大学生が考えるブログ

大学生が様々な物事に対して考えたことをアウトプットしていきます。批判訂正誹謗中傷など思ったことがあればコメント頂けると嬉しい限りです。

”ひねくれている”という言葉について

 "ひねくれている"という言葉について考える。

 

 はっきりと言うが、自分は"捻くれている"や"捻くれ者"などの言葉は嫌いだ。

 

 "捻くれている"という言葉はその人の他の人には無い特徴、その人の持ち味ともいえる点をマイナスのイメージで捉えさせる。
 自分ではその人の考え方が理解できず、論理的な反論も思いつかないが、普通と違うから、自分と違うからという恣意的な理由だけでその人を"捻くれている"と表現する。
 "捻くれている"表現された方は、その言葉の負のイメージを意識的に受容し、"捻くれている"と言われた自分の特徴を自分の汚点と捉えて改善しようと努力してしまうのだ。

 それが自分の長所となるかもしれないのに。


 "捻くれている"という言葉は、その人を同調圧力に屈させ、個性の尊重と言われながらも没個性的な人間を育んでいる現代社会に一役買っているのではないか。
(もっとも、人間は均一化されているほうが、資本主義の社会で立場が上の人達や政治家には都合が良いのだろうが。)


 果たしてどのくらいの人がこの記事を読んで"捻くれている"と思ったのだろうか。


 自分は"捻くれている"という言葉をプラスに捉えていきたい。

 そしてみんなが"捻くれている"ということをそれぞれの持ち味として肯定し、賛美し合えるような社会になればおもしろくなりそうだ。

大学付属の中高一貫校、中学受験について

 大学が付属している中高一貫校について考える。

 

 自分は大学が付属している中高一貫校に中学受験して入学した。

 

 大学付属なので大して勉強をしなくてもいわゆるエスカレーター方式で大学にいけてしまう。確かに楽は楽であったが、どうなのかと思うところがあった。

 

 まず一つ目に、たいして勉強をしなくて良いので、勉強に対する意識が低く、勉強をする意義なども考える必要がなかったので、ただただ大学に入れればいいやくらいの気持ちでしか勉強をしなくても良いところである。

 自分もそうであったのだがもちろん全員ではない。中高一貫校の人を大まかに分けると、勉強に興味心があり勉強の意義を知り自ら勉学に励むタイプ、勉強はしたくないが平均点数などに追われてある程度テスト勉強はするものの付け焼刃程度の知識しか得られなかったタイプ、とりあえず大学にいければよいだろうと楽をして大学にいけるギリギリライン程度の勉強しかしなかったタイプである。

 最初のタイプであれば、中高一貫校はそれなりに勉強できる環境があるので、土台となる基礎学力はしっかりと定着し、大学に入っても一般受験の人達にも劣らないような良い成績を残せる。しかし二番目のタイプはとりあえず単位はとって置くくらいの勉強しかせず、最後のタイプに至っては下手すれば留年、退学ということになっている。

 

 二つ目は、将来のビジョン形成ができてる人が少ないということである。

 中学受験は正直、本人の意志でその道を選んだという人はほとんどいないと思う。小学生のときから具体的なやりたい勉強を決めるのはもちろんのことだが難しい。なので、何かがしたかったから、などの意欲や願望が少ない。

 もちろん中学生の時点ではそこは中高一貫でない人とも同じではあるだろう。しかし中高一貫でない人達は、高校、大学受験というところで、真剣に自分の進路を考えられる機会がある。自分で考えた進路なので勉強に対する意識もまったく違うものになってくる。

 中高一貫はたいして勉強しなくて良く、大学も保障されているので、未来に対して考えなくてもある程度いけてしまうのである。なので、その日が楽しかったら良いなどの短絡的で幼稚な考えでもまかり通ってしまう。

 このような考え方は大学に入っても続くので、学問とはなんぞやという感じにサークルやバイトに明け暮れる大学生活になってしまう。自分の将来を考えられる展望性の重要さに気付いたときには、既に周りの大学生たちには置いていかれている。

 

 このようなところがあるので、楽をさせたいからなどのような安易な理由で中学受験をさせて中高一貫校に入れることは、怖いことだと思う。

 

 しかし、これらのようなデメリットを吹き飛ばせるくらいのメリットはある。

 それは、勉強ができる環境は整っていて、勉強に対する意欲があれば、確実に中高一貫ではない環境で勉強をするよりも良い結果が得られるという期待ができることである。さらに周りの友達も中高一貫に通えるだけのお金がある家庭の人であるということもあり、将来を見通す展望性と、それをもとに今なにをする必要があるかを考えられる人にとってはとても良い環境になるだろう。

 だが、現状としてそのような良い環境として利用できた人達は少数派であることは間違いない。

 

 以上が中高一貫校の現実であり、惨状である。

 

 これから中学受験したい人やさせたい人達の参考として頂ければ幸いである。

某ヴァイオリニストのゲームバキバキの件について

 ヴァイオリニストのゲームバキバキの件について考える。

 

 例の件は、その家庭では子供がゲームをする時間をルールとして決めていて、その時間外にゲームをしていたため、母親がゲーム機を真っ二つに折った、ということだそうだ。

 

 まず真っ二つうんぬんの前に、なぜゲームをする時間を制限していたのか、その規制の意味をきちんと子供に伝えられていたのか、という疑問を抱く。

 理不尽な規制は人間にとって負の感情しか沸かない。もし規制の意味を子供に話していたとしても、子供がその規制を破っていたということは、きちんと伝わっていなかったということではないか。

 

 規制という形で意味も分からないままに上から押さえつけるというのはいかがなものか。親としては教育してるつもりかもしれないが、子供は何を得たのだろうか。

 きちんと理由や意味を子供に説明すれば、規制などする前に子供が自発的に考えて行動できたのではないだろうか。と考える。

 

 次に規制を破った子供に対しての行動についてだが、ゲーム機をバキバキに真っ二つにしたというのは理解ができない。

 感情に任せて、衝動的に物を破壊して子供に何の教育ができたのか。他人の所有物は自分が気に入らなければ壊しても問題ない、感情のままに物にあたっても良い、ということを教えたかったのだろうか。子供はそのようなことをされても恨みや怒りの感情を抱くだけだと思う。

 論争をするときにもいえることだが、自分の考えに屈服させても、屈服させられた方は自分が否定されたというような負の感情しか抱かない。自分で気づくように誘導させ、自発的に考えさせることが重要だ。暴力的な方法ではその場は凌げるかもしれないが、双方にとって不利益である。

 

 ところで、この件の母親の対応は間違いだという意見ではあるが、だからといって本人に多数でよってたかっていじめるのは違うと思う。大多数の人の否定の意見に乗っかってただいじめたいだけのような人がいる。結局この件で一番人間として間違っているのは、この母親ではなく、匿名で安全な場所から弱い立場の人をよってたかっていじめている人達である。

 

 

 

 

 

大学生の一眼レフについて

 なぜ大学生は一眼レフを買いたがるのか、なぜ一眼レフを買う大学生はダサいと思うのか、について考える。

 

 なぜ大学生は一眼レフを買うのだろうか

 まず一眼レフを買っている大学生は、オシャレに興味を持っている人が多い。オシャレの延長線で自己表現の場を求めて一眼レフに行き着く。一眼レフを持っている大学生に嫌悪感を抱いてしまう理由はここにあると思う。大抵が自己顕示欲にまみれていて、写真カメラを趣味にすること自体に価値を感じているようにみえる。写真を撮りたいという意欲は表面的にしかみえず、一眼レフを持ちたい、写真を撮ることを趣味といいたいだけという意欲が透けてみえるところに気持ち悪さ、ダサさを感じる。どうせ大学生といえば一眼レフ、というような大勢に流される理由もあるのだろう。

 

 そのような人達は欲望を秘するという美しさを感じれる観念を持って欲しい。自己顕示欲をだらだらとSNSなどに流し続けても醜いだけである。これを醜いと思わないような浅い人が周りに集まるだけである。

 

 もちろん中には本当に写真を撮りたくて買った人もいるだろう。しかし、上記のようなオシャレ目的な人と一緒にされてしまう、というようなことも想像できる。本当に写真を撮りたい人にとってはとても迷惑である。

 

 たしかに一眼レフは便利である。持つだけで芸術家気取りになれ、ボタンを押すだけで芸術品を創作っている気になれるのだから。

 

 なぜ自分は買いたいのか、自分は本当に写真が撮りたくて一眼レフを買いたいのか、オシャレ目的になってないか、大勢が買うから買うなど流された理由になっていないか、買って数年後も使うのか。ということを、一眼レフをこれから買おうとしている大学生には考えて欲しい。

技術と欲望の癒着について

 現代文明にとってもっとも大きな問題の一つは、「技術と欲望の癒着」である。(ちなみに「技術と欲望の癒着」は自分が講義を受けている大学の教授の表現であり、自分のものではない。)

 

 技術は、啓蒙主義や拝金主義、世俗主義の現代人の内にある凄まじい願望と果てしない欲求と手を携えてひたすら猪突猛進している。技術が技術を呼ぶという形で、技術は自己増殖していく。

 自然界には、均衡、調節、浄化の力が働いている。しかし、技術と専門化に支配された人間にはこれがない。技術は大きさ、早さ、力を自ら制御する原理がない。したがって、均衡、調節、浄化の力がない。

 自然界に今の巨大技術は異物として作用している。技術に、自然そのものの自己回復力、浄化力は追いつかなくなり、自然に不可逆的な変化をもたらしている。

 例えば、砂漠化や原子力発電の問題である。

 人間は生命現象の流れの内なる生命の一つである。この流れからは誰も孤立できない。したがって人間は生命活動全体へと奉仕し、それと結びつく責任がある。

 

 しかし、現代人は、そのことは自分とは無関係だと決め込んで、ただぼんやりと見過ごしている。自然の悲劇は人間の悲劇と密接に結びついているということを理解しようとしない。

 地下に放射性廃棄物が大量に埋蔵されている世界に生まれて、誰が喜ぶのだろうか。

 

 資本主義経済のなかの競争によって、欲望のままに技術を高めあうのは結構だが、未来世代に対する私たちの義務や責任を今一度考えていこうとする態度が必要である。

いわゆる意識高い系の大学生が行うビジネスについて

 意識高い系の大学生が学問の優先順位を下げてまで行っているビジネスなどについて考える。

 ツイッターでよく目にする、月○○万円稼いでます、興味あったらDMよろしく!のような胡散臭そうなあれである。

 

 その人達がやっているのは簡単に言うと”社会人ごっこ”である。

 ”社会人ごっこ”を通して、ある程度のビジネスの仕組みが分かり、何かに取り組んでいるという充実感とそこそこのお金ももらえる。

 

 しかし、この”社会人ごっこ”には怖いところがある。

 まず”社会人ごっこ”に没頭してしまう人達は、元々は日々に何かしらの不満を持ち、充実感がなく、学問の意義などもあまり理解できていないような人達である。そのような人達に、ビジネスをやっているんだという他の大学生にはないことをしている特別感や充実感は強烈であり、”社会人ごっこ”に没頭して、圧倒的自己肯定感のために懐疑心を失い、盲目的になってしまうことである。

 大学生ビジネスを信仰し、所属している会社がブラックであることや、お金儲けに良いように利用されていることに気づけない。

 

 まずそれ以前にそのビジネス自体が犯罪紛いであるような場合もあり、詐欺被害にあったりすることもある。簡単な金儲けのノウハウを販売すると謳い、大学生にお金を振り込ませた、というニュースも目新しくない。

 

 確かに就職活動などに有利になるなどメリットはあるかもしれないが、本質を見抜くための懐疑心を失うのはナンセンスである。”社会人ごっこ”もほどほどにしておきたいものである。

お金について

 お金について考える。

 

 お金は現代社会で生きていくうえではなくてはならないものだが、お金だけがあってもなんの意味も成さない。つまり、お金はあくまでも何かを得る手段であり目的ではない。

 

 しかし、お金が目標になっている人が多いように思う。資本主義経済のなかでは、お金があればなんでも出来ると考えている人が多い。お金や経済をまわす一人として一種の洗脳をされているとさえ思う。

 資本主義経済によってお金をまわそうまわそうとするあまり、短絡的な欲求や安易な快感を満たし表面的な充実はあるが、実際には何も得られていないようなつまらない商品が市場を占有している。そのような表面的な充実は何も考えずしてお金を払うだけで得られるので簡単で楽ではあるが。

 

 そして、もしお金持ちになってブランド品や高級車を買っても、それらの他人が勝手に実際以上に価値を高めた中身のないものをカッコよく思う浅い人が周りに集うだけである(その商品の性能などに惚れて買ったのなら別だが)。

 自分は中高私立に通っていたので、それなりにお金持ちの家に生まれた人達を見てきたが、無論、その人の周りにはお金目当ての人がほとんどを占め、その人自身の価値に惹かれて寄ってきた人は少なかった。その金持ちの人達はそれで幸せだったのかもしれないが自分はそれが幸せだとは思わない。

 

 つまり、お金は生きていくためのお金と少しの余裕さえあれば良く、過剰にあっても得られる幸せは資本主義経済が作り出した虚偽の幸せで中身は伴っておらず、本質的な幸せは得られない。