創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

有名僧侶略伝④法然

今回は日蓮大聖人門下にはお馴染みの浄土宗の祖師である法然の略伝です。お馴染みと言っても大聖人門下が法然上人について学ぶことはないのでよく知らないと思いますので豆知識として簡単に覚えておくと何かに役に立つかも(立たないかも)しれません。法然は長承二年(1133)4月7日、美作国岡山県北部)の漆間時国の子として生まれ幼名は勢至丸と言います(ほかの幼名として小矢児・西面童子なども伝わっています)。9歳の時、父の時国が明石定明に襲われ亡くなり叔父である天台僧・観覚に引き取れたのが仏門に入るきっかけになりました。13歳の時に観覚の勧めで比叡山に登り西塔の持宝房源光に師事し源空と称し次いで東塔で天台教学を修め15歳の時に受戒し天台僧となるが18歳の時に別所の黒谷に移りました。別所とは遁世の僧侶が集まった場所で黒谷には念仏聖も多く参集していました。そこで師事した叡空は源信の流れをくむ念仏僧でその許で源空法然と名乗りました。そこから法然上人・黒谷上人と呼べれるようになります。安元元年(1175)法然が43歳の時、中国唐代の浄土宗の祖師善導の論書である『観無量寿経疏』を読み専修念仏の確信に至りました。この年が浄土宗開宗の年とされています。まもなく法然は東山大谷の吉水に移りこの地が浄土宗総本山知恩寺の地です。元久元年(1204)に、天台座主に念仏停止の訴えが出されたり、翌年には南都の興福寺から朝廷に念仏糾弾の書が提出されたりと南都北嶺の旧宗派より迫害を受け、建永元年(1206)には後鳥羽上皇の熊野詣での留守中に二人の女官が法然の弟子の住蓮と安楽を御所に泊めさらには念仏に心酔して出家するという事件が起こり、これにを知った後鳥羽上皇は激怒し翌年建永2年に住蓮と安楽を死罪にし法然を四国に流罪親鸞等7名の弟子を各地に流罪としました。これが俗に言われる「建永の法難」(もしくは同年の改元から承元の法難)です。法然が75歳で親鸞が35歳の時の出来事です。四国流罪になった法然は讃岐の地頭の館に留め置かれ12月には赦免になりましたが入洛は許されず摂津・勝尾寺に滞在します。建暦元年(1211)11月にようやく帰洛できましたが既に高齢だったために病臥し、翌建暦2年正月23日に弟子の源智に『一枚起請文』の遺誡を残し、二日後の25日に東山の禅房で80歳の生涯を閉じました。法然は自身の墓所について生前に「念仏を修せんところは貴賤を問わず海人漁人がとまやでも、みなこれ予が遺跡なるべし」(法然上人行状画図)といい特に廟所を決めていませんでしたが墓所は現在の知恩寺に作られました。大聖人仏法信徒に名が知れている『選択本願念仏集』(選択集)は、法然が66歳の建久9年(1198)に、時の関白・九条兼実の請いによって撰述した書です。法然の生涯を詳しく追っていくと、法然が善導にたどり着き専修念仏の義を打ち立てた経緯や、南都北嶺から念仏が迫害された背景など興味深いですがその話はまたいずれ機会があれば紹介したいと思います。

 

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月間ペン事件で分かった池田創価の事実④池田大作の芸者遊び

月間ペン裁判の大半を占めるのは池田大作の女性スキャンダルに関する件だが、事実として明らかになったのは既に記事に書いたように、1池田会長が地方へ行く際は本部職員の女性を連れていく。施設では池田と女性しか入れない状況にあった部屋の存在。2三菱などの取引先との接待を通じて池田会長が複数の芸者と遊んでいた。という事のほかに、3渡部通子同様、池田会長の〝お手付き情婦〟と書かれた湊時子(旧姓・後の多田時子)のこと。4池田会長が渡米の際に買ったいう金髪コールガールのこと。5池田会長がソ連訪問旅行のさいに、KGBソ連秘密情報機関)の手によって仕組まれた女性関係等々があるが、中でも「芸者遊び」といえば池田創価が偽造写真を使って日顕上人が芸者遊びをしているという誹謗中傷をした創価による「偽造写真事件」があるが、日顕上人に対するデマと違い池田大作の正真正銘の「芸者遊び」が本人の供述によって「月間ペン事件裁判」で事実認定されている。『月間ペン』誌上では、「彼(池田)にはれっきとした芸者のめかけT子が赤坂にいる。これは外国の公的調査機関も確認しているところである。さらにT子のほかに、もう一人の芸者のめかけC子が、これも赤坂にいるようである」と紹介されている(T子とは石川孝子氏だとされている)。その石川氏の証言によれば三菱銀行主催の宴席で池田が芸者の石川氏に「身請けしよう」「外国へ連れていってあげよう」「ダイヤを買ってあげよう」等と語ったとされている。これに対し池田は裁判の中で、「私は(酒席に芸者を置くことが)嫌いです。宗教者ですから」と反論しているが、裁判所は「池田は当公判廷において、石川ら芸者に対して身請け云々の話をしたことなどは全くないと証言するが、石川は創価学会は嫌いであるとしながらも学会側、反学会側のいずれにもくみしない立場にあると考えられるところ、同人が池田との妾関係を否定する点についてだけ虚言を述べているとは考え難く、酒席であってみれば、その程度の話が座興に出ても格別おかしくないと見られるのであって、全体として石川の供述は十分措信するに足るものと考えられる。右石川の供述に比べれば、池田の供述は石川との関係を否定しようとするあまり、酒席の模様を一律に否定しすぎているとの印象を拭うことができず、少なくとも池田の右証言をそのままに受け取ることは難しいと感じられる」と池田の証言よりも石川氏の証言の方が信用に足りると結論した。そもそも本当に池田が酒席に芸者を置くことが嫌いならその旨を事前に接待する側に伝えているはずである。また三菱銀行のような大企業が相手が嫌がる接待などセットすることはありえない。これは接待をセッティングした人なら分かるだろうが接待は事前に相手の趣味趣向をリサーチし相手が喜ぶ席を設けるもので相手が嫌いなことはやるわけがない。特に相手が宗教者であれば女性絡みについては十分に事前リサーチを行っているはずで三菱銀行が接待でそんな下手を打つことなど絶対にありえない。つまり酒席に芸者(女性)を呼べば池田は喜ぶことを知っていたから芸者を用意したといって間違いないだろう。誤解して欲しくないが私は芸者遊びが悪いと思ったことは一度もない。酒宴の席に芸者やコンパニオンを呼ぶことは社会通念上なにも悪いことではないし、むしろ常識とさえいえる。私が批判しているのは自分が芸者遊びをしておきながら偽造写真まで捏造して日顕上人が芸者遊びをしていたというデマで日顕上人を誹謗中傷している池田創価の手口である。創価の論調では、「芸者遊び=悪」である。ならば池田大作こそ裁判所認定の悪人である。米国の哲学者・ハリー・G. フランクファートは「嘘をつく人間はより巧妙にそれを隠すためにも真実を知っている必要がある」と言っているが、まさに池田と創価首脳陣は自分達が散々に芸者遊びをしてきたからこそ日顕上人を嘘で貶めることを思いついたのであろう。さて、今でもこのデマで日顕上人を批判している創価員がいるが、「芸者=悪」という池田創価の発想自体が女性蔑視・職業蔑視である。そうした差別発言・蔑視発言を平気でするのが創価学会員だということだ。そもそも末端の創価員は「芸者遊び」をしたことがあるのだろうか?底辺の創価員にはわからないだろうが、本物の芸者は舞踊や小唄、三味線など芸事や茶道や華道なども修学していて少なくても創価女性部よりも知的で素晴らしい女性達である。また芸者は江戸時代から続くいわば日本の文化でもある。「芸者」と聞けば「遊女」だと思っている創価民の知性の無さには失笑を禁じ得ない。一度、自己投資だと思ってちゃんとした「お座敷」体験をしてみたらどうだろうか?今の時代ならば「一見さん」でも受け入れてくれる料亭もあるのではないか?なんなら本部職員に頼んで料亭を紹介してもらえ。彼等なら常連さんだろうから(笑)。三桁の財務をするより本当の「芸者遊び」をするほうが人生にとって財産になるぞ。自分で稼いだ金なんだから池田(もう死んだが)や上級幹部の為に使わずに自分の為に使い少しは無知な自分を成長させ給え。池田の芸者遊びも大いに結構、「外国へ連れていってあげよう」「ダイヤを買ってあげよう」なんて言って芸者を口説くのは下品な成り上がり者の池田らしくて微笑ましいじゃないか(笑)

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創価学会員の為の御書要文講義⑤(聖愚問答抄)

ただ不二を立てて而二を知らず、「己仏に均しと謂う」の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹をつぎ、この尸那の三階禅師が古風を追う。しかりといえども、大慢は生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ。おそろし、おそろし。

今月の創価の座談会御書も過去に取り上げた御文なので過去記事をリンクしておくので参考にしてください。同じ御文を何度も座談会で繰り返していたのでは創価員の教学力も御書知識も向上しないので今回も創価学会員の教学力向上の為に御書要文を講義するよ。今回の御文は『聖愚問答抄』からの御文です。本抄は上下二巻に分かれており愚人と聖人との問答形式の構成になっている。後段で念仏・真言禅宗の破折をしていて今回の御文は禅宗破折の部分になる。禅思想を簡単に説明する言葉に「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」がありこの言葉は現在に続いてる禅宗の基本思想だ。「不立文字・教外別伝」については創価員もよく聞くと思うが、今回の御文は「指直人心・見性成仏」の破折の文になる。「指直人心・見性成仏」とは「直ちに人心を指し見性して成仏す」という禅思想で「自分の心を見て成仏」すること。自力成仏という邪見でこれが高じると天台・摩訶止観に説かれている「謂己均仏(いこきんぶつ)」(「己仏に均しと謂う」)といって「自分は仏と等しい」と思う邪見に至るのである。まさに破門後の創価教義は禅宗と同じ「謂己均仏」の邪見・邪義の教義なのである。創価員がいう「自分の中に御本尊がある」というのは「謂己均仏」の驕慢謗法である。なぜそのような邪義・邪見に陥るかというと本文に「不二を立てて而二を知らず」とあるように、本来は不二とは「而二不二(ににふに)」のことで「二にして二ならず」ということである。しかし池田創価は「不二」だけ立てて「而二」を知らない(教しえない)。だから「自分と御本仏(御本尊)は不二なのだから自分自身が宝塔である。従って自分の中に御本尊があり自分自身が本尊である。曼荼羅本尊は自分の中にある本尊を映し出す鏡に過ぎない」などという大慢心の我見を起こし驕慢謗法を犯すのである。本文に即して「不二」を正しく説明すると「不二」とは「冥合」のことであり、「冥合」とは「入我我入」のことである。「入我我入」とは日寛上人が「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即わち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり」(観心本尊抄文段)と御指南されているように、本門の題目(御本尊を信じて唱題すること)の修行によって御本尊即我・我即御本尊の御本尊と我という二つが冥合して一つになることである。これを「不二」といい、これが「事の一念三千」なのである。創価のいうような「凡夫本仏論」「自分本尊論」は「而二不二」の仏法の法義を無視し「謂己均仏」を主張している邪見・邪義であり、「不二」も「一念三千」も理解していない池田大作の低レベル教学の賜物と言えよう。こうした池田の邪見・己義は全て彼の驕慢の一念から生まれた。そのような大慢の者は「生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ」と大聖人は言い切っておられる。創価学会員諸氏においては創価の「謂己均仏」の邪義・我見を速やかに捨てて、素直に戒壇大御本尊を受持し堕在無間の未来から即身成仏への未来へと変換してもらいたいと願っている。

■過去記事▶創価教学じゃない御書講義(2020年12月座談会御書・妙密上人御消息) - 創価ダメだしブログ

 

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立宗会に参詣しました。

先日4月28日は菩提寺で奉修された「立宗会」に参詣してきました。その時の御住職法話の中で「内証宣旨報恩会」のついて少しお話がありました。富士日興門流においては古来より大聖人の立宗建立は4月28日と3月28日の2度行われたとされています。御書にも「三月二十八日」「春(旧暦3月)」と示される御書と、「四月二十八日」「夏(旧暦4月)」とされる御書とがあります。また日興上人は『安国論問答』で「三月二十八日に始めて此の法門を仰せ出でたり」と述べられています。

歴代法主全書1巻

平成14年3月28日に宗旨建立750年の大佳節を寿ぐ「開宣大法要」が大石寺で営まれましたが、その折に当時の法主上人・日顕猊下より「すなわち三月は法界に対する内証の題目の開宣で、四月は外用弘通の題目の開示であり、三月は顕正に即する破邪の説法を面とされるのに対し、四月は破邪に即する顕正の説法が面となり、また三月は別して少機のために大法を示し、四月は万機のために題目を弘通せられる等の区別が拝されます。特に『清澄寺大衆中』の文が三月二十八日と確定するところ、三月にも説法を行われた上から三月と四月の両度にわたる仏恩報謝の大法要を執り行うことは、まことに適切であると信ずるものであります」との甚深の御指南がありました。現在の総本山・大石寺では3月28日は「内証宣旨報恩会」として法要が営まれています。この大石寺の2度の立宗についての日顕上人の御指南に、創価創価坊主そして正信会は批判をしていますが相変わらず「いちゃもん」程度の批判で創価も正信会も同じような内容。恐らく創価側が正信会の論説をパクったものと思われます。何せ創価は「パクリ宗教」ですから。彼らの正宗の立宗に関する批判とその破折は今回は割愛します。機会(要望)があれば別記事として書きたいと思いますが、そもそも創価も正信会も日興門流大石寺がとっくに破門した異流義の門外漢の団体です。その門外漢が他宗(日蓮正宗)の法要を批判することが非常識です。それこそ創価なんて1年365日のほとんどが「〇〇の日」と銘打たれるような記念日だらけの団体ですが、そんな創価独自の記念日に正宗がクレームを入れることはありません。それが普通ですよね。同業他社の創業記念日にいちゃもんつける会社なんて世間にはありません。ナンセンスの極みです。そんな会社があったら奇異な目で見られますよね。ともあれ富士日興門流の正統である日蓮正宗においては「3月28日」の【内証宣旨】と「4月28日」の【外用弘通開示】の2度の立宗宣言に報恩感謝申し上げているのです。大聖人は『開目抄』で◆これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。と言われているように、大聖人は御自身の身命の及ぶ大難を予見しながらも末法万年の一切衆生のために「南無妙法蓮華経」を説き表し宗旨の御建立を宣言されたのです。私も大聖人の信徒として大慈悲心に報恩感謝し自分の有縁の人達に大聖人の仏法を語っていこうと決意も新たにした立宗会でした。

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日寛上人の御書文段の御指南⑨(法華取要抄文段)

「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法体一の本門の本尊なり。此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ち是れ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ち是れ本門の戒壇なり。

今回は『法華取要抄文段』の御指南を学びます。法華講員ならば南無妙法蓮華経が宇宙の法則でも御本尊が幸福製造機などではないことなど百も承知ですが異流義・創価では相変わらず池田大作のインチキ教学の「南無妙法蓮華経宇宙法則論」を語っているのだから笑ってしまいすね。そんな池田インチキ教学を真っ向から否定し破折するのが今回の御文です。池田大作のインチキ教学は何処から出たのかと言えばひとえに池田の圧倒的な教学力不足からです。池田は大聖人仏法の基本である【本因妙】すら全く理解できていなかったです。多くの学会員は一般の無信仰の人々同様に「妙法蓮華経」に「南無」することが「南無妙法蓮華経」だと思っているフシがあります。でもそれは大聖人仏法としては間違いです。「南無妙法蓮華経」とは七字全体で本因妙の人法一体の法体なのです。この本因妙は法華経文上においては寿量品に「我本行菩薩道所成寿命」と説かれています。因みに創価勤行では長行のこの一番大切な南無妙法蓮華経が秘沈されている部分を読みません。創価勤行が意味を為さないのはそれが理由です。さて本因妙とは「境妙」「智妙」「行妙」「位妙」の「境智行位」の四妙円満の法体です。天台大師は寿量品の本因妙の文について「菩薩の時(位妙)」、「菩薩道を行じた(行妙)」「寿命(智妙)」の三妙を述べていますが、妙楽大師はこれを「一句の下は本因の四義に結す」と釈し、日寛上人は更に妙楽の文を 応に知るべし、智は必ず境有り」(依義判文抄)と会通されています。これは、「能照の智」(対象を照らす智慧)には「所照の境」(照らされる境)があるという当然の道理です。従って「南無妙法蓮華経」とは本因の四妙のことでこれを本因妙といいます。なので法体とは宇宙に遍満する「法」ではなく御本仏(人)と一体なのです。単なる「法」には「行」も「位」もありませんから本因妙になりません。そこで「南無妙法蓮華経」を四妙を立て分けると「妙法蓮華経」の五字は「法」ですから「境・智」の二妙であり、「南無」は「人」ですから「行・位」の二妙になります。故に法を離れて仏はなく仏を離れて法はない。それが「南無妙法蓮華経」です。そしてこの法体である「南無妙法蓮華経」を書き顕したのが本門大御本尊=御本仏の色心二法なのです。さて、「南無」とは「行・位」を表すと説明しましたがこの「位」とは六即に配すれば「名字即」(一念信解)の位になります。『三世諸仏総勘文教相廃立』に書かれている「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時」というのは久遠元初の御本仏が凡夫だったという意味ではなく、「名字即」の位だったという意味で、「名字即(無作三身)」がそのまま究竟即(御本仏)であるという御本仏・日蓮大聖人の本因妙の位妙を示されているのです。それ故に日寛上人は◆「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法体一の本門の本尊なり。と御指南されているのです。本因妙の法体とは何であるかを理解できていれば「南無妙法蓮華経」が宇宙の法則ではなく御本仏の悟りであることが知れるし、御本尊とは生身の日蓮大聖人であることに気が付きます。それを知っていれば「全てが等しく本門の本尊である」「法主上人の開眼は不要」などというドンデモ教学にはならないのです。池田にはそれが理解できなかったから邪義・我見を構えた。なぜ池田には理解できなかったかと言えば御歴代法主上人の御指南を素直に聞けなっかたからであり要するに驕慢だったからです。これは顕正会の浅井親子も同様です。法主上人の御指南を素直に拝していくことが成仏の直道なのですね。そこから外れてしまったならば堕在無間は間違いなしと早く気が付いて欲しいと願っています。

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創価学会退会の処方箋②創価を退会したら友達を失ってしまうと思っている方

創価学会員として男子部デビューしたばかりの頃、創価活動家は学会員以外(いわゆる外部)の友達が極端に少ないなぁと感じました。二世活動家などは子供のころから学会員の友人しかいなかったというし、「学会活動を真剣にしたら友人がいなくなった。でもそれは真の友人ではなかったのだからいなくなっても構わない」と外部に友人が少ないことを自虐ネタの自慢話に語る幹部もいたけど、いまいち笑えなかった。私は学会活動をしたら友達が増えると思っていたし外部に友人がいなかったら広宣流布なんてできないと思っていた。(事実、外部友人の少ない活動家は新聞啓蒙も折伏も結果をだせないでいた)でもいざ自分が学会活動を始めると確かに外部の友人と接触する機会は激減し代わりに内部の人間との接触が極端に増えるので自然と外部の友人とは疎遠になっていくんですね。なにせ当時は毎日のように活動や会合があったから外部の友人と遊びにいくなんて物理的に無理でしたからね。それでも外部の友人との付き合いは失っていなかったから新聞啓蒙や折伏はできたけど正直相手に嫌な気分をさせたと思います。こうして外部の友人を排除することが創価MC(マインドコントロール)の手法のひとつなのですが当時は気が付かなくて外部の友達との交流は減ったけど内部に友達が増えたからプラマイ0以上かな?なんて思ってました。このように外部の友人と疎遠になってしまった創価学会員が退会できない大きな理由のひとつに「退会すると友達を失って一人ぼっちになってしまう」という恐怖感があると思います。長く創価組織にいる学会員にこの傾向が強く年配の壮年・婦人が創価を退会できない理由の上位を占めているのではないと感じています。私の母も退会するときその日初めて会った婦人幹部に「創価学会を退会したら一人ぼっちで寂しく死んでいく」と非常識極まりない言葉を投げつけられた一人です。さて私は組織からの選挙闘争の打ち出し期間中に折伏をしたのをきっかけに査問もなく除名にもなっていなのに創価組織から事実上の追放をされたのですが、信頼していた創価の同志達は裏で結託し策謀を巡らせて私を組織から追い出したわけです。追放の過程では組織内に私に対するウソの情報を流し誹謗中傷していました。その見事なまでの手のひら返しを知った時に創価学会員がそれまで私に対して接してきた態度は本当の優しさとか好意ではなく求められる結果を出す重宝な活動家として体よく利用していただけだったと気付きました。私と面と向かっているときはそれまで通りフレンドリーに対応しているのに陰では追放計画を着々と進めている。そのおぞましさは言葉で表現できない気持ち悪さです。もちろん少数ですが私に味方してくれた人もいましたが、その人たちは私と一緒に組織から追放されたり自分から組織を離れていきました。全員が当時の地元男子部の中心的な活動家でした。つまり貴方が同志とか友人とか思っている創価学会員のほとんどはその程度の人間でありその程度の繋がりしかないということです。貴方が創価の活動を続けているうちは親身になって味方をしてくれるでしょうが、活動を辞めれば「退転者」といわれ退会なんてした日には「犬畜生」扱いです。街中であっても挨拶すら交わさない。ネットでも少しでも創価を批判した会員に対して罵詈雑言を投げつける学会員を目にしたことがあると思いますが、それが「同志」とか「友人」と呼んでいる創価学会員の正体なのです。本当に貴方を友達だと思ってくれている学会員ならば仮に貴方が創価を退会しても貴方から離れません。私にも現役創価の友人はいます。ただ大多数の学会員は周囲から姿を消しました。そのような創価学会員は最初から友人ではないのです。それに出会いと別れなんて世間でもよくあることです。貴方は中学・高校時代に友達だった人のうちの何人と大人になってからも交流してますか?多分は10人といないでしょう。学校を卒業するときは友達と別れるのが淋しくて泣いたかもしれませんが時が過ぎれば思い出しもしないし思い出されもしない関係の人が大半です。また貴方は社会に出て新しい友人は一人もできませんでしたか?私はむしろ学生時代の友人より社会人になってからの友人・知人の方が多いです。だから創価を退会しても本当に仲の良い会員さんとは交流はなくならないし、創価を退会しても新しい友人は出来ます。「退会したら一人ぼっちになる」と脅す創価活動家もいますけど、全然そんな心配はないのです。むしろ創価活動から解放されれば新しい出会いもあるし疎遠になっていた知人との繋がりが復活することの方が多いのです。選挙や新聞購読を頼む為に友人・知人に連絡するようなイヤな事をする必要もないし相手にもイヤな想いをさせることもない普通の人間関係を営むことができます。また自分と合わない嫌いな人間と無理に付き合うこともなくなります。それは多くの創価退会者が証明・証言しています。だから「創価を退会したら友人を失う」というは創価に植え付けられた妄想に過ぎません。退会して貴方が失うのは創価の友人ではなく貴方を利用している悪人だけです。「同志」なんていう陳腐な言葉に惑わされてはいけません。創価組織に同志愛なんてありません。創価内のつまらない保身のために「組織を護る」というもっともらしい大義名分で平気で同志を裏切り見捨てるのが創価学会員です。創価学会という閉鎖された世界の中で見せかけの「友達ごっこ」をしているより創価を出て偽善や虚飾のないコミュニティで新しい友人とつながることが人生を豊かに楽しく生きる方途です。創価を退会すれば利害関係のない本当に友人が見つかります。勇気を出して創価を退会し新しい世界に踏み出してください。

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「0」(ゼロ)と仏教の話【数学】

皆さんは数学好きですか?学生時代には数学が苦手という人が結構多かった気がします。私は中学の時の担任教師が数学教師でその影響か数学は好きでした。数学に使う数字というのは無数にありますけど人類が初めて使った数字は間違いなく『自然数』ですよね。1・2・3・・と自然界に存在する数が『自然数』です。数学的に言うと『正の整数』です。最初の数字(アラビア数字・現代の数字)は1~9までしかありませんでした。何故かというと「0(ゼロ)」が数字として認められていなかったらです。「0」は数字じゃくて空位を示す記号だったんですね。これを「位取りのゼロ」といいます。そのゼロが数字としてみなされるようになったのは6~7世紀頃のインドが発祥だと言われています。それまでインドではゼロを示す記号として「・」(点)が使われていましたが、7世紀のインドの数学者・ブラーマグプタという人の著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』のなかに「0(ゼロ)」の概念が述べられていますが、ブラーマグプタは数としての「0(ゼロ)」を「シューニャ」と名付けていてこれはサンスクリットで「空」を意味しています。ここで数学と仏法のがつながるのです。そしてこの「0」からインドではさらに「負の数」というのも発見されます。それから数字は小数・分数などの有理数無理数虚数と無限に広がっていくのですが全ては「0」(ゼロ)を発見したことが数字の起点だと思っています。この「0」の発見の何がすごいかと言えば「0」を「無」ではなく「空」と定義したところです。もし「0」=「無」としたならば「負の整数」は見つからなかったし当然他の数字も見つかりません。「0」=「空」としたことによって数字は無限になったのです。放浪の天才数学者と言われている ポール・エルデシュ「数学は科学の言語であり、哲学の方法であり、芸術の表現である」と言いましたがまさにその通りなんですね。数学はある意味でこの世の全ての基本なのです。そしてその数学を作り出したのが仏法なんです。数学は方程式ですから数学を作り出した仏法もまた方程式で決して空想でも何でもありません。一見して無関係と思える数学と仏法には深い関連があるわけです。凄いと思いませんか?こうしたところに仏法思想の他宗教に対する優位性があると感じます。

 

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