また遠くへ。

また遠くへ行く。

 2015/11/09

 

・私に起こっていることは、多分、私の中を探ることだ。

 だから、私が捉えている世界を知りたい、捉え方を身に付けたいと思っている。世界を理解したい。

言語を利用し、口にしてしまっている「自然」というものに近づきたい。

「自然」という名前には知覚として捉えた面もあるし、ただ言語利用しただけの面もある。

(自然というのは口にするだけ面倒になるからもうやめる。)

 「自然」という「言葉の周縁」を探っても仕方がない。

 

・自然と名付けてしまうと、多分また錯覚を起こす。自然に近づきたいというのが正確なのではなく、世界を理解したい、という方が正確だった。

 自然と名付けてしまっていた「なにか」がある。それはいのちのサイクルとか、世界の流れとか、natureとか、動物とか、風土とか現実とか理想とか善悪とか美醜でないらしい。

 

・私は、自分の捉えている世界を理解したいらしい。

 なぜかと問われても、それが自分にとって自然なことだからであり、しんどいけど必然だと感じるからだ。自らに由って、つまりは自由に立てる身体性でありたいから。

 ・・・・いや、なんというか、えー、あのー、もう「しょうがないやつ」の類なんだよねこれは多分・・・それしか言えん。

「なにか」は自分の捉えている世界の遠い・・・いや遠くなくて空気のようにあるのかもしれんけど、まぁ今は遠い。

 それに近づいていくこと、それを理解していくことが、私の捉えた世界を理解していくことなんだろう。

 

・急にまっさらになっちゃった感覚があって、よくわからないけど、「なにか」は「世界」とイコールではない。かなり近い気がするけど。

 で、リー・ミンウェイの展示以来さんざっぱら言っている「水の流れ」のような、「流れのような動きをするもの」なのだろうと思う。わからんが。

 そんで、「なにか」には「届く」「受け取る」「送る」が大切になってくる。ちなみにこの三つの言葉も、もしかして言語を利用しているだけなのかもしれないと思ってきている。解説はできない。贈与論なのかもしれないが、それ以外もある。

 

・私の世界は積み重ねていくものでもあるし、当てはめるものでもあるし、見つけていくものでもある。

そうしてはっきりしていく私の捉えている世界と、現状との「差」を興味深く思うのかもしれない。それを追求したい、とか。

 

・捉えている世界というのが、所謂ルーツというやつで、胎児のわたしが個人の私へ至るまでに発生さてきた私と他者、もの事のことでもある。のかな。そうだな。多分。

 

・「なにか」を「自然」と名付けていた時に、「なにか」と「自然」が自分でも、話した人もごっちゃになって、何も見えないような視野になってしまってたんだと思う。

 で、いつも以上に言葉が出なくなってしまった。言語を利用しただけだったんだから当たり前だった。

・私の捉えている世界の「自然」と「なにか」は違う。

 

岸井大輔との会話

岸井大輔と会話をする。

2015/11/08

 

・「生成と受け入れる」という話。

 受け入れることは自身を否定することで、生成することはかなり肯定することだ。

 矛盾を起こすけれど、そのどちらもがあったほうがいい。

 両立は難しくとも、どちらもあったほうが面白い。

 

・私は、世界の捉え方を考えているのでは?

 私がしたい世界の捉え方があるとする。「こういうメカニズムがあり、こういう構造で出来ている」という風に。

 で、それは私だけの世界の捉え方であり、他者には理解ができない。

 

・世界の捉え方を勉強したいということは、世界を理解したいという欲求と同じことじゃない?

 大きくて普遍、共通、真理の世界があるのではなく、あなたの捉える、あなたが理解したい世界がある(私以外の他者にも、もちろんある)。

 

・だから、「貴方にはまる世界観を見つけた方がいい。」ということになる。「アイヌアボリジニや山伏や仏教や。」

 世界観というのは、私の捉えている世界(あるいは理解したい世界)の中身がどんなかってことだ。

 世界観をしっかりと持ちたい、私の捉えた世界をもっと深く知りたいと思う時に、おそらく「自然」という言葉が引っかかってくると思うんだけど、自分の中で立ち上がって「自然」と便宜上呼ばれている概念を、定義しようとしたり説明しようとしたりしても意味はない。

 

・概念、もしくは形容できない「なにか」を、手っ取り早く表すために言語を利用しているだけだから。

 そのなにかは自分の中にあるもので、触れ方や表への出し方はまだわかっていないしそんなすぐにはわからない。わかったとおもったら嘘だ。