宗教と科学の接点

 

宗教と科学の接点

宗教と科学の接点

 

 

 

ユングが専門の心理療法家、河合隼雄氏が宗教と科学の接点について論じた本である。

 

「死について」の章で述べられていたことが私の問題意識を疼かせてくれた。

 

「死」ぬことは人間にとって全く未知の領域で、恐ろしいので、古来から宗教の信仰でこの「恐怖感」を克服して、「安心」を得てきたと言う。しかし、近代に入って、科学技術の発達に伴い、キリスト教のドグマなどを無条件に受け入れることができなくなる人々が多く出てきた西欧では、死を特定の宗教に基づいてあれこれと論じるのではなく、この現象をありのまま観察して、解明していこうという潮流が生まれたそうである。

 

それが、いわゆる「臨死体験」の研究である。

 

臨死体験とは、事故や病気などで心肺が停止して、死んでしまった人間が、奇跡的に生還した人の体験のことを言う。ここで言う「死んでしまった」というのは、医者が「死亡

」したと医学的判定を下した場合なども入るそうだ。

 

「死ぬ瞬間」で有名なキュープラスロスは「死後生」を信じているのではなく、「知っている」ということを強調するという。

 

 

何故、キュープラスロスがそこまで自信を持って「死後生」の存在を主張するかといえば、臨死体験の驚くべき共通点や体験談からであろう。それらの、「事実」があるのだから、死後の世界は存在するのだと言っているのだ。

 


全盲の人が臨死体験をした時にそこに居合わせた人々の服装や身につけてる物まで描写できたというのである。そういう事例をキュープラスロスは報告している。

 

しかし、彼女がここでいう「知っている」というのは著者も言うように厳密な検討を加える必要があると思う。

 

ロジックで詰めていくとどうしても曖昧な部分が残る。死後の世界が存在するのなら人間の常識をはるかに超えた世界なのだろう。現実の世界を超えた世界のことを万人に納得できるぐらい論理的に詰めていくことは困難だろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去記事を読み返してみた。

久しぶりにブログを開いて過去の記事を読んでみたら、頭を抱えて呻きたくなった。なんでこんなに純粋でテンションが高いのでしょう。ナルシスティックな自己表現で溢れています。

 

 
とにかく臭い。そして、若い。(未成年のくせに何いってんだw)

 

恥ずかしい。

 

 

 

これはダメだと思った過去記事を5つぐらい下書き保存にして、非公開にしました。

 

 

 

 

 黒歴史です...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地方に埋もれてはならん・大学受験


東大理3にも受かる7つの法則―難関を乗り越える処方箋 (小学館101新書)

東大理3にも受かる7つの法則―難関を乗り越える処方箋 (小学館101新書)


本書の著者は東大医学部卒業の現役ドクターである。

東大理三に行く気はないが、興味があったので読んでみた。

東大理三に行く為の具体的なことは書かれていない。

この7つの法則とかいうのは、「受験勉強に特殊な能力は必要ない。早くから地道に取り組み、時間をかけた者が有利になる」とか、抽象的で、自己啓発的なことしか書かれていない。

本書は地方に在住で、東大合格者を何人もバンバン出すような高校とは無縁の学生、地方の恵まれない学生に向けて書かれている。

言うまでもないが、有名進学校の少ない地域は難関大学合格者が少ない。東京には、開成や麻生といった毎年東大合格者を何十人も出すような進学校が沢山ある。

それに比べて、経済的な規模も小さく、人口も少ない地方の県は、東大京大などの難関大学合格者は少ない。

著者は、地方と都心の受験の格差を生み出している原因は、物質的な問題よりも、実は別なところにあるという。

著者はいう、「それは、人々の意識の違いであり、知らず知らずのうちに心の中に壁を作っているのです。」と。

(引用開始)

地域格差を作る「心の壁」

なぜ、心の中に壁ができてしまうのでしょうか?逆に壁がない、あるいはあっても非常に壁が低いケースとというのは、どんな状況でしょうか?鹿児島県に鹿児島ラ・サールという中高一貫校進学校があります。かつては、東大に毎年80人前後の合格者を輩出していました。では、ある子どもがたまたま鹿児島市内に生まれ、しかも学業成績が優秀だったとします。地元のラ・サール中学に進学し、卒業まで上位をキープしていれば、「東大に入れるかもしれない」。そんなイメージが容易に思い浮かぶはずです。
この場合、東大に合格するには何をすれば良いのか?まずは中学入試に向けて受験を頑張り、合格したあとは周囲の仲間と競い合っていけば良いのです。目の前の壁を一つひとつクリアしていけば、自然と東大合格に近づいていくのです。
ところが、地元にそういう学校がない地域の生徒の場合はどうでしょうか。地元で一番優秀な高校に行ったとしても、東大に合格できるのは学年で一人いるかどうかという環境で育った場合、知らず知らずのうちに、あなたの心の中には壁ができています。こうした地域の生徒のほとんどは最初から東大受験など考えないでしょう。もし考えたとしても、どうすれば良いか、具体的な方法がわかりません。
周囲の大人たち、つまり親や教師の認識も同じです。「東大?東大は無理だろ。地元の○○大学にしたらどうだ」といわれるのが関の山です。そうして多くの子どもたちがら高みに登ることを諦めてしまうのです。
p53〜54       (引用終わり)

地方に住んでる人間としてこれはかなり共感できる。周りに目指す人が少なく、合格する人が少ないと、とんでもない一部の天才が行くところだと勘違いして、東大に対していたずらに畏敬の念を抱いてしまう。

(引用開始)
今まで述べたことからおわかりのように、本当は白鳥になれるのに、アヒルだと思い込んでいる人達がたくさんいます。そもそも、生まれ育った環境が異なるだけで、生来の能力に大きな差があるはずはありません。それなのに、そうした子どもたちはなぜか「自分は一流大学などに入学できるはずがない」と思い込んでしまうのです。このように、本来同じ能力を持っていても、一方は受験に対してある程度自信を持ち、他方はまったく自信を持っていない。その結果、進む道も大きく変わってしまいます。
p54〜55         (引用終わり)

当然だろう。毎年東大合格を何十人も出すようなレベルの高い進学校がなかったり、少ない地域に生まれただけで、別に都心の有名進学校の学生と能力的に劣っているわけではない。僕の住んでいる県の一番偏差値が高い高校でも、毎年、現役で東大に合格する学生は2、3人程度だ。県全体でも毎年10人にも満たない、とかなんとか聞いたことがある。詳しく調べたわけではないが。

そんな感じなんで、そりゃ最初から諦めて地元の大学目指すわなぁ...と思うのでした。




死後の世界は存在するのか? No.1

死後の世界は存在するのだろうか。これは未だ人類は解明できずにいることだから、結論は出ない。どんなに学びを深めても、最終的には信じるか、信じないか、という「信仰」の問題になってしまうのだろう。

しかし、死後の世界について学ぶことに意味がないわけではない。様々な本を読み、死について、あの世の実在性について考えた上で、信じるか、信じないかという「信仰」は選択されるべきである。

僕は死後の世界や臨死体験に関して書かれた本を生きている間に読み、考えない人は本当に残念なことをしていると思う。自分でじっくり勉強して、自分なりの結論を出してから、死にたい。

死んで、本当にあの世に行ってしまった時、死後の世界や霊魂について学んでおけば良かった、知っておけば良かったと後悔したくはない。

死後の世界について学び考えていきたい。僕の場合、霊魂や死後の世界は存在するという前提があるから、興味がある。存在するんだという信念にもっと確信を持ちたい。存在すると思うから、もっと知りたい。

「生きていくことの意味 トランスパーソナル心理学・9つのヒント」という本を読んでいたら、臨死体験について書かれた興味深い記述があったので、これから引用する。

生きていくことの意味―トランスパーソナル心理学・9つのヒント (PHP新書)

生きていくことの意味―トランスパーソナル心理学・9つのヒント (PHP新書)


"臨死体験は死後の世界をかいま見た体験であり、したがってそれは霊や魂、死後の世界の実在を証するものである"という"死後の世界=霊魂実在説"をとるか、あるいはそれは"幻覚"であり、"妄想であるとする"脳内現象説"をとるか、二派に分かれて活発な議論を展開しているのです。
今のところ圧倒的に人気が高いのは、"死後の世界=霊魂実在説"のほうです。しかし、立花隆さんのような良識派は、いずれが正しいとも言えない、決着は付かないらという立場をとっています。実際いずれの説にも根本的な欠陥があるからです。
まず、"死後の世界=霊魂実在説"に対する批判には、次のようなものがあります。臨死体験にはたしかに"暗いトンネルの通過"  "体外離脱"  "他者との出会い"  "光との出会い"  "人生のパノラマ的回顧" といった共通点があり、そしてそれらの出来事は "臨死体験=死にゆく瞬間のリアリティ"としてはたしかに認めることができる。
しかし、"死にゆく瞬間の体験"は、"死そのもの"とも、ましてや"死後の体験"とも明らかに異なっている。したがって臨死体験を、すぐさま死後の世界と直結させ、それを"死後の世界をかいま見た体験"と同定するのはあまりに大きな論理的飛躍である、と言うのです。
また、もう一方の"脳内現象説"に対しては、そのような還元論では体外離脱した臨死体験者が自分の家などに行き、普通に考えればとうてい不可能な情報を手に入れる、といった現象を説明できないではないか、という批判があります。
p211〜212

臨死体験とは、事故や病気で仮死状態になった人が、死後の世界とおぼしき光景をかいま見るといった体験のことをいう。
出典
29rinsi

臨死体験者の様々な証言は、死後の世界を証明する根拠として、リアリティに満ちており、あまりにも強烈だと思う。臨死体験者の体験報告は今では珍しいものではなく、世界中に沢山有るが、それらの問題点を指摘し続け、否定しようとすることは難しいことだ思う。

僕も臨死体験者の体験報告から、死後の世界についての確信を強めた。

疑うことはなかった。

しかし、「"死にゆく瞬間の体験"は、"死そのもの"とも、ましてや"死後の体験"とも明らかに異なっている」という一文を読んだ時、臨死体験の体験報告を根拠として信じることは、論理的には破綻しているのだと思った。

心情的には死に臨んだ体験と死んだ後の体験なんて同じものではないか、理性的過ぎると思う。死に限りなく近い。死んだ人にも会っているのだから、限りなく死に近い。臨死体験者は死人と同じ場に居た。死人と同じ世界にいた!

と叫びたい。

古い本からの引用なので、今はどのような議論がされているのかは分からない。恐らく、平行線のままだろう。

どちらにも根本的な欠陥があったとしても、人間の心情的に、死後の世界=霊魂実在説をとる人が多いと思う。

本稿で分かったことは、臨死体験には二つの説があり、どちらにも根本的な欠陥があり、どちらが正しいとも言えない、死後の世界とはそんなに簡単に証明できるものではない、ということだ!

これからも継続的に、死後の世界について考えていきたい。









孫正義 働く君たちへ

この本は、「ソフトバンク新卒LIVE」編纂委員会が「孫正義ライブ2011」にて、孫正義が若者たちに向けて語ったメッセージのエッセンスを抜き出して編集されたものらしいです。 p2

一番心に残った部分を引用します。

どんなに優れたビジョンや優れた戦略を持ち、素晴らしい情報を集めても、口にするだであれば意味がない。
ビジョンを実現させようと思ったら、さまざまな制度、立ちふさがる現実など、戦わなければならない局面に必ずぶち当たる。
自分が戦って事を成せるという自信、成すという覚悟がない限り、高邁な理論は無責任な絵空事にすぎない。言うだけなら、誰だってできるのだ。p67

うーん。今の自分は志を模索している状態だから、人生に対する明確なビジョンはないけど、世のため人のために何やらでっかい事を成し遂げたいという思いはある。その為に現実と戦う覚悟があるだろうか?と自分に問うてみた。数ヶ月前よりかは格段にあるなと思った。最近、やる気に満ちてるし。

孫正義は大ボラ吹きだったが、彼は吹いた大ボラを一つ一つ実現していった偉大な男だ。
目的に向かう強い意志、覚悟、自信。どれも天才的だ。正直、悔しい。同時代にこんな破天荒でかっこいい生き方をしている人間がいるのに、自分は何をしてんだろと思う。

夢を持ってそれを誇らしげに語る人間なんてこの世には沢山いる。しかし、夢を実現できる人間はほんの一部だ。上に引用したような覚悟や自信がない。公言してもほんとは心の中で達成できるなんて思ってなかったり、自分を信じれなかったり、現実と戦う覚悟がなかったりと。
それで諦めて終わる。

そんな人生送りたくない!!

この世は青春の野望で溢れている!!





三四郎ー漱石の社会批評

夏目漱石に最近はまっています。はまっているといっても、「こころ」と「三四郎」しかまだ読んでいません。両作共に無料アプリの青空文庫で読みました。意外と読みやすかったです。昔の文豪の作品は難しいとばかり思っていましたが、読んでみると、案外読みやすく、面白かったです。

思えば、青空文庫を初めて見つけた時、「わー本が無料で読めるー」と興奮しましたが、蓋を開ければ「なんだ、古臭い作品ばっかじゃーん」
と少し残念に思ったものです。しかし、少し年を取ると、昔はつまらないと思ってたものの価値に気づくものなのでしょう。

無料アプリ「青空文庫
「三四郎」は徹夜で一気に読みました。漱石の作品はどれもアニメや漫画、推理小説歴史小説などの軽く柔らかく歯と顎をあまり使わなくても食らえる作品・書と比べれば、斎藤孝氏のいう様な「顎を鍛える食らうべき書」でありました。



三四郎は、夏目漱石の「それから」、「門」へと続く前期三部作の一つです。






九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、ときに三四郎の内面にはいる。
                                                      Wikiより

本作品は、三四郎の精神的成長を描いた日本で最初の教養小説としても名高いです。

教養小説(きょうようしょうせつ)とは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のこと。ドイツ語のBildungsroman(ビルドゥングスロマーン)の訳語で、自己形成小説とも訳される。          
                                                    wikiより



1894年に始まった日清戦争は1895年に終わります。
そして、
1904年から始まった日露戦争は、
1905年に終結すします。どちらも日本の勝利となります。
そして、
この作品は、1908年の9月1日から12月29日にかけて朝日新聞に連載されました。


日清・日露での勝利により、日本が世界に一気に文明国としての実力を認めさせた時期に書かれています。

三四郎という一人の青年の精神的成長を描いた小説でありますが、日露戦争後の日本社会を批評している側面もあります。

特に心に残ったというより、引っ掛かった部分を引用します。

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。
日露戦争以前を振り返ってみれば、日本は外国に契約させられた「不平等条約」を改正する為に強力な改革を推し進め、必死で国力を増強してきた時代でした。

王政復古の大号令から始まり、版籍奉還と地租改正、廃藩置県、徴兵制、近代的陸海軍の設立。

日清戦争の勝利、旅順での激戦、日本海海戦ー大国ロシアを破り世界を驚かせた日露戦争での勝利!!そして、日清・日露での勝利は幕末以来の悲願である条約改正へと結びつきます。

この歴史の流れから考えた時、ふと思いました。

漱石のこの文章から推測できることは、日露戦争以前の時代を生きた青年、書生は国家の為に駆り立てられたのではないかと。何故かって?
当時の日本は物凄いスピードで近代化を推し進めたましたから、一つの理由として富国強兵の為に大量の優秀な官僚が必要だっただからだと思います。官僚育成の為に「我々時代」の青年は「他本位」であったのではないかと読んでて勝手に推測しました。

日露戦争後の日本はどんな世の中だったのでしょうね。文明国としての実力を世界に認めさせ、日本の若者にも精神的余裕があったのかもしれません。少しは「自我の意識」を持って学生生活を送るような余裕が。


もう一つ漱石は何がいいたいのだろうと疑問に思った一文があります。


「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
ここで、私の思考が駆け巡りました。

利他本位って何だ?
利他とはー自分を犠牲にして,他人に利
                              益を与えること。
本位とはー基本とするもの。

合わせると、

利他本位とはー自分を犠牲にして、他人に利益を与えることを基本とするもの。


ということになる。


利己本位とはその反対で、

利己とはー自分だけの利益をはかること。

だから、

利己本位とはー自分だけの利益をはかることを基本とするもの。

ということになる。

「利他本位の内容」でまず、政治家の仕事が頭に浮かびました。
政治家の仕事の内容は決して、「利己本位」ではありません。本質的に「利他本位」です。

例えば、法律を作る、国会で審議を行い予算を決定する、内閣総理大臣を選ぶ、議員として地元の有権者の意見に耳を傾けたり、演説をしたりetc....

そんなこと言ったら、社会の中で「仕事」と呼ばれるものに、本質的に「利他本位」でないものなんてないのですが。どの仕事も「利己本位」に走ってしまうような構造、性質を孕んでいたとしても、「働く」ことは本質的にに人の為、社会の為に役立たれるよう還元されていくものです。

「利他本位の内容を利己本位で満たす」という言葉の正確な意味は何なのか?それは、作者の漱石にしか分かりません。

私はこの言葉の意味は別の言葉を当てはめて、「利他本位の仕事を利己本位の動機で満たす」と理解しました。
その例を簡単に上げれば、政治家です。
国民の為にやらなければならない利他本位の仕事内容であっても、名誉欲、金銭欲、権力欲、ひっくるめて立身出世などの利己本位の動機で仕事をしている人が多いと思います。
動機は何であれ、その仕事を立派にしていれば良いと思いますが。さて、どうでしょう。

そんな政治家の例として橋本徹でもあげましょう。

橋本氏は著書「まっこう勝負!」でこう述べています。

「なんで『国民のために、お国のために』なんてケツの穴がかゆくなるようなことばかりいうんだ?政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。自分の権力欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければいけないわけよ。(略)ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!」

これこそ当に、漱石のいう「利他本位の内容を利己本位でみたす」ではないか!!と私は思いましたとさ。 



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差別を爽やかに振り払え!!今更だけど15年前の直木賞受賞作「GO」を読む

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金城一紀直木賞を受賞した小説「GO


は、主人公の在日朝鮮人杉原李が日本人の女の子桜井椿に恋をする物語です。2001年に映画化され大ヒットしその年の映画賞を総なめにした作品です。
※杉原は在日朝鮮人(北朝鮮人)から韓国の国籍を取り在日韓国人になります。やはり、朝鮮籍よりも韓国籍の方が何かと都合が良いのでしょう。

主人公の杉原は在日朝鮮人として育ち朝鮮人の通う学校いわゆる朝鮮学校の中級学校(日本の中学校に当たる)に通っていました。しかし、そのまま朝鮮学校の高級学校に入らず、受験して日本人が通う一般の高校に入学しました。

そこでの日本の学生との様々な軋轢も描かれています。もちろん日本人の友達もできますが。本書の裏面のあらすじにも書いてあるように、「軽快なテンポとさわやかな筆致で差別や国境を一蹴する、感動の青春恋愛小説です」。

杉原は桜井に自分が在日韓国人であることを明かさずに付き合いを重ねます。しかし、杉原は桜井とホテルで寝ようとする時、自分が在日韓国人であることを告白します。父に子どもの頃からずっと「韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ」(p188)と言われていた桜井は、杉原と行為をすることを拒否します。杉原はそのことにショックを受けホテルを後にし桜井と別れます。


しばらく時が経ち、杉原は高3になりクリスマスイブの日が来ます。その日、杉原は桜井から電話でデートをしたあの小学校に来てという連絡を受けます。

そして、桜井と杉原は再会します。

杉原は桜井の目の前にひざまずき、こう叫びます。

「別にいいよ、おまえらが俺のことを≪在日≫って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ?何かに分類して、名前つけなきゃ安心できないんだろ?でも、俺は認めねえぞ。俺はな、≪ライオン≫みたいなもんなんだよ。≪ライオン≫は自分のことを≪ライオン≫だなんて思ってねえんだ。お前らが勝手に名前をつけて、≪ライオン≫のことをよく知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前をを呼びながら近づいてきてみろよ、お前らの頚動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。分かってんのかよ、おまえら、俺を≪在日≫って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねぇのかよ。言っとくけどな、俺は≪在日≫でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだよ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけりゃ、おまえらの望み通りこの国から出てってやるよ。おまえらにはそんなことできねえだろ?おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだって行けるぞ。いつだって行けるぞ。悔しいだろ?悔しくねえのかよ・・・・・・。ちくしょう、俺はなんでこんなこと言ってんだ?ちょくしょう、ちくしょう・・・・・・」
p245〜246

この叫びに差別される側である「在日」の本音や苦しみが詰まっていると思います。

本作では在日に対する日本人の「差別」も明るいタッチや暗いタッチでいろいろ描写されています。

在日韓国人朝鮮人は、まず人格を見て評価されません。韓国人、朝鮮人であることでその人の全てを否定されてしまうのです。ヘイトスピーチなどはそれに当たります。
日本のネット右翼は、在日=反日、在日=低脳、暴力的等々。一括りに語ります。


在日韓国人朝鮮人などについていわゆる「在日特権」などの批判もあり、全てを擁護したり全面的に同情する気はありませんがやはり「差別」はダメでしょう。

国籍などで差別される側の気持ちに立てば、杉原の気持ちも理解できるのではないでしょうか。

「おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。」
ここに韓国人・朝鮮人であるだけで、何人かだけでとやかく言われる、差別される苦しみが表れています。

私も、日本人であるだけで差別されたら、杉原のように「俺は俺なんだ」と言いたいです。
俺を見て評価してくれと。いろんなしがらみにとらわれず、俺という人類の中の何人とか超越した一人の個性真理体として見てくれと。ちゃっかり某宗教団体の教理の用語が入ってしまいましたが。

他者の気持ちを考えて、言葉を選ぼう。反日嫌韓や在日差別で答えるのではなくて。なんてありきたりのことしか言えませんが。仲が悪くても、隣国だからと言って仲良くする必要はない、と言う人もいますが、仲が悪いよりも良い方がいいに決まっていますから。


ネトウヨもこれを読めば、少しは違う国の人の立場にたって物事を考えられたりして。

ということで、在日についても考えさせられる上に展開も早く飽きないので面白い!!オススメの一冊です。