの隠している真実を、あなたの口からいいなさい。あなたがいわないなら、あたしがいいます」

 行司は体を震わせて渋々と立ち上がり、豆鉄砲から身を守るために軍配を顔に当て、ふてくされながら口を開いた。
「血液検査の結果、遠藤様の御子息は、私めと奥様のお子であることが判明いたしました。これは不都合な真実であると同時に、明るい未来を招く好都合な真実であります。これにより、三島家御令嬢と遠藤家御子息のご結婚は可能であり、お腹のややこも健やかに育つことを保証いたします」

 応接間はクラッカーが鳴り響き、大歓声のもと、一度に二人の子供を失った遠藤家夫だけが意気消沈。「さあ、今年の節分はこれをもって終了いたします。来年の節分に向け、みなさん明日から恨みつらみをお貯めいただき、徐々に鬼になっていってください」といって行司が後ろの壁の引き戸を開くと、そこは大広間になっている。有名ホテルから来たシェフや給仕が、九席分のフルコース料理を整え、控えている。毎年のように両家族はにこやかに談笑しながら、各自好きな席に着く。三島家娘は、ショックで血の気のなくした遠藤家夫に気付き、実父で義父でもあろう彼を支えて席に着かせると、まずはシャンパングラスにシャンパンが注がれ、両家の乾杯となった。行司がすっきりした顔つきで立ち上がり、音頭を取る。

「さあ、昨年の鬼たちはすっかり退散いたしました。次なる一年が幸せに満ちたものになることを願い、乾杯!」
 バカラグラスの弾き飛ぶような快音が、大広間中に鳴り響く。

(了)

 

 

 

 

 

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エッセー「ひょっこりダーチャ島]& 詩

ひょっこりダーチャ島
~浮島で難民を癒す~

 大分昔のNHK子供番組に『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969年)という人形劇があった。この島は瓢箪の形をした浮島で、海の上を漂流している島民が織りなす空想物語だ。その島名やキャラクター名を借りた『漂流劇ひょっこりひょうたん島』が2015年にシアターコクーンで上演され、原作者の親族が「断りがなかった」と苦言を呈したという。空想物語といっても、要は水に浮く材料を使って島を造れば浮くわけで、浮島自体が夢物語というわけではない。実際ペルーのチチカカ湖に浮かぶ水草(トトラ葦)製のウロス島は、伝統的な人工浮島として観光名所にもなっている。日本でもバブル経済で地価が高騰した時代、『メガフロート』という鉄板製の人工浮島が官民連携で開発されたことがあり、羽田D滑走路建設のコンペでは埋立方式と競り合った(結局埋立方式を採用)。

 もっとも、ウロス島はペルー領内に完全に帰属している島だし、メガフロートは埋立地の代替として岸に隣接させる計画だった。それに反し、ひょっこりひょうたん島は海のどこかを漂流している島なので、それがどこかの国の領海に入ってしまえば恐らく警告を受けることになる。地球は探検しつくされ、領有権のない場所は残る南極、北極、公海に限られる。つまりひょっこりひょうたん島は、あくまで物語上の島で、それが風の向くまま潮の向くままに漂流すれば、いずれは領海とか排他的経済水域に侵入して大きなトラブルになってしまうだろう。

 けれど公海は、地球市民が誰でも利用できる共有領域なので、そこに浮いている限りにおいて、ひょっこりひょうたん島は誰からも文句を言われない(国際海洋法によって認められる限り)。しかし島民は無国籍というレッテルを貼られることになる。この地球では、どこかの国に属さない人間は「無国籍」の扱いを受ける。人は良く「自由人」などと気軽に話すが、この世界では自由人などは存在せず、いるとすれば自然人か透明人間だ。アマゾンの奥地では自然人の方々が自由に生活しているが、彼らが帰属を意識していないからそうなので、ブラジル政府が勝手に彼らの存在を推測し、ブラジルに帰属していると思っているだけの話だ。彼らにとって国籍があろうがなかろうが、環境が保護されている限りはその人生に何の影響もないだろう。

 ところが国連の世界人権宣言第15条には、「すべての人は、国籍を持つ権利を有する」と謳われているから、国籍は人類の権利らしい。それがなぜ権利なのかというと、地球は国単位で分割されており、国民は国からサービスを受ける権利を有するが、どこの国にも属さない人間は、どこの国からもサービスを受けられない。サービスなんざいらないと我を張っても、彼らが狩をしようと山に入ったり、作物を作ろうと土地を耕せば、山や平地全てが個人や地方政府、国に所有されているので、お咎めを受けることになる。だから無国籍者は、生きるためにどこかの国に属すべく必死に国籍を取ろうとする。つまり人間にとって国籍は、いまの世界にとって生きるための必要条件なのだ。そして国籍を取ると、その人間は国に管理されることになる。

 国からサービスを受けるということは、国に恩返しをしなければいけないことを意味する。権利を持てば義務が生じる。例えばそれは税金だったり兵役だったりするわけだ。平和ボケしている日本人は、税金は理解しても兵役は理解しにくいだろう。けれど隣国が攻め込んできたら、たちまち理解することになる。つまり常識の範囲内で、人間にとって税金と兵役は、いまの世界にとって国籍とともに生きるための必要条件なのだ。だから脱税者も兵役逃れも罰せられ、脱走兵は督戦隊に背中を撃ち抜かれる。

 ならば、仮にウクライナ全土がロシアに占領され、半永続的にロシア領となったらどうなるだろう。ウクライナという国は人々の国籍とともに消滅し、そこに住むウクライナ人はロシア国籍を取る必要があり、ロシア政府に税金を納めなければならなくなるし、ロシア兵として徴兵され、他国への侵略に加担しなければならなくなる。それが嫌なら土地を捨てて無国籍者として放浪するか、難民申請してどこかの国に落ち着き、その国の国籍を取るか、あるいはどこかの難民キャンプに入るしか、生きる方法はなくなってしまう。現在ロシアの占領地域では、渋々ロシアのパスポートを受け取るか、ウクライナ国内の戦闘地域や外国に逃げるかの二者択一を迫られている。トランプが大統領になれば援助はストップし、ウクライナ滅亡の悪夢が正夢になる可能性も増え、さらに難民が増えるだろう。

 島国日本の人々は、ソ連に取られた北方四島ぐらいしか実感がないが、例えばヨーロッパなどの国境周辺に住む人々は、たびたび起こってきた戦争や国境紛争などで、祖先がいろんな国の国籍を所持してきた歴史はあるだろう。昔の人も、他国に侵略されると、耐えがたきを耐えて大人しく暮らすか、国を捨てて流浪の旅に出るかの二者択一を迫られてきた。そして辿り着いた他国の温情にすがってその国の国籍を取り、落ち着いた生活を再開しようとするが、先住民からの差別に耐えなければならない。それができなかった場合は永い難民暮しとなるが、受け入れる国には拒否する権利もあり、拒否されると流民扱いされて難民キャンプに押し込まれることになる。

 内戦は宗派争いや政権の奪い合いなどで起こるが、戦争はほぼ領土、領海の覇権争いで起こる。いまのところ極地域や公海の領有権は認められていないが、公海だとされる南シナ海の領有権を巡って中国や周辺諸国の争いを見ていると、そのうち公海も南極も北極も、どこかの国が領有権を主張して武力行使する時代がやってくるかもしれない。地球上のすべての場所に所有者がいて、そしてその権利を巡って未だに紛争が続いているなら、戦争のない世界など、夢物語に違いない。わずかな望みは、パンドラの箱に残っていた弱々しい「国連」という名の希望だ。しかし戦争や迫害の被害者は悪夢の物語ではなく、現実にいる。故郷を追われた難民はおよそ1億1000万人と言われ、庇護希望者は500万人いると言われる。無国籍者も1千万人以上いるらしい。

 難民や無国籍者は流浪の民だ。ロマの人々もユダヤ人も古くからの流浪の民で、ユダヤ人の一部はイスラエル国を造って今度はパレスチナ人が追い出され、流浪の民となった。難民キャンプは自然発生的なものも含めて世界に数多く存在するが、過密で生きていくのに最低限の設備しかないものが多く、衛生管理も行き届いていない。特に1946年から続いているパレスチナ人のキャンプは、そこで生まれた子供が高齢になって死んでいくといった哀れな状況だ。当然キャンプの存続には世界中からの支援が不可欠だが、一生そんな場所に押し込んでおくのかという人道的な問題も出てくる。

 昔、アフリカやアラブなどの地域には国境線がなく、ヨーロッパ諸国の植民地支配によって人為的に引かれていった経緯がある。その結果として民族が分断され、未だに国内外の民族紛争が続いている。また、隣国との国境紛争がある場合は、国境線が未確定な場所も存在する。そこでは永年陣取り合戦が続いているというわけだ。結果として優勢な国が一方的に国境線を引くことになり、土地を奪われた国が渋々妥協すると、停戦協定が結ばれることになる。ヤクザの縄張り争いと変わりはしない。

 国境のなかった時代には、遊牧民は自由に旅を続けることができた。しかし国境線が引かれた後は、わざわざ検問所を通過しなければならなくなったし、国境紛争が起きれば検問所も閉鎖される。人間も農耕による定住以前は遊牧民で、その前は狩猟民、さらにその前は野人(野獣)だった。そのすべての時代で縄張り争いはあったし、戦いに負けると餌を求めて新天地を探さなければならなかった。しかし国境という柵はなく、東西南北どの方向にも移動が可能だった。そして新天地ではよそ者との新たな縄張り争いが始まり、負けた連中がさらに新たな新天地を求めて移動する。いまの時代に人間がこんなことをすれば盗賊として殲滅させられるが、国境地帯では似たようなことが起こっている。この野獣の性(サガ)は、人間が獣である限り未来永劫続いていく。その結果、戦いに敗れて飢え死にする犠牲者は、弱肉強食という自然の摂理のもとに忘れられていく。イスラエル人はその自然の摂理を永年にわたり実体験してきて、そのトラウマが血に流れているから、あのように頑なになれるわけだ。

 人間とその他の獣の違いは、『ライオンキング2』を観れば分かる。ライオンは、オスどうしの決闘で勝利した者が一夫(数夫)多妻の家族を作り、狩を生業として生きていくが、10頭ほどの家族の縄張りは小さなものだ。しかし『ライオンキング』のシンバは、キングとして広大なサバンナ(プライドランド)に生きるあらゆる種類の動物たちの賛同を得て、絶対王者に君臨する。つまりシンバはプーチンでも習近平でもバイデンでも岸田首相でもあるわけだ。そしてどんな人物がシンバであろうと、国はシンバを頂点としてピラミッド型に形成され、その形態は支持する人々によって支えられるということになる。

 ディズニーのアニメを観て人々が感激するように、頂点に立つリーダーがカリスマであるほど国は安定する。人々は強いリーダーを求め、弱々しいリーダーは人気が落ちる。『ライオンキング2』には『よそ者』という歌がある。その歌詞には「災いを持ち込むな」とか「あいつはよそ者、私たちとは違う、仲間じゃない」などといった文言がある。ピラミッド型の安定した国にとって、よそ者は災いを持たらす要因だ。そしてこの「よそ者」は、現代社会においては「難民」であり「不法移民」であり、「無国籍人」なのだ。彼らをあえて引き受ける国があるとすれば、その国民は慈愛の精神に満ちた人々に違いない。残念ながら日本は難民や移民の受け入れが厳しく、2021年の統計では難民認定率は0.3%だったという(2,413 人申請中74人認定)。しかしそれはあくまで民族的統一を尊重する国の方針で、慈愛に満ちた日本人が少ないわけじゃない。多くの日本人ボランティアが難民キャンプで活動しているのを見れば分かるだろう。

 地球上では土地神話が続き、その陸地がほぼ誰かの所有物なら、広大な土地を必要とするには困難が伴う。多数の難民を受け入れる土地がないから柵を作って押し込め、ボランティア団体から生きるに最小限の物資を与えられている檻が「難民キャンプ」で、かつてヨーロッパに点在したユダヤ人の「ゲットー」と変わらぬ劣悪な環境だ。しかしゲットーは迫害による強制居住区域だが、難民キャンプは行き場を失くした人々の救済を目的とする区域なのだ。そこが劣悪だとすれば、救済という本来的な目的に逆行するだろう。

 ボランティアの人たちは難民キャンプの救われない現状を実体験しているが、無関心な人がテレビなどでその映像を見ただけでも、牢獄と変わらないことは予測できる。囚人だって刑期を終えれば解放されるのに、運悪くそこで生まれた人々が生涯そこに閉じ込められて人生を終えなければならないとすれば、この悲劇的な宿命を少しは緩和させる方法を考えるのは、ヒューマニズムを掲げる地球市民の義務だと思う。特に、先進国の市民が「よそ者」に対する排他的な感情を高めつつある昨今の暗い現実を鑑みれば、難民キャンプに暮らす人々の癒しを考えることも必要だろう。

 例えばロシアでは「ダーチャ」と呼ばれる農園付き別荘を持っている人が多い。ダーチャは、スターリン時代の農業集団化で農地を奪われた農民が、せめて自給できる菜園が欲しいと食い下がってもぎ取った小さな土地の利用権だ。集団農場で働く農民は、そこに小さな小屋と菜園を作り、週末になると心を癒すことができた。これが農民以外の市民の間でも流行し、一般化したものが「ダーチャ」だ。苛酷な生活を強いられている難民キャンプの人々がそこから抜け出せないとすれば、せめて半年や一年に一回、短期間でもダーチャのような別荘で心を癒すことができるなら、それはすばらしいことに違いない。

 もちろんダーチャを造るには土地が必要になる。しかし広い土地を無償で提供してくれる国はないだろうし、貸してくれるとしても利用できない不毛地で、難民キャンプ大の土地が精々だ。ならば誰のものでもない南極大陸はどうだろうか。しかし、そんな極寒地に難民を招待したら、シベリア捕虜収容所の二の舞になっちまう、というわけで誰のものでもない候補地は南極大陸よりも広大な公海しかない。日本の政府や国民が大和民族の純血性を守り、多民族国家になることを恐れるあまりに難民受け入れを拒否するなら、ヒューマニズムを掲げる地球市民の一員として、別の切り口から支援する必要はあるだろう。きっとそれは浮島だ。

 日本は「ひょっこりひょうたん島」という奇抜な浮島発想(井上ひさし作)が生まれた国であり、「メガフロート」という浮島技術が確立された国でもある。この発想と技術を過去の歴史の中に埋もれさせてしまう手はない。メガフロートは実証段階で面積84,000㎡まで造られた経緯があり、2000年に世界最大の浮島としてギネスブックに認定され、耐用年数も100年を超えるという。大きければ波風による揺れもなくなる。構造はシンプルで部分的な切り離しも可能なことから、交換によって耐用年数を延ばすこともできるし、浮島どうしを順次合体させて拡大も可能だ。また地震に強く、沖合では津波の心配もない(津波被害は沿岸地域で起こる)。さらに深い公海は栄養価も低く、生息する生物も少ないので、生態系に影響を与えることもないだろう(かえって藻も生え、影が出来ることで魚が集まってくる)。

 唯一心配なのは、海流でどこかの国の領域に侵入することだが、複数の錨による固定はもちろん、曳航チームによる引き戻しは可能だろうし、地球深部探査船「ちきゅう」で活躍している自動船位保持装置を進化させれば、微動だにしない浮島も実現可能に違いない。また、台風などの高潮に対しても、スリット付カーテンウォールを波打ち際に垂らした「波エネルギー吸収装置」が威力を発揮し、漂流防止にも役立つという。電力は、四方に波動発電機や風力発電機を備えれば賄えるだろう。

 この広大な新島は全面平坦で小型飛行場も併設し、船も着岸できる。もちろん、島の中央部にはヘリポート付のビル(ブリッジ)も建設され、万が一の避難場所として利用されるだろう。均等に分割されたダーチャはそれぞれに菜園と瀟洒な小屋が造られ、その屋根は太陽光発電パネルだ。一つのダーチャは、6~12家族にシェアされる(滞在は1家族1~2カ月)。菜園には潮風に強い小木や作物が植えられ、彼らは継続して作物を育て、難民キャンプに戻るときは収穫物を持ち帰ってシェア仲間と分け合うことができる。我々にとってそれはバカンスのように見えるが、苛酷な環境で暮らす難民キャンプの人々にとっては、ボロボロにされた心の止血帯か、沙漠に降る恵みの雨だ。たとえそれが一滴の水だとしても、きっと生きる喜びや希望を与えてくれる。ならば浮島は、地球温暖化で水没し、住む島を失った人々のためにも貢献できるかも知れない。

 島も船も、そこから抜け出せない限り、「獄門島」や「幽霊船」という悪いイメージが付きまとう。しかし、難民キャンプはそれらと同列の地獄なのだから、大海に浮遊する浮島は世界中のどこにも行き場がない人々にとって、爽やかな海風を運んでくれる癒しの場になることは間違いない。公海は広大だ。まずは1号島からチャレンジしてみよう。そしてこの浮島が進化発展できるなら、水中プロムナードも完備して、カプリ島のように多くの観光客が訪れるようになるかも知れない。そのとき彼らは、労働の権利をも取り戻すことができるに違いない。

 

 

喪失

愛する人を失ったとき
その人は私の持ち物だったことを知った
きっと大好きだったイヤリングの片方を落としたとき
残った片割れを眺めながら涙ぐんだように
スマホに残されたあの人を眺めている
いままでどれだけ持ち物を失くしたか分からないけれど
いつも新しい物を買い足していった
それらは欠いた心に纏わりついて
いつの間にか傷口は分からなくなった
愛する人を失うとき
いつもあのイヤリングを思い出す……

 

 

 

 

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