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あと九時間ほどでお盆休みだ!九時間というと長いが、だらだらせず、仕事に打ち込めばあっというま。。。であることを期待したい。
毎日、本当につらかった。お盆休みのあともこのいやーな職場で働くが、ひとくぎり。。。
ここまで耐えるのにも、様々な方法を使った。その一つがこのブログ。
実力のない自分を思いきり棚上げし、腹立つ職場の同僚(なんて考えたくもないが)の悪口を口汚く書きまくった。おかげで、多少は気が紛れた。
未経験と、自分の仕事の覚えの悪さが故にいびられているわけなので、ストレスが全部吹き飛ぶ、とかはない。しかし、この「多少」がなければ、辞めるか死ぬかしていただろう。ずっと、仕事で自殺する人に対して
死ぬくらいならやめればいいのに
と思っていた。しかし、あまりにハードに押さえつけられると、次の職場でも同じ目に会う気もするし、なにより、漠然とした逃げられない感に心が支配される。そして、定年とかがくるまでそれから逃れられない感じ。
死にたい、ただもう楽になりたい
そんな風に思ってくる。。。
死なずにいられたのは、妻と、このブログのおかげだ。読むひとは特にいないのでノートに日記を書くのでも良かったが、ブログにして良かった、と思っている。
今日一日がんばろう!
いちねん
今の仕事についてもうすぐ一年がたつ。
思い返せば色々なことがあったが、正直、すべて吹き飛ぶように過ぎてしまった。
よく続いたなー、と思う。一年間、陰湿な感じでいびられ続けたのに耐えた、ということ。性格にMっけが全くないので、苦痛しかなかったのに、よくもったな。。。
そのせいか、仕事人としては全く成長しなかった。
先輩方の自慢話によると、僕は、先輩方の二ヶ月目とかより成長していないらしい。他の職場なら3ヶ月でやめさせられているらしい。ならばなぜクビにしてくれないのか。。。
自分の方の間違いもあった。
まず、自分に全く向いていない職業を選んだこと。次に、つらい状況を、仕事の実力を高めるより、人当たりとか、ストレス発散の方法とか、そういうので打開しようとしてしまったこと。
負けん気を発揮し、一流を目指す気持ちがあれば、今頃、そこそこの者にはなっているのかもしれないが、そういう気持ちは、とうの昔に潰されてしまった。自分の甘さもあったかもしれない。とにかく、つらいだけの一年だった。
もう、気力も残っていない。
こないだ、妻といるとき、うつろな目で、
もう死んでしまいたい
と何回もつぶやいていたらしい。
妻のために生きていこう、自分なんてどうなってもいい。
とか思い続けたけど、終わりは近いのかもしれない。妻の笑顔のためにもネガティブなことは言わないようにしていたのだが。。。
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全然眠れない。
夜中に何回もめがさめ、本当にきつい。
仕事も本当にいや。でも、やめて他の仕事が見つかる気もしない。。。どうすればいいのか。。。
妻にも、仕事のしんどさを言い出せない。ただ、普通でいいんだけど。
普通のとこで。嫌みっぽいねちねちジジイや、アホのどヤンキーがいないとこでいいんだけど。見つからないかなあ。
どこか新しいとこに行きたいな。ここじゃなきゃどこでもいいから。
僕が田舎で暮らすまで9
つづき
地元へ帰るために行動を起こすことにした。
まず、妻に言う。そして妻とは離婚する。色々考えたが、僕がこれから地元で明るく生きていける可能性は10%ないだろう。そして、地元で生きていくことを考えると共働きせねばならない。僕の4倍の年収を持つ妻に、それを捨てて田舎で貧乏暮らしをしろというのか。。。妻はまだ若い。いい人が見つかるだろう。まあ、二十歳とかではなかったが。。。既婚者にも関わらず、よくもてていた。
そして、その話し合いと平行してバイトをやめる。我々は使い捨てのコマ以下の存在だ。これはさっさと終わるだろう。
さらに平行して、地元へ帰る旨、家族に告げる。これは拒否される可能性もある。その拒否の内容によっては僕が地元に帰るよう説得するか、そのまま東京に居続けるかを考える。
ということにした。
初動では、妻は離婚拒否、バイトは慰留(されると思わなかったため、面食らった)、家族からは歓迎された。
離婚を拒否されたのにはびっくりした。聞けば、
一緒にいて、弟を気遣っているのはわかっていた。今回のような申し出があれば、いつでも仕事をやめ、ついていくことに決めていた。もともとお金のことを考えていたらあなたとは結婚しない。
とのこと。脳がどうにかなっているのか?この時点ではギリギリまで説得を続けることにした。
バイトに関しては、慰留していただいたのはうれしいが、例え東京に残るとしても、このバイトは続けられない。体が本当にきついし、よそのコンタクト屋との競争もきつい。それに、音楽活動を続けながら、という理由がないのに続けられるほど、思い入れもない。12年くらいやっていたのに。。。ということで契約期間満了でやめることにもっていった。有給(!)は消化しなくてもよかったのだが、会社が執拗に、僕の自己都合での退職という形にこだわったので、ぷちいやがらせな気持ちで消化することにした。
残るは妻だ。東京にいる妻の両親にも反対された。僕みたいなのとむすめが一緒にいることにピンチを感じないのか。。。尊敬する義実家ではあるが。。。
結局、妻の説得には失敗した。
強行手段に出ても良かった。しかし、自然がいっぱいな僕の地元は何もなく、観光地ですらない。ここで別れたらすれ違うことすらないだろう、なら、最後は気持ちよく終われないものか、と思っていたので、話し合いを続けた結果、向こうを折ることが出来なかった。甘かった。
結果、僕は妻と二人で地元に帰ることになってしまった。ありがたいが、申し訳ない。
つづく
僕が田舎で暮らすまで 8
つづき
とりあえず考えたのは、これからどういう気持ちで生きていかなければならないか、ということ。都会にある程度慣れた人間が田舎で暮らすのは難しい部分がある、と常々思っていた。
何も成せない人間でもそこにいるだけで、地方にいるよりすごい人になった気にさせてくれる都会。手に入らないものの替わりが、どこにでも売っている都会。さほどあたまを使わなくても、女の子を毎週ちがうところに連れていける都会。苦労している気にさせてくれる都会。。。こう書いてみると、何もない僕のような人間にとっては真綿で首をしめるタイプの毒親のような土地だが、だからこそ、だ。
考えに考えた結果、二つのことを決めた。
1、これから東京を離れること、地元に帰って起こること、全ては自分の決断から来ている、と認識すること。
2、自分の幸福はある程度捨て、なるべく後回しに考えること(これをしないと、精神を病む可能性が。。。)
これが決まれば、あとは具体的なところだ。お金とか、仕事とか、そういう。
とりあえずは、実家のなるべく近くに部屋を探す。
仕事は正社員の口を探す。バイトコンボは、最終手段と考える。なぜなら、田舎は世間体についてきついところだから。。。役に立とうとしているのに、両親や兄弟を噂の的にすることはできない。しかし、家にお金をいれないのもアレなんで、どうしてもダメならバイトコンボ。。。的な。
これだけ決めれば、あとは行動だ。
つづく
僕が田舎で暮らすまで 7
つづき
僕には弟が二人いる。そのうちの一人は事故で障害を負っている。きちんとした仕事についているし、年収もなかなかのもの。
家も障害者用に改築しているし、暮らしていくのに不足はないだろう。
しかし、実家に帰るたび、何か暗い雰囲気を感じていた。その正体はわかっている。本人や、共に暮らす両親の不安だ。そして事故以降、もともと、高いプライドと被害者意識と自分への美化意識を潜在的に持っていた弟は、それを一気に発現させた。そして、それを腫れ物にさわるかのようにしか扱えない我々。
僕は離れてくらしていたが、両親のつらさは相当だっただろう。
事故以降、帰省しての生活を提案した僕に、母はこう言った。
今まで通り東京で暮らしてほしい。今の弟が自分のために誰かが生活を変えたと知ったら潰れてしまう
ずっとこの言葉に甘えてきた。
しかし、そうも言ってられないな、と感じ始めた。弟のリハビリは順調にすすみ、障害のこともだんだん受け入れられるようになっていく。しかし、それと同時に、目のなかに卑屈なねじれみたいなものが沈殿していくのも見てとれた。それは一緒に暮らす両親も蝕んで行っているように見えた。
障害者が障害を受け入れるようになっていくにつれ、周りへの感謝を覚え、人当たりがやわらかくなり、新たな道を自分で見つけ、生まれ変わったように前向きになり、周囲も感化されていく。なんて、24時間テレビのジャニーズのプロモーションのために作られたドラマの中だけの嘘だと思っていたが、まさにそうだ。
弟は折れていた。仕事も失わなかったし、家も保険金で改築された。でも、完全に折れていた。
そう思ったのは、弟の行動からだ。人が手をあげるとびくつくふりをしはじめた。幼い頃、両親に暴力的に育てられたので、人が手をあげるのがこわいそうだ。自分のような障害者はいつ捨てられるかわからないから常に謙虚に明るくしている、などといい始めた。とにかく、自分は以前からこれまで被害を受けてきたがけなげに生きている、というようなスタンスをとりはじめた。その瞳の奥には、傷ついた人の痛みよりは、卑怯ものが、自分の傷を盾にして両親をいびっている空気が流れていた。そう考えるのには勇気がいった。。。
本格的に地元に帰るタイミングを考えはじめた。自分が必要とされるとは思っていない。しかし、このままだと弟は、全てから見放されたようの気持ちで過ごすんじゃないか、そんな気持ちになった。
つづく
僕が田舎で暮らすまで 6
つづき
もうひとつあるとすれば、周りのバンドマンのある言葉だ。(すみません、やっていたこととは、音楽でした)
彼は、メインで所属し、活動していたバンドが解散してからは、そのバンドから派生する形で結成されたバンドに所属している。しかし当時、どちらかというとそれ以外のサポートでの演奏の方が活動としては活発になっていた。
彼がサポートしているバンドは七つくらいあり、そのうちの一つがアルバムを出せることになった。レーベル自体は小さいし、自己負担の割合もまあまああるが、今メジャーでかなり活躍しているバンドを手掛けた人が一枚噛んでいるとかで、百パーセント悪い話でもない。
そのタイミングで彼はバンド側から正式なメンバーになることを打診されたのだが。。。断ってしまったらしい。サポート活動を制限されるわけでも、所属バンドからの脱退を要求されたわけでもない。ただ籍を置いてほしい、という要求だ。まあ、もちろんアルバムが売れればなんらかの制約はついてくるのだろうが。。。
彼いわく
楽器を演奏するのは楽しいが、バンドのために集客に力を入れたり、長いツアーをしたり、そういう気力がもうない。バンドで成功できればいい、とは思うが、バンドに力を入れるよりは地元の楽器教室の講師の面接を受けようかとも思っている。
とのこと。
うらやましい。アルバムデビューの話もそうだが、何よりその心境がうらやましかった。彼は、音楽とずっと付き合っていくことにしている。そして、そこには自分の音楽があり、成功とか失敗とか、そういう観点がないのだ。
僕の音楽は、社会的に成功しなければクズの騒音だが、彼の音楽は、彼の幸せの一部であれば、それで
もう、世界中でアルバムが売れまくることに匹敵する。
自分はそうなりたいけど、なれない。
そう悟ったとき、自分のなかで、これからはなんのために生きるのかがはっきりとしてきた。
つづく