清荒神清澄寺 その3

 拝殿と護法堂の参拝を終えて、宝稲荷大明神への石段を上がって行く。

稲荷大明神への石段

 ここを上がった先にある宝稲荷大明神の前にも、参拝客が列をなしている。

稲荷大明神

 私もお稲荷さんに何事をか祈った。お稲荷さんのご利益は、確かにあると最近感じ始めている。

 祈ったことが実現したことがあったのである。

 さて、次は本尊大日如来坐像を祀る本堂に向かうが、本堂の手前には、平成20年に開館した史料館がある。

史料館

 史料館は、鉄斎美術館別館でもある。清荒神清澄寺には、幕末から大正時代に活躍した南画家富岡鉄斎の美術館がある。史料館は、その別館である。

 史料館と本堂の間には、池苑がある。

池苑と本堂

池苑

 池苑には緋鯉が泳ぎ、その奥には石組みの滝口がある。

石組みの滝口

 池苑の向かいには、一願地蔵尊がある。

 金銅製の巨大な像で、明治24年に多くの信徒たちの寄付で建てられた。

一願地蔵尊

 柄杓を使って一願地蔵尊の頭上まで水をかけ、一つの願いを祈ると、それが叶うという。

 この一願地蔵尊の前にも行列が出来ていた。柄杓で一生懸命地蔵尊に水をかけている。私は願をかけなかった。

 本堂は、宝形造の新しい建物である。

本堂

本尊大日如来坐像

 本堂の前も参拝客でごった返している。本尊大日如来坐像は、黒光りする金剛界大日如来の像であった。

 参拝する衆生とこの本尊が、実は一体であるというのが、真言宗の教えである。その中では、祈るものと祈られるものとの間に差はない。人々は自分に祈っていることになる。

 本堂の脇から、龍王滝への道が始まる。

龍王滝への道

 この道を進むと、左手に本堂の背面とその奥の練行堂が見える。

本堂背面

練行堂

 この奥は、清荒神清澄寺の聖域である。

 寺社には、その寺社の核心となる部分がある。清荒神清澄寺の核心は、この奥にあるような気がする。

ZC33S スイフトスポーツ 五年経過

 清荒神清澄寺の紹介記事の途中であるが、恐らく今回が3月最後の記事になりそうなので、定例の年1回の愛車ZC33Sスイフトスポーツに関する記事を書く。

 私が平成31年3月にスイスポを買ってから、この3月で5年が経過した。

 この1年間で変わったことと言えば、スイフト基準車がフルモデルチェンジしたことと、タイヤを付け換えたこと、2度目の車検を受けたことである。

 まずは5代目となったスイフトについてだが、この車は様々な紹介記事や動画で走りを絶賛されている。デザインも近未来的で独特だ。

 これをベースにした次期スイフトスポーツも楽しみではあるが、出るとしたら、恐らくマイルドハイブリッドが付いたものになるだろう。

 そうすると、ZC33Sが、最後の純ガソリンエンジンスイスポということになりそうだ。

 また、マイルドハイブリッドになると、当然車重が増える。次期スイスポは、重量1トンを超えるだろう。

 ZC33Sは、最初で最後の1トン切りのスイスポになりそうだ。どうやらこの車の価値は、不朽のものになりそうである。

 いよいよ大事に乗っていかなければならない。

 次に、今年2月に換えたタイヤについて書く。

 この車の純製タイヤは、コンチネンタル・スポーツコンタクト5であるが、私は2年少し前にブリヂストンPOTENZA・Adrenalin・RE004というタイヤに付け換えた。

 更に今回、ダンロップ・LE MANS Ⅴ+というタイヤに交換した。

ダンロップ LE MANS Ⅴ+

 今回は、AMAZONでタイヤを注文した。タイヤを注文して、家の近くのガソリンスタンドに配送してもらい、工賃もAMAZONで先払いして、予約した日時にガソリンスタンドに行ってタイヤを交換してもらった。

 タイヤはネットで買った方が、実店舗で買うより圧倒的に安上がりになる。ダンロップはコンチネンタルやブリヂストンよりも安い。それをネット注文したから、工賃を含んだ4本の価格は、前回よりも4万円ほど安くなった。

 さてこのタイヤ、ZC33S用のタイヤとしては、今まで履いたタイヤの中ではベストであると感じた。

 前回、コンチネンタルからブリヂストンに履き替えた際に、ハンドルが軽くなったと感じたが、ダンロップにして更に軽くなった。

 交差点での右左折でハンドルを切ると、少ない入力でスーっとスムーズに曲がっていく。また静粛性が高い。例えると「絹のように滑らかな」乗り心地である。

 町中を走る分には非常に気持ちのいいタイヤだ。

 転がり抵抗も少なそうで、燃費も良さそうである。

 その反面、ハンドルが軽い分、グリップ力が弱くて、ワインディングではよく滑るようになるのではないかと危惧した。

 ところが、遠出をしてワインディングを走ってみると、意外や意外、コーナーでこしのあるうどんのように粘るタイヤであった。

 コンチネンタルのように、高いグリップ力で道路をガチッと掴んで離さないというようなグリップではなく、餅のようにしなやかに粘るグリップである。

 コンチネンタルでは、ワインディングを気合を入れて走った後に、車を降りてタイヤを見ると、短時間の走行でも明らかに摩耗したのが分かり、タイヤから焦げ臭いにおいがしていた。

 ダンロップは、そのようなことがない。この分だと、摩耗も少なそうだ。

 正直言って、ダンロップLE MANS Ⅴ+は、軽快なハンドリングで乗りやすく、燃費もよく、耐久性もあり、更にグリップ力もある万能のタイヤのように感じる。しかも安い。

 納車から5年経って、また新たな運転感覚を味わわせてくれた。タイヤが車の走行感覚を大きく左右するのを改めて感じた。

 さて、車検についてだが、今回も今後2年間のオイル交換と法定点検料を先払いするメンテナンスパッケージに入った。

 前回はメンテナンスパッケージ+車検代で10万円を切ったが、今回は約12万円であった。交換したものはワイパーぐらいで、不具合は一切なかった。

 ディーラーに聞くと、メンテナンスパッケージの金額自体が、昨今のインフレで1万円ほど増額になったらしい。それでも、走行年数や走行性能に比較すれば、十分安いと言える。

 1年後には、スイスポもフルモデルチェンジして、ZC33Sは絶版モデルになっているかも知れない。

 そうなったらそうなったで、この車との歩みも、更に楽しいものになりそうだ。

清荒神清澄寺 その2

 清澄寺の鎮守である三宝荒神清荒神王)を祀る拝殿(天堂)に向かう。

拝殿への参道

 拝殿への参道の脇、上の写真では右側に、牛頭天王を祀る護牛神堂がある。

 ここは参拝客が列をなしていて、後で参拝しようと思って通過したが、そのまま忘れて参拝せずにしまった。残念である。

拝殿への参道

 拝殿の前は、錫杖を持った布袋さんが門番のように両側に立っている。

 拝殿には、三宝荒神大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩の他、福徳を授ける諸神諸仏が祀られている。

 ここも参拝客が引きも切らない。

拝殿(天堂)

 東面した拝殿から、浴油堂が棟つづきになっている。

 ここでは、三宝荒神歓喜天尊の合行如法浴油供(ごうぎょうにょほうよくゆく)という秘法が、毎日法主により厳かに行われているという。

浴油堂

 なお浴油堂は、秘密の戒壇として、法主と坦行事以外は足を踏み入れることが出来ないそうだ。

 この日は、初荒神三宝大祭の日で、拝殿で僧侶による大般若経転読法要が行われていた。

 三宝荒神大般若経を奉納する行事である。

大般若経転読法要の様子

 雅楽の演奏が行われ、その前に僧侶が並んで法要を行う様子は、まさに神仏習合の世界である。

 参拝客は拝殿前に集まって、その様子を一心に見つめている。一般的な日本人にとって、神事も仏事も有難さは変わらない。神仏習合している方が、一挙両得で、有難さが増すくらいの感覚しかないだろう。

 この日本人の宗教に対する大らかさが、日本本来の文化であると思う。ではこの大らかさは一体どこから来るのか。今後解くべき謎である。

 拝殿の奥には、護法堂がある。

護法堂

護法堂正面

 護法堂には、正面に大勝金剛転輪王如来荒神)、右に歓喜童子、左に弁才天がお祀りされている。ここでは荒神様も悟りを開いた如来になっているのだ。

護法堂

 護法堂の背後には、荒神影向(ようごう)の榊が植えられている。

荒神影向の榊

 影向とは、神仏が姿を現すことを指す言葉である。

 この榊の周囲にある賽銭を持ち帰り、使わないで大事に持っていると良運に恵まれるという。

 その代わり、次回参拝した時は、賽銭を倍にして返さなければならないという。

 拝殿の北側には、善女龍王を祀る龍王堂や、役小角を祀る神変大菩薩(行者洞)がある。どちらも参拝客が並んでいる。

龍王

神変大菩薩(行者洞)

 その間にあって一際目を引くのが、火箸を奉納した火箸納所である。

火箸納所

 三宝荒神は火の神様であり、火箸は厄を取り除くご利益があると言われている。

 清荒神では、古来から、厄年には火箸を授かって家庭にお祀りし、厄が開けるとお礼参りに新しい火箸を添えて、家庭に祀っていた火箸を奉納するという習慣があった。

奉納された巨大な火箸

奉納された火箸

 火箸納所には、沢山の火箸が奉納されている。

 こうして見ると、日本人にとっての信仰と日常生活とは、密接に関係しているように思えてくる。

 抽象的な教義や思想よりも、日々接する生活や自然の中に、神仏の姿を見るのが、日本人の古来からの宗教的態度であろう。

清荒神清澄寺 その1

 浄橋寺の参拝を終えて東に向かい、宝塚市に入る。

 次に訪れたのは、宝塚市米谷にある真言宗の寺院、清荒神清澄(きよしこうじんせいちょう)寺である。

 清荒神清澄寺は、真言宗十八本山の一つで、真言三宝宗という宗派の本山である。

 須磨寺に次いで、私が2番目に訪れた真言宗十八本山である。

 阪急清荒神駅から寺院までは、昔ながらの門前町が続いている。

門前町の入口

門前町のマップ

 門前町には、様々なお店が続いている。ここを散策するだけでも楽しいものである。

門前町の商店

 私が清荒神清澄寺を訪れた1月28日は、毎年行われる初三宝荒神大祭の日であった。

 そのため、普段よりも参拝客が多く、門前町も境内も人でごった返していた。

 以前備中の最上稲荷を紹介したが、ここも参拝客が多かった。清荒神清澄寺神仏習合の信仰形態が色濃く残る寺院だが、神仏習合の寺院の方が、通常の神社や寺院よりも参拝客が多いような気がする。

 しばらく参道を歩くと、一の鳥居が見えてくる。

一の鳥居

 寺院であるが参道に鳥居がある。

 清荒神清澄寺は、宇多天皇の勅願で建てられた寺院である。寛平八年(896年)に、讃岐の名工定円法眼に命じて、曼荼華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、比叡山から静観僧正を迎えて開山した。

三宝荒神様の大灯篭

 そして伊勢神宮の内宮、外宮など十五神を勧請し、竈の神様である三宝荒神を鎮守として祀った。

 清荒神清澄寺は、三宝荒神大日如来を祀る神仏習合の寺院なのである。

 参道の途中にある大灯篭は、この先が結界であることを示しているという。

 大灯篭を過ぎると、荒神川に架かる祓禊(みそぎ)橋がある。

祓禊橋

荒神

 昔の人が、荒神川の水で禊をしてから清荒神に参拝していたことから、橋の名前がついたらしい。

 ここからが現世と神聖な世界との境目とされている。

 祓禊橋を越えて進むと、露店が並ぶ道に出る。

露店のある参道

 ここを過ぎると、山門に至る。

 創建された当初の清澄寺は、元はここより東の宝塚市売布きよしガ丘の地に建っていた。寺号は、蓬莱山清澄寺であった。

 旧清澄寺は、源平の争乱や、戦国時代の争乱により焼失してしまった。

 江戸時代末期に浄界和上がこの地に伽藍を再建し、昭和22年に光浄和上が真言三宝宗を開いて、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として再出発した。

山門

「日本第一清三宝荒神王」「蓬莱山清澄寺」と刻まれた標柱

 山門を潜って境内に入ると、参拝客で一杯である。

境内

境内案内図

 参拝順路は、先ず清荒神王(三宝荒神)が祀られた拝殿(天堂)を参拝し、宝稲荷社社を経由して、本尊大日如来が祀られた本堂を参拝するのが正しいようだ。

 山門を潜ってすぐ右手に、講堂があり、その前に大きなイチョウが2本生えている。

講堂とイチョウ

 講堂の隣には、宗務所がある。どちらも立派な建物だが、それ程古い建物ではない。

宗務所

 境内の中央に、「右 大日如来」「左 清荒神王」と刻まれた標柱がある。

境内中央の標柱

 私は、参拝順路に従って、先ずは清荒神王が祀られた拝殿に向かった。

十方山浄橋寺 

 名塩の見学を終えて、西宮市生瀬(なまぜ)町2丁目にある浄土宗の寺院、十方山浄橋寺を訪れた。

浄橋寺

 この寺院は、浄土宗西山派の開祖証空上人が、仁治二年(1241年)に開いた寺である。

 寺院の縁起によると、上人がこの地を訪れた際、この地を荒らす山賊に出会った。上人は山賊に仏の道を教えると同時に、武庫川に浄橋と名付けた橋をかけ、橋の通行料を山賊に与えて生活を正した。

 その橋を守るために建てたのが、浄橋寺とされている。

庫裏

 証空上人が開いた西山派は、私が興味を抱く一遍上人を輩出した浄土宗の一派である。全ての仏教の教えを南無阿弥陀仏の念仏に集約した、一種の念仏原理主義のような宗派である。

 浄橋寺は、中世に入り、文明五年(1473年)の火災や、天正六年(1578年)の信長と荒木村重との戦乱で焼亡した。

本堂

 現在の伽藍は、明治になって再建されたものである。

 本堂には、正面の襖を開けて入ることが出来た。

 浄橋寺の本尊は、鎌倉時代前半に作られたと思しき木造阿弥陀如来坐像である。

 襖を開けると、木造阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の両脇侍像がある。

 どれも檜の一木造りで、表面には金箔が貼られている。

木造阿弥陀如来及両脇侍像

木造阿弥陀如来坐像

観音菩薩立像

勢至菩薩立像

 両脇侍像は、向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩である。

 一見して平安時代末期の作のように見えるが、衣の襞に新時代の特徴が見られるようだ。

 木造阿弥陀如来及両脇侍像は、国指定重要文化財である。

 この寺には、寛元二年(1244年)銘の銅鐘があるが、こちらも国指定重要文化財である。

 銅鍾の実物は、宝物館に収蔵されているが、精巧なレプリカが鐘楼にかけてある。

宝物館

鐘楼

銅鍾のレプリカ

 銅鍾は、四区に分かれ、「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の浄土三部経の経文と証空上人の文が陽刻されている。

 寛元二年の銘も見える。

寛元二年の銘

 また、寺院の境内には、様々な石造品がある。

 最も古いものは、応永十六年(1409年)の銘がある石造五輪卒塔婆である。西宮市指定重要有形文化財である。

石造五輪卒塔婆

 東側の舟形の中には、定印を結んだ阿弥陀如来像が陽刻されている。

舟形の中の阿弥陀如来

 石造五輪卒塔婆の背後にある二基の石造五輪塔は、鎌倉時代から南北朝時代に制作されたものである。

石造五輪塔

 こちらも西宮市指定重要有形文化財である。

 その隣には、石造露盤がある。

石造露盤

 露盤は宝形造の屋根の頂点に置かれる相輪の土台である。通常は金属製や瓦製のものが多い。

 石造の露盤は、兵庫県下でこれ以外に2例が知られるのみである。これも西宮市指定重要有形文化財である。

 また、南北朝期の14世紀半ばの制作と目される石造五輪塔がある。

石造五輪塔

地輪の地蔵菩薩

 地輪の舟形の中に地蔵尊を刻んでいる。 

 その他の文化財として、室町時代に筆写された紙本著色善恵(証空)上人伝絵(兵庫県指定文化財)や浄橋寺文書と呼ばれる古文書がある。

 浄橋寺のある生瀬は、江戸時代には宿場町であった。

 寺を出て、北に歩くと、東西に延びる有馬街道がある。

有馬街道

 街道の左右の民家は、現代の建築であるが、狭い道幅と道の雰囲気は、江戸時代の宿場町のものである。

 有馬街道を東に行くと、道はカーブする。生瀬橋に通じる生瀬通である。

生瀬通

 浄橋寺の縁起に見られるように、武庫川に架けられた橋が通じるこの地は、交通の要衝であった。

 加古川市の教信寺もそうだが、街道沿いには、浄土系の寺が建てられていることが多い。

 山寺には密教系寺院が多いが、身分の低いものが往来した街道沿いは、庶民的な浄土系の寺院が多いような気がする。

名塩

 有馬の史跡巡りを終え、山川出版社兵庫県の歴史散歩」上巻に載っている神戸市内の史跡は全て巡り終わった。

 これからは、阪神間の史跡を巡ることになる。以前芦屋市の史跡を巡ったが、今後の摂津の史跡巡りでは、芦屋市、西宮市、宝塚市の史跡を巡ることになるだろう。

 今回は、兵庫県西宮市にある名塩(なじお)という地域を紹介する。

 名塩は、江戸時代に名塩和紙という雁皮紙の生産地として栄えていた。

 先ずは、その名塩和紙の歴史を紹介し、実際に紙漉き体験をすることが出来る西宮市名塩2丁目にある名塩和紙学習館を訪れた。

名塩和紙学習館

 名塩和紙の発祥は、江戸時代初期の慶長、元和年間と言われている。その頃、越前から雁皮を使う製紙法がこの地に伝わった。

 名塩の人々は、この地で取れる泥土を雁皮に混ぜて、ノリウツギを接着剤にして、名塩鳥子紙と称される独自の和紙を編み出した。

雁皮

 名塩和紙学習館は、1階が紙漉き体験教室で、2階が展示室になっている。

 展示室には、紙漉きに使われる原料や道具類が展示してあった。

 名塩和紙は、植物素材としては雁皮しか用いない。

 工程を説明すると、先ずはぎ取った雁皮から、表面の黒い皮を丁寧に取り除く。その後、残った白い皮を薄く短く剥ぐ。この作業を水よりという。

黒い皮をはぎ取られた雁皮(白皮)

水よりされた雁皮

 次に水よりされた雁皮を、水と灰汁を入れた大釜で炊く。約6時間炊くと、雁皮は手でちぎられるほど柔らかくなる。

 炊いた雁皮を水で洗い、更に多くの人の手で表面に付いた塵やゴミを取り除く。

 美しい白い和紙を作るには、欠かせない作業である。

塵よりされた雁皮

 次に白く柔らかくなった雁皮を、人の手を使ってほぐしていく。この作業を丁寧にしないと、美しい和紙には仕上がらないらしい。

ほぐされた雁皮の繊維

 一方で、雁皮に混ぜる泥土を作るため、名塩の山から岩石を取り出し、細かく砕いて地面に掘った穴に入れ、水を加えて土こね棒で土の粒が見えなくなるまでこねる。

雁皮に混ぜる土

 また、雁皮を一枚の皮にするためのシャナを作る。シャナは、のりうつぎという植物の皮を発酵させ、その汁を絞り出して作るねりのことである。

のりうつぎの皮

 次に、木製の漉き船の中に、雁皮の繊維と泥土と水を入れてよくかき混ぜる。

 そして、混ざった原料の入った船の前に男性が足を組んで座り、シャナを原料に入れて掻き混ぜ、簀桁(すげた)を両手で持って原料の中に入れ、中の原料を静かにくみ上げて、簀桁をゆらして中の水が落ちるまで待つという溜漉(ためすき)という方法で紙を漉く。

溜漉の工程

 こうして、1枚1枚紙が出来ていく。

 出来上がった紙は、水切りをして、イチョウで作った干板の上に載せられ、刷毛ではきつけられ、乾かされる。

紙を乾かすときに使われる刷毛

刷毛を使って紙を乾かす女性

 乾いた紙は、干板から1枚1枚はがされて、端切り包丁で切られて長さを揃えられる。

 こうして名塩和紙は完成する。

名塩和紙を用いて作られた照明用具

 泥土入雁皮紙である名塩和紙は、日焼けせず、虫に食われたりシミが出来ることもないので、長期の保存に適している。

 そのため、江戸時代には、各藩の藩札に使われたり、高級な襖の上張り、下張り用紙として使われた。

名塩和紙の藩札

 例えば、二条城の襖絵は、大半が名塩和紙の上に描かれているという。

二条城の襖絵

 また、熱に強い名塩和紙は、金箔や銀箔を伸ばす箔打ち紙としても使われる。

金箔と箔打ち紙

 こうして名塩和紙は、江戸時代には広く流通した。名塩は紙漉きの町として、名塩千軒と呼ばれるほど繫栄したという。

 今では、名塩和紙を作っている家は二軒だけであるという。それでも、桂離宮などの文化財の修復などで、名塩和紙は今でも重宝されているそうだ。

 さて、名塩1丁目には、文明七年(1475年)に蓮如上人によって創建された浄土真宗の寺院、教行寺がある。

教行寺

 摂津国を訪れていた蓮如は、名塩の住民の懇請により当地を訪れ、念仏道場を建てた。

 住民が更に道場を寺院にしたいと蓮如に願い出て、教行寺が創建された。

 寺院が現在地に移転したのは、元和三年(1617年)だという。現在の本堂は、宝暦十一年(1761年)に建立された。

本堂

 教行寺は、名塩の北側の山の斜面中腹にある。大きな太鼓楼がそそり立っている。遠くからもよく見える楼である。

太鼓楼

 一説によれば、名塩に雁皮紙の紙漉きの技術を伝えたのは、蓮如随行した越前の職人だという。だがこれは、蓮如に名塩和紙の発祥を仮託した伝説に過ぎないだろう。

 また、名塩1丁目のJA兵庫六甲名塩支店の前には、幕末の蘭医緒方洪庵の妻・緒方八重の像がある。

JA兵庫六甲名塩支店

緒方八重の胸像

 緒方八重は、文政五年(1822年)に名塩の医家億川百記の娘として生まれた。

 億川家は、紙漉きで財を成した家であった。

 百記は、大坂の中天游の下で医学を学んだが、そこで緒方洪庵と出会い、娘の八重を洪庵に嫁がせた。

 八重は、病弱な夫を支え続けた。洪庵は、大坂に蘭学塾の適塾を開いたが、八重は適塾の塾生を我が子のように可愛がり、指導したという。

 適塾塾頭の伊藤慎蔵は八重の世話で名塩の女性と結婚し、その縁で名塩に移り住んだ。

 緒方八重の胸像が建つJA兵庫六甲名塩支店は、伊藤慎蔵が名塩で開いた蘭学塾の跡地である。

 JA兵庫六甲名塩支店前の細い道は、今では蘭学通りと呼ばれている。

蘭学通り

 名塩は、和紙と蘭学で栄えた町である。新しい技術や学問を編み出したり、取り入れようという好奇心旺盛な気風が、この地にあったということだろう。

瑞宝寺公園

 有馬温泉街から東に行き、杖捨橋を越え、神戸市北区有馬町瑞宝寺山にある瑞宝寺公園を訪れた。

瑞宝寺公園

 ここは、明治新政府廃仏毀釈により、明治6年に廃寺になるまで、瑞宝寺という黄檗宗の寺院があった場所である。

 慶長九年(1604年)に大黒屋宗雪がこの地に瑞宝庵を建て、その孫の三七郎が黄檗宗の宇治万福寺に帰依して、寛文十三年(1673年)に瑞宝寺を開創したのが、この寺の始まりであった。

 瑞宝寺は廃寺になったが、明治元年伏見桃山城から移築した山門が現在に残っている。

瑞宝寺山門

瓢箪の寺紋

山門扉

山門裏側

 瑞宝寺の伽藍が整備されたのは、文化年間(1804~1818年)のことである。

 その後慧定真戒が境内を整備し、楓や桜を植えた。そのころから、瑞宝寺は時の経つのを忘れる場所ということで、「日暮しの庭」「錦繍谷」と呼ばれるようになった。

東屋

 廃寺になった瑞宝寺の境内は、昭和26年に神戸市により整備され、瑞宝寺公園として蘇った。

 ここがかつて寺院だったことを示すものは、十三重の塔と歴代住職の墓くらいなものである。

十三重塔

十三重塔に刻まれた仏像

歴代住職の墓

 また境内には、紫式部の娘の大弐三位(だいにのさんみ)の歌碑がある。

大弐三位の歌碑

 この歌碑には、百人一首にも選ばれた、「ありま山 ゐなの篠原かぜ吹けば いでそよ人を 忘れやはする」という歌が刻まれている。

 大弐三位に足遠になった男が、大弐三位に送った探りの歌への返信である。

 どうして私があなたを忘れることがありましょう。忘れたのはあなたの方ではありませんか、と男をなじった歌である。

 境内には、かつてここにお堂があったな、と思える場所がある。

本堂があった場所か

 その場所には、今は東屋が建っている。

 その前の広い空間にお堂が建っていたのではないか。

 また境内には、太閤秀吉が、碁を楽しんだという石の碁盤がある。

石の碁盤

石の碁盤

 柔らかい日差しの中、ここで秀吉が誰かと碁を指していたと思うと、微笑ましい気分になる。

 温かい気持ちで公園を後にした。