鷲見家’s blog

世代間のルーツを今に織り込む活動をする兄弟のブログ

[人生最大のチャレンジ]SUSANOO5期での活動

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2017年12月13日SUSANOO FES 2017に鷲見家として登壇させて頂きました。当日は250名近い方の前で3分間のピッチをさせて頂き、そこに至るまでの道のりがとても貴重な経験となりました。人生最大のチャレンジであったと言っても過言でないこの期間のことをちょっと振り返ろうと思います。

登壇からは時間が空いてしまい、運営でお世話になった事務局の方やご指導頂いたメンターの方、同期のメンバーの方にはご心配をおかけしていると思いますが、改めて鷲見家の活動に力を入れていきます。その想いも込めて投稿させて頂きます。

 

 

SUSANOOとは  

―今までにないイノベーションを通じて、人々の生活と世の中を変える取り組みや組織。特に「市場の失敗」分野に果敢に取り組む人々。― 「市場の失敗」とは、重要な問題にも関わらず、当事者がサービスの対価を支払うことが難しいために、従来の企業や行政の手法では事業構築が困難な分野。 SUSANOO(スサノヲ)は、そのような分野に果敢に挑むソーシャルスタートアップ起業家のコミュニティです。

 

 

SUSANOOへの応募のきっかけは高校の同級生

きっかけは高校同期のryoくんと話したことでした。

 ※ryoくんの活動はこちら

dothesamurai.com

 

当時自分の想いを言葉にしてryoくんにぶつけてみると、彼から僕がお世話になったプログラムがあるから締め切り間際だけど応募してみたら?と紹介されたのがSUSANOOでした。

初めはなんのことだかわからなかったのですが、送ってもらったリンクからHPに飛び、SUSANOOのVISIONを目にした時に、これだ!!と感じました。

目に留まったのは「自分らしさの追求が最も創造」という言葉。この言葉には期間中含めて勇気をもらいました。

早速応募の為の資料を作成し、なんとか応募に間に合わせました。(資料提出したのは息子が生まれた翌日で、しかも産婦人科の中から送信しましたwそのくらい切羽詰まって応募しました。ちなみにその時提出した資料がこちら。。(恥ずかしい。。)

 

奇跡的に採択!!

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※初回の集まり。荒ぶってる

 

書類選考を通過後、面接に呼ばれました。鷲見家の想いを初めて他の方に伝える機会。どんな反応をされるか本当に不安でした。僕らも本気だったので鷲見家3兄弟全員で挑みました。

結果、面接ではとても共感して頂き採択と言う形で連絡を頂きました。その後お聞きしたのですが家族の問題について本気で取組をしようとしている人がそもそも居ない中で、それを実際の親族でやろうとしている時点で稀有な存在であると。僕らの想いに共感していただけました。加えて僕らがフォーカスしていきたい「家族」については日本全体の家族関係がより良くなるといろんな社会問題に対して良い影響があるという波及性の観点もあったかもしれません。

※そもそも鷲見家が何をやっていきたいかは今後具体的に話していきたいと思います

 

ブートキャンプスタート。ぼこぼこにされる日々

そんな仲で8月からブートキャンプがスタートしました。最初は合宿でラジオ体操を主催したりテンションの高かった僕らですが、、

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※ラジオ対応の図

 

2週間に1回あるブートキャンプでメンターの方から日々ぼこぼこにされました。

「それって誰がお金を払うんだっけ?収益性を感じない」

「それができると社会はどう良くなるんだっけ?」

「本当にそれがやりたことなの?」

様々な確度からの質問攻めに合い、自分たちの中で堂々めぐりをしていました。当時、3人親族ということもあり、自分たちの考え方はかなり主観がはいっていたと思います。客観的な意見をもらう機会は本当に貴重でした。

 

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 ※家はこんな様子でした

 

 1つの強烈な具体が共感を生む

このままじゃ何も変わらない。。焦りを感じ始めた頃

具体が無いと話が前に進まないことに気づきます。僕ら鷲見家の一番弱いところです。

そこで、いろいろ試していこう!という流れから鷲見家自身で直近やってみた写真整理をあるお孫さんとそのおばあちゃんと一緒にやてみることにしました。

※この時は鷲見家がシニア世代を孫世代のコミュニケーションの架け橋となることを考えていました。

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すると、普段はしていなかったおばあちゃんの昔についての会話がお孫さんとの間に生まれました。お孫さんにっとってはそれがいつかは聞きたいと思っていた内容だったし、おばあちゃんにとっては実はあまり表現していなかった過去からの想いを口にするきっかけとなりました。

最後に整理した写真をデータ化して一緒に見てもらったところ、とても喜んでもらえ大きなきっかけとなりました

 

FES そして始まり

そして12月13日のFES。

当日は「未来の家族のあたりまえ」というタイトルの元。鷲見家ができる精一杯のプレゼンをさせて頂きました。紆余曲折を経て、少しの具体と自分たちが考えている世界観を伝えました。終わった後は「感動しました」「三兄弟でやっているのが素敵」「絶対ニーズあると思う」というようなポジティブな意見ばかり頂けて、、本当にありがたいの一言でした。ただ正直ビジネスモデルの完成というようなフェーズまで全く及んでおらず、鷲見家の活動はこれからが勝負です。三兄弟そろって年明けからすこし沈黙していましたが、お世話になったみなさんにお返しできるよう頑張っていきます。

 

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〜番外編〜【前編】カリカリラッキョ漬け

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鷲見家裏の畑です。祖父の勲がラッキョを掘っています。

 

 

①ラッキョ堀り

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ラッキョは昨年の夏頃に小さい球根を植え付け、約1年間育てます。

ラッキョには馬堆肥、灰、高度化生肥料苦土石灰を定期的にあげます。

ラッキョにはにアミスター殺菌剤、トレボン殺虫剤をまくこともたまにあるとのこと

※今年はラッキョの葉っぱが黄色くなったため、仕方なく散布

 

ラッキョの食べる部分は球根のため、掘り起こす際、備中を地面に対し水平方向ではなく垂直方向に突き刺すようにすると上手に掘ることができます。

 

 

 

②球根部分を切る

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ラッキョの球根以外のところは包丁で切り落とします。

後工程にてラッキョを水洗いし薄皮を剥くが、その際薄皮が剝けやすいように根の部分は少し深めに切るのがベスト!!

 

 

③ラッキョの水洗い

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古い農具(名称は調査中)を使い、ドロとラッキョの薄皮を取り除きます。

ラッキョ同士が擦れ合うことでドロと薄皮を剥ぎ取るため、水は控えめにして混ぜるとよい。

薄皮は食感が固く、商品にするためにはすべて取り除く必要があります。

非常に手間のかかる工程だが、食感のいいラッキョ漬けをつくるための大切な工程です

 

 

【前編は以上です!後編をお楽しみに!】

 

 

〜番外編〜自家栽培の苺でジャムを作る

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鷲見家の旧牧草地からの眺め。広い空が広がっていて、本当に気持ちがいい

 

家の横に栽培している苺を収穫しジャムを作りました!

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※肥料を適度にあげるだけで、これだけ沢山の苺が実ります。

カタチは色合いは良くないですが、味は抜群。

 

 

 

①苺のヘタとり

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②苺を水洗いして水気をきる

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③苺ジャム作り

苺を煮詰める際は中火で煮詰め、ヘラなどを使い潰しながら水分を飛ばす

途中でお好みで砂糖をいれる。

※今回はヨーグルト用の苺ジャムを作るため少し甘めのジャムにした(大さじ約4杯)

苺を潰し終えたら水分を飛ばす&鍋の下に焦げつかないよう根気よく混ぜる

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次回もお楽しみに!

 

 

〜番外編〜鷲見家のカリカリ青梅漬け

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※鷲見兄弟の実家 2017年6月頃

 

こんにちは、鷲見家次男です。

今日は鷲見家で代々作られているカリカリ青梅の作り方を投稿します!

 

①梅を漬ける桶をよく洗い乾かしておく

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・桶を乾かしたあとはアルコール消毒を実施

 ※梅を漬けている間カビが生えないように

 

 

 

②梅の準備

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・梅は一昼夜水に漬けてアク抜きをする。水は2、3回ほど換えること

・一昼夜水に漬けた梅は桶に入れる前に水洗いすること

 

 

 

③梅の量を測る

※漬ける際に入れる焼酎や酢の分量は梅の量に応じて決まるため、予め梅の量を測ること

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④梅と調味料を交互に桶に入れる

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梅4kgに対し下記の分量の調味料を準備する

・梅をパッリと漬ける素 1本

・塩→(梅の量に対し8%)Ex...梅4㌔の場合は塩320g

穀物酢、焼酎(ホワイトリカー)→梅1㌔に対し50cc

・梅と調味料は4〜5回に分けて交互に入れていくこと

・一度に梅と調味料をすべて入れてしまうと、うまい具合に混ざり合わないため、味にムラ ができる

 

 

 

⑤桶に蓋をする

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・梅の上に重蓋、重石、ビニールをかける

・すべての作業が終わったら飲むヨーグルトで一服する。

 

 

 

⑥3〜4日漬けた梅を混ぜ、最後に塩を入れる

※この工程は6月16〜17日頃に実施予定

鷲見家のルーツ[鷲見神社/鷲見城址]

こんばんわ鷲見家長男の大地です。

今日は鷲見家のルーツを紹介します。

 

鷲見家のルーツは岐阜県郡上市にある鷲見神社です。

山の上に鷲見城址もあり、そこに鳥居があります。

 

とっても小さく、今はあまり手入れもされていないですが祖母に連れられて家族で伺ったときはなんとも言えない気持ちになりました。

 

■参道前にあった鷲見氏の文脈

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■参道

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■本丸の跡?

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■鷲見氏について

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■鷲見神社脇にある鷲見城址にて

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このような自分のルーツに触れる機会が現代は本当に少なくなっている気がします。まずは自分自身の息子に残し伝えていきたいと思っています。

 

ちなみに、友人が運営している神社、お寺の投稿サイト「ホトカミ」にて鷲見神社も掲載されています!

なんと、googleで鷲見神社を調べるとホトカミにて投稿した記事が1番上にでてきます。

 

みなさんも自分のルーツ探ってみませんか?

【鷲見家長男の物語】就職活動を振り返って

おはようございます。鷲見家長男大地です。

 

今日はなぜ鷲見家の活動が始まったかということを書きたいのですが、その前に僕がどうやって生きてきたか、何を感じてきたかという経緯をご紹介したいと思います。

ちょうど3月に解禁した就職活動をしている学生にとっても少しは有益であればらと願います。

 

就職活動中の私

就職活動中の僕の頭の中を箇条書きにしてみます。

  1. 周りと同じなら安心で幸せ
  2. 挑戦して失敗するのが怖い
  3. 自分が何をしたいのか本当のところ良くわからない

まあ、こんな感じでしょうか。今振り返るともったいない就職活動だったということに尽きます。

 

周りと同じなら安心で幸せ

これは当時の僕の価値尺度をそのまま表していました。当時僕が同志社大学に在籍していました。

ゼミにも入っており就職活動期は動機と履歴書を見せ合ったり、先輩から模擬面接をしてもらったりかなり力を入れていました。

ゼミでは代々名だたる大企業に就職している先輩が多く。教授もそれを誇らしく僕らに語ってくれたことが鮮明です。

そんな環境にいるので、僕自身がエントリーをしている企業も必然的に大企業ばかりとなっていました。

そもそも、当時大学を見回しても、日本全体の学生を見渡しても、基本的には名を知っている大企業を目指す傾向は顕著だったと思います。なので、流れ的には仕方がないといったほうがいいかもしれません。

逆にいうと流れにのって自分の頭で考えなくなっていたと思います。(もちろん、全体がというわけではなく、今振り返って自分自身はそうであったという意味です)

 

挑戦して失敗するのが怖い

これが2つ目の価値尺度ですね。。今その姿勢が抜けたかは正直分からないですが以前よりは変わったと思います。

これは僕の幼少期からの環境が原因にもあると思います。

遡ると小学生のころからの原体験ですね。。

当時僕が通っている小学校は岐阜県土岐市の小学校だったのですが、なんと全校45名程度の超小規模校でした。しかも同学年は僕含め7名。。

結果どうなったかというと、基本的にどのテストでも1番という感じでした。。そんな環境にいると自分はできるやつだという勝手なプライドがありました。

ちなみに、その小学校は現在は廃校となってしまいました。

話を戻すと、その流れは中学校でも続いきました。ちなみに、中学校は2つの小学校が合併してたので人は増えたのですが、それでも学年27人でした。なので、テストは基本的に1番。

しかも、その当時部活でバレーボールをやっていたのですが学校で初めて県代表に選ばれるという光栄なこともあり、自分自身の立ち位置が完全に確立してたんですね、、

で、じゃあなぜ挑戦しなくなったかというと挑戦しなくても目立ってたし満足してたからです。逆に言えば競争環境にさらされてなかったですね。

この傾向は高校以降でも残っていたと思います。最近少しは改善したと思うのですが、直近の挑戦についてはまた書きたいなと思います。

 

やりたいことがない

最後3つ目ですが、これは学生の頃の自分にとっては難しかっただろうなと思っています。

なんせ、周りと同じなら安心で、幸せという価値観なので。

結局全ての制約条件を取り払って考えてみないと分からないですし、長い人生を考えると自分がやるべきことを決めるための材料がまだ不足していました。

就職活動のタイミングで、心からやりたいことがある方は本当に素晴らしいと思いますし、逆に無い人は焦らなくてもいいんじゃ無いかなぁと思います。

僕個人については就職して感じたことが自分自身のことを深く考えることにつながり、やりたいことが見つかりました。それが鷲見家の活動ですねー。

紆余曲折を経るのも大切なことだと思います。

 

 とりあえず今日はここまで

 

 

 

 

 

 

 

鷲見家の歴史[後編]〜災い転じて福となす〜

 

sntkd0624330.hatenablog.com

 こんばんは。以前あげた鷲見家の歴史「禍転じて福となす」の後編です

 

 

 
日本への帰還

昭和二十一年八月三十日心、日本人会の人から内地に帰るとの通知があり、早速道中の食べ物のコーリャンを炒めたりして、九月一日には出発し理春からは線路がないので徒歩で行軍し、雨の日など寒い足に豆が出来て子供たちは足がいたいと言って泣きながら歩き、九月十日頃に吉林の収容所に入り、ここでは食料の配給に当り有り難かった。吉林から新京までは無外車ですので恐ろしかった。十月のなかごろコロ島から船に乗って、十月二十一日博多に上陸いたしました。

福岡には主人の弟がいて、次男芳朗を小さい時そこへ養子にやっていました。博多からは三十分かければ会いにいけたので、会いにいきました。丁度芳朗がいて、兄の貞雄も兵隊から帰ってきていて、アメリカ軍の倉庫係として勤めているとのことで、電話で呼んら、すぐに来てくれました。

戦争に行ったのだから、会うことはできないと思っていたので、本「当に元気でいてくれて嬉しかった。家の人がせっかく来たのだら一週間でもいて、元気を付けて帰りなさいと言って下さったので、お言葉にそってお世話になりました。貞雄は倉庫係をしていたのでベイコンやいろいろな缶詰めをもらってきてくれたので、大変栄養を付けて高鷲村に帰ることができました。

 

岐阜県高鷲村での再出発

「高鷲へ帰っても入る家がなかったので、困りました。妹の家は疎開の人が入ってみえて、安く買い戻すことができたので、満州から一緒に帰った妹たちーが買い戻しました。その家の一間を借りて、落ち着くことにしました。

子供たちが、本当に長い間飢えと寒さに打ち勝ってくれたので、本当にありがたいと思いました。こんな目に合わせたのも親の責任です。許してください、申し訳なかった、今でも思っています。

十二月に入ると、いろいろな配給があり、食料も一人当りサツマイモが一俵づつと、お米が少しでした。イモが凍みるので毎日御飯がわりにイモばかり食べていました。今年は何もできないけど二十二年度の春が来たら、何か考えてやらねばと思っているところへ、ある人に土地がないのなら百姓はできないから、衣類の行商をやったらどうですかと言われた。

私は無口な方で、自分ながら商売をやれるかどうか心配しましたが、私は何も手に職がないので、仕方なく行商をやることした。お金がないので、国から生業資金を借りて二十二年二月から始めました。

 

生きていくために行商を始める

ある時は、岐阜に仕入に行き、注文の品物を買い入れるのに時間がたってしまって、帰りの汽車に間に合わず、夕ご飯がわりにサツマイモ一皿買って食べながら駅で夜を明かし、朝一番の汽車で家に帰り、朝御飯を食べてそれから荘川まで五里の雪道を衣類を背負って歩くこともあった。また雪の降る日は、国道でもバスも通らず人も通りません。歩くには近道を行くので、坂道などは雪をかきわけて行かなければなりません。また荷物をしょっているので汗だくになりました。

ひるがのは、今りっぱな町になり家も百軒ほどありますが、その頃は上がり口に二軒だけでした。家を出る時は、雪が降っていなくても途中で降り出して、ひるがのへ上がった頃には吹雪となり、道がわからなくなり日が暮れそうになり、高鷲村と荘川との境のお助け小屋の光を頼りに、たどり着いたこともありました。小屋には、木こりの人がみえて一晩泊めてもらい、次の日に道が分からないので、郵便やさんが来るのを待っていて荘川へ行ったこともありました。

長男貞雄が福岡から帰ると、役場から学校の先生になってくれと言われたので、高鷲の学校に勤めることになりました。家がないので土地を借りて家を建てるつもりで、学校の休みの日には、山の立木を買って切り出しをしておりました。しかし、屋敷を貸してもらえないので材木をそのままにしておかなければならなかった。

 

岐阜県土岐市曽木町蘭仙へ入植

その当時の学校の先生は給料が安いので自分が食べると少し残るだけでとてもお母さんに孝行ができない」と言って、昭和二十三年の数えの二十三歳で、学校を辞めて曽木町に入植しました。

私達も二十四年四月に藺仙に来ましたが、家が無いので隣の野村さんの家にお世話になり、次の日から開墾を始めました。食料が足らないので、ダイコンご飯を食べて毎日毎日やりました。私は冬は開墾をやり、夏には生活のために商売にでかけました。二十五年には家も建ち、貞雄もお嫁さんをもらい、これで一安心しました。

昭和二十三年には、藺仙開拓農業協同組合ができて二十五軒の家を建て、その準備から食料の配給からみんなの預金や借金、また農機具まで会計事務一切全部を、二十三歳の貞雄が引き受けました。昼は開墾、夜は事務で日曜日・祭日もなく冬なんかは三尺こたつを机かわりに、事務をやったり御飯を食べたりしたので、早く食べよ早く食べよと言われました。昭和二十八年に牛を三頭と鶏を二百羽飼ったりしたので、糞を畑に入れたりしていろいろな野菜が取れ、大変に助かった。

そんな折り、福岡に養子にやった次男芳朗が、腎臓病になって二十八年に二十六歳で亡くなりました。本当におとなしい子で、かわいそうで仕方がありませんでした。その後三十年までに三人の内孫ができて、長男敏彦・次男博彦・三男順一が生まれました。

昭和三十二年から長男貞雄は、開拓団の団長を引く受け、三十四年には曽木町の管理委員もやり手がないので受け、団のことで度々県庁に行かなければならないようになり増す々忙しくなりました。給料は団の役員が月六千円出すと言って下さるのに、五千円でいいと断ってしまう。県庁から職員が見えると家で泊まってもらい、帰りには梨の取れる時には梨をタマゴをといろいろ気をつかっておりました。

大川道路も自分で測量をしたせいか、毎年正月の二日と盆の十五日には決まってスコップを持って、道の掘れたところに土を入れに行きました。昭和三十六年の八月十五日にも行きました。いつもなら「ああ暑かつた」と言うだけなのに、この日は「ああ、えらかった」と言い寝こるんんでしまいました。

 

長男貞雄の死

この年の四月頃から、貞雄は足がだるいといつも言うようになりました。大分我慢をしていたと思いますが、九月の中頃から扁桃腺が悪くなり、つばきも通らないくらいになったので、医者に通い始めました。

あまり良くならないので、入院していろいろ検査をしてもらいました。医者から白血病だと言われ、急性なら三ケ月慢性なら一年と言われました。私はびっくりして何と言っていいか分かりませんでした。十月十二日岐阜大学病院に入院することになり、検査を受けると同じく白血病といわれました。本人には何も言えませんでした。

貞雄は扁桃腺の熱が下がるとすぐ「団の事務をやらねばならんから家から帳面を持ってきてくれ」と聞かないので、しょうがなく持っていきました。気分のいいときには事務をやりました。十月いっぱいは、御飯もおいしいと言っていましたが、十一月にはいっていろいろな検査をしたりカメラを飲んだり、ドロドロとしたものを飲まされたりしているうちに気分が悪なって、御飯が食べられなくなって、次第おとりでした。

これくらいなら検査なんかしてもらわない方がよいと思いました。次第おとりでむくみはでてくるし、ご飯は食べられず本当にかわいそうで仕方ありませんでした。

注射をうってもらった時は、気分もよいせいか「今度家に帰ったら、何にも役を引き受けずにテレビでも買って見てゆっくりするつもりだ。」と言いました。いかに身体も気分もえらかったことだと思います。

十二月三日の朝、県の職員が見舞いに来てくださって、話しかけてくださっても何も言わなかった。でも団(藺仙)の人が来て下さると「団をたのむ、しっかりたのむ」と言い、私達には「ますゑ、子供たちが大きくなったのも、俺とお前とで大きくしたのでない。お母さんのおかげと思わないいかんよ。」と言ってくれました。また子供の写真を見せたら、「俺にくれてくれ。」と言いました。それが最後の言葉でした。それからうとうととしていましたが、十二月四日五時頃「ごろ、ごろ」という音が致しましたので、見るともうだめでした。

これからというのにと思うと、変わってやりたいと思いました。本当に悲しいことでした。葬式は団の方で、団葬としてやってくださいました。本当に情け無くて仕方がございませんでした。次年三十七年十月には、嫁が子供たちを連れて名古屋へ働きに行くことになりました。

 

現在の鷲見家の形へ

私は一人では淋しいから、孫たちと一緒に暮らしたいと思いましたが、仕方がありませんでした。

そこで、親戚の方と相談し、三女秋子夫婦にお願いして私の面倒を見ていただくことになりました。秋子夫婦はよく面倒を見てくれて、親切にしてくれるのでありがたいと思っています。孫たち夫婦もいろいろと気をつかって、大事にしてくれるので本当にありがたいと思っています。

外に出ている娘たちも婿たちも、また孫たちもほんとうにやさしく、気をつかってくれますので、有り難く思っています。

悲しいこと淋しいこと、いろいろありましたけれど今は何も言うこともなく、幸せに暮らしています。皆々様、本当に有難うございます。