ラルフ・ネルソン監督『ソルジャー・ブルー(SOLDIER BLUE)』は異色の西部劇

 キャンディス・バーゲン主演の、ラルフ・ネルソン監督『ソルジャー・ブルー(SOLDIER BLUE)』は、1864年アメリカのコロラド地方で北軍兵士によるインディアン大虐殺が実行された歴史的事件、「サンドクリークの虐殺」を題材にした、ラストが衝撃的なシーンの、異色の西部劇である。映画製作の時代背景として、ベトナム戦争(1960年〜1975年)がある。



               どの映画館で観たのか(1971年2月)は調査中



ドイツ盤のDVD(最近まで国内盤DVDは発売されていなかった)







女優かたせ梨乃主演映画『肉体の門』

 いまBS日テレ放送中の時代劇ドラマ『松平右近事件帳』のS2『新・松平右近』で、しじみ売りのおらん役で、初々しいかたせ梨乃が出演している。時代劇初出演で同じく里見浩太朗と共演、テレ東の『大江戸捜査網』の流れ星おりんの延長にあるイメージだが、威勢よくもっと軽い感じ。
 主演映画では、五社英雄監督の『肉体の門』が面白く、ギラギラする魅力を放散していた。キャスティングも豪華で、またいつか観たい作品である。







 

映画『ソイレント・グリーン』と演劇『皆に伝えよ! ソイレント・グリーンは人肉だと』

 この映画『ソイレント・グリーン(SOYLENT GREEN)を映像上の現実として使いながら舞台化したのが、ルネ・ポレシュ作・演出の『皆に伝えよ! ソイレント・グリーンは人肉だと』。2006年春、TPT主催、江東区のベニサン・ピットにて観劇している。隣の席に何と篠井(ささい)英介さんが坐り驚いた。幕間に「失礼ですが、しのい英介さんですね?」と声をかけると、「ささいです。故郷では多い苗字なんですよ」とのご返事。演劇ファンとしては恥ずかしいことであった。

       (1973年6月 日比谷映画劇場にて鑑賞 )







 

矢作芳人調教師の米国ケンタッキーダービー挑戦、ハナ・ハナ差の3着、無念

 

唐十郎、奇しくも寺山修司没後40年の祥月命日に逝去

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▼劇団唐組のブログ記事によれば、まだ東京のどこかに紅テントを設営して芝居を上演しているのを知り、驚いた。こちらは、寺山修司主宰天井桟敷の初期公演は〈勤勉〉に観ていて、鈴木忠志の舞台はいまに至るまで熱心に観ているが、状況劇場(後に唐組)の紅テント公演を観たのは一度だけである。むろん新宿花園神社境内での公演、『お化け煙突物語』(1981年両国で初演とのこと)。閉所恐怖症の気味あり、こういう客を詰め込んでの(たしかミニ座布団利用)芝居見物は向いていなかったのだろう、紅テント公演は、その後観ていない。ただ、1988年浅草隅田川岸、安藤忠雄設計の仮設劇場下町唐座での『さすらいのジェニー』は観劇している。緑魔子の存在感と水しぶきの印象は残っている。自分探しの迷路に酩酊するような展開を、歳をとっても愉しめるかどうかである。個人的には、『少女仮面』と『下谷万年町物語』の舞台が印象的であった。
 http://ameblo.jp/karagumi/(「劇団唐組:公式情報」)
 http://rokushin.blog.so-net.ne.jp/2016-10-10-1(「唐十郎「夜壺」:石原藤樹のブログ」)

(1981年2/21、蜷川幸雄演出『下谷万年町物語』PARCO西武劇場にて。この日は、大人の文ちゃん役は、唐十郎ではなく、小林勝也。)

(1982年7月、小林勝也演出『少女仮面』PARCO SPACE PART3にて。若き渡辺えり子が裸身を晒したのは、この舞台だけなのでは?)

(1982年9月、出口典雄演出『吸血姫』俳優座劇場にて。)

(若き吉田鋼太郎がいる。)
 (1982年11月、出口典雄演出『愛の乞食』PARCO SPACE PART3にて。主宰する劇団が「上半身はかなり鍛えてはきたが、どうも下半身が弱い」とみずから認識した出口典雄は、「役者と言葉との間にある断絶」を突き破る手がかりとして、唐十郎の作品を選んでいる。)

(1983年2・3月、蜷川幸雄演出『黒いチューリップ』PARCO西武劇場にて)

(1989年3月、蜷川幸雄演出『唐版・滝の白糸』日生劇場にて)

(1989年12月、蜷川幸雄演出『盲導犬日生劇場にて。解散SMAP木村拓哉桃井かおり財津一郎らとともに出演。女の子たちの嬌声?で騒がしくて進行が妨げられた。)

simmel20.hatenablog.com▼昨日何となくNHKBSプレミアムを観ていたところ、『アナザーストーリーズ』というドキュメンタリー特集シリーズの今回「越境する紅テント~唐十郎の大冒険」を放送していた。かつての状況劇場の演劇活動の軌跡と、状況劇場を継承した唐組と唐十郎の現在を、唐十郎状況劇場に関わった、小林薫不破万作、故十八代目中村勘三郎勘九郎などの証言を交えて追求・紹介していて懐かしかった。状況劇場の出発点が、数寄屋橋公園の池での芝居と逮捕であったことを知り、さても「水」と法律違反が芝居の原点にあったのかと不覚にも知った次第。脳挫傷で倒れた唐十郎さんもそこそこ元気な様子で安心できた。
 放送で芝居の出し物としては、唐組の『さすらいのジェニー』の舞台を紹介していた。唐組公演の『さすらいのジェニー』は、1988年春、安藤忠雄建築研究所が設計、飛島建設が施工した、隅田公園特設会場で観たことがある。唐十郎のほかに緑魔子石橋蓮司柄本明麿赤兒出演という、いま考えればたいへんなキャスティングであった。むろん水が滝のように流れ、浴びた役者たちは「ムダなエネルギー」のムダを奇怪にかつ美しく演じたのであったろう。「あったろう」とするのは、舞台の記憶がいろいろごっちゃになっているからである。

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ヤコペッティ監督の映画とヴォルテールの『カンディード』

simmel20.hatenablog.com水林章東京外国語大学教授の『『カンディード』〈戦争〉を前にした青年』(みすず書房)は、古典的作品の読み方を各専門の学者がポイントを絞って講義する《理想の教室》シリーズの一冊である。この著者は、思想史的問題をあまりに現代に引きつけ過ぎる傾向があり、この本でもそこに引っかかるが、解読の過程は、スリリングで面白い。
 ヴォルテールのこの作品には、「オプティミズム(最善説)」という副題がついている。岩波文庫版(植田祐次訳)の巻末訳注によれば、この言葉は、「たとえ細部においてこの世の合目的性が人間の理解を超えているにせよ、あらゆる出来事は人間の善のために組織されており、したがって可能な限り最善であることになる」と説く「哲学上の立場」をさし、「ドイツのライプニッツやイギリスのポープらによって説かれた」とある。「全き言葉」の支配を暗示する「パングロス」という「最善説」の哲学者の「洗脳」から、「白さ=ナイーヴさ」を暗示する「カンディード」青年が、いかにして解放されていくかを物語った、「一風変わった教養小説(ビルドゥングス・ロマン=ロマン・ダプランティサージュ)」が、この作品なのだということになる。
 カンディードの育てられた伯父男爵の城は、ドイツのウエストファリアに位置していることから、三十年戦争の帰結としてのウエストファリア条約の記憶がこの作品には刻印され、さらに1759年発刊のこの作品の背景には、1756〜63年の最初の世界戦争といわれる七年戦争があると推察される。城を追放されたカンディードは、戦争の現実に遭遇するのである。ところが、パングロスから与えられた「最善説」の知識によって、戦争も戦場も美的な対象としてのイメージで捉えられた。やがてカンディードは、その視点から移行して、解剖学的な部分に分解された、「筆舌に尽くしがたい苦痛を強いられた身体」が死体として散乱する戦場の現実に直面することになる。彼の成長とはこのような意味においてである。
 なお戦場の場面以外にも『カンディード』には、断片化される身体のイメージが執拗に現われるが、著者は巻末に補講の頁を設けて、女性の身体が快楽の道具として、細分化・断片化されて捉えられることと、産業的効率性をめざして、「労働する身体」が分解され細分化されることとは、並行した事象であり、どちらも「18世紀以降確立しつつあった産業の世界における商品関係的論理との関係において理解」されるべきだそうである。
 ともあれ、『カンディード』とは、著者によれば、こうまとめられる。
……あるひとつの世界秩序のなか置かれている人間の意識の、当の世界秩序を正当化し存立せしめている言語的な体制に対する無自覚的な服従からの自由を描くことによって、まさに世界秩序の転換ー近代世界の誕生を告知する作品である、と。……▼

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庭のアヤメ(花あやめ)咲く

 

歴史的差別(ユダヤ人差別)と差別感情

 

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▼わがHP(09年12/10)で、中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)について記述したことがある.この書には、通俗的理解や、「差別撤廃活動家」の〈専門的〉かつ〈先端的〉議論では汲み尽くせない考察がある。少し整理して再録しておきたい.

 中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)は、差別の制度あるいは慣行にではなく、それらの是正の努力や必要を認めつつも、心の内なる差別、つまり差別感情に、考察をむけた書である。人の世からあらゆる差別を根絶しようとする〈狂信的〉な〈善意〉の運動は、社会から活力を奪い文化を貧しくさせるだろうし、そもそも無理な目標である。差別感情という人間にとってやっかいで困難な心の問題こそ、根源に存在するからである。『旧約聖書』の神に試されるアブラハムや『福音書』のイエスに限りなく近いところで、しかも自身の体験を踏まえながら、人間にとっての誠実性や悪の問題を、信仰の手前で徹底的に考究している。ここでもカントの徒としての氏の妥協のなさが貫かれていて、知らずもしくは知らないことにして、差別に加担してしまっている日常の〈普通〉さに埋没する倫理的な弛緩を痛打される。
 差別感情の感情とは、個々の体験を通じてあらわれるとしても、その感情は「恒久的」なもので個々の体験・意識を超越したものであり、差別感情の対象は「嫌うべき超越的対象」としてとらえられてしまっているのだと、サルトルの憎悪論を援用して説いている。
ユダヤ人差別や被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別の場合、彼らに嫌悪を覚えるにしても、かぎりなく個人的感情から離れていることが多い。われわれは、その差別感情を学ぶのであり、それを確固としたものに築き上げていくのである。』
 しかし「被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別」は、差別撤廃の運動の成果などもあり、時間の推移とともに緩和・消失していくだろう。中島氏をmysogynist(女嫌い)で、「赤裸々にすべてを語っているように見えて」「肝心なことが抜けている。だから信用できないのだ」(ブログ)と糾弾する作家・比較文学小谷野敦氏は、「鶴の巣や場所もあろうに穢多の家」と詠んだ正岡子規を嫌っているようだが、このような制度的歴史的差別は弱まってきているだろう。中島氏は、差別的感情を、「他人に対する否定的感情」である、不快・嫌悪・軽蔑・恐怖と、「自分に対する肯定的感情」である、誇り・自尊心・帰属意識・向上心とに一応分類し、それぞれ考察している。とくに現代における本質的差別の根幹に肉薄したところは首肯できる議論である。
『(西洋型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。』
 ここから生まれる「些細な問題」の積み重ねに、多くの人間は絶望し、ときには犯罪にまで走ることもあるかもしれない。純文学としての小説がこの問題をスルーして、「花園」での〈脱俗的〉営為で自己完結している限りでは見放されるのも仕方あるまい。中島氏は、差別してはならないとの理念を見据えて、しかし自己欺瞞的な自己肯定に収斂しない生き方として、「自己批判精神」と「繊細な精神」をもって、たえず自らの内面=心を点検することを促している。▼

ギロチンの日:ブーランク作曲、ジョン・デクスター演出、ヤネック・ネゼ=セガン指揮『カルメル会修道女の対話』

www.y-history.net  本日は、「ギロチンの日」とのことである。フランス革命の最中、1792年4/25最初のギロチン処刑が執行されたことを記念している。ギロチン処刑といえば、WOWOW のオンライン配信で視聴した、METオペラ、ブーランク作曲『カルメル会修道女の対話』を思い起こす。

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▼10/3(土)午後2:30〜WOWOWライブで、ニューヨークのメトロポリタンオペラ(MET)公演(2019年5月11日)、ブーランク作曲『カルメル会修道女の対話』を視聴。魅了された。ジョン・デクスター演出、ヤネック・ネゼ=セガン(MET音楽監督)指揮のこの舞台は、抽象的でシンプルな舞台装置で構成され、ラスト第3幕のひとりひとりの修道女たちのギロチンによる処刑場面で、「金属の塊が木に落下して衝突する一瞬の音」を生々しく再現している。中心となるのは侯爵家の娘ブランシュで、美形のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が歌う。

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               (イザベル・レナード)
 ブランシュがなぜ修道院に入らねばならなかったのか、そこのところは深くは理解しかねたが、カルメル会修道院長(カリタ・マッテラ)が「厳しい戒律のなかに逃避するということではないのでしょうか」とブランシュを試す言葉があって、軽率な選択ではないことを暗示している。バルザックの『ランジェ公爵夫人』では、ランジェ公爵夫人は愛の絶望ゆえに修道院に入るが、この場合は理由がわかりやすい。

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 感動的だったのは、修道院長クロワシー夫人が臨終間際に、その身体的苦痛と死の恐怖に耐えきれず、「自分のこれまでの長い修行は何だったのか」と激しく自問の言葉を発するところ。「窓を閉めなさい」とマリー修道女長(カレン・カーギル)が修道女に命じる。「外部の人に聞かれてはまずい」と。全体として「祈り」がテーマであり、この作品じたいがひとつの祈りであるとすれば、このメタ批評こそ作品の深さを保証するものだろう。▼