あしたできることはあしたやる

Put off till tomorrow what you can do tomorrow

ボスラッシュ

最近は善く生きるとは結局なんなんだろな、ということを時たま考えている。輪廻や宗教を信じない人間が、快楽以外を生の基盤とすることが果たして可能なのか、みたいな。僕の中にいる直感と偏見とが手をつなぎながら「違う道があるはず」と囁くのだけど、それはいまいち信用できないでいる。

その二人はどうも、プラグマティズム功利主義や快楽主義ではないやり方で僕に生きてほしそうにしていて、でもそれはエピクロスベンサムやミルや、あと20世紀アメリカの哲学者達を殴り倒せっていう話だと思うんだけど、何そのボスラッシュ。無理じゃないですかねー。と思って何かいろいろ読んでたら柄谷行人がこんなの書いてた。

http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-42.html

 

え、カントとダーウィンマルクスもそっちに入るんですか。そうですか。

 

 

シン・ゴジラの感想

こんにちは。私は生きています。皆さんは生きていますか?

 

生きるということは健康で文化的な最低限度の生活を送っていると言うことなのでシン・ゴジラの話をします。

 

これから書くのは考察でも批評でもなく、ただの感想です。特撮ファンでも熱心な映画ファンでも無い人間の与太話です。それでも読みたい暇人がいればどうぞ。

 

 まず端的に言うと面白かったです。

 ハリウッドでもリメイクされたことのある日本を代表する特撮映画であるゴジラの新作をエヴァで有名な庵野が監督するという、現代日本サブカル的にハイコンテクストであるはずの作品ですが、おそらく文脈を踏まえていなくても楽しめます。もちろん自分の中に参照点があった方が楽しめるのかもしれませんが、それは過去の自分の責任なので諦めましょう。人生諦めが肝要です。

 シン・ゴジラですが、基本的に「リアル」な日本を舞台にゴジラが急に出てきたらどう対処するのかというシミュレーション的な体の話の進み方をします。リアルに「」がついてるのは、まあそういうことです。単語が不自然に強調されてるときは、それは嘘ですよって印なので、中高生専用SNSをやってるような子どもたちは書きたくない反省文を書くときに、内心と違う気持ちには「」を付けて書くと精神衛生上良いかもしれませんね。

 で、「リアル」の話です。この映画は前半部分、というか宇多丸言うところの四幕目までは、ゴジラという災厄をリアルに描くことを非常に心がけられた作品です。怪獣が来たら一般人は無力です。死にます。今回のゴジラは強いので自衛隊もほぼ無力です。死にます。死亡フラグというかエクスキューズとかなくゴジラのせいで人が死にます。そういった災厄に対し、対処するべき日本の行政がどう行った行動を取るのかというのが延々と描かれるのですが、まずもってこの映画はドキュメンタリーではなく大衆向け娯楽作品なので「そうはならないよな」ってことが多々起こります。例えば序盤、海から突き出たゴジラの尻尾だけ見て、尻尾であると判断するシーンとか謎です。多分、尻尾か角か触手か判断できないです。あとゴジラが2回目来るときに形態が変わっているのですが、それをあっさり同一個体だと判断する登場人物たち思慮が浅すぎます。普通ならどう考えても別個体の可能性を考えます。そういう風に色々と粗というかツッコミどころが頻発するので、見る側の心にはシコリというか心配みたいな気持ちが、浮かんでは消え浮かんでは消えていきます。

 リアルを装いつつリアルでない部分がチラチラ見えるせいで、この映画面白くないかもと思っちゃうんです。でもまあご愛嬌かな、会議シーンとかの会話劇面白いしな、とか自分の心をごまかしたりしながら見ていると、ぶっ飛ばされます。何に?ゴジラに。

 この映画、僕の中で3つ凄く良いところがあるんですけど、3つの中でも飛び抜けて良いのが、ゴジラが恐いってことです。圧倒的にゴジラが強い。そのことが「リアル」な恐怖となってそれまでの粗を忘れさせます。シンとはどういう意味であるかは解釈次第ですが、ゴジラモーションキャプチャ元になった野村萬斎庵野樋口コンビからシンとは神であると言われたみたいですね。圧倒的に強いゴジラ人智を超えた存在として描かれ、そこに自ずと生じる観客の畏怖の念のようなものが、映画全体に説得力を持たせています。

 で、この恐怖の存在をどう片付けるかという話になるのですが、そこからの話の筋もまたツッコミ所が満載です。どうよそれ、みたいな展開のオンパレードです。所謂ご都合主義的に気持ちの良い(のが気持ち悪い)感じで話は結末を迎えるんですけど、あそこを諸手を挙げて褒める人とは仲良くなれないかもしれません。言い過ぎです。仲良くなれるので仲良くしてください。

 まあそんな終盤ですが良ポイント3つのうちの1つがあります。みんな大好き無人在来線爆弾ですね。心の中が晴れやかな気持ちになります。素晴らしさに溢れています。今もう一度シン・ゴジラをみたい理由の90%は無人在来線爆弾のシーンを見たいからですね。皆さんも見ましょう。

 

 

3つのうちのラストはもうよくわからなくなったので何でもいいです。会議とか竹野内豊とか石原さとみのキャラとか蒲田のあいつの見た目とか、そういうやつです。

皆さんの心の中にもそれぞれの3つ目があるのかもしれませんね。

それでは。

J1昇格プレーオフに行ってきた

 J1昇格プレーオフに行ってきた。

 セレッソ大阪vs愛媛FC。場所はヤンマースタジアム長居。キックオフは15:34。曇天。

 

 11月29日の日曜日、そろそろ師匠も走る準備を始める頃。あの日、僕は朝から面接を受けていた。わりと大きなレコード会社の面接である。集団面接ではプレッシャーも感じず、ただただ楽しく話をした。音楽産業や文化の話をするのはいつだって面白い。自分より詳しい人とならば尚更だ。それが初めて会う、自分のことを品定めしている人間であっても、それは楽しみを減らすものではない。

 

 大学8年の冬にもなってまだ来春からの予定が決まっていない僕は、もはや失われつつある活力の残滓を絞り出して就職活動を続けている。健全な精神は健全な肉体に宿るとはよく言ったもので、身体と精神は不可分であるという当たり前のことを最近再認識している。人間実際クズのような生活をしていると精神的にも腐ってきて、その腐臭に耐え切れなくなった心は、そのうちに腐臭を嗅がなくていいようにセンサーを切っていく。いろんなセンサーを切っていくと、人は辛いことを辛いと認識したまま、でも大きくは傷つかずに流していけるようになる。そのかわり、いろんなことに興味が持てなくなってしまう。そうなると更に日々は怠惰に落ちていく。水は低きに流れる。風船は子供の手から離れると遠く彼方へ飛んで行く。ハム太郎で言っていたことは真理だ。今日が楽しかったなら明日はもっと楽しくなるだろう。そして今が辛ければ、将来は更に辛いものになる。

 

 11月29日の日曜日、暗鬱な日々を打開するために朝から面接を受けた僕は昼前には解放されていた。何気なくTwitterのTLを眺める。

こんなツイートが目に止まった。日本代表の応援なんかでも有名なツンさんのツイートだ。

 僕はサッカーが好きだし、愛媛出身だし、Jリーグでどこのサポーターかと聞かれたら迷わず愛媛FCと答えるぐらいではあるので、もちろん昇格プレーオフのことも知ってはいた。僕が2年に1回程度しか愛媛FCの試合を生観戦しないようなライトなサポーターだとしても、今回のプレーオフ愛媛FCにとってJ昇格以来1番の大舞台であることは十分にわかっていたし、せっかく大阪に住んでいるのだから行ったほうが後悔しないこともわかっていた。

 でも、さっきも言ったように不感症になりつつあった僕は、何となくプレーオフを観に行くことを億劫に感じていた。実際、いつものように昼まで寝る日曜日を過ごしていたらスタジアムに行くことはなかっただろう。寒いし。

 ただ、たまたまその日は午前中から外に出ていた。そして、たまたまツンさんツイートを見た。自然と足は長居へと向かった。

 長居駅に着き、スタジアムへ。チケットを買ってなかったので当日券を買う。アウェイ自由席、いわゆるゴール裏。僕は基本的にはサイドのスタンドから観戦するのが好きだ。ディフェンスラインだってよくわかるし、何よりどっちのゴールも遠すぎない。ゴール裏からでは反対側のゴール前で何が起こってるのかよくわからないのだ。でも、今回はゴール裏に行った。なぜか。応援だからだ。観戦じゃなくて、応援。

 愛媛FCの試合でゴール裏に入るのは愛媛にいたとき以来だった。僕の長い大学生活が始まるより前の話だ。愛媛FCがJ2に上がって少しした頃、僕は愛媛FCを応援しに行ったことがある。愛媛FCがJ2に上がるまではいろいろあって、そういうことを知るとJFL地域リーグの頃に試合に行って当事者になりたかったと少し後悔したことを覚えている。8年前、愛媛FCがJ2に上がってからしばらくして初めて試合に行った僕は、何となくゴール裏に座った。正直な話、どことの試合だったか、結果がどうだったかは覚えてない。ただサッカーの応援とはこうも声を出し続けるものかと知ってはいたのに驚いたのと、スタジアムのアクセスの悪さと、屋台で買った旨くも不味くもない唐揚げの味は忘れていない。

 そんなことを思い出しながらアウェイ自由席へ入場するための列に並ぶ。横の物販では能田先生がサインを書いていて、近くには一平もいた。列の前方ではサポーターグループの人たちがみんなを鼓舞するために歌っていた。そこにはちょんまげ姿のツンさんもいた。歌に合わせて自然と僕も高揚してきて、一緒に歌いながらスタジアムへと入った。試合前の決起集会にも参加したし、多少の見辛さは諦めてゴール裏の前の方に席を取った。コールリーダーに従い、手を叩き、声を出し、みんなで応援した。

 試合は概ね愛媛FCの計算通りに進んだ、と思う。前から行く時にはしっかりゴールキーパーまでプレスを掛けていたし、外された時には5バックになることで多少サイドでボールを持たれてもしっかり守れていた。攻撃の時には大きなサイドチェンジからの折り返しや、サイドでのフリックを使ったコンビネーションプレイはしっかり仕込まれていたように感じたし、90分を通してシュート自体は少なかったが悪い内容だとは感じなかった。J1から落ちてきたばっかりのセレッソと四国の貧乏クラブとでは予算規模からして違う。ゆえに選手のレベルも違う。でも、その日僕が見た愛媛FCは本当に良いチームだった。シーズン通しての結果が過去最高の5位なのだから当たり前かもしれないけど、僕が見てきた愛媛FCのなかで一番良いチームだった。

 それでも勝てなかった。試合自体は引き分けだったけれど、シーズンの成績で上位だったセレッソが勝ち抜けていった。このシーズンの愛媛FCは本当に上手く噛み合ったんだろうと思う。シーズン前には会計に問題があって不穏なスタートだったけれど、選手もスタッフもフロントもサポーターもそれを乗り越えてここまで来たんだろう。そう思うと僕は、また当事者になれなかったなと思った。

 後半ロスタイム、何度目かのコーナーキックも跳ね返され、試合終了の笛がなると選手たちはピッチに崩れ落ちた。サポーターたちは出し続けた声を止め手拍子を止めた。そして幾ばくかの間を置いて選手たちを労うように拍手を送った。それはいつしか愛媛FCコールに変わり、その後選手や監督がゴール裏に来て挨拶をして、そして屋内へと入って見えなくなるまで続いた。みんな泣いていた。一平もうなだれていた。そして僕も泣いていた。

 試合後、サポーターグループの人が拡声器を使って話していた。みんな試合が終わってすぐに拍手を送っていたけど、それはどうなのか、本気でJ1を目指すならそれは違うんじゃないか、みたいなことを言っていた。彼は本気だった。シーズンを通して応援し続けて来たチームは過去最高の結果を出したけれど、彼は満足することなく、既に来季を、更に上を見ていた。選手たちも本気だった。本気だから試合が終わるとピッチに崩れ落ちてしまった。来季も本気でやるだろう。今季ここまで来られたのだから尚更だ。監督の留任も決まっている。フロントもスタッフも本気なんだ。

 帰り際、ツンさんにスタジアムに連れて来てくれたツイートへの感謝を伝え握手をしてもらった。

 地下鉄に乗り、阪急に乗り継ぎ、家へと帰った。家に着き、少し妹と話してから自分の部屋に入って1人になった僕は、1日のことを思い返していた。自分のこと、就職活動のこと、ツンさんのこと、試合のこと、崩れ落ちた選手のこと、サポーターたちのこと、そしてまた自分のこと。僕はまた泣いた。

 

 

© 2014 G.Kono